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GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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祈るひと

inoru001.jpg

1959年

滝沢英輔 監督
田宮虎彦 原作
三木克巳 脚本

月丘夢路、、、三沢吉枝(母)
芦川いづみ、、、三沢暁子(娘)
金子信雄、、、庫木申一郎(不動産屋、母の愛人)
小高雄二、、、蓮池弘志(官庁勤めのお見合い相手)
下元勉、、、三沢恭介(父、国文学者)
宇野重吉 、、、佐々木教授(父の親友の国文学者)
木浦佑三 、、、佐々木篤(佐々木教授の息子、医者)
沢本忠雄、、、赤木秀夫(学友)
高田敏江 、、、西島喜代(暁子の親友)
香月美奈子 、、、白石ミツ(暁子の親友)
信欣三 、、、三沢浩介(父の叔父の医者)
東恵美子 、、、三沢たか子(病死する三沢の妻)
奈良岡 朋子、、、清水看護婦(伯父浩介のもとで働く)
内藤武敏 、、、小久保先生(学校の恩師)


いのちの朝」をつい先ごろ見たばかりであるが、また芦川いづみ主演映画である。「いのち、、、」のほうでは、芦川いづみと宇野重吉は愛娘と頑固な画家の父の関係であったが、こちらでは父の友人の国文学者であり彼女はその先生のところでバイトをしている、というもの。
宇野さん国文学者がまたピッタリなのだ。本当に本の友達感が半端ではない。
こちらはとても愛想の良い学者である。
こういう何というか、良い雰囲気をもった人は色々な面で得だと思う。
いずれにせよ、悪くは取られない。
この先生のところでバイトなんて素敵である。わたしがやりたい。

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当時の学生は喫茶店、いや「歌声喫茶」というものか、に行くと皆で意気揚々と唄い出すことも分かった。
(この年代の映画をいくつも見て来てのことだが)。
凄い歌を唄うので、圧倒される。
ここでは、「カッコウ」(先生のお宅の集会での歓迎の曲)や「カチューシャ」など、他の映画では「青い山脈」とか、「私も唄うわ」とか言って輪唱で歌ったりする。
とっても元気が出たわ、と言うんだから、よいと思う。
確かにとても新鮮でパワーを感じる。生々しいのだ。

今度、何かでこれ使ってみたい。
かなりのインパクトだ。勿論、協力者(賛同者)なしにはできない芸当であるが。
サンプリングやリミックスを多用したシーケンサーによるハウスミュージックにさして魅力を覚えなくなってきた今日この頃(もはや環境音だが)、どんなものだろう。
ともかく、カラオケでなければよい。

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高名な国文学者を父に持つ大きな屋敷に住む娘であるが幸せを感じることは少なかったようだ。
家庭そのものに愛情がなかったのだ。
噺の内容的には芦川いづみが出ずっぱりなのだが、、、
短い尺なのにかなりの分量で回想シーンが入って来る。
幼い時期からの様々な人との関係性が描かれるのだが、かなりの割合なのだ。
戦争の終わりごろ、医者の叔父のところに疎開するが、親元を離れて過ごすこの地が唯一楽しい記憶として残ると謂う。
彼女は周りの人達にはかなり恵まれていたことは分かる。だが充分に孤独で寂しいことは察せられる。
大人になってからは、暇で趣味の縁談をしょっちゅう持ってくる叔母も大変ウザい。
回想に出てくるのは小学生時代だから代りの子役だ。この子も必然的に出番が多かった。
(子役独特の優等生的演技が目立った)。

「郭公ともず」という父のエッセイはすごみがあったが、結婚当初の誤解を一生引き摺って生きてゆくというのも、夫婦もそうだが娘としたらたまったものではない。とても冷え切った家庭生活であったようだが、娘が可哀そうだ。
父が登山が大好きでしょっちゅう学生を連れて行ったということなどずっと知りもしなかった。
お互いの想いを打ち明け相談し合い思いやるような空間はなかったのだ。居場所が無いとは、これを指す。
夫婦でぶっちゃけた対話をするには、お互いにプライドが高すぎたか。
芦川いづみによる娘の両親に対する反感と葛藤が品よく表現されていた。
小鳥の死んでゆくシーンが比喩的にも描写されてゆくが、これも「郭公ともず」に持ってゆくには必然的な線であったか。
(最初、小鳥を出すのはちょっと安易な感もあったが)。

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しかし国文学者の父がずっと実の娘を他人の子と思い込んだまま死んでいったというのは、、、
ひとつの思いを動かすことの難しさというものをしみじみ感じさせる。
そう、いったん思い込んだら動かしがたいモノなのだ。
こころとは、厄介なものである。
小高雄二扮する横柄で自己中な見合い相手と、もうすんでのところで結婚してしまおうと思いつめたのも、実に厄介だ、こころというものは。
これは今の場所からの逃避、そして親への当てつけ以外の何ものでもない。だがそれを合理化、正当化もしてしまうのだ。
ここは、宇野先生の医者である息子とその婚約者のアドバイスは大きい。それで軌道修正し自分を見出す。

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結局、友に恵まれたこの娘は強い精神を持ち、逞しく自立して行く。
学友の男友達や父の友人の医者や学者、そして同じ年頃の暖かい女性の友達など周囲の支えは、とても大きい。

「理解しあい、愛しあい、それがお互いを高めあっていくような人」
今ならこういう相手にも引き寄せられるだろう。
「明るい灯を点せる家庭」か、、、。

雑踏の中、凛々しく歩いてゆく姿が頼もしい。
吉永小百合を少し儚げにしたような素敵なヒロインだと思う。





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ショックウェーブ

Shock Wave001

Shock Wave
2020年
オーストラリア

2020年8月4日午後18時、ベイルートの港の倉庫が突然大爆発。
その爆風のカットが次々に映し出される。
よくこれだけの生々しい様々な角度・局面からの大爆発の瞬間と衝撃波の映像が残っていたものだと驚く。
病院やマンションのバルコニーなどで直接、超音速衝撃波を食らい吹き飛ばされる人や物がしっかり映っているのだ。
このドキュメンタりーは、その爆発の威力と被害の甚大さを伝えることに成功している。
そして被害者の悲痛な叫びと困難を極める状況も伝えられている。

Shock Wave005

しかしそこまでである。
何故、大量の硝酸アンモニウムが港の倉庫に放置され続けたのか。経済状況と怠慢だけが原因なのか。
被害者、それもレバノン滞在のオーストラリア夫妻の悲劇を中心に伝えられており、そこから現地の人々の耐え忍び復興に向かう姿も見えては来るが、、、これは彼らの訴えるように明らかな人災であり、その糾弾こそ被害者の救済と並行してなされなければならない(逆に銀行を止められたりして救済政策がなされている様子すらなかったが)。
倉庫の管理関係者、当局、政治家へのインタビューは何故ここに収録されないのか。
TVニュースすら映されていないが、これを国としてどう捉えどう対処して行くのかも見えてこない。
まるで無政府状態の土地で起きた大惨事と言う感じなのだ。
(しかし実際レバノンとはそういう状態なのか)。

Shock Wave004

ジャーナリストとしての、責任追及の具体的な取材がなされていない。
現地の政治活動家が二人は出てきたが、実際どのような具体的な働きかけがなされているのか、同行取材でもよいし、そちらの動きも見たかった。
マイケル・ムーア監督ならどう出るかとちょっと考えてしまった。彼ならまず体制側に食らいつくと思う(場合によってはアポなしで)。

この大事件、リアルタイムでは、ニュースを見ないので知らなかったのだが、207人の死者、6000人以上のケガ人を出し、30万人以上が家を失う大惨事であったという。半径2キロ圏内の建物は、人の住めない壊滅状態であったと。
確かな原因かどうか、まだはっきりしないが、倉庫に空いた穴を直す溶接作業で引火した爆発事故と言う情報も見られた。

Shock Wave002

オーストラリアメディアがまず取材したオーストラリア夫妻はこの事故の起きる前に帰国しているはずであったが、「コロナ」の影響でロックダウンとなり、どうしても飛行機が取れなかったという。確かに港町周辺は経済的に豊かな人や外国人ビジネスマンのマンションが多いように思えた。運悪く彼らが真っ先の被害者となった形である。
特に悲惨なのは大変可愛い幼い息子を胸に刺さったガラス破片で喪ったことだ。生前の様子がビデオで流されるものだから、悲痛極まりない。
「絶対にあってはならないことは、子供が親より先に死ぬことです」という父親の言葉は無限に重い。
(この爆発事故自体も絶対に起きてはならないものであったのだが)。
ここで何ともしがたいところは、彼らのこの足止めこそがコロナ禍によるものだということ。
つまり事故自体は政治家の無能と無責任によるものであってもそこにコロナという自然界のフィルタもかかってしまったというところだ。勿論、コロナ禍は多分に政治・行政問題でもあるが、難しい複合的な悲劇でもある。これについては運も絡み、帰国後ずっと夫婦の悔恨の情は燻ぶり続けることになることだろう。

Shock Wave003

レバノン現地の人でインタビューを受けたのは、夫はカフェのオーナーであり奥さんはスタジオを構えたヨガインストラクターである夫妻だ。
この夫妻も仕事場も自宅も吹き飛ばされご主人は大怪我を負ってしまった。
今後の家の経済問題に悩んでおり、政府は頼りにできない様子が伝わる。大家はこのまま住み続けてくれと言って慰めてくれるが。こういう時はそうした配慮や励ましが何にも増して利くものだ。
彼らは世界のどこの国が住宅地近郊に危険な爆発物を放置するだろうかと不信感を新たにしていた(爆発の責任追及も期待できないという様子)。
しかし夫は痛々しい身でありながら早速新しいガラスを仕入れカフェを復活させようとしていた。

ダイバビングインストラクターは、海に船で出ている時に、港の倉庫の異常に気づく。奇妙な白煙が上がっているのだ。
そして暫く後に凄まじい大爆発が起こる。波にも影響が出たという。
それでも謂わば、高見の見物的な位置にいたことは確かだが、その地獄絵図は海上からしっかり見てしまう。
陸の友人にすかさず電話をして安否確認をしたという。
こういう人は、何というかちょっとだけ運の良かった人に数えられるか。

そして爆発当日に結婚式を盛大にあげようとしていたカップルである。
このカップルはかなり上流なのかもしれない。港(倉庫)近くの高層マンションに立派な新居も構えていた。
まさに夫婦でカメラマンの指示に従いよい表情を作っているところに、凄まじい衝撃波が二人を襲いカメラの前から瞬時に消え去る。
だがこのカップルはタフであった。数時間後に縮小版の式をきちんと挙げているではないか。
この不屈な精神力がこんな時は何より肝心なのだ。わたしも常にパーシビアランスを抱いている。NASAの火星探査機の名前でもある(笑。
今は骨組みだけとなったビルの新居に立ち、新妻はこの距離感よと倉庫を指差し取材スタッフに伝えていた。
この国には希望が無いとカップルが口を揃えて謂う姿には、あっけらかんとした諦観が漂っていた。

兄、いとこ、夫の3人が消防士で全員を失った妻が気丈に語っていた。
「頼もしい男たちが3人もいたのに、今は誰もいない」この喪失感はどれほどのものか。
この爆薬の原料でもある硝酸アンモニウムが倉庫に2,750トン6年間も何の対策も講じないまま放置されている事実を地元の消防署にも伝えていなかったという。もし署長がこれを知っていれば署員をむざむざ死なさずに済んだと悔やむ。送り込んだ10人全員が死亡である。これは犯罪以外の何ものでもない。

Shock Wave006

だが、ここに漂うのは諦観である、、、カフェのオーナーも将来の希望と言うより生きているのだから始める他ないという感覚なのだ。何というか、生きるということは、こういうことなのだ。




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メイドインアビス 深き魂の黎明

MADE IN ABYSS011

MADE IN ABYSS
2020年

小島正幸 監督
倉田英之 脚本
つくしあきひと 原作
MYTH & ROID (Kevin Penkin編曲)エンディング「FOREVER LOST」主題歌

     [声
リコ、、、富田美憂(探窟家、白笛になる)
レグ、、、、伊瀬茉莉也(少年型ロボット、記憶を失っている)
ナナチ、、、井澤詩織(成れ果て)
ボンドルド、、、森川智之(イドフロントで研究を進める白笛、黎明卿)
プルシュカ、、、水瀬いのり(ボンドルドの娘)


やはり最高の作品であった。

声優の力がメイッパイ出ていた作品だと感じた。
特にセリフ以外の息遣いとか、咄嗟の叫びなど、身体性~生理的な感触もダイレクトに来たという印象が残る。
やはり実力のある声優が関わると物語の次元も違ってくるものだと認識する。

地球の秘境といえば、まだ深海が残っているが、ここは地下世界であり深界となる。
前作「劇場版総集編メイドインアビス 旅立ちの夜明け・放浪する黄昏」でも圧倒的に想像豊かな地下世界が描かれていたが、ここでもそれには違いないとはいえ、一つの層だけにとどまった設定であったため、前作ほどのバラエティ~多様性は見られなかった。

MADE IN ABYSS012

この話はアビス深界五層において、宿敵と主人公たち三人がチームプレイで死闘を繰り広げてゆく章となる。
とても悲壮でこころの痛む(特に臍の痛む)闘いではあったが、希望を残して終わったといえるか。
主人公たちは思春期前の子供たちであり、深界五層で今回出逢う少女プルシュカもリコと同年くらいのボンドルドの娘であった。
いよいよ異様で際立つキャラクターがそのボンドルドという存在であり、ある意味彼を中心に物語が動いているともいえよう。
どうしても注目せざる負えない存在なのだ。彼に絞って少しばかり記しておきたい。

ボンドルドは、黎明卿とも呼ばれ「なきがらの海」にある「イドフロント」という前線基地を築いた探窟家であり研究家でもある。
探窟家として最も高い能力をもつ最高位の「白笛」の位に位置し、人の体から生成された自分にしか使用できない白笛を持っている。
これは伝説の探窟家でもあるリコの母と同じ位だ。

MADE IN ABYSS016

ボンドルドは深層の遺物や情報をわがものとして使いこなし、深窟技術を高め不可侵だったルートの開拓を行い、遺物から武器開発を進め非常に高い戦闘力を誇る。(それにしても遺物というのが凄い。極めて異質で高度な科学文明が随分前に存在した証である)。
ボンドルドは仮面の下の人格が窺い知れない、非常に慇懃無礼な態度で理性的気に相手に接する。
そして同族と分かる仮面とスーツを身に着けた従者「祈手」~アンブラハンズを引き連れている。
彼らを従え彼のいう「人類の発展への貢献」~愛のために残忍な人体実験をなんの躊躇もなく繰り返してゆく。
彼による人命の犠牲と深界の環境破壊は凄まじい。
しかし超然としていて絶対的な力を得るにあたり、新たな夜明けをもたらす男とも称される。

