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赤い靴

The Red Shoes

The Red Shoes
1948年

イギリス

ハンス・クリスチャン・アンデルセン「赤い靴」童話原作
マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー監督・脚本
ジャック・カーディフ撮影
マーティン・スコセッシ監督によりオリジナル・ネガ修復作業がなされる。2009年カンヌ国際映画祭で世界初公開。

道理で素晴らしく美しい映像であった。少なくとも古さなど微塵も感じさせない仕上がりである。

モイラ・シアラー、、、ヴィクトリア ”ヴィッキー”(良家出身のバレリーナ)
アントン・ウォルブルック、、、ボリス・レルモントフ ( レルモントフ・バレエ団の団長)
マリウス・ゴーリング、、、ジュリアン・クラスター (若き作曲家)
ロバート・ヘルプマン、、、イヴァン・ボレスラウスキー (バレエダンサー)
アルベルト・バッサーマン、、、セルゲイ・ラトフ (舞台装置家、デザイナー)
レオニード・マシーン、、、グリシャ・リュボフ (バレエダンサー、振付師)
リュドミラ・チェリーナ、、、イリナ・ボロンスカヤ (ヴィッキーの前のバレエ団のプリマ)


かなり長い尺を使った映画内の「赤い靴」の舞台は圧巻であった。
まさに舞台を体験している観客のイメージ~想像界を視覚化した芸術的なVFXであった。
このイルージョンとも言える幻想的な境界は、安易なCGでどうにかなる世界ではない。
実際には実現不可能な舞台「芸術」の実現である。
主役のモイラ・シアラーが英国ロイヤル・バレエ団のプリマということも、このバレエ映画成立になくてはならない要素であった。
踊りの質は当然、保証されるにしても、主演女優としても申し分ないところが凄い。
わたしは、バレエには全く知識はないが、他にもこの映画で振り付けをやっているロバート・ヘルプマンや レオニード・マシーンなど本職の振付師、バレエダンサーが役についているため、演技自体に説得力がある。
しかも演技がとても癖がありねちっこい。性格俳優並だ。

このような一癖も二癖もあるアーティストたちをまとめてバレエ団を組織することの難しさは、加えてその中に芽生える恋愛の生む結果とのバランスも考えると大変難しいことも分かる。
集団で作る芸術において馴れ合い?のようなものが生じるとやはりどうしても先へ進めなくなってしまうだろう。
このような濃い集団での創作活動を経験したこともないため、そのへんはよく分からない。
しかし、プリマとは言え、適齢期で恋愛をしないで過ごす事には無理があろう。

だが普通に考えて、仕事~究極の理想をとるか恋愛をとるかというのは同次元のことではなく、、、これは幻想の質が違うのではないか。
共同幻想と対幻想であれば問題なく両立可能に思えてくる。
家庭をしっかり持ってラジウムの研究で成果を上げたキュリー婦人をもちださなくても、主婦の芸術家や科学者はいくらでもいる。
つまり究極の理想を追求することと、2人の間の信頼と愛を育むことを両立させる障害は原理的にはないはずだが。

才能を認めた主人公を至高の芸術作品に昇めようとする理想に燃えるレルモントフ団長にとっては、バレエ以外のことに意識を向けること自体が不純で許せない事態であったのだろう。
ヴィッキーとジュリアン・クラスターは、極自然に結ばれるべくして結ばれた関係である。
これはこれで認めて、絶対にバレエの現場に恋愛感情は持ち込まない約束~契約をさせてもよかったのではないか。
集団経営のバランスを保つ方法は考えられるはずだ。

ヴィッキーは基本的に踊りたくて仕方がない。だが、レルモントフ・バレエ団を離れてはその機会がない。
夫のクラスターの力ではどうにもならない。夫の才能すらそこを離れては認められる場がない。
だが、ヴィッキーを純粋に芸の道から逸脱させたクラスターをレルモントフは断じて許さない。
しかし、ヴィッキーは夫のことは愛しており離れられない。
そこでこころが引き裂かれ、赤い靴を履きながらのどちらへも行けぬ悲劇の虚空へのダイブとなった、、、。

やはり、最後に両方できるじゃんと軽く考えられなかったヴィッキーの悲劇だと思う。
シリアスな劇を最後にコメディにはできないが。
序盤に「バレエはわたしにとって信仰だ」というレルモントフの言葉があったが、それが鍵であろう。
イギリスにおけるキリスト教(一神教)の信仰の重さにかかってくるのだ。
単なる芸術的理想の追求(芸術至上主義)に留まらない信仰の構造があった。
これはわたしのような、気軽な無神論者には、想像も出来ない無意識的な桎梏でもある。


美術~撮影が芸術の域に達していた。
そして音楽も十分に堪能できた。
何よりその中で踊るヴィッキー~モイラ・シアラーが美しかった。





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