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GOMA28

Author:GOMA28
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怪奇蒐集者 朱雀門出2

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横山一洋 監督

朱雀門出,、、、語り(作家)
蜃気楼龍玉、、、案内人(噺家)


わたしの知らなかった作家、朱雀門出の騙りを聴く映画。

朱雀門出が、かつて友人たちから聞いた不可思議な話を、作家としてうまくまとめて紹介する形をとる。
ここでは、手短に要領よくまとめられた噺が7つばかり騙られた。語り口が良くとても聴き易かった。
基本どれも合理的に説明できないが、こんな経験をしてしまった。とっても奇怪であった~怖かったという噺である。
簡単にこう言ってしまえば元も子もないが(笑。

噺はそれが嘘だろうとホントだろうが、面白いかどうか、にかかっている。
どの噺もそれを明かした当人にとっては深刻な際どい、危険ですらある内容に受け取れるものだ。
朱雀門出は第三者として客観的に整理して話しているが、距離の取り方は適切だと思う。
その後、其の情報を提供した友達はどうなったのか~どうしたか、などの言及はない。
(別に話したところで何でもない類のものもあるが)。
ただそれぞれが、微妙な郷愁を誘う、自分も友達と少年期に夢中になって喋っていたことのなかに似たような噺も含まれていた気もする。つまりそのような時空を行き来した感触が思い起こされる、、、。怖いと謂うよりやはり一種の郷愁に近い感じ。

suzaku001.jpg

要は、其の噺が客観的な事実~実際にあった現実であるのか、何やらトワイライトゾーンに訪れた特殊な事象であったものか、白昼夢~無意識的な光景の報告なのか、、、ただ、どうやら夢と現が絶妙にバイパスされており、姉妹が知らず共に同じ場所を行き交う現象も起きている。そしてそれは現実にシームレスに繋がっていて、彼らの母が日常の中で目撃~確認したりもしている。
結構、われわれの世界とは、厚みがあるのだ。
というか、亜時間~亜空間と呼べばよいか、現実の傍流があるのではなかろうか。

Cさんが家族で行った動植物園で彼以外の誰も見ることの出来なかった人の生首そっくりの動物「カープテ」を、彼の他にも目撃していた人を数年後に知ることになったり、Oさんが夢のなかで妹と訪ねた「かおるちゃん」の家に、実は妹も自分の夢で姉と行っており、人肉ジュースを飲まされそうになって、ふたりで一緒に家に逃げ帰って来たところを母が現実に(日常世界で)観ていたりとか、Kさんが夢に観た西洋建築の役所と全く同じ建物を現実にも発見し、そこでも夢と同様の手順で「コノエさん」を探すが、夢では必ず係がその人を呼びに行ったところで目を覚まし、実際に遭うことは無かったのだが、現実に「コノエさん」と遭ってしまえばどうなるのか、恐怖に戦きそのまま逃げ帰るなど、、、。
これらの噺には常に死が色濃く漂っているところも共通している。

suzaku002.jpg

他にも琥珀コレクターの奥さんが昔、「小人」が入っている恐竜時代の琥珀を見せてくれた記憶が鮮明にあり、大人になってそれをもう一度確認したくてたまらず、その場所に戻るもその住所には誰もおらず、少年期のその想いが宙吊りになって残る噺とか、、、
これは上手くやればレイ・ブラッドベリ風の短編にもなるだろうか、、、。


無さそうでありそうな事が何処かであるのだ。きっと。
これらは、独りだけの内に完結した幻想とは言えず、必ず他者への広がり~繋がりがある。
そんな場所~系があるのだ。恐らく。
それを小説とか絵で描写出来たらこれは面白かろう、、、。









狂つた一頁

A Page of Madness001

A Page of Madness
1926年


衣笠貞之助 監督
川端康成、衣笠貞之助、犬塚稔、沢田晩紅 脚本
川端康成 原作
村岡実、倉嶋暢 音楽

井上正夫、、、小使
中川芳江、、、妻
飯島綾子、、、娘
根本弘、、、青年
関操、、、医師
高勢実、、、狂人A
高松恭助、、、狂人B
坪井哲、、、狂人C
南栄子、、、踊り子


多重露光が凄い(笑。明暗のコントラストも強く、、時間の錯綜~回想も絡み合って進む。
アバンギャルドな舞が屡々挟まれる、
そう、全体の動き~流れが劇と謂うより踊り~集団舞踏に近い。
音楽~効果音がまるでピンクフロイドである(怪獣映画も彷彿させるが)。
光ととてもよくユニゾンしていた。
無声映画であるから、どの時点でこの音楽が加わったのか、、、。
和楽器も無国籍なエキゾチックでモダンな響きで、、、この映像によく合っている。
大変意欲的な実験作だ。形式的に。

A Page of Madness002

内容については、原作を読んでいない為、ほとんど何も分からない(笑。
無声映画で字幕もなければ、このシュールな映像で掴めることと言ったら、、、。
舞台が精神病院で、男(病院関係者)が女性(患者)を連れ出そうとすることは、分かる。
かなり激しい医者や患者たちとの格闘場面もあるが、幻想的であり身体的に同調してしまう(エキサイトする)類のものではない。
ふたりは、年配夫婦という感じだが、、、
それ以上は分からない(爆。
チャップリン流に、途中で短いフレーズでも入ると、もう少し入り込む助けにはなったか。
(少し文字が入らないとこの凝縮された映像の緊張感に耐えきれない)。

A Page of Madness003

最初に降りしきる雨といい、踊り続ける女性に、目つきの異様な髭の男たち、生気の感じられない女、、、
不穏の塊みたいな光景が、様々なエフェクトを通して更に、悪夢として深まってゆく。
最後に皆が能面を男に被せられて踊る頃には、、、
とても静謐な狂気の「絵」となっている。
そう、覚め切っていた。


音楽がとても良かった。
1926年にこの映画、、、
衝撃的だ。
これが極彩色カラーでトーキーなら寺山修司みたいになるだろうか。

A Page of Madness004



あまり多くを語れない映画だ。
原作を読んでいれば、かなり豊かな内容が汲み取れるはず。



AmazonPrimeにて、、、
こんな映画は、ちょっと他では観れないのでは、、、わたしはここで初めて知った。


Walk on the Wild Side

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NHK日曜美術館で北海道の「シゲチャンランド」(大西重成氏の私設美術館)を観た。

ひとつ思い切ることが大事だ。
チマチマと現状維持の生活をしていては何も始まらない。
今の生活を~の為だから仕方ない、と誤魔化してはいないか。

いるべきところにいて、やりたいことを思いっきり自由にやる。
そんなオブジェアーティストのシゲチャンを見て、やはり圧倒された。

若い頃は、ニューヨーク帰りのグラフィックデザイナーで有名アーティストのアルバムジャケットなどを手掛けていた。
50歳で故郷の北海道に帰り、海辺などから拾ってきたものだけでオブジェを作る造形作家を始めた。

牧場跡地に美術館を作り、全て自分の拾ったパーツを組み立てて作る呪術的で生命力を感じるオブジェ作品で満たしてゆく。
町興しにも役立っているという。シゲチャンデザインのお菓子や土産物、店などもある。
作品を作って行く時間が歓びと驚きに満ちており、拾ったものを回収するように無駄が何処にもない。
制作理念としては、打ち捨てられていたものを成仏させるためにあるべきところに組み込むというものらしい。
(暫くの間、連れ帰ったモノを寝かしておき、対話してから組み合わせなどを決めてゆくようだ)。

一番驚いたのは、オブジェ作品を雪の中にポツンと置き、写真に収めてゆくのだが、その切り取りが名も知らぬ遠い惑星の光景を垣間見たような厳粛な感動を覚えるものなのだ。
オブジェは未知の生物にしか見えない。
孤独で崇高な存在を目の当たりにした。

色々盛沢山に情報があったが、わたしにとって、それだけで充分であった。
やはり、何かのせいにして、今の生活を正当化していても仕方ない。
要らない物を捨て、変えられるものは、出来る限り変えて、邪魔なモノとは徹底的に闘い、内部から変革して行きたい。
生きることは変わることであり、解放されることであり、濃密な時間を愉しむことに他ならない。

それにしても、凄いオブジェであった。
本当に何処かに存在するイデアを感じた。
何かをやることがそのままイデアに触れる方法ともなるのだ。
(それが自分にとって、ホントにやるべきことであれば、、、)


まずは明日から、必ずひとつ古いことを辞め、新しいことに手を付けよう。


ルー・リードの”Walk on the Wild Side”を改めて聴いた。
シゲチャンの大好きな曲だそうだ。

確かにやばい。


北斗の拳

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1986年


芦田豊雄 監督
武論尊 原哲夫 原作
高久進 脚本
KODOMO BAND「Purple Eyes」主題歌
服部克久 音楽

神谷明、、、ケンシロウ (北斗神拳正統伝承者)
山本百合子、、、ユリア (南斗の血をひく女、南斗最後の将であることは明かされない)
内海賢二、、、拳王 /ラオウ(流派などに関せず天を狙う世紀末覇者)
大塚周夫、、、ジャギ (リュウケンの不肖の弟子)
古川登志夫、、、シン (「南斗孤鷲拳」伝承者)
塩沢兼人、、、レイ (「南斗水鳥拳」伝承者)
鈴木富子、、、リン (孤児、天帝の双子の妹という素性は明かされない)
鈴木みえ、、、バット (孤児、リンの相棒)
安藤ありさ、、、アイリ (レイの妹)
千葉順二、、、リュウケン (北斗神拳先代、4人の師匠)


あの威勢のよい主題歌が流れるかと期待したが、マイナーの静かな曲しか聴けなかった。
そこは、ちょっと残念であった。
例の「ひでぶーっ」も一度しか聞けなかった。「お前はもう死んでいる」は数回聞けたか、、、。
スプラッターアクションはたっぷりあり、そこは爽快であった。
経絡秘孔を突き内部破壊を呼ぶというのもカッコよい。
あれには憧れたものだ(笑。

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全世界規模の核戦争後の荒廃した世である。
ここでは、食料を得るため暴力、殺戮が常態化していた。
当然、孤児もたくさん見られる。リンとバットにとって大変過酷な世界である。
マッドマックスに出てくるゴロツキみたいなのに、リンが捕まり、殺されそうになった時、リンの内なる何かがケンシロウを呼ぶ。
ラオウ=拳王の行進中にもリンの気配でラオウが黒王号と共に暫し留まる。
リン(そしてユリア)が特別な存在であることが暗示される。

トキは出てこない(話題にもあがらなかった)。
リュウケンの四人の弟子のうちもっとも人格者で技のキレる彼だが、、、。
出すと物語も複雑化し尺も足りなくなるか。
その代わりとんでもない下衆のジャギがタップリ出演している。
(何故こんな輩が弟子のひとりに選ばれていたのか疑問)。
他の3人は確固たる志と理念をもっているが、こいつは僻みと妬みが原動力の狡猾で悪辣な輩。

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TV、コミック版とは話も異なっており、映画オリジナル脚本であった。
(場合によっては正反対の設定部分もある)。
ケンシロウが恋人のユリアを奪われ、それを助けに旅をする大筋は同じでも異なる場面展開に戸惑ったりもする。
だがラオウとケンシロウの死闘となるとやはり、ドラゴンボールを彷彿させる異次元バトルだ。
とてもヒトの入る幕ではない。
ふたりが本気を出して対峙すれば、周囲の人間はどんな豪傑であろうが、きゃ~きゃ~言って逃げ惑う他ない。
ビルなどの建造物が粉々になって吹き飛んでしまうのだ。
シンもレイでさえもラオウにはかなわない。
ふたりとも別格の戦闘力である。

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このふたりに唯一対抗できるというか、その闘争力を無化できるのは、リンという存在(別次元の力)だけである。
そうなのだ。同じ地平上での同種の力=破壊力の競い合いでは埒が明かない。
常に戦闘力をアップし続け凌ぎを削るのみである。
これでは両者ともに消耗し尽くして共倒れが見えている。
ドラゴンボールでは、その「玉」によるリセットなどをとりいれ誤魔化しているが構造は一緒だ。

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ここでケンシロウは世紀末の救世主という位置づけである。
特にレイが自らの身を犠牲にしてケンシロウを生かそうとする。
暴力の支配する世界を変革できるのは彼しかいないと、、、。
しかしやはり、リンがカギなのだ。
この先の世界は、彼女に託される。
だがそれまでは自らの宿命を全うするだけだ、、、世界に草木が生い茂るころには、もう拳の支配する世界ではなくなる。
ラオウもケンシロウもそれを悟って闘っているところが、何とも悲哀があってよい。

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ケンシロウがユリアを追って砂漠のオアシスのような幻想の中を彷徨う姿で静かに終わる、、、。

当然、続編があって良いはずだが、、、ないみたいなのだ、、、。


ラオウの「わが生涯に一片の悔いなし」と、立ったままで往生する後編をやらない手はないであろうが。
「北斗神拳究極奥義 無想転生」も是非とも観たいし。
リンとユリアの波乱と更なる展開のなかで幾つもの山場が観られる、、、。

