さて
文を書くことは、手放すことでもある。
書いてもなお残るようであれば、恐らく書き足りていない。
「毒親考」を整理して書くに当たり、、、
その動機を高めるため、(書くための)オリジナルデータとも謂える覚書を数名の大変信頼できる知人に送った。
まあ、大概の人が見れば、絶句するような(遠ざけたい)重い内容であったはず。
非常に生々しい一次データである為、通常、人に見せるなんてありえない。
だがそれを敢えてした。
自分の抱える内面(原質)に近い次元のものであるからだ。
その次元での共有が可能と判断した人に送った。
それを基に何を書いても、そこに戻った批評がしてもらえる。
整理した文章で一般性~作品性を高め、数日間、書き進めてみた。
すると、何というか自分の記憶がいや意欲が薄れてゆくのだ。
正確ではない。
書くこと自体が薄れてゆく。
いい加減な気持ちではなく、どうでもよくなってゆくのだ。
数名の方に送ったオリジナルデータはわたしにとってこの上なく重要なものであり、今もまだ生々しく確かなものなのだが、、、
それを基に、専門用語などを取り込み読みやすく整理して書き始めたものは、書くうちに自分から離れて逝った。
そういうメカニズムなのかも知れない。
オリジナルデータを病院の待合室でiPhoneで打ち、(しっかり読み込んでくれる)人に送った時点で、ひとつのプロセスは終了したのか。
最も根源にある体験を理解してくれる人に託したことで、更に薄めて広げることもない。
そういうことにした。
もう今やり始めたことを継続する必然性が失せてしまったのだ。
これをもって、この件は手放したとする。
わたしは、自分を取り戻したのか。