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GOMA28

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モンパルナスの灯

Les amants de Montparnasse003

Les amants de Montparnasse
1958年
フランス

ジャック・ベッケル監督・脚本

ポール・ミスラキ音楽

ジェラール・フィリップ、、、アメデオ・モディリアーニ
アヌーク・エーメ、、、ジャンヌ・エビュテルヌ(モジリアニの妻)
ジェラール・セティ、、、レオポルド・ズボロフスキー(専属契約した親友のポーランド人画商)
リノ・ヴァンチュラ、、、モレル(冷酷な画商)
リリー・パルマー、、、ベアトリス・ヘイスティングス(英国女性、モジリアニの交際相手)


これもフランス映画らしさが際立つ良い映画であった。とても暗いが。

Les amants de Montparnasse001

モディリアーニは元々肺結核を患っていたが、貧困と大量の飲酒、不摂生が祟り結核性髄膜炎により35歳で死亡。
彼を見事に演じたジェラール・フィリップ(フランスの知性美の象徴)も36歳肝臓癌で世を去っている。
どちらも女性に大変モテたところも似ている。
ただし、ジェラール・フィリップ自身は、退廃的な生活とは縁はない。
何においても非常にエレガントな人であったという。

ゴッホもそうだが、画家にとって絵が売れないことは、致命的だ。
絵さえ売れていれば、相当違う生涯を送ったことだろう。
才能が時代に受け入れられるかどうか、これはプロデュースの力も大きい。
(売り出し方で大受けすることも結構ある)。
プロデューサーがこの場合、画商である。
親友の画商はかなり頑張ったが、モディリアーニにも譲れないプライドがある。
自分の納得のいく形で売りたい。

結局、夜の街頭で倒れて野垂れ死である。
彼の妻もこの映画では描かれていないが2日後に部屋の窓から身を投げ自殺している。
お腹には二人目の子供がいたという。

Les amants de Montparnasse005

結局、モレル(映画で加えられた架空の画商か)という冷酷非情な守銭奴画商の謂う通り、彼の死後、絵は急騰する。
その後も、ずっと上がり続けていたが、今また彼のブームで物凄い高値がついている状況だ。
モレルの謂うように死が価値となるところはある。
だが、この映画では、モレルが恰も死神のように、焦燥しきって息絶え絶えなモディリアーニの後をついて歩き、彼が倒れたことを確認すると、直ぐに彼の妻の待つアパートに行き、絵を漁りまくるというこの上ないエゲツナイ行動をとる。
ずっと夫の帰りを待つ妻に対して、彼の死を告げることもせず、今のうちに絵を全て押さえてしまおうというものだ。
値の上がる前に買い漁る。
ここまで非情に徹することが出来れば、相当な金儲けも出来たことだろう。
(勿論、フィクションであるにせよ、これに近い状況があったことは、推測できる)。

映画ではあまりアトリエで絵を描いたり彫刻を制作するシーンがなかった。
描いた絵や彫刻もほとんど並んでいないし、呑んでフラフラしているシーンばかりが目立つ。
彼はピカソをはじめ、詩人のギヨーム・アポリネール、乳白色の魔術師である藤田嗣治、呑み仲間でもあったはずのモーリス・ユトリロ、彫刻家コンスタンティン・ブランクーシらとも特に親交が深かった。この辺のやり取りもあったらもっとモディリアーニの厚みが出たと思われる。セザンヌの件がほんのちょっと出ていたが、セザンヌの存在も彼にとっては大きい。
小説家であり美術評論家であるマックス・ジャコブとも関わっており、この人の動きでまたかなり違う波も起きたのでは、、、
このあたりの交流なども実は見てみたいところなのだが。
女性たちとズボロフスキー以外の関係が描かれないのは寂しい。
以前観た「モディリアーニ 真実の愛」では、かなりお友達が出ていてそれらとの絡み~特にピカソとの交流~が描かれていた。
だが、内容的にはこの映画よりマッチョな出来であった。

Les amants de Montparnasse002

余りに孤独な画家で悲惨な面ばかりが際立つものであった。
だが、基本的にこの流れであったと思う。自堕落な生活姿勢はかなり正確に描かれていたと思うし。
これ程の大画家が個展は生涯一度切りしかやっておらず、3,4枚売れたとか言っていたが本当のところどうなのか。
警察とも表に裸婦像を飾ったことからもめることになり散々な結果であった。

病が進行し体調が相当悪くなり、転地療養でニースに行くが、映画ではこの土地では、何か表情も良い。
恐らく、ここにいた方が長生き出来たのではないか。
確かこの地で長女ジャンヌが生まれたはず。奥さんと同じ名であった。
映画では、赤ちゃんは一切登場していない。
この子は両親を極幼いうちに亡くしその後どう育てられたのか。
(何であれ愛着関係においては厳しい状況に置かれて育ったはず)。
長じて著名な美術史家になり、父の厳密な批判的研究書を著しているが。

映画では彼の生涯を、貧困と病と酒と女に絞り浮き彫りにしようとしている。
それだけでもジェラール・フィリップの熱演により、モディリアーニという存在が異様な説得力を持って描かれていた。
ここは鬼気迫るもので「アラビアのロレンス」のピーター・オトゥールを想いうかべてしまう。
ジャンヌ・エビュテルヌの女優は、本作も「モディリアーニ 真実の愛」も互角の素晴らしさであった。
ちなみに「~真実の愛」のモディリアーニも本人にそっくりさんでとても入り込めた。妻もそっくりさんである。
主役はどちらも文句なしである。ジェラール・フィリップの方が知的で繊細ではあるが。

Les amants de Montparnasse004

ゴッホにしろ、このひとにせよ、もっと何とかならなかったのか、、、と思う。








民族の祭典

FEST DER VOLKER-OLYMPIA TEIL I006

FEST DER VOLKER-OLYMPIA TEIL I
1938年
ドイツ

レニ・リーフェンシュタール監督
ヘルベルト・ヴィント音楽


「民族の祭典」はベルリン・オリンピック陸上編である。
これと「美の祭典」の2部作で構成される。

FEST DER VOLKER-OLYMPIA TEIL I002

所謂、実況中継などからは遠い、映画作品となっている。
しっかり、ワクワクしながら競技にのめり込む臨場感は充分にあるのだが、作り上げた物語性もある。
40台のカメラを動員して編集作業で作り上げた労作であるだけでなく、スポーツ競技の記録フィルムとしては過剰な演出も行っていた。撮影機器の性能から来る要請でもあるが、光の関係で撮れなかった部分の撮り直しを加えて編集していた部分がそれに当たる。お陰でより映画としての完成度は高まったものであるが。
撮影のための様々な工夫も凝らされ芸術性はとても高いものとなっており、その美しさに惹きこまれてゆく。
最初の部分のギリシャ時代の競技を想わせるイメージ画像から、このドキュメンタリーの格調の高さが感じられるが、、、
スローモーションもあり選手の動きの美しさが際立つ。
特にフィールドの溝からのカメラによる跳躍系の宙を舞う映像は、殊の外優美である。
アフレコも行っているという。
競技するライバルを見詰める他国の選手の表情のアップなども重ねられ、彼らの心理や疲労も感じられるシーンも挟まれて進行する。音楽も荘厳さがありピタリとフィットし効果的に使われていた。

FEST DER VOLKER-OLYMPIA TEIL I005

後のドキュメンタリーにどれだけの影響を与えたものか。
ヒトラーがやきもきしながら観戦している姿も楽しいものであった。
映画のスポンサーはヒトラーのナチス党であるが、競技の捉え方は全く平等でその点における問題はない。
日本が三段跳びとマラソンで優勝し、棒高跳びで2,3位とかなり活躍したが、しっかり競り合う姿が映されていた。日の丸が君が代の演奏と共に掲揚されてゆく様は何とも感慨深い。5,000mで4位(10000mでも4位)の村社は、フィンランド勢(3人)相手に孤軍奮闘する姿がかなり好意的に捉えられていた。ちょっと英雄的な扱いであった。
ジェシー・オーエンスというカール・ルイスばりのスターがいたことを知った。短距離と跳躍で優勝し4冠達成である。
ただ競技をする姿だけでなく表情もよく捉えられており、こちらもまたあの選手が勝ったという驚きをアナウンサーが語るまでもなく知ることが出来る。競技にのめり込んでしまう魅力があることは確かだ。
ジェシー・オーエンスは表情の柔らかいスター性溢れる黒人アスリートであるが、こうした黒人の活躍がふんだんに収められたフィルムである。ここにヒトラーの思想は微塵も感じられないのだが。ヒトラーも一観客としてお茶目な応援の姿を撮られているに過ぎない。

FEST DER VOLKER-OLYMPIA TEIL I003

単に記録として見ても信頼性あるフィルムであるが、やはりドラマチックな映画作品としての価値は高い。
カメラなどの撮影機材の性能を上げれば、今の時代の映像と区別がつかなくなるところは多いだろう。
ただ、撮影機器だけでない、時代を感じることが強烈にあった。
走り高跳びである。
これには驚く。
背面飛びやベリーロールではなく(アメリカ選手にそれに近い飛び方も見られたのだが)、ほとんどは、正面跳び、はさみ跳びであんなに高いバーを越えているのだ。女子の飛び方が余りに危ういのでちょっと笑ってしまった。
飛ぶときに、「あれ~っ」とか声をあげているのでは、と思ってしまう程、危うい飛び方でどの選手も飛んでいるのだ。
競技の技術も格段に磨かれて来ていることが分かるところだ(当たり前だが)。
競技によっては、今でもほとんど変わらない形で行われているものと、随分変わり記録も伸びているものとの差を感じた。
その歴史的な視点から観るのも興味深いところだ。そこも充分愉しめる。

FEST DER VOLKER-OLYMPIA TEIL I004


この映画は、1938年のヴェネツィア国際映画祭で金賞を獲得しその完成度、芸術性が絶賛を浴びるが、戦後はヒトラーのナチズムとの絡みで大排斥される運命であり、レニ・リーフェンシュタールは優れた監督でありながら以降、映画の製作が不可能となる。
「ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海」を48年ぶりに監督し、これが最後の彼女の作品となった。

オリンピック第二部は「美の祭典」となる。
近いうちに観てみたい。








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ジャック・ドゥミの少年期

Jacquot de Nantes001

Jacquot de Nantes
1992年
フランス

アニエス・バルダ監督・脚本
ジャック・ドゥミ原作
ジョアンナ・ブルズドビチュ音楽


フィリップ・マロン、、、8歳のジャコ(ジャックの愛称)
エドゥアール・ジョボー、、、思春期前くらいのジャコ
ローラン・モニエ、、、青年のジャコ
ブリジット・ド・ヴィルポワ、、、母
ダニエル・デュブレ、、、父
ジャック・ドゥミ、、、本人


浜辺から始まる、まさに「少年期」と謂うに相応しい映画であった。
モノクロとカラーを織り交ぜた複雑な伝記ものだが、とても観易く優しい流れを感じる。
アニエス・バルダとジャック・ドゥミなのだから、、、凄い夫婦だ、ではなく良い映画になって当然か(笑。

Jacquot de Nantes002

何においても幼年期~少年期というものは人の形成に重大な影響を及ぼすが、ジャック・ドゥミの場合、母に恵まれていた。
彼を信頼しあくまでもやりたいことを後押ししてくれる。父も彼のやることに注目し趣味に付き合うことは充分してくれた。
この土壌はとても肝心なものである。
その上、アニエス・バルダという妻である。
良いものが作れて当たり前にも思える(笑。

この人は恵まれている。
自分のやりたいことを早くから知ることが出来、それを暖かく見守られながらやることが出来た。
こんなにも頻繁に家族皆で映画館通いをするのも(他の愉しみはこれといってなかったのかも知れぬが)素敵なことだ。
そして親子で息子の作った幼い手作り映画を鑑賞し愉しむ。毎回「面白かった」とお父さんが言う。
少年時代の何とキラキラしていることか、、、。この家族は誰もが対等なのだ。
映画の話が語り合える同年代の友達にも恵まれており、隣人も段ボールを分けてくれたりと何かと協力的であり、親和的な外界との関係が取り結べていたことがよく分かる。
これでは将来映画を作って多くの人を喜ばせたいと、ごく自然に思うことだろう。
彼の作る人形劇から「シェルブールの雨傘」や「 ロシュフォールの恋人たち」が一直線に繋がって行くのが分かる。

Jacquot de Nantes003

自動車修理工場をフランスの港町ナントで営む父親と髪結いの母親に大切に育てられていた8歳の少年が長じるに従い映画にのめり込んでゆく過程を描いた巨編。
大戦でドイツ軍の侵攻により一時疎開するが、何処にあってもどんな経験も後の映画の大切な一コマとなって昇華してゆく。
彼独特の感性のフィルターを通して、、、ほんの些細な出来事が傑作映画の一シーンに蘇るマジック。
この関係~変換を見事に映像に描いてしまう奥さんアニエス・バルダの手腕も凄い。
ジャック・ドゥミへの深い理解と共感の成せる技でもあろう。
流れに全く違和感などなく、次々と興味惹かれるエピソードで綴られるビビットな愛情溢れる映画である。
晩年のジャック・ドゥミ本人へのインタビュー映像も実に効果的に絡められていた。
かなり複雑で難しいことをしていても、ただ優しい映画にしか感じられない。

Jacquot de Nantes004

父と将来の仕事を巡ってはっきりと対立したが、これも実に健全な自立への儀式でもある。
父は工場を持っていることから、長男にそこを継がせたい。だが、彼は自分の意志を通す。通すだけの自立性と精神が健全に育てられた結果であろう。これで良いのだ。父子とはそうしたものだ。母は一貫して息子を応援し続けた。素晴らしい。彼女が日常の何をするにも歌を唄っていた。これが後の大傑作ミュージカルへと繋がることも納得した(笑。
当然、あの時代を生きた少年の一人として戦争の地獄は経験し(特にナントの空爆)、暴力を憎むこころは本人の謂うように根深く巣食ったにせよ、段ボールから切り出して一心不乱に作るバレリーナや指揮者や舞台は、確固たる幾何学を少年の精神に齎したと思う。
宝物のような「少年期」である。

少年から突然、深く皺の刻まれた夫の顔のアップに繋がるシーンが何やらとても印象的であった、、、。
、、、浜辺で終わる。


この映画には、何とも言えない憧れを感じる。



AmazonPrimeで是非、、、。







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毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト

DIANE ARBUS006

FUR-AN IMAGINARY PORTRAIT OF DIANE ARBUS
2006年
アメリカ

スティーヴン・シャインバーグ監督
エリン・クレシダ・ウィルソン脚本
パトリシア・ボズワース原作
カーター・バーウェル音楽


ニコール・キッドマン、、、ダイアン・アーバス
ロバート・ダウニー.Jr、、、ライオネル(多毛症の男)
タイ・バーレル、、、アーラン・アーバス(ダイアンの夫、ファッション写真家)


学生時代、一時期ダイアン・アーバスの写真に拘って見ていたことがあった。
双子を幾つも撮ったり、フリークスを撮っていた。
わたし的には尖ったロックミュージシャンと同等の存在であった。
パティ・スミスみたいな。
好きな写真家の一人である。

