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GOMA28

Author:GOMA28
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死霊館

The Conjuring001

The Conjuring
2013年
アメリカ

ジェームズ・ワン監督
チャド・ヘイズ、ケイリー・W・ヘイズ脚本

ヴェラ・ファーミガ、、、ロレイン・ウォーレン (霊能力者)
パトリック・ウィルソン、、、エド・ウォーレン (悪魔研究家、ロレインの夫)
リリ・テイラー、、、キャロリン・ペロン (ペロン夫人)
ロン・リビングストン、、、ロジャー・ペロン (キャロリンの夫)
シャンリー・カズウェル、、、アンドレア・ペロン(長女)
ヘイリー・マクファーランド、、、ナンシー・ペロン (次女)
ジョーイ・キング、、、クリスティーン・ペロン (三女。霊が見える)
マッケンジー・フォイ、、、シンディ・ペロン (四女。夢遊病)
カイラ・ディーヴァー、、、エイプリル・ペロン (五女。霊が見える)
シャノン・クック、、、ドルー (エドの助手)
ジョン・ブラザートン、、、ブラッド・ハミルトン巡査 (ハリスヴィル署警官。ウォーレン夫妻の調査と除霊を手伝う)
スターリング・ジェリンズ、、、ジュディ・ウォーレン (ウォーレン夫妻の娘)


「死霊館」という名では「死霊館 エンフィールド事件」というのは以前観た。
監督もいっしょだ。
今回観たモノの続編だったらしい。しかし続編を先に観た後にこれを観ても別に何の差し障りもない。
独立した悪魔モノとしてしっかり堪能できる。
完結したものとしてどちらもよく出来てるし。
(それ以前に傑作”SAW”の監督だ)。

安定した作りの映画でどっしりと観られた。怖い所でしっかり怖いが、スプラッターやデカい音や怖い顔で脅かすような安易な所はない。話の流れや展開、透視~出現~撮影を通して不安や恐怖を齎せたり間もうまく使われていた。
確かに悪霊の顔は怖かったが、悪霊としては標準的であり特に狙った感はない(笑。

The Conjuring002

バチカン公認の超常現象研究家エド&ロレーヌ・ウォーレン夫妻の凄まじいエクソシストの実体験の場面を描いたもの。
1971年の(有名な)事件だという。当時の音楽が流れ雰囲気が懐かしいというか、、、。
古い家を競売で手に入れたペロン家に降りかかる得体の知れぬ恐怖。夜中の物音、閉めたドアが開いており、、、などに始まり。

怪現象に悩まされ子どもたちが怯え、ポルターガイスト現象も起きるに至り、ペロン夫人はウォーレン夫妻に縋りつく。
関わったその家はこれまで経験したことの無いほどの強力な悪霊が支配していた。
しかし透視能力はくれると言われても欲しくない。
あんな化け物がいくらでも見えてしまうなんて生きた心地がしないではないか。
妻は命を削って悪魔と対峙していると夫のエドが言っているのはよく分かる。

The Conjuring003

相手は所謂、悪魔である。
悪魔は人形などを通して人を支配するという。
ここでは家自体にも取り憑いている(しかも複数)。
しかし悪魔の目的は飽くまでも人なのだ(しゃれではない)。
(だからこの家は不気味だからと言って引っ越してもすでに遅い。ターゲットはロックされるのだ)。

悪魔のやり方は、専門家エド・ウォーレンによれば、、、
1.まず存在を知らせる。壁とかを叩く音。悪臭。足を引っ張る。痣を作る。犬を殺す。鳥を操り家にぶつける、、、等々。時計の針を3時7分で止めるのもあった(これは専門家が調べないと意味は分からない。つまり呪いの主が死んだ時刻だと)。
2.攻撃する。もう引きずり回す。ぶん投げる。など凄いパワーのあることが分かる。まともにやり合ったらたまったものではない。熊と闘うようなものか。そして心身ともに対象を脆弱にさせる。そりゃなるでしょ。
3.憑依する。目的を達成する。人に取り憑き完全支配することを最初から狙っているのだ。
「一家全員殺すぞ」という場合は、まずは母に乗り移って彼女の手で順番に子供を次々に殺害させるものにもなる。
これはもっとも残酷なやり方であろう。ペロン夫人が魔女バスシーバに憑依されまさにこの流れとなった。
悪魔的。まさに、、、。

The Conjuring004

ウォーレン家にはこれまで除霊した際にそこの悪魔が器として使ったアイテムが全て大事にコレクションされている。
戦利品かと思いきやその器ごと封印して保管管理しておいた方が安全だからということらしい。
成程と理解はしたが、これって非常に危ないコレクションルームではないか。
何かのアクシデントが起き、一つ間違ったらそこから悪魔たちが解放されて束で悪さを始めてしまうではないか。
管理責任は半端では無かろう。
その割に娘のジュディが忍び込んで遊んでるではないか、、、大丈夫か。
わたしも色々なものをコレクションしているが(コレクション体質なので)、アナベル人形などを飾っておくのはご免だ)。
日本の甲冑があったのが気になったが、、、この人たち日本にも除霊に行っているのか?
バチカンの指示を仰いでエクソシズムを行ったというのか、、、ラテン語を唱えて平家の怨霊とか退治できるのか。
面白いと謂えば面白過ぎるが、たぶんそれは無い。耳なし芳一にでも頼むしかあるまい。

欧米の人がこれを観るのと日本人とでは、やはり感覚的に違ってくると思う。
勿論、個人差は何処にでもある上での質的な落差であるが。
キリスト教を強く感じてしまう映画はあるが、これもその一つだ。
この除霊にかける献身的な身を捨てた救済行為にもその宗教性を感じる。

The Conjuring005

日本の場合、化け猫とか言ってもかつて酷い目に遭わされたモノやその末裔に至る系に対して恨みを晴らすというターゲットの絞られたものが主であるが、キリスト教系のモノは偶々出逢ったモノがターゲットにされることが多い。それに取り憑き好き勝手を働きズタズタにされ殺されたりしている。勿論一族に対しての呪いというのもあったが、、、その過程でキリスト教を侮辱するような行いをしてゆくという、やはりキリスト教のパラダイム内の物語に収斂するものである。
(そういえばルドルフ・シュタイナーを読んでいた時に、7代先の子孫へのカルマの影響等も語られていた。そうした部分もあるのだろうが)。

しかし、ポルターガイストというの、ホントにあるの?
必ずと言っていいほどこうした映画にはその現象が出て来るが、そこが俄かに信じられない。
わたしはモノがひとりでに動くところなど見たことない。風も無く。
神も天使もそう。
キリストや釈迦は確かにいたのだろうが。

The Conjuring006

このペロン家のキャロリンお母さんがほとんど身体を乗っ取られそうになり、悪魔の力に翻弄され愛娘を寸でのところで手に掛けそうになったところで、何とか踏みとどまり自分を取り戻すところはタップリとドラマチックであった。
きっとホントにこんな感じであったのだろう。実際飛んでも無く大変な事件であったらしい。
ウォーレン夫妻をはじめ周りの人々の身体を張った救済活動の賜物であるが、キャロリンが以前にロレインに語っていた、これがわたしの宝~家族よ、と言って見せた海辺で撮った「家族写真」が大きかった。その記憶が。

あの海辺でのあなたの大切な家族のことを思い出して、というロレインのことばで母は最終的に悪魔を振り切った。
この純粋な想いこそ古今東西において不変で普遍的なものである。結局ここで決まるのかも。
そうした想いの記憶装置はやはり大きい。何にしても呼び出すものである。”The Conjuring”
そのアイテムは重い念も籠もるはずだ。
やはり保管管理も重要な仕事となろう。良い意味でも悪魔のものであっても。




AmazonPrimeにて












スタートアップ・ガールズ

Startup002.jpg

2019年

池田千尋 監督
高橋泉 脚本

上白石萌音、、、小松光(起業家)
山崎紘菜、、、南堀希(起業家投資企業のOL)
山本耕史、、、水木(投資企業のCEO)
渡辺真起子、、、スナックのママ
宮川一朗太、、、子どもきらめき研究所所長
神保悟志、、、中川(南堀希の上司)


確かに「スタートアップ」ってよく聞いた。出来る女系の噺かな、と思って観てみたが、ちょっと紋切り型のコミカルな誇張が少しうるさかった。この光というヒト、スティーブ・ジョブスよりも天才物理学者に時折いるようなタイプである。
でもキャストもよく、嫌みもない前向きに観られる映画である。
小松光という随分幼児的というか野生児みたいな(変わり者)起業家と起業家に投資する大企業に勤める手堅い南堀希という個性の異なるふたりの織り成すドラマといったところだが、、、。
片や何にも縛られず自分のやりたいことだけやって生きる。片や安定を第一に慎重に事を進める。
さてこのふたりがぶつかり合いながらどうなって行くのでしょう、ってそんなことは、言われなくても知っている。
最初から着地への流れは分かっていてどうやって持ってゆくのかなというのを愉しむタイプの映画である。
予定調和を愉しむという。

Startup003.jpg

光は裏切られることに何故そんなにピリピリ過剰反応するのか。
アイデアのよく浮かぶやり手に違いないが、独りで何かやるにはキツイ人だな。
(しかし一般企業~事業としてやって行くのだから組む人は不可欠だろう)。
ピカソみたいな芸術家~単独者であれば別だが。

雨の日に傘さして進退窮まる感じで佇む姿には、とても共感できる。
わたしも経験あるから。
(未だにそんなものだ)。
パートナーを信じるかどうか、やはり事業をたちあげるのは、アイデアと周到な計画や資金の問題は当然として信頼できるパートナーが持てるかどうかがとても大きいことだと実感できる。

後、あちこちをまわっているあいだに計画が熟成して行くというのも分かる。
現場の声を聴きながらというよりアゲインストの声に鍛えられて強靭な計画に練ら上げられるという経験はわたしにもある。

そして、デカいおにぎりが食べたくなった。
へとへとになって精魂尽き果てたら、上手いものを片手間に食うに限る(笑。
仕事はまだまだ仕上がるまでは行かないが、端末叩きながら食べるのはデカいおにぎりに限る。

Startup005.jpg

価値観、性格も個性もまるで違うふたりがパートナーとしてどれだけ上手くやって行けるか。
案外、相容れないというものではないのだ。
だれでも自分と違う時間を生きている他者を認め、憧れを抱くことはある。

「無理だと思った瞬間、人はその思考に負ける。」光の言葉。
それはその通り。
何事も無理と自分に言い聞かせたらそこで終わるのは当然。

自分の信念との葛藤もある。
そしてパートナーを信じること。
この映画みたいな隠れ家的なパブ?があると足場を固める基地になる。
(ここは拠り所として大きい)。

紆余曲折の結果「チャイルドスペース」立ち上げ。
(正しい)情報共有がどれだけ大切か。
これは良く分かるが、情報の扱いが肝心となる。
これはしっかり手堅く事務的な処理にも長けた人が担当すると良いだろう。

園児にもっと親や先生が寄り添える時間が保証できる世界を作る。
この基本理念がしっかりしているところが良い。
わたしは個人的に寄り添われた経験がない。
光はよく頑張ったが、それを維持推進して行くタイプではない。
その後の実質運営は南堀に全面的に任せ、彼女はまた新たなアイデアを思い付いたところで、相棒に逢いに来るというスタンスを取る。
つまり彼女は永遠に「発案者」としてその都度、外部からやって来て南堀とプロジェクトを組むという形だ。

Startup004.jpg

光のような人は面白い。
近くにひとりいたらいいなと思う。
いるというよりノマドとして絶えず動き回っているのだが、、、。
(その割にタワーマンションに住んでいたりする)。
ともかく、こういう人は変わらない。
そこが良い。
変わらないという点では、わたしも今後100億年は何があろうと0.1㎜も変わらない(爆。


上白石萌音も山崎紘菜も良い女優だなあと思った。

光が食べていたデカいおにぎりを朝に食べたい。




AmazonPrimeにて



カルペ・ディエム Carpe Diem

Carpe Diem001

2018年

小原剛, 小原健 監督

柿本朱里、、、女子高生(自殺志願のドロップアウト女子)
マーシュ彩、、、謎の女子高生(父が暴力団員)
兼森広帆、、、暴力団の男(謎の女子高生の父)


40分の短編

ASCAの(アニメ)曲で「Carpe Diem」という言葉を知ったものだが、、、結構この”Carpe Diem”で曲が作られてるみたいだ。
YeLLOW Generationとか、、、あの浜田麻里のチューンもあってびっくり(笑。
YouTubeで検索すると幾つも違うモノ~曲が出て来る。
この言葉、流行ってるのかな。ファッションブランドにもあるみたいだし。

「その日を摘め」というラテン語ということ。
「今この瞬間を楽しめ」というのは、よく聞くもので、新鮮さは微塵も感じない。
それ以前に、こういうことを意識的に言うこと自体、もうその主体は今を楽しむことから遅延している。
だからそれを対象化するに及ぶ。
実際に楽しんでる者はそんなことを言う距離をもたない。

何にしてもそれを伝える~勧めるということは、その場所にはいないと言うことだ。
これは肝心なことである。
(評論家や哲学者の立ち位置の問題として)。


さてこの作品であるが(余計な噺で横道に逸れてしまった)、カメラワークも工夫がありテンポもよく面白い。
超越的な位置にいる少女(どうやら父親がやくざ)がご都合主義的に話をまとめてしまうが、それがなければかなりのもの。
ヒロインの女子が覚醒し片っ端やくざを撃ち殺してゆく。
何が起きていても渋谷の街なら全て呑み込んでしまうというモノ、、、。
北野監督ばりではないか、、、。ニヒリスティックでかつ爽快であった。
薬師丸ひろ子の「カイカン!」から随分時が経った感がある。

人間関係の縺れは長いことどうにも出来ず、彼女はリストカットなどを繰り返し自傷行為で何とか自衛して来た。
しかし、暴力団に遭遇しその場での無理強いされそうになりそこから必死に逃避する過程でピストルを偶然手にする。
「これ使えるのかな」と確かめ、一度使ってみると何かが吹っ切れた。こういうのがまさにプッツン。か。
いや、その前に逃げる彼女を追って来た暴力団員のパシリの男が車に轢かれる。
その動かなくなってころがっている男の姿を見て薄笑いする辺りから、意識は変性していたと謂えよう(笑。
ほぼ「快楽殺人」という形で撃ちまくっては殺し、彼女はみるみる笑顔になって活き活きして来る。
健康的に元気になる。これなら学校で明るい学生生活が送れるに違いない。
明日から学校に戻ろう。

この展開は、北野映画にもない。
殺すこと自体が快感~目的であれば「純粋殺人」とでもいうレベルである。
自殺を考えていた人間がこのような転換をするものか。果たして相転換なのか単なる延長なのか。
この物語~映像を見ている流れでは奇異な感覚はない。
自然な展開で観させてしまう。

Carpe Diem002


惜しむらくは(最初と)最後に出て来た不思議な女子高生が超越的な立場で、ヒロインのナイフで彼女を刺し殺して決着を付けてしまう点。
何かまとめを強引に図った感じで、実に便利なカードで処理した印象だ。
ヒロインのような娘はいておかしくない。もう少しそのまま彼女自身の心的な変遷を見たい。
まさか尺がぴったり40分とか製作側に決められていた訳ではなかろうに。
どのように収束させるにせよ文脈を俯瞰するようなハイパーな存在を噛ませて欲しくはない。

この不思議少女を使うのなら何らかの形で物語のなかにずっと絡ませて欲しいものだ。
最初と最後だけに安易なジョーカーを仕込むとチャチになって白けるだけだ。
(わたしのパパが殺されたなど文脈の中でどうやって知ることなどできるものか)。
カットバックがガチャガチャと入り、説明のつもりかも知れぬが、全く役に立っていない。

かなり面白く成り得た作品であったと思う。


最期に「カルペ・ディエム」に絡めて、、、
上海のコスプレーヤーLiyuuの唄う”カルペ・ディエム”アニメ「100万の命に俺は立っている」のEDの曲はなかなか可愛い。
そっちの方にわたしは流れて行った(笑。



AmazonPrimeにて






猫の国 (Cat Nation)

Cat Nation001

Cat Nation A Film About Japan's Crazy Cat Culture
2017
イギリス

ティムデルマストロ、カサンドラデルマストロ監督
ティムデルマストロ、クリス・ブロード、ジョアンスペンサー脚本


クリス・ブロード 、、、日本在住のイギリス人YouTuber


クリス・ブロードという日本語も分かるイギリス人ユーチューバーが日本各地(離島も含む)における猫フィーバーをレポートするというもの。
とても軽くてあっさりしたドキュメンタリー。
字幕がせわしなく見難いが、それほど注意して内容を追うほどのモノでもなく、ぼんやり眺めるくらいで丁度よい。
感想の言葉がとても軽薄で貧弱。キモイとか、、、ユーチューバーらしいと言えばそうだが(笑。

日本人と猫との親和性の高さ、密度はかなりのモノだと思う。
わたしが子供時代に住んでいた家では入れ替わり立ち代わり、猫が住み着いていた。
とても身近な生き物であり、自分にとって大変大きな存在でもあった。支えられたところも今思うとかなりのものだ。
大事な生き物であることは間違いない。
クリス・ブロードが最後に述べる日本は猫の首都だというのは当たっている、と思う。
付き合いの長さ、その歴史においても(ただここがほとんど語られない)。

