マルホランド・ドライブ

Mulholland Drive
2001年
アメリカ・フランス合作
デヴィッド・リンチ監督
ナオミ・ワッツ、、、ベティ・エルムス/ダイアン・セルウィン(女優志望)
ローラ・ハリング、、、リタ/カミーラ・ローズ(女優志望)
アン・ミラー、、、ココ(ミセス・ルノワ)/ココ(アダムの母親)
ジャスティン・セロー、、、アダム・ケシャー(映画監督)
ダン・ヘダヤ、、、ヴィンチェンゾ・カスティリアーニ
イレイザー・ヘッドやエレファント・マン以来ひさし振りにみた監督の映画。
非常に美しく残酷で哀しい映像であった。
妄想と現実(エピソード)と回想が深い愛憎とその後悔に染め上げられている。
一口に言えば「マルホランド・ドライブ」はダイアンの儚い夢。
そのなかで語られる「クラブ・シレンシオ」での舞台劇か。
シレンシオSilencio、、、お静かに~黙祷。
「これは全部まやかしです、、、バンドはいません、、、全て録音、テープです、、、」
歌手が出てきて悲しげに歌う。
「あなたはさよならを言って、私を置き去りにした。私は泣いている。一人泣いている」
ダイアンの心中をそのまま歌っていた。
ここで、2人の主人公ダイアンとカミーラはさめざめと泣く。
ここクラブ・シレンシオは境界である。
2人にとっての唯一の覚めた場である。
作品は非常に厳密にガジェットや象徴によってパズル状に組み込まれたいた。
青い色や光、白い煙、ランプの揺れどれも全てしっかり有意味な要素を担っている。
幾何学的なエッシャーの作品を観る思いがした。
その拘りの映像美のなかで際立つのがダイアンの底知れぬ後悔と悲しみと絶望である。
そしてダイアンのカミーラへの愛と憎しみと同一視である。
その感情を受け容れて観るととても自然な説得力ある流れを体験することになった。
別に監督の意向を理解する必要などない。
だが、自分の直感がどこかで絡み付けば、そのまま多層な流れに惹き込まれる。
そして、なるべく言葉に変えたくはない。
変換・還元してしまったなら、味気ないし残念である。
重層的な絡みはあっても、難解にしようと意図されてはいない。
謂わば、ダイアンの夢を極めて厳密に描写しようという文法で描ききった作品である。
それをそのまま味わい、解釈を当て嵌めるような野暮な真似はしたくない気持ちにさせる美学がある。
やはり映像の詩的な美しさだ。
ディテールの禍々しい鮮やかさだ。
また主演女優の2人の哀しい美しさだ。
そこに精神分析的な手法(心理描写)が巧みに活かされてゆく。
3回に渡る、ウィンキーズというダイナーでのシーンひとつとっても興味深い。
店の裏手に何か空恐ろしい顔の男が潜んでいる、という夢は明らかに深く後悔する(カミーラ殺害の)罪の意識の形象であろう。それを代役の男たちで演じさせている。何やら判然としない恐ろしい男の顔は自責の念そのものの彼女自らの顔にほかならない。2度目は、ダイアンとカミーラが警察に実際にマルホランドで事故があったかどうかを電話して確かめるシーンで、そこで2人は食事もしている。これもダイアンの夢~妄想のひとつであるが、カミーラがウェイトレスの名札「ダイアン」を見るうちに思い出す。これをきっかけに彼女らはあるアパートへ行き記憶の定かでないカミーラの本当の部屋らしき場所で女性の腐乱死体を見つける。ここは夢を覚醒へと揺り動かす危ういところ。しかしその後、2人の性的関係で夢の状態を保つ。3度目に出るダイアンがカミーラ殺害を殺し屋に金で頼むシーンは現実のエピソードとなる。動かしようのない残酷な事実として。このひとつの場を次元の異なるシーンとして重ねて構成して全編が出来ている。
テンガロンハットのカウボーイの死神や青い箱から現れる小人なども出るべくして出てくる。
ここにノイズがほとんど見当たらない。
その意味でも息苦しくもある映画だ。
クラブ・シレンシオでダイアンがブルブルと震えていた。
あの感覚こそ映画でそうは見ることのできない、リアルな場面だ。
全てまやかしである事を司会の男~悪魔に暴かれる劇場。
こんな恐ろしい場はない。特に欧米ではそうだろう。教会~最後の審判~告白などの制度が無意識化している。
このクラブの後、青い箱から小人が出てきてダイアンは自殺に追い込まれる。
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