面白いはずだが。











ドラゴンボールZ とびっきりの最強対最強

DRAGON BALL001

1991年

橋本光夫 監督
小山高生 脚本
鳥山明 原作
菊池俊輔 音楽
影山ヒロノブ 主題歌「CHA-LA HEAD-CHA-LA」


野沢雅子、、、孫悟空、孫悟飯(孫悟空の息子)
古川登志夫、、、ピッコロ(ナメック星人)
田中真弓、、、クリリン(孫悟空の親友)、ヤジロベー
中尾隆聖、、、クウラ(フリーザの兄)、フリーザ
龍田直樹、、、ウーロン(子豚)、ハイヤードラゴン
宮内幸平、、、亀仙人(師匠)
渡辺菜生子、、、チチ(孫悟空の妻)
永井一郎、、、カリン(仙猫、武術の神)
速水奨、、、サウザー(クウラ機甲戦隊リーダー)
平野正人、、、ネイズ (クウラ機甲戦隊)
佐藤正治、、、ドーレ (クウラ機甲戦隊)


「CHA-LA HEAD-CHA-LA」はなかなか元気が出て良い。
「気」を練ると言うが、戦闘力を高めるのによい興奮剤にはなるな。
孫悟空の声が懐かしかった。
余りにはっきりした悪役が出てくるところもスッキリしている。
ここでは冷酷非情のやたらと強いクウラだ。まず最初にフリーザに似ていて皆びっくりするが、更に強いときている。
(鳥山明のこのアニメは戦闘力を線状的にただひたすら上げてゆくことで進行~継続してゆく構造だ)。

DRAGON BALL002

余り熱心にTVで観ていた方ではないが、このあたりの流れは何となく知っている。
バトルの場面は、流石に迫力。CGは使っていない頃(セル画)のものだが、無駄がなくとても説得力あり。
それにピッコロがダンディでやたらとカッコよい。
クウラの半端でない強さと更なる変身による戦闘力アップでテンションを上手く高める手法は、このアニメならではの強みか。
悟空もスーパーサイヤ人には、自在になれるのではなく窮地に落とされたところで、意思を超えてなってしまうところが良い。
これによって出来るタメが物語をよりドラマチックに、そして効率的にカタストロフに繋げてゆく。
もうひとつ、ドラゴンボールが出てこないことが良い。これによって白けるからだ。
せんずで元気が出て盛り上がるというのなら良いが、単にリセットしてしまう何でもありのゲームとなれば、折角の物語としての緊張感は無くなり、解体してしまう。

悟飯が苦労してせんずをカリンというか、ヤジロベーから貰ってきたのに、気を察知されサウザーに悟空が食べる前に燃やされてしまう。だが、しっかり一個だけ別にヤジロベーに渡されていたことに悟飯は気づく。この辺、ヤジロベーがひとつ別にくれたところで、先が読めてはしまうが、期待通りの上手い伏線と回収になっていて、それはそれとして気持ちが良い。
このような形で、演出が山を作りながら決着に向けて大きく盛り上げて行く。
なかなか演出が良く練られた戦闘ものアニメだ。

ここには、ベジータは出てこなかった。悟空に嫉妬しながらも同胞意識と自らのプライドとの狭間で葛藤しながら闘う姿が味のあるキャラである。ちょっと彼がいないのは物語に厚みが無くなるかも知れない。その代わりピッコロが肝心なところで大活躍である。
これも良いかも。

DRAGON BALL003

どんどん戦闘力を上げるばかりの無敵のスーパーサイヤ人と洗練されてゆくだけのCG表現だと、観ることに距離が出来てゆき面白みや興奮は減衰して行く。この頃がもしかしたら一番パワーバランスもよく、面白い時期であったかも、、、。

北斗の拳も観たくなった(笑。
これもオープニングの曲がとても元気がある。
兎も角、疲れた時に「気」をパアッと発散するには、良いかも知れない。


だがわたしとしては、二期クリムゾン、バンダーグラーフ、、、ニューオーダー、キュア、、、とかを聴く方がトランス状態になってスッキリ覚醒できる。
久しぶりに聴くか、、、。



AmazonPrimeにて、、、。

合わない映画はある

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実は、ここのところ、溝口映画を観ているのだが、どうにも見切れず今日はついに途中から寝てしまった。
ゴダールが尊敬し影響を受けた監督に挙げている日本屈指の大監督であるが、観ていて体調を崩すようでは、当分見ない方がよさそうだ。
別に映画に特別拘りも何もない素人のわたしが、これまた拘って溝口映画を観る必然性もない。
(本当は、あの格調高い映像・美術世界には浸りたいのだ。脚本がどうにもわたしには合わない、、、)。
雨月物語」が余りに圧倒的だった。
わたしの、と謂うより人類の無意識に眠る外傷経験を改めて突かれたような体験であった、、、。

それよりも美術展に行きたいものだ。
S君の作品~仕事年表の作成もそろそろ手を付けたいし、、、。
変遷の(基本不変なのだが)大きな流れもあたりを付けて、それぞれ個々の作品には以前当ブログで示したより奥行きを持たせたい。年表は本人が覚えていなければお手上げとなるが、恐らく作品の順番は身体的に覚えているはず。
ただし、彼の場合、流れは余り関係しないのだな、、、。
少年期の記憶の結晶化を図る作業であるため、変化と謂えばもうテクの向上~円熟レベルくらいの点か(爆。
遠く閉じた宇宙の孤絶した優しさ、、、。

     S君の仕事-断片補遺 他「Ⅰ」から「Ⅴ」まで。

であれば、O君も恩師の全ての(作曲の)作品をまとめ出版までするという途轍もない大仕事を漸く終えたと言うが、自分の作品のまとめもそろそろ始めた方がよいはず。
最近、意欲的に作品発表をしているが、総括を意識してやっているのかな。
賞も獲得しているし、やけに意欲的なのだ、、、。
今度、うちでこれまでの作品を(幾つかでも)、是非聴かせて貰いたい。それが今、一番の楽しみでもある。
何というか、われわれもまとめの時期に入って来たように思われる。
時間は無駄にしないようにしたい。


そういえば、最近バンクシーの展覧会が開かれ、絵画や彫刻やレディメイド(マルセル・デュシャン流に謂えば)の作品が全て売れたそうだが、今回彼の油絵がオークションにかけられ、落札された価格が10憶数千万円であったという。
世界で最も金に困らぬ覆面街頭アーティストと謂えるか(笑、、、。
もうパフォーマンスアートの大家みたいになっているが。
余りに有名でもあるし。
独自のパフォーマンススタイルは保ちつつ時折、展覧会とオークションというのも、よいのかも。
何にしても、作品の質が高いことで出来る芸当だが、メッセージが人々に受け入れやすいことが何より大きいと思う。
(元々がメッセージアートなのだ。極めて思想的・政治的な)。
1台の自転車が、モネの水連の池に不法投棄されている絵であるが、全く裂けめの無い見事に美しいモネ流印象派独特のタッチによる色彩構成であり、作品としての品格も高い。メッセージも分かり易い。だが、芸術的に全てが美しく融合され昇華されている。
これもひとつの美の姿なのだと謂わんばかりに、、、。
ネームバリューからしても10憶円以上の値のつくのは当然だと思う。
彼の物まねで一時期話題を浚ったティエリー・グエッタ(MBW)では、どう逆立ちしても出来ない業である(言うに及ばぬ)。
    イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ
    イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ 断片補遺

今日はよく寝て明日は子供向け映画でも観てみたい。
暇があれば、の話だが、、、。
雑事が増えて余裕がないのも事実。
(そろそろ、やるべきことがあるため)。

観れたらアニメあたりでも、、、。


それでは、本日はおやすみなさい。


~そうだ、ひとつほんのひとこと、、、エウロパ(木星)とエンケラドゥス(土星)には以前からその楕円軌道から来る潮汐力の摩擦熱で両衛星内部に液体の海が存在することが分かっていたが、準惑星である冥王星の固い氷の内側にも液体の状態の海が存在することが合理的に解明されたという。(かなりの量の50~100kmの厚さの海が存在しないと現在のハート状の巨大盆地がひっくり返って極に向いてしまうはずである~氷は水よりも比重が小さいため)、ニューホライズンズ偉大である。いや偉大なのは、日本の宇宙物理学者であり、彼は何とメタンハイドレート(深海での資源探査などでよくクローズアップされる)が、内部の氷を包み込む(断熱材の)形で熱を封じ込め液体のままの海と外側の氷をより固くする両方の現状を説明~解明することに成功した。これにより大気に多くの窒素が存在することも説明がつく。この発表にはアメリカの宇宙物理学者が舌を巻いていた。この総合的なものの見方は見事で感心すると。それまでは水中のアンモニアによって凍結を遅れさせることが出来るかなどが検討されていたが、それには30パーセント以上のアンモニアが必要となるがこれまで飛来した彗星からはまず考えられないことであり暗礁に乗り上げていたものだ。
、、、メタンハイドレートという通常宇宙物理で取り沙汰されない分野の概念を介することで、内部の液体海に関する全ての疑問を合理的に解いてしまった。極めて示唆的である。
彼が海洋探査の研究発表に参加していて、冥王星の海の存在をメタンハイドレートをもって説明することに気づくという件にはいたく感動したものだ。
久しぶりによいものを観た。コズミックフロント。



思い出したことを簡単に記して、本格的に眠ることに(爆。


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衹園囃子

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1953年

溝口健二 監督
依田義賢 脚本

木暮実千代、、、美代春(芸妓)
若尾文子、、、栄子(舞妓・美代栄)
進藤英太郎、、、沢本(栄子の父)
河津清三郎、、、楠田(車両会社の専務)
菅井一郎、、、佐伯(楠田の部下)
小柴幹治、、、神崎(役所の課長)
田中春男、、、小川(美代春の馴染み客)
浪花千栄子、、、お君(お茶屋の女将)


わたしのもっとも苦手な類の噺だ。
いくら出来が良くても~日本の伝統的美意識、、、路地や着物や調度、所作の美しさが極めて精緻に描かれていようが~こういう映画は観たくない。
本人には、全く落ち度がないにも関わらず、周囲の人間から人格・人権を無視、否定された仕打ちを受け続けてゆく姿は見るに耐えないのだ。
見ていて激しい憤りを覚え、何度も観るのを途中で止めてしまった。
実は同じく溝口映画の大傑作とされる「西鶴一代女」もヒロインへの余りに理不尽な仕打ちに観ていられなくなり途中で放棄した。
救いが全く無いのだ。
そのまま、、、。わたしが最後まで吸い込まれるようにして観たのは「雨月物語」だけである。今のところ。
「絵」の作り~構図やロングショットがどれ程、見事であっても噺が受け付けないのでは、見切れない。

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これは、とてもキツイ時間を強いられる。
木暮実千代(美代春)と若尾文子(栄子)以外の誰に対しても虫唾が走る。
自分の愚にもつかない欲だけで人を踏みにじる連中ばかり。
(自分が憎らしいと思う輩とだぶるところで余計に頭にくる)。
これで観ろと言われても、拷問みたいだ。
別に誰に勧められた訳ではないが、小津映画をかなり続けて観て来たし、あの「雨月物語」の溝口映画も、と思ったのが不味かった。
彼女らが、いくら酷い目にあったとしても、この先に僅かでも希望が残されたものならばまだしも、これは無間地獄である。
何でこんな目に合う必然性があるのか、、、。

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或る意味、これが「祇園」のリアルであり、ひとつの文化(因習)とも受け取れもするが、感情的に納得できない。
「西鶴一代女」のお春も悲惨の極みだが、これも同様である。
美代春にこの先、自らの生きる喜びがあろうか。
栄子を守るためとは言っても、自己犠牲の精神だけでよく生きることなど可能か?
無理である。
普通、途中でダメになる。
折れる。

「祇園」の枠~パラダイムを出て、徹底的に戦うしかない。
とは言え、少なくとも栄子は技芸学校で先生から日本国憲法の理念について学んでいる。
つまり戦後民主主義の洗礼は受けているのだ。
(だから余計に古い仕来りに納得がいかず苦しいという面は大きい)。
そこで自分を親身になって庇ってくれる美代春ともぶつかり合う。

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だが本質的に体制がどう変わろうと、何も人は変わらないよ、ということであろう。
特に欲については、なおさら個人主義的に我欲を追求してゆくものだ。市場原理主義の下。
今現在のこのスーパーフラットな地平においても実質、金や名誉の為に身売りしている人間は沢山いるはず。
こうしたドラマを見るたびに、生きることは、解放されることである、と心底思う。


ふたりはぶつかり合った後により絆を深めたようだ。
これは偏に栄子に対する美代春の強い愛情によるものである。
このふたりの鞏固な関係が、もしかすると救いを齎してゆくのか、、、確かに力強く並んで歩いて行く、、、
そう思わなければやり切れない。

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映像や美術の見事さは、確かに感じるものであり、「お茶屋」のシステムには何とも言えぬ感慨をもつが。
内容が生理的に観るに耐えないのだ。
これが現実だと言われればそれまでだが、あえてそれ~グロテスクな光景を見る気になれない。




AmazonPrimeにて、、、



戸田家の兄妹

Toda Family001

Brothers and Sisters of the Toda Family
1941年

小津安二郎 監督
池田忠雄、小津安二郎 脚本

佐分利信、、、昌二郎(次男)
高峰三枝子、、、節子(三女)
葛城文子、、、母
斎藤達雄、、、進一郎(長男)
三宅邦子、、、和子(妻)
吉川満子、、、千鶴(長女)
藤野秀夫、、、戸田進太郎(父)
坪内美子、、、綾子(次女)
笠智衆、、、昌二郎の友人
桑野通子、、、時子(節子の親友)
飯田蝶子、、、きよ(女中)


今日はまた太平洋戦争前の映画だ(日中戦争後)。
とは言え、日本は既に軍国主義に走っており、不穏な情勢の中、全ての表現~芸術作品の制作にとって大変な時期に入っている。
(既に「国体明徴声明」により、日本が天皇の統治する国家と定められ、立憲主義の統治理念は否定されている)。