映画では猫にまつわる場所が次々に紹介されてゆく。
かなり足を使っていることが分かる。
お陰で色々と想い出すことも少なくない。
猫カフェは最近どうなっているのだろう、、、猫居酒屋というのもあったな、、、。
当時の確認はできたが、今現在ではない。ここが心配にはなる。まだ商売大丈夫だろうか。
猫島と猫駅長と宝くじを売る煙草屋で働く猫は有名であり、わたしも知ってはいるが、その他実際のところどんな感じなのかというものも観ることが出来、そこそこ情報として役立つものであった。
この映像を見て、江の島は確かに猫にとって住みやすい感じがしたものだ。
少し裏に入ると長閑な猫路地だったりする。
こんな情景は確かに郷愁も誘い癒されるところ。

如何にもありそうで実際に確認できたモノ、、、
猫に関する本のみを扱う書店。
猫グッズのみを揃えた店。
キティちゃんのホテル、、、その室内~食事には、わたしもクリス同様、きつかった。
ともかく猫のアイコンに徹底的に拘った商店街、お寺などその増殖した招き猫とかお札~絵馬には確かに圧倒され居心地の悪さを感じるだろうし、キモイ気持ちも分かる(笑。
しかし「舐め猫」作者のインタビューとそのブレイクまでの経緯、当時の状況を振り返る部分はなかなかのもの。
特筆に値する。ここが無ければただの薄いレポートで終わっていた。

ここに紹介された名物店が今どうしているか気にはなる。
商売としては、愛猫家相手の店は景気にもさほど左右されず確かな特定の客層を維持できるはず。
来店を待たずとも、web販売などにウェイトを移して頑張っていることだろう。
商売は、ニッチなところを狙った方が確かな場合が多い。
猫アイテムによる店の再生や町興しについての着眼は良いと思うが、単に面白いで終わっているのは惜しい。

Cat Nation002

全体として観て、現在の日本における皮相的なレポートという感は拭えず、日本文化における猫というなら、もう少し掘り下げてほしいところ。
少なくともちょっとした伝承とか(文献までいかなくても)、、、邦画を観ても猫の祟りに関するものなどもあるし。
猫を祀ることの解釈にも広がりが出る思われる。迷信で片づけては余りに浅い。
猫を利用した経済効果についてももう一押し欲しいところ。
しかし猫に対する愛情は感じられた作品である。

特別面白かったというほどのモノではないが、暇な時間に猫を何となく眺めるくらいの気持ちで観るには良いかも。



AmazonPrimeにて







教誨師

kyokaisi001.jpg

2010年

佐向大 監督・脚本・原案
大杉漣 製作

大杉漣(少年時代:杉田雷麟)、、、佐伯保(教誨師)
玉置玲央、、、高宮真司(死刑因)
烏丸せつこ、、、野口今日子(死刑因)
五頭岳夫、、、進藤正一(死刑因)
小川登、、、小川一(死刑因)
古舘寛治、、、鈴木貴裕(死刑因)
光石研、、、吉田睦夫(死刑因)
青木柚、、、佐伯健一(保の兄)
藤野大輝、、、長谷川陽介


大杉漣にとって最期の作品となった。きっと彼の思い描く良い仕事が出来た映画だと思う。
彼の人に対する真摯な姿勢がそのまま役柄になっていたような、、、。
まずもって人が人を裁けるものか。
ましてや死刑制度など存在してよいものか。
これは以前からわたしの思っていることである。
そもそも生きることに、価値や意味を何故背負わせるのか。
生きるために生きているのだ。



教誨師の牧師と死刑の執行を待つ6人の死刑囚との最期の一時を描いたもの。
彼らは一つの部屋で一定の時間、2人で向かい合ってテーブルをはさみ自由な対話が許されるようだ。
まだ執行に余裕がある時と、いよいよその日が近づいた時の死刑囚の心的状況の違い。
まさに死を直前に控えた死刑囚の在り様がよく描かれていた。

死刑囚は拘置所内の独房で暮らしており、服装は自由で就労義務から解かれている。
彼らはそれぞれ随分個性が違う。
当たり前だが、人間これ程違うのだと言うことを実感できる。

kyokaisi002.jpg

社会革命家気取りの高宮真司。彼は佐伯を見下し社会の不備を幾つも挙げ連ねその認識を誇示する。そして自分のした行為はそれを正すための英雄的行為であると高邁な態度で主張する。
何度も対話が続いたころ、教誨師の佐伯保が高宮真司にかけた次のような言葉が印象に残る。
「わたしはあなたを怖いと思った。分からないものを人は怖がる。今までは神の御心を知りたいと思っていました。でも今はあなたを知りたいと思う。だからわたしはあなたの傍にいることにした。理解する為ではない。」
「わたしのやるべきことは、空いてしまった穴をじっと見つめることだ。穴が何故空いたかとか誰が空けたかではない。わたしはあなたといっしょにいますよ。あなたもわたしや殺めてしまった彼らと一緒にいてくれませんか。寄り添ってもらえませんか。」
彼は最期の時を迎え、自分独りでは立てない程に憔悴しきっており、よろけながら佐伯に抱きついて来る。
「高宮さん。わたしもあなたに感謝します。」

kyokaisi005.jpg

妄想塗れの自己中心的な噺ばかりを一方的に畳み掛けて来る野口今日子。彼女は基本的に人の噺を聴く耳を持たない。
対話を経ても基本的に何も変わらず仕舞いであった。外にも内にも救いを求められず妄想に逃げ込む人。
死刑の事実から逃避し、また美容院を開く夢を語る。
「神父さん花粉症やないの?」
「でも分からんで。ある日突然なるんや、何の前触れもなしに。気がついたときはもう手遅れや。」
虚を突かれた。示唆に富む発言。実は自分の置かれた立場を認識しているのも分かる。
大阪のおばちゃんである。

kyokaisi003.jpg

一見従順で無垢に見える進藤正一。彼は佐伯が聖書を読むことを勧めたことがきっかけで文盲であることが判明する。
佐伯に字を習うことになるが、ひらがなは、程なくマスターする。
しかし彼は、文字とそれが指し示すものこととの間の乖離に苦しむようになる。
これはことばと世界との乖離の問題でもあろう。大変本質的で哲学的な問いであり身もだえである。
このヒトは詩人にでもなるしかあるまい。週刊誌のグラビアページを一枚破り大切に持っていたが、佐伯からキリスト教の洗礼を受けた後、その宝物を彼に手渡す。
そこには習いたての文字で「あなたがたのうち、だれがわたしにつみがあるとせめうるのか」と書かれていた。
新約聖書「ヨハネによる福音書8章46節」ちゃんと渡された聖書を読んでいた。だが、、、。

われわれの言葉(文字)でモノを認識~文節・有機化しそれを世界だとしていること自体が罪なのだ。
正一とわれわれとの差は、高宮など及びもつかぬ程に大きい。
正一はある意味、アダムとイヴ以前のヒトであった。われわれの言葉を無理に吸収し当然体調もおかしくなるはず。彼は洗礼後、車椅子生活となっていた。

kyokaisi007.jpg

小川一は、内向的で生真面目な男である。その為、酷くストレスをためやすい。その発散や解消の方法を考える余裕も貧窮のせいもありもたなかった。
周りの見方に圧され自己主張も出来ないことで自暴自棄の傾向を強め、身を亡ぼす結果を呼んだと謂えるか。
息子が借りたバッドをただ返しに行っただけなのに、余りに酷い侮辱を受け、気づいた時には周りは血の海。殺人の為の計画的犯行であると決めつけられそれを自ら認めてしまう。その結果が死刑だ。それでよいのか。

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鈴木貴裕は、恋人と結婚に反対するその家族を殺害し、自閉し押し黙っていたが牧師が自らの半生と兄の件を語るのを聴いてから、感情が解れ自分の噺をし始める。そして彼女の霊?姿を見て激変する。
最期には、わたしは彼女もその家族も許すことにすると晴れやかな表情で部屋を出てゆく。
ここでは一切客観的な事実関係など分からないが、彼としては救われたことに違いない。
その人間が安らかに死に向かってゆけることが大切なのだ。ここでは。

kyokaisi006.jpg

吉田睦夫はやくざの親分であり、やくざ特有の人慣れしたうさん臭さを纏っている。
一番、牧師に対して打ち解けた態度で世話噺を向けるが。
そうしたなかに、これまで独特の雰囲気で狡猾に人を丸め込んで来た人生が見て取れた。
死刑を先延ばしする秘密の噺を牧師に打ち明けるなどして彼を手なずけ上手く操作しようと企てる。
ここにあっては、誰だってそうだろうが、突然執行の決まる死刑を何よりも恐れていることが分かる。
ある意味、誰よりも死を見詰めてしまう特殊な場所なのだ。

そして佐伯保も彼らと対話しながら自分自身の過去~兄との関係を見詰め直してゆく。
自分の為に人を殺し、自らも自殺した兄を直視する。
その過程で、聖書の言葉を伝えるにとどまらない関係を彼らと取り結び始める。
牧師としてではなく。一個の人間として。
終盤の彼の覚悟が鬼気迫るところ。


佐伯も語る。
生きることに意味などない。生きるために生きている。
(かつてsaluもそう唄っていた)。
牧師の言葉を超えてゆく。



AmazonPrimeにて







亡霊怪猫屋敷

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1958年

中川信夫 監督
石川義寛、藤島二郎 脚本
橘外男 原作

『現代篇』 モノクロ
細川俊夫、、、久住哲一郎(医師)
江島由里子、、、久住頼子(妻、結核を患う)
倉橋広明、、、健一(頼子の兄)
五月藤江、、、老婆(怨霊)
杉寛、、、慧善和尚
車夫吉蔵、、、 山川朔太郎
広瀬康治、、、須藤:
河合英二郎、、、運転手
千曲みどり、、、平松とよ子(看護婦)

『時代篇』 カラー
芝田新、、、石堂左近将監(癇癪持ちの家老)
和田桂之助、、、石堂新之丞(左近将監の息子)
北沢典子、、、八重(腰元)
五月藤江、、、老婆(怨霊)
石川冷、、、佐平治(従者)
中村龍三郎、、、竜胆寺小金吾(家老の囲碁の師匠)
宮田文子、、、宮路(小金吾の盲目の母)
国方伝、、、仲間八太郎
辻祐子、、、お里(腰元、新之丞と婚約)
三重明子、、、早月(腰元)


地獄」の監督ではないか。
力作が期待される。
日本の伝統的な怪談をまともに観たという感じ。
雰囲気が良い。
現代編でも転地療養の為、九州の片田舎の酷く古い屋敷に引っ越して来る。
舞台は整っている。
現代編はモノクロで、過去の祟りの生じた時代編はカラーで映される。
この設定も含めとても観易い。

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しかし気になったのは、猫の幽霊の祟りが、悪の権化である家老を直接、直ぐに殺すのではなく、周辺の女に乗り移り、恐怖を充分に煽ることで、相手は恐れ不安の念に苛まれながら自滅してゆくと形をとる方法である。
家老と息子が殺されるのは良いが(丁度相討ちだし)、彼らと関りを持っただけの女まで巻き添えを食うのは理不尽である。
特に気立ての良い腰元の八重は気の毒である。家老の息子である新之丞と契りを結べばもう一族に変わりないか。
家老に囲碁に負けた腹いせで切り捨てられた小金吾の母の宮路が一族の末代までも祟るぞと言って自決したが、頼子を何度も苦しめたが殺すまでには至らなかった。
そして小金吾(音の響きが何とも気に入った)の屍が塗りこめられた壁から露わになって崩れ落ち、それを弔うと呪いが消え頼子が罹っていたいた結核までも治ってしまう。何とも慈悲深い怪猫であった。
それでいいのか。

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面白いのは、悪家老の母に猫が乗り移り終始彼女が呪いの妖怪となって出ずっぱりであったこと。
役者としては、もう腕の見せ所でやりがい充分であっただろうが、敵の母親に乗り移りその血筋の末代まで呪うというのも何か奇妙な感覚もある。一番憤り、恨みの深く、猫とも親密なのは、母・宮路であろうが、何故か姿は敵の母なのだ。
不気味な化け猫というルックスからすると一番相応しい人選とは謂える(笑。

劇中。石堂家従者の子孫にあたるという頼子が何度、恐ろしい目に遭わされたか。
その度に優秀な医者であるという夫に怖さのあまり縋りつくが、、、。
この久住哲一郎という医者。全く妻~患者の噺を聴かない。
必死に何を訴えても全て「気のせいだよ」で相手にしない。
この男、何度話を遮り、気のせいだよと否定したか。
おまけに僕がいるから心配ないとか言っておいて、肝心な時にはいつもいない。
これでよく医者が務まるものだ。この医者では安心して任せられない。
確かに、この手の医者はいるものだが(わたしも憤り途中でやめた医者は何人もいる)。

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ここに出て来る連中は、それは幻とか夢だとかでどいつもこいつも苦しんでいる人の話を否定する。
余りに災難が続くので心配したご住職からお札を頂くが、この医者、家の外にぞんざいに貼るものだからお札は風に飛ばされてしまう。この役立たずのボンクラが。
末代まで祟るという勢いの怪猫の老婆がまた妻の頼子の首を絞めに来る。
夫は呑気に雨戸を閉めに行く。夜中に空いていたことをまず不審に思い妻を心配するところだろうが、なかなか閉まらない雨戸に奮闘する。一つの事に関わるとそれに集中して他には気をまわさないヒトなのだ。立派である。

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という流れで、この夫婦も殺され、妻の兄も含め皆いなくなるかと思いきや、先にも書いたが何故か屏風の背後の壁に塗り込まれた小金吾の屍が露出して来て、それをしっかり弔うことで、妻は前より元気になり、転地療養は大成功に終わる、、、。
この最後の異様なハッピーエンドは、わたしにとりかなり強力などんでん返しであった。
近頃の日本幽霊界の貞子とか何とかという連中は、弔ってやる程度でひっこむような甘さはない。
悪の元締めのやったことの悪辣さから見ればかなりソフトな報復に見えた。


「小金吾」という名前が気に入った。何かに付けてみたい。




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間違えられた男

The Wrong Man004

The Wrong Man
1956年
アメリカ

アルフレッド・ヒッチコック監督・製作
マクスウェル・アンダーソン・アンガス・マクファイル脚本
マクスウェル・アンダーソン『The True Story of Christopher Emmanuel Balestrero』原作
バーナード・ハーマン音楽

ヘンリー・フォンダ、、、マニー(バンドのベース弾き)
ヴェラ・マイルズ、、、ローズ(マニーの妻)
アンソニー・クエイル、、、フランク・オコナー(弁護士)
ハロルド・J・ストーン、、、バワーズ警部補


ヒッチコックがカメオ出演ではなく導入の語り部で出ていた。これはいつもと違うなと思ったらそうだった(笑。
確かにホラーだ。

The Wrong Man003

マニーは、妻の為にお金を借りに彼女の保険証書をもって保険会社を訪れるが、そこで過去二度も強盗に入った男と間違えられ逮捕されてしまう。
何故行員は彼を犯人だと訴えたのか。
思い込みによる見間違えである。
事件の際の目撃者の証言が当てにならないのはよく聞く話だ。
先入観や頑固な迷妄から見ていなものを見たと言い、聞いてもいないのに聞いたという。
それが本人にとって嘘でないことが厄介なのだ。本人は正義感タップリでいるから困ったモノ。
そかしこんなバカげたことで、冤罪により自分は勿論、家庭そのものを滅茶滅茶にされては堪らない。
だが、実際そんなことがある。
この噺も実話が元になっているようだ。

ヒッチコックの撮るサスペンスの中でも一番面白味が無くシビアなものになっている。
彼の作品はどれをとっても軽妙洒脱で、怖い事件でも何やらワクワクするものだが、これはひたすら暗くてシンドイ。
裁判でも全く勝ち目がなく、(災難を全て自分の落ち度と受け取ってしまう)妻は精神をやられ病院に入院してしまい、ただでさえ大変な時に支えてくれるはずの人のケアをしながら、そんな気持ちになれぬだろうに心地よいジャズなどをクラブで聴かせなければ金も入らない。
おまけに母親がとても必要な時期の子供もふたりいる。
どん底である。

The Wrong Man001

しかし、裁判において被害者側共同体の証言だけでこれほど有利に進められるものなのか。
非常に危ないものである。更に弁護士がまるで役にたっていない。
劣勢にまわりどうにもならない状況が続く。

そんななか最後の最後に真犯人が捕まる。裁判は一瞬に吹き飛ぶ。いままで何やって来たのか、と言う感じ。
この男はこれまで色々なところで断続的に強盗を繰り返してきた。
彼としても身代わりが捕まっていようと、そろそろ自分自身の仕事をやらねばならない。
喰っていけなくなるだろう。
捕まった男はマニーそっくりであった。首実検の危うさ(当たり前だ)。似ている人間なんていくらでもいる。
警察は、な~んだあ~と言うことで、もう君はいいよ、となるが地獄の裁判から解放され無罪放免となったとは言え、それを喜んでくれる妻は廃人同様。子供たちも大変なストレスに晒されてきた。
警察は終始、途轍もないドン臭さ。
初動からあり得ない動きで、決めつけによりサッサと終わらせようとしているだけ。
陪審員の質の悪さも酷かった(元々この制度はあり得ない)。
理不尽以外に何と謂ってよいか、という御話であった。