闘いに敗れても他のアンブラハンズがその仮面を被るとそれがボンドルドと化す。つまり「彼」は不死身であり特定の個体ではないのか。このからくりは精神隷属機(ゾアホリック)と呼ばれる特級遺物によるもので、自分の記憶・知識~意識を他の個体に移す働きによるものなのだ。これこそ究極の武器であろう。実質不死身であることは最強を意味する。
(彼の所持する白笛は自分を供物として提供して作ったものであり、この技術なしには手にすることは不可能であった。血は薄れていますが彼女の父親ですとプルシュカを指して語っていたのはそういった経緯から来るのか)。

MADE IN ABYSS013

上昇負荷の克服手段の人体実験もその一つで、ナナチはその犠牲者でもある。
またカートリッジという上昇負荷を無効化させる装置であるが、子供から脳と脊髄と最低限の臓器以外の全てを削ぎ落として生きたまま箱詰めしその子に肩代わりをさせるというもの。その子の死と引き換えの安全装置である。
自分なりの人類愛とかいった理念は揺ぎ無くもっているが、そのために個々の人間の尊厳など全く意に介さない矛盾。
ハボルグのいう「得体の知れない何かが仮面被ってヒトの真似事をしているような人物」とは言いえている。
これは一体どういった心性によるものなのか。
実はゾアホリックで意識転写をする際に新たに自分の考えをそこに加えてゆくことが発狂に繋がるという。
彼はそれを続けてきたがために、一切の反省的思考や他者に対する感覚及び共感性そして罪悪感を失っている可能性は大きい。

ボンドルドは、アビスの強力な呪いを「祝福」とも称していた。
多くの子供たちと父子のような絆を作り、彼らを次々に殺してゆくことで祝福を受けていたという。
「慈しみ合う心こそがヒトを家族たらしめるのです」このくだりはわたしも全く同意するところだが。
ナナチは彼の行った実験の犠牲者であるが、ボンドルドは彼のことを愛おしく思って接しており、ナナチ自身もこの境遇になったことで親友を得て冒険に出る運命を得たとも言え、かなり複雑な気持ちを抱いている。
ナナチとリコとレグの連係プレイで自分が倒された際にも彼らの健闘を何度も称えて息絶えていった。
(直ぐにゾアホリックで転生を図るが)。
何というか、目標や目的の達成に対する手段を択ばぬ行動を何より重視してきたことからも自分の身が滅ぼされようとも見事にやってのけた者を褒め称えることは彼にとって矛盾のない一貫した態度だ。
不死身として生き続けるということは、結果的に大変観念的になってしまうところはあろう。
(身体性が抜けるということは、狂気を意味する)。

MADE IN ABYSS014

終盤、カートリッジに詰め込まれたプルシュカが死の際にリコを強く想いながら息絶えたことで生まれた白笛をもってリコは白笛の探窟家となる。その笛はリコだけが使えるものだ。つまり彼女は深度制限のない身となった。
これで3人の(プルシュカの分身である白笛と彼女のペットも含む)冒険が加速するというもの。

MADE IN ABYSS015

次作は最終章となろう。
とても楽しみであるが同時に不安(怖さ)も大きい。





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いのちの朝

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1961年
阿部豊 監督
須藤勝人 脚本
武者小路実篤 原作

宇野重吉、、、吉元小次郎(画家)
芦川いづみ、、、吉元冬子(小次郎の次女、保険会社OL)
高野由美、、、吉元純子(小次郎の妻)
佐野浅夫、、、小田新二(春子の夫)
小園蓉子、、、小田春子(小次郎の長女)
清水将夫、、、村野勇彦(小次郎の親友の画家)
内藤武敏、、、沢辺泰(小次郎の弟子の画家、冬子の恋人)


この映画はモノクロで救われている部分が大きい。
実際のジャガイモの色調~彩度がはっきり分からず明度の段階に還元されていた方がこのように重みが出たと思う。
このジャガイモに主人公の老境の画家はなぞらえる。ジャガイモの持つ質感そのもののような男なのだ。

頑固な老画家などやらせたら宇野重吉の右に出る人はいないだろうな、と思った。
気難しいのに根は率直でとてもシンプルな人でもある。
ちょいとやさぐれた雰囲気がまた良い。
芦川いづみという人は大変人気があったそうだが、清楚で普通の感じのする好感の持てる女優であった。
ほぼ、この二人~父・娘の間の葛藤と慈しみのドラマがぶっきらぼうに描かれてゆく。

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小振りのカンバスに静物や風景ばかりを描いており、発表~展示など一切しない。
それはそれでよいのではないかと思うが、家計が立ち行かないのだ。
その為、冬子が就職することに。保険レディである。本人も仕事を気に入り張り切っているが。
驚くべきことは、娘があまりに健気で、父を大切に思い尊重し尽くしていることである。
うちと比べて天と地ほどの隔たりを覚え愕然とした。昔だからとかいう問題を超えている。昔だって思春期もあったはず。
親父がずっと家でブツブツいったりしてジャガイモばかり描いていたら娘たちは普通どう思うだろう?
うちであれば二人の娘がテロに出るはず(すでにコトバのテロは働いているが)。

わたしは娘たちの為、掃除、洗濯、買い物、料理、提出書類書き、持ち物揃え、自転車の空気点検、塾の送り迎え、処方された薬を貰いに行ったり等々毎日、あたふたやっているのだが、この映画のジャガイモ描いて威張っている父親みたいに尊敬とまでいかなくても多少の敬意や労りすら全く得られていない。亀とメダカはわたしがいなければ、生きてはいけないのだが、、、その世話も全然せずに、、、何だと思ってるのか。

おい、ジャガイモはどこだ?そちらの棚ですわ、お父様。早く持ってこい!とか、わたしから見れば、あり得ない関係性である。
ここで書いてもしょうもないが、、、。

わたしにとってジャガイモは芽をしっかり取り除いて、カレーかシチューの料理以外扱ったことはない。
というより、わたしはジャガイモは描かないできたような気がする。モチーフとしてはこの上なく渋いが。
いやそれより毎回、大変なのは玉ねぎを細切れにしてハンバーグを作る時だ。
もう涙が出て来て、あれはいつもキツイ。
、、、何の話だったか、、、

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ともかく絵を売る気もなく40年間にわたり自分の描きたい絵を描きたいように描き続けてきた頑固な画家を父に持った家族が何とか売れそうな絵を描かせてみたいと思い色々と画策する。
この画家、余り他人とは思えない節がある。わたしにも40年間好きな絵を頑固に描き続けてきた絵描きの友人がいる(笑。
(別に彼は経済面で絵を売る必要もないし、何より売る気なんて微塵もなく、人が借りていって返さないと寸分たがわぬ絵を描いてしまっている人だ。要するに絵は誰にも渡したくない)。
絵で商売する気が無い画家はいる。生活に困ればそりゃ売らないとどうにもなるまいが。
この映画の場合、微妙ではある。娘の稼ぎだけでは、娘が嫁いでしまったらそれまでである。
やはり売る方が~売れた方が良いか、、、。

ということで、悪知恵の働く姉が妹の冬子をモデルにして、でかい絵を一発描かせようと企む。父の親友の売れている画家に絵画展も裏で準備させている。なかなかのプロジューサーである。
その一般受け画家の親友が質的にも良い絵を描き始めたり、次女が思いを寄せる破門した弟子がイタリア・ビエンナーレに日本代表として作品発表したりするに及んで、流石に自分も6号くらいにジャガイモばかり描いてる場合ではないか、とか思ったりしているタイミングで長女が冬子をモデルに大きな絵をお描きになりません?と向ける。
それに直ぐ乗る頑固者は、ポーズを決めてなんやかんやと冬子に注文付けながらまずF12にエスキースを描く。
普通ならそのエスキースを隣において100号を描くだろうと思うのだが、それを横においてもなお、冬子をその通りの場所設定で立たせて顔の表情を作らせ何時間でもポーズを取らせて描き続ける。
冬子は何度かポーズや表情に文句をつけられ泣いたりする。それは健気に我慢してモデルを続けるのだが、かつての弟子がイタリア行きの決まったところで彼女にプロポーズしてきたところ横暴にも勝手に断ってしまうことで、流石に冬子も切れて姉夫婦のところに転がり込んで怒りをぶつけたりもする。
それ以降、ポーズにも気が入らず、父は怒って100号カンバスを破ってしまう。癇癪持ちの子供みたいだ。
勿体ない、、、。カンバスはまたすぐ買ってくる。姉夫婦が裕福なのだ。冬子の就職先も義兄の取り計らいによるものだ。

inochi004.jpg

それでも弟子の旅立ちを空港にひっそり見送りに行き、父は冬子とまたひと頑張り制作を続けようということに。
朝の短い光の中で描くという制作現場は、最高に思えた。
まさにその場所であれば、いのちが描き出せよう。

そしてついに絵は完成を見る。何で雨戸をちょいと開けて顔を出したシーンが良いのか。
かなり今一感漂う絵なのだが、特に画面に占める雨戸や家屋の面積が少し大きすぎると思うのだ。
まあ、物語の進行の上でそれには目をつぶることにする。
親友が全てお膳立てしてくれた個展は大盛況で、100号は勿論、小さなジャガイモ群も売れまくる。
(もう少し親友や陰で支えてくれた人々に感謝すべきではないか、と思うのだが)。

いくら芸術至上主義の画家であっても絵がドシドシ売れると気をよくするものか、、、。
機嫌がよくなり最愛の娘と破門したかつての弟子との仲をニコニコ認めてしまう。
何でも肯定的になるものか。
しかし肯定的になる気分というものは、良いものだ。
わたしもそんな気持ちを味わいたい。うんそれはよい。これもよい。とかニコニコしながら言って歩きたい(笑。

「イタリーに手紙を書きなさい」「ありがとう、おとうさま」娘は満面の笑顔でスキップして去ってゆく、、、。

inochi002.jpg

ともかく、仲の良い父娘で羨ましい限り。
というより、娘がああなら、どれ程楽か、、、。




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小さな情景展 一口大コメ  その3


2018
「コンサバトリー」
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「湘南幻想青大将」(2007)や「湘南幻想ワニ園午後」(2010)の流れをくむ絵である。ピアノがやけに小振りで中央テーブルが大きくてゴツイ、ちょっとポール・デルヴォー空間でもあるが、長閑な時間の流れが窺える。
日差しと柔らかい菫色の影が気持ちを鎮静させる。こういう絵は描いていても心地よくなるもの。
ここでもポイントは、黄色だ。黄昏の色でもあるが、トワイライト・ゾーンの色でもある。こんな空間、欲しいものだ。

2018
「緑園都市」
sabu0018agreengardencity2018.jpg
ゴッホの「夜のカフェテラス」を咄嗟に思い浮かべてしまった。黄色の独特の筆致からであろうか(ゴッホのような盛り上げはない)。
雨降りの夜景の雰囲気~濡れた煌めきがこの黄色のタッチでよく表されていた。佐橋氏も黄色の画家である。緑の森をよく描くがそのバリエーションとグラデーションは青に対する黄色の絶妙な混色次第で決まる。
お約束の電車も緑と黄緑の4両編成で黄色いライトを放ちながら走って来る。これまでで一番速い!

2019
「SunSetTown」
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「緑園都市」と同じ質感である。黄色~トワイライト・ゾーンの刹那。SunSetTownというが、尋常ではない。
滝みたいに道路が上から下へ落ちているこの構図には驚き、よくよく見なおしてしまう(笑。
高架橋を水平に列車(蒸気機関車)が走ってゆく。その対比からも、この道路の角度は凄い。遊園地のアトラクションみたい。
この地形では画面上方を登ってゆくゴンドラをわたしは選ぶ。あの道を登る車は気の毒だ。

2020
「TeaTimeInEnglishGardern]
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繊細で緻密な黄色から緑~深緑へのグラデーションが、安定した構図の広がりのなかで、何とも心地よく息づく。
敢えてどっしりとした高架線を中央に置き、その下方にほぼ左右対称に扇型に広がる池を配する。
最初、南禅寺水路閣みたいな水道橋かと思ったが、彼はここにも可愛らしい蒸気機関車を玩具の様に走らせてしまった。
違和感はない。その方が安心できる。絵のサインに等しい。遠くの緑の山から一番手前のテーブルまで、見事な調和と統一感でまとめられている。ここで是非、お茶をしたい。

2020
「農林総合研究センター」
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もう緑は名人芸、いや名匠という感じで、これだけで魅せてしまうが、上からはキングサリみたいな藤に似た植物が垂れている。
まさに緑三昧。
そこに白がポイントとなる。しかしこの白は目立ちはするが強い主張や方向性は感じさせない。
誰かの迎えを待っているようにも思える白。緑のなかの秘められたドラマ、、、。汽車に出番はなかった。

2021
「TeaTime]
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緑の”TeaTime”だ。恐らく毎日これに近い日々を送っているのだろう。外に張り出したガーデンテーブルみたいな開放的な場所は大変オシャレで、羨ましい限りである。コンサバトリーとは繋がりはなく別のコーナーであろうが、こっちでお茶したり、向こうで花に水やりしたりも良いものだ。ここから見やる緑の多様性も充分堪能できる。特に遠方の緑。とても詳細で濃い。
これは絵画である。一つの画面に沢山の固有時~場が活き活きと共存して響き合っていたらより楽しいではないか。

2021
「八幡山の洋館」
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この会場は、この外観で決めたそうだ。ピンクの外壁なのか。庭の青、赤、黄との調和も見られ、、、かなり可愛らしい場所だ。
O君の曲もピアノ生演奏で聴くことが出来る大変贅沢な時間が過ごせる日時が設けられている。
では、まだまだごゆっくり、、、。




佐橋氏が初期作品(佐橋前史)を加えることを検討しているとのこと。
決まり次第、ここでご紹介したい。





小さな情景展 一口大コメ  その2


2011
「世田谷線に乗って」
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長閑な光に溢れる早朝、電車がいつもの時間にホームにやってきて、線路を渡る少女はそのまま乗り込むに違いない。
「おはよう」と声に出さずとも、何気なくお互いに小さく手を振りあう。そんなフラジャイルな関係性。
こんな些細な日常が途轍もない宝モノとして晶結するのだ。それを誰よりもよく知る画家である。
道端の車がやけに小さいことからこの路線も特異な時間系に属しているのかも。彼の絵は油断できない。

2012
「夏休み」
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次の世界に一歩踏み込めず佇んでいる時間~「夏休み」といったテーマは、リキテックス紀のものだ。
この薄い向こうの世界は額縁で仕切られているかのよう。再びその境界線に戸惑いとどまる地層に出逢う。
地続きに見えるのはマグリッド的なトリックか。それはインターフェイスの悪夢。
イデア界と現実界の狭間にも思えてきたりするとちょっとドキッとする。

