カスパー・ハウザーの謎

Jeder fur sich und Gott gegen Alle
1975年
西ドイツ
ヴェルナー・ヘルツォーク監督・脚本
ブルーノ・S,、、、カスパー・ハウザー
ヴァルター・ラーデンガスト、、、ダウマー教授
ブリジット・ミラ、、、ケイテ(家政婦)
ハンス・ムゼウス、、、ランコニ
フロリアン・フリッケ(ポポル・ヴーのリーダー)、、、盲目のピアニスト
ミカエル・クロエシャー、、、 スタンホープ卿(イギリス人)
19Cである。ニュルンベルクに独りの特異な少年が突然、現れる。
何を聞いても「ヴァイス・ニヒト」分からない、と目をパッチリ開けたまま、半ば硬直した身体で応える。
しっかり立つこともままならず、自分で歩く事も出来ない。(したことがないと見える)。
パンと水以外は摂ったことがないためか、他の食材は口に入れても吐き出してしまう。
自律神経系~不随意運動(神経)に障害はないようだ。
所謂、自然で無意識に流れる身体的習慣行為がほとんど(文化的に)獲得されていない。
(このことは、われわれの身体の日常性とは、われわれの制度そのものだということを改めて逆照射する)。
つまり、通常の生活を送っていれば自ずと身につく身体習慣が身についていないその意味で特殊な、、、、
そんな少年、、、が街路に発見されたのだ。
やはり、今現在とはパラダイムが違う。
まだ然程厳密に、遅滞と健常という言語的に峻厳する概念化が徹底されていない。
今であったらこんな程度では済まされない。
その違いは、こどもの感性に無意識的に顕になる。
この映画でのこどもたちは、ちょっと遅れてものを覚え始めたヒトくらいにしか彼を見ていない。
彼は毛色の変わったひとりの友達に過ぎない。非常に柔らかい対応である。
今であれば、親~世間の無意識(勿論、意識も)がストレートにこどもの行為に露呈する。きっと酷いイジメとなっている。
一般の家庭で(篤志家ではあろうが)、椅子への座り方やスープの食べ方、パンや水も与えられ、紙にペンで文字を書く事も教えてもらう。こどもが兎も角、一緒に緩やかな時間を共に過ごす。
そして、ことばを初めて獲得してゆく。
ある意味、ヘレンケラーのように、一番の見所かと思ったのだが、いまひとつピンと来ないうちに、妙に厭世的な(社会批判のパロディみたいな)感想が漏れたりして、ちょっと間を飛ばしているような気がしたが、、、。
自分の言葉を喋りだすところは、まさに役者の力を感じるところでもあったが、、、そこからの過程が飛んでいる気がする。
余り言語の生成の現場に力点を置く映画にするつもりはなかったか。
今であれば彼は機械的にその専門施設へ送致されるであろうが、こんなケースではどれだけ好奇の的にされるか分からない。
研究対象~資料として。
実際、幼い頃暗い地下室?に閉じ込められていたためか、暗闇の視力が尋常ではなかったようだ。
発見時は麻痺状態であったが、寧ろ感覚的な鋭さが異様に目立ってきたらしい。
確かにここでも、見物客は次々やってくる。
この辺は「エレファントマン」と人気を二分するか(笑。
市の予算の負担軽減から、見世物小屋に送られてからも、実に真っ当な紹介のされかたである。
見世物というよりショーとして成立していた。
カスパーは確かに微妙で不機嫌な表情である。
悪童が鶏で脅したり、そうした悪戯は確かにあるが、度を越しているとは思えない。新参者は大方それくらいの歓迎は受ける。
その分、淡々とした愛情もかけられている。特にケイテの距離感は素晴らしい。
彼を利用しようとする上流階級がいるのは確かだ。
彼の調書を万全のモノにすることだけに掛けている男もいたが、それも何処にでもいる。
鬱陶しいにしても、彼の苦痛は実存の悩みであり、珍しくもない。
「、、、あそこ(牢獄)にいさえすれば、何も知る必要もなければ、何も感じる必要もなかった。もう子供ではないという苦しみ、そしてこんなに遅くなって世の中にやってきたという苦しみも、経験しないですんだろうに・・・・。」
