観たのだが書けなかった映画

片付け整理仕事の傍ら、映画も観てはみた。
KADOKAWAに拘って観ていたら、最近の邦画については、何とも書きようの無い作品に連続して出逢ってしまい、今後は(課金など気にせず)他に広く当たることにした(笑。
先だってブロ友さんからもご指摘があったが、わたしは邦画に拘って観ている。
あの「海街diary」的空気感がこの時期観やすい気がして、、、。
KADOKAWAで無作為にあたって観たのが、「甘い鞭」と「愛の渦」と「女の穴」というものだった。
こちらに引っかかってくるリアリティ~共感は、それぞれ根底的にはある。
ストーリー、表現手法や演出には違和感を持つところはあったが、、、。
少女期に受けた性的暴行による凄まじいトラウマに翻弄され二重生活を強いられる女医の話と生〜性の閉塞感を引きづり偶然集まった人間同士の緩くて奇妙な共同体意識と個人的感情との齟齬。(これは男と女の違いも多分にあるかも知れない)。ただ物語ひとつを終了するにあたり結果的に始まる前と何かが変化するということはなく、何ら変わることはないという性の属性をも虚しく表す。最後の物語はコメディであるが性を宇宙人とLGBTの視点から捉え返そうとしたのかはさておき、中途半端なもので特に演出の半端さが稚拙に感じられるものであった。後半は兎も角、前半は映像的に白ける不自然な無理があった。
暴力、虐待(言葉も含め)によるトラウマは確実に人生(脳)を狂わせ、その人間本来の生を生きる事を阻む事は間違いない。
フラッシュバックだけでなく、現実に何度も同等の体験を繰り返す(他者から同じ様な仕打ちをされる)事となる。自分からそれを求める心的機構も出来上がってしまう。
それから生存する限り性自体(行為を含め)反復し、快楽、喪失、忘却を繰り返す。そしてそれは一定のリズムを持ち実存的な変化は及ぼさない。であるからこそ快楽と同時に必要悪の面〜価値も帯びる。
この映画に出てくる人々の帰りがけの虚な表情に、全てが反映されている。
3つ目の作品では、性的マイノリティの抽象性と寄る方無さがコミカルいやシニカルに描写されていた。
これは分かるが宇宙人をここに出す意味が今ひとつ分からない。性に対し根本的に他者である、つまり植物みたいに異なる相手からどう見えるかを狙ったものか。だとすると食い足りない。演出的にも余りに弱い。
後半はそれはそれで分かる哀愁を感じるものであり、ホモの先生役がなかなか説得力がある名演技であった。
性という生の根底を支えるところとそれに絡んでくる暴力〜差別、悪無限反復、虚無感そして結果的に作用するトラウマによる生きにくさ。
これらが異なる視点から描かれていた。
生の営みは性と深く絡む。以前澁澤龍彦が生物学者ジャンロスタンの研究から引いて、地球に死が導入される以前から性に当たる現象〜行為は存在した事を説いている。
つまり単細胞同士で性行為と受け取れる細胞をリフレッシュする行為が存在したというものだ。
まだ多細胞=死が発生する以前だ。
別に死よりも性が本質的とまで言う気はないが、われわれの生が性の上に成り立つ事は言うまでもない。
エンターテイメントとして扱うとなると思いの外難しいところだと思う。