Diane Arbus002


キャンプビーナスという施設は何であるのか。
皆、ヌードで暮らしている。
彼女は、写真家として訪れたのか。この映画では彼女はほとんど写真を撮っている様子はない。

この冒頭から、ここに至るまでの彼女の感覚的、感性的な世界の軌跡を密やかに綴ってゆく映画だ。
アーバスの伝記ではなく、彼女に対するオマージュが描かれる。まさに、、、。

そうだろうと思う。これはどう見てもフィクションであり彼女の趣向からディープにイメージした世界だ。
彼女の住むアパートの構造がちょっとホラー的でもある。
配色、色構成がよく練られており、家具や小物に至るまで計算された統一感がありセンスを感じるが、結構、怖さもある。
配水管が詰まり、その原因が大量の人毛であったり、、、その訳は後に分かるが。

DIANE ARBUS007

裕福なユダヤ系の家に生まれ父は毛皮専門の業者を営む。
若くして結婚したファッション写真家である夫の助手をしていた彼女であったが、、、娘も2人いる。
着る服も窮屈で地味、清楚で控え目と謂うより抑圧されて自分の個性も能力も発揮できない生活を送っていた。
夫はそれなりに優しいが、娘は母を突き放した目で見ている。
そこへある日、上の階に引っ越してきた異形の男にアーバスは無性に惹かれる。

彼に会う口実に、夫から勧められていた写真を撮ってみると謂い自分のカメラを掲げて出掛ける。
隣人の写真を撮ることにした、と。
彼女にとってこの時点で冒険の始まりである。このアパートは明らかにそうした構造をもっていた。
上の階の多毛症の男は謎に包まれ神秘的でありアーバスの琴線に触れる存在であった。

ただ彼女は実際には、ほとんどシャッターなど押していない。
とは言え、娘たちが彼女が花瓶に隠していた大量のフィルムを黙って父に渡してしまうところがある。
押収したフィルムを現像すると人は全く写っておらず、ドアとか壁などであった。

DIANE ARBUS008

どうもこの家は彼女にとり居心地が悪いことがひしひしと伝わって来る。
両親とは、思想・信条と謂うより前に気質的に合わない、その印象が強い。
夫と娘2人対妻(母)であるアーバスという関係になっていて、彼女は変わりモノ扱いをされている。
そのなかで、なるべく事を起こさぬように自ら小さくなって主婦業と夫の手伝いをしてきた。
流れや内容を象徴的な絵で示唆するシーンが見受けられる。
この手法に拘る監督だ。音楽との絡みも良い。

DIANE ARBUS010

しかし異形のモノとの関りを通し、彼女のこころは解放に向かう。
解放されてゆくに従いアーバスの表情や化粧、ファッションも華やかになってゆく。不眠も治って行く。
家庭の役目~子育てなどは、御座なりになり、外にばかり出てゆくようになるが彼女に歯止めは効かない。
多毛症の彼が肺が悪く余命幾許もないことを知り、一緒に海に出掛ける。
ここでの別れの情景は美しい。
彼は独り沖に向って泳いで逝き、波の間に姿を消した。
波打ち際での別れである。ここは映画史に残る美しい喪失かも知れない。
(その前のライオネルの全身の毛を剃るところは今一つ生理的について行けなかったが、中からロバート.ダウニー.Jrが出てきたところはお伽噺みたいであった)。

異形のモノとフェティシズム
これに触れ深く関わることで、自身を見出してゆく。
覚醒して行くのだろうが、、、

DIANE ARBUS009

しかし実際の彼女はフリークスの写真を撮って、世間から注目を浴びるにつれ精神に変調を起こし、とてもキツイ状態に陥って行く。
40代で結局バスタブで自殺することになる。
単に解放されていったという訳ではない。

映画では、遂にヌーディストたちの施設で自らも裸になって人々に接していたが、、、。

Diane Arbus004

アーバスが写真を撮って行く実際の制作現場の様子などが全くないというのも面白い切り取り方だと思う。
敢えてそういうシーンは外したことは分かるが。
わたしは、撮っている姿もあってよいとは思うが、、、。
実際のアーバスのものとそっくりのカメラである。
これは使った方が良いのでは。


ニコール・キッドマンが大変美しかった。他のニコールの映画よりも更に清楚で凛々しい。
ロバート・ダウニー.Jrの目の演技も際立っていた。








レニ

Leni Riefenstahl008

Leni Riefenstahl
1993年
ドイツ

レイ・ミュラー監督・脚本
ウルリッヒ・バースゼンゲ、ヴォルフガング・ノイマン音楽


レニ・リーフェンシュタールのドキュメンタリーが見られるなんて、、、びっくり!

AmazonPrime有難い。

Leni Riefenstahl007

裕福な家に生まれ幼い頃から習い事を片っ端やっていたそうな。
そのなかで舞踏に関して特に優れた才能を示し、ドイツ舞踏界を代表する舞踏家と目されるまでになるが、膝を痛めてしまう。
病院に通う途上の駅に貼られた山岳映画のポスターに釘付けになり、通院をすっぽかし映画を観てすっかりその世界の虜となる。
直後にその監督に会いに行き、結局アルピニストと主演女優の両方になってしまう。女性初の登山家か?凄い勢いで素足で険しい岸壁を登って行く彼女の姿には圧倒された。同時にマレーネ・ディートリヒと肩を並べる勢いのある女優としても注目を浴びる。
更にカメラの動きに興味を持ち、自分の主人公の映画を自分が撮りたくなり監督も始め頭角を現す。
監督業が一番彼女のやりたいことであったようで、その撮影技術への拘りは凄い。
いま在る標準の撮り方の多くをハードを含め開発し先駆的にやってしまっている。

たまたまヒトラーの演説を聞くと直ぐに手紙を出し(このフットワークの良さ、というより思ったら自然に飛んでしまっており)会ってたちまち彼にも気にいられニュルンベルク党大会の映画『信念の勝利』を監督し、1937年のパリ国際博覧会で金メダルを獲得してしまう。
国際オリンピック委員会からオットー・マイヤーの依頼を受けて撮影したベルリンオリンピック記録映画『オリンピア』では、ヴェネツィア映画祭最高賞(ムッソリーニ杯)を受賞する。日本では『民族の祭典』および『美の祭典』として2部作で発表される。

Leni Riefenstahl005

驚くのは、ドキュメンタリー映画であるのに、光の当て方を変えて撮り直すところもあり音楽にピッタリ合わせて編集する独自の手法である。美と芸術性の追求に重きを置いていることが分かる。映像の全てを自分の美意識で作り変えようとしているのだ。
単純に肉体の見事にダイナミックな捉え方から美や力への礼賛としてナチズムに引き付けた批判があるが、寧ろこの編集法にこそそうした感性は感じられる。
彼女は、この映画の中で単なるルポとは異なるドキュメンタリーだと何度か述べている。
つまり競技者の内面世界、感情までも浮き彫りにしてこそのドキュメンタリーということなのか。
あくまでもそれは彼女の捉え方ではあるが、見事な演出であることは間違いない。
レニはディートリヒと自分を比べて、彼女は上からのライトで凹凸を強調して顔を細く見せるが、わたしは正面から柔らかいライトをあてればよいとか言っているところがある。何と言うかナルシスティックな所も目立つ。何を撮るにも自分を美しく撮るのと同様に撮りたいという願望が窺える。視覚効果における才能は溢れんばかりにあることは分かるが、この自己肯定感も凄まじく高い。

Leni Riefenstahl006

あらゆる焦点距離のレンズを駆使して撮ることをはじめ、超望遠レンズをアグファ社に特注して作らせたものがここで非常に威力を発揮する(久しぶりにアグファ社の名を聞く。わたしが初めて使ったスキャナがアグファ・ゲヴァルトのものであった。Macとの相性が良く付属ユーティリティの使い勝手が素晴らしかった)。このレンズでダイナミックな接写が要所要所で決まることとなる。
更に地面~フィールドに溝を掘りそこから跳躍系の選手の宙に舞う姿を大空を背景に下から撮る。これも美とダイナミズムの調和が見事に捉えられ成功を収めた。そして圧巻はエレベーターである。カメラをエレベーターに幾つも備え付け、それで俯瞰の度合いの違う上空から捉えた会場の広大さと群像を描き、一人のヒトラーとの対比も際立たせる。気球にカメラを付けて飛ばしたものは、全て画面がブレて失敗に終わったという(笑。

飛び込みなどの水の競技においては、3つの高さのそれぞれ機能の異なるカメラを備え、高いところで選手が宙に舞う躍動を捉え、そして垂直落下を横から捉えるカメラ、そして着水時を撮る水面に平行なカメラは潜水後は防水カメラとして岸に上がるまでの選手の挙動を追う。それらの映像を細やかに編集してドラマチックな演出が可能となる。音楽と共に。

Leni Riefenstahl001

日暮れの光量の足りない状況で撮られた競技については、明るい時間帯にその競技の選手を集めて映画の為の撮り直しを行った。これは当時の撮影機器の性能の限界からくる要請として彼女は自然に行ったことであったが、これも後にナチズムと絡めて批判の対象とされる。しかしこれらの新規の撮影方法によりある意味後に大きな影響を与える、完璧なドキュメンタリーが生まれたとも謂える。
芸術的に観て、圧倒的にビビットな映像が生まれているのならその普遍的価値は大きい。
同時代撮られたドキュメンタリーがほとんど消え失せているなか、彼女の作品はナチスとの関係で酷評に晒されつつも常に高い評価と称賛を受け取っている。

彼女は山岳映画の監督の下で主演した映画では、雪の山岳地帯での過酷な演技をしながら、演技に留まらず映画の手法も自らが監督になった目で学んでいった。特にカメラによる撮影方法である。
その後、ドラマ作りの巨匠監督とも組み、山~自然の撮り方に加え人間ドラマの撮り方も学ぶ。
様々な角度のショットを集め、編集して世界~生きた物語を作る基本を作り上げる。

彼女が最初に撮った主演・監督映画の「青の光」(Das blaue Licht)は、彼女が幼少時にメルヘンに凝っていたことも影響するか、リアリズムとファンタジーの融合した映画に思える。ヴェネツィア国際映画祭でいきなり銀メダルを獲得している。
ここでも彼女はアグファの特別開発のフィルムを使い(夜の)表現の幅を広げている。
実験精神も旺盛で、絶えず光との関係でどのような光景を作るかに試行錯誤を続けていた。
そして編集に大変な労力を費やしている。このドキュメンタリーからも彼女が最も力を入れているのが編集だと分かる。
ここは全く他人には任せず、徹底的に納得のいくまで仕事を続けている様子がしっかり窺えた。

Leni Riefenstahl004

その過程で彼女の美意識に触れてこない部分が切り落とされることも充分推測がつく。
日本でお馴染みの「前畑頑張れ」の女子200m平泳ぎは、マスターの段階から切り捨てられ、オリジナルにも無いという状況になる。
日本でこのベルリン・オリンピックのビデオがご披露される段階で、その部分が付け加えられたということ。
つまり「前畑、、、」のあるversionは日本版だけということか。

彼女にとり、黒人や黄色人種、男女は問わぬが、純粋に自分が美しいと思った対象に拘りをもって映像を作ることが自然な制作なのだ。
ヒトラーと絡めて批判に晒される余地はこじつけも含め少なからず生じてしまう。彼女は、全く政治に関心はなく、ただあの時代にあの場所に生きていたことが不運でもあったと述懐している。
ドイツを愛していた為、そこを離れる気も無く、そこで映画製作(途轍もなく費用とスタッフを必要とする仕事)を行うには、時の権力者の力を借りる必要はあった。
彼女は170人以上のスタッフを抱え、一人一人に能力に合った仕事を考え指示し、400㎞のフィルムの編集を一人で行っていた。
ヒトラーは、彼女の才能を極めて高くかっており、ゲッペルスに撮影妨害を何度もされ酷い目にも遭うが、ヒトラーにその件を訴えると何の妨害工作もなくなり自由に撮影が出来たという。

しかし、ナチス党にも所属せず、反ユダヤでも、優生学的思想ももっていない彼女は戦争に利用されない映画「低地」をチロルに居を移して撮り始める。しかし当局からは戦争にもナチズムにも関与しない活動として、一切の協力は得られなくなり立場は悪くなる。
そして戦争が終結して暫く後に、この映画の編集が終わり完成を見ることとなった。ジャン・コクトーらから絶賛を浴びるが興行的には失敗に終わる。

戦後の裁判では「ナチス同調者だが、戦争犯罪への責任はない」という判決ではあったが、ひたすらヒトラーのお抱え映画監督、ナチズムの協力者として非難を浴び続け、映画製作などはそういった迫害から手が付けられる状況ではなかった。

Leni Riefenstahl002

1970年代になり、彼女はスーダンへの旅行で「ヌバ」族に出逢ったことで、その地に独りで10年ほど滞在し、「ヌバ」という写真集で写真家として再起する。この写真はわたしも鮮烈な印象を覚えたものだった。
写真においても、映画的な画面構成と動きを厳密におさえている。
この写真集はまさにセンセーショナルな話題を振りまいたが、またスーザン・ソンタグなどの哲学者から、かつてと同じような批判を受ける。美や力の礼賛というところで。これを言われては、もう何も作れない。彼女はありのままの圧倒的な野生の美を撮っただけなのである。

その後、71歳で歳を20誤魔化しスキューバダイビングの免許を取り、水中写真を撮り続ける。
この撮影がまた意欲的なものであり、美と発見に充ちた世界が展開することは間違いない。
ホルストという実質伴侶を得て、共に精力的に海中の世界の驚異を撮り、90歳を過ぎて最後の映画作品の膨大な編集作業を続けている、、、。
ドキュメンタリー映画では、この辺までである。

とてもチャーミングで自分の世界の追及に途轍もない力を発揮するひとであるが、それに全精力を傾けてしまう為に世の流れには無頓着になってしまう。これは大変危険なことで、誰かが近くでその辺のコントロールをする必要があったと思われる。だが、人の話を聞くような女性には到底見えない(笑。
だから健康でいつも快活で長生きも出来る。
本当に見習いたい人である。
(自己肯定が強く自分に忠実である人は、必ず自分ならではの才能を遺憾なく発揮できる)。

Leni Riefenstahl003

「美の祭典」、「民族の祭典」は勿論、「ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海」は絶対観ないと。

「ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海」の評判はすこぶる良い。







サラは走る

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Sarah préfère la course
2013年
カナダ

クロエ・ロビショウ監督・脚本


ソフィー・デスマレー、、、サラ(大学の中距離走選手)
ジーン・セバスティン・クーチェスン、、、アントワーヌ
エレーヌ・フローラン、、、ゾーイ(親友の選手)
ミッチェライン・ラントット、、、サラの母


AmazonPrimeならではの作品。ここでなければ見つけることはまずない。
素敵な小品。

サラの目力が際立つ。
走る。
したいことは、これだけ。
シンプルで分かり易い。

映画は、スポコンでも何でもない。
邦画だとこの題材で行けば漏れなく涙あり笑いありのスポコンとなるか、、、根性とかいってウザいやつ。
このヒロインは、感情を表に出さず、暗めで重い。
だが陸上選手は、これくらいの方が向いている気がする。
冷静沈着な集中の上手そうな娘。
淡々と走りトップに出てゴールする。
有望なアスリート。

