西の魔女が死んだ

The Witch of the West Is Dead
2008年
長崎俊一 監督
矢沢由美、長崎俊一 脚本
梨木香歩 原作
手嶌葵「虹」主題歌
サチ・パーカー、、、おばあちゃん
高橋真悠、、、まい
りょう、、、ママ
大森南朋、、、パパ
木村祐一、、、ゲンジ
高橋克実、、、郵便屋さん
原作は未読。
(わたしの場合、ほとんど未読)。
そろそろわたしも助走力を付けないと、、、。
環境ビデオみたいに落ち着いた映像が流れる。
気持ちも休まるものだ。
噺は、いきなりおばあちゃんの危篤の知らせを受け、まいが母と車でおばあちゃん宅に向かうところから始まる。
車の中でのまいの回想が描かれてゆく、、、それは長閑な場所での、気品のある言葉を使うおばあちゃんとの想い出が溢れ出行く。
まいの全てを受け容れてくれる大好きなおばあちゃんである。

パパとママも普通にまいを大事にしているし、おばあちゃんが素晴らしい人で、とても恵まれた子と言ってよいだろう。
中学になったところで、不登校になり、両親の決断もあり森に住むおばあちゃんの家で暫くふたりで暮らすことに。
おばあちゃんは、何というか、、、自然の摂理に通じた人であろう。
それで、人の社会のシステムに組み込まれた場所から見ると魔女的に見える人かも。
ファンタジー要素は、まるで無い。
現実的であり、より現実~自然に忠実に生きましょうという姿勢に受け取れる。
わたしも実感するところであるが、植物と寄り添うように生きるとそのリズムが体内に浸み込んでくるような感覚を覚える。
このおばあちゃんは(自分で育てた)植物にとても詳しい。
生活に植物は食物としても欠かせないものとして大変身近にある。
生きた形の分かるモノから食材に加工し、調理して食べる、この感覚は大きいと思う。
まさに自分たちの環境を作っている植物を中心とした、ほぼ自給自足の生活なのだ。
タンパク質は鶏の産んだ卵くらいか、、、肉や魚も取り寄せたりはするであろうが。

こうした環境におばあちゃんのような人と住めば、変調を来した体内リズムの回復にも充分役立つことであろう。
そう、いくら自然環境に気を使っても、一緒に住む人間が肝心であることは、言うに及ばない。
魔女になる訓練と称して(お洒落な言い回しで)手ほどきを受け、自分の全てを受け容れ主体的に生きてゆく過程に思える。
基本プラクティスは、毎日の生活~起床、掃除、収穫、料理、洗濯、ベットメイキング、就寝等をしっかりと行うことである。
そして何事も自分で決めるというのが基本方針である。
自分に合わないところに無理に合わせる必要はない。
学校に行けないなら、ここで魔女になりなさい。
(一人前の魔女となり~自立して~巣立ちなさい、というところか)。
時間は充分にあるのだ。慌てる必要はないはず。
しかしどのような環境に住み、どのような人と共にいようと、外界は干渉し侵蝕してくる。
まいもその(悪意の)一端に触れ激しくそれを嫌悪し排斥する。
その怒りの気持ちは充分に分かるものだ。
充分に分かるのだが、魔女であるおばあちゃんからすれば、それは相手に対する反応であって、対応ではない。
生理的な反応で翻弄されてしまえば、自分を生きていることにはならない。
自分が嫌悪する対象に従属することを意味する。囚われている。
何ら主体的ではない。
何事も自分で決めて生きてゆくには、自分の意志による対応が冷静に出来なければ意味がない。
(このままでは登校も覚束ない)。
まいはその部分でまだ幼過ぎた。
おばあちゃんと対立し齟齬を生じたまま両親が引っ越す新居に引き取られて行ってしまう。
勿論、それまでおばあちゃんから受けた日常生活を通した魔女の訓練で得たものは大きく、新しい学校にも上手く適応出来ていた。
そう、自分をしっかりもって適応できることは重要(な生きるためのスキル)である。

以前、おばあちゃんと「死」について話し込んだ時に、まいは大変な不安として彼女に打ち明けていた。
この時期、誰もが一度は抱える死の不安である。
死とは何か、、、
おばちゃんは、自分の見解を話して聞かせる。
死とは肉体から魂が解放されることだと、、そうわたしは信じていると。
それをその時に、まいに知らせると約束する。
母とまいが到着した時にはすでにおばあちゃんは息を引き取っていた。
だが、温室のガラスに以前彼女が話してくれた考えの答が書かれていた。
わたしは解放されたと。
まいは自分が忌み嫌っていた人の別の一面も見る。
彼女もこの先きっと、主体性をもって解放に向けて生きてゆくのだ。
手嶌葵の「虹」は滲みた。
エンディングにピッタリ。
