シェルタリング・スカイ

The Sheltering Sky
1990年
イギリス
ベルナルド・ベルトルッチ監督・脚本
ポール・ボウルズ原作
坂本龍一音楽
ポール・ボウルズ自身、作曲家であるが、ここでは関わっていない。
原作者夫婦の実体験を元にしており、妻の影響で小説も書き始めたという。
デブラ・ウィンガー、、、キット・モレスビー(劇作家)
ジョン・マルコヴィッチ、、、ポート・モレスビー(作曲家)
キャンベル・スコット、、、ジョージ・タナー(上流階級の金持ち)
1947年北アフリカのアルジェが舞台。
戦後間もなくの時代。
グランド・ホテルの近くのバーから始まる。
ニューヨークから来た有閑階級のひと組の夫婦とその友人の当て所ない旅を描く。
そこは、彼らにとっては異界以外の何ものでもない。
漠然と癒しを求めに来たというのが強いて言えば目的であろうが、計画など全くない旅である。
(夫婦関係は、すれ違いと虚無感とストレスが顕著に窺える模様)。
さて、欧米文化圏の人間がこの砂漠で、ハエが音を鳴り響かせて顔にはらってもはらってもまとわりついてくる国で何ができるのか?である。
自分たちの文化や教養が通用するものではない。
何らかの表現が受け入れられるか?
彼らの持っている素養を活かし音楽や絵画であれば、どうであろう。欧米的な形式がそのままで通用するか。
少なくとも主人公たちは、観光ではないが、土地に馴染んだり溶け込む気など毛頭ない。
かと言って、出てゆく。国に戻るわけでもなく、居続ける。
(恐らくその地が気に入ったのではないが、彼らを離さない特有の磁場があるのだ)。
自分たちの能力を発揮してそこで生活しようという気はなく、端から諦観漂う姿で刹那的に退廃的な生活に明け暮れる。
夫婦同士もその親友とも、関係は麻痺してゆく。
夫婦でそれぞれ浮気をする。(ポートとタナーもである)。
価値意識は砂漠の砂のように散り散りに舞い、干からびてしまう。
後に残るのは、何とも名状しがたい生理的なヒリつきと病の苦痛である。
アフリカの自然その圧倒的な美と残酷さの前には、何も太刀打ちできない。
何という光景だろう、、、。
サハラ砂漠。
目の眩む強烈な日光。
深い影。
余りに鮮やかな自然の映像が、ひたすら深まる絶望の色をビビットに濃くする。
坂本龍一の音楽も良いが、現地の民族音楽に痺れる。
これは、麻薬のような依存性をもつ。
ポートが腸チフスで倒れ、キットの看病する二人だけの場で、漸く両者の絆を強く感じ取ることができる。
死ぬ間際に、やっと生の実感を持つことができたのか。
腸チフスでポートを失い、タナーも別行動をとると、砂漠の街にキットは女であるということだけで何とか生きながらえる。
もう顔に表情はない。
アラブの商隊に囲われて生を繋いでゆくが、発狂寸前のところタナーの尽力で連れ戻される。
結局双六で振り出しに戻ったかの如く、アルジェのグランド・ホテル近くのバーで終わる。
最後にポール・ボウルズ自身が出演していて、「迷ったのか?」と彼女に聞く。
凄まじく重く、同時に突き放した救いようもない問いにならない問いである。
彼女はもう地球上のどこにも戻る場所はない。
キング・クリムゾンがシェルタリングスカイに触発された楽曲を作っていた。
実際のポール・ボウルズはタンジールに住着き、現地の音楽収集やその研究・紹介をしていたらしい。