ケベック・シティに住むヒロインがモントリオールにある大学の陸上特別プログラムに招待されるところから始まる。
母は今一つ乗り気でないが、サラにとっては絶好のチャンスでありこころは決まっている。フランス語圏から英語圏への移動。
このサラという寡黙な少女、家に金がタンマリあれば何の問題もないが、実家の経済的余裕がない為、大学学費とアパート費用の捻出のため、バイト先の男性アントワーヌも仕事探しにモントリオールに出るつもりであったことから、彼とルームシェアすることに。
この件を娘の方から持ち掛ける。思いの他、目的の為なら積極性を発揮することが分かる。
そして車でモントリオールに向かう途上、彼から補助金を狙って偽装結婚の提案を出される。
この提案を聞いてから、サラが途中で胸を押さえて苦しそうにしていたのが気になった。
恐らくアントワーヌとの偽装結婚に対する精神的葛藤~ストレスが原因かと思われる。

結局、彼女はそれを承諾する。彼女にとり全ては走るためだ。その為の手段は択ばない、というより選ぶ余裕がない。
バイトが走る事に悪影響を及ぼすと考えたのだろう(大学に入ってから他の娘から割の良いバイト情報を収集し、ルームシェアしてくれる友達もそこで作ってはダメなのか、、、)。
ともかく彼女は、基本的に走る事だけしか頭にない(オリンピックで金を取るためとか、エグイことも言わない)。
潔い。愛していないとはっきり言える男とのルームシェアは問題ないものか、、、。

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アントワーヌとのルームシェアを始めてから、親友となった選手のゾーイの家に行く。
見た感じ、こちらの方がサラにとり、しっくりゆくような安らぎ、落ち着きを感じる。
2人で寛いでベッドに寝そべっている姿が印象的。
その後、「カラオケ」パーティーに呼ばれてアントワーヌを伴ってゆく。
そこでゾーイの歌を聴きながら、また胸が痛くなり苦しむ。
どうやら、サラはこころの内奥に葛藤が生じるたびに心臓が痛くなるみたいだ。
(ストレスが心臓に来る)。
彼女にとり、アントワーヌとゾーイは特別にこころを深い所から揺さぶる何かであることは分かる。

病院では異常は認められず、更に精密検査を他の病院で受けるよう忠告される。
アントワーヌと本当に結ばれるような流れに一時なるも、それが上手くいかなかったことで完全に壁が出来る。
彼はサラのことを好きであり始めから本当に彼女と結婚するつもりで策を持ち掛けたのは分かるが、彼女はアントワーヌとは合わないことを身体的に決定的に気づいてしまう。
(彼女は、自分の率直な思いを一旦抑圧してしまうタイプなのかも知れない)。
完全に腑抜けみたいになっているサラを見てアントワーヌも決意する。
アントワーヌの方から離婚を申し出て、彼は故郷にまた戻って行く。

次の病院で48時間装着するように言われた心電計の電極を貼り付けてサラは走りに行くが、ジョーイに逢ってから電極を剥がし心電計もろともバッグにしまってしまう。
何と言うかここまでの流れで判断すると、彼女にとってアントワーヌは生理的~身体的に合わず一緒に暮らすのは無理な存在であったが、ゾーイはその点において自然に惹かれ心地よくなる存在のようだ。
幾つかの場面で、彼女はゾーイの仕草をじっと見て真似たりしている。口紅もひとつ失敬して試している。
これはある意味、彼女との同一化を図っていると謂って良い。

この映画は走る事より、寧ろ心臓の痛み~身体の悲鳴により共に過ごす相手を知ることを描いているようであった。
(心臓から自分の真意を確認する。こういったパタンは自分の感情を抑圧してしまうヒトに多いと思う)。
ゾーイと一緒に住み共に走れば、心臓の痛みはもう起きないのではないか。
きっと健康的で清々しい競技生活が送れるはず。
金策は別にする必要はあるにせよ。

但し最後の音楽は前途洋々とも受け取りにくいものであった。
走りながら少しまた胸を押さえていたのが気になる。


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目の強い女優で、他の作品でも観てみたい。






転校生 -さよなら あなた-

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1982年


大林宣彦 監督
山中恒『おれがあいつであいつがおれで』原作
山下康介、學草太郎 音楽

蓮佛美沙子、、、斉藤一美
森田直幸、、、斉藤一夫
清水美砂、、、斉藤直子
厚木拓郎、、、山本弘
寺島咲、、、吉野アケミ
石田ひかり、、、大野光子
田口トモロヲ、、、斉藤孝造
窪塚俊介、、、斉藤孝一
関戸優希、、、金子正枝
高木古都、、、佐久井由香
犬塚弘、、、斉藤孝之助
古手川祐子、、、斉藤千恵
長門裕之、、、今田正助


わたしは、元の作品は観ていない。これは監督のセルフリメイクであり、尾道から長野(信州)に舞台は移っている。
男女の入れ替わりは、未だに「君の名は。」の印象が強い。
それに加え、アイデンティティにおける身体性の問題にもスポットが当てられ、、、
他者について考えれば死も必然的に俎板に乗せられることになろう。
荒唐無稽でコミカルな場面は多いが展開が早くその速度感で惹き込まれてゆく。

入れ替わりの居心地悪さを生理的に感じさせる意味でも斜めアングルを使っているのか。
違う身体に成ってしまうことの眩暈。
これは、異和の中でその相手の生活環境から身体そのものを全て感じ、知ることとなる。
これほどの受容体験は、まずない。
ぎこちなく2人が互いに入れ替わってゆくというだけでは済まない、真の意味のひとつに成る体験とも謂えるか。
実際、これほどお互いに理解が深まることはないのでは。
(こんな関係性はあり得ないとは言え、興味深い)。

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女性の身体に男のこころ側の個体に死が宿る。他のからだに芽生えた病によって自分が死んでゆくとは。
死は不可避とは言え、余りに若く早い訪れである。しかも相手の身体の滅びにより自分という意識も無くなるということ。
この死への恐怖と不安こそ、他者の中での自分~アイデンティティの消滅の危機を際立たせる。
実際、文字通りの死が無くても、アイデンティティの喪失の不安と眩暈が深まるはず。

歌が自然に生まれてそれを弾き語りするが、その歌のスコアは彼女の身体~持ち前の想像癖から生じ、男のテクニックがピアノで奏でる~具現化する。
ピアノが弾ける男が彼女の身体で弾いていたのが、ピアノの指使いの身体感覚を彼女が覚え~取り込んでしまう。
彼女も指が同様に動くのだ。男のこころに関係なく。
身体というものが示唆されている。
ここに及んでアイデンティティとは何であるか。

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蓮佛美沙子という女優、この時の年齢も大きいはずだが、アンドロギュヌス(両性具有)的な魅力で、荒唐無稽な事態を極めて自然な流れの内に見せてくれた。
女優選びが見事に成功している。
下着だけで歩き回ったりヌードもあるが、男がこころとなっていてガサツな分、エロティシズムはない。
この辺、スポーツものにも近い感覚だ。
しかし女性の自分の身体に戻った時の美しさはその分、際立っていた。
身体の在り様とは、こうしたもの、、、。

死と生が鮮烈になってゆく。

「さびしらの水場」でふたりして美味しい水を飲もうとしてその池に落ちて入れ替わる。
この特異な儀式を経ることで入れ替わったということは、当然同じことをすれば元に戻るという気はする。
それをなかなかせず、、元に戻ることより、相手になってしまったことで、上手くその環境でらしくやり過ごすことに力を入れてゆく。
これは彼らがそこに何らかの価値を見出してもいるからだ。無意識にせよ。
そして「自分は自分として死ぬ」というこころの準備が出来たところで、自然な流れでまた水場で落っこちる。

こういう儀式~装置があれば、日常がよりビビットに急展開する例としてとても面白いものであった。
ちょっと荒唐無稽で懐かしく秘密めいた近場にそんな契機があるのかも知れない。

また息子と母との気色悪い関係性も垣間見られたが、「さびしんぼう」ほど気にはならなかった。

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主演女優が良かった。







さびしんぼう

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1985年


大林宣彦 監督・脚本
剣持亘、内藤忠司 脚本

富田靖子、、、さびしんぼう、橘百合子
尾美としのり、、、井上ヒロキ
藤田弓子、、、井上タツ子(母)
小林稔侍、、、井上道了(父)
岸部一徳、、、吉田徹(理科の教員)
秋川リサ、、、大村カズコ(英語の教員)
浦辺粂子、、、井上フキ(祖母)


わたしは、これは初めて観た。
時をかける少女」は何度も観るくらい好きな映画であったが、、、。
「さびしんぼう」とは、大林監督の造語で大切にしていたことばだそうだ。

人に恋すると淋しくなる、、、ショパンの別れの曲、、、これはズルい。
お寺の息子というのもなかなか粋な設定である。
清楚で凛とした富田靖子の佇まいも素敵で、惹き込まれると同時に、さびしんぼうというオーバーオールの少女が現れ、これは何を示唆するイメージだろうと思っていると、何とヒロキ以外の人にも見える現実の存在なのだ、、、よく分からないこの子の存在にちょっと居心地が悪くなる。ヒロキにしか見えない内面のイメージならまだ分かるが。
他にも色々と登場人物に神経に障る者がいて、ストーリーにしんみり浸り難い映画だなあとおもいつつ観てゆくが、、、

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終盤に判明する、母が昔好きだった人の名前~ヒロキを息子につけた。
勉強が出来てピアノが上手なその好きだった人のようにしたいがために息子に勉強とピアノ~ショパンをやらせようとしたようだ。
そして大掃除の時にアルバムから零れ落ちた母の16の頃~さびしんぼうの写真を見て、お母さんもこの頃、可愛かったんだね~
(母の17の時の写真も飛ばしてみようかと思った、、、だと?)。

これ程、気色悪い虫唾が走る関係性はない。間違いなく精神を病んで発狂している。
これに、いい噺だなあ~青春だな~母子愛だな~などと感動していられる神経と感覚は、全く信じられないものだ!
同じ地球人とは思えない。
言語道断!
受け付けない!

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ヒロキはカメラのファインダー越しに彼女を眺める。
彼女(のイメージ)が自分の内面で熟成してゆく。
生身の彼女は当然、異なる存在~他者である。
彼がいつも見ていたピアノを弾いている横顔はヒロキのなかの彼女。
彼女は、ヒロキと別れる時に「私の顔のこちら側だけ見ていてください。反対の顔は見ないで」と伝える。
それ以外の(本当の)わたしには関わらないで。あなたの幻想のなかに完結してね。ということだ。
彼女は、それっきり別れることを決意していた。

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しかしヒロキは父に風呂で謂われた、好きになった人の全てを愛しなさい、を忘れなかった。
彼はファインダー越しに膨らんだ幻想を捨て、本当の生身の彼女に向き合ったのだろう。
それで夫婦になったのだ。おまけに娘がピアノでショパンの別れの曲を弾いているではないか。
(うちの娘にも早くショパン弾かせたい)。
ピアノの上には、ヒロキがかつてプレゼントしたピアノのオルゴールが置かれていた。

噺がうますぎるが、ここはよく分かる(共感可能な)流れだ。

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例の白塗りピエロのオーバーオールを着たさびしんぼうとは、何か?
やはりオカンの子供の時の思念がトリックスターのような形を得て出現したのか。
オカンがぶつとオカン自身が痛い。オカンそのものでもあるようだ。
このさびしんぼう、確かにトリックスター的なかき混ぜ方をしていたが、、、妙な方向性を持たせている。
(ホントのところ、何しに出て来たのか?物理法則を破って)。

16歳の時の写真から出現したため、明日誕生日を迎える自分は今夜消えなければならない。
雨の中(本体が写真であるため水に弱いのだが)、ヒロキの戻るのを石の階段で待ち、「ヒロキさん好き」って抱き着き消えてゆく。
ヒロキの精神は明らかに誘導される。
どうみても精神異常者の世界だ。
発狂した世界である。

この奇妙なオーバーオールのオカンの部分を完全カットして、ヒロキと百合子だけの繊細な恋の物語に閉じれば格調高い気持ちの良い映画になっていた。
どうしてもオーバーオールのピエロみたいな娘を出すのなら、ヒロキにしか見えない百合子のイメージで、彼の内奥の葛藤を表すものとすればよい。オカンの存在は全くいらない。オカン要素はぶった切って捨ててもらおう。
ミルクボーイだってそういうはず。
「オーバーオールのオカンは相当舐めたオカンで、そういうオカンに関わったらアカン言うとるねん」
(恐らく、、、(爆)。


ある意味、猛毒の振り撒かれたホラー映画であった。












HOUSE (ハウス)

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House
1977年

大林宣彦 監督
桂千穂 脚本
小林亜星、ミッキー吉野、ゴダイゴ 音楽

池上季実子、、オシャレ(木枯美雪)、オシャレの母
大場久美子、、、ファンタ
松原愛、、、ガリ
神保美喜、、、クンフー
佐藤美恵子、、、スウィート
田中エリ子、、、メロディー
尾崎紀世彦、、、東郷圭介先生
笹沢左保、、、オシャレの父(音楽家)
小林亜星、、、西瓜を売る農夫
鰐淵晴子、、、江馬涼子(オシャレの父の再婚相手)
南田洋子、、、羽臼香麗おばちゃま(母方の伯母)
三浦友和 、、、おばちゃまのフィアンセ


大林監督のデビュー作で噂には聞いていたが、初めて観た。
驚いた。全く文法が違う。
これまでに観たこともない類の映画である。夕焼けは、大林監督以外の誰のものでもない夕焼けであったが。
強いて言えば、アヴァンギャルドな作品となろうが、、、
大林監督の脳内イメージをそのまま見せられているような眩暈~感覚に囚われた。
CMを沢山撮って来たところからくる強烈なインパクトの映像が怒涛のように押し寄せて来る。
この独特なアーティフィシャルな絵柄は監督の生理に根差していることは察せられた。
映画の世界より、サイケデリックな漫画に寧ろ近いものを感じる。
とても明るいのだ。皆、惨殺されるのに陰湿さが微塵もない。
キャラもまた、不思議であり、意味不明なキャラもいた。

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この映画の映像~エフェクトを観て、現代のVFXで作ればなどという人はいないはず。
これはエフェクトを使って作っていようが、VFXではなく、そのものなのだ。
まさにこの世界~絵柄が欲しくて、その通りに構成したのだろう。
何かの表現ではない、そう想わせる強度がある。
ドリフでもやらない荒唐無稽なギャグ~シーンが普通のコンテクストに乗っかっている。
キッチュでプリミティブなイメージ~世界を秘密の箱庭にギュッと収めたという感じ。
(書割の多用からしても)。
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7人の侍ではなく7人の少女というところからして面白い。
池上季実子、松原愛という後の大女優も出ているが、神保美喜がスーパーファイターでカッコよく、ついつい応援してしまった(笑。
このクンフーだけが普通の子ではないので、生き残れるかと微かな期待はしたのだが、、、。
かなりハチャメチャななかでしっかりキャストの人となりはアニメ風に描かれていて感情移入も自然にできる。

