ダイアン・アーバスの写真に触れて

アーバスの写真は真正面から撮ることが多いことを除くと、レニ・リーフェンシュタールの「ヌバ」にも似ていると思いました。純粋に他者(異物)の強烈な美の記録という点において。
普遍的な強度をもった。
またアーバスはその対象の異質さにより、リーフェンシュタールはナチに絡んだ過去によりまともに論じられることはなかった点も似ています。
アーバスが狂信的なバッジを付けパレードに参加する青年を撮ったのは、情熱にもえる恍惚とした憑かれた美が、ただ撮りたいからであって、同じ強度で夥しいフリークスも撮っていたのでしょう。そこには政治的・思想的な動機など微塵もなく、自身の生の根源的欲望に従って、まさに生の証として撮りたいものを撮るという一貫した姿勢がありありと窺えます。その点で、リーフェンシュタールはやはり芸術(写真芸術)を意識していたことは疑えません。
アーバスはファッション写真家からの転向のように捉えられますが、ある意味、ファッションにおける虚構美も「それ」と通底するグロテスクさが認められたはずです。少なくとも彼女にとっては等価のものだったかもしれません。アーバスにとってカメラは、嫌悪を抱かずにいられないのにどうしようもなく惹かれてやまない彼らーそれに対峙する唯一の道具だったでしょう。ともかく「それ」を記録しないではいられなかったのです。正面からキッチリと。その点においては、彼女はいかなる枠にも派閥にも属さない単独の記録者であったと言えます。結果的に作品が良識やタブーなどに守られた凡庸な美意識を逆撫でしようが揺さぶろうが、彼女の関心はひたすら「それ」に向けられるばかりでした。いえ、「それ」から逃れられなくなるのです。
しかしそのままいくと必然的に彼岸へ、彼岸のものへとひきずりこまれてしまうのでしょうか?
あの歓喜の群れのなかへと、、、
「略、、、船が火事でゆっくり沈んでゆくのを、わたしは知っていました。みんなもそれを知っているのに、明るく踊り、唄い、キッスして浮かれ騒いでいます。希望はありませんでした。でもわたしは恐ろしいほど興奮していました。撮りたいものがなんでも撮れるのです。」(アート・フォーラム71年3月)
アーバス最後のメモです。数ヵ月後に手首を切ります。
生前に写真集が出版されることはありませんでした。
”An Aperture Monograp”と”Diane Arbus Revelations”さらに”Magazine Work”が現在、アマゾンなどから手に入ります。
わたしも昔、写真雑誌に抜粋されたものしか持っていません。今度買おうかと思っています。
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