ボウリング・フォー・コロンバイン

Bowling for Columbine
2003年
アメリカ、ドイツ、カナダ
マイケル・ムーア監督・脚本・ナレーター
全編観終わり、、、
マイケル・ムーアの、復讐を恐れる恐怖心が今のアメリカの銃社会を生んでいるという解説は説得力があった。
自分たちが過去に散々他者に対して酷い仕打ちをして来た為、無意識的に過剰防衛し、やみくもに先制攻撃をしかけて身を守ろうとするが、それは仕返しを恐れる恐怖心~原罪から来ているとも謂えるか(ムーアはそこまで言ってはいないが)。
よく、人に対して行った悪行はやった当人は直ぐに忘れ、やられた相手はずっと忘れないという通説があるが、やった当人も無意識的には火種のように抱えているものだ。
(僅かなりとも、自分のやったことに対し、疑念を抱いている場合である。それが全くないバカは問題外)。

アメリカに限らず、人々に恐怖や欠乏の意識を植え付け、物を買わせることで市場経済は成り立つ。
刺激的で(特に劣情~負の意識を刺激し)差別的で攻撃的ならスパイスが効いてて猶更良い。
メディア戦略で取られる手法を無意識に取り込み、日常においてそれを利用している無自覚な輩は多いものだ。
それにしても強固な構造が出来上がっているものだ。
1999年4月20日、コロラド州ジェファーソン郡のコロンバインで高校生による銃乱射事件(12名の生徒と1名の教師を射殺し、犯人は自殺)が起きた日、アメリカ軍はかつてない軍事攻勢をコソボに対してかけ、大量の民間人を虐殺している。
それを指示し成功を喜んだ大統領ビル・クリントンは、直ぐその後にこのコロンバイン高校の件で涼しい顔でお悔やみを述べている。
彼ら生徒の親の多くは、街にあるロッキード・マーティン社のミサイル工場に勤めており、海外に向けて使用するミサイル製造に何らかの形で携わっている。
マイケル・ムーアは、その辺の絡みを匂わせた演出をしている。
そして、チャールトン・ヘストンの全米ライフル協会は、よりによってこの10日後に直ぐ近くのコロラド州デンバーで銃所持の権利を主張する集会を盛大に開いている。
「われわれは、死んでも銃は離さないぞ~」大変威勢がよい。
この辺が、アメリカなのだとヒシヒシと感じられる作りになっている。
監督のメッセージはよく伝わって来た。
そして、高校の乱射事件で重傷を負い、命を取り留めた生徒を伴い安値で幾らでも銃弾の買えるKマートの本社に赴き、銃弾の販売を止めるように嘆願し、全ての店舗から銃弾を消すことに成功している。この店で販売された乱射で使われた銃弾が、まだ被害者の体からは摘出できていない。
そしてチャールトン・ヘストンの豪邸を訪れ(これはいつもと違いアポをとって)何故、アメリカが他の国と異なり銃による死者が多いかを様々な面から追求した話を向ける。
受け答えは大変歯切れ悪く、彼は途中でサッサと話を切り上げ去って行ってしまった。
この状況に対しての分析などまともにしたことはなく、こういった話自体受け付けないといったものだ。
驚いたことに、この二人の高校生の事件に多大な影響を与えた張本人としてミュージシャンのマリリン・マンソンが吊し上げにあっている。彼のチューンのアナーキーなメッセージに何故か問題の矛先を向けたのだった。
本当に呆れたものだ。
当のマンソンは実に冷静に構造的にこの一件について分析した見解を、ムーアのインタヴューで語っていた。

同じく銃所持ではアメリカに負けないカナダでの拳銃事件による殺人件数の低さとの比較について、カナダの開放性とアメリカの排他的閉鎖性との関連における見解も頷けるところがあった(銃所持の認められている国でアメリカだけダントツなのだ)。
いずれにせよこれは、当分どうにもならないアメリカ固有の体質と日本にも底通する普遍的な傾向とを考えるよい題材でもあった。
(しかしこの映画の中にもあったが、「銃を使うことで安全が手に入るなら、 米国は世界一安全な国だ」を合衆国民はどう受け取っているのか)。
「ボウリング」というのは、ふたりの高校生が武装して高校に向かう直前、ボウリングを2ゲームばかりして行ったところから来ているらしい。ちなみに銃の射撃訓練にボウリングのピンが人に似ていることからよく使われるそうだ。
NHK BSによる視聴。