The Wrong Man002

二年後にこの妻は復帰し、普通の家庭生活に戻ったという。
それは良かった。実話であるし尚更良かった。
そうはならない場合も少なくないはず。

わたしもこの手の輩の思い込みによる甚大な被害を受けている。
映画では、その点はっきりと決着はついたが、なかなかそうはいかない。
しかしわたしの場合、突き進む上で、一ミリのブレもないことは幸いである。
絶対的確信があることは、強みでしかない(笑。

マニーとローズの心情の痛々しさがよく伝わって来た。
流石にヘンリー・フォンダ、役者はやはり上手いに越したことはない。
何故かピーター・オトゥールを想いうかべてしまった(似ているのだ雰囲気が)。



BSTVにて








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2017年

石川慶 監督・脚本
yonige 音楽

山田孝之
中村ゆり
天光眞弓

愚行録」の監督
問題提起の映画だった。感情が揺れ動いたものだ。
今ある自分を1000%承認するうえでも役立った。


これは26分の映画。
新人ガールズバンド”yonige”と山田孝之,が組んで製作したみたい。

わたしは最近、ショートフィルムをよく観るようになった。
大きな春子ちゃん」で味をしめてからであろう。
時間的に(尺が短いので)観るのが楽、と言うより内容的にスッキリ観られるところが良い。
細かい伏線やらミスリードを誘う仕掛けやら幾重にも解釈できるシーンなどほぼない為、楽なのだ。

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この映画、やたらとシンプルに見えて機微が描かれる。と言うより全て機微だけで出来ているという感じ。
山田孝之と中村ゆりが共に芸達者で雰囲気のある人たちだから、それはタップリと描かれる。
そう、雰囲気なのだ。それに語らせる(案外厄介なタイプか)。
片田舎の床屋さんの山田孝之と明日友人の結婚式に出席するOLの中村ゆり。
2人は久々に逢う幼馴みたい。ゆりの方は帰郷ということ。
繊細な空気漂う場にあって、相手のこころを探り合うような言葉のやりとりから、髪というインターフェイスでの関りである。
密やかだがビビットに通じ合ってしまうところがあるはず、、、
だが、わたしは眠ってしまった。

特に”yonige”というグループのチューンには惹かれるという程ではなかった。
わたしにとって日本のミュージシャンで、ここ最近最も強く惹かれたのは”Girlfriend”だ。
大原櫻子は相変わらず良いが、、、。
他は特にピンとこない。
いくちゃんも乃木坂卒業後は、音楽家としても頑張って欲しい(ミュージカルだけでなく)。
何の話だ?

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目を覚ましてまた少し戻したところから再度チャレンジしたが、また眠ってしまった。
どうやらわたしにって、この映画、睡眠効果があるようだ。
結構、心地よいのかも。
結局、三度目の正直で観きった(祝。

う~ん、前髪変な風に切られて元気を取り戻して笑顔で自転車こいで去って行く。
何やら後味の良い映画であったようだ。


昔、彼に前髪を切ってもらい酷い出来であったらしいが、その時間流に引き戻されたのかも、、、。
その意味でのリフレッシュというかリボーンである。
彼女、暫く外でウジウジ電話をしており、煮詰まり切った今の時間系から乗り換える必要性があったのだ。
そんな時、髪を昔馴染みの(かつて恋仲だったの?)友人に切ってもらうなんて、良い思い付きだった。
自転車と言うのも良い。解放のツールでもある。

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ともかく、、、山田君にとっても、良かったみたい(笑。
髭を剃ってすっきりするようだ。




AmazonPrimeにて







S君 小さな情景展 Pre003

sabu0023europeanstyleofHachimanyama2021.jpg  ☆☆☆ Pre003

最終日。
これから後の絵となるとわたしの知らなかった、初めて観る絵ばかりとなる。
S君の”presence”が認識できる作品群となるか。
前回、特集した「S君の仕事」から、もうずいぶん時が経ったことを実感する。

また以前とパソコン環境が不可抗力により変わってしまったため、スキャンの精度がだいぶ落ちている。
その影響が出てしまった部分があり残念。
そこは改善しておきたい(こうした機会はそうはないが)。

2018
「コンサバトリー」
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わたしもコンサバトリー欲しい。中で多肉を(メダカも)育てたい。
最近、メダカを貰ってから、メダカにも凝り始めたところ。
(ここのところ人との良い交流もブログ上だけでなく増えて来た)。
ともかく、このような空間はそのうち何とかしたいものだ。
ここで思いっきりボーッと寛ぎたい(笑。

☆ Pre001で紹介した「湘南幻想青大将」(2007)や「湘南幻想ワニ園午後」(2010)の流れをくむわたしの好きなタイプの絵である。
ピアノがやけに小振りで中央テーブルが大きくてゴツイ、ちょっとポール・デルヴォー空間でもあるが、長閑な時間の流れが窺える。
日差しと柔らかい菫色の影が気持ちを鎮静させる。
こういう絵は描いていても心地よくなるもの。
ここでもポイントは、黄色だ。黄昏の色でもあるが、トワイライト・ゾーンの色である。

2018
「緑園都市」
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珍しい質感だ。
一見ざらついたテクスチュアに見えて、筆致による効果であることが分かる。
黄色の魔術だ。
ちょっとゴッホみたいではないか。
あのような超絶的な盛り上げこそないが、ゴッホの「夜のカフェテラス」を咄嗟に思い浮かべてしまった。
意外だが、S君とゴッホの感性的な近さを感じるところ、、、。
自分の快感原則に忠実に生き、絶対にそれを曲げない「頑固さ」はゴッホとどっこいどっこいか。

それにしてもこのタッチとあからさまな黄色の偏愛。
更に傘を見て分かったのだが(遅い)、雨降りである(笑。
成程、このざらつきと最初感じたのは、雨降りの夜景の雰囲気~濡れた煌めきであったのだ。
雨粒を具体的に描かず地面(アスファルト)の状態を光で絶妙に表している。
(これに気づくのが遅かったのは、スキャンが上手くいかなかったことにもよる。実物を鑑賞してほしい)。
お約束の電車も緑と黄緑の4両編成で黄色いライトを放ちながら走って来る。
今回はスピードも感じる(笑。

2019
「SunSetTown」
sabu0019aSunSetTown2019.jpg

「緑園都市」と同じ質感である。
黄色~トワイライト・ゾーンの刹那。
しかし何と言っても、この構図。
滝みたいに道路が上から下へ落ちている。
高架橋を水平に列車(蒸気機関車)が走ってゆく。その対比から見てもこの上から下の道路の角度には驚くしかない。
車が滑り落ちるように走って来るが、ここを登る車は気の毒だ。
この地形では画面上方を登ってゆくゴンドラが丁度よい。
しかしどうしてこんな構図・配置を思いついたのだろう。
普通の街に見えて、まるで遊園地みたいではないか。

2020
「TeaTimeInEnglishGardern]
sabu0020TeaTimeInEnglishGardern2020.jpg

繊細で緻密な黄色から緑~深緑へのグラデーションが。
この安定した構図の広がりのなかで、何とも心地よく息づく。
緑はある意味、最も難しい色であり、基本的に青と黄色の微妙な混色によって様々なニュアンスとして生成される。
敢えてどっしりとした高架線を中央に置き、その下方にほぼ左右対称に扇型に広がる池(沼?)を配する。
最初、南禅寺水路閣みたいな水道橋かと思ったが、S君はここにも可愛らしい蒸気機関車を玩具の様に走らせてしまった(笑。
ここはお約束だから仕方ない。
いや、走っていなければ心配になるというもの。彼の絵に記するサインに等しいのだから。
ここのテーブルで是非とも紅茶を飲んでみたいものだ。
遠くの緑の山から一番手前のテーブルまで、見事な調和と統一感でまとめられているが、ただ一点ウェイターがその場所~地形から見て極端に大きい。この人はいらなかった、と思う。

わたしの大好きな公園にこれと酷似した構図の場所があり、とても魅かれる。
(これが一番好きな絵になったかも)。

2020
「農林総合研究センター」
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珍しく汽車が走っていない。きっと「農林総合研究センター」という現存する特定の場所を選んでしまった以上、近くに鉄道が無いことで描けなかったか、、、別にそんなことお構いなしに「幻想」と名付けて「突然やって来た汽車」と言うのも乙なものだが。
ここでは踏みとどまった(笑。もしかしたらこのフレームの外で出番を待っているのかも知れない。
緑はまさに名人芸、いや名匠という感じで、これだけで魅せてしまうが、上からはキングサリみたいな藤に似た植物が垂れている。まさに緑三昧。
そして更なるポイントは白であろう。
白っぽい猫から白い花、そして白い日傘の白ドレスの女性の後ろ姿。
しかしこの白は目立ちはするが強い主張や方向性は感じられない。
特に何かを期待させる彼方に誘うような強引さはなく、寧ろ二股に分かれたところで女性は佇んでいるように窺える。
誰かの迎えを待っているようにも思える白。
とてもひっそりとしたドラマを感じるところ。

2021
「TeaTime]
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これも素敵な、緑の”TeaTime”だ。
恐らく毎日これに近い日々を送っているのだろう。
羨ましい限りである。

この外に張り出した(設置された)ガーデンテーブルみたいな開放的な場所は大変オシャレである。
フレームの上に鳥が乗っているところが廃墟感を演出していて酔える(爆。
コンサバトリーとは繋がりはなく別のコーナーであろうが、こっちでお茶したり、向こうで花に水やりしたりも良いものだ。
ここから見やる緑の多様性も充分堪能できる。
特に遠方の緑。
ブロ友のST Rockerさんがお寄せくださったコメントにある「遠くにあるものの情報密度は決して近くのものよりも疎であるようには感じられないのです。」という卓見。全く同感!
遠くの緑が実に濃い。
よくTVのお絵描き審査の番組などで、全てのモノは線遠近法で縛り消失点に吸い込まれるように描き、遠くは空気遠近法を使い空に滲み暈けるように描くんですよ、とか解説しているが、遠近法で全てを整序すればよいというものではない(遠近法は一つの制度に過ぎない)。これは絵画世界なのだから、一つの画面に沢山の固有時~場が活き活きと存在して響き合っていたらより楽しいではないか。


時折用を思いついて電話をすると奥さんが「主人は散歩に出かけております」と言う。
お茶をして、散策を楽しみ、後は絵を描く、か、、、。

、、、勝手にしなさい。

2021
「八幡山の洋館」
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ここには、まだ行ったことが無い。
今回の絵画展の会場でもある。
とても素敵な空間が満喫できる場所だそうだ。
O君の曲もピアノ生演奏で聴くことが出来る大変贅沢な時間が過ごせそうである。

「わたくしここが気に入り描いちゃいました!」と言っていたが、ピンクの建物なのか、、、
目立つなあ。
青、赤、黄の調和も見られ、、、かなり可愛らしい建物だ。
ともかく内部空間が大変”comfortable”なことが夢想できる。
きっと、素敵な絵画展となるはず。



自分の作品もしっかり描かないと、、、。
ちょっと頑張ろう。
わたしは、歪めて描くことは出来ないので、平面抽象の生産をしている。
その他にも進めている計画もあるし(笑。
そろそろわたしも動き始めたい。



S君 小さな情景展 Pre002

sabu0023europeanstyleofHachimanyama2021.jpg ☆☆ Pre002

中日である(笑。
昨日より新しい作品群となる。
だが、彼の絵は滑らかに段階的に変わってゆくというタイプのものではない。
あるところで飛躍的な展開を見せたり、急に昔の作風を思わせるものが飛び出たり、何とも言えない過程をくぐってきている。
そこが面白いところでもあるのだが、、、。


2011
「世田谷線に乗って」
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これは初めて見る。
写真で貰っている為、サイズが分からないが、小さな感じがする。
品の良さそうな女子が二人、片や車上から、一人は線路を渡りながら手を振りあっている。
同じくらいの年恰好からクラスメイトか。電車登校ってちょっと憧れる。「花とアリス」もそうだった。
早朝、電車がいつもの時間にホームにやってきて、線路を渡る少女はそのまま乗り込むに違いない。
「おはよう」とお互いに声をかけているところだと思うのだが、、、。
光が長閑で優しい。
その為か、音が全くしない。
そんな一瞬。

刹那の凍結した想いは(誰にとっても)密かな宝物である。

2012
「夏休み」
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これが来たか。
S君の仕事-Ⅳで取り上げているが、もう少し古い絵だと思っていた。
「家の駅近くの米軍基地の住宅をふと連想する。
少女の眼前の曲がってゆく路は何処まで続くのだろうか?
(この路には魅了される)。
上呂を持って境界に立ち止まる少女には既視感を充分持つが、手にアイテムを持っていることが、絵画世界を饒舌にする。
ドラマ性と生気が揺らぎ立つ。
だが、一歩踏み込めずに彼女は立ち尽くす。」

まるで向こうの一角が額縁で区切られているかのような、別次元の入り口みたいに思える。
当初はお花に水をやりに来たのだろうが、今やそれも忘れ呆然と立っている少女。
彼女を誘惑するようなウサギもいたりするが、一歩を踏み出すことは出来ない。
手前にある鉢物の花と同じ花が向こうにも置かれている。
一見地続きに思えるのだが、、、そう薄い建物の窓を通して向こうの木々~連続する光景も窺える。

しかし鑑賞者から見てもそこが、眼前の建物の壁に描かれた「向こうの世界」の絵である疑惑も払いのけられないのだ。
(窓もトリックかも知れない。まるで、マグリッド)。
彼女はその絵を神妙に鑑賞しているのか、、、。これぞインターフェイスの悪夢。
イデア界と現実界の狭間にも思えてきて、、、向こうが本質でこちらからは渡る権利がないとか、、(笑。

そう、どこかでこんな戸惑いを覚えた記憶がわたしにもある。かなり怖い絵である。

2012
「スカイツリーと華厳」
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S君の仕事-Ⅴで取り上げたもの。
昨日の「学校への道」に似た絵である。縦長のパースペクティブを強調した絵であることを超えて。

「スカイツリーお出ましである。
飛行船も飛んでいる。(わたしも飛行船はよく絵に描いた)。
思い出深い電車特急「こだま」(151系)も走って行く。やって来たというより行くぞという方向性を感じる構図だ。
そう、スカイツリーを軸(ほぼ中心)に、飛行船の飛行の線、鳥の飛翔の線、「こだま」の走行する線、煙突の煙のなびく線、暫し停泊している屋形船のこちらに向かう線、の各線が誇張された放射状のパースペクティブを持つ。
これらは異なる時間流の輻射と受け取れるものだ。
更に画面の上下がほぼ半分に黄色と緑に分割されている。空を漂う系と水上を漂う系との質=色の差であるか。
スカイツリーが中心を左にズレているところが、絵の力学において上手く全体をまとめている。
無意識的な平面の正則分割的構成ではなく、意図的で意識的な幾何学的構成に作家的意欲を感じる(笑。」

今でもこれだけ見ると、上記と考えは変わらないが、「学校への道」を見てからだとホントに似ていることが気になる。
どちらも『黄色の郷愁』に染め上げられているからだ。
彼の絵の「色」についての側面を考えさせられる。
「こだま」は「華厳」という名がついていた。

2012
「窓辺の花」
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これもS君の仕事-Ⅴで取り上げたものだ。
「初期の絵に一見、内容~要素が似ているが、空間の奥行きと空間自体の質的厚さがとても濃厚である。
そして要素の置かれ方も奥行きを作ってゆく。
立体感と色彩の息遣いも初期の絵とは別物である。
わたしは、当初どの年代でも彼は同じ世界を描いているため、時系列の重要性はないということを述べた。
半分はそうなのだが、半分は違う。
テーマは同じであっても、その世界は徐々に自発的に破れ、外に解放されてゆくのだ。
創作とは、制作の反復とは、そういうものであるのかも知れない。」

特に付け加えることもなく現在も同様の考えだが、彼のこうした静物画タイプの集大成的な絵に思える。
今後、またこのようなモチーフで描かれることは充分に考えられることだが、、、。
何と言っても、人は反復によって生きている。
彼はそれに対し実に誠実な人であるから。

2013
「おめで東京タワー!」
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キッチュな昭和ジョークだ(ジョークだろうか)。
連続してS君の仕事-Ⅴで取り上げているもの。

「東京タワーである。
これはまさに懐古的な、また回顧的な意匠である。
今の時点で、昔やってきた絵をもう一回描いてみたいという気持ちか?
多くの要素を予めセットして、スイッチを入れた途端に起きた騒ぎ。
奥行きだけでなく電車やバスや飛行機や風船や傘のカップルたちが一斉に走り出し宙を舞うダイナミズムとちょっとキッチュな面白さ、、、。ひとことで言えば、趣味の世界。
どうしてもこういうのをやりたいヒトなのだ。
やはり時系列は余り関係ないな。
しかし絵は生命感があり気持ちよい。明らかに描画手法は繋がっている。」

やはりやってしまうのだ。何故か植木等を思い浮かべた(爆。
「分かっちゃいるけど、止められれない」のノリで描いているのがよく分かる。

2015
「江の島シーキャンドル・ハワイアンセンター」
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またもやS君の仕事-Ⅴから連続して。

