レア・セドゥのいつわり

TROMPERIE / DECEPTION
2021
フランス
アルノー・デプレシャン 監督・脚本
フィリップ・ロス 原作
ジュリー・ペール 脚本
レア・セドゥ
ドゥニ・ポダリデス
アヌーク・グランベール
エマニュエル・ドゥヴォス
レベッカ・マルデール
レア・セドゥだから観た。
そうでなければ、観ない。

「レア・セドゥの~」といちいちつける邦題のセンス、最悪。
やめて欲しい。
それから、長い。長すぎる。拷問に近かった。
恐らく、わたしの体調によるところだろう。
だが、長い。半分で充分。

初老のアメリカ人作家と33歳のフランス人女性(イギリス人だっけ?)、ともに既婚者であるが愛人関係。
この設定で逢瀬の度におフランスらしい軽妙な会話を交わす。
それだけでどこまでも引っ張って行ける魅力が醸せる作品なのだが。
本来はそうなのだが、とっても長く感じるのだ。
レア・セドゥが部屋の詳細を目をつぶって描写するとその通りに部屋が生成されれていたが、、、
それが後に出て来る、カフカが生きた世界を記述したのではなく、彼が記述した世界に生きたとかいう会話に繋がっている。

だが、本に書くために会話や情交したりするのも、その描かれた世界に少なくとも逆照射されるのは確か。
勿論作家はそうだが、そこに描かれた人も。
レア・セドゥはそれを読んで、当時の自分が何であったかが分かる。
確かにただ生きているのでは、そんなことは自覚できない。
何と言うか、いつも気づきというものは怒りと共にある。
そして世界と謂うより環界は、ことばによって生成される。
当たり前のことだが。

このユダヤのアメリカ作家は、執筆用の部屋を持ち、そこで女性と逢っている。
妻は彼の創作ノートを読んでそれを察知している。
この部屋だけでなく、他の場所でも複数の女性と関係を持つ。
それは特に妻との不和と謂うものでもなく、彼曰く「文化的孤独」によるものらしい。
文化的孤独と謂うのはよく分かる。
と謂うより共感する。
別に彼自身に共感する分けでもないが、裁判所で糞フェミニストに吊るし上げられる場面では、わたしも怒りを覚える。
とは言え、この男の書いた小説など読む気にもならない。
それは確かだ。

文化的孤独というのは、わかる。音楽を聴くのも確かに、そんな感情からだ。
このユダヤ作家にとり、それを埋めるのが、多くの女なのだ。
レア・セドゥがひとりいれば充分な気もするがな。
これほど、身体~ことばの強度のある女性はそうはいまいに。
その上で雑多な(と言っては失礼だが)数を求めても逆に希薄になってしまい創作にとっても逆効果とはならぬのか。
大きなお世話であるが。
そう、レア・セドゥ以外の女性の出た分で、うんと長く感じたのだ。
余計な分量に。とは言えカフカについての言説は彼が大學の授業で教えた女学生によるものだったが。
レア・セドゥと二人だけのあの部屋での対話劇でも充分に魅せる作品に成り得ていたと思う。わたしは。
つまり、レア・セドゥの身体~ことばだけで綴っても純度の高い物語は可能であったはず。
兎も角、長く感じた。
とっても長く感じた。
他の女や場面は、余計に感じた。
U-Nextにて