2012
「スカイツリーと華厳」
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スカイツリーを軸に、飛行船の飛行の線、鳥の飛翔の線、「華厳」の走行する線、煙突の煙のなびく線、暫し停泊している屋形船のこちらに向かう線、の各線が誇張された放射状のパースペクティブの構図を作る。更に画面の上下がほぼ半分に黄色と緑に分割されている。空を漂う系と水上を漂う系との質=色の差であるか。スカイツリーが中心を左にズレているところが、絵の力学において上手く全体をまとめている。無意識的な平面の正則分割的構成ではなく、意図的で意識的な幾何学的構成に作家的意欲を感じる。

2012
「窓辺の花」
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取り敢えずの彼の静物画タイプの集大成的な絵であろうか。勿論、このような絵が今後も描かれるのは想像できる。
初期の絵に一見、内容~要素構成が似ているのだが、空間の奥行きと空間自体の質量がいや増しに増す。
彼の絵には反復が目につく。テーマが同じでもその世界は徐々に自発的に破れ外へと解放されてゆく。
人が反復によって生きていることに対し、彼はとりわけ誠実である。

2013
「おめで東京タワー!」
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懐古的で回顧的な意匠だ。昔からの拘りをまとめてもう一回派手に描いてみたい、という欲望~快楽に身を任せてやっちまった。
これまで登場した多くの要素たちをセットして、スイッチを入れた途端に起きた大騒ぎ。キッチュなダイナミズム。
「わたしは趣味で生きてます」と以前騙っていたが、画集の表紙にも良いのでは(笑。
彼が誰であるかが分かりやすい絵と言えよう。必然的にジオラマを要請してしまう作品でもある。

2015
「江の島シーキャンドル・ハワイアンセンター」
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江の島は彼の拘りの場所のひとつ。特定のセンターであろうが、お得意の箱庭形式で決める。
好きなもの楽しいことを詰め込みたい。更に3D模型にも移行したい欲動が、この俯瞰可動的構図より伝わる。
この視座から、ジオラマもいいですね~と画策する顔が容易に浮かんでくるではないか。だが、ひとつ、、、。
絵の方が空間の歪みの描写は圧倒的に自在である。しかも空間の歪みが好き勝手な楽しさに還元された絵を他に見たことがない。ボスの絵にも空間的歪みは見られない。佐橋氏の場合、形式がほぼ完全に内容化している。その生理が意図的に無意識に作品を量産してきた。

2016
「StarDustNight」
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横浜の風景のファンタジックな変性か。というよりこの照明からして、彼と環界との間に生成された薄い煌びやかな街なのだ。
インターフェイスに触れるには、こちらもアルタード・ステイツにあることが必要か。きっとそうだ。高級な酒でも一口吞んでみてはどうか。稲垣足穂の小説にある「薄い街」か細田守監督の「渋天街」な形で潜む余剰次元の街ではないかと思いたいほど薄い街なのだ。




明日、最終日に続く。




小さな情景展 一口大コメ


1979
「夏の午後」
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この出で立ちの男の目撃される最後の絵であろう。
彼が去って佐橋氏の絵が本格的に始まる、記念碑的(前夜的)な作品。
(男は消滅したのではなく、絵からは退きどこかで出番を待っていることはお忘れなく)。
静謐に平面的にパタン化された要素の充填作品。これが基本~ベースとなる。絵の具はリキテックス。

1999
「妖精の泉」
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「夏の午後」から20年が経ち、アクリルから油絵の具に変わっている。
ビビットな色と動きのある筆致で、世界が活き活きと煌めき出していた。
男の去った後の世界には、妖精の泉がぽっかり生まれているではないか。妖精も天使もこの場所とセットであろう。
しかしここを照らす光はどのようなもので何処からどのように射してくるのか。次元の異なる外部も示唆する。

2005
「紫陽花」
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この一様な照明と紫陽花と同様に装飾的な日光は、この世界が自然な環界ではないことを静かに物語る。
空間も遠近法が成立しているかに見えて、人物の位置関係から大きな歪みが生じていることが見て取れるものだ。
少女と少年は交わらない系に属する。しかしお互いに見ようと思えば見えるのではないか。
「光」はあらゆるところを隈なく照らしてくれるのだから。

2006
「学校への道」
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構図がまず目につく。同時に配色もハーモナイズされて意図を感じるが、充分に現実界との繋がりも覚える。
上部に重々しく水平に伸びる鉄橋と中心から逸れて垂直に伸びる舗装されていない道。それを挟んで両側へ広がる畑。
なかでも左下手前の少女のランドセルが鮮やかな黄色で畑と遠方の建造物(学校?)や、更に雲とも呼応し響きあう空間には、、、いよいよ郷愁が芽生える。

2006
「湘南電車幻想」
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大きな芋虫のような列車の即物性が生々しく際立つ。
青い三輪トラックが小動物のように怯えているではないか。これは止まっているのか?
手前の彼の二人の子供さんも白いアヒルもこの暴挙に無頓着に思える(アヒルはこのままだと轢かれる勢いだが)。
このような緑に包まれた環界における生命の突然の侵害などの邪悪さも感じるメタファーのようだ。

2007
「森の遊園地」
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これは外部を特に意識させない場の強度が感じられる。それで「森」なのだ。特権的な場である。
常に光はトワイライトにチューニングされており、入園者も限定され完結する。
3方向に向けて停車している?玩具のような列車は、少女たちの向いた両だけアクティブで荷台から妖精が舞い上がっている。
確かにそれは見ものだろう。だが音が感じられない。

2007
「湘南幻想青大将」
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ここで初めて現実の光に出くわす。たまたま出逢った世界を切り取った繋がりと和らぎを覚える。
光景の捉え方と光と影の色調がとても自然な感触なのだ。黄緑の「青大将」はしっかり走ってきている。
緑が多様に萌えて匂い立つ。列車もトロッコもちゃんと行くべきところに着く安堵感すら漂う。
この場所の深みも猫が池を探る姿から想像できる。ここから何処へでも旅が出来てまた戻っても来れそう。

2010
「MoonLight Serenade」
sabu0008Moonlight Serenade2010
水平線の位置が尋常ではない。もしや水上に聳える建造物のすぐ後ろは、滝なのか、、、この静けさの向こうは大瀑布。
しかし波が岸辺に静かに打ち寄せている。月の潮汐力が働く遠い大洋から及ぶ力も感じさせる。
どうしても海洋~大海が感じられないのは、建造物と船の大きさにも起因するか。
そうだ、これは容器を使ったジオラマなのだ。テーマは音楽なのだ。そう想うとそれとして納得がいく。

2010
「湘南幻想ワニ園午後」
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「ワニ園午後」と時間帯まで指定される。より現実との繋がりが濃くなった。つまりゆったりと呼吸ができるのだ。
プレ・ラファエル派のモデルめいた女性といい、人格を持ったような鰐といい、ちょっと現実離れしていて、現実的な世界の切り取りも実現している。「湘南幻想青大将」と同様に現実の一齣として描かれている。どちらも「幻想」と題にあるが、飽くまでも彼の身近な現実を描き込むなかから溢出した豊かな幻想である。






一口コメント、明日に続く。






小さな情景展 序

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S君は結婚するまで、江ノ電の「鎌倉高校前」から白樺並木の高台にある実家に住んでいた。
興味深いのは、彼はそこで暮らしている間、一度も下に広がる海岸に降りたことがないということだ。
一度くらい海岸で海を眺めて過ごそうとか思わなかったのだろうか、、、。
遠方から朝5時に波乗りにサーフボードを抱えて人の集まるような海岸である。
(それを密かに見渡す小窓が彼の部屋にはあるのだが)。
無かったらしい。行ってみる気など。

確かにあからさまな海~海辺は描いていないのだ。
だが海が嫌いという訳ではない。
実際に海辺でスケッチしようなどという無粋な真似をしたくないのだ。なんというダンディズム!
、、、いやこれはわたしの冗談で言ったことであり、実際のところどういう理由であるかは、未だに彼には聞いていない。

彼の作品として、海を連想させる~海の楽しさを演出するかのような完全に人工的なテーマパークが幾つも生成されてきた。
そこは海や海辺から抽出した諸要素が(変容を経て)充填されていた。
あたかも下界に降りずに海の楽園を描くとこうなるのだ、、、というかのように。
以前、彼に言ったことがあるが「鎌倉高校前のレーモン・ルーセル」とでも、改めて呼んでみたくなる(笑。


彼の絵はどうしてもナイーブ派画家の範疇で観られてしまう余地はあろう。
確かに素朴さや懐かしさ~幼少年期の思い出は彼の絵にも多く見出されるところである。一見した印象には近いものを感じるはずだ。
しかし牧歌的で長閑な表象に映っても、尋常ではない平面性~歪曲した凝縮性に気づきときとして息苦しさも呼ぶ。
別にナイーブ派がどうのということではなく、何らかの一派として捉えてしまうことで微分的な差異を見落とすこととなり絵の魅力を味わい損ねる場合も多い。似て非なるものとはよく言う。

彼の描画の基本は点描であり、速乾性のリキテックス(アクリル絵の具)による隙間を潰し畳み掛けるような制作から始まった。その執拗な細密さと装飾性は自然の環界の感触、身体性からも程遠い。太陽光も特殊な照明器具を感じさせることが多かった。その時期の制作を自虐的なものだったと述懐していたことがある。その制作が彼の前期とも前史とも呼びたい20年間続く。
しかしゆったり時間を充分にとって新たなペースで制作したいという欲求と、主に緑(黄色の青への混色)の多様性の探求が容易に乾かない「油絵の具」の使用を要請した。
ここに展示された絵は1979「夏の午後」を除き油彩による作品である(但し、2012「夏休み」は明らかにリキテックス紀の内容であり、そのころの作品を油絵の具で再生したもののようだ)。

何より彼独特のデフォルメによるパターン化した形体と筆致。遠近法からの逸脱、そこから生じる空間の歪みと固有時の併存である、、、それは後半にゆくに従い多様化し広がりは見せてきているが彼以外の何ものでもない。
ある種喪失感はあるが、トラウマによる寂しさや物悲しさの痕跡の洗い流され構築された模型世界の様相を呈するのだ。
それは遠近法による整序を解かれた未知の光である郷愁~憧れに染めあげられた絵画とも謂うべきか、、、。
拡張された「郷愁」に彩られた絵と呼びたいものとなる。
その凍結した時間と物質的次元を持たない空間が、かなり俯瞰的で自在な構図と動きを生んでゆく。


実際、彼はこれらの絵をジオラマとして、粘土やベニヤ(ペンキで着色)やプラスチックのオーナメントや豆電球、モーターなどをもって細密に幾つも作っている。(子どもの玩具にもしていたそうだ)。
ほぼ何の躊躇もなく3Dにも置き換わってしまう世界。もしかしたら平面絵画はその設計図というか見取り図であったものか、、、。
単に素材は異なってもシームレスに続く創作行為に過ぎなかったのかも知れない。
それにしてもジオラマ制作も、集中と根気を要する作業であったはず。
愉しくて夢中になってやっているのではあろうが、やらずにもいられないのだ。きっとそういうものなのだ。

愉しい苦行かも知れない、、、。


兎も角、この行為は、現代美術の枠に対する批判~自己解体の知的作業でありかつ普遍性を目指した「藝術行為」の対極にあるものだ。そういった意味で、極私的~私小説的な絵画であり自己充足的な行為と謂える。
しかしその個人的で本当にあったか分からぬような秘密~記憶を垣間見るような一種の気恥ずかしさや恍惚さの方にわたしたちは共振する所が大きい。
その「郷愁」を感じる為、きっとまた暫くして彼のお宅に絵を観に行ってしまうはず。


ここには、S君の止むにやまれぬ「仕事」の最初期から最近までの作品が彼のチョイスにより並んでいる。
わたしとしては、何であの作品が無いのか、と思うモノも幾つかあるが、それはそのうちわたしのブログで紹介してみたい(笑。




ウォールフラワー

The Perks of Being a Wallflower005

The Perks of Being a Wallflower
2013年
アメリカ

スティーブン・チョボスキー原作・監督・脚本
マイケル・ブルック音楽

ローガン・ラーマン、、、チャーリー(トラウマを抱えた高校1年生)
エマ・ワトソン、、、サム(最上級生。チャーリーの憧れの美少女)
エズラ・ミラー、、、パトリック(最上級生。サムの義理の兄。ゲイ。)
メイ・ホイットマン、、、メアリー・エリザベス(最上級生。チャーリーの初めての彼女。)
ポール・ラッド、、、アンダーソン先生(チャーリーの国語の教師。劇作家。)
ニーナ・ドブレフ、、、キャンディス (チャーリーの姉。最上級生。)
ジョニー・シモンズ、、、ブラッド (アメフト部。パトリックの同性の恋人。)
ケイト・ウォルシュ、、、チャーリーの母親
ディラン・マクダーモット、、、チャーリーの父親
メラニー・リンスキー、、、ヘレン叔母さん(チャーリーが幼い頃に交通事故で亡くなっている。)
ジョーン・キューザック、、、バートン医師(チャーリーの主治医。)


大好きな親友と彼女と一緒のドライブ中にトンネルに入った瞬間、デヴィッド・ボウイの”ヒーローズ”がかかったら、そりゃハイになるわ。
そのトンネル内の時間は永遠だ。

車というものは、元々そういった効果を生むものだが、このトンネルとデヴィッド・ボウイの相乗効果はきっと凄まじい。
その上、エマ・ワトソンは煌めいていた。上体をルーフより高い位置に出して、つまり立ち上がり、あのタイタニックさながら腕を横に広げ風~スピードに恍惚としていた。
これは色々な形で記憶に蘇る体験だろう。

The Perks of Being a Wallflower006

「どうしていい人は、自分に酷いことをする相手をあえて選ぶんでしょう。」
「自分に見合っていると思うからだよ。」
このような心理規制はあると思う。
わたしにもそういうところは凄くある。
自分に見合ってるという見切りではなく、その時々の何となくの流れでそうなるのだが。
決まって良い方には向かない。
やはり深層において、自分に見合っているという判断がなされているのか?

