霊魂の不滅

Körkarlen
1920年
スウェーデン
ヴィクトル・シェストレム監督・脚本
セルマ・ラーゲルレーヴ『幻の馬車』原作
ヴィクトル・シェストレム、、、ダヴィッド・ホルム(浮浪者)
ヒルダ・ボルグストレム、、、アンナ・ホルム(妻)
トーレ・スヴェンボルグ、、、ゲラー
アストリッド・ホルム、、、エディス(救世軍の女士官)
コンコルディア・セランデル、、、エディスの母親
リサ・リンドブロム、、、マリア
エイナル・アクセルソン、、、ダヴィッドの兄弟
噂には聴いていたヴィクトル・シェストレムの「霊魂の不滅」が観れるのは確かに有難い。
AmazonPrimeに入っていて良かったと思うところ、でもある、、、。
しかし手放しで喜べるまでのものにはなっていなかった(特に日本人にとってだが)。
宗教的な幻想に満ち満ちている。
これを観て直ぐに思い浮かべるのは、やはりスウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンだ。
監督自らが凄い熱量で主演しているところにも圧倒される。
(調べてみると何とベルイマンの「野いちご」にイサク教授役でも出ている)。
100年以上前の無声映画だが、古さなどいささかも感じない。
5章に分かれておりかなりの大作である。
(サッパリ訳の分からぬ字幕を拠り所に観ざるを得ない為かとても長く感じ、更にBGMが良すぎて睡魔に5回も襲われた)。
トランジションには、穏やかな場面転換を見せるディゾルブが多用されている。
(この時期の映画の基本的な効果のひとつなのか)。
そして神々しいまでの二重露光。神秘的かつシリアス。
これも全般に渡り普通に(自然に)使われている。
何より特徴的なのは、畳みかけるように交錯しつつ進展するフラッシュバックのモンタージュである。
実に見事な構成で現在と過去を繋ぎ感動を呼ぶ。
これにアグレッシブで時にプログレッシブなタンゴが絡めば胸が震えるではないか。
(無声映画である。後に誰がこれを選曲したのか)。
流石にイングマール・ベルイマン が衝撃を受けたというだけの作品である。
当然、スタンリー・キューブリックにも多大な影響を与えているはず(「シャイニング」などオマージュ作品か)。
それにしてもこの映画をわれわれ一般に見せるには、ひとつ重要な課題が残されている。
(飽くまでも日本で発表するにあたり)。
飛んでもないアホ字幕をしっかり分かるものに付け直すこと。
これはマスターピースに泥を塗る行為だ。
重大な局面にあたる場面では想像でこんなこと言ってるのだろう、と解釈して何とか観るが、それ以外の部分でほとんど何のこっちゃという感じでそのまま置いて行かれる場面が多い(と言うかほとんど、サッパリである(怒)。
これ程の手抜きでよくPrimeビデオに上げたものだ。
これくらい何とかしてほしい。
(出来の悪い自動翻訳以外の何ものでもない)。
「新年を迎える瞬間に死んだ者は次の一年、死神となって馬車で世界中の死せる魂の案内役とならねばならない」という言い伝えがスウェーデンにはあるという。
酒癖の悪いダヴィドは浮浪者仲間と墓場で酒を呑んでいるうちに喧嘩となり一人の男に酒瓶で頭を強打されその場に倒れ、死神がお迎えに来る。つまり交替に来たのだ、、、。もう少しで今年も終わる、、、。
ダヴィドは自分の身の上話をして何とか許してもらおうと悪あがきをする。
元は真面目な労働者であったダヴィドだったが、悪友に誘われ酒に溺れてゆくことで全てを失ってしまった。
その時救いの手を差し伸べてくれたのが、今病に伏せ明日の命も危ぶまれているエディスである。
彼女は死ぬ前に彼が自分の行いを反省し更生してくれることを強く願う。
かつて彼女のお陰でダヴィドは、一瞬心を入れ替え真面目になろうとするも、直ぐに酒に手を出し元の木阿弥となってしまう。
妻子を蔑ろにして路上生活を始めていた。
馬車に乗せられ死者たちの世界も巡る。
これにはかなり怯え慄いた。
そして妻子が生活の困窮の為、行き詰まりついに毒を煽って心中を企てているところに出くわす。
ダヴィドとしてはなんとしてもそれを食い止めたい。
自分のこれまでの悪行を悔い必死に祈るが、死者は生者には一切手は出せない。
死神にすがり懇願し只管祈るダヴィド。
その様子に死神はダヴィドの真の悔悛を見たのか、、、
死神は彼に元の牢獄に帰れと言い、墓場で倒れていたダヴィドを蘇生させる。
目を覚まし気づいた彼は、慌てて家へと駆けこんで行く。
幸いまだ毒を飲んではいなかった、、、
、、、、妻は彼の悔悛の涙を信用し、かたく抱き合う。
何だかろくに分からぬ筋を飛び飛びで書いても意味はない。
ただ間違いなくベルイマンに引き継がれる崇高な宗教性を湛えた映画であった。
字幕を直しDVDを出してほしい。

欧米版はある。西ヨーロッパが大丈夫なら同じリージョン2仕様で日本でも観れる。