西鶴一代女

1952年
溝口健二 監督
依田義賢 脚本
井原西鶴 『好色一代女』原作
田中絹代、、、お春
山根寿子、、、奥方
三船敏郎、、、勝之介
宇野重吉、、、扇屋弥吉
菅井一郎、、、お春の父新左衛門
進藤英太郎、、、笹屋嘉兵衛
大泉滉、、、笹屋番頭文吉
清水将夫、、、菊小路
加東大介、、、菱屋太三郎
小川虎之助、、、磯部弥太衛門
柳永二郎、、、田舎大尽
浜田百合子、、、お局吉岡
市川春代、、、待女岩橋
原駒子、、、お局葛井
毛利菊枝、、、老尼妙海
沢村貞子、、、笹屋女房お和佐
一度途中で挫けた映画であったが、今回溝口映画を続けて観ている勢いで観てみた。
とりあえず最後まで。
大変洗練された映像であったため、生理的にそれ程のしんどさは無かった。
音楽が繊細な和楽で通されていたのも大きい。
形式としては、お春の回想というものであったことにもよるだろう。
ただし内容の理不尽さは途轍もない。これでもかという汚辱にまみれた生涯、、、
原作もこのようにヘビーでハードなのか、、、。
単なる「女の愛欲遍歴」を超えてこれであったなら、、、
とても読む気にならない。

まさに2時間16分の間にどれだけの難に遭えばよいのか、という流転の人生であった。
畳みかける悪夢のエピソードに眩暈がするくらいだ。
もういちいち覚えてもいられない。覚えていたら気がおかしくなる。
本人が特に好色な訳ではない。いや寧ろそれを剥奪されていよう。
更にマゾキスティックパーソナリティ障害なのでもない。
彼女自身は控えめで自己主張は出来ないにせよ極めて真っ当な人格をもっている(ように描かれている)。
基本、翻弄され流される人生なのだ。
容姿が美しいということも災いしているか。それにしても、、、

これ程数奇な人生があろうか、とも思うがこのように弾圧を受けて生きる人は少なくない。
特に当時は女性であるための不利、不遇は大きい。まるで親や男の道具だ。
いや今でも子供を自分の不安や欲求を晴らすための道具として操る親は、はっきりいるが。
(うちの場合は、特にそうである。子供は内面を持つ他者とは思われていない。その意味でわたしも恒常的に過酷な虐待を受け続けてきた)。
パラダイムがどうであろうが、子に対する愛情が最低限あれば、子供自身の生を尊重しようとは思うはず(だが)。
ここにおける基本的感覚は時代や地域、パラダイムの問題ではないと思う。
ここでも主人公は、制度と他者(男~父を含め)の思惑と都合で理不尽な暴力に晒され、侮辱を受け続ける。
自尊心を傷付けられたとかいう生易しいレベルではない。
めちゃくちゃな殊遇である。
特に何より悲痛であったのは、この女性が生んだ我が子に遭えない(引き裂かれた)というところだ。
御付きの者どもに囲まれ籠に乗せられ若殿として大切に育てられている様子の我が子を道端から垣間見る場面はとても辛い。
そして恐らく、たった一度だけまともな男~商人と結ばれ、扇子屋を構えて幸せな暮らしを始めた矢先に、その夫が金目当ての盗賊に殺されてしまった。
何で自分はこんな目に遭うのか、、、柱の陰でさめざめと泣くばかり、、、

だが、少し冷静に物語を眺めると、この流れはエントロピーの向きに等しく大変自然な流れであることも分かる。
初期においてこのように流れ始めたら、こういう顛末になるのは条理であるような。
一旦、この方向性を取ればこうなるしかない摂理のようなもの。
無常の原理をみるような。
そんな感覚で観た。
それを体現するお春の若い娘時代から老婆に至るまでの田中絹代の迫真の演技には圧倒された。

ただ、救いというか、、、お春がどれだけ社会の最底辺に貶められても、品格と威厳は保ち続けて居ることである。
ここが最も重要なところだ。
ロングショットや俯瞰的に見る撮影姿勢、生々しい暴力場面はそれを匂わせる形跡で示すところなど、、、にもよるか。
(お春の回想によると言う形式で進行している点は肝心)。
これを映像化するに溝口映画は最適なのかも知れない。