The Perks of Being a Wallflower001


人は結構、肝心な決断を無意識レベル~定番のパタンに則して行っているきらいがある。
思考を働かせて何をか認識したり判断していることの方が少ない。
恐らくアントナン・アルトーのいうことが当たっているはず。
ひとは雲の晴れ間の一瞬くらいしか思考と呼べるような精神運動はしていないのだ。
この物語の主題から外れてしまうので、これはまた別の機会に。

The Perks of Being a Wallflower003

主人公の作家志望の高校一年生は、トラウマを抱えていて、フラッシュバックに悩まされたり、まさに唐突に幻覚が襲ってきてそれに圧し潰されそうになっている。そんなナーバスな状態で、クラスメイトからも馬鹿にされている。
彼にとり幼い頃に交通事故で亡くなった叔母が性的にも特別な存在であったことが大きかった。
彼女は彼にプレゼントを買いに出かけたところで事故に遭ったという。

しかしそういった痛手も彼女が出来たりすれば全て良い方向に向くということも多い。
性的な絡みが解けてしまうから尚更。
だがそれが、本当に好きな相手の幸せをまず優先しようという気持ちから自分に好意をもって寄って来る相手を選んでしまう。
つまりまったく自分としては不本意な相手と結ばれることとなる。
それで余計に病が重くなってゆくというパタンに落ち着く。
この物語の作家志望の主人公はまさにそれ。
それを小説にでもすればそれなりの昇華となり創造的な充足は得られもしようが、、、。

The Perks of Being a Wallflower002

やはりここでは、こころときめく憧れのマドンナ、エマ・ワトソンのサムに率直に行くしか本質的解決にはならない。
だが、彼女も彼のこころは読んでおり、大学に入学し荷物をまとめ出掛ける間際に双方の気持ちの確認ははっきりする。
これでスッキリ、であろう。
彼女が地元に帰って来て、親友でもある彼女の義兄と三人で例のトラックに乗り込み、トンネルでかつてトリップしたボウイの”ヒーローズ”をかけて、今度は彼が立ち上がって腕を広げ恍惚にひたる。

もう病は全快とみてよい。
思春期の病は、まさにそういうものだ。

The Perks of Being a Wallflower004

キャストがとても良かった。
才能を評価してくれる国語の先生の存在もかなり大きい。
こういう恩師と素敵な彼女と何でも話せる(ゲイではあるが)親友がいればもう鬼に金棒である。


とても心地の良い映画であり、わたしのようにデヴィッド・ボウイフリークの人間にはたまらないものがある。




AmazonPrimeにて

















望み

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2020年


堤幸彦 監督
奥寺佐渡子 脚本
雫井脩介 原作


堤真一、、、石川一登(一級建築士)
石田ゆり子、、、石川貴代美(編集者)
岡田健史、、、石川規士(高校生)
清原果耶、、、石川雅(高校受験生)
松田翔太
加藤雅也
市毛良枝
竜雷太



自分のデザインした自宅を顧客に誇らしげに見せて説明する一登には、その後に降りかかる悲劇など思いもよらない。
満ち足りた自分の住まいと家族に何の疑問も抱いては居なかった。

その後、何度も自分のデザインして建てた家を呆然と眺める一登の姿が印象に残る。


まさに青天の霹靂。

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怪我でサッカーが出来なくなり、自分の殻に籠った息子がある日突然、姿を消す。
彼の外泊した翌日、殺人事件が報道され被害者は息子の高校の友人であることが分かる。
殺された少年は父一登の仕事の重要なパートナーの孫でもあった。
不在の息子を巡り物語は進展してゆく。
突然の失踪~不在であることによる、、、濃密で多様な思いのぶつかり合いが渦巻く。

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警察から不在の息子もその事実関係を知る人物として事情聴取されると、、、
これまでの平穏な生活が一変する。周囲の目が一斉に変わるのだ。
徒に事件を憶測を交えて煽るマスコミとそれに興味本位で面白半分で乗っかる野次馬やSNS。
それらの心無い外野の暴走はエスカレートするばかり。
誹謗中傷で家族は居たたまれぬ状況に追いやられ、父の会社は取引先や顧客が離れ立ち行かない状況に追いやられる。

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息子は一体何を考え、何をしているのか(何に関わっているのか)。
父や母は彼に対する幼いころからの想い出の数々を寄せ集め吟味し直そうとしたり、つい最近の彼の所持品を片っ端から確かめそれらのモノから彼の今を掴もうと空しく藻掻く。
それぞれの立場から彼に対する様々な思いが交錯する。
そして彼の身を案じて不安を募らせるばかりの家族、、、。
妹は学校での噂などから自分の将来にも悲観する。
父はそれでも息子の潔白を信じるが母は加害者側であっても彼が無事に帰ってくることを望む。
自分の息子の優しさや正義感を知りながらも加害者側でも戻ってきてほしいと願う。
その気持ちはよく分かる。
わたしも、やさぐれ姉妹を子に持つ親として。

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結局、息子は彼を怪我させたサッカー部員の背後にいる暴力団関係の絡みで友人を庇い殺されていた。
それまで息子は加害者側だとマスコミの影響もあり一方的に嫌疑をかけられていたが、被害者であることが分かり、謝罪する関係者も出てきた。
しかしそれで息子が戻る分けではない。

「何もしなければ、何もできない大人になる」と父に言われ将来やりたいことを見つけた矢先のことであった。
彼は密かに自分のように怪我をした人のリハビリテーションを行う理学療法士になることを目指していたようだ。
刑事の最後に漏らす「しっかりした優しい子ほど、自分で全てを抱え込み解決しようとしていたことが分かる。そこにこころを痛める」という言葉はきっとそのようなケースが少なくないことを想わせた。


ここで何より感じたことは、一人の人間の不在によって生じる、情報のかくも大きな混乱のドラマである。
その人間が殺されていなくとも、その人間を蔑ろにして巻き起こる下劣な情報のドラマがいつまでも自動的に鳴り続く場合もある。
(これを最初に流した糞輩を吊るし上げることが先決であるにせよ)。


この映画は、特異点を巡る思いの交錯で充満していた。




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貴代美の仕事空間に憧れる。

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リビングから二階に上がる階段の位置も素敵であった。
何事もなければ、人も羨む素敵な家庭~居住空間にしか映らぬものであっただろう。
(美術頑張った)。



AmazonPrimeにて


















カフカ「変身」

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Metamorphosis
2019年
イギリス

クリス・スワントン監督・脚本
フランツカフカ「変身」原作

モーリーン・リップマン
アリスターペトリ
ロバート・ピュー
クロエ・ホウマン
ローラ・リース
ジャネット・ハンフリー
エイダン・マカードル


カフカとショーペンハウアーはわたしの最初の(自覚的な)師であった。中学生の時だ。
今の精神的基調もここから響いている。
余りにも感覚的に分かり過ぎるのだ。
(とても解る。あの母にしてこのショーペンハウアーなのね、ということは(爆)。
わたしも(毒)親に人生を滅茶苦茶にされた口であり、感覚的な共振はいつまでも消えないだろう。

この作品、チェコスロバキアの人形劇にも雰囲気が似ていた。特に毒虫のディテールの動きなど。
変身した朝の陰鬱な雨天もその雰囲気充満。
(カフカはチェコ出身のユダヤ人でもありこういった気配は合うと思った)。
おまけに登場人物たちもどこかパペット風ではないか。
この独特なアーティフィシャルな演出、良いのでは、、、。

カフカは装丁に具体的な「虫」を描くなと出版時に厳重に注文を出していたそうだ。
確かに何らかの特定の虫を描かれてはイメージの限定・制約が生まれてしまい作品世界が極貧しくなる。
とは言え、これはメタファーなのだからという調子で解釈されたくもない。
取り敢えずイメージ固定力の強い絵でそれを描かないでということであろう。
あくまでも文~文字として「虫~毒虫」そのものとして読んでは貰いたいのだ。
陳腐な解釈や思想を入り込ませたくはない。
虫として全て読み終え文学作品としての強度を感じて欲しいはず。

しかしこの実写ではあからさまな虫が登場。それが映画と言う形式の悩ましいところ。
その虫が妙にキモ可愛いのだ。特に目は愛らしい。人形劇でもお目にかかるタイプの。
あの父親はその息子である虫を、何故あそこまで冷淡に苛酷に排撃するのか。
時代独特の家父長制の強権が高圧的な形でそこここに色濃く描かれてはいる。
彼が強権的な父に苦しめられていたことは事実だ。
それはかなりの負担となっていたようで、彼の弟子の様につき纏っていたグスタフ・ヤノーホによるカフカの伝記にも容易に見出される。冬に外出先から帰宅するとき家の外で睨む父から風邪を引く、早く家に入りなさい、と厳しく言われ、別れ際彼はヤノーホにとかく愛情は暴力となって表れるものですと語ったという(正確ではないが)。やんわりとかわしては居るが万事その調子であったようだ。父は稼ぎ頭の息子であれ絶対的な庇護下・管理下に置き続けたいのだ。
役所の仕事も有能でしっかりこなしながらも、その合間を縫って(主に深夜)軍隊の通信技師が打電するような音を立て精緻極まりない文体を生成し続けていた彼は、実は小説だけに打ち込みたかったに違いない。
しかしそれを父や家族が許すはずもなかった。その桎梏が彼を苦しめると同時に激しい創造意欲を燃え上がらせていたのだろう。
妹は彼の文学は理解してくれたとは言うが(この妹が理解者のパタン少なくない。例えばトラークルもそうだ)。
彼にとり家は重荷であったことは想像に難くない。この母も息子を心配しながらも周りに遠慮して何も出来ない。
妹も理解は示すことはあっても兄にどこまでも献身的に対応できるものではない。

親友の作家マックス・ブロートとの朗読会で自作を読むときなどが一番解放されて楽しいひと時だったのではないか。
ちなみにこの「変身」を読む際、しょっちゅう途中で笑ったり吹き出したりしていたらしい。
人は悲惨な物語を語るときはそうなるものだ。(悲惨のただなかにいたら、それを対象化して描くことなど不可能である)。
何というか書くと言う行為そのものが日常時間~文脈からの超脱を可能とするものであり、その亜時間の系において彼は至福であったはず。彼の文学に接すると何故か彼の喜びに触れる気もするのだが。とてもありがたいことに。
マックス・ブロートはカフカの遺稿をまとめることに生涯のほとんどを費やし自らの創作を犠牲にしてしまったという。
それだけカフカ文学の魅力を知ってたから出来たことであろう(だが一番好きな作家はと聞かれ、ゲーテと答えていたという。それはそれで分かる(笑)。

何の話だったか、、、
そう彼は元々家にも社会にも馴染めなかった。
(そこにしっかり馴染み切っていたら、わざわざ表現行為に及ぶとも思わないが)。
役所でも真面目で優秀な仕事ぶりを見せ、家庭でも完璧な長男生活を送り続け、いよいよ身体的~無意識的な悲鳴が響き渡る。
何度か婚約まで行った女性はいたが、父との確執~トラウマはかなり大きな障害となり自らが家長となり父となることへの拒絶感を深く抱え込んでしまっていたのでは、、、。
結局、彼は結核に苦しみ40歳の若さで亡くなる。グレゴールのように(ほぼ同じくらいの歳では)。

まず彼は失踪や自殺や無差別テロに出る代わりに執筆を選んでいた。
彼の資質・才能からして間違ってはいない。
分身のグレゴールは、大きな毒虫に成った。これもあり得る。
もはや結核療養の作家に拘るカフカ同様、役に立たない異物である彼は、家族からは疎まれ、父からは致命傷となるリンゴを投げつけられ、それがもとで死ぬ。
(わたしならリンゴ攻撃を受ける前に羽を広げ窓から飛び立つが。森でも目指せば何とかなりそうではないか。それでは作品が成立しないか、ダメか。元々彼にはそこから飛び出そうという気もないのだ。毒虫に成ってからも家族の心配をしているのだ)。
逃げて行った家政婦の代りに雇われた大女の女中の箒でそれは片付けられ、家族は気分転換に三人で旅行に出ることにした。
三人ともすっきり晴れやかな顔をしている。
グレゴール一人に頼り切った生活を送って来たものだが、自分たちも働いてみればそこそこ稼げることを知り、皆に自信と覇気が感じられるようになった。
旅先の列車で、すっかり大人になり綺麗になった娘(グレゴールの妹)を見つめながら、そろそろよい婿を考えようと夫婦で相談する。


最後の光に満ちた光景は清々しいものであった。


虫のフィギュアの出来は結構よかったと思う。壁や天井も這っていたし。
エイリアンのようなグロテスクなものではなく、もう言葉がまともに発声出来ない身で、目で語ろうとするところが苦悩する存在を表しており、難しい点を何とかクリアするものではなかったか。この虫のせいでカフカの世界が矮小化された気はしない。かえって普通の人が虫として観られる演技をする方がメタファー丸出しのわざとらしさが窺え、きつくなる気がする。
















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レイラ 売られた少女

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Leila
2029
アメリカ

イヤド・ ハジャジ監督・脚本


フィディリア・グレース、、、レイラ(サハル家に売られた少女、10代前半)
マニュエル・ドメネク、、、エミリオ(不法滞在のメキシコ少年)
イヤド・ ハジャジ、、、サム・サハル(夫)
ゴルサ・サラビ、、、スザンヌ・サハル(妻)
ロビン・ギヴンス、、、検事
マルカム・マクドゥエル、、、判事


こういう映画を観て、もっとも新鮮に感じ入ってしまうことは、貧困で行くべき学校に普段行けない為、その子は学校に行くことを何よりも嬉しくおもっていること。レイラがエミリオに家から連れ出されてもぐりで自然科学のゼミに潜入して勉強するところなどどれほど嬉しさを感じていることか。
こんなに楽しい一日は初めてだったわと彼女は彼に告げる。
学校に行けて勉強のできることがこれほど尊いことに思えることが、何か神々しく感じられるのだ。

子どもにとって楽しく学校に行けることが一番の幸せではないか。
様々なことから学校に行けない子がいる。
うちの娘も学校に行くことがとても辛い。

今のところ部活動と習い事に意欲を持っていることが唯一救いではある。
外的(制度的)要因でそうした共同体~学びの場を疎外する場合と内的関係性(精神的)な問題による疎外が考えられる。
この映画では徹底して前者である。うちの娘は後者に当たるか(こちらの場合は実に不透明で実存的だが)。

レイラは(この名を聞くとどうしてもクラプトンを想いうかべてしまう)とても意地悪なその家の夫人に強制的に連れてこられて家に閉じ込められて一日中こき使われている。家からの脱走も出来ない。行くところもないこともある。
家に軟禁状態となれば、教育も受けられないし医療にもかかれない。
表には極力出さないようにして雑用に当たらせている。ほとんど賃金も支払われていない。
人身売買であり人権蹂躙である。極めて悪辣な行為であることは確かだ。
しかし、これはスザンヌがかつて受けていた仕打ちそのものであった(無為意識的な継承も含み)。
この反復構造そのものが社会制度の中に深く組み込まれている現状がよく炙り出されている。

2人が入り込んだゼミでも奇しくも動物界の弱肉強食について論じられていたが、まさに人間世界も弱肉強食としか受け取れない局面が際立つ。
あからさまな上下関係と人権無視が常態となっていつまでも続く。
レイラも教育を受けられず、余りに若い時期に連れてこられた為、自分の閉じ込められた環境の外部に出る発想すら無かった。
その認識と意欲を沸かせたのがやはり外部からの力である。
内部が腐りきっている場合、子どもは外の思考に目覚めることは難しい。
ここではエミリオの存在である。なかなかこれ程の救世主は訪れないものだが、彼自身不法移民であることから、彼女の境遇にも敏感であり放って置けないものであったのだろう。歳相応の恋心も芽生えたところもある。

