生のリアリティ

アリス・ミラーたちによって明かされてきた抑圧を巡る精神構造のメカニズム論は、ずっとわたしの中で木霊のように反響してきた。
大学の心理学の講義でも、教授の何気なく言ったことばに「幼い子供時代に親にされてきたことは、自分が大人になって無意識に反復してしまう。親に扱われたのと同様の扱われ方を他者からされるものだ」という、運命論的決定論としか取れない、また悪無限循環的な呪文としてしか受け取れないものがあった。
が、それが尽く当て嵌めて考えるとその通りに思えてくるものだった。
これが思考(論理)の陥りやすい罠である。
最近わたしは、リアルな身体的な感情の発露を記録・確認(再認)する場として、このような無限定な表出~実験の場を作っている。
決して論理的な思考ではなく、詩的な思考~身体的な思考とでも言うべきものによって。
別に、幼い頃から何故か描いていた「絵」でも良かったのだろうが、、、それが無意識的にも意図的に命を救っていた、、、確認の上で(客観性も担保して)言語によることにした。
得体の知れない化物に形を与える必要があった。(アンリ・ミショーのように)。
そしてそれらを解体する。
更には創造に繋げる。
絵にせよ、音楽にせよ、全ては言語作用(分節化)によるものだ。
せかいはことばでできている。(ノヴァーリスの言う通り)。
これはわたしにとって、絵によるFirst Waveに続くSecond Waveであった。
絵はその創作過程の恍惚な時間性によりわたしを発狂の現実的局面からは度々救ってきたはずだが、現実を生きながらえるなかで感情や感覚、感受性から切り離された偽りの自己形成へと向かわせる事は阻めなかった。それであるため、真の創造的作業にまでは至らなかった。
真の自己が無いのに、何をか作り出せるはずはないではないか。
あの絵の作業は何であったのか、、、。それは今なら分析可能な位置には来ていると思う。
調度、4歳ごろから始まった、ある意味、河原温に似た作業である。(今考えてみれば)。
やはり言語による遡行力と対象化のための本質力いや解体力が必要だった。
今更ながら何事もなかったかの如く?隠蔽された意識~記憶の地平を叩き壊す作業に入った。
(いや勿論、意識的に過去を理想化していようと、外傷経験~抑圧された感情記憶は神経症症状や強迫行為として反復される)。
傷は充分に奇怪に変形して流動しており、瘡蓋のようなスタティックな表層ではなかった。
そして、思った以上に重層を呈している。
と言うより重奏していた。
しかし言語的に過去~記憶を辿る(故意に幼児期を思い出そうというのではなく、何事かについて身体性のうえから表出した言語はそれに替わる質を持ち得る)作業を反復しているうちに、何が変化してきたかというと、自分の身体に直結した感情と感受性が知らず蘇生してきたことだ。
一言でいえばブログは自己治療以外の何者でもなかった。まだその過程である。過去形ではない。
これは、まだ暫し継続する必要がある。
自分の感情をもつ。感受性を解放する。
何もかも解き放ってゆく、、、、、、、
これに尽きるし、そこからはじめて創造行為も可能となる。真に自由な。
(強迫観念に押し出された苦渋に満ちた表出が果たして芸術となり得るか、、、それは恐らく不健康だ。)
今はまず日常生活において、感情はストレートに爆発させるままにしている。
これを増幅させる。
この場をブースターとして。
更に。
自動的に身体が蘇生してくる。
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