また、フィルム劣化の問題。
これもせりふが聞き取り難い。
土砂降りの大雨かと思ったら「今日はいい天気だ」という佐分利信の言葉、、、それほどノイズが凄い。
せりふもボソボソと呟くものが多く、大切な会話のやり取りが見えてこないところもある。
ローアングルから、部屋全体を窓の外の眺望までしっかり正面から切り取る構図は、このように最初から完成されていたのか。

Toda Family006

笠智衆は主人公の友達その一か二であった。
酒の注文を勢いよくしていた(笑。酒の強いイメージはある。旨そうに酒を呑むこと。
肝っ玉母さんがよく似合う飯田蝶子は、女中役でこれもほんの少しの顔出し。
豪華な脇だ。
主人公は「父ありき」で成人したかつての「父」の生徒の佐分利信であり、優等生的雰囲気が、ここでは奔放で豪快な性格も発揮している。

Toda Family003

大事業家の家長が亡くなり借金が発覚する。大変豪奢な洋館に住むファミリーであったが、家財や遺産(相当な文化財)を処分することとなり、屋敷で一緒に住んでいた母や未婚の娘が親戚の家で暮らすことになる。これはさぞや大変なことだろう。
片方は他人なのだから。そしてやたらと気位が高い。
上流階級であるため、何かと窮屈で面倒なのだ。何よりも彼らには体面というものがある。
経済的に大変になり、節子が務めに出ようとしたら姉に、御家の恥だとばかりにしこたま怒られる。
次女の家でも長男の嫁にも長女の家でも母娘共々ギスギス文句を言われ、傷んだ鵠沼の別荘に移り住むことにする。

Toda Family004

「今日お友達が遊びに来ますの。お母様と節子さんには外に遊びにいらしてくださらない?」と言うことで、外に出ていて遅くに帰って来てもまだ客がいたためにそっと自室に戻っていると、「何故、お帰りでしたのにご挨拶に来てくださらないの?」である。
もし、顔でも出したものなら、わざわざ外に出てもらっていたこちらの気持ちをお察しくださらない?とか当然文句を言うはずだ。
そして一日中さして用のない都会を彷徨い歩いて疲れたところに、夜中にピアノである。
風呂にも入れず、客の帰りを待っていて、ついにそのまま布団に入ったところで、、、。
これには我慢が出来ず、止めてもらいに行くと逆に、こちらも気を使っていることがお分かりでないの?とかいう態度なのだ。
要するに、居るということ自体が気に喰わないということである。
厄介者扱いということだ。世知辛い上流社会。

節子の相談相手は、数少ない庶民の時子くらいのものである。
彼女はOLをして自立しているようであった。
節子は、母と何処かに独立して住みたいと願い始めていた。当然であろう。
「わたしにもできるかしら」
「あなたの家は人を使う側だから、勤めると言ってもおうちが許さないわよ」と忠告される。
その通りであった。
特に未婚の娘が仕事など論外ということらしい。なるほど、、、。
男尊女卑の態度や使用人に対する奴隷のような扱いも気にはなる部分ではあったが。
(子供ですら親と同じ態度を女中に対してとっている)。
このご時世が窺えるものである、、、(映画の歴史的価値としの記録性)。

Toda Family002

昌二郎は世間体や体裁など一切気にせず、やりたいことを自分の意思に忠実にやる人間であり、節子と母を荒れた別荘に追いやった兄弟たちを一喝する。
そして母と節子と女中のきよを自分が事業を展開している天津に呼ぶことにする。
そこなら働こうと思えばだれもが幾らでも自由に働けると、、、。
自分のやりたいように周囲に気兼ねせず出来ると。
母と節子の表情が久しぶりに明るくなる。
やはり人間は解放されないと、健康的な生活は送れない。
解放度の高い程、活き活きと暮らせるものだ。
(ここは現代のわたしにおいても課題である)。

Toda Family005

ついでに昌二郎の嫁は、節子が世話をすることに、、、。
お相手は、賢く綺麗で気立ての良い庶民の出の時子である。
(確かに節子の分身のような存在の時子)。
それに対して昌二郎も負けじと「俺みたいなやつ」をみつけてやると、、、。
とっても可愛くはにかむ節子、、、。
何だこりゃ、、、どうもこの「兄妹」微妙。まさに謎の「戸田家の兄妹」であった。

小津作品にはこういった縁談が噺の中によく登場する。
酒場シーンと同様、小津映画には頻出するが。
ここの縁組話は、また特別な質感~次元を覚える、、、。
恐らく細密に見てゆくと、重奏する意味の流れが顕わになるような映画、、、。
(フロイト的な分析をしたら味気ないが)。


何にせよ、この辺の時期の小津フィルムは、かなりの費用は掛かるはずだが修復して保存管理してもらいたい。
どうにも観難い。












父ありき

There Was a Father001

There Was a Father
1942年


小津安二郎 監督
池田忠雄、柳井隆雄、小津安二郎 脚本

笠智衆、、、堀川周平
佐野周二、、、堀川良平 (息子)・津田晴彦(少年時代の息子)
佐分利信、、、黒川保太郎
坂本武、、、平田真琴
水戸光子、、、ふみ
大塚正義、、、清一
日守新一、、、内田実


笠智衆主演映画である。これを観ないでどうする、という感じで観てみた。
修復の必要性を強く感じる、カットもかなりされた戦時中の映画であるが、とても良い映画には違いない。
(確かに流れの上で不自然なカット~編集を感じさせるところは気になったが)。
戦時ということもあるか、死の匂いは全般に漂う。

この役~元教師で企業の中間管理職が如何にも笠智衆らしく、せりふも実に多い。
つまり存分に楽しめる(ものなのだが、よく聞き取れないところが少なくなかったところが残念)。


戦時中の映画とは言え、只管父と子の絆を描きあげたものである。
男手ひとつで息子を励まし支え伸び伸びと育て上げてゆく。
当然、良い息子となっている(若干ファザコン気味ではあるが、心配するレベルではない)。
父も息子を大学まで出すために東京に出て働く。
仕事と全寮制の関係もあり、一緒に暮らす時間は少なかったが、自立し立派になった息子と、とても濃密な1週間を過ごす。
父子ふたりで温泉に浸かって静かに語り合う姿は堪らないものがあった。
息子の子供時代と大人になってからの旅行での二回、ふたり同じように(自然の流れでシンクロして)川釣りをする姿は印象に残る演出だ。
そしてまるで一生の締めくくりと取れるかつての同僚教師や教え子と盛大な宴を開き、父は満足して他界する。
彼は、やるだけのことはやったから後悔はないといった言葉を残す。
それは、仕事だけではなく息子に対してもそうであった。

There Was a Father003

理想的な父子に見えた。
羨ましい。
確かに離れて暮らすことは多く、息子としては寂しい思いはあったはずだが、父との関係はすこぶるよいものであった。
長く一緒にいればよいものでは決してない。
それが毒父であったら息子にとっては被害甚大となるばかり(経験者は語る)。
向かい合った際、どういうことばのやりとりが出来るかどうか、である。時間など関係ない。
ことばである。
どんなことばを発するか。
ことばが全てなのだ。

ただ、映画のノイズが全般的に大きく、特に前半の子役の息子と父とのかなり重要な対話の部分が何とも聞き取り難かった。
ここが残念なところである。
フィルムの修復をしたものを是非もう一度観直したい。

There Was a Father002

大人である息子役の佐野周二に自然に繋がる容姿の子役の津田晴彦の人選には感心した。
「一人息子」の息子役、日守新一のにこやかな笑顔がここでも見ることが出来、何か得した気分になった(笑。

何といってもフルに出ずっぱりの笠智衆の演技を堪能できたことがともかく良かった。
芸風は不変である。

小津映画とは切っても切れない笠智衆がこれだけ見られる贅沢で、この映画については謂うことなし。

「東京物語」を観たくなった。








一人息子

The Only Son003

The Only Son
1936年

小津安二郎 監督・原案
池田忠雄、荒田正男 脚本


飯田蝶子、、、野々宮つね(母)
日守新一、、、野々宮良助(一人息子)
坪内美子、、、杉子(良助の妻)
吉川満子、、、おたか(隣家の奥さん)
笠智衆、、、大久保先生(トンカツ屋主人)


どんどん時代を遡って観て来た小津映画。3本目。
昨日観た11年後の小津映画でもヒロインで大活躍の飯田蝶子さんの若いのに老成した演技の光る作品。

1936年の作品である。構図はこの頃から決まっており、枕詞の静物ショットも効果的に配されている。
チャップリン(サボタージュ)やヒッチコック(モダンタイムズ)が名作を発表している時代ではあるが、、、
流石に時代をヒシヒシと感じさせる。
最初出てきた笠智衆が飛んでもなく若い(彼と気づかなかったではないか)。
フィルムのノイズが気になり、小津監督の初のトーキー作品ということだが、セリフが聞き取りにくい。
立身出世主義の時代である。
東京と言えどもまだ怖い程ガランとした空間が開けている息子の住む土地。
別に職業に卑賤はなく、夜学の教師だろうとトンカツ屋を営もうと何でもよいはずだが、収入の点で大変厳しいものであったようだ。
大金を儲けていれば、取り敢えずは文句はないというところであろうが、、、。
確かに息子の良助宅も大久保先生のトンカツ屋にしても場末感が半端ではない。
とても金に困っており、田舎から訪ねてきた母に御馳走を振舞うにも同僚から借金しなければならない状況だ。
夜でも近所から機械の音が聞こえる。そのために家賃が少し安いという。そんな住居。

The Only Son004

息子としては、母を東京に呼びたくなかった。
女手一つで紡績工場で働き息子を東京の中学に進学させ将来に夢を託したのだが。
学費の工面で家財全てを売り払い工場の長屋住まいで長年懸命に働き、独り立ちした息子の暮らしぶりを見に上京したら、そこには想像と全く異なる光景があった。
しかも妻もいてその子供~赤ん坊もいた。
愕然とし絶句する母。
その様子に項垂れつづも明るく振舞い母に御馳走し行楽地を案内して回る息子。

息子としては彼なりの幸せは手に入れていると思うが、母の思いに対する負い目というか義理に対し引け目を感じている。
お前の幸せを願うという母の「幸せ」に達していないと痛感してしまう息子(夫婦)である。
当時のパラダイムからくる落ちこぼれ感でもあろう。

母は何とか現実を受け止めようとするが、経済的に困窮している様子は直ぐに察知した。
息子の恩師で夢を抱き、地方の教師を辞め上京していた大久保先生もかつての精悍な面影はなく、寂れたトンカツ屋を開いている。
(ここでの笠智衆はメイクもあるかしっかり落ちぶれた感じであった。芸風は不変である)。
これが東京というもんですよ、おかあさん、と言われても息子の立身出世のために身を粉にして働いてきたつねには納得できない。
(この設定、見ようによっては「夜学の教師」や「トンカツ屋」から抗議を受け兼ねない差別的なものでもある)。

The Only Son001  The Only Son002

やるだけのことはやったが、ここまでだったと過去形で語る息子に、まだ若いのだからこれから先の希望を持てと檄を入れる母。
傍でオイオイ泣く息子の妻。
口を半開きでひたすら眠り続ける赤ん坊、、、。

何かと助け合っている隣家の奥さんの子供が馬に蹴られ大怪我をした際、進んで介抱し医者に連れて行き、治療費の足しにと金を渡す息子の献身的振る舞いに接し、母は鼻が高いよと言って息子を褒める。
とても嬉しいと言いつつもどこか複雑な思いでいる母。
そしてお金をくるんだ手紙を置いて郷里の信州に帰ってゆく。

息子は、そこでもう一回勉強をし直して頑張ってみると嫁に誓うのであったが。
(ここで何故かわたしは、クレヨンしんちゃんを思い浮かべてしまった。意味は分からない。いや、もっと能天気に生きても良いのでは、と頭をよぎったせいか)。

特に社会的地位を得たり金儲けしなくても、愛情に満ちた生活が出来れば基本充分であると思うが、どうしてもそれでは不足感をもってしまう時代性(又は心性)というものはあるだろう。
「足るを知る」という老子の言葉もあるが、、、。
勿論、今はこれ程、一元的な富や名誉に拘る心性は少なくなったにせよ、個人主義から価値観も多様化したとはいえ、一人息子への幻想は様々な形態をもって強く圧しかかっていることだろう。一人息子でなくてもそうであるが(比較によって更に強い抑圧と疎外が生まれれる場合も多い)。
毒親の増殖から見てもそれは謂える。


冒頭の芥川龍之介の『人生の悲劇の第一幕は親子になったことにはじまっている』という引用が感慨深い。
淡々としているが、結構重い映画である。そう、実に重くて厄介、、、。










長屋紳士録

Record of a Tenement Gentleman001

Record of a Tenement Gentleman
1947年

小津安二郎 監督
池田忠雄 小津安二郎 脚本


飯田蝶子、、おたね(長屋に住む未亡人。荒物屋を営む)
青木放屁、、、幸平(父と逸れて連れてこられる)
小沢栄太郎、、、幸平の父親、大工
河村黎吉、、、為吉
吉川満子、、、きく女
笠智衆、、、田代
坂本武、、、喜八
高松栄子、、、とめ
長船フジヨ、、、しげ子
河賀祐一、、、平ちゃん
谷よしの、、、おかみさん