コミカル・ダーク・ファンタジーの流れで、おばちゃまの家に少女たちが着いて、暫く和やかに過ごし、スイカを冷やした後から凄惨な殺戮が始まる。ポルターガイスト現象も起き、一体何が始まったのか、少女たちは不安と恐怖を募らせる。
そして、一人また一人と仲間がいなくなっていき、切断された頭部や腕などが見つかり奇怪極まりない凄惨な事態に慄く。

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何が起きているのかは把握しても、何が原因で何者がこういう残酷な行為をしているのかは、かなり後まで分からない。
オシャレまで相手に取り込まれ、ガリがおばちゃまの残した手紙などから、どうやらすでに亡くなっていたおばちゃまの怨念が若い娘を喰らって再びこの世に力を得て蘇り、大変なエネルギーに充ち溢れた存在と化しているようであった。
(このおばちゃまは、出征して帰らぬフィアンセをずっと待ち続けているのだった。死んで向うで出逢わなかったということか)。
7人の娘を喰らった手の付けられないパワーのおばちゃまは、姿はオシャレの身体になり、落ち着いた。
そこにオシャレの父の再婚相手である江馬涼子が訪ねて来る。

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今や霊的な威厳すら感じるオシャレは羽臼香麗である。
2人で相対し背筋を伸ばして廊下に座り、手を差し出し握手をすると江馬涼子は忽ち炎に包まれてしまう。
このHOUSEにやって来た全員が消えてしまった。
アメリカのホラーファンタジーなどであれば、大概オシャレとその親友のファンタあたりが最後まで生き残り、オシャレは助けに来てくれた父の再婚相手に心を開き、仲良く家に帰ってゆく、、、エンドロールであろう。


東郷圭介先生というのは何なのか、、、
全く意味のないノイズみたいなものか。
妙にコミカルなのだが、いてもいなくても全くどうでもよいキャラでもあった。
そしてヴァイオリニストの鰐淵晴子女史である。
最初と最後にしっかりとした役回りで出て来ているが、映像自体化粧品のCMそのものみたいではないか。
存在自体で説得力はあるが、終盤のシーンは何しに来たのかよく分からないものであった。
そうであっても、このおもちゃ箱にはすんなり入って収まってしまう。特に不自然という感覚もなく。
(ピアノがメロディーを喰うところなど現実的な再現性自体無視した荒唐無稽さであったが、それも納得して観ていたものだ)。


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凄い魔力のある清々しい映画であった。
続編は無理だが、リメイクを観てみたい気もする、、、無謀かも知れぬが。
ヨーロッパの監督にでも頼めないか?アニメを知る監督でないとリアルになってしまって詰まらなくなるが。

小林亜星は、かなりの尺で出ていたが、ゴダイゴや大林監督もヒッチコック風にちょっぴり出ていた。


しかし、この後から尾道三部作とは、、、感慨深い、、、神保美喜主演のアクション映画も撮っておいて欲しかった(笑。










テール しっぽのある美女

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THALE
2012年
ノルウェー

アレクサンデル・ノダース監督・脚本

シリェ・ライノモ、、、ターレ(尻尾をもった種族の美女)
アーレン・ネルヴォル、、、エルヴィス(犯罪現場の清掃夫)
ヨン・シーヴェ・スカルド、、、レオ(犯罪現場の清掃夫)


北欧に伝わる尻尾を持った妖精“フルドラ”伝説から作られたダークファンタジーか。
人類の他にもそれにとって替われる力を持つ種族が存在するという噺にもとれる。

犯罪現場の清掃夫でありながら、死体とか肉片を見ると直ぐにゲボゲボ吐いてしまうエルヴィス。
とてもニヒルで冷静に見えて、肺が悪く(肺癌で)やはりゲホゲホ咳込んで、遂に吐血までしてしまうレオ。
この名コンビで、森の山小屋で惨殺された老人の遺体回収に向かった。
その家の地下に別のしっかりした部屋を二人は見つける。
本や書類、研究の為の設備が完備された部屋に二人は驚く。
これを上司に連絡するが、そこに行くまでには時間がかかるとのこと。
二人はその場所で待つことになった。

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この貴重な発見現場を現状維持する為、レオは何度もエルヴィスに何にも手を触れるなと忠告する。
しかしこのエルヴィス、直ぐに吐くわりに、何にでも素手で触れまくる。
好奇心が強いのか、規範意識が乏しいのか、何にも考えていないのか、、、。
ともかく面白い北欧の兄ちゃんであることは違いない。

カセットレコーダーとSonyのテープを見つけると早速、巻き戻しては再生する。
そんなことをしているうちに、白濁タイプの入浴剤で満たされたようなバスタブから、プハーッと特殊ゴーグル付けた美女が飛び出した。二人は呆気にとられる。
美女はケーブルが色々とついた尋常でないバスタブから出て、苦しそうに全裸の為か寒そうにもしている。
すると突然エルヴィスを後ろから首を絞め、二人に対し警戒する。
レオは落ち着かせ、彼女に服を渡す。
彼女は落ち着き、エルヴィスはカセットテープから彼女と惨殺された博士のやり取りを幾つも聞き取り彼女についての情報を得てゆく。
彼女がスッと消えたと思うとベッドの下におり、エルヴィスは彼女と並んで床に寝ころび、彼女の手に触れた瞬間、電撃的に彼女のこれまでの生きて来た光景を生々しく脳裏に浮かべることが出来た。

どうやら彼女は赤ん坊の時、捨てられていたのを博士に拾われ、彼に大きくなるまで極秘に育てられたのだ。
何故、秘密に育て二人だけで過ごしてきたのかというと、彼女は人類ではなかったから、そして彼女目当てに襲い掛かって来る彼女の種から彼女を守るためであった。
博士はとても大事に彼女を育てて来たのだが、、、
成長につれ非常に強い力が制御できなくなって来た為、博士は彼女の尻尾を切り落としてそれを冷蔵庫にしまった。
また人とは代謝機能が異なる為、特殊なバスタブで長時間入浴をするルーチンになっていた。
この入浴で彼女は一見人類と見分けのつかぬ身体になっていたのか。彼女の名はターレという。

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外の森から、彼女のネイティブの同胞がたくさんこの山小屋にやって来て様子を窺っていた。
そんな時にこの小屋に突然乱入者が現れる。
これはレオが携帯で連絡した上司ではなく、ターレのお友達でもなかった。彼女は酷く怯えている。
誰かの元で独自に動いている特殊部隊のようであった。
ターレの素性も細かい情報をもっている連中のようで、彼女を捉えに来たらしい。
レオもエルヴィスもテロリストの捕虜みたいに頭に袋を被され縛られた。
だが、彼女を探しに行った正体不明の特殊部隊は例の地下室で彼女に皆殺しにされてしまう。
更に二人といた隊長も彼女の種族に殺される。
確かに戦闘力が凄い。人数で人類が繁栄したのか。この種族が今後、どのような動きに出るのか、、、。
森の妖精の位置に留まっていてくれれば、問題ないのだが。

ターレは今やフリーとなり、そこを出てゆく前に目隠しされたままのレオの目の前で、手を翳していた。
彼女は枯れた花を元の活き活きとした生花に戻す能力ももっていた。
彼女は、二人の前から完全に姿を消す。
森の高台から彼女は何体もの同士を確認し、彼らを追って明るい表情で歩き出す。
随分、骨格や肉付きが彼らとは異なるが、彼女は人に育てられたことでかなりの身体的変形もしてしまったように思われる(まるで美しい人の女性そのものなのだ。もう尻尾もないし)。

レオは、病院の検査から戻り、主治医から癌が消えていると聞かされたことを相棒のエルヴィスに伝える。


説明はほとんどなく謎の残る不思議なファンタジーであったが、北欧のロケーションの元、淡々とした静かな雰囲気は素敵であった。







フルートの想い出

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今日は、ジェスロタル、ムーディーブルース、フォーカスのフルートの入った曲をウェブ上で拾ったMVでご紹介。
ブロ友の”ST Rocker”さんとたまたま話題に出たフルートの入ってくるロックグループである。
本当はしっかり原曲を聴いて選びたかったのだが、全てソースは、LP版であり今現在ターンテーブルの針がちょっと不安な状態なので、レコードを探し出してもかけられない(かけたくない)。その為、ユーチューブなどで当たってみるが、これだ!というものがない。
しかもほとんど曲について記憶が定かではない、、、これはもう無理もないが。

フルートの入るグループは思いの他多いものだが、これらは1960年代~70年代に活躍したロックグループで、、、明らかにムーディーブルースは、60年代(笑。こんな風なMVがよくテレビに映っていたもの、、、懐かしい。これと同様の撮り方のプロコルハルムの「青い影」があったものだ、、、。
フォーカスは70年代初頭のものと思われ、ジェスロタルのこのライブに関しては2015のものだという。イアン・アンダーソンもおじいちゃんでまだまだ頑張っている(ずっと昔「ロックンロールには歳だけど死ぬにはまだ早すぎる」というアルバムをかなり元気なころに出していたが)。その世界を実際に演じている。たいしたものだ。


Jethro Tull001 Jethro Tull



このジェスロタルほど、全面的にフルートのフューチャーされたグループはないのでは。
ライブビデオで見るイアン・アンダーソンのフルートの吹き方はカッコよかった。
絶妙なアンサンブルでハッとさせられることも多かった。
トータルアルバム制作が得意でとても文学的で哲学的な世界が覗かれる。
アルバムAB面で一曲の緊張感溢れる大作が魅力的。
「ジェラルドの穢れなき世界」(天才少年詩人の詩を元にしたもの)や「パッションプレイ」(受難と情熱を併せ持つ世界観)など特に。
とても懐かしくなった。ターンテーブルが大丈夫ならレコードを取り出して来てかけてみたい、、、。
(昔、よく耳コピして真似して吹いてみたものだ、、、今はとても出来ない)。

この頃よくあった、クラシックやジャズの要素を取って付けたようなサウンドではなく、それを血肉として取り込み昇華した、洗練されたサウンドであった。
ライブはアグレッシブに、アルバム(スタジオ制作)は、極めて緻密に構築された音楽になっていた。


Moody Blues1967 Moody Blues



ムーディーブルースも全アルバムがコンセプトアルバムの形で統一されており、そのファーストアルバムの完成度には度肝を抜かれた。1967年。オーケストラアレンジが最も上手く融合した例の一つに数えられよう。
彼らのアルバムは、どれも独立した曲が絶妙に繋がっていて全体でひとつの組曲のように構成されている。
アルバムごとにテーマがはっきりとあり、その世界観の説得力も確かなものであった。
これは、晦渋な音ではなく優しく美しい旋律を基本に置いていることが大きい。
無駄な音が一音もないところが凄い。

中国で100年ぶりに洋楽が流された時、選ばれたアルバムが確か彼らのサード・アルバム”On The Threshold Of A Dream”であったはず。中国国民はこぞって「革命的だ!」と称賛したらしい。
彼らはどのアルバムも傑作揃いで、出すアルバムの帯にいつも最高傑作と書かれていた。他にはプロコルハルムがそうであったが、、、。

レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジが唯一のプログレッシブ・バンドとして彼らを評価していた。
特にキーボード~メロトロン奏者のマイク・ペンダーを気に入り、必死に自分のバンドに引き抜こうとしていた(笑。
マイクはメロトロンについては第一人者だが、ボーカルも天から降りてくるような荘厳な気分にさせられる有難い声である。
顔も聖ペテロみたいな顔をしてるし、、、見た目はそうだが、ツアーのライブやりたくないとか、結構我儘を言ってメンバーを困らせていたという噺もある、、、その点でもペテロっぽいか(笑。

彼らは全員がコンポーザーで、自分の作曲した曲のボーカルをとる。ボーカルが皆、個性的で上手い。
レイ・トーマスのフルートについてはこの曲よりずっと良いチューンが沢山あるが、取り敢えず単品で見つけたのがこのファーストからのカットであった。
彼は2018年に他界。この時期活躍していたわたしのヒーローは、もうかなり亡くなってしまっている(残。


focus1974.jpg Focus



オランダのフォーカスは、タイス・ファン・レール(キーボード、フルート)とヤン・アッカーマン(ギター)を中心としたインストロメンタルバンドである。恐らくオランダ出身で世界的に最も成功したバンドではないか。
(わたしはジョイ・ディヴィジョンのDNAを汲む「メカノ」が一番であるが)。

タイス・ファン・レールは人によっては、フルートやキーボードよりボーカリゼーション(ヨーデル)のインパクトが大きいかも知れない。
はじめて聴く人はそのパフォーマンスに、決まって呆気にとられる。
そして病みつきになる。彼らの人気の重要な要素の一つだ(笑。
ギターのヤン・アッカーマンはエリック・クラプトンを人気投票で抜いたことがあるテクニシャンである。

悪魔的な”Hocus Pocus”が余りに有名だが、他に「シルヴィア」が大ヒットを記録し、ポップな面もアピールしていた。
どちらかというと牧歌的で寓話的な雰囲気もかなり醸したバンドなのだが、、、。
わたしは、彼らの抒情的で伸びやかな美しい曲が特にお気に入りであった。
もう随分聞いていないが「フォーカス2」や「フォーカス3」とか~これはギターとキーボード(オルガン)の絡みが甘やかで心地良い~そして「ハンバーガーコンチェルト」ではそれに加えフルートの旋律もボーカリゼーションもとても美しく溶け込んでいる。
このチューンが、ちょっとYouTubeのライブでこれといったものが探せなかった。
出来ればCDかLPで聴いてもらいたい。輸入盤などであるかどうか、、、。



ニーナ ローマの夏休み

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NINA
2012年
イタリア

エリザ・フクサス監督・脚本
ヴァリア・サンテッラ脚本

ディアーヌ・フレリ、、、ニーナ(学生)
ルカ・マリネッリ、、、 ファブリツィオ(チェロ奏者、恋人?)
ルイジ・カターニ、、、エットーレ(少年)
アンドレア・ボスカ、、、パオロ
エルネスト・マイエ、、、デ・ルーカ教授
マリナ・ロッコ、、、マータ・アダミ(ニーナの声楽の生徒)
犬、、、オメロ


これもAmazonPrimeが無ければ絶対に観ない。
ニーナは夏休み中、ローマに残り、声楽の先生のアルバイトをして、中国に行くための自分の勉強に励む。ようだ。

モーツァルト 歌劇『ドン・ジョヴァンニ』や『フィガロの結婚』が流れていた。
バッハもあった。平均律クラヴィーア曲集からと無伴奏チェロ組曲。
後は色々、、、であった。

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出掛ける友人宅の動物たちの世話も頼まれる。
犬とハムスター?と熱帯魚、、、
皆、バカンスに行ってしまって、余り人のいないローマの街がヒロインと共に眺められる。
「絵」はとても映画的に撮られていた。
ともかく「絵」を堪能するような映画であった。
構図・構成がよく練られており、よく流れるクラシック音楽が調和している。

和服を着ている教授のところでは、習字を習っていた。
「志」とか「愛」とか、、、。
何と言うか、素敵な環境~建造物に囲まれ、芸術に浸る毎日を送っており、贅沢である。
こういう基本、独りのバカンスも悪くないものだ。

