デトロイト美術館展

病院の帰りに立ち寄る。
帰りに立ち寄る分には良いが、その後、家まで帰るのが物凄く長旅になって辛い。
その度に、上野にはもう行くまいと思う。
上野の森美術館は、余り行かないところだが、今回行ってみて思ったのは、少ない!
えっこれだけ?
というくらいに、展示作品が少ない。
これでは、うちの近所の展示会場並ではないか、、、(苦。
今日はわざわざ足を運んだ甲斐はなかった。
酷く疲れただけだった。
展示された作品はほとんど画集で見ていた。
画集になかったものでも、特にお得感を感じるほどではなかった。
強いて言えば、、、ドイツ表現主義のコーナーだけは、良かった。
特にパウラ・モーターゾーン=ベッカーの「年老いた農婦」には見入った。
平面的で厳かな厚みがあり、素朴で深い宗教性を秘めている。
独特のマチエール~この絵は油絵だが、テンペラ画の質感がここにも生きている。
完全に自分の自律的で堅牢な形体を見出した画家のひとりと言えよう。
惜しむらくは彼女が創造の絶頂期にいた31歳の若さで亡くなってしまったことだ。
そう、リルケともお友だちであったようで、彼女ならではの詩~死情も感じられる。
(かなり昔に一度、彼女の作品展(200点弱の)が開かれたはずだが、確か東京には来なかった)。
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーの「月下の冬景色」は、ゴッホに負けぬ狂気の美である。
そう、ここに展示されているゴッホの「オワーズ川の岸辺、オーヴェールにて」も、はちきれそうな狂気を湛えた絵だ。
(TVで市川沙耶さんが、その青のタッチの狂気について言及していた)。
この2点は本展示会での「狂気の双璧」であろう。
赤と青の狂気である。
キルヒナーには退廃と不安の2文字が常に纏いつくが、彼は非常に研究熱心であり、ピカソのやった実験のほとんどを体験~作成しているようにわたしは想う。版画作品にも意欲的なものが目に付く。
ただ、ピカソとの決定的な差は、ピカソが常に生を激烈に更新していったのに対し、キルヒナーにはその資質がなかった。
様々なスタイルを起こしても、生成される作品は何れも黄昏のなかに浸かっている。
酷い不眠症に悩まされていたようだが、本当に精神を病んでピストル自殺してしまう(ここもゴッホに重なる)。
ナチに追い詰められなければ、更に広範な大きな仕事(研究)が残せたはずだ。
退廃芸術とされナチにかなり処分されても、とても多彩なスタイルの作品がそこそこ残されている。
キルヒナーは、レッテルを外して観なければならない。
両者共に1点ずつしか展示されていないが、それが美術館が元々それだけの所蔵なのか、今回の展示で運べたのがこの点数であったのか、わたしは知らない。
しかし、パウラ・モーターゾーン=ベッカーとエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーを思い出すには良い契機となる作品だった。
他にもオスカー・ココシュカのビビットな風景画、ワシリー・カンディンスキーの純粋芸術を提唱(絵は音楽のように描ける)、青騎士(ブラウエライター)結成後の作品(習作)が一枚。初めて知ったマックス・ベックマンの正面を向いた絶望の影を帯びながらも不退転の決意を滲ませる自画像、、、があった。彼もナチから逃れながら制作を続けた画家のひとりであった。
取り敢えず、見慣れた作品~画家であるが、、、
ピカソの絵は一番たくさんあって充実していた(と思う)。
「腰掛け椅子の女性」(新古典主義時代のものか?)が涼やかで調和がとれていて好きだ。
「バラ色の時代」、「アフリカ彫刻時代」、「キュビズム」、「シュルレアリズム」それぞれの期の作品があった。
「青の時代」はなかったと思う。
それからマティス(ピカソといえばマティスだ)が数点。
そしてモディリアーニも彼らしいオシャレな作品が数点。ボナール。ルドン、、、。後、数点ほかの画家のものもあったが忘れた。
そうだ、ルオーのとてもうす塗りの「道化」があった。ルオーにはうす塗りもあったことを思い出した。
おっと、オットー・ディックスの自画像が一枚。
現実に対する非常に批判的な精神を具現化したもので、その描写の精度はデューラーを彷彿させる。
(真正面ではないが、強烈な懐疑的視線で見詰めてくる)。
これにはナチもたじろぎ、彼らに敵視され、作品も多数没収されたという。
この率直さである、、、そうだと思う。
対ナチのなかで描かれた作品が印象に残った。
思い返せば、一度足を運ぶ価値がある展示会であったと思えてくる、、、。
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