そして夫であるサムが妻の不正(姪と偽って彼女を働かせていた事実)を訴えて出る。
彼も良心の呵責に耐えられなくなったのだ。
そして厳正な裁判となる。なかなか緊迫した法廷シーンである。
だが最後のレイラの証言シーンは音楽が入ってあっさりと収束してしまった。
そこが残念ではあったが、しっかりとスザンヌが裁かれレイラの未来が保証されたことはホッとするとともに自分の闘争心にも火が付いた(笑。

適当なところで引っ込めず、徹底的に闘わなければならない。
これは鉄則である。
生きてる限り闘い抜くこと。

数年後には、レイラは元々の能力を発揮し、無学の状況から医学生を目指すところにまで急成長を遂げ堂々と生きていた。
そして不法移民で捕まり本国に送還されたエミリオも学生のビザで大学での勉強の為もどって来ており、2人はめでたく再会を果たす。
絵に描いたようなハッピーエンドであったが、この展開はこちらも望むところ。

後味の良いエンドロールであった。




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アマンダと僕

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Amanda
2018年
フランス

ミカエル・アース監督


ヴァンサン・ラコスト、、、ダヴィッド(便利屋)
イゾール・ミュルトリエ、、、アマンダ(7歳の姪)
ステイシー・マーティン、、、レナ(恋人、ピアノの教師)
オフェリア・コルブ、、、サンドリーヌ(姉、英語教師)
マリアンヌ・バスレー、、、モード(叔母)
ジョナタン・コーエン、、、アクセル
グレタ・スカッキ、、、アリソン(母)

ステイシー・マーティンは、『グッバイ・ゴダール!』のヒロインである。ここでもスレンダーで素敵だ。
マリアンヌ・バスレーは、「イヴ・サンローラン」でイヴの母役をしていた。

保護者が亡くなってしまった幼い子の後継人になるという喪失と責任そして信頼の深く絡む物語。
そして新たな形で寄り添い再生に向かってゆく物語である。
こういう設定の映画は少なくないと思う。

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マンチェスター・バイ・ザ・シー」「gifted ギフテッド」「うさぎドロップ」などがわたしの観た中にはあった。

この映画はこれまでのものの中では、もっとも淡々としたある意味、爽やかさの感じられるものであった。
とらえ方にイデオロギー、主義主張が入り込まないよう丁寧に描写している。
その意味で、ドキュメンタリーを見ているような気分にもなっていた。
自動車に乗らずひたすら自転車というのも特徴である。
その速度と範囲でパリの日常が描かれてゆく。これがまた良い。(電車移動が最後にあるが)。
主人公たちの等身大の身体性に寄り添える感覚があった。

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それにしても、そんななかだからこそ、怖い時はじわっと来る。
自転車で通りかかった何時もの公園が何やら尋常ではない雰囲気、、、。
と思ったら、無差別テロの惨状があっけらかんと広がっていた。
この場所が、突然日常に接続したのだ。

それぞれの系の抱える思惑が絡み平穏に過ぎていたような場所が豹変する。
戦時中ならどこでも危機的状況に緊張し続けるところであろうが。
公園で寝転ぶ人たちが今は血塗れなのだ。
しかも最愛の姉がその犠牲者の一人となっていた。
更に恋人になったばかりのピアノ教師レナまで重傷を負い片腕が動かない。

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こんな風に人災でありながらも不可抗力的に強いられる事態~運命はわたしも経験している。
自分なりに強い怒りは表明するが、埋めようの無い断絶~ディスコミュニケーションが厳然とあり、自然災害を乗り越えるに等しい感覚でその先に向けて生きるしかない。
個人レベルにおいては、選択の余地なくこれまでとは違うスタイルを生きるしかないのだ。

ダヴィッドはまだ24歳で自由気ままな人生を誰に気兼ねなく生きてきたが、もう身寄りのない姉の愛娘を引き取り彼女を養育してゆくしかない。施設に入れるという選択もあろうが、アマンダとの絆はかなり深まっていた。
さらに双方にとって大事な人であったサンドリーヌを喪失した同士として互いに支えあい強くなってゆかねばならない。
どちらかと言えば、アマンダに支えられてダヴィッドが自覚を深めるパタンではあるが。

レナとは、まずダヴィッドとアマンダの生活が安定するまで、このように離れていることは賢明だ。
彼女もまたピアノが弾けなくなるという痛手とPTSDにも悩まされている。
しかしそう遠くない時期に彼らは再会は出来るはず。

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亡き母サンドリーヌが残してくれたウインブルドンのセンターコートの試合を三人ではなく、伯父と姪で観に行くが、その試合でアマンダが贔屓にして応援していた選手が劣勢に立たされる。
彼女は突然泣き出す。もうおしまいよと。
母が表現の例として教えてくれた「エルビスは建物を出ました」を思い出す。
この叔父を父としてこの先、やってゆけるか彼女の中で葛藤しつつ賭けていたのかも知れない。
この選手が勝ったらきっとこれからうまくいく、という風に。わたしもそんな賭けを内心していることがある。
だが、伯父は諦めるなと励ます。
すると圧倒的に劣勢にあったその選手がジュースにまでもってゆく。
アマンダの表情には希望に満ちた明るさが宿っていた。

和解も訪れる。これは姉の悲願でもあったかも知れない。
幼い頃(4歳?)に出て行ってしまった母とその地で再会し、姉の忘れ形見と初めて逢わせる。
勿論、母が姪を褒めたところで彼のこころのしこりが氷解するものではないが、今後アマンダと共に逢うことは重なってゆくと思われる流れだ。アマンダはおばあちゃんを気に入っていた。


新しい流れが生まれそれが豊かなものとなればきっと喪失は乗り越えられる。
とても穏やかな光景を基調とした日常そのものが映された感覚の映画であった。
これがデビュー作のイゾール・ミュルトリエ恐るべし。



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悟りに向けて

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全てに意味などないと実感してから、大変気軽にやりたいことを何の躊躇も遠慮もなくするようになったが、(ひとつ)体力が追い付かない(笑。
速度が追い付かないという感覚か、、、。
それから巧緻性である。特に昔は自分でも器用だと思っていた分、歯痒い。
更に物忘れ(爆。
これは笑ってしまうほど。
薬を飲んだことを忘れてまた飲んだことに気づいた時は流石に焦る(笑。
笑ってる場合じゃない(笑。
やはり笑うしかないか、、、

それからよくモノにぶつかる。
掴んだモノをよく落とす。
巧緻性とか言ってる場合じゃない。
最近はお弟子さん(勝手にそう呼んでる)と一緒にしおらしくクロッキーをしている。
そっちが鈍らないようにしておきたい。
(必然的に鈍るものとはいえ)。

わたしとしては、意味(価値)とは、時間である。
つまり時間から解かれることこそが、究極の自由であり自在を手にする。
固有時に賭けること。
時計時間に絡んだ関係性を徐々に切り捨ててゆく。
そして、永遠の瞬間に埋没すること。
つまりは、一番の贅沢に浸りたいのだ(爆。


ただそれだけ。




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ジェニーの肖像

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Portrait of Jennie
1948年
アメリカ

ウィリアム・ディターレ監督
レオナルド・ベルコヴィッチ、ポール・オズボーン、ピーター・バーネイズ、ベン・ヘクト、デヴィッド・O・セルズニック脚本
ロバート・ネイサン原作
ディミトリ・ティオムキン音楽


ジェニファー・ジョーンズ、、、ジェニー・アップルトン(時をかける少女)
ジョゼフ・コットン、、、イーベン・アダムス(画家、ナレーター)
エセル・バリモア、、、ミス・スピニー(画商)
リリアン・ギッシュ、、、マザー・メアリー・オブ・マーシー(ジェニーのかつての先生)
セシル・ケラウェイ、、、マシューズ: (画商、スピニーの共同経営者)
デヴィッド・ウェイン、、、ガス・オトゥール(アダムスの親友、自動車整備工)
フローレンス・ベイツ、、、ジェケス夫人(家主)

終始ドビュッシーの曲が鳴り響いていた印象が強く残る映画であった。
モノクロのトワイライト・ゾーンを思わせるトーンの空間で、赤貧の画家がとある少女と邂逅する。
彼女はいつも忽然と現れ詩的な言葉を振りまき歌を唄い、いつの間にか消えている。
ただ幻ではないことを示すかのようにスカーフを画家アダムスに預けてゆく。
わたしもその何とも言えぬ郷愁に魅かれ、もう眼を離せなくなってしまう。

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彼女~ミューズどこからやって来てどこに消えるかなんて大したことではない。
ミス・スピニーの言うように単にインスピレーションが音連れただけとも言えるかも知れぬが、、、
彼女の肖像画を描くことになり彼は変わった。
アダムスにとっては、ジェニーという存在により創造意欲と生きる意欲が瑞々しく復活したことは確かなのだ。
生きる力となったのだ。
周囲の人にとってはジェニーは彼のインスピレーションの呼び名に過ぎなかったが、、、。

ジェニーという少女はアダムスに逢うたびに急速に大人になってゆく。
自分でも急いで大人になっているの、と言っていた。
最初逢った時は幼さの残る少女であったが、少しの間に大学を卒業するまでになっている。
存在自体が不可思議であるため、アダムスも特に驚かない(笑。
彼女を描く前に絵を売りに行った画廊とは濃い付き合いになっていたが、彼女をモデルにしたデッサンを見てから全く彼に対する態度が変化する。
ミス・スピニーは彼の中に潜む可能性に最初から注目していたが。
ジェニーを描いた肖像画で彼は漸く画家としての成功を掴む。

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毎回、彼女と会うときの街や公園や彼の部屋の幻想的な美しさ。
ドビュッシーの鳴り響く空間。星の瞬く音の聴こえるその情景。
二人のいるところは、そこがどこであってもスケートリンクであろうが、夢の中のような独自な時間の流れる場所なのだ。
恐らく他の人の目には彼らは映らない。
一回、黄昏時ではなく真昼に彼女の卒業式に招かれて行くが、それが実に微妙な場からそれを彼女と眺める形となる。
その場を見てはいてもふたりはその空間には属していないような。異なる場からVTRを見るかのようにそれを見ているのだった。
しかしアダムスにとっては、ジェニーと一緒にいられればよいのだ。反省的思考など働かない。

アダムスはこれまで孤独に赤貧に耐えながらも画家を続けてきたが、自分の才能に疑問を抱き始めていた。
そんななかでも、親友のガスは彼の生き方を認め常に金銭的な面だけでなく言葉で支え続けた。
登場人物が、ミス・スピニーをはじめ(他にもマザー・メアリー・オブ・マーシーなど)詩的で情感溢れるセリフが多くこころに浸透するものが大きいが、もっともわたしの心に響いたのは、アダムスをそのままで認め、受け容れているガスの言葉だ。人は言葉である。彼は最高の親友だと思う。
アダムスは長く絵では認められなかったが、周囲には良い人がかなりいて支えられていたことが分かる。
しかし肝心の絵で芽が出ないことでやはり鬱屈していた。
今やジェニーの出現~彼女との邂逅によって彼の空白は埋められたと謂えよう。

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だが、彼女は相変わらず肝心な時に消えてしまう。
彼女が昔のサーカスの芸人を両親に持っていたことを知り調べるとまさに事故死した彼らの娘であることが分かった。
そして両親を亡くした後に入った修道院に行き、ジェニーの恩師であるメアリー先生に問いただすと彼女は稀に見る高波に呑まれて亡くなったことを知らされる。
それが10月15日のことで、まだそれまでに4日間あった。
もう何年も昔のことですと引き止めるシスターを振り切り、彼は彼女が絵を見るたびに怖がっていた灯台のある島に向かう。
その日は晴れていたが、夜に彼がボートに乗り進み始めると嘘のような嵐が起こり海は大荒れとなり高波が襲って来た。
数年前の15日と同様に突然のことである。
彼は命からがら灯台まで辿り着き、彼女を待つと本当に彼女は暴風雨の海から現れ灯台にやって来るではないか。彼は駆け寄り彼女を抱き寄せ直ぐに灯台の中へ逃げ込もうとしたが、すんでのところで彼女は波に吞まれてしまう。
時をお互いにかけて一か八かの賭けに出たのだが。

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時の悪戯で別々でいたふたりが漸く出逢ったのだが、やはり阻まれてしまったのだ。
「時をかける少女」みたいな感動である。
1939年に発行された小説を原作として作られた映画だというが、少なくとも古臭さは全く感じられなかった。
今、少年少女向けライトノベルでこんな噺が発行されても不思議ではない内容であった。
1948年にこのような映画が出ていたことには驚く。





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逃走迷路

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Saboteur
1942年
アメリカ

アルフレッド・ヒッチコック監督
ピーター・ヴィアテル、ジョーン・ハリソン、ドロシー・パーカー脚本

ロバート・カミングス、、、バリー・ケイン(航空機製造会社社員)
プリシラ・レイン、、、パット(広告モデル)
ノーマン・ロイド、、、フライ(破壊工作員)
オットー・クルーガー、、、トビン(破壊工作組織幹部)
ボウハン・グレイザー、、、ミラー(パットの叔父、盲目)
アラン・バクスター、、、フリーマン
マレイ・アルパー、、、トラック運転手


見事な映画であった。
その国を転覆させてやるという組織からすれば、軍需工場への破壊工作は外せまい。
初っ端から工場に大火災が発生し、その消火活動に当たったケインの親友が犠牲となる。
それが事故ではなく破壊工作によるものだと直ぐに判明した。消火器にガソリンが仕込まれていたのだ。
ケインにそれを渡してきたのが、全く見知らぬ男で名前だけ偶然知るに及んだフライという男であった。
真面目な社員であるケインがその場の状況から犯人とされ彼は自分で真犯人を突きとめるべく逃走を図ることに、、、。
途中で一度捕まり手錠をかけられたままでの逃走となるところもスリリングさを増す。

濡れ衣を負わされ自分で真相を究明するパタンである。
お手並み拝見という感じで、なるほどそう来るかとハラハラしながら追って行くこととなる。
それが目が離せず、実によく出来ていて充分面白い。

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筋立てが凝っているが、ここで巻き込まれるのが主人公のケインだけではなく、パットという美人モデルも途中から一緒に巻き込まれて彼との間で葛藤しながらも共に逃走しながら理解しあい、愛し合ってゆく形となってゆく。
流石と感じるのが、その主人公たちの心情~境地を街道のヒロインがモデルで出ている広告の巨大看板(コピー文章)で示したり、周りに悟られないようメッセージを伝えるのに書棚に並ぶ本の背表紙を指差したりと、演出芸が細かい。

