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GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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炎上

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Enjō
1958年
市川崑 監督
和田夏十、長谷部慶治 脚本
三島由紀夫『金閣寺』原作
宮川一夫 撮影
黛敏郎、中本利生(邦楽)音楽


市川雷蔵、、、溝口吾市
仲代達矢、、、戸刈
中村鴈治郎、、、田山道詮老師
北林谷栄、、、溝口あき(吾市の母)
舟木洋一、、、鶴川
浜村純、、、溝口承道(吾市の父)
洋館の女(らん子):浦路洋子
新珠三千代、、、花の師匠
信欣三、、、副司
中村玉緒、、、五番町の女(まり子)


「金閣寺」は幼少の頃から本棚に背表紙を観た来た。
それだけで、読んでない(笑。
三島作品は、随筆~エッセイしか読んでいない。
それでこの映画である。
三島文学をまともに読んでいない以上、飽くまで、この映画を観た範囲で、気になったことのみ書いておく。

映画作りにおいて三島本人も監督とディスカッション済みらしい。
この映画は原作者に認められたものとみて良いようだ。
映画の形式に変換され時間も99分と短い。
内容がどうそぎ落とされ、何をテーマに置かれて再構成されたものか。

市川雷蔵が吃音に悩む孤独な学生を極めて繊細に演じ。
仲代達矢が片足の不自由な理論武装した学生を豪放に怪演する。
中村鴈治郎がしたたかな(裏の顔を持つ)人格者の住職を好演する。
(この感じの人に、わたしはかなり出逢って来た覚えがある)。
映画において、金閣が「驟閣寺」(しゅうかくじ)と名を変えられているのは、何か訳があるのか。
モノクロの気品と壮麗さが充分に生かされていたように思われない。
「驟閣寺」はここでは神々しい程に美しくなければならぬのでは、、、

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この吾市という僧に成ろうとする学生、母との折り合いが酷く悪い。
肉親憎悪には、やるべきことをせず虐待などに変えて来たか裏切り行為(不貞)などの原因が多いと思うが、この場合後者のようだ。
非常に潔癖で純粋な性格であるため(吃音にもそれが影響している)、特にそのような不潔なことが許せない。嫌悪の対象となるのは分かるものだ。
その反動で病死した父を過度に神聖化しているように窺える。
父が生前、「驟閣寺」ほど美しい寺はない。一度お前にも見せよう、と実際に父と見て感動した想い出が彼の中で純化してゆき、そのイメージが(父とも重なり)途方もない価値になってしまっていた。
基本的にコミュニケーションが難しく吃音に対する迫害により著しく内面化が進みアイデンティティの拠り所を強く求める心性も生まれやすい。
今や「驟閣寺」は聖地であり、はじめからあった不変の場所となる。この世にあって変わることのない絶対的な価値である。
しかしこの感覚~世界は他者との共有は当然難しい。

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彼と対照的な懐疑的で退廃的な理論家である戸刈が世の中の全ては流転しており変化こそ本質であり変わらぬものなど何処にも無い、という至極もっともな理屈を諭されたことに対する反感もあろう。
吾市は彼の、鋭い洞察力から放たれる容赦ない言葉や、やくざな行いが受け入れ難く、そりが合わない。が一目置いている。
尺八を教えてもらい自分も吹けるようになり、影響もしっかり受けているのだ。
(出来れば、もっと尺八などに専念するような資質~感性があれば、放火などせずに済んだはずだが。芸術表現による他者との感覚共有は在り得る)。
このかたくなな吾市の価値観と、いつも呟いている「誰も分かってくれない」という常に底流する不満は同根に思える。

戸刈の知性のように全てを相対化すれば、これだけは分かって欲しい絶対的なもの~価値などない。
自分とは常に生成する過程~その途上の点に過ぎず、わたしはこういうモノだ、それを承認してくれなどという欲望は、少なくともプライド上見せないでいる。知性で論理は組み立てるが、心理的には強がりの裏返しでもある。自分の本心を巧妙に隠して生きている。
(彼も自分の脚をワザとひけらかして他者の憐れみを逆に利用しているに過ぎずコンプレックス自体はしっかり引き摺っている。だから片端呼ばわりを女にされるとやはり逆上する)。
この辺で、二人は言っていることは正反対でも、似た者同士でもある。

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父も寺も田畑も借金の埋め合わせに奪われた彼を暖かく拾ってくれた老師にはある時点まで絶対的な信頼を置いていたが、やがてそれも崩れ去る。尊敬する住職が妾を囲っていた俗物であったのだ。吾市はこういうのが一番許せないタイプであろう。
かつて一目惚れした(彼にとって人間離れした)美しい女性が、戸刈と男と女のドロドロの関係にあった。
このような落胆~絶望も重なり、父=「驟閣寺」の幻想を更に強固なものにしようとする。その内面化が極度に進み、揺らいでくる。その基盤を重力的に支えきれなくなってくる。
そしてその自分の気持ちを誰も分かってくれない。

これを吃音の自分が天に(もはや人ではなかろう)知らしめるには、父を火葬した時のように「驟閣寺」も炎に焼くしかない。
同時に自分も世界を失う。

飽くまでもこの映画を観た上での感想に過ぎないが。
溝口吾市が象徴的に「驟閣寺」を焼失させるにせよ、もうひとつそれを成す何かが欲しい。
別に何故、「驟閣寺」に放火したかの謎解きではない。
溝口吾市の孤独の様相にもう少し迫りたいところであった。








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