映画は一休み
片付け仕事で一日過ごした。
気づくと、もう10時を大きく回っていた(痛。
ブログ書くタイミングを逸したというより、映画(ビデオ)も見る気が起きずに見てない(笑。
来週頭から、読書に勤しむ予定もあり、今環境を整えようと幾つか作業を進めている。
ピアノのおケイコの嫌いな長女が見事、ピアノが上がらなかった。
いい気味である。
自分の責任だ。
「これからは、もっと早くから練習を始めます。」
と、ピアノ教室の先生と約束させた(笑。
ほんとうに、ギリギリまで練習に入らない。
(あくまでも弾く技術だけは身につけたい)。
これからは、直ぐにビデオを見呆けてしまう、タブレットはしまう事にした。
けじめと我慢ができなくなる、という判断から、とりあえず。
ネット上のつまらぬ刺激、影響、教育をシャットアウトしたいところからも、である。
絵を再開したと思い、整理をした。
新たにカンバスを買うのではなく、つまらぬ絵をジェッソで消して上描きするつもりである。
X線も透過できない。
完全に古い痕跡を消せ、安心だ。
デリートしたいものは沢山ある。
そうしたら、娘の3歳の頃の絵も一緒に出てきた。
今彼女らの描いている少女漫画を真似た愚にもつかない絵とは全く違い、プリミティブで力強い惚れ惚れする絵であった。
それは、残す価値が非常に高いものであった。
(残したいものは思いの他多くはないことに最近気づく、、、)。
それらの絵を元に、自分のこれからの姿勢と参考にしたい思いつく事、、、。
○自分自身の衝動にのみ根ざす。
○人を黙らせる明白な単純さ。
○非権力であること。
○どんな物語(神話)にも絡め取られず消費されない。
(ドラマの介入を徹底的に避ける~感動に注意する)。
○淡々とした機械状な作業(プロセス)。
これは困難すぎて目標にはならない。
その方向性だけ、確認。
幼児期の絵は、やはり面白いを超えた何かがある。
時に、統合失調症の人の描いた過剰に稠密な絵なども、それに通じるものを感じる。
ある意味「絵」の教育を受けていないということが、彼らを痛手から救っている。
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