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レインマン

Rain Man

Rain Man
1988年
アメリカ

バリー・レヴィンソン監督

ハンス・ジマー音楽
落ち着いて抑制の効いた効果的な音であった。

ダスティン・ホフマン、、、レイモンド・バビット(高級車のディーラー)
トム・クルーズ、、、チャーリー・バビット(サヴァン症候群の兄)
ヴァレリア・ゴリノ、、、スザンナ(レイモンドの彼女)


サヴァン症候群である。
ここでの突出した能力は、数に関するものだ。
計算や物の個数を一瞬に数える、数の暗記、、、などである。
特異な能力と呼ばれているものだが、、、。

数というものが特別な(fetishな)存在なのだろう。
数学者のなかには、「数」は、実在しているという人もいる。彼にとっての「数」も、そんな存在なのだ、きっと。
しかし、彼にとってそれが何かであることはない。
それを元に導かれる認識や発見には全く繋がらない。
喜びー感情に繋がらない。ここが肝心なところだ。
自分の秀でた能力を統御する主体ー自意識の有無である。
ここが、数学者と障害者の差なのだ。
彼自身にとってその能力が、何の支えにもなっていない。
ある意味、無用の長物として彼に付随している。
天才との紙一重に留まり続ける。

しかし、反面われわれは、彼が解放しているその機能を発動ー開花させていない。
今一般的に論じられる自意識は、何らかの原機能をOFFにすることで、成り立つとも謂われる。
ここは、興味深いところだ。
原機能をONにしたまま自意識をもつ。
天才に所謂変人が少なくないところも、頷けるところか、、、。
何れにせよ、われわれは、機能のかなりの部分を遮断することで、初めて人間として成立している。
このことに少し想いを馳せてみたい、、、。

兎も角、この映画をハリウッド文法に従い見てゆくには、取り上げられた題材が興味を惹きすぎる。
そちらに思考がいやでも向いてしまう。
この映画がSF的な方向性をもっていれば、アルタード・ステイツの描写に入り込んでもよかった。
つまり、在り来りな知覚、感覚そして記憶を超えた何かの存在への接近である。
何というか、われわれはナニモノかとの接続が足りないのかも知れない、、、。

少し拘り過ぎた。
この件は語りだすとキリがなくなる。


ダスティン・ホフマンの演技はここでも凄い。
これを見ると、つい「海洋天堂」の大福も思い浮かべてしまうが、、、タイプは違うが、双方とも鬼気迫る演技であった。

ただ、昨日まで観てきたアメリカン・ニューシネマ系と異なり、如何にもハリウッドという作品であった。
映画に疎いわたしでも、その作りの差はよく分かる。
こちらは構造と流れがはっきりしているのだ。
はっきり行くべきところが見通せる。

チャーリーとスザンナのレイモンドへの対応が観る側の琴線にちょうど程よく触れるように計算されている。
一種の強迫意識をもって、われわれも彼らと共にレイモンドに関わってゆく。


ここで上手いと思ったのは、最後医師との話し合いの場で、レイモンドが出来る範囲でチャーリーを庇っているところである。
このシーンで、チャーリーはレイモンドと分かり合えたことを確認している。
そう言いたくなるのは分かる。
しかし実際、自閉症と分かり合えるなど軽々しく言えるものではない。
(斯く言うわたしも関わった経験がある)。
9年間面倒を見てきたが、明日私がいなくなっても彼は気づかない、という看護師の例こそ真実味がある。

結局、チャーリーはレイモンドを医者に託す。
自分は、定期的に病院を訪問することにする。
見る人も納得する、取り敢えずの解決が示される。
誰もがスッキリする。
ハリウッドである。

日常性への着地である。
ここで変わったのは、チャーリーである。
その他の人物は取り分け何が変わったというものではない。



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