スタンド・バイ・ミー

Stand by Me
1986年
アメリカ
ロブ・ライナー監督
『恐怖の四季』から秋の物語「死体」スティーヴン・キング原作
ベン・E・キング「スタンド・バイ・ミー」主題歌
ウィル・ウィトン(少年時代)、リチャード・ドレイファス(大人)、、、ゴードン・ラチャンス(主人公、語り部)
リヴァー・フェニックス、、、クリストファー・チェンバーズ
コリー・フェルドマン、、、セオドア・ドチャンプ
ジェリー・オコンネル、、、バーン・テシオ
キーファー・サザーランド、、、エース・メリル
「最高の人生の見つけ方」のロブ・ライナー監督の余りに有名な作品。
わたしは、流行り過ぎていたので観なかった(笑。
「、、、そばにいて」とか「支えて、、、」でも変だし「スタンド・バイ・ミー」が一番だな、、、。
そう、子供時代は誰だって、孤独なんだ、、、。
オレゴン州の小さな町キャッスルロックに住む少年4人の秘密の冒険を描く。
まさに少年時代が、全部詰まったような冒険であり、わたしの少年期にはこんな芳しく重い経験はない。
4人は行方不明の少年の「屍体」を誰よりも先に見つけに行く。
余りに詩的で無益で孤独な冒険ではないか、、、
主人公のゴードンは兄を溺愛する両親の下、家族内での疎外感と劣等感に悩む。
親友のクリストファーは札付きの悪エースというゴロツキを兄に持ち、家の環境からも悪のレッテルを貼られ冤罪をきせられている。自分に対する理不尽な世間の悪意に充ちた視線に傷つき憤りを隠せない。
セオドアは、戦争で傷つきこころを病んだ父親に酷い暴力を受けながらも、その父親に対する憎悪とそれを上回る愛情を抱き苦しんでいる。
バーンは、このなかでは外傷経験は小さい少年で、臆病で鈍重なところはあるが、精神的な基盤はもっとも安定している。
クリストファー少年が長じて大学を出て弁護士として活躍していたのに、喧嘩の仲裁に入り喉を切られて死んでしまう、ということであったが、実に薄幸な運命であり、不吉極まりないものであった。
リヴァー・フェニックス自身、23歳で死んでいる。
ただ者ではない風格と底知れない孤独を、この頃から強く醸していたのだが、、、。
他の仲間も結局、幸福かどうかは分からない。決して明るい希望や未来の感じられるフェイドアウトではない。
どうやら主人公だけが物書きで暮らしており、希望していた生活は手に入れているようだ。
12歳頃、何を考え遊んでいただろうか、、、と考えてみると、、、何も考えていた覚えがないし、無意識に遊んでいただけだろう。
わたしにとって、ことばは特に不自由なく喋ってはいても、まさに不自由を感じるほど思考に軋み繋がる自分のことばをまだ必要とはしていなかった。
ほぼ自動的に反応するレベルのことばの受け答えで、実際の日常がやり過ごせてしまっていたのだ。
こころに繋がることばが、まだ生成される通路は開けていなかった。
わたしの少年時代は、間違っていたのか、、、?
だから、わたしがこの仲間に入っても、彼らのするようなマジでヒリツク話には入れなかっただろう。
彼らのする話は実際、恐ろしい。
わたしには、こんな質量をもった恐ろしい話を聞く勇気すらなかったはずだ。
この純粋で鋭利な孤独のことばを受け取るレセプターがないからだ。
特にリヴァー・フェニックス演じるクリストファーみたいな少年の問題意識である。
何故彼はそこまで老成しなければならなかったのか、彼の大人びた話を聞いているうち目頭が熱くなってしまう、、、。
年端も行かぬ子に、何がここまで苛烈な自立を強いるのか!
、、、凍りつくような恐ろしい現実である。
これは運命でもあり、誰の力でどうにかなるものではない、ということをわたしも最近心底認識するに至った。
主人公ゴードンの、優等生の兄とそれを可愛がり特別視する父、そして軽んじられる弟(としての彼)の構図は「エデンの東」をはじめアメリカ映画のテーマのひとつである。「お父さんは兄さんばっかりで、ぼくのことは、憎んでるんだ。ばくが死ねばよかったんだ(兄が事故死して両親はもぬけの殻状態)。」「いや、おやじさんは、お前のことが理解できていないだけさ。」(クリストファー)
これも切実である。しかし、このレベルは誰の家庭にも有り得る。うちの方がもっと過酷であった(笑。
このパタンは度合いによるが、表現~創造の過程がセラピーと化す可能性がある。
つまり普通とは言えないまでも、回り道をしながら発見をしつつやってゆける。
しかしクリストファーやセオドアは、かなりの強度の闇(外傷経験)を抱えこ込む。
それとの闘いは、想像を絶するものだ。
外部~社会と闘うと同時に、自らの闇~内面とも激しく闘い続ける宿命を背負っている。
わたしは彼らの頃、どうしていたかというと、早熟のクリストファーみたいに生き急ぐことはなく、全てにおいて起動が遅れていた。
わたしの場合、精巧なプラモデルを完成させることに心血を注いでいたし、スーパーリアルな絵を描くのが、単に面白くて没頭していた。それでどうする、も全くない。完全に回路を閉ざし孤絶した。
そのころは、作品が時折、外にポロリと零れることで外部との繋がりを保っていた(賞をもらうとか、、、)。
勿論、普通に学校に通っている身であるが。
どこにいようと、そこにはいなかった。
他者をあえて求めなかったため、内言語が外に放たれることばに形作られなかった。
内言語が長いこと、そのまま身体に沈殿、いや絡みついたままになっていたかも知れなかった。
やること自体が自己目的であり、その点においては、このブログを書く事と同じ次元の行為である。
つまりわたしは、まわりまわって(それほど回ってないが(笑)、少年期と同次元のこと~反復をしている訳だ。
今、はたと気づいた(爆。
辛く悲しく芳しい映画だ。
せめてリヴァー・フェニックスに後二倍は、生きていて欲しかった、、、。
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