ピカレスカ Novela Picaresca

Novela PICARESCA
2021
倉田健次 監督・脚本
広澤草 、、、ヨーコ(古本屋店主)
結城貴史 、、、シライ(小説家)
杉本ミホ 、、、カナエ(看護婦長)
YOUNGBO、、、キム(韓国人留学生)
今日も30分ショート映画で。
田舎町にあるアンティークな図書館みたいな古本屋である。
ほとんど趣味でやってる本屋という感じ。

ヨーコとシライとの間の「間」が何とも謂えなかった。
確かに適切な間であったと思うが、自然な間というより文学を意識した間に思えた。
それとして、分かるのだが。
チューリップの色で返したり、も。
間といい、セピア調の景色といい、何とも作り物的な箱庭的な御伽噺を感じる。
この雰囲気が終始どうにも居心地が悪い。
ただ、ヨーコと韓国人留学生のキムが話す韓国語の意味が分からず、何て言ったのと聞くカナエに一切何も語らないヨーコの姿には共感した。

シライが些細な日常を描写した小説では売れないからピカレスクものを書くという。
作家に憧れを抱いているらしいく、ヨーコはその手助けを出来る限りやりたいと思う。
題材は「バスジャック」で行くという。
ヨーコは、それからというものそれに関する資料に当たるがピンとこない。
それで実際にバスジャックをやってみることにする。
普通やるか?やらなくても想像力でリアリティある創作をするのが小説家である。
そのお手伝いとは言え、ホントにやっては身も蓋もない。というより意味もないはず。
100円以上の本は買わない常連の看護婦長カナエとバスで一度抗議をしたことのある韓国人留学生のキムを仲間にして3人で決行することにする。この辺からワザとらしいコントを観る気分となる。
そして3人で畑からバス停に向かって勢いよく走って乗り込み、試みるが上手くいかない。
何度かトライするも腰砕け。
その有様を並べて筋立てて行き最後に(何らかの形で)決めるという在り来たりの手法だ。
別に流れが分かりきっていても構わないが、この発想とやり方自体が稚拙で現実離れし過ぎ。
それからまだ陽のある時期から3人で集まり実施しているが、そんなに彼らは暇なのか?
どうも真面目に付き合う気になれない。
しかもゲーテやニーチェの格言を古本屋の主と客の作家との噺に絡めたりするが、それがしっくりくるような物語でもない。
間が思わせぶりに思えて来る。
単に勿体ぶっているような。
色調が嘘くさくて、、、。

そして何とも、キムが韓国に帰るので、今日こそ決めようとやったバスジャックが成功する(運転手が承諾する)。
丁度そのバスには、暫く店に来なかったシライも都合よく乗り合わせているではないか。
運転手がいいですよ、何処に行きます?と聞いて来るので、綺麗なところお願いしますと、キム。
景色の良いところで停車して、運転手とキムとカナエは景色を観ながら語り合い、、、。
(毎日同じところを回っているのが飽きたってそれが仕事なんだから。少し自分なりの工夫が出来るところでタクシー運転手にでもなれば。発想が幼稚過ぎる)。
一方、ヨーコは作家から、何故毎週本屋に来ていたのか、もう来る必然性がなくなったのかを知らされる。
もうこれで、シライともお別れである。
バスジャック班も解散となった。肝心の小説は出来るのだろうか。

最後にパンを抱えて店に帰ると、黄色いチューリップが本屋に置かれているのを見て必死でバスに走り乗り込む。
(このチューリップは以前、花を必要としていたシライに渡した白いチューリップのお返しだ。恐らく難病で長い闘病を続けていたという彼の妻へのお見舞いに使ったのではないか)。
シライはバスには乗ってはいなかった。
しかし彼女はもう泣かないでパンを食べることが出来るようになった、で終わるが、、、。
そもそも泣きながらパンを食べたのは、幼少の頃クリスマスの前日に母がパンをあてがい彼女を祖母に任せ出て行ったトラウマに帰するところであろう。
それが今回のこの一件で吹っ切れたというのか。
どういう回路でそうなったのか、理解不可能。

キャストなどを調べている時、監督のメッセージが目に入ったので引用を。
「人生の正体を知るには私達は何を行えば良いのか?普通の人間が求めた「悪徳(ピカレスク)」の姿から、観客の皆様にも今一度人生を真正面から見つめて頂けたらと想い、本作を描きました。」
そんなにたいそうな内容のものであったのか。
これを観て人生を正面からとらえ直そうと思える人って、どんな人?
AmazonPrimeにて