おたねさんが実に良い味を出していた。
今、こういった初老の味のある女優はいるだろうか、、、。
樹木希林や市原悦子ほどの強烈な個性は無く素朴でぶっきらぼうで憎めないタイプ。
そのおたねと幸平の「間」の演技は絶妙と言うほかない。
彼女と田代と幸平を軸に、全体にユーモアとペーソス漂う映画であった。
相変わらずローアングルの確立した構図~奥行きに全てが整然と収まっている。


この時期、戦災孤児は上野とかにかなりいたという。
終わり間際のシーンでは、年端も行かぬ少年たちが上野公園でタバコを吸ってたむろしていた。
舞台となる長屋近辺でも孤児と思しき少年らが釣りをしていた。その日食べる魚の調達だろうか。

Record of a Tenement Gentleman004

ここでも八王子で焼け出された大工の息子が父と逸れて寄る辺無き身のところを長屋に連れてこられる。
連れて来たのは笠智衆演じる田代であった。
(口髭を生やし髪は黒々として歌を唄いまくる「のぞきからくりの口上」、らしくない胡散臭い笠智衆だ)。
茅ヶ崎からついて来たから仕方ないと言って。
だが、自分の家に泊めるのではなく、戦争未亡人のおたねに押し付けて去ってゆく。
「一晩泊めてやっておくれよ、、、」と、いい加減な男だ。その後どうするんだ。
その子は父親のタバコの吸い殻と釘をポケットにしまっている。

警察に届けるなんていう状況~時代でもないのだろうし(例え引き受けようがその子に関する情報が徹底的にない)、行政や福祉が動く時代ではない。そもそも機能するネットワークもないのだ。
置き去りにされた子供らは一体どうしたんだろうと思う、、、。
このような下町人情がなければ、恐らくどうにもならない。

Record of a Tenement Gentleman005

とは言っても最初のうちは押し付け合いである。
誰も生活に余裕などないのだから。
その上、その子に可愛げがない。少なくとも現代的な可愛さ~キュートではないのだ。
おたねさん曰く「こちこちの握り飯みたいな顔でこっちを睨むんだよ」(爆)。おたねさんの睨みも怖い。
無口でむすっとしていて、純朴なのだが不器用で。返答に窮するとフエ~ンと泣き出す。
おまけにオネショをする始末。
これには、おたねさんも怒りまくる。団扇を渡してこれで扇いで乾かしな、と。

ちょいと品のあるお友達が度々遊びに来ては帰りに「おやかましゅ~」と言って去るのが印象的だった。
当時の言い回しもいろいろと面白い。
この人の行き来が軽妙な(情報の)やり取り、適度の距離感と微妙な他者性があって、風通しの良い長屋の良さを感じる。
おたねの「捨てられたんだか、逸れたんだか、あんたんとこいらないかい」に対し、そのご婦人の「いらないねえ。ゴムのホースならほしいけど」には、笑った。

何とか誰かに引き取って貰いたい彼女~長屋の彼らは、田代が最初に出逢ったという茅ヶ崎にその子を連れてゆくことにする。
(この役を長屋では籤引きで決めた。もしこれを話し合いなどでやっていたら埒が明かない。籤引きとは、大変優れた物事を決める手段~方法である。英知の賜物である)。
現地で聞いて回るが、八王子で焼け出されてやってきた父子であるということ以外分からない。父はどうやら仕事の目途がついたらしいが、何処に向かったかは分からない(つまり新しい情報はなにも得られない)。
海辺の砂浜でおにぎりを食べながら、あんたの父親も薄情な男だねえとか話しながら、海に行って貝拾ってきてと言って、おたねは大急ぎで砂浜を駆け登りサッサと逃げてゆく。しかしそれを見つけたその子もまっしぐらに走って来て彼女に追いつく。
ここの砂浜の白を背景にしたシーンは、「東京物語」の埠頭でのシーンにも繋がる美しくも幻想的な光景だ。
結局、茅ケ崎で引き取り相手を見つけることなく、一緒に戻ってくることに、、、。

Record of a Tenement Gentleman003

それからも、その子はおたねに干し柿泥棒と間違えられこっぴどく叱られたり、またもやおねしょをしてしまい叱られるのが怖くて、布団を畳んで逃げるが行くところもなく、また田代に駅で拾われ戻って来たり、、、。(この男は自分では何もしないくせに連れてくるだけのことはする(爆)。
おたねのムンっという睨みつける顔は、まるで犬、猫相手にするようなものにも見える。
(そもそも田代も捨て犬か猫を拾ってくるような感覚で連れてくるのだ)。

猫と言えばわたしも子供の頃から14匹飼ったものだ。一匹いなくなると直ぐに次が尻尾を立てて、やって来る。
一度もペットショップなどで買ったことなどない。全て遊びに来て居ついてしまう猫たちである。
一匹一匹、こうも違うかというほど、個性や性格、能力も違うが、それぞれに癒されたものだ。
未だに想い出に鮮明に残る猫もいる(ホキと名付けた真っ白な猫だ)。
思い返すとどれ程猫たちに救われていたか知れない(人に壊された脳を猫に治癒してもらった部分は大きい)。
話は逸れたが、一度姿を消してからその子の存在の大きさに気づくおたね。猫にしてもそうだが。
彼が戻って来てからは、それまでの接し方とは打って変わって、良いものを着せ、上手いものを食わせ、動物園に連れて行き、一緒に写真館でおめかしをして記念写真まで撮る。特にスイミングキャップみたいな帽子を普通の帽子に買い替えたのは正解だ。
自分が引き取り育ててゆく決心をしたのだ。
その子を目を細めて見るおたねの表情は愛情に満ちている。
おたねもその子のシラミか何かをもらったようで、ふたりでシンクロして肩を揺らす。

Record of a Tenement Gentleman002

そしてある夜突然、幸平の父がやって来る。
気持ちの優しそうな礼儀正しい男で、彼も必死に逸れた息子を探していたという。
息子が世話になった礼を丁寧に述べ、土産を置いて行こうとする。
彼女は、幸平の為に買い求めたもの一式をまとめてせわしなげに父に手渡す。もう自分の元にとっておく必要などないのだから。
彼らを見送り、後に一人残るおたね、、、。思えば共に過ごしたのは、一週間程であった。

おたねは知らぬうちに干乾びてしまっていた自分がその子に癒されたことを深く実感し、彼が父と幸せになることを心の底から祈る。





風の中の牝雞

A Hen in the Wind001

A Hen in the Wind
1948年

小津安二郎 監督
斎藤良輔、小津安二郎 脚本

田中絹代、、、雨宮時子
佐野周二、、、雨宮修一(復員した夫)
村田知英子、、、井田秋子(時子の親友)
笠智衆、、、佐竹和一郎(修一の同僚)
坂本武、、、酒井彦三(大家)
岡村文子、、、曖昧宿の女将


笠智衆が驚くほどの若さ、、、これが一番印象的であった(笑。
芸風は全く不変である(この一貫性、尊敬に値するレベル)。
彼が喋るとこの世であって、この世でない感覚になってゆく。(これが見事に「東京物語」に結実する)。
相変わらずのローアングルは小津映画だという安定感を覚えるが、今回は階段を見上げ見下ろすアングルが加わる。
縁側から望む鳥籠や植木に代わり、街角や大きな工場の隙間に揺れる洗濯物がその役割を果たしていた。

A Hen in the Wind002

昭和23年である。
戦後間もないと謂うより、戦地からの復員をまだまだ首を長くして待っているという時期だ。
国民健康保険の制度もなく、アルバイト仕事の求人があるわけでもなく、母子で家を守る側もさぞ大変であったはず。
ここでも幼い子供が大腸カタルになり、医者に診せたことで、病気は治るが治療費が支払えず、曖昧宿(青線)を一度だけ利用してしまう。後でこのことが日頃から資金援助など助けてくれている親友に知れ、相談しなかったことを責められる。
だが、親友自身も大変な生活をやりくりしており、とても声を掛けられなかった。
どうにもならない事情はいつでも起こるモノだが、その事後処理こそが肝心かも知れない。

そんななか夫が突然、無事に帰還してくる。
物静かで温厚な男である。
良かった、ということで家族三人水入らずの待望の生活が始まるはずが、この奥さんよりによって夫に喋ってはならないことを正直に伝えてしまうのだ。
隠し立てが出来ない性格と言えば、聞こえは良いが墓場まで持ってゆくべき事もあろうに。

A Hen in the Wind004

これもまた、いつも世話を焼いてくれる親友に叱られる。それはそうだ。
夫はその日から苦悩に表情を歪め、怒りを顕わにし妻を遠ざけるようになる。
折角飛んでもなく大変な目に遭いながらも日本に戻って来たのに、恐らく一番聞きたくないことを知らされたわけだ。
しかし妻の身になれば、あの状況にあって我が子の命を救うにあたり、とった行為を誰も責め立てることなど出来まい。
ただ、そのことではなく、何でわざわざその件を夫に告白する必要があるのか。
(宗教上の理由があったわけでもないようだし)。
その影響を考えないのか、、、性分と謂うよりシミュレーションも想像力も働かせないおっちょこちょいなのかも知れない。

恐らく夫が無事に帰って来た家庭であっても、このような悲劇は少なくなかったのだろう。
すんなり万歳、これからは民主主義だ~と明るく楽しい生活が始まるという能天気な家庭はほとんどなかったと思われる。
双方の時間の交差から何らかの蟠りや躓きが生まれても不思議はない。

A Hen in the Wind003

そもそも日本が太平洋戦争~アメリカとの戦争にまんまと引き込まれたのも、情報戦に負けた結果であった。
情報の扱いを誤ると時に命取りとなる。
ここでも4年間待ち続けた夫が帰って来てからの方が、地獄のような耐え難い日々となってしまった。
皮肉である。

後半、修一が時子が行ったという曖昧宿に赴き、そこで働く21の若い女性と草原で弁当を食べながら対話するところで、ホッとする。
追い詰められた妻の行い~置かれた状況を相対化する視点を探ってることに共感出来るところだ。
心情的な大きな蟠りを捨て、全てを受け容れようと模索する姿がやんわりと描かれている。

最後に懇願し縋りつく時子を修一が振り払い、その弾みで彼女が階段を頭から下へと転げ落ちてゆくシーンがある。
これには、度肝を抜かれた。
しかも音と事後の姿でそれを暗示させるのではなく、あからさまにその様を映すのだ。
暴力による大変危険な事故場面である。
何もここまでする必要はなかろうに。あくまでも映画演出上。
(ちょっと畳に突き倒すくらいでは、ダメなのか、、、)。

しかしこれは、敗戦の衝撃とそこからの再生にだぶらせる適切な劇的シーンであったのかも知れない。
これを機に、夫は妻を抱き寄せ、これから夫婦で何があってもお互いを労わり合いしっかりやってゆこうと誓うのだ。
大変、熱の入った感動的シーンかも知れなかった、、、。
過去を振り払い、共に前に向かって突き進もうという力強い。

A Hen in the Wind005

とは言え、今のわたしの感覚では、階段の下でピクリともせず横たわっている妻に対して大丈夫かと声をかけ、漸く気が付いて手摺ににつかまり上がって来た彼女に向かい、ちょっと歩いてみろと命じ、よろよろと壁伝いにビッコを引いてゆく姿を見て、よし、は無いと思う。まず医者に診せないと。頭を打っていたらこの後激変する可能性もある。打ち所が悪ければ命に関わる。
わたしは、以前娘が椅子から落ちた時にすぐに救急車を呼び脳の検査をしっかりしてもらった。
今の感覚では、そうだと思う。

この夫の感覚は、まだ明らかに戦時中である。
まだ、戦後ですらない。
ジャングルの兵隊感覚である。
体よりまず精神先行である。これから日本を立て直してゆくぞと二重写しになるような夫婦の強い誓いであるが、この奥さん大丈夫だろうか、という心配が映画の感動的流れとは別に生じてしまい、終盤かなりの距離感をもって観てしまった。


やはりわたしは、ほぼ彼岸に行ってしまっている(この世とは思えぬ)「東京物語」が一番好きだ。




AmazonPrimeで、、、




環境づくりをしてみて、、、

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いらないものが次々に発見されるのだ、、、。
つまり、何かを意識的に意図的に作り始めると、ただ何となく置かれたものが実に多いことに気づく。
自分にとってプラスに働かないモノがかなりの度合いで環境を形成していることが分かってくる。
勿論、違う形で再利用の効くものも少なくはない。

取り敢えず、心地よさをひたすら求めて作ってゆくが、同時にかなりのモノを片付ける必要は出てきた。
(ゴミに出すのは忍びないものもある)。
何であっても、心地よさ、使い易さ、解放、、、を目安に進めていくだけ。
(そして凝らないようにする、、、わたしは何かと、やり過ぎてしまうところがあるため)。

取り敢えず、半分くらいのところまで来た気はするが、、、
作業を進めるうちに細かいところの変更は出てきて、また新しい材料も必要になって来た。
電球と植物と香りと容器の微調整をしたい。
明日は娘と、間に合うものを見つけに、出かけることにする。

帰りにまた蕎麦でも食べてきたい(笑。


では、おやすみなさい。



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スヌーズレン環境を作る

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家の書庫と風呂場をスヌーズレン環境にしようと思う。
今日はそのための材料をあちこちに買いに行った。
おまけに鬼滅の刃の珈琲缶が欲しいと娘に言われ、それも探しに行った為、結構疲れた。