その中で見所は豊富だが、特に逃走中の出遭いの数々である。
パットの叔父の盲目のピアニスト(兼作曲家)であるミラーの紳士振りには率直に感動する。
この人は容疑者扱いされているが、罪人ではないことはわたしには見えると言って無事を祈ってくれる。
盲目の芸術家であるがゆえに感覚は素晴らしく敏感で全てお見通しなのだ。
こういう人も時にはいる。わたしの友人にもいる。大変助けられる存在だ。
旅芸人フリークス一座にはまさに世の人々の縮図が見られた。しかしここでも紳士的な慈悲に満ちた待遇を受ける。
彼らの態度でケインを警察に突き出そうとしていたパットの気持ちに変化が起きるのだった。
(ただし、ここで「民主主義」というのを露骨に入れてくるのはどうか。単に心情の優しさではだめなのか)。
あの(恐らく警察嫌いの)トラックの運転手も含め、マイノリティーに助けられる。

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とても恐ろしく感じたのが、破壊活動を秘密裏に進めている組織に、権力と富を手にした名士があれほどいることである。
充分、今の世~政府に満足しているかと思いきや、彼らは更なる権力をどん欲に欲しているのだった。
(いや彼らに権力の集中する異なる政治体制を望んでいるのだ)。
そしてその配下は世に沢山潜伏していて、途中ケインと別行動となったパットが縋った警官すらその組織の人間であったということである。
まるで「ボディ・スナッチャー」みたいで身の回りの人間が皆、身体を乗っ取られたような脅威を覚えるものだ。
これ程寄る辺なく心細いことはない。
単に犯人と間違われて警察から逃走するだけより遥かに恐ろしいことだ。
破壊工作犯として警察から追われながら、同時に反政府組織からも命を狙われる。
そして独りで組織に立ち向かい次の破壊工作計画を探りそれを未然に防ごうとする。
大したものだが、そんなこと命がいくつあっても足りまい。
ケインとしては、途中からしっかりサポートしてくれるようになったパットの存在はとても大きいとは言え。

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あの富豪の婦人の開催した慈善パーティーのシーンは出色の出来。
もうめくるめく悪夢の世界であり、二人でダンスを踊りながらも究極的に追い詰められているのだ。
周りが全て敵で、逃れようが無い。
途中でふいに自分の身を預けた相棒が見知らぬ誰かに連れ去られ不在となる。
その途轍もない心細さ。孤独。不安と恐怖。
わたしもあんなふうな悪夢にうなされたことがあったような気がしてくる。
いや少年期あたりに恐らくあったと思う。
そんな自分の深層心理にまで触れ搔き乱してくる部分だ。

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そして最後の自由の女神像の中からの緊迫した展開は、流石ヒッチコックである。
特にあの自由の女神にしがみつくシーンは当時のVFXの無い時期にどうやって撮影したのか、というものだ。
セットなどもさぞ大変なものであったはず。
プーチン似のフライの悪役振りもかなりのもの。
見応えは充分であった。



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三つ数えろ

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The Big Sleep
1946年
アメリカ

ハワード・ホークス監督
ウィリアム・フォークナー、リイ・ブラケット、ジュールス・ファースマン脚本
レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』原作

ハンフリー・ボガート、、、フィリップ・マーロウ(私立探偵)
ローレン・バコール、、、ヴィヴィアン・スターンウッド(スターンウッド将軍の長女)
ジョン・リッジリー 、、、エディ・マース(カジノ経営者)
マーサ・ヴィッカーズ、、、カルメン・スターンウッド(ヴィヴィアンの妹)
レジス・トゥーミー、、、バーニー・オールズ(刑事、フィリップの友人)
ペギー・ヌードセン、、、モナ・マーズ
ドロシー・マローン、、、本屋の店員
エリシャ・クック・Jr、、、ハリー・ジョーンズ
ソニア・ダリン、、、アグネス


ハンフリー・ボガートとローレン・バコールはこれが縁で結婚したのか、、、。
ローレン・バコールはツンデレの先駆けなのか。
何やら艶めかしさがあり、良い感じに見えた(笑。
そういう映画なのかどうかはさておき。
わたしとしては、マーサ・ヴィッカーズにもう少し出てもらいたかったが、実に軽い扱われ方であった。
クラシックカーが堪能出来たところは、よしである。

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スターンウッド将軍に私立探偵マーロウはゆすりの被害の解決を要請するが、娘に悪い虫がついたことを知りそれを追っ払わせようとしたようである。
当時の映画であるためか、設定をぼかしたり分かりにくい演出で描くところでどうもすっきりしない。
カルメンは登場の仕方はよいのだがその後、隠しカメラの備わった部屋で酩酊状態で見つかった時の様子が今一つ何であるのか描き切れていない。要するに彼女はポルノモデルをやっていてそれを種にゆすられていたということなのか。
大富豪の名家の娘がそんなことを、、、と謂うところで。
描き方があいまいですっきりしないところだが。
父からリーガンの失踪について依頼されたのではと勘ぐって何かと文句を言ってくるヴィヴィアンは、事の真相に通じているだけでなくのっぴきならない立場にいることが察せられる。

実はカジノ経営者のマースの妻と駆け落ちしたブローディに惚れていたのがカルメンで、酩酊で見つかった部屋に響いた銃声は彼女が彼を殺してしまった時のものであったようだ。
その死体を処分し、この件でヴィヴィアンをゆすっていたのがマースであったようだ。
妹の重大事件なので、気の強いヴィヴィアンもマースにはしたがっていたようだ。
これは最後になってはっきりしてくる。
ヴィヴィアンがマーロウに惚れることで、マースの柵から解けるのだ。
その流れで結婚まで行ったのか。余計なお世話だ(爆。

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ガイガーとブロディ殺しについて中盤までこじれるが、このゆすりは、仏頭に仕込んだ隠しカメラで撮ったカルメンの写真を種にしたものだろう。なんにしても、この二種類のゆすりは競合するものではなく、マースがこの二人をわざわざ始末する意味というかメリットがあったのかどうか。ガイガーというのがどういう人間なのかいまひとつはっきりしない(そういう人間がいくつもいる)。
希少本を扱う書店の店主と言うだけではないカルメンに深くかかわる人物であることは推測できるにせよ。
黒幕としての自分の立場を守るためマースは、この連中に全てのゆすりの罪をなすりつけ、事件は決着ということにしようとしたのだろうが。
しかしマーロウは極早い時期からマースを怪しいと睨んでいた。

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まあ、探偵の勘か。
これが徐々に事件を詰めてゆく過程ではっきりしてくる方が物語自体(の構造)が明瞭になってよいはずだが、、、。
ゆすり事件が曖昧になるのが、どちらも妹の絡むところで姉としては適当なところで終止符を打ちたかったところは分かる。
依頼主の父に断りなくマーロウに事件解決の謝礼を手渡してもいたし。
写真の件だけで片付け、ブローディ殺しまではマーロウに突き止められては困る。
しかしマーロウもヴィヴィアンが好きになり、彼女(とその一家)を守るため、ブローディ殺しもマース(の配下)によるものにもっていった。カルメンは精神状態が不安定なため、病院に入院させることにして。
これで名門スターンウッド家は安泰であり、ヴィヴィアンにも大いに感謝される。

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マーロウはマースの妻を大枚はたいて探していたが、結局それが何の役を果たしたのか。
つまりマースはブローディ殺しの隠蔽のため、彼が自分の妻と駆け落ちして身を隠したことにしたのか。
それを確かめるためであったのか。
この捜索を攪乱しようと偽情報をヴィヴィアンもマーロウに伝えていた。
そういうことなのだろうが、あれでその辺のことが全て察知できたのか。
妻もちょいと出ただけであったが。
このシーンからヴィヴィアンが腹をくくったのも分かったので、確かに意味はあったのだろう。

『大いなる眠り』とは、どこにかかるものなのか、少なくともこの映画を観た範囲では分からない。
”三つ数えろ”は三回くらいセリフで出て来たか。
しかしこの映画の題名にするほどのものかどうなのか。
確かにそこだけ取ると、かっこよいセリフではある。
多分に雰囲気の映画であるため、邦題としてはキャッチーで気の利いたものであろう。

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何にしても描き方、脚本がしっかりしておらず曖昧なまま最後まで流れ込んでしまう劇であった。
とても観難い映画の一本になった。



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スロベニアの娼婦

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SLOVENIAN GIRL   SLOVENKA

2009年
スロベニア

ダムヤン・コゾレ監督・脚本・製作

ニーナ・イヴァニシ、、、サーシャ(女子大生コールガール)
ピーター・ムセフスキ
プリモス・ピルナット


コールガールを営む女子大生サーシャ。
早速呼ばれたホテルの部屋に行くと、、、
EU幹部のドイツ人政治家が薬物(バイアグラ?)を飲んでいて、結局心臓発作で死んでしまう。
警察からコードネーム”SLOVENIAN GIRL”として追われる立場に。
倒れて苦しんでいるところをフロントに伝え救急車の手配も頼んだのに、殺人ではあるまいし犯人扱いは酷い。

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しかし何やら進み方がどんよりしていて、警察の追手から逃げたり隠れたりのクライムサスペンス的な緊迫感は微塵も感じられなかったが、その通りであった。極めてのんびり進展する。
コールガール営業は相変わらずのペースで続けており、客には困らず(英語も流暢だし)、たばこを実によく吸う。
かなりの高額を得ており、それをあてにした高級マンション?を購入したりもしている。
(これは自分が都会暮らしを独り満喫するためか、投資目当てかよく分からないが、ちょっと無理のある銀行からの融資で始めている)。

こういうことを独りで続けることはかなりリスキーのようで、所謂ポン引き兄弟みたいなのに捕まり、俺たちの元で働けと酷い脅しを受ける。この流れで行くと骨の髄まで搾り取られることになってしまうことは予想出来る。
二人の命令通りに働きますといったことを宣言させられた後、連中が彼女の部屋に押し入ろうとする直前、車から逃げ出す。
つき纏う客で妻とも別れたというしつこい男を呼び出し何とか男の車で逃げ切る。

この後、この二人に街で出くわすシーンもあったが、それも女友達と一緒に逃げ、特に絡まれることは無いようだった。
わたしは、これを見ながら一番心配したのが、この二人に見つかってしまうことであったが、その不安は当人もさほど抱えている様子はなかった。裏社会の人間であり、一度逃げていることからも見つかり捉えられでもしたらただでは済まされないと思っていたのだが、相手もさほど捜査能力も無いようで、それっきりで何とかなりそうであった。

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全体的にどんよりしていて不透明なのだ。
何をか登場人物が見通してしまったり、細かい伏線を絶妙に回収するような、そんな構造がはっきりしない、現実なのだ。
実際はそちらの方がリアルに見える。
わたしの生きる世界もそんなものだ。

行き当たりばったりで、時折偶然に出くわしたりして、怖い思いもするが何となく切り抜けてやってゆく。
どちらかと言えば、その方に説得力を感じる。これくらいぶっきらぼうでよい。
日頃、わたしは出来過ぎの洗練された映画ストーリーに馴染み過ぎてきた。

どうやらサーシャは、離婚した母を憎んでいる。彼女が浮気をして家を出て行ったようだ。
その分、父には同情している。
そのトラウマが彼女の現在の行動原理に多大な影響を及ぼしていることは想像に難くない。
父は昔ロックバンドを結成して頑張っていたようであったが、パンクムーブメントに持っていかれたようであった。
しかし、初老のかつてのメンバーが集まりもう一度バンドをやろうということになり、張り切り始める。

そんななか、彼女の悪意ある噂が邪険にされた元客などから父にも齎される。
友人の女子の耳にも入る。おまけに父のバンド仲間にもその仕事場で鉢合わせしてしまう。
(この男、お父さんに言うぞと脅し無理やり関係を持ち金も払わない。最低であるがバンド仲間を続ける)。
彼女も銀行の融資係やゼミの教授に散々嘘を並べて誤魔化して来ている。
インテリの割には、言い訳がさもしい。
父にも調子のよいことを言って来たが、お仕事のことがばれるのは時間の問題ではあった。
マンションのローンも途絶え、お仕事も流石に堂々とは出来ず、、、
どうも最初観た時から比べ、彼女の疲労感や倦怠感がとても目立つ。
(おそらくしょっちゅうEUのことが取沙汰されるが、お国そのものも大変のようだ。タクシーの運転手もEU加入後は損ばかりだとか言っていたが)。

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部屋は売り、父の待つ田舎に帰ることに、、、。
父は彼女のことを知りながらも全て吞み込む。
彼女の服に全てアイロンがけして手渡す。

最後に父のバンドの演奏をライブハウスで聴くところで終わる。
「これからの人生が見ものなんだ~」という歌詞が流れ彼女も口ずさむ。
だが、希望を感じるより、その疲れ切った全身から諦観を受け取った。
煙草も吸い過ぎ。
とは言え、父に娘に対する愛情がタップリとあり、娘もそれを知って応えているところで、これからも何とかやって行けることは分かる。




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空白となった場所へ

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久しぶりに我が家のアーカイブから昔録った科学モノビデオを見直した。


オウムガイの偉大さが分かった。大量絶滅を掻い潜り、4億年以上生き延びてきている。
深海に居住空間を移したことが大きいか。
ウミユリもそうである。彼(彼女か)が水底を腕を使って歩いているのを見た時はとても得した気分になった。
そうゆっくり待って過ごすシーラカンスもそうだ。

テーマは過去5億年の生物の多様性について。
多様性が極端に低下した後に生き残った僅かなモノは、急速な進化が約束され、空白となった場所に出でて、繁栄をわがものとしてきたという。
絶滅を呼ぶ程の極端な環境変動~その過酷な試練に耐えたものが後の世を制覇するのだ。
その特異な能力、戦略によって生き延びて。
以下の5回の大量絶滅事件に焦点を絞って解説したNHK番組である。

オルドビス紀、デボン紀、ペルム紀、三畳紀、白亜紀の5回(ビックファイブ)に渡る大絶滅。
その度に生命は爆発的な進化を遂げてゆく。

カンブリア爆発により生命は海で大繁殖した。
多様な生き物が一斉に出現する。それは豊かな生態系が生まれた。

オルドビス紀に入り4億4千万年前にそれは起きる。
生命は海の浅瀬を中心に生息していた。
三葉虫(海のダンゴムシか)、ウミユリ、サンゴ、、、生態系の中心はイカやタコの先祖であった。
オルドビス紀後半に至り、地球が氷河期を迎える。
巨大な氷床が生じ浅瀬が無くなったことが大きかった。その後、極端な気温上昇(温暖化)を招き海の環境を搔き乱した。
その気候変動により85%の生物種が絶滅。
しかしチョッカクガイとウミユリは過酷な環境を生き延びる。
巧みな移動能力により最悪な環境から逃れるのだ。
チョッカクガイは浮力を自在に操る遊泳能力。ウミユリの場合は子供がプランクトンという形で波に漂い、良い環境に辿り着き定着するというもの。
チョッカクガイが丸くなってオウムガイになったというのも新鮮な驚き。自然の造形の妙である。
魚はその遊泳能力からその後の大繁栄に繋がってゆく。

