オートマタ

Automata
2014年
スペイン・ブルガリア
ガベ・イバニェス監督・脚本
アントニオ・バンデラス(製作)、、、ジャック・ヴォーカン(ハイテク会社の保険調査員)
ビアギッテ・ヨート・ソレンセン、、、、レイチェル・ヴォーカン(ジャックの妻)
ディラン・マクダーモット、、、ウォレス
ロバート・フォスター、、、ロバート・ボールド
ティム・マッキナリー、、、ヴァーノン・コンウェイ
メラニー・グリフィス、、、スーザン・デュプレ博士/クレオの声
この映画の冴えているところ、、、
ロボット制御プロトコルの2番~ロボットは自他のロボットの改造・修正を禁止する~は、ロボット(AI)が作成したものであるため、われわれ人間にはすでに直接手はつけられない。
ロボットの自立と自律的な自己学習によって、人間の理解を大きく超えた能力を備えたロボットが製作に当たるためである。
(今もすでに入力されたプログラムに従って動く原始的なロボットの他は、独自の言語習得システムにより自立的に学習発達を進めるロボットが作られており、その発達速度は凄まじいものと予想される)。
確かに、これからの技術全般がそうなってゆく。過程がロボット(AI)によりブラックボックス化し、結果(答え)~製品だけをわれわれは手にするようになる。
実際人間が直接そのプログラミングや数式を導くのではなく、人はただ必要なことを訴えるだけで、それを実現する道筋~手立て~作成はロボットがやるようになることは必然の流れとなっている。
一例として、われわれがカオスと呼ぶものに対しても、ロボットは、特定パタンを見つけ出している。
(つまり考慮すべき変数の多すぎて人間には手の付けられない複雑系に対しても一定パタンを見出している)。
ロボットも高度になればなるほど、ロボットによる製作の部分が特化し拡大する。
この映画の時代設定が2044年。
丁度、2045年を「技術的特異点」~Technological Singularityと呼んでいる点からも的を得ている。
こういった問題は、今から充分考慮されていなければならない。
機械~ロボットが意識をもつには、、、
実際、ここに現れた第二プロトコルを無効化された改造ロボットには、意識がある。
つまり、はっきりした意識的行動をとっている。
第一プロトコル:生命体への危害の禁止、についても、ジャック・ヴォーカンの生命の維持は続けながらも、街に入れば自分たちが破壊されることが明白なため、あえて砂漠地帯の高濃度汚染地帯に彼を引っ張って歩いてゆく。
自己保存欲を優先させた行動だ。
それから情報を漏らさぬために自分の体にオイルをかけて火を点け自殺を図ったり、、、。
これは自分たちが独自の進化を始めたことを悟られぬように行った同族(ロボット)の保存のための犠牲的行為だ。
「たかが機械のくせに」に受けて答えて「凶暴な猿に過ぎない」と人間に返すなどなど、感情の充分な生成が見られる。
意識(自己意識)の芽生えには、感情が前提として必要だ。
様々な感情の集合体として意識が成立するからだ。
女性型ロボット、クリオが自らの女性としての役割を示すペルソナを最後にジャックたちと別れる際に、剥ぎ取って捨ててゆくところなどには、高度な象徴的な意識表現が見られる。
ロボットの改造を行ってきた最初のロボット(制御プロトコルのなかった頃の一体)がジャック・ヴォーカンに謂って諭す。
「核の使用によりここでは何百年間、有機体は生存不可能だ。このまま進めるのはわれわれだけだ。」
「人間にとって死は自然のひとつのサイクルだ。」「生は時の一部でしかない。」
「もう人類は寿命を迎えたのだ。」
そして「どの生命体も永遠ではない。」「わたしたちが人類を引き継ぐ。」
「わたしたちを通して人類も存在するのだ。」と、彼を慰める。
ジャック・ヴォーカンも納得する。顔もすっきりしている。
この太陽風の増加で砂漠化が進み、放射能汚染も機械雲による酸性雨も酷く、大気の乱れは通信システムも覚束なくし、人の力でなしうることは、大きく減退していた。人口は、このときすでに2100万人しか残っていなかった状況である。
彼らの自己増殖(第二プロトコル放棄)にこそ未来が見えてくる。
共に赤ん坊を生んでいる。
ジャック=レイチェル夫妻に女の子の赤ん坊が生まれた。
そして、ロボットにも同時期に子供が作られクリオが引き受けるかたちとなる。
この子供の世代における共存の可能性を最後に仄めかして物語は終わった。
クリオは実際、ジャックを命の危機から救った恩人でもある。
少なくとも、この両者間の親和性はこの後も保たれることだろう。
クリオたちは、ジャックに見守られて、谷の向こう側へ移動を果たす。
そこは人間がもはや近寄れない大気汚染区域である。
彼女らはその地から増殖してゆくことになろう。
ジャック等3人は車で、何故か海を目指す、、、ジャックの白日夢に度々現れたジャックの幼年期の記憶の海か?
現実の海か?
低予算映画である。
SF映画の傑作、「第9地区」も低予算映画であったが、そのまた半分の予算で作られていた。
確かに予算がかかっている感じは見るからにしないが、ロボットなどシンプルだが感情に訴える物悲しさを纏う彼らの存在を雄弁に物語る造形であった。動きもロボットらしい動きで不自然さはなかった。
空気全般に鬱積した哀愁が漂っていたが、それはこの世界観をよく表わすものであり、チープな感触など全くなかった。
基本コンセプトがしっかりしていたためだ。
後半、延々と続く砂漠の撮影は何処でしていたのか、、、アントニオ・バンデラスが本当に辛そうであった。
(少なくとも「ブレード・ランナー」のハリソン・フォードの何倍もシンドい撮影だったと思うが)。
感動はしなかったが、訴えるものはよくわかった。
良い映画であるが、何かが足りない、というかいまひとつブラッシュアップしたら「第9地区」レベルに迫ったかも知れない。
惜しい作品に思えた。

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