「江ノ島である。
S君にとって江ノ島は楽しいところなのだ。
楽しいから、それを詰め込みたい。
先程の乗り物ラッシュではないが、ともかく好きなものが色々入って来るのだ。
ある意味、シンプルでナイーブな絵であるが、シンプル(省略)して単純化を図る方向性とは逆である。
様々なモノを収集し増殖する絵でもある。また作者でもある。

最初期にこんなテーマの絵があったが、もう構図は遥かに複雑になり、色彩も筆致も自在性はずっと増している。
ただ、技量が増したと言うより、解放され表現が深まり広くなったのだと思う。

しかしヒトは変わらない。
やはりS君なのだ。
彼は不変の人である。」

まったくである。
彼の絵の他に、空間の歪みが好き勝手な楽しさに還元されたものは無いのでは。
形式がほぼ完全に内容化している。
その生理が半ば無意識に作品を生産(量産)してゆく。

2016
「StarDustNight」
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本日最後は、S君の仕事-Ⅲで取り上げたもの。

「横浜の風景のファンタジックに変性したものか?
夜景であるが彼の場合、朝であろうが昼だろうが夜景であっても、それは単なる光力の差、色光の違いに過ぎない。
全て(モノによってはガラスケース内の)ジオラマを照らす特定の光源である。
S君のなかのイメージなのか?
寧ろインターフェイスなのだろう。
彼と環界の間に生成される薄い煌びやかな街なのだ。」

とても薄い街である。
稲垣足穂の小説にもあったが、、、。
ふとした街角に潜んでいるような、細田守監督の『バケモノの子』に現れる「渋天街」みたいに。
こちらもアルタード・ステイツにいる必要があるか。インターフェイスに触れるには。
彼の絵は時に「トワイライト・ゾーンの怪」という感じがする。


今日は一つを除き、見たことのある作品ばかりであった。
しかし新たな気持ちで観ることが出来た。
絵とはそういうものだ。



最終日☆☆☆ Pre003に続く。





S君 小さな情景展 Pre001

sabu0023europeanstyleofHachimanyama2021.jpg  ☆ Pre001

いよいよ8月下旬に迫ったS君の絵画展「小さな情景展」の作品一覧から第一弾(笑。
以下3回シリーズの予定で、S君より伝えられている作品ラインナップにあるそれぞれの絵を確認しておきたい。
(わたしにとってすでにブログで取り上げ知っているものと初めて見るもの、あれ何であの作品がチョイスされないのか、、、色々と想いは込みあげてくる)。
写真はS君より送って頂いたままのもので、実物より一回り小さくフレーミングされている感じのモノもある。
気にはなったが、彼としては、あくまでも展示するものが分かればよいというレベルのものだろう。
また、差し替えなどの変更もまだあるかも知れない。

一口に言って彼の絵は、癖になる。一度面白いと思って観てしまうと、次が気になり今どんな絵を描いているのかも気にしてしまうそんな関りが続いている(わたしにとって)。

なお、わたしが美術展の解説と一言コメントを仰せ付かっている関係上、ここでも全体を俯瞰した上での個々の作品についてのコメントも(以前書いたものも含め)取り敢えず記しておきたい。少し長めになるかも知れぬが、、、。
(当日用に改めて書くつもりではある)。


1979
「夏の午後」
sabu0001summerafternoon1979.jpg

これはすでに取り上げている。S君の仕事-Ⅰにて。
「勿論、覗き見しているのがS君である。
本人も自分の中の鉱脈~郷愁に染められた記憶を覗き込んでいるという行為を対象化~自覚している様であろうか。
描くことを意識し始めたという、、、。しかし遠いね、彼女、、、。」
この絵から始めるのは分かる。
自分が絵を描く訳をはっきり意識し、晴れて好きなことを好きなように描いてゆくぞと決めた記念碑的な絵であろう。
実際にありそうな外界に見えて、とても概念的な記号で構成された隙間の無い風景であり、よく見ると結構恐ろしい(笑。

1999
「妖精の泉」
sabu0002fairyfountain1999.jpg

この絵は、S君の仕事-Ⅲで取り上げている。
だが、この作品自体のコメントはしていない。
彼の拘りの強さに関して只管述べているだけ(笑。
大変色使いがビビットになり、世界が活き活きとしてキラキラ煌めき出す。
「夏の午後」から見ると20年も経った作品である。あ~っ感慨深い、、、。
絵を描き続けることで感性が解放され豊かになってゆくことが実感出来る。
形の捉え方は概念的なものが残るが、装飾的な昇華とも受け取れる上に、タッチや色彩の自由度がグンと高まった。
これをもって、テクニックも上がったと謂いたい。
小手先のモノではないのだ。
しかし何とあからさまに(臆面もなく)ファンタジック。

2005
「紫陽花」
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初めて見る絵である。似ている絵は少なくないが(S君の絵である以上、当たり前だが)ある意味典型的な絵でもある。
この隙間なく充満・充填したモチーフのフィギュア全てが何というか空気を締め出している(自然法則を無視している)彼ならではのもの。
それによる人工的な模型像が現出する。
光が強く射しているように見えて、一様に明るい。装飾的な日光。説明的な生垣(まず手入れは不要であろう)。
そして傘をさす女の子が佇むが何かを志向する気配は無い。その向こう川の飛び石に犬を連れた男の子がいるが、この二人を繋ぐ遠近法は成立していない。これだけの体の大きさの差はこの位置関係からは生まれない。二人は別世界にいるのだ。
この独特な歪みの配置構成。彼の好きなカミーユ・ボンボワをはじめとするナイーブ派の強度が感じられる。
一見、素朴で自然に感じられるのは、優し気な装飾性からか。粒や筆致の感じられないテクスチュアからか。
実は恐ろしく特異な世界が成立してしまっているのだ。
下手な判じ絵やだまし絵などよりずっと怖くてある意味、癖になる絵でもある。

2006
「学校への道」
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S君の仕事-Ⅳで取り上げた作品。
「面白い構図である。
画面上部、水平に鉄橋を走るのは貨物列車の先頭部か?
黄緑の車体であり、下に道を挟んで広がる畑も同じ黄緑である。
左下には黄色いランドセルの少女が何かを見やっている。
植物の上にとまっている白い鳥か。
空や雲や遠方の建造物も含め黄色がポイントである。
そうした時間の記憶がわたしにもある。」
そう、まさに彼の絵は自らの郷愁に接続させる装置なのだ。
モチーフの形態だけでなく黄色の郷愁である。
この色が幼少年期の詩情をチクチク刺激してくる。

2006
「湘南電車幻想」
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初めて見るが、何という暴挙。
極めて性的で原初的な生命エネルギー漲る不気味さだ。
青い三輪トラックが小動物のように怯えているではないか。
おまけで添えられた男女はあくまでもこのドラマには関与していない。
列をなして歩いている鳥とは同じ地平にいるようだ。
ともかく、この大きな芋虫のような列車の即物性が生々しく際立つ。
突然の侵害など、生命の邪悪さみたいなものを夢想する。
(S君もわたしも好きな怪獣ものを思い起こす)。

2007
「森の遊園地」
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この絵も初めて見る作品。広がりと時間が定かでない場である。そして特異な光の強度。
少女ともう一人幼い少女の他に入園者がいないこと、更に果て~先があるのかどうかはっきりしないところから、この地がここだけで完結した場であることが想像出来る。光から推測できる時間帯は、トワイライトか。
走っているのかどうか分からないが三つの種類の異なる小さな機関車が一台は我々の背後に向け、もう一台は前方彼方へ向かい、もう一台は高架線を画面右から左に真っ直ぐ横切る方向に乗る。但し速度は感じられず。停車している可能性は高い。行き場が無い為、置かれただけかも知れない。
そして画面を手前から彼方の奥行に向けて弧を描き伸びる線路の交差する上に妖精が宙に舞う。
S君の夢の中~ファンタジーの遊園地としてしまえばそれとして収まるが。
果たして森の遊園地(の時間)はどこかで息づいているのだろうか、、、。
全てが儚く緩やかに凍結しているトワイライトの時間。
彼の絵によく出現する後ろ向きの少女の視線は、ここでは背後に向かった汽車の荷台に置かれた馬の乗り物に向けられている。上方に浮かぶ妖精は注意を向けられる存在ではなく、少女と同格の何かを観る存在であろうか。
しかし何らかの対象への意識~志向性がほとんど感じられない。少女の手を引き何やら光る棒を持っているとても幼い少女が一番意識が何かに向かっているように思われるが、、、荷台から飛び出した妖精は彼女の棒の一振りによるものか。
妖精が何人か舞い上がってゆく、、、この絵の中での特異な動き~揺らぎである。
しかしこの妖精がわたしの部屋の窓までやって来る気配は無い。今ヤモリが歩いているところだ。


2007
「湘南幻想青大将」
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S君の仕事-Ⅴで取り上げている。
「緑の匂い立つ画像である。やって来る電車も緑。光がとても優しく、本当の光らしい。
俯瞰してるが、たまたま出逢った世界の切り取りである。
緑の木々の向こうから顔を出してくる電車はどことなく青虫を想わせる。もしかしたらかつて木々の内に見出した葉っぱの上を歩く青虫とのダブルイメージになっているのかも知れない。微視的・記憶上のイメージが様々な絵の要素と絡み融合している可能性は高い。
右側をカーブしてゆくトロッコが可愛い。しかしどちらに向けて走っているのか、又は止まっているのか分からない微妙なバランスを保っている。しかし電車との何らかの対応(力学的)関係はあるように想える。
この絵がわたしを引き込むのは、何より光と影である。
光がとても柔らかく繊細な煌きに充ちている分、影の癒しの効力も高い。
影が補色になって、とても居心地が良い。」
わたしはここで初めて今いる世界と繋がる。
今過ごしている世界の断面と出逢う。
この青虫電車~青大将はちゃんと次の駅に着くであろうし、このトロッコも何処かに必ず行き着くことが予想できる。
目の良さそうな猫がこちら(鑑賞者)を意識しながら水面辺りを探っている。魚がきっと潜んでいるのだろう。
そんな日常世界の厚みを感じる一幕に安堵する(笑。

2010
「MoonLight Serenade」
sabu0008Moonlight Serenade2010

初めて見る絵だ。
まず感じたのは、ここはどのような地形なのか、、、やけに水平線が凄い手前で切れてるなという印象。
事によると、その船のすぐ向こう、水上に聳える建造物のすぐ後ろは、滝なのかと思う。
するとこの静けさのすぐ向こう側は、飛んでもない瀑布が見られたりして、、、。
しかし、それは違うことが分かる。
向こう側から波が岸辺に打ち寄せているではないか。月の潮汐力が働く遠い大洋から及ぶ力が感じられもする。
それでもどうしても海洋~大海が感じられないのは、建造物と船の大きさにも起因するが、S君のなかでこういう構図が要請されたのだ。
水を使ったイメージのジオラマであり実際に不可能な場を絵で現したと謂うしかない。
所謂、絵なのである。S君のシステムにより成立する絵画世界なのだ。
S君が絵に拘る訳である。

2010
「湘南幻想ワニ園午後」
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S君の仕事-Ⅴで取り上げた作品。
「プレ・ラファエル派の絵だと謂っても信用する人は多いと思う。(電車があるのは変だが)。
新しい光と色彩と筆致を得たうえでの点描もフルに活かした制作だ。
かなりの力作である。
池には鰐もいる。
電車はやけにリアルで、上に観られた郷愁に染め上げられた車両ではなくすっきり洗い流された姿を見せている。
そして何と言っても植物の描き方の多様性であろう。
海と沖に輝く光はもうお手のものか、、、。
しかし一番異なるのは、いつもの後ろ姿の少女ではなく、横向きの座ってもたれかかり夢想に耽る妙齢の女性である。
わたしがプレ・ラファエル派と言ったのもそれが大きな理由となる。
左上部の木陰が少し彩度が高すぎる感じはするが、精緻で繊細でありながら全体構造がしっかりした調和のとれた絵である。」

以前にも書いているが、力作であり、わたしの好きな作品のひとつだ。
プレ・ラファエル派のモデルめいた女性といい、人格を持ったような鰐といい、ちょっと現実離れしていて、現実的な世界の切り取りも実現している。「湘南幻想青大将」と同様に現実の一齣として描かれている。どちらも「幻想」と題にあるが、飽くまでも彼の身近な現実を描き込むなかから溢出した豊かな幻想である。
彼の真骨頂と言えよう。




明日☆☆ Pre002に続く。




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夢魔子

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クニトシロウ監督
藤子不二雄A原作

アニメーション作品。


藤子不二雄そのものの絵であった。(当たり前か)。
煙草の煙で相手を(文字通り)煙に巻く摩訶不思議な夢魔子と言う女性。
突然目の前に現れ、彼を救うかに見えて夢に破れるように仕向ける彼女は何者?
吸ってる煙草が凄い。どこの国のものか(爆。

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①城

母子家庭の道夫の物語。母の完全な管理・支配下にいる。
のび太の青年版みたいなのが主人公。
やはりボーっとしている。
極端なマイペース。

ひとからしっかり仕事をしろ!と急かされるが、全くやる気がない。
屋上にふけている時に何処からともなくやって来た夢魔子に出逢う。
(ちょっと「クロシンリ」の久保さんみたいな感じだが)。

独りでボーっとしているのが好きで、何処かに行きたいと縋るがその前に自分の得意なことを皆にやってみせろと勧められる。
コーヒーを淹れるのが得意であった為、職場で実行するととても喜ばれる。
家に帰りママに嬉しそうに報告すると彼女はカンカン。
息子にお茶くみをさせるとは何事だ、である。父の親友の伝手で入った会社だ。彼に直ぐに抗議の電話を入れる。
典型的な毒親であった。
「あなたのお父さんはそんなんじゃなかった」
これでは、やっていけない。

「ぼく独りだけのお城に住みたい」となる。
気持ちは充分わかるが。そこへ再び夢魔子が現れる。

しかし誰にも邪魔されず独りになるとは、、、当然結末は見えている、、、
が、これでは道夫が気の毒。せめて優秀な精神科医でも紹介してあげればよいものを。


➁変身

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ジャイアンとスネ夫みたいなのが出て来る。
会社のラグビー部の試合か。ジャイアン似の小熊の活躍でそのチームは圧勝。
小熊がやたら強い。男の中の男と言う感じ。
しかし実は、家事がとても好きな心優しいジャイアンであった。

奥さんに全く頭の上がらない小熊さんに、時にはしっかり意見するように夢魔子が忠告するが、それにしくじる。
ジェンダー(トランスジェンダー)の問題が深く横たわっていた。
小熊さんは自らの女性性を見出しそれに戸惑っているのである。
夢魔子はこのままだとあなたは酷いノイローゼになってしまうでしょう。
わたしが解決してあげますと、煙草の煙を吹きかけ、、、。
小熊さんはついに、、、
確かにその方が幸せとは言えそう。妻は腰を抜かしていたが、、、。


③脱皮

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絵を描くのが大好きな高校生の江島君。
クラスメイトの謂う理想のタイプをそれぞれ絵に描いてあげて喜ばれていたが、、、。
彼にもまさに理想のタイプという女子がおり、密かに絵に描いていた。
しかし夢と現実の差は激しい。
そんな娘、何処にもいない、、、と思って家路に着くとき、突然JK版夢魔子に出逢う。

彼は感動を隠せず夢魔子に「あなたは僕の理想の人です」みたいなことを言ってしまう。
そして彼女に絵のモデルになって貰い、将来画家になる夢を語る。
頑張ってねという調子で彼女はモデルを引き受けるが、それを許さぬ両親に二人は引き裂かれてしまう。
ちゃんと普通の大学に行って普通のサラリーマンになるのだ、と。
(いつの時代の噺だ?)

