レジェンド・オブ・リタ

DIE STILLE NACH DEM SCHUSS THE LEGEND OF RITA
2001年
ドイツ
フォルカー・シュレンドルフ監督・脚本
ビビアナ・ベグロー、、、リタ・フォークト(西側反資本主義テロリスト)
マルティン・ヴトケ、、、アーウィン・ハル(シュタージ将校)
ナディヤ・ウール、、、タジャナ(リタの同志、アルコール依存症)
アレキサンダー・ベヤー、、、ヨッヘン・ペトカ(リタの恋人)
ジェニー・シリー、、、フリーデリケ・アデバッハ(リタの同志)
西ドイツのテロリスト赤軍派(RAF)と東ドイツの秘密警察(シュタージ)とがこのような癒着関係にあったというのは、なかなか興味深い。どちらも冷酷無比で怖い組織みたいに感じていたが、この映画で見る限り、良くも悪くも人間臭く迷走もする。
こんな風だったのか、とか思ってしまった。
ただし、その悪くも、の部分であるが、どんな思想を掲げようと、それのみを絶対視して自分と異なる考えや感覚を持ち異なる体制下に生きる人間を殺してよいことには、なるまい。
そもそも武装闘争とは何か。何を意味するのか。(何故武装闘争なのか)。
わたしは前半は、こういう体質の人もいるのだな~と、遠くから眺める気持ちで観ていたのだが、次第に何とも言えない不快な親近感を覚えだした。
今も生きているインゲ・ヴィエットという反資本主義者であり元テロリストの半生を描いたものという。
ここでは、リタ・フォークトというヒロイン名であくまでもフィクションの形で本質を捉えようと表現されたものだと受け取れる。
わたしが感じたのは、ロジェ・カイヨワの遊びや戦争論にもあった、人が無意識的に囚われる眩暈や聖なるものへの憧れに等についてであった。
まずは、ある理念なりイデオロギーに感化されその政治闘争に身を委ねてゆく。
次第に思考判断を共同体理念に丸投げ依存するような過程に入ってゆき、恐らく周りなど見えない高揚に包まれてゆくのではないか。
眩暈とヒロイックな高揚感がどんどん高まる中で、自分たちの革命の障害となるものなど、躊躇なく粛清してかまわない感覚麻痺に陥る。
もう客観的な思想内容~行動に対する反省的思考は働かず、そこに自己投企し仲間と破壊的行動を共にすることで(ここでは)悪魔の体制資本主義を打倒せんとするヒロイックな感情の高まりと危険を切り抜けてゆく眩暈と恍惚にひたすら酔って行く。
もうあるところまで来たら止められない。降りることは出来なくなる。制裁があるからと謂うより寧ろその快楽原理から。
こんな政治性~思想性のない局面でも、われわれはランナーズハイなどで近い感覚を味わうこともあろう。
この人間の無意識的な身体性にこそ注意を傾ける必要がある。
最近よく話題にもあがる協調圧力なども、一緒に仲間になって同じことをやれというアホな理念も何もない圧力に思えて、実は多数派に協調することこそが善という共同的な感覚~理念に基づいている。
(これが根付いてきた歴史的必然性もあるにはあろうが。原初的生活においてなど)。
異質に見えるだけの対象を理不尽に周囲が攻撃・排除しようとするような場には、往々にしてこの手の共通感覚が働いているものだ。
ここでは、たまたま交通違反で接触して来た警官を自分たちの素性がバレ、神聖な闘争の妨げになるかも知れない、という程度のことで簡単に撃ち殺している。
しかし、基本的に巷にも同様な愚かな行為を幾らでも見る。
これはいくら強調してもし足りない。
この映画では結局、西の反資本主義テロリストが東に渡り、そこの秘密警察の助けも借り、偽名パスポートやらなにやらで身を隠し、職にも就き、恋人も作って、、、それで何をどう動かしたのか、、、である。
結構、普通の生活もその場その場で楽しんでいる様子が何とも言えない。
闘争としては、銀行強盗や誘拐、仲間の脱獄を手伝い、その時邪魔な警官や弁護士とかを射殺したくらいである。
自慢げに法を踏みにじり悪行をする。これで資本主義がどうなったというのだ。
そしてかつての同志であり現在共産圏に家庭を持ち暮らしているジェニー・シリーの生活に苦しむ表情をどう見たのか。
(結局、ベルリンの壁が壊され、東のシュタージから見放され孤立無援で、ドイツ全土から追い詰められる)。
政治的に全く意味の無い虚しい行為~犯罪だけが残った。
やったことは、単なる(快楽原理による)幼稚で衝動的な憂さ晴らしに過ぎない。それも実に迷惑至極な。
テロ組織という目立った形である為、これに対しては誰もが批判的に見るであろうが、日常に潜在する同質の暴力に関しては自ら加担している場合もある。きっと、ある。確かにある。
AmazonPrimeにて。