この彼の感慨は異なるものを認めない社会に対する憤りなどではない。
筋違いである。
特異な出自により翻弄された運命に対する嘆きである。
「あの男(彼を地下牢に閉じ込め、その後外界に置き去りにした男)はどうして私を外へ連れ出したりしたんでしょう。」というように、その何者かに対するカスパーの怒りの問いでもあろう。恐らく彼が全てを握っており、カスパーの殺害実行犯でもあろう。
(つまり出自の秘密が明かされるのを恐れたバーデン公が差し向けた刺客こそ彼であっただろう)。
その特殊性はあるが、考えてみればわれわれは誰だってその度合いの差こそあれ特殊な存在で在らざるを得ないのである。
カスパーレベルの知的ポテンシャルと感性をもって、思春期に上記のような内面発露をしない者の方が異様であろう。
そこにちょっと出遅れ感があって、悔しいみたいなものも、、、これについては、至って普通であり、寧ろ年相応のところまで言語(概念)~精神性をもってきたカスパーのやはり血筋の良さと高い能力をこそ賞賛すべき部分か。
制度が他者を認めないなどというのは、トートロジカルな言い回しに過ぎず、実情を見ればこれも度合いの問題で、結構風穴も空いており、音楽~彼はピアノ(モーツァルト)まで練習し、想像した物語を本にしようと書いたりもしている。自己を言語により再構築し情緒を沸き立たせ認識を広げる、環境的には恵まれているのではないか?結構、好き放題な行動も出来て自由な意見も尊重されている。恐らくそれが過ぎて スタンホープ卿に嫌がられていたような、、、。
彼にとり不幸だったのは、彼の名前が各方面に徒らに知れ渡ってしまったことが災いして、その存在を消さねばならぬ者に確実に消去されてしまったことだ。こればかりは、彼の保護者、ダウマー教授しかいまい、、、が万全の策を講じて守る必要があったはずだが。
そこが酷く無策で不甲斐ない限りである。
わたしとしては、何処にどういう形でポポル・ヴーが関わっているのかに関心が向いてしまった。
確かにこの監督の他の作品のクレジットを見ると、音楽:ポポル・ヴーとある。
本作では、リーダーが出ているということで、何とか調べたら盲目のピアニスト役ではないか、、、適所である。
しっかり尺をとって写っているのには、何か嬉しさを感じてしまった。
クラフトワークとカンの二大巨匠は別として、タンジェリンドリームとクラウスシュルツの流れとも異なり、ジャーマンロックの雄として君臨し続けて長いグルグル、アモンデュール、ポポル・ヴーである。
そのメンバーの顔をこうして役者として見ることができたのは、グリコのオマケ的な得した気分になった。
うん、余計なことを考えず、もう一度見直す作品に思えた。特にことばを喋りだした後辺りからの流れを、、、。
(ポポル・ヴー関係でこの映画評にも当たっている内に、ハンで押したように違う者を認めない社会を断罪する論調のものが多く見られ、驚いた。そんな場面があっただろうか。何に反応したのか。カスパーの言葉からというより、寧ろ彼らのカスパーに対する差別意識が投影しただけではないのか。それはそれとして、日常生活で、本当に他者を受容している人が沢山いるのなら今の社会、実質的にはもっと過ごしやすくなってはいまいか、、、)
言い方を替えれば、この時期は今のようなスーパーフラットな世界ではなかった、ということか。
もっと空間が豊かな場所であった。
彼は彼岸からこの此岸におとづれたヒト~稀人の位置にもいると思う。
実は、カスパーがあの街角に立ったとき、一番にそれを感じた。
日本で言えば、仙台四郎とか、、、南伸坊先生が成っておられた。
きっと、カスパーに日常の姿勢や食事の仕方や風呂などを丁寧に世話したあの家族には、良いことが沢山起きたのではないかと思える。
所謂、運徳譚であるが。
それを感じた。実際どうであっただろう?
異形のモノが境界を超えてやって来るという事態は大変、聖的な現象である。
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