冷たい熱帯魚

園子温監督・脚本
2011年
吹越満、、、社本信行(熱帯魚店の店主)
でんでん、、、村田幸雄(アマゾンゴールド熱帯魚店店主)
黒沢あすか、、、村田愛子(幸雄の妻)
神楽坂恵、、、社本妙子(信行の妻)
梶原ひかり、、、社本美津子(信行の娘)
「ヒミズ」の監督だ。
バイオレンスとコミカルさで一気に見せてしまう。
勢いのある作品だ。
でんでんと言うか村田幸雄みたいな輩はあちこちにいる。
巻き込まれないように気を付けないといけない。
まず、これを観て、そう思った(爆。
絶対に返り討ちにしなければならない!
社本家のように前妻の娘と後妻の確執が横たわる家での夫の立場は難しい。
彼は元々、星を眺めて物思いに耽りたい(逃避したい)タイプのヒトだ。
現実的な女同士の啀み合いにドップリ関わり治めてゆく気力なんて端からないと思う。
(娘もかなり大きいし、事前に充分相性を確認しておく必要があったはずだが、そのような段取りすら苦手であるようだ)。
父性を発揮して家庭をまとめる事がそもそも可能なのか、という問題でもある。
(この辺を語り始めたらキリがないので、やめる)。
娘が非行に走ったからといって、何が原因かは判らない。
しかし、親への不満をそういう形で表現していることは見て取れる。
この家庭の場合、娘が産みの母親に非常に固執していることは間違いない。
それは、二重の意味でもうどうにもならないことだ。(母子の幼年期の関係の濃さとすでに母が亡くなってるという点において)。
基本的に娘がある歳を越えたら、後妻は他の女以外の何者でもない。(それなりに信頼できる年上の友人からの関係づくりとなろう。それが、ここでは失敗している。娘―彼女がタバコ嫌いならまず外出先で吸うべきだ)。
その崩壊すれすれの家庭の状況に、巧妙につけこんできたのが、村田だ。
一見世話やきで人当たりは良いが、その押しつけの強さなど、わたしの大嫌いなタイプの人間だが、社本家にとっては、娘の窮地を救ってくれた恩人でもあり、取り敢えず良い顔をしておかない訳にもいかない。
熱帯魚屋で真っ赤なフェラーリというのも、胡散臭さ一杯である。車から見ても、すぐに距離を置くべきだったのだが。
村田がたまたま、娘を助けたというのは嘘で前々から社本家に目をつけてきたのは確かだ。
(ゴロツキは、自分の支配下に置けそうな、又は自らの自尊心や自己顕示欲を満たせそうな対象を探してうろつく。わたしの周囲にもまさにこんなのがいるが、大概頭が悪いため対象を選び間違う。その点、村田はドンピシャであった)。
そして、村田の店での娘のバイトの提案を受け入れた時点で、社本家は底なしの地獄に引きずり込まれてゆく。
正確には父である社本信行が、途轍もない地獄を見るのであるが、最終的にはみんな力強く落ちてしまう。
ここにエロスとタナトス(性と死)の渦巻く世界が描き尽くされている。
この場合、本当に相手が悪すぎた(爆。
両者の関係が余りに非対称なのだ。
圧倒的に村田の役者が上である。
まず、社本の妻を篭絡し、彼に妻を通して一攫千金の投資話を吹き込む。
元々娘の件もあり妻に引け目を感じている社本は、そそくさと村田の毳毳しい熱帯魚屋に赴くしかない。
金は用意してきたがいまひとつ話に乗り切れない投資家を、村田は社本の目の前で毒入りドリンクで殺害する。
この形で彼は財を成してきた事を知るが、時すでに遅く、同時に社本は、ここで強制的に共犯関係を結ばされた事も知る。
(このドギツサには恐れ入った)。
「俺は誰がいつ死ぬか、いつまで生きるか、ちゃあんと知ってるんだ。どこでくたばってもらうか、それを決めるのは俺だ!」という表明の重さは計り知れない。俺はお前の神である、という啓示に等しいではないか。これだけの絶対支配は、並みのゴロツキになぞ出来ようはずもない。これは何者であろうが、破格だ!
社本は、この強烈な体験により、恐怖と畏怖による思考麻痺(停止状態)で村田の指示どうりに動くロボットとなる。
ハラキリ山の妙な教会を模したような荒小屋(又は逆説的聖地なのか?)で、屍体の解体処理を手伝わされるのだ。
何とそこが村田の子供の頃父親に閉じ込められていた小屋であったという、、、。
恐るべき幼少期の一端を垣間見た気にさせられ、更に社本の畏れの意識は高まる。
血みどろの光景にマーラーの覆い被さることで、完全に圧倒された社本の心情が顕になる。
更に、凄いことに屍体解体における愛子の段取り、手際の良さである。
どれだけ、こんな経験を積んできたのか、、、。この女は一体何者か!
2人で談笑しながら解体を嬉しんでいるではないか、、、ちょっとこちらも妙に楽しくなってくるコミカルさ、、、。
社本としては、妻と娘を人質に取られている事もあるが、このコンテクストからもはや外れようがなくなっている。
完全に判断不可能な世界に囚われてしまったのだ。
屍体を出来る限り細かく切り刻み、骨は燃やして灰にして撒き、肉片は河に流して魚の餌にして実体―存在を消す。
それでこれまで殺人をずっと積み重ねて来たのだ。
誰に疑われようと、ボディが透明になっちまえば、何も分かりはしねえ、が村田の口癖である。
しかし、こんな村田に付き従うばかりの社本も、村田の外道な挑発の果てに、情動(衝動)が噴出する。
愛子を鉛筆で刺した後、村田を狂ったように何度も突き刺す。
すると瀕死の村田から、お母さん助けて、お父さん、やめて、、、と幼少の頃に戻ったかの様な、か細い声が漏れるではないか、、、この男の単なる出自というより本質を雄弁に語っている。
虐待の末に獲得された歪み破綻した村田の名付けようもない絶対的人格の起源に他ならない(心理学的には気の利いた障害名は見つかるだろうが、、、)。
そしてこの妻、愛子がまた凄まじい本性を噴出させてゆく。
この女はどうしてこうなったかのヒントすらもここからは、見えてこないが、、、。
彼女も村田に劣らず、恐ろしい死に様だ。(この死に様がそのまま生き様を象徴している)。
結局、社本は妙子も刺殺し娘に「生きてゆくことは痛い事だ!」と生きてゆく自覚を促し、娘の前で自害して果てる。
娘は何度となく死んだ父親を蹴飛ばし続け、1人で生きてゆく決意を固めていた。
でんでんという俳優であるが、このような役を演じられて、さぞ幸せだったに違いない。
悪役と言ってもその怪物性は生半可なものではない。
演じ甲斐は充分であったであろう。
そして黒沢あすかの愛子もこの村田と共に、残り続けるキャラクターであると思われる。

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