デボン紀になって3億7千年前の事件。
巨大な甲冑魚が幅を利かせていた。かなり重厚で貫録に満ちている。
この時期、魚類は微生物だけでなく、発達した顎で何でも食べるようになってきた。
捕食対象が多様化したことで体の巨大化が進んだのだ。
海洋では魚類がいよいよ隆盛を極める。
しかし異変は外部からやって来る。陸上に広大な森が形成されたのだ。
木々から大量の水分が齎され大雨が降るようになる。
すると土壌から燐や窒素などが海へと流れ出す。その養分で植物プランクトンが大発生。その死骸をバクテリアが分解、するとその際に酸素を大量消費することで海が酸欠状態になってしまう。
このような連鎖~関係性により多くの海洋生物が死に絶えてしまった。
海中の75%の生物種が死に絶えてしまう。しかし一部の魚には肺とそれを守る肋骨が覆い鰭には骨が備わっていた。
彼らは新天地である陸へと上がって行った。海でそのまま死を選ぶのではなく、陸に上がることで生きるこの生命の逞しさ。
両生類の誕生である。ここから四足動物の繁栄へと繋がってゆく。

ペルム紀になりそれは2億5千万年前。
哺乳類の祖先も草を食べて繁栄していたが、ひ弱で大人しく恐竜の祖先に襲われて食べられていたらしい。
(爬虫類や恐竜の先祖はこれからどんどん強くなり幅を利かせてゆく)。
海中では魚類はより巨大化しており、歯の発達した12mくらいの魚がうようよいたという。
そんななか、超大陸パンゲアが形成されるに及び、大変動が引き起こされる。
大陸移動でぶつかり合ったプレートが大きく地球内部に落ち込み、それが巨大メガリスの塊として外核に触れる。
外核は液体状の鉄であり熱による対流と自転運動から渦が出来、磁力が生じて地磁気が形成される。それは地球上を有害な宇宙線から守る役割を担っている。ところが落下してきた巨大メガリスの影響で外核の運動が異変をきたし地磁気が弱まったことで大量の宇宙線が降り注ぐ結果となった。
宇宙線は雲を大量に作る性質から、地表に雪を降らせる。気候は一気に氷河期に。寒さと飢えが生物を襲う。
そして何と言ってもパンゲア形成に従って生じた沢山の2000mに及ぶ空を覆う大噴火が100万年以上も継続する。
巨大メガリスの落下の圧力により大量のマグマが押し出されてスーパープルームとして噴き出したものである。
二酸化炭素とメタンが急増し、海においても酸性化が進み、地球全体が灼熱地獄になる。
96%の生物種が絶滅する史上最大の惨事を引き起こした。
これを生き残った生物は僅かであったが、コノドントなどウナギの先祖に当たる生物がおり今でも研究が進められている。
どのような戦略でこの惨事を生命は乗り越えたのか。
そのひとつに、代謝を極力抑えエネルギー節約をして悪環境をやり過ごす為、彼らは小型化したのだ。
これには感動した。カイムシという甲殻類がまさにそれである。
450マイクロメートルから250マイクロメートルに小型化したのだ。
哺乳類の祖先も2mの体のものは全滅したが、体長50㎝のものは生き残った。
小さくなるという戦略。隆盛を極めた種は大型化してきたが、危機的状況においては小型化して防御するのだ。

1億8千万年前の三畳紀にあって。
それまでの生態系が一掃された場所から、新たに進化し多様化した生命が溢れ出していた。
アンモナイトもこの頃、繁栄しており、イカやタコの類も健在。
上空は翼竜が悠々と飛び、陸上では恐竜が我が物顔で大暴れをしていた。
この時期、超大陸パンゲアが分裂を始めていた。
そのために地球の各地で大噴火が起こり、初期の恐竜を直撃した。
76%の生物種が絶滅。

白亜紀。6600万年前にかの有名な隕石の激突が起きる。
巨大化した恐竜が地上を闊歩していた。まさにジェラシックパークで観られる恐竜である。
ジュラ紀から見ると1億3000万年も続く栄華を誇る種だ。
酸素濃度の低下が原因で、酸素の取り込みと二酸化炭素の排出が同時に出来る機能をもつ肺が発達していた。
常に新鮮な酸素を取り込める身体であり、この呼吸器官により巨大化し大繁栄を手にしたと謂える。
地上を歩く動物で体長30m以上体重88tもある体で前時代の空白の場所に彼らは登場した。
ティラノザウルスもこの時に食物連鎖の頂点に君臨する。海においては、プレシオサウルスやモササウルス。
アンモナイトも健在であるが、モササウルスの歯型のついた痛々しい化石は感慨深いものがあった。
ティラノザウルスに羽毛が生えていたのはわたしにとってくすぐったい情報だ。キモ可愛い(爆。

そして、巨大隕石の直撃による恐竜の絶滅。イリジウムの地層によりそれが分かる。
巨大クレーターも見つかり実証されている。その時の隕石の衝撃で、深さ32㎞の穴が出来たという。
原子爆弾の1億倍のエネルギーが発生したそうだ。どれ程の衝撃だったのだろう。
勿体ない。翼竜もダメだったのか、、、。
爆破の衝撃だけではなかったのだ。隕石突入によって大気そのものが灼熱状態となった。
その後、衝突によって舞い上がったチリが地球を覆い太陽光を遮り、気温低下と酸性化した雨が降り注ぎ海にあってはプランクトンが死に絶えることで海中の食物連鎖も破壊された。
75%の生物種が絶滅。
しかし恐竜が絶滅したお陰で哺乳類が生きる場所が保証されたとも言えよう。

、、、哺乳類の世界が始まる。
哺乳類も恐竜がいたころはネズミ大であったが、後に像やサイやカバのように大型化する。
恐竜が巨大化したように。
そして繁栄が続いている。



このスケールで考えることも必要だと感じた。と同時に小さくなってやり過ごす戦略の有効性である。
機を見て「空白となった場所へ」躍り出るときの為に、、、。




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黄金

The Treasure of the Sierra Madre004

The Treasure of the Sierra Madre
1948年
アメリカ

ジョン・ヒューストン監督・脚本
B・トレヴン『The Treasure of the Sierra Madre』原作

ハンフリー・ボガート、、、フレッド・C・ダブズ (山師)
ウォルター・ヒューストン、、、ハワード (山師)
ティム・ホルト、、、ボブ・カーティン(山師)
ブルース・ベネット、、、ジェームズ・コーディ(山師)
バートン・マクレーン、、、パット・マコーミック(インディオのリーダー)
アルフォンソ・ベドヤ、、、ゴールド・ハット (山賊のボス)
ジョン・ヒューストン、、、白いスーツの男
ロバート・ブレイク、、、宝くじ売りの少年


ウォルター・ヒューストンとジョン・ヒューストンは親子なのか。
親子そろってのアカデミー賞受賞(監督賞と助演男優賞)の作品だという。
確かによく出来た映画であった。見応えは充分。

The Treasure of the Sierra Madre003

1920年代のメキシコのタンピコという町から物語は始まる。
アメリカ人労働者にはとても厳しい町でダブズは金持ちの紳士から金せびりをしながらどうにかしのいでいた。
そんななか、安宿で出遭った初老の男の金で一儲けの噺に知り合ったばかりのカーティンと共に食いつく。
金鉱発掘のベテラン、ハワードに従い、シエラ・マドレ山脈で金の採掘に挑む。
ふたりは全くの素人で要領を得ない上に体力も追いつかないが、ハワードの指揮のもと、金鉱をついに掘り当てる。
いかし、ハワードが当初、言っていた「人間大金を前にすると欲に目が眩み殺し合いになる」と謂う件である。
当初、その部分に二人は重きを置かなかったが、実際採掘の苦難を上回る苦痛を彼らに強いることになる。

The Treasure of the Sierra Madre001

そしてコーディという男が突然乗り込んでくる。自分も金を掘ると。
彼らは、この闖入者を前に大変難しい局面を迎える。
自分たちだけでも疑心暗鬼で夜もまともに寝れないのだ。新たなメンバーなど入ろうものなら緊張度は更に跳ね上がる。
彼らは外部からも、たびたび山賊に襲われるが、どうにか切り抜けてきた。
フェデラルズという山賊を取り締まる連邦警察がいたことを知った。
ここで厄介ではあったが、外部の敵に対し力を期待できたコーディを失ってしまう。
コーディの持っていた手紙から彼の素性が分かる。そして3人に人間らしさが戻る一時であった。
ダブズから、埋葬してやろうという声が出る。
ハワードとカーティンは、分け前の4分の1を彼の家族に渡すことにする。
だが、ダブズはやがて仲間を誰も信用できなくなり彼らを葬り全ての砂金を自分が独り占めしようと目論むのだ。
ハンフリー・ボガートってこんな役も熟していた(笑。
ちょっと驚き。

The Treasure of the Sierra Madre007

大金を前にするとこうなる人間はなってしまう(なるべくしてなるのだろう)。
まず、ストレートに全ての金を頂きたいと思う前に、これまで共に組んできた相棒が実は俺を殺して金を奪う気ではないのかという疑心暗鬼から逃れなくなる。その思いに憑りつかれてしまうのだ。ここがまず恐ろしい。相手が殺そうとしているのなら先にこちらが殺してしまおう。そうすれば底知れぬ不安から逃れられるのだ。
しかしその後に良心の呵責に苛まれる。結局、この作業自体が地獄に他ならないではないか。
物凄い体力を使い何とか砂金を手にして、その分け前を仲間から守るためにただ神経を擦り減らしてゆく。

The Treasure of the Sierra Madre005

黄金とは何か。
それぞれ分け前を袋に入れ、ロバに背負わせて三人で歩いていたのだが、結局ダブズひとりでロバを誘導して行く羽目に。
鉱山で落石事故から救ってくれたカーティンを撃ってそのわきまえをせしめ、インディオの少年の命を救いそのお礼に招かれたハワードの分も、本人がいない事をよいことに横取りしたものだ。彼なしに鉱脈探しも砂金にする方法も分からなかったものを。
人間ここまで落ちぶれるものか、、、
しかし独りで無防備に疲れ果てて進むところをまたもや山賊に襲われることとなる。ゴールド・ハットは結構出番が多かった。
今度ばかりは、一人では勝ち目はなかった。

そしてダブズを惨殺して沢山のロバを奪いそれを売りにかけた盗賊が、そのロバの焼印の形を知らなかったため盗んだものとバレてフェデラルズに処刑される。
盗賊はロバに括り付けられた袋に入ったものを砂金を見抜けず袋ごと捨ててしまっていた。
捨てた場所を特定し、ハワードと一命をとりとめたカーティンがその場所に向かうが、すでに強い季節風に煽られ砂金は完全に宙に舞い空袋がかろうじて拾えただけであった。
結局、黄金とは何か。
二人はただ笑うしかなかった。


ハワードはもう村では神様扱いされ何の不自由もなく暮らせる身分となっている為、そのまま村にとどまることを決める。
丁度よい老後ではないか。
カーティンは行く当ては全く無い為、コーディの手紙を頼りに彼の家を訪ねることにする。その家はカーティンが夢にまで見ていた果樹園を経営しているのだった(今回の稼ぎで果樹園をもつつもりであったのだ)。

それにしてもハンフリー・ボガート、序盤は紳士と見るや金をせびり、後半は大金をモノにしたことから欲に目が眩みそれまで支えてくれていた仲間を裏切り、果てはそのために独りとなり、山賊に殺されてしまう。
まあ、何というか強欲に振り回された人間の顛末をとても説得力ある演技で魅せてくれたものだ。
彼がこういう役をやること自体、感慨深い(笑。
ウォルター・ヒューストンは余裕と頼りがいのある落ち着いた男であった。
ティム・ホルトも散々な目に遭いながらも良識を失わない男を静かに演じていて好感をもった。
キャストも脚本も申し分ない。息子に金をねだる演技と言うのも粋である。




BSTVにて










天使の入江

LA BAIE DES ANGES002

LA BAIE DES ANGES
1963年
フランス

ジャック・ドゥミ監督・脚本
ミッシェル・ルグラン音楽

ジャンヌ・モロー、、、ジャッキー・ドメストル(賭け事依存症の女)
クロード・マン、、、ジャン・フルニエ(銀行員)
ポール・ゲール、、、キャロン(銀行員)

シェルブールの雨傘」と「ロシュフォールの恋人たち」の監督である。どうしても期待は大きい。

賭けか、、、わたしはそういうモノで儲けたことはない。
それに該当するものはやってみたことはあるが、全て完璧にすっている(笑。
一円も儲かったことが無い。まあそんなことはどうでもよいとして、、、。

初っ端からシトロエンが出て来る。ファンとしてはそれだけで嬉しくなる。掴みはOK。
同僚のキャロンに賭けを教えられたジャンはカジノ「天使の入江」のルーレットで儲けてから癖になる。
それがビギナーズ・ラックでもなかったのだ。
才能があるらしい。その後も結構儲けてゆく。
カジノと海辺とホテルの限られた場所だが、たっぷりと魅せる。

金が手に入り、やはり旅行は南仏か。
ニースやモンテカルロなら大儲け出来ると、、、そこは賭博師の楽園と来た(キャロンが言うには)。

LA BAIE DES ANGES001

カジノで出逢ったジャッキーと組んだら大儲け。
調子よくなりお食事も奮発。
テラスにシャンパンにオーケストラ。
それに加え、連れはジャッキー(ジャンヌ・モロー)である。
ジャンには、映画やアメリカの小説以外にこんな生活があるなんて、、、という感じになって浮かれて行く。
(それは確かに分かるが、、、)。

勘が大切だが、感を鈍らせるもの、、、欲が邪魔をする感じ。
変に儲けに拘り出すと負けが込む。
潔くここで止めると引いた時は儲けたままで終わったが、、、。
その一瞬後には、完全にスル。一文無し。
余計な賭けをしたと悔いる。
だが次の瞬間にはまた賭けている。腕時計を売って。

LA BAIE DES ANGES005

まあそれにしてもいい加減な女であるが、賭け事依存となるとこうなってしまうのか。
大きく儲けても次の一瞬で消える。だがまた運も巡って来る。
この反復が癖になる。
煙草をよく吸う。どこかで落ち着かないことには、、、
そういうものだろう。

有り金を全て賭けに使ってしまう。
それでも借金してでもやる。
そんな時に馬鹿勝ちする。
これだからやめられない。
この崖っぷちでのどんでん返しの恍惚。

きっとギャンブラーはやめられないのだ、いつまでも。

LA BAIE DES ANGES003

ふたりで儲けて、より本格的なカジノに行く。
行くためにドレスとタキシードを買い。ついでに車も買ってしまう。
ホテルはスウィートに泊まる。
何とも、、、刹那的で享楽的な。
ゼロか100の生活。
この蕩尽欲求。
金が目的ではない。
スリルだ。数字の神秘~魔術だと。

カジノには初めて教会に行った時のような感動があるとジャッキーは謂う。
賭けは宗教でもあると。
賭けに対する情熱で生きていけるとまで、、、。
成程。とは思うが、、、。これは続かないな。安定した状態の上での登り降りでないと。体力が持つまい。
賭けをしてない時は呑んだくれて、嘘もつきまくる。一歩間違うと廃人だ。
そんなジャッキーをまるごと好きになり「愛してる」と告白するジャン。