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ゆったりと流れる時間のなかで、、、
エットーレという11歳の少年と親友になり、ファブリツィオという青年とロマンスが芽生える。
犬のオメロともいつも一緒に過ごす。
淡々としたやりとり。
白の主調が美しい。
しかし結構、暑そうだ。
夏である。
当然か。

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習字はあまり上手くない。
何で習字をやっているのか、、、
単なる漢字の練習とも思えないが。

ニーナは、毎日ランニングとストレッチにも励む。
時折、針治療もしているようだ。やはり東洋に興味・関心が深そうだ。
妙な仏像みたいなものも手に入れている。
しかし基本的にとても真面目な学生だ。
(ケーキは6人分のホールケーキを一人で食べてしまうが)。
ボーイッシュである。
一人なのによくドレスを着替える。お洒落な女性でもある。
このヒロインに絡む少年が実にオマセで、いっぱしな事をそれらしく語る。
段々それが普通の流れになって行く。

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非常にスタイリッシュな絵と音楽の絡みで魅せていた。
ヒロインも中性的な雰囲気でとても抽象性が高く、このアーティフィシャルな映画に合っている。
最後に、魅せる白い建造物に動物のモチーフの大きな折り紙が乗せられて行くところは、ハッとした。
これは、結構面白い監督に違いない。
エリザ・フクサス監督、かなり東洋~中国より寧ろ日本に興味があるのでは、、、。
(昨今、イタリアと中国の関係がかなり近いとは謂われてはいるが、、、)。
この次の映画では、盆栽が出て来そうな気がする(笑。


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AmazonPrimeでサクッと観ることをお勧め。








いぬやしき

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INUYASHIKI
2018年

佐藤信介 監督
橋本裕志 脚本
奥浩哉「いぬやしき」原作

木梨憲武、、、犬屋敷壱郎
佐藤健、、、獅子神皓
本郷奏多、、、安堂直行 (皓の親友)
二階堂ふみ、、、渡辺しおん (皓の恋人)
三吉彩花、、、犬屋敷麻理 (長女)
福崎那由他、、、犬屋敷剛史 (長男)
生瀬勝久、、、ミヤノ (TVアナウンサー)
濱田マリ、、、犬屋敷万理江 (妻)
斉藤由貴、、、獅子神優子 (皓の母)
伊勢谷友介、、、萩原刑事


「いぬやしき」は以前、第8巻までマンガで観ている。
しかし続きを買わずにそのまま時が過ぎてしまっていた。
ある程度の尺で連載されたものを一本の映画に落とし込むことは難しいと思う。
勿論、表現形式が異なるのだから、別の次元の作品である。
とは言え、ストーリー自体は原作に忠実に描くことは可能なものである。
ただし、何遍かに分けるのでない限り、ストーリー的にも何処かを大きく省略する必要はある。

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オチを知らないままで映画を観たのだが、確かに途中の幾つもの噺が大きく省略はされているにせよ、ひとつの映画としてのまとまりはあったと思う。
肝心なVFXはまずまず。動画ならではの効果もよく出ていた。
主役二人の身体の変形に関してはギョッとする生々しさがあって成功している。
空中戦も不慣れな犬屋敷とメカを自分のものとしている獅子神の差が出ていてスリリングで愉しめた。
主要人物の人となりも充分描かれていて入り易い。
三吉彩花と本郷奏多の存在感もかなりのものであった。
渡辺しおんを二階堂ふみが演じていることは、暫くの間気づかなかった。

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ともかく、人は機械に改造されるなどして、思わぬ能力を持ってしまうと、それを過剰に使って自己実現をしたくなることは分かる。
これは「透明人間」などの古典映画からしてみなそうだ。
人生の終焉を迎えようとしていた寄る辺なき孤独な初老の男と不遇と不条理に打ちのめされ鬱屈と憤りを溜めこんだ高校生が偶然ある時、異星人の事故に巻き込まれ機械に改造され翌朝、蘇る。だが、余計な機能(武器など)テンコ盛りにされての再生なのだ。
これは傍迷惑ではないか。普通の生活には戻れまい。
ひとつ、死にそうな生命を蘇らせる機能は、使いようでは有用であるが。こちらの方は映画では犬屋敷だけしか使わない(獅子神も母の膵臓癌は治すが)。

犬屋敷は誰からも疎まれる立場に甘んじていたが、人の難病を治すことで自尊心を取り戻し人生の再スタートに希望を持つ。
しかし獅子神は、自ら溜めこんだ社会への怨念を晴らす方向に進む。それは特定の恨みを抱く個人に向けてではなく、漠然と幸せそうな他者に向けたものとなる。幼い頃から獅子神に庇ってもらっていた親友でもある安堂も彼にはついて行けなくなる。
もはや無差別殺人犯なのだ。獅子神と同等の能力を持つ犬屋敷とのコンタクトに成功し彼に獅子神を止めてもらおうとする。

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犬屋敷壱郎と獅子神皓の対立となってしまったが、事の始まりは、獅子神が無関係な幸福そうな家族を惨殺してしまったことである。
これで後戻りが不可能となった。何故、こうした破滅的行為をとってしまったのか。もうこの時点で、運命は決まってしまう。
手当たり次第に周りの人間を殺戮して行く他に道はない。
獅子神も守るべき存在はいたのだが、その無慈悲な闘いの中で彼らを失ってゆく。たった一人の身内である癌を治した母もメディアやSNSに追い詰められ自殺する。
いつも高みの見物しながらSNS等で、他者~ターゲットに対して致命的な誹謗、中傷などの攻撃を面白半分で行っている輩が一斉に警察にマークされた獅子神に群がるが、メカの身体の彼にとっては端末など通さずに直ぐにその全文を読み、それらアカウント全てに向けモニタ越しに致命傷を与えることが出来る。携帯画面やパソコン画面、ネットに繋がるパネルを見ている者は皆、惨殺されるのだ。
ここはいい気味であるが、これによってどんどん彼は追い詰められる。虚無の淵に囚われてゆく、、、。

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犬屋敷壱郎と獅子神皓の闘い~決戦は避けられない。
ここに娘の麻理の命が絡む。
最終決戦は、かなりの熱量であった。
圧倒的に獅子神の方が優勢に闘いを進める中、娘が死なないか観ている方が心配であったが、火事場の馬鹿力か何とか犬屋敷はわが娘を助ける。ここは結構、ハラハラさせられた。
娘は馬鹿にしきっていた父親のあらぬ姿に唖然としつつ、手を差し伸べ「おようさん!」と何度も叫び縋ろうとする。

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結局、獅子神は娘を助けたい一心の犬屋敷に破壊されたのだが、現場には未知の金属片が残されていただけであり、獅子神を特定するものは無かったという。
犬屋敷家には日常が戻り、あれほどの重傷を負っていた麻理も父の能力ですっかり治っていた。
家族は相変わらずだが、父と娘の関係は変容したはず。

安堂の部屋に忽然と獅子神が現れ、安堂が戸惑いながらも新作ゲームを紹介しようとパソコンに向かっているほんの一瞬に彼は消えていた。
獅子神が蘇ったのかどうか、定かではない。
よいエンディングだと思う。


映画として原作を気にしなければ、よく出来ていると思う。










シンプル・フェイバー

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A SIMPLE FAVOR
2018年


ポール・フェイグ監督・製作
ジェシカ・シャーザー脚本
ダーシー・ベル『ささやかな頼み』原作

アナ・ケンドリック、、、ステファニー・スマザース(シングルマザー)
ブレイク・ライヴリー、、、エミリー・ネルソン又はホープ・マックランデン / フェイス・マックランデン (ファッション業界)
ヘンリー・ゴールディング、、、ショーン・タウンゼント=ネルソン(エミリーの夫、元作家、大学教授)
アンドリュー・ラネルズ、、、ダーレン
リンダ・カーデリーニ、、、ダイアナ・ハイランド(画家)
ジーン・スマート、、、マーガレット・マックランデン(ホープ / フェイスの母)
ルパート・フレンド、、、デニス


ステファニーは顔出し動画ブログを毎日欠かさずアップしている。
シングルマザー奮闘記といったブログか(テーマは料理と育児)。
こういう絞りだとコメントもし易く、訪問者やフォロワーも多い。
わたしのところも、訪問者数に関しては充分来ていただいているので、何か事があったらこの主人公のようにバンバン出しまくろうと思う。
これほど際どい情報が出せるかどうかはともかく。
きっと彼女のようなスリリングなクライムものなら皆わくわくであろう。警察の捜査にも影響しそうな。
わたしの方は今のところ~以前もあったが、アホが犬の糞を等間隔に家の前に三つ置いて去った事くらいで、殊更どうこう言う程の事件は無い。(だから相変わらず映画の感想から好き勝手なことを書いている(笑)。
とは言え、この件も役所と警察には連絡済みではある。その証拠のポスターを貰って塀とか門にくっつけてはいるが、、、デザインは実に冴えない。(目星はどうやらついているようだが(笑)。


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さて、この映画、コメディ調で結構面白いのだが、出て来る女が凄まじい。
行動力のある毒女ばかり、、、。嘘塗れで、強かで。
プラス旦那のショーンも人当たりはソフトで誠実そうだが、なかなかのもの。
しかし金が欲しいのなら別のところで頭と体力を使えば良いのでは、、、実際エミリーは、バリバリのキャリアウーマンではないか。
(美人でモデルとしてもやってゆけるようなゴージャスな人である。やはり深い闇を抱えていることは窺える)。
そして、すぐに思いつくのが保険金。
失踪して死んだと見せかけ自分と双子の妹をすり替えて金をせしめようとは、、、。
その前に毒父を姉妹で家ごと焼き殺してもいる。筋金入りだ。やはりその背後には毒母の存在、、、。この話題には深入りしない。
壮絶な生き様で逞しくなるのは分かる。いや、すでに常軌を逸している。

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ステファニーとエミリーはとても対照的な母に見えるが、逢ったばかりで家に招かれ、誰にも喋らないような秘密を語り合ってしまうのだから(嘘も含め)、相性は良いというか、似た者同士であることは、間違いない。子供同士が仲が良いというのがきっかけではあるが。
ステファニーがエミリーの豪邸に招かれ、大きなキッチンに流れて来たフランソワーズ・アルディの”さよならをおしえて”にすんなりと身を任せて踊ってしまう。エミリーが頭の切れる曲者であることは最初から分かるが、ステファニーのこの天然マイペース(ある意味、傍若無人)さも侮れないことが分かる、、、。
(こんな場面でわたしの秘密のフェイバリットソングが流れてしまうことに、ちょっと抵抗を覚えた)。

主にステファニーが忙しいエミリーの息子の世話をすることで、親友関係が成り立ってゆく、、、。
だが、子供を預けたまま、エミリーが音信不通となる。何日間も、、、その間もブログでこの件について発信はする。
とっても心配なんです、、、という感じでキッチンからいつものようにブログ情報を発信し、何かご存知の方はご連絡を、ときたらしょっちゅうママ友の会をやっている暇な主婦たちは色めき立つ。かなり食いついて来きて訪問者数は鰻登り。
ステファニーはエミリーに対し素直に好意は抱いており、心配はホントにしているのだ。

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エミリーはそもそもステファニーがお人好しの世間知らずで色々と利用できると思って息子の世話も含め頼んできたが、ステファニーがただならぬ”お節介”であることを甘く見ていた。
ブログの記事更新の為、真相究明に乗り出すのだが、その行動力と取材力もなかなかのもの。
どんどん謎めいたエミリーという人物の真相に迫って行く。
これはエミリーにとってたまったものではない。保険金詐欺がバレてしまう。死んだはずの彼女が自ら姿を現すしかなくなる。

取材に小型カメラをドレスのボタンに仕込み、ボイスレコーダーなど当然、何処にも持ち歩く。
盗聴器が見破られようが、そんなことでは動じない。他にもガジェットはしっかり用意している。
極めつけは、いつでもどこでもブログにリアルタイム・ライブ配信できるガジェットである。
こういうブロガーは、要注意なのだ。最後の方ではもうショーンを含め、皆狂気を帯びているではないか、、、。
怒涛の展開で、もうこの3人、何なんだ。

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エミリーは利用する相手がステファニーでなければ首尾よくいっていたかも知れない。
天然お節介ブロガーを甘く見たことが、破滅を呼んだと謂える。
全国のママ友相手にネタ探し~真相究明への執念は凄いのだ。
リアルタイムで全国のママ友にその状況をお伝えしてしまうお手並みは、ある意味、どんなマスコミも叶うまい。
このネタ集め~発信の執念。
この点では充分にわたしも共感する。わたしは到底、こんなにネタの為に動けないが。
ブロガーを舐めるな、と謂いたい(爆。
そういう映画ではないのだが(笑。

何と、エミリー役のブレイク・ライヴリーは「ロスト・バケーション」のヒロインであった。
道理でカッコよい分けだ。
バスケでドヤ顔をする、刑務所でも確固たる地位を築いているエイミーには笑ってしまった。

ちょっとスリリングでもあるコメディだ。










アスファルト

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Asphalte
2015年
フランス

サミュエル・ベンシェトリ監督・脚本
ガボル・ラソフ脚本
ラファエル音楽

イザベル・ユペール、、、ジャンヌ・メイヤー(一線を退いた女優)
ジュール・ベンシェトリ、、、シャルリ(学生)
ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ、、、看護師(アパートの近くの病院の夜勤)
ギュスタヴ・ケルヴェン、、、スタンコヴィッチ(初老の男)
タサディット・マンディ、、、マダム・ハミダ(アルジェリア系移民婦人)
マイケル・ピット、、、ジョン・マッケンジー(NASAの宇宙飛行士)
*看護師以外は、皆同じパリ郊外の古いシンプルなアパートに住む。


最近観た映画では、「5時から7時までのクレオ」と並んで良かった。
素敵な「映画」を観たという感覚に浸れる。

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とても心地よい時間を過ごした。
それぞれ偶然出会った3組、6人の孤独な人物によるドラマが個別に並行して描かれてゆくが、最後に宇宙飛行士を迎えに来たヘリが彼らを一瞬、同一の時空に繫ぎ止める。
いや、ヘリの齎した場にあって、彼らの意識がとてもエモーショナルに高揚するのだ。
これも一種の同時性であろう(ユング・パウリ謂うところの)。

同じアパートに住んでいても、それぞれが何をやっていようと全く関りはない。
これは通常、当然である。近くで鳴る異音に気味悪がるところで繋がっている部分はあるが。
だが、そのなかで、一組はドアが近い為に知り合いになる学生と女優。
もう一組は、移民の夫人とアパート屋上に司令船が不時着したNASAパイロットとの親子の再会みたいな関係。
アパート二階に住むケチな男と病院の夜勤看護婦の夜の密かな出逢い。
最後まで、全く別に流れてゆく噺である。

われわれは常に宇宙線に貫かれている。
つい先ほど自分の身体を通過したニュートリノによって何かが変わったかも知れない。
これまで何の作用も及ぼさないとされてきたものが、今後新たな働きを発見されないとは限らない。
まだダークマターについても分からないことばかりである。