兎も角、、、

ゆっくりと落ち着くこと、、、。
これが一番大事である。

今の時期に一番フィットした生活となる。
それには、スヌーズレンを、、、。

明日から実際の作業をしたい。



今日は死ぬほどつまらぬ映画を観てしまった、、、。
感想は書けたものではないので、お休みとしたい。


ついでにお休みなさい(笑。


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娘よ

Daughter001

Daughter
2017年
パキスタン・アメリカ・ノルウェー


アフィア・ナサニエル監督・脚本・製作


サミア・ムムターズ、、、アッララキ(母)
サレア・アーレフ、、、ザイナブ(娘)
モヒブ・ミルザ、、、ソハイル(トラック運転手)


カラコルム山脈の絶景。
音楽の荘厳さ、、、。
映像自体が圧倒的である。

極彩色の衣装に、堀の深い端正な顔立ち、そして勇壮な自然、、、。
エキゾチックな魅惑的な風景だが、人の暮らしは厳しい。

その麓での部族間抗争を収める為の政略結婚に8歳の娘が選ばれる。
部族長の幼い娘だ。
結婚相手はもう初老でもある先方の部族長である。
人権無視もよいところで、娘は結婚が何かも知らない無邪気な遊び盛りの歳である。
他に解決策は無いのか、、、。
。。。無いらしい、、双方の長がそれで納得なのだ。
確かにレヴィ=ストロースの言うように、共同体間の安定維持は女性の交換によって成り立ってきた。
だが、せめて二十歳ぐらいの娘の中から募集したらどうなのか、、、。

Daughter002

母は幼い娘を連れて逃避行に走る。
彼女には近代的自我~個人がしっかりあるのだ。
娘というひとりの独立した人格の自由を守らねばならない。
ふたりの会話を録音したテープレコーダーをかけたまま部屋に鍵をかけ窓から抜け出す。
なかなかオシャレ。

ふたりに逃げられたことを知った両部族長は怒り心頭である。
自分の部族と相手の部族が同時に追っ手を放つ。
捕まったら少なくとも母の方は命はない。
娘は強制的に高齢な相手部族長の嫁である。
探す途中あちこちに当たるが、嘘をついていると思われた者はあっけなく銃殺。
追っ手は厳しく皆懐疑的で、怪しいとなると直ぐに撃ち殺されるのだ。
ドキドキ、ハラハラである。
この辺では誰もが銃を携帯するのか。
共に面目を潰された同士で血眼で母娘を探しまくる。

Daughter004

緊迫する逃避行の中で、娘は目を離すと子犬と遊び始めたり、、、母と途中から道連れとなったトラック運転手は気が気ではない。
トラックの中ではお漏らしをするし。
しかしこんな子供を嫁に出せとは、いったい、、、。
そこでこの子の人生終わりではないか。
この文化圏で、この母は立派である。
そして出逢ったトラック野郎がこのパラダイムに収まらないモナドの人であったことが幸いであった。
トラック自体飛んでもないデコトラであったし。
もしそうでなかったら直ぐに部族の権力者に引き渡されていただろう。
ご褒美も当然貰えるだろうし。

Daughter005

しかしどの国においても、子供の育成に関してはまだまだ様々な深刻な問題が山積している。
これらは、あまり話題にも議論にもなっていないが、人類のとってすこぶる重大な課題でもあるはず。
勿論、このような婚姻制度もそのうちである。


最後の祭り?の場面の緊迫感は耐え難い程。
祭りの環境音~激しく打ち鳴らされる太鼓の音などがそのまま演出のBGMとなるところなど素晴らしい。
他の映画でも大概そうだが、このような状況下で肉親(ここでは長年逢っていない年老いた母)に逢うことほどリスキーなことはない。
追っ手も探しあぐねて肉親の近辺を張るであろうし、肉親がリスキーな人間に連絡をとってしまうこともある。
ここでもやはり「それ」がやって来て、頼りとなるトラック男とその追っ手との取っ組み合いから銃の撃ち合いにもなる。

Daughter007

結局、ここまで頑張って来た母は流れ弾に当たって倒れてしまう。
幼い娘に介抱されながら車で病院に向かうが、どうなるかは分からない、、、。
そのままエンディング。
この母には助かってもらいたい、、、。
実話ベースのようだが、この地方なら珍しいことではないようだ。

Daughter003

初めて観るパキスタン映画。
ここでもトヨタとマツダの車が行き来していた。
子供の人権は世界の何処でも(当然、日本でも)驚くほど踏みにじられている。
ピストルのドンパチはないにしても、、、。
この状況の深刻さに気付かない人間の何と多いことか。
(わたしもその被害者の一人である。周りの大人の目は皆節穴であった)。


この監督の映画はチェックしてゆきたい。



人魚姫

THE MERMAID001

THE MERMAID
2016年
中国

チャウ・シンチー監督・脚本


ダン・チャオ、、、リウ(青年実業家)
リン・ユン、、、シャンシャン(人魚)
ショウ・ルオ、、、タコ兄(人魚の一族)
キティ・チャン、、、ルオラン(女性実業家)


自然保護区の海で暮らしていた人魚に災難が降りかかる。
金のことしか頭にない実業家たちが、その保護区を買い取り、強力なソナーを使って人魚やイルカを傷つけ衰弱させ海域から追い払ってしまう。そこを埋め立てして大儲けしようというものだ。
人魚たちは、美しい娘であるシャンシャンを人間に変装させて、ソナーでその海を住めない環境にしてしまった張本人であるリウに対し刺客として送り付ける。

THE MERMAID002

だが、付き合っているうちに、金目当てでなく自分に近づいてくるシャンシャンにリウは好意を抱くようになる。
身の回りには富豪である彼の金を頼みに集まる人間ばかりで、リウは深い孤独に苛まれていた。
勿論、若い美女たちも大勢取り巻いていたが、とても虚しい思いしか得られなかった。
リウのシャンシャンに対する気持ちは、純粋であり彼女も彼を憎めなくなってくる。
ここから先の方向性は、もう間違えようもない(笑。
この恐ろしいほどの王道の流れが、とても感動的にコミカルに展開する。
最初から分かっている筋を飽きさせずに力技で持っていく力量はかなりのものであった。

THE MERMAID004

人魚のいることが分かると、実業家たちはソナーを止め埋め立てを中止し、人魚で大儲けを企む。
特に、冷酷非情で目的の為なら手段を選ばない美女実業家のルオランはこれを機にシャンシャンを殺すつもりでもあった。
直ぐに軍勢を率いて人魚の生け捕りを目的に(逆らう者は殺傷も辞さず)多勢で攻め込み次々に彼らを傷つけてゆく。
前半は大変コメディタッチであったものだが、このシーンはかなり残酷で流血がかなりのものであった。
シャンシャンも追い詰められ絶体絶命となる。
リウはルオランたちを止めようと後を追うが、道路が混み間に合わず、何とか体を張って深手を負いながらもシャンシャンは助ける。

THE MERMAID003

VFXはハリウッドのド迫力で精緻なものというより、劇画をそのまま映画にしたような、キッチュさと大袈裟を加えた丁度良い塩梅の代物で、この作品の演出にピッタリな感じであった。
ドリフのコントを思わせる仕掛けの連動も工夫が凝らせれており、唸るところだ。
チキンが好物の人魚って、、、人魚だかタコだか分からぬ人魚のタコ兄とか、、、色々と面白ネタ~キャラも多い。
皆に愛とは何かを感動的に説く人魚のグランマザーであるが、あれほどの力を持っているのなら、もっと早く出てきて人間を蹴知らしてもよかったのでは、とは思ったが、、、。


暫くの時が経ち、海洋学者からインタビューを受けるリウの豪邸の海に面した素晴らしく見晴らしの良いシンプルなリビングは素敵であった(海が荒れた時は心配だが)。
その若い学者はかつてリウの給付した環境保護分野の奨学金で大学を卒業したのだった。
(それにしてもリウはあれだけの傷を負ってよく生きていたものだ。すっかり髪型変えて紳士になってしまって)。
彼の向けた「かつてあなたは、人魚と会ったそうですね」という人魚に関する問いに対し、人魚なんて存在しないよ、と話題にしない。
それは架空の生き物だと、彼らを守るように伝える。
若い学者もそれを察する。

しかし何とその席に現れたリウの若い奥さんが、例の人魚のシャンシャンではないか、、、。
これには、こちらも嬉しくなる。

旅行について聞かれ、そこはとっても美しいところなんだと、ふたりで答える。
リウとシャンシャンで仲良くサンゴ礁の海の中を泳いで回るシーンでエンディング、、、。
人魚仲間も集まってくる、、、。
「この地球からきれいな水と空気がなくなったら、いくら稼いでも意味がない」
確かに、、、。



余りにベタで王道、ど真ん中をゆく映画なのだが、素直に感動できる余り見ない映画であった。









The Witch 魔女

THE WITCH001

THE WITCH: PART 1. THE SUBVERSION
2018年
韓国

パク・フンジョン監督・脚本


キム・ダミ、、、ジャユン(女子高生)
チョ・ミンス、、、ドクター・ペク(脳科学者)、ペクの妹/二役
パク・ヒスン、、、ミスター・チェ(ドクター・ペクと同じ組織だが対立)
チェ・ウシク、、、貴公子(ジャユンのかつての同胞、ペク直属の部下)
コ・ミンシ、、、ト・ミョンヒ (同級生)
チェ・ジョンウ、、、ク先生 (ジャユンの養父)
オ・ミヒ、、、ク先生夫人 (ジャユンの養母)
キム・ビョンオク、、、ト・ギヨン警長 (ミョンヒの父)
イ・ジュウォン、、、ソン社長(YSエンターテイメント)
チョン・ダウン、、、貴公子の女性凄腕部下


幼少の頃から、全ての計画を立てていたというのも凄い少女だ。
遺伝子研究施設が上層部命令で折角開発した人間兵器の子供たちの殺処分が下される。
8歳のジャユンはそこを命からがら脱出し、自分が予め選んでおいた夫妻のところまで逃げきる。
その夫妻の娘として、高校生まで優秀な娘として育つが、、、。
脳の病気が進行しタイムリミットが近づいたところで、ジャユンは仕掛ける。
表向きは家計と母の病気治療の資金集めの為、親友のミョンヒをマネージャーとし、賞金がたんまり稼げるアイドル勝ち抜き戦に出場する。ここで超能力を見せ、以前脱走した施設関係者に自分を探させ、まんまとそこに侵入することに成功する。彼女はそこで自分の脳の問題を解決する糸口を探ろうとする(アイドルとしても一位で勝ち抜いて行く)。

演技も見事。二重の意味で。表情の変貌にも驚かされ爽快であった。
アクションに関しては、スピーディーな(流れの)アクションというより、シーン構成・編集によってそれを示す撮影方法であった。
アリだと思う。
サイキック同士の闘いともなれば、われわれの動体視力では、とても追いつけまい。
そんな闘いだと、きっとこんな風に見えるだろう。
彼らは体の動きやパワーだけでなく、飛んでもない動体視力を備えているのだろうな、、、と思いながら見ていた。
(第一世代、とジャユンらの第二世代がおり、前者は本社上層部に直結し、後者はペク博士直属の形で独自に動く)。

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前半の病弱風な素朴で素直な家族思いの優等生が、後半計略通りに研究施設のボスである自分を遺伝子レベルから改造した脳科学者に逢い、脳の病気の進行を一時的に止める薬を得たところからの変貌は凄い。
勿論こちらも、劇空間における他の登場人物に対しても、同時にやられた、である。
そしてレベルの違いを見せつける強さ。
彼らは彼女に騙された挙句、コテンパンにやられるしかない。

こうした圧倒的なハイパー少女の雄姿を見るのは快感。
何においても超越的で俯瞰的な立ち位置で行動出来ることは憧れでもある。
チョン・ダウンの演じたハードボイルド女性闘士も充分魅力的であったが、ジャユンの狂気的な切れは一枚上手。
アクションものの醍醐味をしっかり味わえた。
男性陣は皆、哀愁が漂うカッコつけばかりであったが、これもまた絵になっていた。

可愛らしい女子高生の弾むやり取りのコメディータッチから、スタイリッシュなギャングテイスト、そして終盤のハイパーバイオレンスへとテンポよく展開して行く小気味よい流れであった。

THE WITCH002

この第一部ではほとんど何も明かされていない為、二部は遺伝子操作をして人間兵器を開発する「本社」の概要とか、何故上層部の博士がふたりもペクの命令で殺されたのか、ジャユンの姉とペクの双子の妹が唐突にエンディング直前に現れたことから、彼女らを巡ってジャユンのルーツ~実の親やペクの思惑などが明かされながらの次なる展開となるか。
シリンジの薬の注射で一か月ごとに命の更新をするより、もっと根本的な解決を図るとペクの妹に迫っていたことから、脳の安定に関する進展も観られそうだ。

何においても、「あなたは私にはかなわない」の絶対的自信~確信が素敵である。


続編~第二部も2021に公開が迫り、ワクワクである。
シリーズものとしてやっても面白いと思う。




これは、Blu-rayで観たい。


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ここ最近、買い物ばかり、、、今度はミシン

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買い物はいつだってウキウキするものだが、予算の問題もあり結構大変。
昨日は昨日で色々と買い物(ほとんどが故障の~何故か物は同時期に壊れる~為、買い替え)をしていたのだが、、、
、、、お買い物は、選んでいるときが、一番楽しいものかも(笑、、、
そうした仕事がいつものルーチンに割り込み、自分の課題~策略がほとんど進まない(これには相当な集中も必要)。
30分のブログ書きにも支障を来す今日この頃(「映画」の場合は、それプラス鑑賞時間とティータイムを取る)。
昨日は完全に暇なしとなった。ブログお休み、と必然的にあいなる。
考えてみれば一か月ぶりのお休みであった(時間の編集作業をしていた気がする)。
何とか必要な物は買い揃えたが、今日になってまた入り用なモノが出てしまう。

