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ソフィーの選択

Sophies Choice001

Sophie's Choice
1982年
アメリカ

ウィリアム・スタイロン原作
アラン・J・パクラ監督・脚本・製作
マーヴィン・ハムリッシュ音楽


メリル・ストリープ、、、ソフィー
ケヴィン・クライン、、、ネイサン
ピーター・マクニコル、、、スティンゴ

「わたしには選べません」
だが、選ばざる負えなかった、、、。


究極の状況に置かれるとは、不可能な選択を強いられることだと知った。
日常生活とは、選択を意識しない生活を意味する。
ほとんど身体の自動ルーチンにより無意識的に一日は終わってゆく。
(時に、主体的に選択したと想える場面も単なる流れの総合的な作用のうちにそうなっただけだと知ることもある)。
するとわれわれにとって現実とは何か、、、
自分の生を生きている実感があるか、、、?
ぼやけてくる、、、これを取り敢えず、実存と呼んでいる節もある。

別の見方をすれば、こんな非常な選択は日常の暗部においてもあるのではないか、、、。
選択せざる負えずに選択してしまっている。
諦観に近い形で。半ば無意識に、無気力に、節操をもって。
つまりダダやシュルレアリストが批判した日常性である。


ソフィーは、その人生において、不可能な選択を常に強いられてきた。
自らの意思に反しての選択である。
何れも過酷極まりない選択であった。
ここに主体性~人権などなく、自分の生を全く生きることができない。
特にそれを意識しだしたのは、父の公演の原稿をタイプした時からであった。
そこから過酷な選択が続く。
幼い息子とまだ赤ん坊に近い娘のどちらかを選ばざる負えない、、、などという残酷な選択は有り得ない。
だがそれが現実であるのだ。
重要なのは、この「選択=現実」なのである。
現実からの逃げ場はない。
ひとつの存在は、ひとつの場所しかもち得ない。
空想~白日夢に逃げ込むことができたらどれほど楽か、、、。
ただ凄まじい重力で現実が伸し掛る。

こんな選択を強いるのが、戦争である、と言うより人間であると言うべきである。
戦争が、ナチのホロコーストが、、、と言う前に「人間が」である。
人間がやったのだ。
これを断じて忘れてはならない!
ただ、戦争という究極状況において、人の本質が発動されたに過ぎない。
(この小規模な発動は、平時より身の回りでも度々見られる。勿論、軒並み潰してゆかねばならない)。

この絶対的選択はソフィーの精神に決定的な外傷を与える、いや崩壊させる。
罪悪感と言うより生々しい原罪の獲得であった。
解放された後、教会で十字架を前に手首を切る。
だが身体において死に切れない。
しかしもうすでに彼女に生きる意志はない。
その後どうにか生き存えてこれたのは、知力の高い妄想性分裂病のネイサンと偶然出逢ったことが大きい。
彼の不安定で非日常的で絶えず大きな振幅を見せる破滅的な感情に身を任せたのだ。
両者はある意味、呼応する精神性をもっている。
死への誘惑に晒されながら(死を常にひりひりと感じながら)、カーニバル的に生きる。
その常に死に滑り落ちる不安な場所にあって、辛うじてふたりは生を繋いでいる。
それは罪~自意識に苛まれゆるやかに自壊してゆく過程でもあった。

その行き着く先は決定されており、選択の余地はない。
ただ行くべきところに逝っただけの話である。


メリル・ストリープの演技は、説得力があった。
あの痩せ方も、尋常ではない。


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