結局、それっきり夢魔子には逢えず、彼は大人になるように父から説得される。
彼は、夢を失くして大人になることを選ぶ。

最後の晴彦の姿にはちょっと驚くが、、、。
夢を失う=大人、、、
そうきたか、である(笑。


この迷惑な女は一体誰だ。
これをもって悩みからの解放と呼べるのか。
(確かに二話目はそうか)。
相談に乗ってるような振りをして奈落の底に突き落としているだけでもある。しかも可哀そうな被害者を。
まるで悪魔ではないか。
そう言えば、モグロフクゾウっていたな。今思い出した(笑。



AmazonPrimeにて





確認

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Confirmation
2018年
アメリカ

デリック・ハリマン監督・脚本

グレゴリー・サノン、、、ジョン・スクープ・テトリー(記者)
ミコ・デファー、、、バディ


生きるも死ぬも情報次第。
この世は情報で出来ている。

その「確認」は幾つもの段階でなされる。
原因が分からぬが多数の死亡例が確認される。
やがて水道水を飲んだことによることが確認され、水質検査により細菌が関与していることが確認される。
一般市民に対する緊急放送が流され、市民がそれを確認する。

確認した情報に対し皆それぞれが対応するのだが。
その情報を掴み損ねた個体は命を脅かされる危険も孕む。


何より驚くのは500mlのペットボトルのミネラルウォーターが120ドルだと、、、。
こんなの買う気になるはずない。
だいたい、緊急事態であるなら自動販売機みたいに(日本だけか?)無料で出すくらいでないと。
それ以前にホテルの水道という水道を全て止めておく。
分っていても間違って出してしまう場合も考えられるため。

ところが、水道は出放題。ペットボトルはぼったくり。なんてことだ、、、。
致死量の細菌が水道水に混入したという情報が遅かったのだ。
主人公にとって。
彼は綽名が”スクープ”と呼ばれる記者である。
マスコミでは誰より早く現地入りして明日の博士とのアポ取材の確認を取り万全の態勢で取材をする構えであったが、

結果的に彼の動きが早過ぎた。
もう少し待てば、疾病管理センターの警告をTVから知ることが出来たはず。
「地域の給水システムに致死性細菌の侵入を確認した」
「水道水を一切使うな。常にペットボトルの水を飲め」という。
一瞬早かった。
水道水を飲むのが。
インタビューする博士と電話で確認をとる最中に冷蔵庫を開けてペットボトルを取るが、その水が何と120ドル。
ムカついて水道水を飲んで博士に明日の確認が無事取れて、シャワーに向かったときに、水は一切飲むなと言う声が、、、。
シャワーを浴びることなくよろよろとソファーに戻ると彼はガクッと項垂れ事切れた。


大切な情報を受け取り損ねたという以前に、法外な値段~情報の確認によっていつもなら普通に飲むペットボトルを回避してしまう。
この値段の情報を見落としていたなら、彼は助かった。
しかしこういうことは、いくらでもあり得る。


AmazonPrimeにて






見知らぬ乗客

Strangers on a Train001

Strangers on a Train
1951年
アメリア

アルフレッド・ヒッチコック監督
レイモンド・チャンドラー、チェンツイ・オルモンド脚本
パトリシア・ハイスミス『見知らぬ乗客』原作
ディミトリ・ティオムキン音楽

ファーリー・グレンジャー、、、ガイ・ヘインズ(有名テニス選手)
ロバート・ウォーカー、、、ブルーノ・アントニー(サイコ男)
ルース・ローマン、、、アン・モートン(上院議員の娘)
レオ・G・キャロル、、、モートン上院議員
パトリシア・ヒッチコック、、、バーバラ・モートン(アンの妹)
ケイシー・ロジャース、、、ミリアム(ガイ・ヘインズの妻)
マリオン・ローン、、、ブルーノの母
ジョナサン・ヘイル、、、ブルーノの父
マーレイ・アルパー、、、ボート小屋の使用人
ロバート・ギスト、、、ヘネシー刑事


本当に映画らしい映画を観た。
映画の形式を職人芸で使い切るヒッチコックはやはり流石である。
ミリアムが絞殺される際、相手をメガネの反映で見せたり、ブルーノがライターを溝から必死に拾いあげるシーンとガイが最後のセットに何とか競り勝つシーンを交互に絡めるところなど緊張の畳み掛けが見事であった。
ブルーノの人格を示すのに、お祭りで子供が手に持つ風船を煙草の火でパンッと破ってしまうという所作をもってくる。
この辺、憎いところ。一瞬のシーンでしっかり分らせる。
そして精神を病んでいることは、自分が殺したミリアムそっくりのバーバラを見ることで自制を失い別の夫人を絞殺しそうになることで如実に示す。明らかに精神病院に入院させるべき患者であることが分かる。
此処まで行かない監督なら色々と説明的なシーンをかなりの尺を持って撮るのでは。
わたしは全く興味はないのだが、これから映画の勉強する人には持って来いの作品かも。

Strangers on a Train002

ブルーノという男、列車に乗り合わせただけの初対面の相手(のプライベート)にいきなりズケズケ入り込み、おまけに交換殺人まで持ちかけるなど、まずまともではない。と謂うより狂人である。相手が妻と不仲で離婚を望んでいるという情報を持っているだけでよくもまあ、、、。この他者との距離感の病。これは大きい。
わたしが最近色々な局面で、つくづく思うのが多くの人々のこの距離感の取れなさ加減である。
他者に対する決定的な想像力の欠如と自己投影に対する無自覚である。
単に上っ面であったり又聞きの興味本位な不確かな情報などで直ぐに全てを了解した気になり手前勝手な行動に出るなど、、、迷惑な輩が実に多い。頭が悪いだけではなく品性も欠如している。

Strangers on a Train004

ガイがしっかりした人間で全く取り合わず普通はこれでおしまいのはずだが、事態は飛んでもない形で急展開をみることに。
(流石にその粘着質の男の異様な接触に動揺しガイはネームの入った高級ライターを車内に置き忘れてしまう。当然ブルーノはこれは使えると懐に収める)。
このブルーノの常軌を逸した人格にガイは極限まで振り回されることに、、、。
何と頼まれもしないのに勝手にブルーノはガイの妻ミリアムを殺害してしまう。
そして約束通り目の上のたんこぶの自分の父親を殺せと迫って来る。
完全なストーカーで試合会場ばかりでなく様々な場面~極プライベートなところにまでやってきて約束を果たせと脅迫する。

Strangers on a Train005

当然、ガイは妻殺しの件で動機を疑われ警察に容疑者としてマーク~常に監視される羽目に。
モートン一家を巻き込んでしまった上に度々訪れるその男を訝るアンには一部始終を伝える。
警察の疑いも晴らさねばならぬし、モートン家も恐れ戦く形となり(特にミリアムに顔の似ているバーバラ)、アンとの将来の為にもガイとしてはブルーノの暴挙を何とか収めない訳には行かない。
それぞれの人物の緊張感を高めつつ場面を交互に絡めながらスリリングに展開して行く手法などは見事。
ヒッチコック監督の真骨頂か。
今回はコントラバス?を抱えて列車に乗り込むスマートな役で彼はカメオ出演している。

ボート小屋の使用人が殺人事件が起きた直後に目撃した不審な動きをするブルーノを記憶していたり、、、
同時刻に同じ列車でコリンズ教授が微積分の講義の話をガイに向けたことは、教授の泥酔のせいですっかり忘れておりアリバイにならない、、、など微妙な不整合でハラハラさせる。
この上手くいきそうで行かないズレが演出もともない話を面白くさせてゆく。
特にライターをうっかり落とした下水から拾おうとするブルーノと彼の動きを阻止しようと試合を焦るガイの2人の死に物狂いの対比は凄いとしか言えない。

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そして終盤の暴走する回転木馬での死闘である。迫力十分。
ブルーノはガイを犯人に仕立て上げる為、殺害現場に例のライターを置きに行く途上での揉み合いとなった。
警察も監視の網から逃げたガイを逮捕しようと駆けつける。
だが、そこへ例のボート小屋の男がやって来て怪しいのは揉み合っている相手側の男だと刑事に伝える。
ガイもブルーノのライターの計略の件を説明し、それを確かめることとなった。
係員によって急停止した木馬は大破する。
その事故に巻き込まれ瀕死のブルーノは、しかし最後までしらをきる。だが死んだ後で手に握っていたものを確認すると、まさにそのライターであった。
ガイの疑いが晴れる。

後日アンと仲良く列車に乗るガイであったが、またしても『見知らぬ乗客』から「ガイ・ヘインズですね?」と声をかけられる。
2人は慌てて列車を降りてゆく。
気持ちは良く分かる、、、。

最後の最後まで気の抜けない映画であった。




BSTVにて









良いビジネス

Good Business

Good Business
2017年
アイルランド

レイ・サリヴァン監督

エイミー・デ・ブルン
ダリル・キンセラ


「人類は新しいクライアントと取引をします。」
笑える。

これは良いビジネスだ。
ともかく、こういった舐めた糞屑には必ず報いが来るという良い御話。
宇宙人のフィギュアが実に生々しい甲殻類から進化した感じのもので、文明が発達する形態~身体なのかどうかは疑問はあるが、悪意を汲み取る感覚は如何にも優れていそうだ。
(但し、人間が特別なヘルメットやスーツも着ず、普通の地球上の恰好をしているところから大気組成と気温、重力値はほぼ同じとみると、かなり変な生命体だと思う。見たところ外骨格だし。身体の耐性と知的・運動能力にもかなり厳しいものを感じる。外骨格で外にいてあの大きさだと潰れるか身動き~移動が出来ないのでは。動きが機敏過ぎる。元気で下品だし(笑。女兵士が小さいのを蹴飛ばした様子をみると地球よりも若干、重力が弱い気もしたが、、、)。

非常に好戦的であることも態度と素振りから分かり易い(形とは裏腹に内骨格なのか、、、いやそれはない。顔だけはプレデターの親戚だが)。
裏表なさそうで、実は秘かに決めるところは決めている。
悪知恵は半端ではない。
陰謀~策略は確実に実行する。

「わからないか?俺達はもう戦っているんだ
やつらが気づいていないだけだ」
分かってないのはどっちだ(爆。

「われわれが全てもらうことにする」という相手の交渉成立に思えたひとこと、、、。
実はそういうことだったの?

向うが一枚上手じゃないか。
これでは人類がビジネスで儲けるどころか、滅ぼされるぞ(メデタク。


5分のショートムービーでしっかり楽しませてもらった。
これは充分に長編化出来るものだと思う。
というより映画の5分間広告でもあったような、、、。

前後を観たい。
VFXは充分なクオリティでもあり品質に懸念を覚える要素はない。
監督にとって「良いビジネス」になるのでは、、、。




AmazonPrimeにて
ホントにここでしか観られないものが沢山ある。
この点においては有難い。




音楽劇ヨルハ Ver1.2

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NieR:Automata
2018年

住知三郎 舞台監督
ヨコオタロウ『ニーア ゲシュタルト/レプリカント』原作・脚色・脚本
岡部啓一(MONACA) 音楽
エミ・エヴァンス、河野万里奈、二号(石川由依)、四号(田中れいな)、二十一号(花奈澪)歌
後藤貴徳 ギター
川治恵美 ピアノ
島田光理 バイオリン

花奈澪、、、二十一号
持田千妃来、、、十六号
田中れいな、、、四号
石川由依、、、二号(隊長)

雛形羽衣、、、ローズ(隊長)
橘杏、、、アネモネ
内田眞由美、、、ダリア
清水凜、、、マーガレット
野村真由美、、、ガーベラ
黒木美紗子、、、リリィ
マリアユリコ、、、デイジー

舞川みやこ、、、ホワイト(司令官)
石川凜果、、、フタバ(オペレーター)
兼田いぶき、、、ヨツバ(オペレーター)

鈴木桃子、、、タームα(機械生命体端末)
荒井愛花、、、タームβ(機械生命体端末)


北千住の「シアター1010」にて開演
(北千住懐かしい。もう十数年行ってない)。

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舞台劇を映像配信したもの。
この形式のモノを観るのは、恐らく二度目か。
エクストラショットノンホイップキャラメルプディングマキアート」以来。
但し本作は、「音楽劇」であり音楽の占める部分が大きい(ダンスも)。
またゲームNieR:Automata「ニーア オートマタ」が元にあるとか。
ゲームをやらないわたしには、さっぱりだが、200万本売れたヒット作だという。
その為か、この舞台会場もかなりの熱気が感じられた(会場後ろからのキャスト登場もある)。
独特の音楽世界があり(すでにゲームで使われている音であろう)そのなかで話が展開して行く。
ストーリーとの絡みが深いどころのものではない。演出を超えた位置にある。まさに音楽劇。
殺陣もダンスのように流れる充分に練られた動きであった。

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最初の曲が「ノルマンディー」、、、
「真珠湾降下作戦」でヨルハの舞台が送られるというもの。
実存的苦悩に満ちたアンドロイドの物語であり。
その世界観にはとても馴染める。
何だか二次大戦をどこかでイメージしてしまうが、戦争以外に何らかの接点~重なりはこれを見る限りは掴めない。

地球を侵略する『機械生命体』と人類の間の戦争であるが、実際に彼らと闘うのがヨルハたちアンドロイド部隊ということだ。
人類は月面に移住しており何らかの計略の下、ヨルハたちを投入してデーターの収集をおこなっているらしい。
西暦11941年とは、随分遠い未来だこと。この時期になればすでに人類など死滅しているはずだが。
それはともかく、人類の為に地球を奪還する目的で地球(真珠湾?)に投下されたアンドロイド部隊がかなり高い知性と感情を備えアイデンティティの問題も抱え持つ存在となっていることは、、、単なる兵器をすでに超えてしまっていることを意味する。

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疑似記憶を植え付けられて誕生するそうだが、生活して行くなかで固有の記憶も蓄積しアイデンティティも形成しようとする。
何でまたこのような多様性と複雑性を組み込んだヒト型兵器を作ったものか、、、。
また、かなり昔の型のアンドロイドも生き残りレジスタンスとして機械生命体と自主的に戦っていたのだ。
自主的にというのは、当局からすでに見放されており打ち捨てられた者たちであり、自らすべきことを成すしか生きてゆく道が無くなったことから来る。
その旧部隊に4人の生き残った新型アンドロイドであるヨルハ部隊も加わり協力して機械生命体に立ち向かう流れとなる。

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ヨルハたちもすでに人類から見放されていた。捨てられた者同士で手を組んだ形だ。
しかしその立ち位置で何故人類の為に働くのか。
彼女らにおいては、すでに死んでしまった多くの仲間の死を無駄に出来ないということが一番の理由のようだ。
ほとんど人間と変わりない。

観ている間、破壊されなければいつまでも生きているアンドロイドと言う感じではなく、まさに人間の女子の戦士という形で見ていた。
それもとても多様な個性を持つ何処にでもいるであろう女子である。
ひとつ人間の為に機械生命体と闘う運命を背負わされて生まれたということが特殊であるが、今やそれも彼女らの義務~任務ではなく彼女らの自由意志に任された目的となっている。
似て非なるモノであり、自らが主体として選び直した目的である。カント的に。

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機械生命体の端末の赤い二人の少女もアンドロイド~ヨルハやレジスタンスの精神を揺るがし搔き乱すような刺激を与えるまでにはなっていなかった。今後、面白いね、もっとここで遊んで行こうね、と言っているところから、どんどん学習して変化~進化してゆくこの2人を含め機械生命体が、どのような形で独り生き残った二号と絡んで来るかも期待したい。
(生き残ったのがたった一人というのが厳しいが、それぞれの基本データがある以上、上層部の意向で復活もあり得ようが、どうなのか。わたしは彼女らに名を付けさせてあげたい。名前を結局、もらわずに皆、死んでしまった。主体としての覚醒は格段に上がるはず)。

二号も生命体(端末少女)も変わってゆく事は間違いない。両者ともに常にその過程にある。
二号も地球に降り立ちレジスタンスや他のヨルハの仲間たちと関わるうちに随分変貌を遂げている。
許容度~受容性が上がる。片やタームたちは、好奇心が益々上がって行く。これは面白いことになるだろう。
このような戦争は、テクノロジーの発達だけでなく精神への影響が大変大きい。
機械生命体の学習が進めば、彼らの変貌も劇的なものをみせる可能性も高いであろう。
(わたしはこの噺~ゲームがこの先どうなるのか、全く知らずに言っているだけだが)。
あるところで域を超え相転換を起こす場はあって良い(あって欲しい)。
そうでなければ面白くないではないか。
どのように両者が相克しつつ絡みついてゆくのか。
複雑性、多様性をテーマに取り込んでいる以上、何らかの(総合的な)カタストロフを期待したい。


ともかく、ハルヒやまどか☆マギカ並みに面白いものであった。
音楽・演技ともに融合度が高く舞台を会場で観たらその空気はさぞ緊張感に満ちていたであろうことは想像がつく。





AmazonPrimeにて






ひとまずすすんだ、そのあとに

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2015年

柴田啓佑 監督
小森まき 脚本


斉藤夏美
木村知貴
小林優斗


30分映画「ひとまずすすめ」の後日譚。お父さんはいるのだが出演していない。
主人公が昼寝していると赤ん坊の夢を見る。生まれた赤ん坊が胸の上に乗っているではないか。
つまり圧を感じる苦しい夢と言うことだ。
目覚めると隣では、、、逆子体操を弟夫婦でしていた。
(姉が寝ている隣で、、、)。

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父と弟夫婦との実家での同居である。
結構気を遣うものであろう。

とは言え、子供が生まれるとなれば、妊婦優先になるもの。
主人公もかなり楽しみにしているようで、まんざらでもない様子。
そして、、、子供も予定通り生まれる。
その赤ちゃんを嬉しそうにあやす。
(この辺18分の全体尺である。さっさと進む。前作よりも短いのだ)。

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主人公は、前回よりも結婚に前向き。もう生きる前提みたい。
子を授かった弟夫婦の影響も小さくあるまい。
デートの相手は、例の名刺を飛ばされた彼氏であった。何とか連絡は取れたのであろう。
子持ちのバツイチ親友とも相変わらず関わっており、ダブルデートしている。
(この女性は父のボーリング場でアルバイトしている人であった。役所の同僚ではなかった)。
主人公のカップルは相性が良いのか悪いのか、相変わらず水難に縁がある。
言い合いになり池に二人で落っこちるのだ。ちょっと演出がいまいち、わざとらしい。
(前回も言い合いをしていたら噴水でずぶ濡れになった)。

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大丈夫なのか。
志村けんのコントみたいで、そこまではいっていない。笑えないし、微笑ましい感じでもない。
終わり方がとても通俗的で、安っぽい。
音楽も安っぽい。
しかしそこが妙にリアルでもある。

まあ素直に手を繋いで嬉しそうに歩いているのだから、このまま結婚となりそうだが。
何とも、、、。
そう、この何とも、なのだ。これから歩んでゆく道が、、、。
平坦でも安寧の場となるかは、全く分からず、、、。

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「カバティ!カバティ!」というのも見てしまったが、ただのスポコン映画であった。
カバティはインドの国技で、その同好会に入り日本代表を目指す就活女子大生の奮闘記である。
最初は就活でのアピール要素に少しでもなればということで入ったのだが、やっているうちにホントに入り込んでゆき、仲間との絆が一番大切になるというもの。
ホントにそうなるのなら幸せである。
そりゃあ人間同士、信頼感で結ばれることがもっとも豊かな関係となろう。創造的で充実した関係である。
そうした関係性は何よりも大切にしたい。

しかし不毛な敵対関係をわざわざ作りたがる輩が(この周辺にも)結構いる。
人を舐めた、途轍もなく頭の悪い品性下劣極まりない犯罪的馬鹿共が。
このセンテンスを使うのは二度目である。二つ目の登録者がめでたく出来たものだ(反吐。
どうでもよいが、、、人に~わたしに、迷惑かけるなよ!