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何かが一気に晴れ渡る時、それまでの文脈に新たな(異質のメタ)文脈が挿入されたり、異なる時間系に乗り移ったりすることがあるはず。
そうでなければ、この気分の転調をどう受け取ったらよいか分からないこともある。
時折、わたしはそう感じることがあるのだ。

そしてそれが心地よい為に、意識~分析しようなどという気持ちが失せてしまう。
噴水や木々に囲まれた涼やかな風の吹き抜ける公園を散策して気持ち良いというのとは全く異なる状況である。
ふと自分が違う自分になっていた、そんな説明はつかぬが恩寵のような在り様なのだ。
喪失感ではなく飛躍~ジャンプである。と謂うよりドライブか。コズミックドライブとでも言ってみたいが、、、(これはすでに別の意味で使われている概念であった)。

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そういう時は、決まって身が軽やかになっている。
そういうものなのだ。自分の連続性~アイデンティティに囚われることはない。
ふと乗っかれば、心地よい。至高感覚に浸れたり、、、。
このブーツストラップの為に、この3つのささやかなストーリーが淡々と自然に流れていったのだ。
とてもセンスの良い映画であった。センスの良さはセリフに如実に表れていた。とても言葉が少なく瑞々しい。
恐らく監督のn-1の感性が優れているのだと思われる。


「アスファルト」はこのセンスの良い無機質感そのものか。
邦画にもこういった構造を持った映画があったように思うのだが、、、どうだったか、、、。
ただし、このセンスで持ってゆくというのは、無理っぽい。
極めて上質なコメディであった。やはりフランスだなあ、、、イザベル・ユペールのせいか。
キャスト皆良かったが、ギュスタヴ・ケルヴェンの演技は実に渋かった、、、。


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シェルター 狂気の秘密

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Harm's Way
2008年
カナダ

メラニー・オア監督

キャスリーン・クインラン、、、ビー(DVシェルターの主人)
イングリッド・カヴェラルス、、、ダーリーン(夫のDvから逃れた母)
ハンナ・ロックナー、、、ビクトリア(ダーリーンの娘)


AmazonPrimeでないと、観れそうもない作品。Primeがなければ、まず出逢うことはない。
こじんまりとした大変まともなサイコ映画。
基本全てが謎のまま終わって行くが、現実も何もかも不透明であり、誰にも分る透明な関係性など存在しない。
何もかもが明瞭に説明出来たら、それこそフィクションだ。

夫のDVから逃れて母娘で遠く離れた農場~DVシェルターにやって来る。
そこを独りで管理しているビーという婦人は、彼女らの名前も素性も聞かないでただ受け容れてくれる。
煙草、酒、薬などの依存性のあるものをやらない。
敷地の外に出ない(逃げて来たのだからわざわざ見つかる真似はしないはずだが)。
農業の手伝いをする。納屋には近づかない。
この条件を守れば、食費、宿泊料タダで居たいだけ居てよし、ということである。
いる間は、しっかり外部から守ってくれるという。これは助かるではないか。
普通なら、暫く身を隠しながらもここを足掛かりにして、親子二人で自立に向けた生活を図るのだろうが、、、。

滅茶苦茶になった家庭生活も、この長閑な農村の隠れ家で母娘で農業などを手伝うことを通し関係の修復にも当てられよう。
酒、煙草も断ち、健康的な充実した時間が過ごせるはずだが。

どうもこのダーリーンという母親キリっとしない、と言うかだらしない。
元々規範に対する感覚も薄く(自制心も無く)、ビーに謂われた条件も迷うことなく破っている。DVも呼び込みやすい性格などだと分かる。とりあえずは、ビーに言われた仕事は手伝うが、常に気は散っており、持ち込んだ習慣は止められないし自制もしない。
娘のビクトリアもこの母には信頼がおけなくなっていることは、車でこの駆け込み寺に来る冒頭から分かる。
見限ってはいないが、つくづく頼りないとは感じているようだ。その分、大人の女性のビーに惹かれる。

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ビーという存在は謎に包まれたままである。
何故、優しく避難を求めて来た女性を匿うというボランティアの仕事をしながら、納屋にはここにこれまでに逃げて来たはずの女性のトランクが山積みにされており、つい先ごろ来た女性が血まみれで息も絶え絶えの状態で鎖で繋がれているのか。
動機も趣向もよく分からない。大きな闇を抱え持ちながらも「家族」を持ちたがっているようにも窺えた。
しかしこれまでは、全て失敗し~約束を守れなかったのか~、その結果かなりの殺害を行ってきたらしい。

ダーリーンは煙草を吹かし酒を呑みつつ、禁止された納屋に近づくと謂うよりさっさと鎖を解いて中を物色している時に、それを知って驚愕する。ここはやばい所だわ、と気づく。あの女はサイコだと。
そして娘と逃げようとするが、警察に見つかっては困るのだ。実は夫からではなく、2人は警察から逃げているのだ。
警察はこの周辺を失踪女性の情報を求めパトロールしている。
このシェルターにも訪ねて来ており、ビーもその仕事柄マークしていた。

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ビートとビクトリアは、基本的に噺も合う。
お互いにビーのアトリエで絵を描き合って、会話を楽しんでいる。
ビーは賢いビクトリアを気に入っている。
事が無ければ、結構上手くいっていたかも知れない。

だが、母親のダーリーンが悉く約束を破っていたことを知り彼女は激しく憤る。
納屋の秘密がバレてはもう後はない。
しかしこれを知らなければ、(防衛上)ビクトリアでもどうなっていたか分からない。

ビクトリアは、常に包丁を身の回りに隠す習慣が身についている。
これは、途切れることの無い激しいDV環境にあって幼いながら自らの命を守る為に身に付けた習慣であろう。
終盤の急展開で事態が加速する。

母娘のここに来る切っ掛けは、母に暴力を振るう父を包丁で娘が刺し殺してしまい逃亡場所として紹介されたのだった。
そしてここでもビーを裏切って捕まり前の女性のように斧で処分されそうになった母を前にして、ビクトリアはビーを背後から刺して救う。ビーは死ぬとき、あなたはオオカミだったのね、と呟く。
ビクトリアは、また母がこうした事態を招いた~反復させたことに憤る。
だが母は、こうなったのもあなたのせいよ、と自分が元々蒔いた種を娘の責任のように詰る。

ビクトリアは、この限りない反復構造から抜けるために、縛られたままの母を放置して一人で納屋を出て敷地から外へと去って行く。
ビーとの会話で、赤ずきんが自らオオカミを倒して進まなくてはならないと諭された通りビクトリアは実行したと謂えるか。
オオカミではなく逞しい赤ずきんである。
全てから解放されたこの娘なら一人で逞しくやって行けると思う。


清々しい小品であった。


アサイラム 監禁病棟と顔のない患者たち

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Stonehearst Asylum
2014年
アメリカ

ブラッド・アンダーソン監督
ジョー・ガンジェミ脚本
エドガー・アラン・ポー「タール博士とフェザー教授の療法」原作
ジョン・デブニー音楽

ケイト・ベッキンセイル 、、、イライザ・グレイヴス(患者)
ジム・スタージェス 、、、エドワード・ニューゲート(精神科医)
マイケル・ケイン 、、、ベンジャミン・ソルト医師
ベン・キングスレー 、、、サイラス・ラム医師(院長)
デヴィッド・シューリス 、、、ミッキー・フィン(武装警備員)
ブレンダン・グリーソン 、、、精神鑑定医
シニード・キューザック 、、、ミセス・パイク
ソフィー・ケネディ・クラーク 、、、ミリー
クリストファー・フルフォード 、、、パクストン
ジェイソン・フレミング 、、、スワンウィック


狂人とは他者が特定の誰かを指して呼ぶ言葉だ。
多くは相対的に決まる。絶対的な狂人とは、果たしてどういう者を指すか。
誰が誰にとって狂人であるか、、、。
どの共同体~パラダイムがその個人を狂人としてカテゴライズするか。
時代、場所、共同体が異なれば、全く異なる人として価値づけられもする。
人は関係性のなかにその都度、現出する。
その関係性は重層的であり、或る関係の網毎にその人の価値は大きく異なりもする。
単一の共同体のみに属しているという人は少ないはず。一人が幾重もの関係性の内にいるのが通常だ。
相対的に決まるとは言ってみたが、個人レベルで考えれば、狂人などという強力な価値対象は絶対的な重みをもつ。
本当の狂人に他ならない。悪そのものである。

わたしも狂人と特定するモノは、はっきり存在する。
向うは大概、自分を狂人とは思っていない。そういうものだ。
自分に被害を及ぼす存在でなければ、どうでもよいが、そうでないモノについては狂人と謂わずとも何らかの名を与えて特定しておく必要がある。自分にとって理性的に整理が合理的につき健康的であるからだ。その上、相手にとり呪術的効果もある(笑。

まずは、おおかた、、、
この世のルールは全て心得ているような顔をした他罰主義者があちこちに妖怪のように跋扈しているだけで、その世界観の何と貧しいこと。貧しいだけならともかく、明らかに甚だしく狂ってもいる。単なる馬鹿であることも凄まじく多いが。
この映画でも結局、狂人って何だ~誰だ~である。
特に精神医学の世界は、歴史的に見ても相当酷いものであった。
明らかに甚だしく間違ったことをして来た。

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そこでの立場~患者と医者つまり奴隷と支配者の逆転がとても面白い結果を生んでいた。
これまでのパラダイムで見れば狂った連中が暴動を起こして医者やスタッフたちを退け、病院に出鱈目な統治をしいたということであるが、それによってこれまで不治の異常者と見做されていた者たちが、自らの人間性を回復し尊厳を見出して来ているのだ。
どちらが間違っていたのかは、相対的なものではなく絶対的なものだ。

イライザはヒステリー患者とされ、多くの講義を受けに来た関係者の前で、治療法という名の下、人の尊厳を踏み躙る行為をモルモットのように受けて来た。
その上病院では日常的に、患者たちに鎮静剤投与や拷問めいた苦痛を機械で与える人体実験を繰り返し精神崩壊へと向かわせるばかりであった。
患者のなかの元軍医であるサイラスらが医療チームと入れ替わったことで、重篤な患者を強い薬や一切の責め苦から解き、自然な人間関係のなかにおいて治療を進めることで、彼らがゆっくりと自分を見出してゆく過程がみられるようになった。口のきけない少女が人の世話をする看護婦の役目を果たすようになっている(ロールプレイ効果も効いている)。
ニューゲートはオクスフォードで精神医学を学び現場での研修をこの病院に受けに来た。

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患者の治療の先進性には共感するが、院長の取り巻きには感心できない。
ピアノを弾きこなし作曲にも秀でている美しいイライザがここにいる事にも疑問を持つ。
更に地下の独房に、何とこの病院の院長その他の医者や看護婦、スタッフたちが閉じ込められていたことを知り、ニューゲートは驚愕する。囚われの元院長からそれまでの経緯を聞く。何人もの医療関係者が毒殺などにあっていることを知る。街に助けを呼びに行くか、鍵を探して彼らを解放するか。
しかし守りも固い。脱走者は殺される。そうした恐怖と暴力の関係性のもとにあったのだ。

そして、サイラスも凶器とも謂える電気ショックの機械を開発し、元院長の脳を破壊してしまう。
両者ともにほぼ同レベルの闘いとなってくる。
イライザは酷いトラウマを持っている為、彼女を解放したサイラスへの依存と信頼は消え難い。
しかしニューゲートはイライザは勿論、囚われの者たちをここから何とか解放しようとする。

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そこで院長室からサイラスのトラウマに関する資料を見つける。
まさに戦争で受けた残酷なトラウマであった。
それを彼に突き付けることで、彼は深く抑圧していた罪の意識に苛まれ戻らなくなってしまう。本当の患者となる。
そしてイライザに関しては、自分は以前の講義の受講者の一人であったが、その時は無力で何も出来なかった為、こうして医者として改めて君を個人的に助けに来たことを告げる。
一緒に良い環境に住み移ろうと。
そのまま2人は、気候も穏やかな長閑なリゾート地のような場所で暮らすことに。
(まあ、何と良いムードではないか)。

その後、例の病院にイライザを引き取りに来た夫とその付き添いの医者ニューゲートが、もう2か月前にイライザがニューゲートという医者に引取られて退院したことを告げられる。
実は、ニューゲートと名乗り乗り込んで来た若い精神医は、そのニューゲートの患者であり、例の講演会にもう一人の患者として彼女を知った男であったのだ。主治医であるニューゲートに成りすまし、彼の身分証や服や眼鏡などを盗みイライザに接近を図ったのだと、、、どんでん返しにも程がある。
彼は嘘が上手く狡猾でもっとも油断ならぬ患者であったとそのニューゲートは語る。
だが、彼はその時、悲嘆に暮れて助けを叫んでいたイライザにある種の直観を覚えたに違いない。
この人とならこの泥沼の世界から抜けだせると。彼の自由な発想と解放への不屈の意志が決断させたのだ。
(一体彼はどういった種類の狂人とレッテルが貼られていたのか)。
ここを出さえすれば、2人して自立した幸せな世界がきっと掴めると。
こうした個人レベルのレジスタンスは何処においてもなされるべきである。

この2人の方がずっとまともな人間であった、ことは間違いない。











ディケイド 腐敗する者たち

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Decay
2015年
アメリカ

ジョセフ・ワートナーチェイニー監督・脚本・編集
マイケル・シェイブ音楽

ロブ・ザブレッキー、、、ジョナサン
リサ・ハワード
エリシャ・ヤッフェ


AmazonPrimeで観た。

遊園地の清掃人のジョナサン。
ジョナサンの趣味で収集している鍵を拾ってくれる友人。
一緒に昼の弁当を食べながら彼女の話をしたりする。
ジョナサンの世話をやいてくれる婦人。
この人は彼の成人後見人なのだろうか。
登場人物は、基本その3人くらい。
警官が時々、訪ねて来るが。

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頻繁に挿入される子供時代の記憶~フラッシュバック。
毒母の生々しいイメージである。どうやら彼が少年の時、母親は極端な潔癖症の強迫観念から、焼身自殺をしたようだ。
(幼少~少年期における毒母の影響は消そうにも消せるものではない。それによって腐敗した精神は正しい治療を施さないと益々進行するばかりである)。

体罰と言葉による日常的虐待により母に対し隷属的に育てられる。
極端に潔癖症の独善的で排他的な母の性格上、自宅軟禁状態で過ごし、外~他者との接触はほとんどもたない。
他者とは病原菌の塊である。鍵をかけないドアは不吉だ。施錠を何度も確かめさせる。
この世界観を幼少時から暴力的に植え付けられて来たため、中年(初老)?を迎えてもその枠の外には出れない。
出れないのではなく、そもそも今の状態がおかしいという認識すらなく毎日のルーチンを繰り返している。
亡き母に対する反抗心や憎しみ、怒りなどは微塵も感じられない。
そんな主人公のジョナサンである。彼は車には乗らず、三輪車を漕いで移動する。