娘が課題の縫物を家でしようとしたら、何とミシンを捨ててしまっていたことに気づく。
修理に何度も出しているうちに、どうにもならない代物となっていたそうだ。
(修理代と出張費がかさむだけという状況であったらしい)。
わたしは、ミシンがなかったことを初めて知る。
長女は、何かやり始めるとかなり集中して没頭する。
以前、ミシンでひたすら縫物をしていたことを思い出す。
何れにせよ、家に一つはあった方が良い。

そこであれこれ探すうちに、何と3万円以降のものは、機能的に殆ど差がないことが分かる。
あとは、パワーの差みたいだ。
(わたしは、当初、ぼんやりと機能の差が値段になっているのかと思っていたのだが)。
勿論、フットコントローラーを付ければそれなりの値になるが。
娘が宿題に使うくらいなら高いモノを買う必要もなさそうだ。

3大メーカーがあるが、安定感狙いで(厚手のモノを縫いたいときも考え)Ju○○のモノにした。
まあ、ハイエンドものならどこも差はないであろうが。
ミシンが来るまで、すぐお隣の御宅で取り敢えずの課題を(途中まで、使い方学習も兼ね)やらせてもらうことにした。
毎日使うようなものなら無理だが、お隣もたまにしか使わないということなので快く貸してもらえた。
新しいタイプだそうで、今度買うものに基本的に近いに違いない。


わたしは、コンピュータミシンというものを使ったことがない、、、
子供の頃、足でバタバタ漕ぐ?タイプのモノは使った覚えがあるが。
何か面白そうな気がして来た(聞くとこれまで家にあったものもコンピュータものであったらしい)。
わたしは家で、そもそもミシンを使った試しがないのだった。
丁度よい機会なので、わたしも何らかの造形作品にチャレンジしてみたい。
まずは、娘の宿題からだが(笑。






今日は超多忙

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今日が特に忙しかったのは、わたしが予定、約束、予約を忘れていたことから来るものであった。
ここのところ、記憶が飛ぶことがよくある。
まずは、困るのだが、その後で、これはこれで面白い事態だと認識した。
自分の中の他者性の発見とも謂える。

途切れ途切れの飛躍の波に乗っている感じなのだ。
少し前にやっていたことに気づく。
とても新鮮で意外でもある。
元に戻るというより、新たな仕事に感じ、、、。
時間が異なるのだ。
わたし自身のズレ。世界が多元的になった気分だ。

何でわたしは食事を作っている最中にヴィデオ編集を始めていたのか、、、(爆。
鍋だけは焦がさないようにしたい。
事故ではなく自己とは何か、、、。

いよいよ本格的に考えなければならないところに来た、感じだ。
丁度、コロナウイルスという非自己が巷に広がっている状況である。
確かに他者がなければ自己は創発しない。

わたしの場合、激烈な毒親が巨大隕石の激突のような他者性を発揮したのだが、、、
それは些かダメージが強すぎた。
自己の創発というより瀕死状態を招いた。
かのペルム紀末の地球生命の95%の死滅にあっても、ギリギリの適応状態を作り新たな創発をみる生命~自己。

このへんの組織化(自己組織化)については、全て同じ線で捉えてみたい。
ミトコンドリアも元々は外からやって来た。
それによって自立した(ATPによって)。

自己と他者による創造的関係(またはその逆も含め)考えてみたい。



新しい公園をふたつ探す

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最近、また公園によく行くようになった。
少し足を延ばして、行ったことのない公演を訪ねてもみた。
そのなかで、新たに二つばかり、これからも時折行こうという(ローテーション入り)公園ができた。
うちでよく行く公園は、近場の三つなのだが、後二つあってもよい。

しかし、メインでいつも使っている公園については、それを超える公園は未だに出ない。
(わたしが高校生の頃から馴染んでいる公園だ)。
有名な人の多い、やたらと巨大な公園では、疲れるばかりだが、そこは適度にローカルで一日遊ぶのに丁度よい広さで、何より区画が上下(高低差)に分かれそれぞれ変化に富む場所になっている。
どこも雰囲気が何とも優しく心地よい。
それに公園でわれわれが一番やりたいことは、綺麗な芝生に大の字に横たわり空を眺めることなのだ。

青空をバックに、変幻しながら流れてゆく彩雲。
これに飽きることはない。
何度もウトウトしたものだ。
こんなに静かで気持ちも落ち着いているのに、、、

地球という球体に重力で貼りついている不思議を想う、、、。
地球が時速約1600kmくらいで自転しており、太陽の周りを100000km以上の速度で公転している。
そして太陽は惑星を引き連れ8640000km以上の速度で天の川銀河の中を移動している。
太陽はこの銀河を2億5千万年で一周(公転)しているという。

そしてこの天の川銀河が216万kmの速度で宇宙空間を移動しているそうだ。
速度を計る絶対的基準~中心がない(物体の運動は常に他の物体に対する相対的な運動である)ため、近傍の銀河との位置関係から割り出す形をとるが、、、。速度に関してはかなり学者によるバラツキがある。
その方向は、ウミヘビ座に向かっているという。
そして宇宙全体が時速3600000kmくらいで膨張を続けていることも加えねばならない。

その上で、すぐお隣さんのアンドロメダ銀河がこちらに向かって時速439200kmあたりで移動してきている。
すると、科学者たちの説では、40億年以内に両者は衝突するようだ、、、まあどうなるんだろうか、、、。
40億年とは実に微妙だ。太陽が赤色巨星となり地球をほぼ呑み込む時期に近いでゃないか、、、。
いずれにせよ、人類なんてその頃はとっくに滅んでいようから、関係ないと言えばそうだが、このような崩壊現場を僅かでも体感できればそりゃ快感に違いあるまいに。

そして20憶年後には合体した銀河が誕生してるそうな、、、。
実際、衝突と言っても、恒星間の距離など考えれば、ピンポイントでぶつかるケースはほとんどないはずだが、、、。
太陽系の小惑星帯(火星と木星の間)にしても、実際に探査艇で行ったらガランガランであるし。
空間密度からして宇宙とはそういうものだ。何らかの影響はあるだろうが、、、。

われわれの銀河は、おとめ座超銀河団の一部として動いている。100くらいの銀河団で構成されているという。
そして最近、TVで知ったが、ラニアケア超銀河団(500くらいの銀河団を内包する)におとめ座超銀河団は繋がっている。
ラニアケア超銀河団の中心にはうみへび座・ケンタウルス座超銀河団の所謂グレート・アトラクターがいるという。
そしておとめ座超銀河団を内包する長さ約10億光年のうお座・くじら座超銀河団があり、これら全て、移動している。
宇宙には「中央」や「縁」が無いためあくまでも相対的な値となるが。

光の届かぬ先の情報は今のところ分からないが、この宇宙そのものが多元宇宙のひとつとも謂われている。
物理的な相互作用がないため、理論的に納得できれば、そうしたものでもよいのでは、、、。

この宇宙自体が想像上の産物~夢のひとつなのかも知れない、、、。
このタイミングで蝶々が飛んでゆくではないか。


それはそうと、オリオン座の脇あたりに赤く光るベテルギウスが超新星爆発すると頻りにアナウンスが流れてくるが、いつなのか、、、
皆直ぐ見られるという勢いで喋っているのだが、、、
先日TVを見ていたら10億年から50億年くらいの間に爆発するだろうとか、専門家が言っていた、、、どこが直ぐなんだ。
宇宙では、明日くらいのものなのか?

満月の何十倍の明るさの光が空に昼夜通して4か月は輝き続けるという。
確か司会者だったか、、、長生きしたいですねえと言っていたが、是非長生きしてくれ。


のんびり寝転がってしょうもないことを思いめぐらせるのも悪くはない。
娘たちが何考えるかは知らぬが、、、


時をかける少女 1977 

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1997
角川春樹 監督・脚本
伊藤亮二、桂千穂 脚本 
筒井康隆 原作
松任谷由実 「夢の中で〜We are not alone, forever」、「時のカンツォーネ」

原田知世 ナレーター

中本奈奈、、、芳山和子
中村俊介、、、深町一夫
浜谷真理子、、、神谷真理子
山村五美、、、遠藤梢
早見城、、、浅倉吾郎
野村宏伸、、、福島先生
早見優、、、大原先生
榎木孝明、、、星先生
倍賞美津子、、、芳山有紀子
伊武雅刀、、、芳山治男
久我美子、、、芳山ミチエ
渡瀬恒彦、、、骨董屋主人


何故かモノクロ。
間違いなく、これまでにわたしの見た映画のワースト3に入る。
ストーリーの余りに酷いところにもってきて、それを演じる主要キャスト(3人の高校生)の大根レベルを遥かに凌駕する恐るべき大根ロボットの演技。小学低学年でもずっと上手な子役が山ほどいよう。
一体、何のつもりだ?

特に「時かけ」はわたしのお気に入りの映画でもあり、それがものの見事に崩壊して瓦礫となっている。
いや、大根畑となっている。

実は、今日も「クレヨンしんちゃん」を一本観たのだが、それがかなりの初期のもので、、、何という題であったかもう忘れたが(しんちゃん映画の題は難しくて覚える気もしないのだが)TV版で観たしんちゃんそのものの延長線上にあるような、悪ふざけの効いたナンセンスものであり、昨日まで見た映画とは異なる流れにあるモノであった。これはこれで(寧ろこの方が)真っ当なしんちゃん映画なのだろうが、どうこう感想を書くような作品ではなかった。ただオカマとホステスを交えてしんのすけ一同が玉を巡って大騒ぎするお話なのだ。鑑賞後、何も言うことなし、であることだけがはっきりした。

その後、偶然Primeで見つけた映画がこれであり、こういう実写版が作られていたことを初めて知ることとなった。
だが、知る必要がなかったことが、はっきりと判明するのだが。時既に遅しであり、、、。
ズルズルとどこかでなんとかなるのでは、と微かな希望を胸に最後まで観てしまったではないか、、、無念。
特にこの映画、ラストシーンが最悪の極みであった。

それにしてもこの映画、根本的にどこがどうとか言う気にもなれない代物であるが、そもそも深町が何しに来たのか分からない。
祖母の若い頃が見たかったって何だそれ?!
この時代のラベンダーからしか採取できない成分を元に研究に来たのでは、、、そもそも科学者なのだし、薬品研究のためだと時間警察とやらに説明し承諾を得てタイム・リープすれば済むところを、無断で来たために彼らに逮捕され10年はくらうとか何とか、、、意味分からん。
それに何で、深町と芳山はこんな風にいきなり相思相愛の関係になっているのか。最初の版では、記憶操作で幼馴染み枠に嵌っていてそのまま横滑りとなったが、今回は図々しい幼馴染は独立しており、深町は完璧な新参者である。
一目惚れとかいう瞬間もシチュエーションも内面~機微の演技・演出もなかったし、それは全く感じられないものである。
野原信之介も呆れてものも言えないレベルではないか。
蛇足だが、何故このヒロインは学生服のまま布団に入って寝るのか?初版の原田知世は帰宅すると御着物にお召し替えしていたものだが。
欅坂(現桜坂)の由美子会長が怒るぞ!(全くの蛇足だが)。

大筋以外にも不自然で妙な流ればかり、、、。そもそもエミリー・ディキンソンの思わせぶりな詩を読んで煽っているが、中身がこの話ではまるで頓珍漢ではないか。
雰囲気だけ出そうにも白けるだけである。
それにしても演技がもうちょい、どうにかなれば、雰囲気でも少しはどうにかなる面もあろうが、もう大根のロボットたちが何かやってるという感じなのだ。すでに何の劇だったか分からなくなっている。脇を固めるベテラン勢にまで大根化現象が起きているし。感染か?
ラベンダーのお花畑ではなく、見渡す限りの大根畑である(ホントの大根畑は有難いものだが)。
信之介が「おお、かーちゃんの脚とおんなじ~」、とか言って騒ぐところか、当然その後悲惨な目にあうのだが、こちらも同様の目にあった気分。

ラストは何と、向こうから堂々と会いに来たとドンっと現れ、あなたなのねとつかつかと歩み出てひしっと抱き合いエンドロールって、初版の詩情も趣の欠片も何もない、もう箸にも棒にも掛からぬ厚かましい締めであった。
天晴れ。ある意味、最後が全体の内容そのものを象徴している。
終わり悪ければ全て悪し。



最初の時かけの主題歌の歌詞に違うメロディを付けて歌う松任谷由実の歌がちょっと面白かった。
強いてあげれば、早見優の英語の先生が良かった(短い尺だが)。



とてもお勧めできない、、、。


クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦

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2002年

原恵一 監督・脚本
臼井義人 原作

結局、野原家全員の夢に出てきた姫のメッセージとは、何であったのか、、、。

夢を見た後、裏の畑ではないが、庭に飼い犬のシロが深い穴を掘っている。
その中からお宝と言うにはあまりに汚い文字で書かれたしんのすけの手紙が現れる。

『とーちゃんかーちゃん おらてんしょうにねんにいる
おひめさまはちょーびじんだぞ
かすがのおしろはとういから おくるまできたほうがいいぞ
はやくきてね。 じゃそゆことで』