AmazonPrimeにて
確かにここでしか観られない映画が沢山ある。
なかなかのものだ。
掘り出し物の感動作を幾つかピックアップしている。
これから楽しみに観てゆこう(笑。



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ひとまずすすめ

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2014年

柴田啓佑 監督
小森まき 脚本


斉藤夏美
木村知貴
山田雅人

30分だがよく出来た映画であった。
描くべきものを描き、無駄のない所は良い。

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主人公はもうすぐ30を迎える市役所の戸籍課勤務の女性。毎日結婚離婚の書面にうんざりするほど眼を通す。
(こういうところにいると結婚に対する過剰な幻想は抱かなくなるのでは、、、と思ったりするが)。
実家で父と二人暮らし。父はボーリング場の経営者。

人生がどの方向に進むかは、ホントにちょっとしたきっかけで決まって行くように見えるが、、、結局なるようにしかならない。
身動きできないことを弟が家を押し付けて東京に出て行ったことのせいにしても始まらない。
オヤジがいても基本的にやりたいことは出来るはず。自らが動かないことを他のせいにして合理化しても意味ない。
弟が結婚する彼女を連れて来て、これから家とオヤジはおれがみる、と突然言われたら頭にも来るだろうが、丁度良いではないか。
何からもフリーになり、自分と向き合い、何をすべきかどう進んでゆこうか考える好機でもある。

しかし、それがここらで結婚となってしまうのもどうか。
結婚に幻想をもっているのか。まさか結婚=幸せとか考えてる分けではなかろうな。
だが何を考えるでもなく、「街コン」にバツイチ子持ちの同僚と参加する。
(この同僚は完全に再婚の目的を現実的に持っている。だから婚活のプロみたいな対応だ)。
気が進まぬ様子で父親のボーリング場でデートになる。気まずい(笑。

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主人公の相手は初対面からズケズケモノを言うデリカシーのない、名刺がコピーみたいなペラペラのわたしはあまりお勧めしないタイプの男(笑)。ガラス職人みたいで面白そうだが。
彼女も彼を気に食わないのかもう少し会ってみたいくらいの好感を得たのか良く分からない感じであった。
(もしや演技の限界か)。

結婚にしろ何にしろ、制度に振り回されること自体愚かだ。
そこに特別拘る必要などないのだが、、、。

お父さんの言うように、自分の幸せは自分で見つければ良い。
それに尽きる。

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取り敢えず、他者と関わるところから始めてみる。
これは良いと思う。
その点で、ひとまずすすもうとしたところだ。

ただ自分がトキメク~ワクワクする方向に向いて行けばよい。
それだけだ。
職場の屋上で、相手の男に電話してみようと名刺をみながら携帯をかけようとした瞬間、風が吹いた刹那、名刺が飛ばされてゆく。
絶妙のタイミングで。
(もしかして彼女の無意識の作用もあるのか、何とも言えぬが)。
ずっと彼女の後姿だけが映される。

この余韻良いと思う。


カメの鈴木先生だっけ、水槽が倒れて、いなくなっていたが、、、。
きっとカメも解放されたのだ。彼女ともども。
これで自由に家からも出られる。
一歩すすめるぞ。


続編があるらしい(笑。






AmazonPrimeでしか見られない映画であろう。
貴重と言えば、そうかも。
この前の「大きな春子ちゃん 」みたいに。



真昼の死闘

Two Mules for Sister Sara001

Two Mules for Sister Sara
1970年
アメリカ

ドン・シーゲル監督
アルバート・マルツ脚本
バド・ベティカー原作
エンニオ・モリコーネ音楽

シャーリー・マクレーン、、、サラ(尼僧に化けた娼婦)
クリント・イーストウッド、、、ホーガン(凄腕ガンマン)
マノロ・ファブレガス、、、ベルトラン(メキシコのレジスタンスのリーダー)
アルベルト・モリン、、、ルクレール(フランス軍将軍)


最新版のプレミアムのBlu-rayPlayerを導入した。8KやUltraHDやH.265/HEVCの再生できるもの。
既存の映像画質向上技術も充分に堪能できるものであった。
(他のプレイヤーで観るよりも綺麗)。
やはり画像と音は良いに越したことはない。

それで適度に古めの映画をひとつ。
クリント・イーストウッドとシャーリー・マクレーンのメキシコ珍道中という感じで、見どころ豊富な西部劇である。
レジスタンス物のシリアスな題材なのだが、主人公のふたりがとっても癖があって面白い。
凄腕の流れ者ガンマンと怪しげな尼僧の顛末は、、、。最終的には分かっているが(笑。
今日はフランス軍が酷い悪役である。
エンニオ・モリコーネのちょっと実験的なまでの表情豊かな音楽に魅せられた。

Two Mules for Sister Sara002

荒くれモノに尼僧が襲われているところを流れ者ガンマンが助けるところから始まる、、、。
(これもちょっと怪しい感じもするが、サラの計略だとすると相当なものだ)。
彼女がメキシコのフアレスの軍と絡んでいることが分かる。
メキシコの人々を捕らえては拷問し銃殺する光景を目の当たりにし、相当フランス軍を憎んでいる様子が窺える。
フランス軍をやっつけろという大義の下、2人で組んで駐屯地を潰して金を巻き上げる魂胆だ。
成程、何処に行こうが尼僧の姿だと余程の事がない限り邪険にされず特別に扱われる。
上手いコスプレだ。
ホーガンはずっと彼女の事は疑わずホントの尼僧だと思い続けるが(笑。

ガラガラヘビとはどんな味なのか。食感も含め。サラが美味しそうに食べていた(だんだん尼僧らしからぬところを見せてゆくが)。
一度わたしも食してみたい。
流石メキシコだけあって、豪快なサボテンが凄い勢いでいたるところに立っている。
(多肉・サボテン愛好家にはたまらん。大木みたいな野生のサボテンなんて見たことないし)。
一度わたしも間近に観てみたい。
(このような映画を観る度にメキシコの怖さと魅力を感じる)。

Two Mules for Sister Sara003

何だかんだと言っても馬とロバのコンビで長閑な旅もあったが、、、
ホーガンは一瞬の隙にヤキ族に矢を撃たれる。敵はフランス軍ばかりではないのだ。
尼僧が十字架を翳し日光を反射させてインデアンを追い払う。
それから肩に刺さった矢を抜くところも充分にハラハラさせながら見せる(こういうのが一番苦手だ)。
それでヘロヘロのはずなのに列車の爆破はやるのだ。
フランス軍の列車が通る橋げたを尼僧が登り爆薬を仕掛ける。この辺のハラハラの畳み掛けが上手い。
列車の通るときにそれを狙い撃ちするのだが、ホーガンは矢を抜く手術に際してへべれけに酔っていて覚束ない。
尼僧の肩を借りブレを抑えての射撃というのもこれまたスリリングであった。
そしてレジスタンスの兵を率いるベルトランに会うための旅もなかなかポイントを通過しながらで愉しませてくれる。
作りが手馴れている感じ。

Two Mules for Sister Sara004

金目の物を集め、ホーガンが街にダイナマイトを買い出しに行き、フランスの独立記念日に駐屯地に奇襲をかける。
しかしお祭り気分で酔っているかと思いきや、列車の爆破テロ後の為、自粛して不測の事態に備えている感じであった。
ここの尺は充分に取られており一進一退の攻防がスリリングに描かれる。
だがメキシコ側のダイナマイトの威力はやはり大きかった。
犠牲をかなり出しながらも勝ったようだ。
最後の砦が娼婦の館で、尼僧だと思っていたサラが娼婦であることを知って愕然とするホーガン。
(ここまで不思議に思わず来たことが凄い)。

だが、それで結局結ばれた分けである(尼僧では結ばれようがない)。
ふたりは共に沢山の金品を馬やロバに括り付け何処かへと向ってゆく。
街でふたりでカジノでも開くのだろう。
サラは真っ赤な派手なドレスで葉巻を吹かしていた(笑。
充分に女の強かさが描かれていた。
クリント・イーストウッドの方は、荒削りの野性的な男であった。


ともかく展開の早い目の離せない面白い映画であった。
監督の職人芸を思わせる。





BSTVにて









史上最大の作戦

The Longest Day004

The Longest Day
1962年
アメリカ

ケン・アナキン、ベルンハルト・ヴィッキ、アンドリュー・マートン監督
コーネリアス・ライアン、ジェームズ・ジョーンズ、ロマン・ギャリー、デヴィッド・パーセル、ジャック・セドン脚本
コーネリアス・ライアン「史上最大の作戦」原作
モーリス・ジャール音楽
ジャン・ブールゴワン、ワルター・ウォティッツ撮影

ジョン・ウェイン 、、、ベンジャミン・バンダーボルト中佐
ロバート・ライアン、、、ジェームズ・M・ギャビン准将
スティーブ・フォレスト、、、ハーディング大尉
トム・トライオン、、、ウィルソン中尉
リチャード・ベイマー、、、アーサー・シュルツ一等兵
サル・ミネオ、、、マティーニ一等兵
レッド・バトンズ、、、ジョン・スティール一等兵
スチュアート・ホイットマン、、、シーン中尉
ロバート・ミッチャム、、、ノーマン・コータ准将
エディ・アルバート、、、トム・ニュートン大佐
レイ・ダントン、、、フランス大尉
ジェフリー・ハンター、、、フラー軍曹
ヘンリー・フォンダ、、、セオドア・ルーズベルト・ジュニア准将
エドモンド・オブライエン、、、レイモンド・バートン少将
ロディ・マクドウォール、、、モリス一等兵
ロン・ランデル、、、ジョー・ウィリアムズ軍曹
ロバート・ワグナー、、、第1歩兵師団第2レンジャー大隊隊員
ポール・アンカ、、、第1歩兵師団第2レンジャー大隊隊員
ジョージ・シーガル、、、第1歩兵師団第2レンジャー大隊隊員
ニコラス・スチュアート、、、オマール・ブラッドレー中将
メル・ファーラー、、、ロバート・ヘインズ少将
アレクサンダー・ノックス、、、ウォルター・ベデル・スミス少将
ヘンリー・グレイス、、、ドワイト・D・アイゼンハワー大将
ロッド・スタイガー、、、ビーア中佐
ピーター・ローフォード、、、ロバット卿
リチャード・トッド、、、ジョン・ハワード少佐
ジョン・グレッグソン、、、従軍牧師
リチャード・バートン、、、デビッド・キャンベル空軍将校
ケネス・モア、、、コリン・モード大佐
ショーン・コネリー、、、フラナガン一等兵
レオ・ゲン、、、エドウィン・P・パーカー・ジュニア准将
パトリック・バー、、、J・N・スタッグ大佐(空軍気象部)
クルト・ユルゲンス、、、ギュンター・ブルーメントリット歩兵大将(ドイツ陸軍西部軍参謀総長)
ヴェルナー・ヒンツ、、、エルヴィン・ロンメル元帥
パウル・ハルトマン、、、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥
ヴォルフガング・プライス、、、マックス=ヨーゼフ・ペムゼル少将((ドイツ陸軍第7軍参謀総長)
リヒャルト・ミュンヒ、、、エーリヒ・マルクス砲兵大将
ペーター・ファン・アイク、、、オッカー中佐
ハンス・クリスチャン・ブレヒ、、、ヴェルナー・プルスカット少佐
カール・ヨーン、、、ウォルフガング・ヘイガー大将
ハインツ・ラインケ、、、ヨーゼフ・プリラー大佐(ドイツ空軍第26戦闘航空団司令)
ゲルト・フレーベ、、、ドイツ陸軍軍曹“カッフェカンヌ”
クリスチャン・マルカン、、、フィリップ・キーファ中佐(自由フランス海軍コマンド部隊長)
ジョルジュ・リビエール、、、ギ・ド・モントーロール軍曹
イリナ・デミック、、、ジャニーヌ・ボアタール(フランスレジスタンス闘士)
ジョルジュ・ウィルソン、、、アレクサンドル・ルノー(サント・メール・エグリーズ市長)
ブールヴィル、、、アルフォンス・レノー(コルヒル市長)
ジャン・ルイ・バロー、、、ルイ・ルーラン神父
ジャン・セルヴェ、、、ジョジャール少将(自由フランス海軍提督)
マドレーヌ・ルノー、、、尼僧長

かなり割愛しても重要人物が相当いる(笑。
178分間、軍人が出ること出ること。誰もがかなりの曲者ばかり。
参謀室で苦い顔をしている人と戦場で銃に撃たれハチの巣になっている人など、、、様々である。 
連合国側はドイツの裏を見事にかいたはずであるが、それがスムーズに勝利へ結びつくというものではなかった。
特に海岸に上陸したはよいが、鉄壁の守りから狙い撃ちされ次々に死んでゆく兵士の姿は痛々しい。
パラシュート隊も狙いを定めて極狭い範囲に降り立つことになっていたが風に流されるなどして敵の本拠地の中に降り立ってしまう運のない班もあったが、実際の史実に基づいているのだとしたらホントに悲惨な実情だ。
パラシュートで地に降り立てず、木にぶら下がったまま狙い撃ちされ死んでそのままになっている戦士からは、戦争の無常を強く感じた。


連合国軍のノルマンディー上陸作戦をアメリカ、イギリス、フランス、ドイツの立場から描いたもの。
(それぞれの国でしっかり母国語を喋っていることに好感をもった。映画によってはどこの国だろうが関係なく市井の人まで英語を喋っているものがあるが大変不自然でそれだけで白ける)。

占領下のフランスにイギリスのBBC放送が送っているラジオメッセージの分析が大きな意味を持っていた。
これは連合国の軍部だけでなくフランスのレジスタンスにもそれが示すものが伝わり速やかに同時進行出来るものとなっている。
ヴェルレーヌの詩『秋の歌』の一節が、米英仏の連合軍が24時間以内にフランス北部に上陸するという暗号になっていた。
それがラジオで流されたとき、歴史に残る「一番長い日」が始まるのだ。
連合国は一斉にノルマンディを目指す。これはドイツ軍の多くの首脳の虚を突く作戦であった。
天候が悪い点、わざわざ距離のあるノルマンディーに上陸するという点。アイゼンハワーはやらないと思われていた。
それから面白いのは、直ぐにパラシュート隊を降ろすのではなく、夜の天空からいきなり銃を撃ってきたように見せるダミー人形を沢山投下してドイツ兵をパニックにさせるなど意外な小業も効かしていたことだ。

The Longest Day003

レジスタンスは、通信網の破壊を進め鉄道~交通網を遮断し軍の初動をちぐはぐにした。
情報の遅延による出遅れは命取りである。
ドイツ軍の上層部は皆それぞれの考えや思惑も異なり情報に対する解釈も統一されない。
しかも総統のご機嫌が悪かったり睡眠中はどんな大事件であっても聞き入れられないときている。
ギュンター・ブルーメントリット歩兵大将の苦悩はよく分かった。
彼は出遅れても戦車隊が出動すれば形勢は変えられると踏んでいたが、見事に総統側近から拒絶されてしまった。
統一した指揮系統が成立せず、大事な武器は総統の直接の許可が無ければ使えない。
(連合軍も何故戦車隊が来ないのかと訝っていたが)。
大将は「これでは負ける」とすでに悟ってしまう。

The Longest Day002

連合軍も大変な犠牲を出しつつも人海戦術で何とか海岸線を打ち破り内陸に進展するが、5000を優に超える軍艦で奇襲をかけたのである。ただの歩兵を運ぶだけの船を海岸線に付ける前に、大きな大砲でまず海岸線に築かれた頑丈な防御壁を打壊してから歩兵を放つのではダメなのか。そこまで砲弾が飛ばないのか。その辺が何とも兵士の無駄死にのような気がした。
更にロンメル元帥が海岸線に600万個の地雷を埋めさせていたはずだが、地雷に引っかかって吹き飛ばされる場面が見られなかったのだが、それらは違う海岸に埋めたものなのか。カレーの海岸の方なのか?