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毎日、イマヌエル・カントばりの規則正しい生活を送っていた彼であったが、2人の不良娘が彼の家に盗みに入ったことで、かなり様相が変わる。
丁度家の中を物色している最中に彼が帰宅してきて、驚いた不良は、一人は脚立を踏み外し頭を打って死に、もう一人は道路に飛び出したところを車に轢かれて死ぬ。飛んだアホである。それはどうでもよいとして、彼は死体を見てどうするか迷う。
そういう客には初めて会ったのだ。
取り敢えず、バスタブにそれを入れ、氷を一杯充たして腐敗を遅らせようとした。
その死体の世話が彼の厳格なルーチンのなかに加わる。
毎日同じ8時8分の目覚ましで起き、冷蔵庫の冷凍食品を解凍して食べ、遊園地の清掃の仕事に行き、定時に帰り、薬を包丁で潰して飲む。地下室での胡蝶蘭の手入れ、トレーニングも欠かさない、、、。これを映画でもこれでもかというくらい反復する。強迫性障害を強調する為か~最後に薬を潰さずに飲むところで如何に追い詰められたかを示す。

元々外のものに興味が無い訳ではない。ボーイスカウトにも憧れがあった。
犬を飼いたいと言ったら母にひどく叱られ折檻を受け飼えなかったに過ぎず、生きているものには不浄さから手は出せなかったが、勝手に入って来てすでに死んだものである。興味は沸く。剥製があんなに沢山家の中を飾っているのだ。
彼の趣味である鍵収集も、その鍵で開けた他人の家の様子を想像する為のアイテムである。
しかし生きているものは、母の教えでは全て不浄なのである。
彼は想像を絶えず働かせる。今回、丁度そうするのに良い相手が転がり込んだのだ。
「出逢い」があったのだ。心ときめく。

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さてここから長い時間にわたって、わたしは画面を正視出来ない。
一番苦手な映像が延々と続く。
この若い女(女子高か女子大生だろう)の腐敗が進んでゆく。腐敗臭も凄かろう。
ウジが湧き、口からゴキブリが這い出て来たり、もう目も当てられない惨状なのだが、どう思っているのかわれらが主人公は丁寧に体を拭いたり氷を足したり防腐処理を出来る範囲でしながら、わざわざ夕食には食卓に招き、一緒にディナーをしたりするのだ。キャンドルも灯し。
死体の片づけや食卓の汚れの後始末などかなり大変な仕事が増えてしまった。
それでも世話やきに来る婦人にも仕事の同僚にも彼女が出来たと打ち明ける。
ラジカセにテープに吹き込んだ遊園地に流れそうな曲を流し、鼻歌も唄う。
このルーチンワークの反復。
だがそれにも限界が来る。
腐敗の限界である。彼女も彼も腐敗した。ディケイド、、、邦題は正しい。

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2人とも喜んではくれるが、同僚は明らかに彼のイマジナリーフレンドであることが分かる。
世話やき婦人の方も入って来方からして非現実的であるが、警察の聞き込みやマークに対して婦人の掛け合いが効いたような感じもするのだが、、、薬を持って来てくれるし彼を病気だと認識している。とは言え彼女もその実在は怪しい。実際に彼女が警官と話している映像は無かったと思う。
それより何度も家に入って来て、一度も腐敗臭に気づかない。

ともかく、彼にとって現実と想像は境界があやふやなのだ。どちらも等価の彼の世界と言ってしまえばそれまでか。
ただし、彼の状況と境遇からしても成人後見人がいないのは現実的ではない。彼一人で社会生活(という外部性)を熟せるものではない。想定外の出来事に対応が出来るか、、、今回のように。
遊園地は廃園であり、いつも彼はそこに無断で入り、勝手に清掃をして想像の中の友人と昼食をとっていただけだ。
この現実~彼の世界を作ったのは、全て毒母である。
何よりも毒母の力の恐ろしさに驚愕すべきなのだ。そしてこうした親子関係が外からは見えない。文字通り鍵を厳重にかけられ。毒母が焼身自殺し、外の風が入って来た時はすでに、もう充分彼も腐敗していた。
この廃園が何故か妙に美しい。哀しいほどに美しい。

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この外部から来た彼女との生活は長くは続かない。
信心深く、三輪車には鍵はかけず「何時盗むことなかれ」という札を付けている彼にとり、平気でドアを破り盗みに入る若い女性は、まさに外部の者だ。そんな外部を求めはした。しかし、、、
彼自身母に潔癖症を叩き込まれてきたのだ。
「不潔な家には悪魔が宿る」外部を受け容れると言うことは腐敗を呼び込むと言うこと。
汚いものには特に耐えられない(わたしだって到底耐えられないが)。
彼女の朽ちた体を拭くと活き活きした綺麗な肌が出て来るイメージで吹っ切れたのか。
遺体を解体し袋に詰めて処分する。
「ひとりも悪くない」
再び彼は前の生活に戻って行く。

BGMも繊細で良かった。








陰陽師

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2001年

滝田洋二郎 監督
福田靖、夢枕獏、江良至 脚本
夢枕獏 『陰陽師』原作


野村萬斎、、、安倍晴明
伊藤英明、、、源博雅
今井絵理子、、、蜜虫
夏川結衣、、、祐姫
宝生舞、、、瓜の女
矢島健一、、、藤原師輔
石井愃一、、、藤原兼家
石丸謙二郎、、、陰陽頭
国分佐智子、、、任子
螢雪次郎、、、源忠正
下元史朗、、、小野清麻呂
八巻健弐、、、橘右近
木下ほうか、、、垣武天皇
立原瞳、、、綾子
萩原聖人、、、早良親王
柄本明、、、藤原元方
岸部一徳、、、帝
小泉今日子、、、青音
真田広之、、、道尊



以前、TVで観た覚えがあるが、なかなか面白かった。
時代考証とか文化思想的なことは、さておき。
この世とあの世の繋がり具合が良い雰囲気で出ていた。鬼や怨霊が人々の日常のなかに跋扈していた様子は窺える。
全体の明るさも丁度良い加減か、、、。

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野村萬斎の凛とした佇まいと所作がミステリアスでもあり良い。泰山府君祭の舞いも良いが、竹藪の中を下って走るところなども、、、何とも言えない。
真田広之の貫禄ある凄み。やはり彼が物語の心となって動かしていた。
夏川結衣の怨念。その怪しい魅力が良い。
伊藤英明の頼りなさ。笛が上手いということでキャラにあっている。特殊な中空存在の雰囲気が出ていた。
今井絵理子の蜜虫は中国から渡って来た蝶だという感じがよく分かるアーティフィシャルなマスコットか。
小泉今日子の年齢不詳の重厚さもピッタリな雰囲気に思える。青音は結局何百年年生きているのか、早良親王を成仏させないうちは死ぬことも出来ぬ宿命を抱えた諦観が漂っている。

安倍晴明VS道尊の終盤の闘いは何とも面白かった。
口元に人差し指と中指をたて、呪文を唱えつつ闘うところが新鮮でシュールなものであった。
最後は結界を張って道尊を閉じ込めとどめを刺す。
道尊は己が操った祐姫と同じように自ら刃で首を切って果てる。
この辺の件を観ても、真田広之でなければ物語全体が軽くなってしまうことがよく分かる。

この晴明、先見の明というか洞察力に問題があるか。ほとんど禍々しい空模様などで異変に気づく。
闘いとなると様々な力を発揮するが、いつも先手を打たれて、後手に回ってばかりというのは、如何なものか。
源博雅はいつもぼんやりしているし。
ふたりで力を合わせて都を守るというのとは、どういう関係においてだ。
源博雅という存在は何か?

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「博雅はいい男よのう」といつも謂われているように、博雅が都にいることで、もともと人や都などどうでもよい晴明が手を貸すようになっていた。
博雅が思いを寄せていた祐姫が彼の腕の中で息を引き取った際に、晴明が道尊に向け文字通りの一矢報いたところは、かなり晴明の入れ込みようが分かる。ここはとてもカッコよいシーンであった(あまりそう感じさせる場面がない中で)。
晴明にとって源博雅は、特別な存在であり守らなければならぬものなのだ。
(その割に、のんびりしていて一度死なせているが)。

つまり一度博雅は殺され、青音の生命を貰って生き返ることで、青音の霊魂の言葉が道尊に取り憑いた早良親王に伝わり、2人ともそろって成仏して逝くことになる。その結果、道尊は利用しようとしたその巨大な怨念の力を失う。無敵ではなくなる。
博雅はまさにその時の器としての役割を果たす存在であったのだ。
ふたつの大きな霊を成仏させるための存在。結果として晴明と共に都を救う。

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橋の下の女の屍に纏わりつくヘビの生々しさに対して、蜜虫の蝶や道尊の偵察鳥、呪いをかけられた赤ん坊や悪霊の煙などは当時のVFXの限界というより、あやかしや機械仕掛けを誇張して魅せるためのぎこちなさか。
道尊が額に射られた矢をズブズブ押し込んで口から出してくるシーンはおどろおどろしさよりというより、イリュージョン的な御ふざけに見え、ちょっと白けさせた。この辺の演出、何とも言えない。
今のVFXで作ってしまうとかなり異なる印象になるはず。臨場感はやはり格段に違っていたはず。


迫力やスケール感はないが、平安京独特の世界観を醸そうとしたことは分かる。
Ⅱは、観ようかどうしようか迷っている。







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スーサイド・スクワッド

Suicide Squad

Suicide Squad
2016年
アメリカ

デヴィッド・エアー監督・脚本
DCコミックス「スーサイド・スクワッド「」原作

ウィル・スミス、、、デッドショット(フロイド・ロートン)
ジャレッド・レトー、、、ジョーカー
マーゴット・ロビー、、、ハーレイ・クイン(ハーリーン・クインゼル)
ジョエル・キナマン、、、リック・フラッグ大佐
ヴィオラ・デイヴィス、、、アマンダ・ウォラー
ジェイ・コートニー、、、キャプテン・ブーメラン(ディーガー・ハークネス)
ジェイ・ヘルナンデス、、、エル・ディアブロ(チャト・サンタナ)
アドウェール・アキノエ=アグバエ、、、キラー・クロック(ウェイロン・ジョーンズ)
アイク・バリンホルツ、、、グリッグス
スコット・イーストウッド、、、エドワーズ
カーラ・デルヴィーニュ、、、エンチャントレス(ジューン・ムーン)
福原かれん、、、カタナ(タツ・ヤマシロ)
アダム・ビーチ、、、スリップノット(クリストファー・ワイス)
シェイリン・ピエール=ディクソン、、、ゾーイ
ジム・パラック、、、フロスト
エズラ・ミラー、、、バレリー・アレン/フラッシュ
ベン・アフレック、、、ブルース・ウェイン/バットマン

Suicide Squad001

DCコミックスの悪役キャラクター総出演ということだが、アメコミは全く知らないわたしには、誰もが初めてのキャラとなる。
それも新鮮に観ることが出来て良いか、、、。
マーゴット・ロビーが出ているので観た。
「ふたりの女王 メアリーとエリザベス」を観たいと思っているが、取り敢えず今回は、これを。
アイ、トーニャ」で一気にファンになったが、実にかけ離れた役を見事に熟す人である。演じる幅が凄い。
ただ、酷い映画にも出てしまっている。是非、出るものを選んで欲しい。もう充分選べる立場のはず。

さてこの映画、こういうタイプ何度も観た気がする。VFXも含め。
とても既視感があり、やはりそれぞれのキャラを楽しむ映画ではないか。
相当に濃い人を集めていることもあり。
だがストーリー的には弱い。演出的にも夜と闇のなかでの闘いばかりで、明け方も効果的に使えばどうであろう?

Suicide Squad002

何にしても敵の設定がよく分からない。
と言うか、どんな敵だったのか結局、掴めなかったではないか、、、。
特別チョイスされた悪党軍団は、徐々にキャラがエピソードを通し描かれてゆくが、これと言って印象的なものはない。
デッドショットと優等生の娘との関係、リック・フラッグ大佐とエンチャントレスとの恋愛、ハーレイ・クインとジョーカーの仲、、、色々あっても薄い。
彼ら皆、ちょい悪軍団という感じ。実は良い人だったし。

特にこれといって策も練らず、チョイ悪連中も特技はあってもこれといった突飛な能力は火炎放射を使う男くらいで、後は日本刀の使い手(この女性は特別枠)だったり狙撃の名手だったりやたらと怪力だったり、ナイフ使いだったり、バッドでぶん殴ったり、潜水が上手かったり、、、の寄せ集めで皆身体能力は高そうだが、今一つこれで闘えるのか心配な即席軍団なのだ。

敵は圧倒的な光線みたいな武器で、軍事人工衛星や秘密軍事基地や大型空母などを次々に破壊し、とんでもない攻撃力を発揮している。まともに戦える相手とは思えないのだが、、、。
だが、やたらと派手でおどろおどろしい割に、対人間相手はそれほど大したこともないような、、、。
クビにマイクロ爆弾を仕掛けられて、仕方なく戦っていた軍団が、爆弾の起爆装置を壊され自由になった後で、隊長に力を貸す気に誰もがなって乗り込んでゆくところが、共感できるレベルではなかった。ダークなハードボイルドを狙っているのかと思って観ていたのだが、こんなお子様青春スポーツ劇みたいなところに着地でよいのか、、、という感じ。
何で友達~チームになってしまったのかが不明であった。
もしかしたら大事なところで眠ったか?短い時間眠ったみたいだし。

バッドやナイフや刀や怪力や拳銃が結構役に立ったりして、、、そしてナイフで敵の心臓を取ったことで勝機を得ると。
やはりハーレイ・クインが決めるのだ。
結局、どういう相手だったのか、、、。

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ジョーカーとの絡みも不思議。
三つ巴の混戦という訳でもなかった。
途中で不覚にも眠ったりして、定かではないが、懐かしのロックがシーン毎かかる中で、現代音楽の「交響曲第3番」(ヘンリク・ミコワイ・グレツキ)がかかっていたような。
選曲は面白かった気がする。

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重いテーマの映画はパスしたい気分の時に見てもよいかと思われる。
だが、もしこの作品にマーゴット・ロビーが出ていなかったら、誰にも見向きもされない映画であったかも、、、。
そんな、そら恐ろしい考えが頭を掠める映画であった。



来る

It Comes

It Comes
2018年


中島哲也 監督・脚本
岩井秀人、門間宣裕 脚本
澤村伊智「ぼぎわんが、来る」原作

岡田准一、、、野崎和浩(オカルト・ライター)
黒木華、、、田原香奈(秀樹の妻、知紗の母)
小松菜奈、、、比嘉真琴(霊媒師、キャバ嬢)
松たか子、、、比嘉琴子(真琴の姉、最強の霊媒師)
妻夫木聡、、、田原秀樹(香奈の夫、知紗の父、月島製菓のサラリーマン)
青木崇高、、、津田大吾(民俗学准教授)
柴田理恵、、、逢坂セツ子(高名な霊媒師)
志田愛珠、、、田原知紗(田原夫妻の娘、あちらと繋がっている)
太賀、、、高梨重明(田原の会社の同僚)
石田えり、、、秀樹の母
高橋ユウ、、、綾 (野崎の彼女)
伊集院光、、、店長(香奈の勤めるスーパー)
蜷川みほ、、、香奈の母
上原実矩、、、巫女
中川江奈、、、少女(幼少時に秀樹をあちらに誘った失踪した少女)
吉田妙子、、、ユタ(沖縄から呼ばれた巫女)


