グラス・ハウス

The Glass House
2001年
アメリカ
ダニエル・サックハイム監督
リーリー・ソビエスキー、、、ルビー・ベイカー(女子高生)
ダイアン・レイン、、、エリン・グラス(新しい母親)
ステラン・スカルスガルド、、、テリー・グラス(新しい父親)
ストーリーは至極単純なもの。
風邪をひいて寝ながら見れるものを選んで見た。
TV録画であるから、カットも多いはず。
しかし、複雑な映画ではないので、それで感想が変わるとは思えない。
16歳と11歳の子供が、両親の事故死により、何と隣に以前住んでいた夫婦に引き取られる。
そんなことあるのか、、、弁護士までついている。
実はその夫婦がその家の財産を目当てに、ふたりの子供の両親を事故死に見せかけ殺害していた。
思いもかけないほどの豪邸でロケーションもよい。
そこに引き取られ、彼ら(いや、姉)は次第に違和感を深め、矛盾に気づく。
16歳ともなれば、しっかり育ってきていれば、自我ももち判断力もある。
偽善者もちゃんと見分ける。
この子はとても健康な子に思える。
だからまっとうに、反抗も出来る。
これがとても大事なことだ。
疑問を抱き、それを調べ、嘘を見抜き、そこから逃れることを試行錯誤する。
逃げ切れないと判断したところで復讐に転じ、見事それをやり遂げる。
アッパレである。(張本か?)
理想的ではないか。
これがこの11歳ひとり息子という場合では、完全にこの夫婦のいいように操られ金だけ騙し取られて、良くって施設にでも入れられておしまいだろう。
この16歳の姉の存在である。
勿論、この姉あってのこの映画だから当然なのだが。
この作品は設定もありがちで最初から筋も読める。
かと言ってそれ以外に何を見せるという訳ではない。
結局、この元お隣夫婦とこの姉との攻防戦それ自体を楽しむ映画である。
最後にそれなりのカタルシスがやって来る。
カタルシスは精神浄化作用がある。
そのため「カタルシス」なのだが、現代においては熱を出したり下痢をすればすぐに薬で抑えてしまう。
心的に荒れ狂う怒りも制度的(親の権威の下)に無意識下に押し込めてしまう。
皆、深い病を抱えもつようになる。
幸いこの主人公の少女は親の虐待(威圧的で分裂病的な押し付け)も受けず、すくすくと育っていたようだ。
こういう普通に自分の感覚でものが判断出来る子は、何か大変な事態に追い込まれても気丈にやってゆける。
自分の感覚や感情を否定されて生きてきた者は、精神の域が低いためちょっとしたピンチですぐ破綻してしまう。
自分がないのだから、礎になるものが無い。
歴史的にもこれまで描かれ続けてきた壮大な「戦争絵画」や「戦争譚」はカタルシス機能を担う。
システィーナ礼拝堂の天井画や「最後の審判」を描いたミケランジェロは、どれだけの人をカタルシス=法悦に呑み込んだか。
(しかしこれも「聖ゲオルギオスの龍退治」などあからさまに異教弾圧、一神教の強化に方向性が操作される流れも出てくる)。
映画についても戦争・サスペンス・アクションものはことごとくカタルシス機能を果たしている。
敵は単純に厚みのない悪=外部の者(龍であったり)であり、話は単純な方がよい。
(敵に内面があったら殺せない)。
しかしこの映画は、16歳の少女が、まだ何だか物事が分かっていない弟を庇いつつ、やられたらやり返すレベルで戦う。
であるから、「キック・アス」みたいに、バズーガ砲で相手を吹き飛ばす爽快さには至らない。
もっと、こぢんまりして現実的である。
パトカーでその悪辣極まりないゴロツキを轢き殺すに留まる。
それまで何度も脱走や工作を繰り返すが惜しいところで邪魔され捕まえられてきて、散々悪口などを吹聴されてきたこともある。
最後は確かにスッキリして健康的だ!
だが、刺激的な場面を映画でたっぷり体験してきた感覚にとっては、呆気ない。
特にホラーだ。あれは、下手をすると外傷経験にもなりかねない(あれはカタルシスではない。毒だ)。
何というか、映像の流れがTVドラマタッチであった。
日本の2時間ドラマを思い起こす。
ドラマならすんなり分かる設定と映像であった。
明日は鮫映画でも見ようか、、、。
それにしても、アメリカ映画に鮫ものが多いのは何故か、、、?
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