フランス軍がバグパイプを鳴らしながら進行するところは面白かった。
ダンケルクの仇だーとか言って妙に生き生きしているのだ。
そしてドイツの英雄天才空軍パイロットのヨーゼフ・プリラー大佐が無策の上層部に食って掛かり相棒を伴いオンボロ戦闘機たった二機でノルマンディ進行を迎え撃つヤケクソのシーンも印象的であった。もうどうでもよいというところか。いくら何でも敵は5000の艦隊で悪天候の夜に準備万端でやって来たのだ。何の準備も装備も策もないところにくたびれた飛行機で迎え撃てはない。ただ無駄死にに行くだけのことだ。

The Longest Day001

戦争映画でも戦場を見せない映画もあるが、これは対極にあるまさに地獄の戦場映画だ。
「死んでる者と死にゆく者以外は奮い立って俺の後に付け」と多大の犠牲を払いながら永い一日をかけてやっとのことで海岸線を破る。こういう直接的な殺戮劇を見るとこれが(正義のもと)正当化される戦争自体があってはならないと感覚的に認識する。

これの縮小版で自らの(浅はかで稚拙な正義)をもってひとをしきりに断罪しようとちょろちょろとあちこち嗅ぎ回っている暇な輩が直ぐ周辺にもいる。実は危ない感覚であり装置になり得るものだ。

こういうのをそのままにしておいてよいのか!




BSTVにて
















地獄

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1960年
中川信夫 監督・脚本
森田守 撮影


天知茂,、、、清水四郎
沼田曜一、、、田村(学友、四郎に付きまとう悪魔)
三ツ矢歌子、、、矢島幸子、谷口サチ子(四郎の恋人/妹)
林寛、、、清水剛造(四郎の父、養老園「天上園」園長)
中村虎彦、、、矢島教授
宮田文子、、、矢島夫人
徳大寺君枝、、、イト(剛造の妻)
山下明子、、、絹子(剛造の妾)
嵐寛寿郎、、、閻魔大王
泉田洋志、、、志賀恭一(田村の車で轢き殺されたヤクザ)
小野彰子、、、恭一の情婦
津路清子、、、恭一の母

この映画は「地獄」を描いて見せたかったのだろうか、、、。
禍々しい余韻は残せど、、、
きっと明日には消えてしまうな。

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映画でも矢島教授の講義にあったが、地獄は仏教の他にキリスト教、イスラム教にもあり北欧神話、ギリシア神話にもみられる。
生死観自体に普遍性があるということか。
死後の世界~霊界において生前悪行を為した者は地獄に落ちて責め苦を負うとのこと。
潜在的恐怖として、遍く人々の抱えもつ恐怖と言えるか。
しかしわたしにその恐怖があるか自問すると、全くその感覚は無い。
そもそもわたしは善悪の彼岸に生きているので(爆。その辺、実に気楽である。
所詮、道徳世界の話である。

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この映画でも閻魔大王に罪状を高らかに呼びあげられ、みんなこれでもかというほどに責め立てられていた。
「春美」と言う四郎と幸子の間に出来た子も三途の川みたいなところを流されていたが、彼女も下手をすると地獄行きなのか?
四郎が娘の名を呼びながら霊界を彷徨う。
無常さもの悲しさは感じるが、この地獄のキッチュな、まるで紙芝居みたいな演出から来るところでもある。
微妙なものだ。

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そもそも四郎が何で地獄に落ちたのか。
悉く田村という四郎に憑りついた悪霊のしたことであろうに。
(田村は四郎のいるところに何処からともなく現れる。人間業ではない。地獄に落ちて残酷な刑に処せられたが、がわたしは初めからこの男はこの世のものではない悪霊だと思ってみていた)。
四郎は巻き込まれたに過ぎない。
ヤクザの轢き殺しにしても恋人の自動車事故にしても、、、。
サチ子についていえば、しっかりと田村が撃ち殺している。
田村とはいったい何モノか。

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その後、四郎を恨む(逆恨みする)連中も慕うサチ子も心中した矢島夫妻も皆、田村の魔力にやられたようなものだ。
最終的には毒を盛られてみんな死ぬが、、、。
結局、四郎の身の回りの者は皆死んで地獄落ちなのだ。
それにしても沼田曜一の悪魔ぶりには唸る。
こんなに気味の悪い悪魔を演じられる俳優が他にいるだろうか、、、。

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他にも悪魔的な人間がわさわさ出てくる。気味が悪いほど(笑。
特に養老園「天上園」を経営する四郎の父剛造などほぼ極悪人である。
妻が重病なのに妾を持ちともに暮らし、入園者には酷いものを食わせて健康や衛生管理など全くやっていない。
ここを出入りする医者や警官についても同様で、私利私欲の限りを尽くしている。
矢島教授夫妻も不気味なことこの上ない。
四郎の母が危篤だからと言って、義理もないのに何故、実家を訪れるのか意味不明。
それを言ったら恭一の母もよくここが分かって毒を盛りに来たものか、、、結局、田村が集めたようにも思える。

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VFXは流石に時代を感じるが、独特の風情がある。
三ツ矢歌子の若い頃のイメージがどうも結びつかない。
こんな丸顔だったのだ。
これも特殊効果のひとつの怪しさに思えた(笑。
線路を独り歩く四郎も不可思議であったが、そこへ現れる(実の妹)サチ子、更にまたしても現れる田村。
狭い吊り橋で突然出遭う恭一の情婦。しかし自分から下に落ちてゆく。そしてここにも現れた田村も、また落ちる。
田村とは、やけに善人である四郎の影の人格にも感じられる。
出来事は、ほとんど悪夢の脈絡だ。シュルレアリスムは意識されているはず。
この辺、どぎつい色使いからしても寺山修司を思い浮かべるところもあるが、向こうの方がずっと洗練されている。


ちょっと古びたお化け屋敷を廻った気分である。
芝居小屋で観るのが丁度よい感じの映画に思えた。



AmazonPrimeにて









幽霊と未亡人

The Ghost and MrsMuir001

The Ghost and Mrs. Muir
1947年
アメリカ

ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ監督
フィリップ・ダン脚本
R・A・ディック原作

ジーン・ティアニー、、、ルーシー・ミュアー/ルチア(未亡人)
レックス・ハリソン、、、ダニエル・グレッグ(船長の幽霊)
ジョージ・サンダース、、、マイルズ・フェアリー(児童作家、結婚詐欺)
ナタリー・ウッド、、、アンナ・ミュアー(ルーシーの娘)
エドナ・ベスト、、、マーサ(メイド)
バネッサ・ブラウン、、、アンナ・ミュアー(ルーシーの娘・子供時代)



モノクロのトーンが美しい。
暗闇の壁面に忽然と光が射す時などハッとするものがある。

ヒロインは気の強い独立心旺盛だが、ごく普通の感性を持つ未亡人である。
綺麗なので何かと他人から(特に男性から)気に掛けられるが突っぱねながらも真に受けたりするところがあった。
自分の意見をはっきり述べる割にコロッと乗せられてしまうタイプ。
ここでも幽霊やメイドから再三忠告されたにも関わらず、妙な児童文学の作家に結婚詐欺まがいの仕打ちを受ける。

The Ghost and MrsMuir002

しかし幽霊がこれ程の尺でお節介に出て来る映画も珍しい。
幽霊はルーシーをその名では召使みたいだと言い、ルチアと呼ぶ。
秘められた特別な関係が始まる。
この幽霊とまるで夫婦のように本音で語り合い時にはぶつかり合いしながら絆が深まって行く。
彼の生前の大海原での生活を彼女は色々と文句を言いながら小説に書きとめてゆく。
書き上げてみると彼女自身も納得する知的な書物になっていた。
出版社に無理やり持ち込んだが、編集長も一読して大いに気に入り出版の目処が立つ。

凄いお伽噺だ。
幽霊もルチアにしか見えない(メイドには見えない)ため、実際に出て来ているのか、彼女のイメージの産物なのか定かではない。
船長の肖像の印象が強くそこから刺激された何らかの能力の発現~投影にも想われる。

The Ghost and MrsMuir003

ただし、船乗りを主人公にした一代巨編が彼女の手により書き上げられたことは確かだ。

まさに人生は航海そのものと言う感じだ。
霧のなかに迷い込む不安と孤独。
船乗りの人生には惹かれる。
とても詩的で文学的な経験とも謂える。
神秘的な冒険譚。
ランボーも船に乗った。
アンリ・ミショーはじっさいに船乗りであった。

The Ghost and MrsMuir006

霧や海辺の描写が大変饒舌であった。
特に後半、風景と心理描写がピッタリ絡み一体化していた。
しかしチャラい児童文学者と付き合っている時やダニエル船長の幽霊と語り合っている時、娘の気配がまるでないのは不思議。
メイドは頻繁に心配役として各シーンに頻繁に登場しているのだが、娘が不自然な程気配を消しているのが気になった。
特に幼い時期は何かと母におねだりをしては甘えて来るはずだが、その辺の描写の無い所はとても気にかかる。
まるで子供のいない未亡人みたいであった。
子供の為のカットもあったがそれだけ。
まるで寄宿舎から夏休みに帰ってきたような現れ方なのだ。

The Ghost and MrsMuir004

大人~大学生になって母のもとに婚約者と共に帰って来た娘は実に存在感ある娘であった(笑。
その娘との会話で長いこと夢として遠くに置いてけぼりにして来た船長ダニエルのことを思い出すルチア。
遠い昔の夢のように忘れ去っていた情景が鮮明に浮かび上がるのだ。
(二人が同時にそれまで何の縁も無かった肖像に描かれただけのヒトの夢を見ていたなんてことは、ない)。
ここでダニエル幽霊船長は自分と逢っていない時には娘と遊んでいたことが分かった。
母としては自分の目にしか映らぬ相手と感じていたが、娘は知っておりちゃんと覚えてもいるのだった。
娘は船長の事が好きと言う。

幽霊が実在したことをはっきりと知る。

The Ghost and MrsMuir005

終わりごろに出て来たナタリー・ウッドの美しさが際立っていた。
ここまで目立つと映画としてのバランスが崩れる感じはする(笑。

ずっと姿を消していたダニエル船長がルーシーの寿命の尽きる時に迎えに来る。
これもハッピーエンドに他ならない。やっと二人は一緒になれる。





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マチルド、翼を広げ

Demain et tous les autres jours001

Demain et tous les autres jours
2017年
フランス

ノエミ・ルヴォウスキー監督・脚本
フロランス・セイヴォス脚本


リュス・ロドリゲス、、、マチルド
ノエミ・ルヴォウスキー、、、ザッシンガー夫人(母)
マチュー・アマルリック、、、父(元)
アナイス・ドゥムースティエ、、、大人のマチルド


Demain et tous les autres jours002

この母と幼い娘と一緒に暮らすというのは無理がありすぎ。
(自分と異なるモノとの共存は大切な課題~学習だが、それを超えてしまっている)。
何処かに放浪してしまう(うちの市でもしょっちゅうヘりで放浪老人のアナウンスをしている)、変なものを買い込む、大事なクリスマスに娘が料理をして待っていても帰ってこない。挙句の果ては急に引っ越しだと言って関係ない人のアパートに荷物をまとめて押し掛けてゆく、、、。娘の巻き込まれようと来たら、、、壮絶である。
我が家の娘にこの役をやらせたい。日頃どれほど何でもかんでもやって貰っているか少しでも認識させたいものだ(笑。
笑い事ではない。
パパは一体何をやってるのか?(どう見ても父親が親権を取るべきであろう。)
これほど娘に苦労掛けて。

しかしパパの替わりを果たす、このフクロウは何者なのか?
忽然と現れて何でも知っている。
マチルダとだけ会話が出来る。
彼女の超自我か。
そうとしか言えない。このフクロウというガジェットを介して自らの英知を顕在化~発現・投影していると謂えよう。

Demain et tous les autres jours004

母は入院。娘はパパが引き受けなければ、娘の人生グチャグチャになってしまう。
娘とフクロウがしっかりしているから何とかギリギリ凌いで来たが。
母をこのまま日常生活のなかに放置しておくのは完全に間違っている。
そもそも家庭として成り立っていないではないか。
これでは娘が自らの少女期を生きれない。
友達も出来ない。
何でこんなに幼くして母の介護をしなければならないのか。
しかも専門家が背後に控えコントロールして支えている訳ではない。
野放しで娘に丸投げしているだけ。これはあり得ない。

Demain et tous les autres jours003

親がおかしいと子供はその時期に必要な自分の生を生きることが出来なくなる。
そのしわ寄せが思春期~成人になって押し寄せて来て、環境に適応できなくなる。
本当に重い現実がこれから待っているであろう。
親がおかしいのにも原因がある。親が単体でおかしくなったのならまだ捉えようはあるが。
大概、そのまた親が原因となっているものだ。(その環境下~磁場において新たな遺伝的要素として定着継承されていってしまう)。
この構造のなかにありつつそれを俯瞰~意識したどこかの個体が英断を下すしかなくなる。
鎖を断ち切らなければならない。毒親の場合は絶対に必要な処置だ。

但し、この母は所謂、毒親ではない。この母親には大いに同情する。
子供を振り回し大変な目に遭わせているが、虐待をしている分けでは決してない。
病なのだ。(毒親も一種の病には他ならないが)。
入院の日にマチルドの父が娘に何か伝えておくかと聞くと「あなたのことは忘れない」と伝えてと言う。
子供のことは大変愛しているのだ。であるからマチルドもいくら酷い目に遭っても憎むことはしない。
こころの底ではその気持ちを充分に分かっているのだ。
父もその母に対して「どんなときもあの子を守るよ」と返す。
しかし何でここまで放置しておいたのか、、、それが謎である。事故だって当然起きる可能性があった。

Demain et tous les autres jours005
大人になったマチルドが、雷雨の中に母と対峙し、自然にはじまった即興のダンスには打たれた。
その後のふたりで始まる詩作にも。
そうまさに詩というものはこうした関係~共存に最も有用なものとなる。

監督自らこの認知症(若年性アルツハイマーか)の母役を熱演した。凄い演技である。
これは監督の経験からきているのか、、、
だとしたら、さぞかし大変な人生を送って来た人だ。

フクロウもよい演技をしていた。
スマートなVFXであった。
演技が上手いとリアリティが得られることをこれを見て実感した。
エンドロールで流れる歌には込上げるものがあった。




AmazonPrimeにて











14才のハラワタ

14 003

2009年

佐山もえみ 監督・脚本



長野レイナ、、、原田ワタル (14才中学生)
松田洋治、、、父
大家由祐子、、、母
五十嵐令子、、、青木麗華(ワタルのクラスメイト、学年2位)
水嶋瑞希、、、佐藤ナツキ(ワタルのクラスメイト、学年1位)
橘ゆかり、、、青木さんの母
池上幸平、、、塾長
武田勝斗、、、青木祐輔(青木さんの弟)


ちょっとタイトルが物々しいが、別に14才の青春のドロドロをぶちまけるといったゲロみたいな映画ではない。
とてもスカスカの淡々とした間の延びた映画で、その流れに身を寄せれば心地よい。
お父さんとお母さんのすれ違い。お父さんが出掛けるとお母さんが帰って来る。
お父さんの靴磨きのお陰で娘の靴はいつもピカピカ。この辺で関係性を見せる演出はとても映画的。
お父さんとお母さんの娘ワタルに対する距離感が良い。
自分のやりたい(やるべき)ことをしながら娘をいつもそれとなく気に掛けている。
そのせいか娘の情緒も安定しているではないか。
お父さんとお母さんの距離は離れすぎてしまったが、、、。

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ヒロインのワタルは塾に通っているが勉強はかなり苦手のようだ。
クラスには学年トップと2番の子がいてその2人はかなり意識し合い緊張状態にあるが、ワタルは2人とそれぞれ話はするが、共感は示すもあっさりした関係を保つ。彼女たちからは同じような複雑な気持ちを聴かされる。相手に対する嫉妬と憧れである。ワタルにはそういった強い感情はあまり窺えない(結構、その辺が成績にも出ているのかも)。
彼女は目標とかやりたいことがあるようにも見えず、特に何を主張するでも何に拘るでもない、泣くでもないし怒りもしない。
だが、何か周りをほっとさせるような空気感を漂わせており、何でも取り敢えず受け容れる優しさがある。
子供が寄って来るタイプだ。

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クラスメイトは皆、穏やかで良い感じ。
特にナンバー1と2の子においては、人間も出来ている。
2の青木さんはちびまる子のたまちゃんみたいで癒される。
絵が上手く、佐藤さんも感動しており、2人は絵を介してかなり距離を詰めたようだ。

原田家は、共稼ぎで忙しいこともあるが、食事がいつもコンビニで買った物をレンジで温めて食べ彼女のお昼は学校で買ったパンというのもちょっと寂しい。そうしたこともあってか、離婚後はおかあさんも頑張って食卓に手料理を出しお弁当まで作ってみる。
離婚後にやってみた。兎角そうしたものだ。もう戻れないが。
この両親の離婚には流石のワタルも応えたみたいだ。
暫くベッドに寝ころびじっと上を見ていた。ちなみに隣に寝ていたお母さんは転がり落ちていた。
この辺の演出は上手いと思う。

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それでも淡々と日常は過ぎてゆく。
ワタルはお父さんがやっていた靴磨きを引き継いでやっていた。



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マイ・プレシャス・リスト

Carrie Pilby004

Carrie Pilby
2016年
アメリカ

スーザン・ジョンソン監督
カーラ・ホールデン脚本
カレン・リスナー『マイ・プレシャス・リスト』原作
マイケル・ペン音楽


ベル・パウリー、、、キャリー・ピルビー(高IQ少女)
ヴァネッサ・ベイアー、、、タラ(法律事務所の同僚)
コリン・オドナヒュー、、、ハリソン教授
ウィリアム・モーズリー、、、サイ(隣に住む演奏家)
ジェイソン・リッター、、、マット(新聞広告で知り合った男)
ガブリエル・バーン、、、キャリーの父親
ネイサン・レイン、、、ペトロフ医師(担当セラピスト)