しんのすけは、突然失踪する。
両親は、何の疑問もなく(ないわけでもないが)、車に役に立ちそうなモノを片っ端詰め込み、シロの掘った大きな穴の傍で天正二年にタイムスリップ待ちに入る。間違っても「天承」ではない。夢で見た姫の出で立ちからまさか平安時代ではないと思ったのだろう。
向こうの世界ではそこ~春日部の野原宅は美しい木々の生い茂る湖畔であり、麗しい姫がいつもそこにやってきて憂い物思いに耽る場所であった。
とーちゃんたちもしんのすけに姫や井尻又兵衛由俊とも出逢い、一同お城に招待される。
両親は激しい戦いに巻き込まれることを知っているため、直ぐにそこを離れようとするが、タイムスリップ出来ない。
しんのすけはタイムトリップした矢先にほぼ事故に近い形で春日の豪傑、井尻を敵伏兵の狙い撃ちから救っており、取り敢えず恩人の扱いを受けていた。

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前半、おしりのパワーを誇示するしんのすけだが、戦国時代にタイムスリップしてからは、やはり凛々しくなる(もしかしたらこちらが本性なのか?)
合戦の様子から、時代考証のしっかりなされた作品であることが分かる。
特に竹を束にして作った鉄砲避けの盾、槍合わせ、城下周辺の収穫前の麦苗を狩り取るところまで描写している。
ディテールも精確さを追求して描く姿勢が見られた。
(そのディテールは実写の時代劇を遥かに超えていた)。

戦国の合戦を舞台にするが、話の軸は、とても繊細でナイーブなものである。
当時の道ならぬ秘められた恋愛や武士道、家族愛、、、がよくできたストーリーに収まっていた。
それにしても、春日城の人々の物分かりの良さには驚く。しんのすけの話を聞いて皆が未来から来た少年であることを理解して納得しているのだ。これ程、開かれた知性は、今現在わたしが巷を見渡してもそうは見受けられないのだが。

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しんのすけとあれだけ砕けた親友になってしまえる姫と井尻は特に素晴らしい人格でもある。
こうした時代の方が感性や知性も解き放たれていたのかも。
春日の殿は、まるで哲学者のようであったし、同時に少しでも長く可愛い娘を自分のもとに置いておきたい父でもあった。
娘の政略結婚を破棄する決断が、とーちゃんとの会話で決まるところも面白い(相手がそれを機に攻めてくることも踏まえての戦略もあったのだろう)。
案の定、相手は婚約破棄を理由に多勢を頼みにした攻勢をかけ、一思いに呑み込む勢いであった。

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合戦で、とーちゃんの運転する車が大活躍するというのも奇想天外で面白い。
(帰って来てみたらもうぼろぼろである)。
登場人物の心情がそれぞれに描き分けられているところも細やかで手抜きがない。また破綻もない。
とても丁寧な作りだ。
図書館で予め史実を知っている、とーちゃんとみさえの表情は何とも言えない。
(そこには、ちゃんと野原信之介とその一族らの奮闘により、、、の表記もあった)。
特にしんのすけと仲の良い井尻の運命も知っていることで、二人とも複雑である。
闘いにおいては、かーちゃんも肝心なところは、バッチリ押さえる。野原家全面共闘であった。

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だが、しんのすけに意図せず救われてしまった井尻は、早晩命を落とさなければならない。
誰が彼を撃ったにせよ、このままの流れでは、相思相愛の姫と井尻が結ばれてしまったりすれば、未来は書き換えられてしまう。
この帳尻を合わせなければならないという超越的な立ち位置にいる誰かが撃ったのだろうが、流石にショックである。
(こうした設定の奇想天外な物語であるから、在り得ることだ)。

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しんのすけの嘆き、姫の悲しみ、に充分共感する展開と流れであった。
これも、よく出来た作品である。

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今日の姫は確かに綺麗であった。
わたしもこの作者の絵に慣れてきたところもあるだろうが。

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クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲

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2001年


原恵一 監督・脚本
臼井儀人 原作

この映画には、妙な共感を覚える。
わたしにとって、昭和とはリアルタイムにおいて、全くよい時代ではなかった。
最悪の時を送ったというのみ。自分を中心に見れば、、、。
しかし、大人になって昭和のモノを見たりすると、変に懐かしい。
決して良い時代などではないが、大人の目で昭和に作られたモノを見ると面白いということは、ある。

だから、しんのすけの親たちが、あのころ自分たちが見れなかったモノや買えなかったモノや遊べなかったモノが今の立場になって欲しくなる~体験したくなる、というところには共感できる。飽くまでもモノ~商品レベルにおいて。
その当時のTVや映画の主人公になってみたいという思いも取り敢えず、分かる気はする。
確かに面白い作品~出来事は結構あった。鉄人28号、ウルトラQ、ゴジラ、ガメラ、ワッペン等のコレクションアイテム、ビートルズによる触発、冷戦期における米ソ間の宇宙開発競争、自動車の性能合戦、新家電開発、、、等々この辺を挙げ始めると、枚挙にいとまがない。

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とは言え、この物語の春日部の人々のように、わたしは、その時代を体験~再体験したいとは思わない。
ましてやその場で子供に立ち返りたいなどと、、、
逆に嫌な残虐な想い出に圧し潰されそうになり逃げ出すと思う。
時代の雰囲気にも嫌悪感しかない(実際、どこがよかったのか?)
人や家族というものが良かったとか街に活気があった(確かに個人小売店などが盛んであった経済的側面はある)とか、、、これこそ根拠のない単なる過去の美化に過ぎない。
(この一見活気とみえる現象も、戦後の個の抑圧・搾取~愛着障害を引き起こした硬直した流れを隠蔽するだけのものである、というより表裏の関係か、、、高度成長期とは何かという部分でもあろう)。
時折、おおらかさがあったとか人間性があったとか聞くが、いい加減にしとけよ!である。今の時代の悲惨な部分の基盤がこの時期にしっかりと形作られたのだ。毒親の生成も着々となされてゆく。
(ここでは、これ以上書かないが、別のところで怨念をこめて書きたい)。

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かの有名なプルーストの自伝小説に、紅茶に浸したマドレーヌの香りから過去を鮮やかに想い浮かべる流れがあるが、こちらはとーちゃんの激烈な足の臭さが、過去のノスタルジーに溺れていた自分を今現在~プレゼンスに強引に引き戻す。
片や過去へ片や現在に。香りと臭さの違いはあれど、共に嗅覚である。嗅覚はある意味、記憶を覚醒する感覚である。
甘やかな香りに触れた瞬間、鮮烈な過去が蘇るに対し、もんどり打つ程の足の臭さがシビアな現在に立ち返らせるのだ、、、プルーストと互角に張り合うつもりだ、まさにこのしんちゃん映画は。

「イエスタディ・ワンスモア」(カーペンターズもよかった)という組織が春日部に「20世紀博」という催しを盛大に開き、人々を本物そっくりに作り上げた昭和の街空間に住まわせる。財源は一体どこから出ているのか、物凄いスケールであるが。
更に「昭和の匂い」を高い塔から撒き散らし、もっと多くの人々を昭和に閉じ込め時間を凍結しようとする。
それに対し、しんのすけファミリーが懐かしさに取り込まれそうになる度に、とーちゃんの足の臭いを嗅ぎ正気に戻り、組織の隊員たちやその主導者ケンとチャコに立ち向かってゆく。(この昭和の匂いこそマドレーヌにあたるものか)。

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一度は、はっきりとこの組織の作る昭和に取り込まれたとーちゃんとみさえだが、しんのすけがとーちゃんの靴の臭いを嗅がせて彼らを覚醒させ救い出すシーンで、ふたりの少年期から家族となるまでの回想の流れの光景には魅せられた。
そしてしんのすけファミリーが塔からの「昭和の匂い」散布を阻もうと奮闘する終盤。
スリリングなシーンで畳みかける。無論、しんちゃん特有のユーモアも交えるが。
高い塔の階段を全力で駆け登るしんのすけには、自然に感情移入している。
この様子を監視カメラの画像からTV中継で見ていた春日部の取り込まれた昭和の人々の意識が解かれてゆくに従い「昭和の匂い」の貯蔵タンクの貯えが激減して行く。
このケンとチャコという主導者は、どういう経緯でこんなに昭和に拘るのか(ケンとメリーのスカイラインってあったな)、そして相当な金を動かせる立場の彼らは何者なのか、これは一切不明であったが、何故自分たちの趣味として楽しむのではなく、人を巻き込み共同体を形成しようとしたのか、これも分からない。
彼らは、しんのすけファミリーの勝ち~現代の価値を認め、昭和に浸っていた人々を今の時代へと解放する。
しんのすけファミリーは自由で快活で盤石であるが、ケンとチャコの二人はこの先どうするのか、気になってしまった。
「神田川」みたいな雰囲気なのだ、このふたり、、、トヨタ2000GTに乗ってはいても。

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以前、少しだけ見たこともあるTV版のしんのすけの手のつけようのない、やんちゃなおけつ丸出しで暴走するシーンなどは、ほとんど見られず、個性的だが、基本ストイックでスポコンアニメのヒーローみたいな彼がここにはいた。
映画ではちょと人格が変わるのか、もっと自由に製作された結果のあの感動を呼ぶしんのすけとなったのか。


もうすこし、しんちゃん映画に触れてみたい、、、。










クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん

Intense Battle! Robo Dad002

Crayon Shin-chan Intense Battle! Robo Dad Strikes Back
2014年

高橋渉 監督
中島かずき 脚本
臼井儀人 原作


ぎっくり腰はわたしもなったことがある。
暫く寝たきりとなる(笑。
フラジャイルな身体の人間にとって、その手の異変はいつでも在り得る。
しかしそうなったら、そうなった自分として過ごす。
その形態としての生活空間と時間が生じる。
(そしてまた、元の時間系~生活空間にもどる。)

超人的な能力を持つ強靭な体があれば、それはそれで便利だとしても、欲しいとは思わない。
そうなると自分ではなくなる可能性が高い。アイデンティティの問題が生じる。
外界とのインターフェースである体の構造が超絶的に変われば~異質なら、自分も世界も変容してしまう。
(元に戻るような変容ではない。)

とーちゃんとロボとーちゃんは、個々には自分がとーちゃんだという自明の意識(疑似意識)があり対立する。
相手に対し偽物と呼ぶ。排他的関係になるのは、自然なことだ。

Intense Battle! Robo Dad003

とーちゃんとロボとーちゃんは、端から異なる。
記憶は脳の記憶領域に限られたものではない。
そこをコピーできたところで、異質な雰囲気が全ての身振り、所作に出てくるはず。
身体全体に記憶は偏在しており、癖など無意識的な領域の記憶は、金属のボディに移植できない。
しんのすけは元々ロボット好きであるから、とーちゃんとロボットが合体すればとても嬉しいだろう。
とーちゃんの面白機能に夢中であったし、それに力強く、頼りにもなり子供の遊び相手として幅は格段に拡大した。
みさえにとっては、ロボットの身体性には馴染めないし、夫との違いははっきりしている点で、いくら良い人であっても、ひろしの替わりにはならない。複雑な思いである。
ちなみに、しんのすけは、とーちゃん発見(帰還)に喜ぶが、ロボとーちゃんへの深い愛着は維持し続ける。
この立ち位置は、この映画の肝でもあろう。

Intense Battle! Robo Dad004

ここでは、とーちゃんとロボとーちゃんの対峙から、しんのすけとみさえらとの関係を通し、とーちゃんとロボとーちゃん自身の変容も描かれてゆく。息子と妻を守る共通目的のため二者は一体化してゆき、最後には両者が「おれ」と呼び合う。
「色即是空」の掛け軸が野原家には飾ってある。
想定通りとは言え、ロボとーちゃんがとーちゃんにしっかりバトンタッチして果てる。
とーちゃんは、それを受け止め、充分逞しくなっている。
こういう流れは感動的だ。
この類のテーマ性を持った実写映画を幾つも観たが、それらに劣らない出来栄えであった。
(寧ろ超えているか、、、しんのすけという超絶キャラの存在で)。

Intense Battle! Robo Dad001

ひとつ、終盤のここぞというところで、クレヨンしんちゃんならではの流れなのだろうか、、、巨大いつきひろしが突然出現し、暴れまくるシーンに、ちょっと高まった意識が覚めてしまった。この演出はもう少しどうにかならなかったものか、、、。
そのまでの展開~流れはダイナミックかつ奇想天外で実に見事にもっていかれたのだが、ここには多少疑問が残った。

だが、テーマや発想もその演出も全体にみてよく練られており、素敵なアニメ映画であった。
このシリーズは幾つもあり、他の作品も観てみたい。
作画がとても個性的で、初めて見て、この女性は美人として描かれているのだろうな、ということは分かるが、ちょっと慣れるともっと入り込めると思う。








キャット・ピープル

Cat People002

Cat People
1942年
アメリカ

ジャック・ターナー監督
ドゥウィット・ボディーン脚本

シモーヌ・シモン、、、イレーナ(ヒロイン)
ケント・スミス、、、オリヴァー(技師、夫)
ジェーン・ランドルフ、、、アリス(夫の同僚)
トム・コンウェイ、、、ジャッド(精神科医)

ナスターシャ・キンスキー主演のリメイク版(1982)はずいぶん昔に観て、もう何も覚えていない(笑。
もう一度観てみたい。
今回は、そのオリジナル版である。


強い明暗のコントラストを生かした不安な気配作りが全編を充たす。
壁や床に落ちる影がときに大きな意味を浮かべる。
プールの場面では手すりの影が主役になり、、、。
それに怯えたアリスがたまらずプールに飛び込むのだ。
不穏な水面の揺らぎ。
壁にもその揺らぎが。

アリスは叫び声をあげ助けを求める。
そこに何食わぬ顔でやって来るイレーナにアリスは怯えた。
イレーナは直ぐに立ち去る。
だが何もなかったかのようにこの場をやり過ごすことは、出来ない。
アリスのバスローブがズタズタにされていたのだ。