だが答えは「わたしたちは、ただの賭け仲間よ」

LA BAIE DES ANGES004

ここまでストイックに追求できるなら立派としか言えまい。修道院の尼僧のレベルだ。
連れ立っているのは、あなたが幸運をもたらすから。
男の方~ジャンは納得できない。
何とかこの状況~円環から抜け出して一緒にパリに戻ろうとするが、彼女は断る。
男は諦め、一人そこを去って行く。
しかし彼の姿が無くなったことを確認した瞬間、ジャッキーが彼の名を叫ぶ。助けを求める子供のように悲鳴を上げるのだ。

最後に結局、どうするのか、、、よく分からないがジャンに縋り、ふたりでカジノを後にしてゆく。
何とも覚束ないが、ふたりでしっかり肩を寄せ。
きっと、今度こそパリに帰るのだろう。
取り敢えず(ふたりとも)救出されたとみてよいか。その先、どうなるのかは分からないにせよ、、、


オシャレな映画であった。
(こういう映画、最近まず観ない)。




AmazonPrimeにて










アナベル 死霊博物館

Annabelle Comes Home001

Annabelle Comes Home
2019年
アメリカ


ゲイリー・ドーベルマン監督・脚本・原案
ジェームズ・ワン原案・製作


マッケナ・グレイス 、、、ジュディ・ウォーレン(ウォーレン夫妻の娘)
マディソン・アイズマン 、、、メアリー・エレン(ジュディの上級生、ベビーシッター)
ケイティ・サリフ 、、、 ダニエラ(メアリーの友人)
パトリック・ウィルソン 、、、エド・ウォーレン(ジュディの父、心霊研究家)
ヴェラ・ファーミガ 、、、 ロレイン・ウォーレン(ジュディの母、霊能者)
マイケル・チミノ 、、、ボブ(メアリーの彼氏)
スティーヴン・ブラックハート 、、、トーマス(ダニエラの亡くなった父)


何かの呪いか、、、「死霊館」シリーズをまた観てしまった。眺めているうちにポチッと押していたのだ(怖。

わたしはこのスピンオフ映画?が、「死霊館」シリーズの中で一番気に入った。
特にマッケナ・グレイスとマディソン・アイズマンの演技が凛としていて可憐で素敵だ。
本作は、ホラー性は控えめだが、ジョブナイルドラマとしてよく出来ている。
最初は、頭のネジの外れた無神経のダニエラの行為にかなりの不快感を抱いたが、事故で亡くなった父に謝りたかったということを知るに及び、こちらとしても許す気になった(爆。
ホラー映画に全く興味のないわたしにとり、この子供たちの織り成すぎこちなくも瑞々しいドラマには好感をもった。

Annabelle Comes Home005

導入部では、しっかりアナベル人形の怖さを意識付けしておいて、その人形の脅威と闘うお留守番の子供たちの物語となる。
この映画の肝は、ウォーレン夫妻はエクソシズムコンサルタント関係の仕事で家を暫く空けなければならず、突然起こった厄介な事件全てをジュディを中心とした子供たちだけで解決したというもの。これなら親の仕事を継げるではないか。
手持ちの札など無い中での攻防、充分ハラハラして面白かった。
悪魔の手加減もあったか。しかし憑依はしてきたからそう手抜きをしていた訳でもない。
この子たちが一体どうなるのか、、、そりゃ雰囲気的にスプラッターに走るような要素は感じられないにしても、、、
そう、こちらとしては怖いではなく、ハラハラし通しなのだ。
そういうホラーなのだ(笑。

Annabelle Comes Home004

意外さや新鮮さはなく、よくある自分勝手な行いがどういう結果を生むのか想像できない子の暴走から事が巻き起こるパタンである、これはよく見る。何で他所の家にズカズカ入ってそんなことまで平気で出来るものだと半ば呆れて観てゆくが、欧米ではそれほどの事ではないのだろうか。なんせ注文したピザを配達人が一切れ食べちゃったよと笑顔で手渡すのだ。しかも、ありがとう。おつりはいいわ、、、とチップは渡す(日本であれば必ず問題になるはずだが)。
しかしそのくせコーヒーショップで自分の不注意からいきなり熱いコーヒーを飲んで喉を火傷したと多額の賠償金を勝ち取ったりもする。面白い国である。

何だかとっても弛んで抜けた感じの子供たちだけのお留守番生活から入る。
そういえば、上級生でベビーシッターに頼まれたメアリーは確かにしっかりしているが、車でジュディを送り迎えしていた。
上級生ではないのか、、、よく分からないが、向こうではホントに子供が車の運転をしている。
危なっかしいものだ。わたしがウォーレンなら娘の学校を休ませても一緒に仕事場に連れて行く(案外そっちの方が危険か、、、悩ましいものだ)。

Annabelle Comes Home003

ともかくダニエラという頼んでもいない娘がメアリーの友達と言うだけで、ほぼ家宅侵入みたいに乗り込み、絶対に入ってはいけないと何重にも施錠された呪いのアイテム保管庫に鍵を盗んで入り、更にガラスケースで厳重に管理されていたアナベル人形を外に出し、他の呪いグッズも全て目覚めさせてしまう。これってしっかり犯罪ではないか(ローラーシューズをジュディにプレゼントして二人を外に出しておくなど計画性もある)。そして家の中はうんと濃厚なお化け屋敷の状態に。
こんな状況で、キャーキャー叫びながらも落ち着いて行動できるジュディは流石である。
その時々に有効なものを使い(父の霊を追い払っている時のビデオをつけて敵の動きを封じたり)なかなか頑張るのだ。
しかしメアリーと同学年でスーパーでアルバイトのボブ(スポンジボブみたいな少年)が遊びにやってきて、身も凍るギターの弾き語りを窓辺に向かってやって見せ、更に悪霊を刺激する。
何故か猛り狂った熊の悪霊をギターで叩き消し、ジュディを助けた手柄で彼はめでたくメアリーの彼氏に昇進した。
コメディホラーの線もしっかり加わる。

Annabelle Comes Home002

ダニエラが憑依されるが、ジュディの機転で誰も近づかず、霊の方も空振りで終わる。
憑依されたダニエラは放置されていては流石に面目も立たないため襲っては来るが、ジュディが上手くこれをかわす。
沢山の霊が暴れるがジュディの統制のもと全ての総元締めのアナベル人形をガラスケースに皆で押し戻すことで一件落着。
全ての霊が悪霊であった訳ではなく、ダニエラの父が彼女を守ったようだ(でなければアナベル人形がケースに戻る前に憑依から復帰できまい)。
元はと言えば、彼女の過失で父を事故に巻き込み死なせてしまったことを謝りたいという一心でしてしまったことであったそうな。
(この娘なら色々としでかしそうである)。
であるならば、霊能者であるウォーレン夫人にお願いし霊界の父と話をさせてもらえば良かった件ではないか。
まあそれでは今回のような騒動にならず、お話にならないが、いくら何でもそのきっかけ~導入が強引過ぎた部分はある。

ジュディが悪魔研究家の子供と言うことで虐められていた件も、ダニエラの口利きでいじめっ子(大将は彼女の弟)たちを懐柔し皆で仲良く楽しいジュディのお誕生会ということで幕引きとなる。
脚本もまとまっていてキャストもよく、面白い映画であった。

Annabelle Comes Home006


「死霊館」シリーズでは、また観ても良いと思う唯一の作品だ。
マッケナ・グレイスは期待の女優のひとりだろう。





AmazonPrimeにて









プライムデー・ショー×ビリー・アイリッシュ

Billie Eilish001

Amazon Prime Day Show Billie Eilish
2021年



非常に優し気なMVであった。メッセージ性が微妙に和らぎ、、、。
ある意味、らしからぬ感じ(笑。しかしそれを上回る素敵さが見られ満足。
6曲も新曲を含めパリの街に溶け込んだしっとり落ち着いた映像が堪能できた。
パリの郊外を舞台にしたお洒落な短編映画みたいな雰囲気。
パリで撮影か、と思ってしまう程のセット(笑。
美術さん頑張った。

ビリーアイリッシュは、いつものようなクールさと謂うより可愛くフェミニンな感じ。唄い方は変わらぬか(服が可愛いのか。
そうアグレッシブで重い雰囲気がここでは影を潜め、上質なエンターテイメントになっていた。
3回繰り返して視聴したが、ただ流しておくのもそれだけで気持ちが落ち着く。

MVものでは、「 ニック・ケイヴ/20,000デイズ・オン・アース」の次に良かった。
(これは、単なるMVではなく伝記ものか。わたしがそういう感じで聴いていただけか)。

Billie Eilish002

Therefore I Am
my future
Lost Cause
など、、、こんな光景で聴くとまた一段と粋だ。
彼女はニルヴァーナみたいにはならないな。
息の長いアーティストでいて欲しいと、、、切に願う。

もっとBillie Eilishがもっと聴きたくなった。
というか、CD買おうかな、、、MTVでいつも聴いてるだけでなく、、、。

Billie Eilish003




AmazonPrimeにて











死霊館のシスター

The Nun006

The Nun
2018年
アメリカ

コリン・ハーディ監督
ゲイリー・ドーベルマン脚本・原作
ジェームズ・ワン原作

タイッサ・ファーミガ、、、修道女アイリーン
デミアン・ビチル、、、バーク神父
ジョナ・ブロケ、、、モーリス・テリオー/フレンチー
ボニー・アーロンズ、、、ヴァラク/悪魔の尼僧
シャーロット・ホープ、、、修道女ヴィクトリア
イングリット・ビス、、、修道女オアナ

*アーカイブ出演:
ヴェラ・ファーミガ、、、ロレイン・ウォーレン (霊能力者)
パトリック・ウィルソン、、、エド・ウォーレン (悪魔研究家、ロレインの夫)


ジェームズ・ワンはここでは監督ではなく、原案で関わっている。
これは死霊館のスピンオフ映画のようだ。
時間設定はこれまで見た二つの死霊館より古い。
つまり前日譚に当たるか。

The Nun004

1952年のルーマニアの聖カルタ修道院が物語の舞台。
中世にここで公爵が悪魔を召喚したが、バチカンから送られた兵がそれを阻止した。
その時に使われたのがキリストの血であった。
悪魔は再び封印されたが二次大戦に爆撃で封印した扉が壊され悪魔はヴァラクとして復活する。
村人は教会の周りを十字架で取り囲み悪魔がその外に出られないようにしていたが、教会内では最悪の惨事が起きていた。
最後の修道女がキリストの血を保管した部屋の鍵を手にしたまま悪魔に憑依されぬように首吊り自殺をしたところから、この修道院で何が起きているか捜査の為バチカンは専門の神父とある意図から見習いのシスターを派遣する。

The Nun005

タイッサ・ファーミガという女優がまるで中世の修道女そのものといった感で美しかった。
今風の美女とは違い、とても印象的であり、、、。
日本風に言えば、凄い平安美人という感じ(笑。
(飽くまでもわたしの個人的感想)。

それに引き換えバーク神父の地味な情けなさ、、、
バチカンから派遣されてきた、何やら凄そうなその道のスペシャリストみたいであったが、全くの役立たず。
ポンコツオヤジではないか(怒。
悪魔に棺に放り込まれ出られなくなって、シスターアイリーン助けておくれ~って、お前さんベテランじゃなかったのかい。
無策で得意技も無く、十字架掲げて聖水撒いて聖書詠んでりゃいいってもんじゃなかろうに。

The Nun002

見習いシスターのアイリーンの方がずっとしっかりしている。しかし何故彼女をバチカンはこの任務に当たらせたのかは不明。
それからフランス系カナダ人でここルーマニアの田舎に住み着いている雑用を熟すフレンチであるが、この男のポジションも今一つよく分からない。ともかく、彼が首つり自殺を図った修道女の死体を見つけたところから噺が始まる、道案内人みたいな存在か。
まあ、エクソシズム自体がさっぱりなわたしにとっては、全て意味不明となるが、それでは元も子もなく噺も始まらない。
(ポルターガイストや悪魔が人を遠くに投げ飛ばしたりなど流石に食傷気味なのだが)。
取り敢えずの感想でも。

三人で古びた不気味な修道院を探ってゆく事になるが、何の申し合わせも統制も取らずに、何となく皆バラバラに動いて行く。
こういう何処に何が潜んでいるか分からない危険な探査においては、一緒に動くことが基本であるはずだが、その辺の思慮も無く緊張感もまるでない。設定された局面に対する無神経な動きに苛立つところばかり。
突然、悪霊が現れては、キャ~っと叫びその場から逃げるが悪霊に直ぐに捕まる。当然の如く。
だが向うも致命傷を与えるでもなく乗り移るわけでもない。
結局最後にフレンチに乗り移って終わるが、それは「死霊館」でウォーレン夫妻の講演ビデオで紹介されていた(同じ映像が使われていた)。
フレンチはその後、流暢なラテン語を喋った後に自殺したというが、その後悪魔はどうなったのか。
「死霊館」のシリーズはこれで3作目だが、全体の流れを知るには、他の2作にも当たらなければならないか、、、。
特に見る気はないのだが、、、。

The Nun003

絵的に綺麗な個所はある。ヴァラクが扉の向こうに出現するところとか、、、悪魔的な幻想性はうまく演出されている。

脚本がよくない。
彼女が夢に見ていた「マリア様が示す」というのもあれで伏線が回収されたというのも何とも、、、。
終始、人影や灯と影、風、夜気に鳥と鏡にだけ映る悪魔(よく後ろに立っている)と、雰囲気はあるのだが、全体の噺の骨組みがほぼ無い。
人物たちが漂っているという感じ。
プロットが弱すぎる。そして人物の肉付けも足りない。
アイリーンがしっかりしている印象だが、妙にしっかりしているのだ。
リアリティがない。
最後にアイリーンがヴァラクを撃退する際に、口に含んだキリストの血を吹きかけるところは痛快に思えたが、それまで水中に沈められていて息も絶え絶えの状況でどうやっていつの間にそんな仕込みが出来たのか、、、。
これに限らずであるが、どうも乗れない。ヒロインの女優自体はかなりのものであったのだが、、、。

The Nun001

わたしが観た、他の2作から見ると映画としては、かなり覚束ないものであった。
ジェームズ・ワンが監督した方がよいのでは、、、。
しかし脚本家は、前もこのヒト(ゲイリー・ドーベルマン)だったような。
何とも言えない、、、。




やはりわたしはホラーとかキリスト教ものは、そぐわないみたいだ。



AmazonPrimeにて














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”Bon voyage.”



金沢国立工芸館「ポケモン×工芸展」6月11日まで。人間国宝の実力派作家たちが新たな解釈でポケモンを創造。

金沢城公園、兼六園、金沢城、ひがし茶屋街、近江市場も直ぐ近く。
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