高IQの才色兼備。飛び級でハーバードを18歳で卒業し、ロンドン生まれだが今はアメリカで独り暮らし、というより引き籠りをしている少女の噺である。1週間に本を17冊読む。羨ましい。偽善者が大嫌いな潔癖な少女でもある。
基本的にいつも不機嫌で自意識過剰である(流石に終盤は解放され笑顔が見られるが)。

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向うでは、セラピーに通うのが普通の生活にくみこまれているんだな。
自然に根付いていることがよく分かる。カウンセリングとどちらが多いのだろうか。
子供にとっては、お父さん、お母さん、セラピストさん、同等の存在なのだ。恐らくカウンセラーもその位置にいるのだろう。
(この少女の場合、カウンセリングのような問題解決を本人主導で支援するものより、セラピーの形でどんどん解決の提案をしてくれる方が効率的に思える。彼女主導だと自分の世界により埋没しそうだし)。
父の差し金で法律事務所で夜間に文章校正のアルバイトははじめ、少しばかり人との接触の場も出来る。

セラピストなので、問題解決のための提案を積極的に出してくる。
彼が作ってくれた「プレシャス・リスト」を彼女はとりあえず実行してみることに。
それで何も変わらなければ、セラピストの無能を証明することが出来る。
それが実行する動機のひとつにもなっているようだ(笑。

Carrie Pilby001

デートをすると言うことで、日常生活で(又は新聞広告で)適当に逢う事の出来る相手と付き合ってみる。
友達を作る。これはバイト先のタラか。何かと煩く入り込んでくる女史だが。
誰かと大晦日を過ごす。これは最後に実現を見る。結局、サイとハッピーエンドか。
ペットを飼うというところで、金魚を2匹飼う。一匹死にパニックになるが。
子供の頃楽しんだことをするでは、好きだった飲み物を飲むということで、チェリーソーダを久しぶりに飲んでみる。
(これは結構、満足気であった)。
そして、本を取り返す。母が生前プレゼントしてくれた「フラニーとゾーイ」の初版本である。
(この時点では教授には貸していない)。

何人かと付き合ってみるが、良いところまで行って結局上手くいかない。
恋愛までにはいかないのだ。新聞広告の高学歴男もゼミの教授も、、、。
同じような趣味を持つ学歴も似ている相手で話はスムーズに運ぶが、或るところまで行くとお互いのエゴがぶつかり合う。
隣のよく干渉して来る男性は演奏家であったが、両親は音楽で身を立てることに反対しており、親元を離れて暮らしていた。
彼は「人生は一度きり。幸せになっていいはずだ」という。これは後々に響く、、、。
彼にコートを貸してもらった時、本を持っていたのに気づく。サリンジャーの「フラニーとゾーイ」であった。
「フラニーとゾーイ」の初版本を恋人になりかけた際、ゼミの教授に貸したままになっていることに今更ながら慌てふためく。
自分の一番大切な本ではないか。

Carrie Pilby003

デートをするたびに孤独になる。相手は大事な本も返してこない。
ソーダを飲んでも誰も振り向かない。
金魚は片方が死んでしまった。かなりのショックを受け、もう片方を店に返しに行く。

そしてパパは新しい家族をロンドンで作ってしまう。
これが大きかったか。

独りで(籠って)いると孤独は感じられないものだ。
他者と接し関わるから孤独を知る。
これは良いことだと思う。
当然、家族も他者であり孤独に向き合うことになるのは当たり前。
何かをして人と関わることで真の孤独を知る。

そこから始めればよいのだ。
と言うより、それ以外に方法はない。

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伏線の回収を(ちょっとした言葉も含め)丁寧にしてゆく映画であった(わたしはそれに拘らないのだが)。
お父さんとセラピストのおじさんが良い味を出していた。
舐めた教授から本を取り戻しに同行したお父さんはやはり頼りがいのある存在だ。
わたしもあんな風に本を取り戻しに行きたい(笑。






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ウェア 破滅

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Wer
2013
アメリカ

ウィリアム・ブレント・ベル 監督
ウィリアム・ブレント・ベル マシュー・ピーターマン 脚本
ロバート・ホール 特殊メイク・VFXデザイン


A・J・クック、、、ケイト・ムーア(人権派女性弁護士)
ブライアン・スコット・オコナー、、、タラン・グィネック(狼男)
セバスチャン・ロッシェ、、、ピストー(警部)
サイモン・クォーターマン、、、ギャビン(細胞遺伝子学教授、ケイトの元カレ)
ビク・サハイ、、、エリック(科学捜査官)


ホラー映画なのだろうが、これ程よく出来たものを見たのは初めて。
驚いた。

「ヒト」
定義し難い生命というモノはある。人のようだが到底その範疇には収まらないヒト。
ここでもタラン・グィネックは、最後に一度だけ「狼男」と呼ばれるだけで、名状し難い悪魔のように扱われる。
不可解で恐ろしい存在であり、そのようなものを扱った作品としては出色の出来栄えだ。
月が出ると変形し狂暴化して暴走する。
普通に考えれば「ウェアウルフ」か。

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この映画の面白さは、撮影面では様々なカメラの目(手持ち、監視、ヘルメット装着、ニュースカメラ等々)で臨場感を出して生々しい迫力を見せている点。
闇や叢の使い方も良い。
そして惨殺シーンが即物的で激しくこれまた生々しい。死体にしても体の半分を食いちぎられて損傷しているところがディテールに渡り示される。
ストーリーも一筋縄ではいかない、意欲的なものであった。
フランス舞台だがアメリカ映画だ。

フランス旅行中のアメリカ人親子が惨殺された事件でその検証から猛獣によるものと見られたが、ピストー警部の下、殺人事件に切り替えられる。犯人はタランという大男である。この男の土地を核廃棄物処理に使いたい街と警察側の利権の絡む陰謀が浮かび上がる。タランの母もそれを強く危惧しており、家周囲には監視モニターが据え付けられていた。
タランの父は昨年自動車事故死しているが、検死で多量の睡眠薬を飲まされていたことが判明する。
更にタランがポルフィリン症という次第に動けなくなる珍しい病に犯されており、そのための検査も行い、弁護士ケイトは冤罪と共に警察~核廃棄会社の不正癒着と陰謀も視野に入れる(父の睡眠薬も考えれば殺人も)。
馬の惨殺体が見つかり、その犯人が熊であった。ここで猶更タランの冤罪の線が濃くなる。

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しかし病の検査が病院で行われるなか、光刺激による網膜検査でタランが過剰な反応を見せる。
狂暴化し暴れ狂う。
ここで彼の正体が知れ渡ることに、、、。
4人の医療関係者をいとも簡単に惨殺し彼は物凄い速度で逃亡する。
急展開である。
テンポがよく無駄がない。視点の切り替えも多彩。
同時にケイトを守り、タランから受けた噛み傷からの感染が気になるギャビンの体調不良とケイトに対する感情が絡み進行する。

光との関係の危険性に気づいたのは、エリックであった。
そして月である。
その通り、タランは月の出に従い身体を変形させ人を遥かに超えた怪力と身体能力を見せつけた。
ビル街にあっても森の洞窟にあってもその容赦ない攻撃性は留まるところを知らない。

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まさに悪魔だ。
弁護士ケイトももはや弁護どころの話ではない。
しかし彼女は、タランの父の死には事件性をはっきり認識しており、彼らの土地と警察及び核処理関連の不正を暴く意思はしっかりもっていた。

体調の優れないギャビンを残し、何故か大変危険なタランの捜索にピストーから同行を頼まれるケイトとエリック。
川辺で捜索中に彼らはタランに出逢い、エリックは無残に殺害される。
そしてケイトに襲い掛かるが、彼の残された理性が自分を懸命に庇ってくれていた彼女を認識し殺すことは出来ない。

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そこへケイトを守りタランに腕を噛まれ感染し自らも狼男となったギャビンが現れ、彼を彼女から振り払い投げ飛ばす。
こちらも恐ろしい力が漲っている。
そして激しいタランとギャビンの一騎打ちが始まるのだ。
正直、なよっとした学者のギャビンがここまで強くなるものかと驚く。
(何故、髪の毛に至るまで体毛を剃り落としているのかは、分からない)。
すでにギャビンはタランと同格の強さなのだ。

この闘いがまたタフで凄い。
こういう展開で来たか、、、である(笑。
そしてタランを倒し、ギャビンが無言でケイトに自分の頭を銃で撃ち抜くように懇願している時に、上空のヘリから銃弾が放たれケイトの腹部を撃ち抜く。
これを見て逆上したギャビンが周囲を取り囲んだ特殊部隊を次々に倒してゆく。
そして一人を夜空に向けて放り投げ、上空のピストーの乗るヘリにぶつける。
ヘリはバランスを失い墜落してピストーも死亡することに。
結局、警察~ピストーの、タランの土地と彼の父を巡る不正も発覚した。

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何度も銃撃を受けながらも蘇り、ギャビンとの死闘で息絶えたと思われたタランは、知らぬ間に蘇生し身を隠しながら人々を襲い続けるのであった。
ケイトは重傷で入院しているとのこと。一命は取り留めたのだ。あの銃弾は到底、流れ弾とは思えない。上空からの狙撃でありピストーによる口封じではなかったか。

暫く後~映画の最後で、元の姿に戻ったギャビンは(どうやって戻ったのか)、タランを「狼男だ」と称する。


撮影も演出効果も申し分なかった。



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ラスト・エクソシズム2 悪魔の寵愛

The Last Exorcism Part II001

The Last Exorcism Part II
2013
アメリカ

エド・ガス=ドネリー監督・脚本
デイミアン・チャゼル脚本・原案

アシュリー・ベル、、、ネル・マーガレット・スウィーツァー
ジュリア・ガーナー、、、グウェン(友人)
スペンサー・トリート・クラーク、、、クリス(彼氏)
ルイス・ハーサム、、、ルイス・スウィーツァー(父)


これは続編であり、POVの形式ではない通常のドラマとして見易く作られていた。
ネルはとても大人に見えやつれていた。ちょっと痛々しかった。
前作に続き父も出てくるが幽霊としてである。

The Last Exorcism Part II003

結局、自己実現を果たしたと思っても、それも洗脳に過ぎないということもあるものだ。
最たるものはカルト教であったりするが、そこまで行かずとも市井には色々とケチな価値観が転がっている。
それを本人が無自覚、無意識に取り込んでまたは刷り込まれて、それに沿って半ば自動的に動いてしまっていることは多い。
実感で言えることだが、実に迷惑。迷惑至極なことにつながる。
何故ならその多くが、その人間が潜在的にもつ敵意や悪意に基づいたものだからだ。
その(劣等感に裏うちされた)攻撃性や劣情を何とか合理的に道徳的にぶつけられる対象を探して反吐のように吐きつけたいのだ。
犬や猫でそれほど下品なのを見たことはないが。
そのためにフラフラ嗅ぎまわり徘徊していたりする。
現代のゾンビだ。

The Last Exorcism Part II002

ここでもネルは日常にようやく溶け込み、笑顔を取り戻し友人や恋人まで出来、仕事にも就けたが、その生活を邪魔するものがいた。
悪魔アバラムである。
彼に魅入られてはもうどうしようもなかった。
父が幽霊となって何とか彼女の魂を救おうとライフルで撃ち殺そうとするが流石にそれには失敗する。
霊能者ジョンが言うように「彼女がいなければ悪魔は無力」ならば、やはり彼女が自分であるためには死しかなかったのかも知れない。悪魔から人々を守るためにも。
これは究極の選択だ。しかしそういった自覚(認識)が彼女に無いのならば、生を望むのは当然である。
われわれはまず生命なのだ。
彼女は父のライフルを逃れ、霊能者ジョンのモルヒネからも逃れ結局、生きるためにアバラムの手を取り彼の愛を受け入れてしまう。

The Last Exorcism Part II004

これは仕方のないことであった。
受け容れた彼女にとっては「真の自分を受け入れ覚醒」した気分でもう顔も活き活きとして満足な笑みも浮かべている。
ある意味、一番恐ろしいパタンである。生きるために自分を差し出す。だから悪魔の仕業と言えるのだ。
そして彼女に関わった善意の人々は皆殺され、車を走らせる彼女の視界は火の海となる。
街は車の進行とともに焼き尽くされてゆくのだった。
この先のアバラムのプランは何なのか。

The Last Exorcism Part II006
The Last Exorcism Part II005

ともかく、自分であることが幻想であってはならない。
その根拠が漠然とした悪意や敵意であったら何かを収める方向には絶対に働かない。
単に敵対関係を深め広げるだけである。
そういう話かどうかはさておき、、、
身の回りの迷惑な状況からそれを絡めてこの映画を観た。

3はまずない。



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ラスト・エクソシズム

The Last Exorcism004

The Last Exorcism
2010年
アメリカ

ダニエル・スタム監督
ハック・ボトコ、アンドリュー・ガーランド脚本

パトリック・ファビアン、、、コットン・マーカス牧師
アシュリー・ベル、、、ネル(悪魔に憑かれた少女)
ルイス・ハーサム、、、ルイス(ネルの父)
アイリス・バー、、、アイリス(撮影クルー)
ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ、、、ケイレブ(ネルの弟)



モキュメンタリーの手法で作られた臨場感ある映画である。
POVとは言え酔うような部分はない。画面の見難さもほとんどなかった。
よく練られた脚本で、二転三転する展開に目を離せない。どんでん返しもある。
そう言いながらも結構、ながら見をしてしまったのだが(笑。失礼。
物語(フェイクドキュメンタリー)自体はよく出来ていた。
つまり、主人公の似非牧師さんは、思春期特有の社会問題も含む一般的な被害~災難で捉えようとしていたのだが、実際は狡猾な嘘つき悪魔の仕業であったというオチであった。
まあ、一連の騒動が無垢で純粋な女の子の羞恥心から起きた事故で収めるには無理があり過ぎだろう。
身体の撓り具合が貞子を彷彿させるようなアクロバティックなものであるし。
もう雰囲気からして普通の人間の様相を超えている(何でずっと離れた牧師の泊まるホテルに瞬間移動しているのか、それだけとってもあり得んだろうに)。

The Last Exorcism001

コットン・マーカス牧師の立位置としては、今回のエクソシズムを最後にして牧師という職業からも足を洗おうと思っていた。
彼はしかし信仰を捨てても、基本的に善意の人ではある。
目の前の困っている人、弱者を観ぬふりは出来ない。
信仰の立場からではなく救おうとはしている。
それで今回のカメラクルー付きのエクソシズムでその種明かしをしつつ、悪魔に憑かれた人を治して、この信仰の真実~システムを白日の下に晒そうという魂胆であった。考えてみればかなり不遜で大胆な行動である。
(迷信により命を落とす例も確かに少なくないが)。
そして病院~医学に頼る。
しかしそれではどうにもならない。

The Last Exorcism002

であるから最後のカルト教団の悪魔の生誕儀式に行きつく必然性は分かる。
地域のまともで温厚に見えた牧師がそれの親分であったというのもなるほど、であった。
(アメリカの田舎の危うさもよく実感できるところか)。
弟もその手下であった。ということは、キリスト教の原理主義みたいな石頭のお父さんが一人で娘を守っていた形か?
もっとも危ないと思われていたお父さんだ。
アイリスなどは、病院でネルの妊娠が分かった時など、その相手が彼(近親相姦)だと思い込んだほどである。
それが、カフェに勤める若者がお相手であったと真顔で娘が告白する。彼に好意を持っていたと。
地域の牧師もそれを認める。

しかし悪魔は上手であった。
そのボーイはゲイであった。
これが発覚したあたりから、極めて深刻で深淵な状況が控えていることが分かる。

The Last Exorcism005

いかさま牧師が金儲けの手段にトリックエクソシズムをちいていたにせよそれを本気にして憑き物が落ちた心因性の病のクライアントも少なくなかったと思う。
文字通りラスト・エクソシズムにおいて、コットン・マーカス牧師が本当の意味で信仰を見出したというのも皮肉なものである。
森の空き地で悪魔の儀式が炎の中で行われていてベッドに寝かされたネルから何か得体の知れぬものがとりだされようとしているのだ。泣き叫ぶネル。その傍には父が縛り付けられていた。
純粋に目の前の人を救おうとするコットン。それに立ち向かう有効な力は信仰の力しかなかった。
彼は全身全霊をささげ十字架を翳して悪魔に挑んでゆく。

これで彼も天国に行けたはず。
最後だけはカッコよかった。

アシュリー・ベルという女優演じるネルは見事であった。
ちょっと人の出来ない姿勢、ポーズなどもして、悪魔憑依時の表情と通常モードをしっかり切り替えていた。
かなり体力的にも大変な演技であったと思われる。

The Last Exorcism003

この映画には”2”がある。
見ようかどうしようか迷うところである。



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”Bon voyage.”



金沢国立工芸館「ポケモン×工芸展」6月11日まで。人間国宝の実力派作家たちが新たな解釈でポケモンを創造。

金沢城公園、兼六園、金沢城、ひがし茶屋街、近江市場も直ぐ近く。
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