工芸は現代アートになる

女子美のアートミュージアムで「創る、伝える、繋がる」展を観た。
女子美の先生たちの作品ということ。
再度、ゆっくり観に行くつもりだ。
今日は娘たちと公園で遊んだついででもあった為、通りすがりに作品を眺めるという感じであった。
(ウインドショッピングか、、、結構贅沢である)。
しかし、それでも印象に残った作品はある。
透明なガラスの作品で、石の中の世界を想わせるものだ。
そう、仮想された内部へと、、、視線~想いを郷愁に似た感覚で誘うものである。
非結晶質なものの内部に時間性を想わせる階段~道が奥に通路のように延びてゆくもの。
長女が気に入ったのもがそれで、奥行のない世界に奥行が生まれていることに興味を覚えていた。
それから、割れて穴の空いた石の中に幾種類もの結晶が生成されている、、、密かな宝石の発掘を夢想させる作品に、次女の方は惹かれたようだ。
わたしもこれらの作品の前では足を止め、中を覗いてほくそ笑んだ。
が、いかんせん時間がなかった。すぐに家に帰る事情が発生した。
他にガラス製の容器~オブジェの中を覗くと、そこには異質で異素材の造形(意外なフィギュア)が潜んでいたり、、、。
大きな金魚鉢ふうのガラス作品が並んでおり、いちいち我々親子は中を覗いて移動した。
内部~内界への夢想。(決して内面ではない。あくまで表面である)。
ロジェ=カイヨワの宝物のような本「石が書く」で、次のような行があった。(およその記憶である)。
縞瑪瑙を薄く削ってゆくと、時に内部に影絵のように蠢く黒い水に行きあたることがある。
その水は地球の創世記の頃に取り込まれた、まだ地球大気層での循環すら体験したこともない純粋な水なのだ、、、。
わたしたちは、その水に一度でも触れてみたい誘惑と衝動に駆られる。
いつも瑪瑙を光に透かしては、その水のことを想う。
そしてついにその水そのものを観たいという欲望を抑えきれず、石を更に削っていったある瞬間、瞬く間に水は気圧のせいで蒸発してしまい、後には石の窪みだけが残される、、、といったものだった。
内部についてのこんなふうな悲痛な体験が、われわれの無意識に喪失の歴史として畳み込まれて沈んでいるのかも知れない。
それは想像力の根拠となる場所となり、幽かに絶えず疼いている、、、。
何かを創造したいという突き上げはこんなところから来るのか、、、。
(こんなこと言っている人は誰もいないが)。
内部を持ったガラス、陶器、、、その他では、卵の割れた殻が幾つも繋がったようなオブジェが、やはり内部の喪失そのもののあっけらかんとした乾いた感覚で、幾分ユーモラスであった。
ユーモラスといえば、掌と建造物~街と漫画チックな顔の表情の組み合わさった鵺状のオブジェとか足だけの生き物と言ってよさそうなオブジェもそれであった。
後は精緻な模様のタペストリーといった感の布状の染物類である。
そう様々な布の、軽やかで涼やかに靡くものから、ずっしり重そうで表現自体も重厚なものまで、かなりの点数が並んでいた。
天井から何本も透明に淡い色で曲がりくねって垂れ下がる羽衣状の帯は、大きな空間を専有しながらも全く圧迫感なく優しさを湛えていた。これには娘たちも喜んでいた。
外国の若い女性が非常に真剣に鑑賞していた、、、流石、女子美である?
最近、娘たちに教えたマーブリングが、何と半立体としてはっきり台紙から浮き上がって飾られている作品があった。
これには、彼女らも驚き、しきりに横から見ていた。
長いピンで何箇所もとめられて3次元化していた。
それにしても、全くのマーブリングである。
あの繊細極まりない複雑性の象徴とも謂いたい波紋、、、。
「よく浮き上がらせたね」長女の感想であるが、、、全く同感。
展示場の外に置かれていた、確か「カオス・ポット」という、カオスを撒き散らしそうに太ったジブリアニメに出てきそうなポットがわたしは気に入った。
兎も角、素材はみなそれぞれ異なり、ひとつの作品にも複数の素材と、技法が重ねられていて、賑やかな展示会であった。
へたな絵画展よりもずっと多彩で、自由に表現を模索・実験して遊んでいる感じの作品展であった。
工芸の面白さ、、、元々面白さは知っているが、その多彩で自在な面白さを味わった。
もう少し味わいたい、、、。
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