こんな具合で、そのもの、その場面を、あからさま~即物的には描かずに不安を充満させてゆく手法をとる。
戦時中であり、様々な不安に満ちた時世であろう。
しかし基調となるのは、イレーナの宿命に対する深い葛藤と不安と恐怖である。
確かに大人になることを拒む姿勢、潔癖症、男性恐怖などの繊細で内向的な若い女性特有の心性にも重なる面はあるが。
やはり猫人間の末裔として決して人間とは交われない、深い接触で相手を殺してしまう宿命を背負った苦悩と絶望なのだ。
結局それが実現されるところに追い込まれたイレーナは自らの命と引き換えに彼らを救う。
この悲惨な事態を引き起こしたのは、イレーナの魂の訴えに誰も耳を貸さなかったことによる。

Cat People001

彼女は何度も「わたしは嘘をついていない。真実しか話していない」と繰り返していたのだが、周りの者は自分の正論を一方的に押し付け彼女の話を彼女の生まれた村の迷信だの一言で片づけてしまう。この奢り、傲慢、不遜な態度。これが国同士であれば当然戦争にも発展しよう。
イレーナは敢えて、アリスの紹介による精神科医にも掛かるが、彼も端から彼女の話を妄想として一蹴し何らかの幼少期のトラウマによるものとみて、受け止めようとはしない。
彼女に半ば強引に迫り結婚を果たした夫のオリヴァーも彼女の苦しみと本心を受け止める姿勢は皆無であり、職場の同僚アリスにこころを向けてゆく。ジャッドを加えての密談で、療養所に入所させると離婚が出来ないからこのままの形で離婚を成立させアリスとの結婚を企てる。

誰もが彼女を得体の知れぬものとして厄介者扱いし始める。
自分の思惑~思考の枠~に嵌らないことで排除しようとするのだ。
そんな矢先、イレーナに強引に迫るジャッドに対しついに変身をして彼を殺してしまう。
彼女もジャッドのステッキの仕込みナイフで深手を負い、動物園まで辿り着き、豹を檻から放って、息絶える。
彼女を追ってきたオリヴァーとアリスは彼女の豹の死体として横たわっている惨状を見て、「やっぱり言っていた通りだったのね」とすごすごとそこを立ち去ってゆく。


こうした輩~光景にはわたしも充分、既視感をもっている。
記憶の新しいものもあり、怒りが改めて込み上げる。

本当に他者に向き合える人間は、少ない。
(わたしの親も、全く子供に向き合えない人間であった)。








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テナント/恐怖を借りた男

The Tenant001

The Tenant
1976年
フランス

ロマン・ポランスキー監督・脚本
ジェラール・ブラッシュ脚本
ロラン・トポール『幻の下宿人』原作
スヴェン・ニクヴィスト撮影

ロマン・ポランスキー、、、トレルコフスキー(ポーランド系の独身男性)
イザベル・アジャーニ、、、ステラ(シモーヌの友人)
メルヴィン・ダグラス、、、ズィー(家主)
シェリー・ウィンタース、、、管理人
ジョー・ヴァン・フリート、、、ディオズ夫人(アパート住人、著名を求めてくる)
リラ・ケドロヴァ、、、ガデリアン夫人(アパート住人、ディオズ夫人に攻撃される)
エヴァ・イオネスコ、、、ガデリアン夫人の娘(脚に障害をもつ)

ベルイマン監督の映画の撮影をしているスヴェン・ニクヴィストがこの映画を担当。


シモーヌ・シェールという女性が窓から飛び降り自殺した部屋を借りたポーランド系のトレルコフスキーも隣人たちの目に追い詰められ、彼もまた同じ窓から飛び降り自殺してしまうまでの経緯を描く。

心底滅入る映画だ。
古くて不便な集合住宅ということから音の問題がまずあるだろうが、それ以前に他者~余所者に対する排除・抑圧的な冷たい態度・姿勢が厳然としてそこにはある。
些細な違和から始まり、積み重なってゆくのだが、、、
彼の一挙手一投足が悉く非難の対象となる(少なくとも彼にはそう捉えられる)。
音などには殊更、聞き耳を立てられビクビクしながら暮らすこととなり、生きた心地がしない。
かなり家賃の高めのアパートでありながら、自分の部屋で寛げないストレスは、やがて彼の精神を深く蝕んで行く。

まだ前半は、死の淵にいる全身を包帯に巻かれたシモーヌの見舞いの時に知り合った彼女の親友ステラが何かとこころの拠り所となり得た。
親和的な関係を結べる彼女がいることで、トレルコフスキーはギリギリのところで外界との精神のバランスは保てていた。
この辺はよく分かる。

しかし窓の真向かいに見えるトイレからはこちらをじっと睨む男の姿。
部屋には何と自殺女性の化粧品とドレスが見つかる。
そして何とも言えない不安と恐怖を煽ったのが、壁穴に差し込まれた抜けた歯であった。
シモーヌの前歯である(彼女には前歯が一本無かった)。
アパートの住人同士の険悪な関係も見えてきて権力闘争に加わるよう圧力をかけられる。
近くのカフェでも彼の注文を無視したメニューを押し付けて来る。
真面目でナイーブで繊細なトレルコフスキーにとって、不条理な悪意としか思えぬ状況がついに妄想を生む。

やがて彼の趣向も変化し、たばこの銘柄や飲み物も違うものになって来る。そしてシモーヌの化粧品とドレスで女装する。
彼女と同一化を図るかのように。
周囲の人間すべてが自分を追い詰めて、シモーヌのように自殺させようとしていると、、、。
ならばシモーヌとなって今一度目にもの見せてやろうと。
彼の唯一のこころの支えであったステラも、ひょんなことから彼にとって危害を加える他の人間たちの文脈に繋がってしまう。
異様に増幅した疎外感から来る妄想の論理である。これは内閉し完結するもので、客観的な検証の余地はない。
完全に孤立してしまったところで、彼の狂気は加速する。

見るもの全てが彼を追い込む。
彼もまた前歯が一本抜けていた(シモーヌと同じ歯だ)。
もう打開の手はない。逃げ場もない。外部がないのだ。
彼は飛び降りる。しかも女装をして。
アパートの住人たちはそれを目の当たりにして不気味がり、やはり倒錯者だったのね、と吐き捨てる者もいる。
深手を負うがまだ体を動かす力は残っており、最後の力で階段を上り再度飛び降りを敢行するのだった。
余りに痛々しくも滑稽な、周りの者に対する復讐と自らの外に出る~解放される唯一の手段に他ならない。


彼は瀕死の状態で包帯を巻かれた第二のシモーヌとなっていた。


もうやりきれない。これはロマン・ポランスキー自身の内的体験ではないか。
彼もまた数奇で過酷な生を生きてきた人である。
何気なくエヴァ・イオネスコが出ているところなど、如何にもポランスキーの映画らしい。

役者としてのポランスキーは充分魅力的であった。
特に声が良く、英語の発音も綺麗であった(他の役者も発音が綺麗で聞き取り易かった)。
イザベル・アジャーニは、何をやっても文句なし(もう少し出番が欲しかったが)。


気の滅入る、よく出来たサイコドラマであった。








セバスチャン・サルガド地球へのラブレター

THE SALT OF THE EARTH001

Le sel de la terre    THE SALT OF THE EARTH
フランス・ブラジル・イタリア
2015年


ビム・ベンダース、ジュリアーノ・リベイロ・サルガド監督・脚本

ジュリアーノ・リベイロ・サルガド撮影

セバスチャン・サルガド、、、写真家
ジュリアーノ・リベイロ・サルガド、、、息子


この偉大な芸術家~写真家の魂の遍歴にどう自分の固有時を接続させるか、、、
課題である。見てしまったからには、課題となる。
じっくり自分の身体に浸み込ませて、後は自然に任せたい。
新たな時間系に乗っている自分は、少なくとも今より身軽になっているはず、、、。

わたしは、本当に動けない質だから、彼のような本質的なノマドには圧倒されるばかり。
唖然として立ち尽くすばかり。そんな感覚で巨匠ビム・ベンダースと主人公の息子であるジュリアーノ・リベイロ・サルガドが監督を務めるドキュメンタリーを見た。
(ビム・ベンダース自身も写真家であるが、その彼がこころを奪われた写真家である)。
そこに切り取られた光画の質量その説得力は無限大であった。

THE SALT OF THE EARTH002

彼が撮れば、地球上の何処であっても、本質があからさまになると信じられる。
まさに「神の目を持つ写真家」だ。
その凄さはよく分かるが、ひとりの人間がここまで(過酷な飢餓地域及び紛争地域、地球規模の大自然や動植物を)撮影出来ることに驚愕する。いや畏敬の念をもつ。

THE SALT OF THE EARTH004

人間の生む地獄を徹底して見つめ告発し、包含する地球自然の力を見出し、それによる浄化を自らも進める。
(大変な規模で植林しそれが環境を蘇らせるモデルケースにもなっている)。
セバスチャン・サルガドとは、洞察力と芸術的表現力と行動力全てが備わった稀有な人物だ。
その作品は、孤高の出来栄えであるが、誰もの肌に馴染む優しさを湛える。

THE SALT OF THE EARTH003

彼がこれだけの偉業を成すことが出来るのは、彼を理解し支え積極的な企画も出してくれる有能な妻の存在が大変大きい。
独りでこれだけのスケールで動き、成果を見事な形で世に提示することはとても困難であろう。
子育ても含め素晴らしい支援者に恵まれていることも忘れてはならない。

THE SALT OF THE EARTH005  
THE SALT OF THE EARTH006


これだけ濃密で充実した人生を送る彼には、尊敬の念は抱くが、憧れのようなものは感じない。
自分が端から全く異なる種の人間だからだ。
抱える課題の異なる。
だが、何処かで彼の時間に接続してみたい。
わたしも人間の作る地獄には、ドップリ浸かってきたものだから。
(今現在もか、、、)。

彼のような悟りに至れるかどうか。
そこが肝心なところだ。
わたしにとって。



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民衆の敵

THE PUBLIC ENEMY001

THE PUBLIC ENEMY
1931年
アメリカ

ウィリアム・A・ウェルマン監督
ハーヴェイ・シュウ脚本


ジェームズ・キャグニー、、、トム・パワーズ
ジーン・ハーロウ、、、グウェン・アレン(トムの彼女)
エドワード・ウッズ、、、マット・ドイル(トムの相棒)
ジョーン・ブロンデル、、メイミー(トムの彼女)
ベリル・マーサー、、、マー・パワーズ(母)
ドナルド・クック、、、マイク・パワーズ(トムの堅気の兄)
レスリー・フェントン、、、ネイルズ(トムのボス)
メイ・クラーク、、、キティー(トムの彼女)


ロングアイランド出身のパブリック・エナミーはNWAと共に一頃よく聞いていたお気に入り黒人ヒップホップグループである。
恐らくこの映画~ジェームズ・キャグニーの影響大ではないか(命名も含め)。

まずこの映画で「気づくのは、銃殺(殺害)する場面など、、、自分たちを裏切ったプティー、ネイルズを殺した馬、土砂降りの雨の中での二丁拳銃で乗り込んだ敵陣、トムの誘拐~死体で帰還、、、これら全てその場面は見せない演出である事。
この時代の映画演出の主流なのか、この作品独自の手法なのか、、、その場面をこちらに想像させる上手いやり方だ。
稚拙なVFXなどで説明的に描くよりずっと効果的である。
しかもイメージを限定しないことで詩的な広がりさえ生まれる。

THE PUBLIC ENEMY004

かの大傑作「白熱」そして「汚れた顔の天使」のジェームズ・キャグニーの初主演の映画か。
最初から彼ならではの存在感が映画全体の雰囲気を形作っている。
この時期の狂気を孕んだ個性光る悪役は、この人とピーター・ローエが印象深い。
(ふたりともぎらつく狂気だけでなく妙な甘さもあるのだ。そこの魅力が大きい)。
彼にヒロイックな憧れを覚えることはないが、とても引っかかる人物である。
共同体~社会の無意識により歪められ辺境に押しやられた人格特有のものだ。

THE PUBLIC ENEMY003

体制がどうであれ、人間のいる限り不可避的にこのような人は生れ暗黒街~アウトローも増殖する。
人間のいる限りが余りに曖昧であれば、権力構造がある限り、、、であるか。
トムは、家庭でのママの盲目の溺愛(ある意味、腫れ物に触るような感覚もアリ)、真面目で勤勉・実直な兄との軋轢などから家にはいつかない。マットのように女性とも安定した関係が結べず自分の家庭も持てない。居場所を闇の世界に求めそこで頭角を現すが、金は勝ち誇ってこの世界~家に持ち帰る。最終的にはここで承認されたいのだ。
そういうものなのだろう、、、。

THE PUBLIC ENEMY002

90年前の映画であるが、基本古臭さなどは、微塵もない。
スタイルやテンポも小気味よい。
この作品に触れるとギャング映画は最初から出来上がっていたのかと想えてしまう。
トムたちがボスを失い対抗勢力が一気に彼らを殲滅せんと畳みかける火蓋となった、トムとマットをヒットマンが狙い撃ちするところなど見事であった。
機関銃の音を消す為、石炭車から石炭を降ろす音で油断させるところやビルの端が銃弾を浴びて削れてゆくディテールのリアリティには唸る。
演出の勝利である。

THE PUBLIC ENEMY005

最後の呆気ない死も如何にもという着地であった。
シカゴの暗黒街や禁酒法時代の雰囲気も味わえる映画である。



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