迫り来る”あれ”が全く何であるのか分からない。
「原作」では、はっきり分かるようなのだが、映画は大きく作り変えているらしい。
最後までその実体は映像化もされないまま。
その被害状況~死者からその凶暴さと破壊力は窺えるというもの。
かえって清々しい。元々目に見えない方がそれらしい。

終盤、悪霊祓いの儀式がマンション前の児童公園をフルに使って盛大に行われている。
日本中の宗派が集まったのか、という感じの破格のお祭り騒ぎになる。
ここは、とっても楽しくワクワクする。
やはりお祓いはここまでやらなくては、、、。
比嘉琴子のネットワークは素晴らしく、お祓い関係の日本中の実力者と政財界の要人とも太いパイプで繋がっており、超法規的な措置もとれるようだ。警察がマンションの住人を皆避難させている。
ここが呪術の国でもある側面が窺える、、、”お山”の存在である。今度「陰陽師」でも観ようか。

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この映画はストーリーはとてもストレートで、見どころは何と言っても大変個性的な登場人物を追うところにある。

田原秀樹は確かに一言で謂えば「うそつき」である。人に見られる自分だけを取り繕う。どんなに家の中が悲惨でボロボロの状態であってもブログには幸せ一杯の家族をただ描き続ける。自分が娘の知紗を試行錯誤しつつ精一杯育てていることを書いているが、実際は娘はほったらかしで、妻一人に押し付けている。表面的に調子のよいだけの軽薄な人で全く当てにならない。こういう人は結構いて、わたしも何人も見て来た。

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妻の香奈はいよいよやっていけなくなる。更にマンションの部屋にポルターガイスト現象まで発生し始める。誰にも頼れず、親切にしてくれる夫の友人津田大吾に惹かれてゆく。
そして秀樹が”あれ”に殺されると”、心底ホッとするが、シングルマザーとしてまたスーパー店員に戻らなければならない。
過酷な生活の中で、彼女は娘に当たってしまう。自分が絶対になりたくないと誓った母親みたいな毒親に変貌して行く自分に唖然とする(母もシングルマザーで娘を邪険に扱ってきた同じ構図となっている)。毒親になる要素を持っていても生活環境が恵まれていれば、ならずに済む場合も少なくない。だが、ここでは知紗をネグレクトすることに繋がり明らかに愛着関係の取り結びに失敗する。あからさまに母親の怨念の姿を借りたあれに襲われ、彼女もトイレで絶命する。

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比嘉琴子と逢坂セツ子がやたらとカッコよい。
この映画そのものが、アニメ調の出来であるが2人はそれを象徴するような存在だ。
一口で謂えば、面白カッコよいという感じ。
特に琴子の常に冷静沈着で明晰で淡々とした性格が最もよく出ていたところがラーメンを食べているシーンであった。
あんな風にラーメンを食べる女性は、他には恐らく市川紗耶さんくらいではないか。雑念の無いシンプルな正しい食べ方なのだ。

比嘉真琴はそのハイパーな容姿から超能力めいた力を持つスーパーガールをイメージしてしまったが、霊感の鋭いとても普通の人である。子供好きで知紗もよく懐き、良くも悪くも真っ当な感覚の人で姉と対照的であった。
野崎和浩は闇を抱えていることが分かるが、地味であった。演技も演出上もとても抑えられていて、やさぐれていて良い味は出ていたが。
もうちょっとビビットな要素も欲しい。
最初の犠牲者となった秀樹の会社の同僚高梨のハイテンションからおどろおどろしい暗さへの変貌は、この物語の不吉さを充分に演出する導入になっていた。

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ニヒリストの津田大吾も殺され、逢坂セツ子も腕を失いながらも最終決戦に果敢に参戦するが殺される。
琴子が日本各地から呼び寄せた霊媒師やら祈祷師たち(所謂神職)も”あれ”に殲滅された。
この噺、余りに多くの人間が死ぬ。
映画的に言って主要人物のほとんどが死に絶える。
自分が死んだことに気づかない秀樹が霊のまま相変わらず育児ブログを更新していたのは笑うに笑えないところだが、、、。

ガールズ・ステップ」の上原実矩が巫女でちょいと出ていた。
「呼ばれてしもてん。私、悪い子やから。寝てると、力いっぱい引っ張られて」と謂い”お山”に呼ばれていった少女も印象的である。
「秀樹も呼ばれるで。だって、あんた、嘘つきやから」幼少時代に謂われたことは、結構人生を左右することがある。
この子の名前を秀樹は忘れていたが、”チサ”であった。もう彼は逃れられぬ運命であったのだ。しかし周りの巻き込み方も凄まじい。

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最後に、残ったのは、野崎和浩と比嘉真琴と”あれ”を呼び込んだ田原知紗の3人のようであったが、比嘉琴子はどうなったのか分からない。原作はともかく、この映画の流れであれば、続編は是非作って貰いたい。
知紗があちら”お山”と完全に切れたかどうかは分からないし、琴子の能力なら今回のあれを退治して健在でいるのでは。
ともかく、この世の存在で、あちらに呼ばれない人は恐らくいないであろうから。
きっと知紗をキイパーソンにして、また凄い勢いでやって来る。死が。

真琴の膝でスヤスヤ眠る知紗は「オムライスの国の夢」を見ていた。










月世界旅行&メリエスの素晴らしき映画魔術

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Le voyage extraordinaire
2011年
フランス

セルジュ・ブロンベルグ監督
セルジュ・ブロンベルグ、エリック・ランジュ脚本

ブルーノ・アレクシウ音楽

コスタ=ガヴラス
ジャン=ピエール・ジュネ
ミシェル・ゴンドリー
ミシェル・アザナヴィシウス
トム・ハンクス
以上、インタビュー等で出演


主にメリエスの「月世界旅行」(1902年)のカラー版の修復を巡るドキュメンタリー。
このメリエスの作品自体は、1秒16フレームの14分のものである。原作はジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』。
更にH・G・ウェルズの『月世界最初の人間』からも取り入れられている。
まさに奇想天外なストーリーと斬新なVFXによって作られた最初のSF映画だ。

ヒューゴの不思議な発明」にも出て来たメリエスその人の伝記でもある。ヒューゴ~は重厚な物語となっているが。

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最初に復刻されたメリエスの「月世界旅行」のカラー版を何となく見る。
これだけいきなり見ると、何とも言えないコメディ調で現実離れした色彩に彩られたファンタジーにちょっと面食らう。
しかしその後のメリエスの波乱に満ちた半生に触れ、殆どのフィルムが消失したところで漸く探し出した「月世界旅行」の絶望的なまでに痛んだフィルムを20年の歳月を費やしその道の優秀な専門家が集結して修復した経緯を観た後に、再び見る「月世界旅行」の重さは計り知れない。
見れば見る程、不思議な世界だ。不条理だが豊かな夢のなかにいるかのよう。
確かに惹かれるものがある、、、。
飽くまでも前提として、美しい画面で見ることが出来たからである。

よく、あの酷い状態~劣化と謂うより破損・欠落状態~のものをここまで綺麗に修復したものだ。
メリエスの当時もフィルムの一コマ一コマに職人芸で色を塗る途方もない労力と技術により作っていたものだが、激しく痛んだフィルムを修復することは最新テクノロジーを駆使しても大変な労力を要した。
テクノロジーの進化は本当に素晴らしいが、やはりそれをベストな調整の下に使い熟す人間のセンスと熟練がものを言う。
大変な遺産のデジタル修復により、今後傷み、劣化を気にすることが無くなった功績も途轍もなく大きい。

しかし、音楽は頂けない。この部分は(元々無声映画であるし)後でどうにでもなるだろうが。
エールというフランスのエレクトロニカ・バンドが付けた音は全く世界観にそぐわぬ悪趣味の最低の音楽であった。
違和感タップリであり、これは即刻、付け直してもらいたい。

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想像を膨らませて世界を生成する歓びをたっぷりと味わった人であると思う。
科学がそれに追いつき追い越してしまった、みたいなことを言っていたが、それはまた別事である。
今でも妖精や妖怪はしっかりと彼らの場所を持っているし、科学も思想のひとつに過ぎない。
何より自分の豊かなイマジネーションを世界で初めて動画によって描いて魅せたことが大きい。
人々もそれに瞠目し惜しみない賞賛を送ったことで彼の思いは一旦は遂げられたと謂える。

しかし、映画自体が盛んとなり、産業化することで、効率的生産が最優先となる。
当初の時間をたっぷり取った趣味的なイマジネーションの具現化が市場を前にして形骸化してゆく過程を見ることとなる。
しかもまだ、著作権の概念もなく質の落ちる盗作が世界中に蔓延り、オリジナルフィルムも盗まれ、そうこうするうちにメリエス的世界観が人々に飽きられてしまったことが、彼に取り打撃であった。勿論その間の戦争による影響は大だ。
この辺から後は、「ヒューゴの不思議な発明」をこそ観た方が良いかも知れない。









5時から7時までのクレオ

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Cléo de 5 à 7
1962年
フランス、イタリア

アニエス・ヴァルダ監督・脚本

ミシェル・ルグラン音楽
主題歌:作詞 アニエス・ヴァルダ作曲 ミシェル・ルグラン

コリンヌ・マルシャン、、、クレオまたはフロランス(歌手)
アントワーヌ・ブルセイエ、、、アントワーヌ(公園で出会った兵士)
アンナ・カリーナ、、、サイレントの短編映画の登場人物
ジャン=クロード・ブリアリ、、、サイレントの短編映画の登場人物
ジャン・リュック・ゴダール、、、サイレントの短編映画の登場人物
エディ・コンスタンティーヌ、、、サイレントの短編映画の登場人物
サミー・フレイ、、、サイレントの短編映画の登場人物
ドロテ・ブランク、、、ドロテ(クレオの親友、モデル)
ミシェル・ルグラン、、、ボブ(作曲家)
ドミニク・ダヴレー、、、アンジェル(クレオのマネージャー、家政婦)
ホセ・ルイ・ド・ビラロンガ、、、ジョゼ(恋人)


コリンヌ・マルシャンはアニエス・ヴァルダに見出され、初主演だそうだが、見事にヒロインの役柄を全うしている。
色々と有名どころが出ていたみたいだが、ミシェル・ルグランには驚いた。
ミシェル・ルグラン作曲とピアノによるコリンヌ・マルシャン唱の新曲打ち合わせシーンは、大変贅沢で素敵なシーンであった。
ここだけでもこの映画を観る価値があるというもの。何と言ってもシャンソンの曲が良い。

そして、一際モデルオーラを放つコリンヌ・マルシャンが、、、、
本物の日常のパリをリアルタイムで歩く。
友達の車に普通に乗り、パリの街を走り回る。
本物のシトロエンのタクシーでパリの街を走る。
本物のバスでパリのバス路線を走る。
窓に嵌め込み風景は、一つもない。
これまた粋で贅沢。

Cléo002

確かに即興的な演出をあちこちに感じる。
同時録音であることは分かる。
オールロケである。
アニエス・ヴァルダの面目躍如だ。

凡そ2時間の間をほぼリアルタイムにクレオの動きを追ってゆくもの。
細かいキャプチャー毎に、時間(何時何分から~何時何分と)のテロップも入るところが、お洒落。

癌の精密検診を受けて7時にその結果を知ることになっている歌手クレオの5時からの動きが綴られてゆく。
5時。冒頭はカラーで占い師にカードで運命をみてもらうところから始まる。
悉く不吉な兆候が現れてしまう。
クレオは、参る。
この後、映画はずっとモノクロで(ほぼリアルタイムで)進む。

カフェに来ると家政婦兼マネージャーのアンジェルと落ち合う。
ここでクレオは思いっきり悲観するが、アンジェルは保護者の立場で宥める。
しかしこの保護者は凄いお喋りでクレオそっちのけで店員相手に喋り捲る。
カフェを出て気づいたが、パリは人が車道を好き勝手に横断するので大変危ないと聞いたが確かに。これでは事故も多いのではないか、と思う。こんな通りは自分は走りたくない。カーブの時など、とても怖い。
色々と心細い時は買い物である。
特に女子は買い物が気持ちを上げるには一番ではないか。
ふたりで、帽子を選ぶ。アンジェルは結構、縁起を担ぎ煩い。
ここで店主に写真をせがまれる。彼女も悪い気はしない。やはり芸能人の写真は箔が付くというモノ。

Cléo003

タクシーに乗って走り出すと直ぐに隣車線の車がクレオに話しかけてくる。
パリ~フランス人は皆こんな感じなのか。
タクシーが止まる度にアフリカの土人の置物が目に留まる。これは不吉な予感を高める(演出か)。
画学生の住む通りに行くとまた走っている車に取りすがって来る。上からも物をお落とす。昔は排泄物も落としていたのだから、ペストも流行るはずだ、、、。かなり危ないことを普通にしている。
走行中のカメラは、まるで自分が運転している視界だ。

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彼女の部屋は白一色でとても広くて寛げるものだ。小さな猫が遊んでいる。
ここでいきなりクレオが、ぶら下がり健康器?にぶら下がったのには、ちょっとびっくり。
わたしも丁度ぶら下がりたい気分であり、羨ましくなった(昔うちにあったそれは、直ぐに洗濯物干し器となっていた)。
とってもキザな恋人が久しぶりに顔を見に来たが、病気のことを察してくれない。
上手い愛の言葉をペラペラしゃべって忙しいからまた来ると言って帰って行く。
とても剽軽な作曲家のボブと詩人が入れ違いに来て、彼のピアノで新作シャンソンの打ち合わせ~お稽古をするが、最初の明るい雰囲気の曲にはノリノリであったが最後の曲の暗い曲想に文句を言い出て行ってしまう。死の恐怖を感じたのか、、、。
わたしは、ハッキリ言ってクレオのヴォーカルともどもこの曲にとても感動した(このチューンはオーケストラも入り、唱も別録音であることは分かるが)。
流石にどの曲もうっとりする出来のシャンソンである。ピアニストとしての腕前も相当なもの。即興も交えてミシェル・ルグランが芸達者であることが分かった。明らかにコメディ向きだが。
ここのシーンだけは特に何度も観たくなる。

Cléo006  
Cléo005

街をあちこち歩きまわるが、落ち着かない。
病気の事でずっとそわそわする。
グロテスクな大道芸人の芸を見て更に不吉な気持ちに揺らぐ。
カフェに行くが、ジュークボックスで自分の曲を流しても誰も聴いていない。
孤独に打ちのめされる。このカフェは、かなり自然な雰囲気に作っていた。親友のドロテの名が客の会話に出て、彼女に会いに行くことに、、、。

親友のドロテが彫塑の裸婦モデルをしているスタジオに行き、彼女の(ドロテの彼の)車で街を乗り回す。
ここではクレオはよく笑う。
これでかなり気はまぎれはするが、、、。
病気のことや死の恐怖を感じていることも話す。ドロテは素直に受け取る。それがよいのだ。
ドロテの彼氏のところに行き、サイレントの短編映画を見せてもらう。
気晴らしにはなったが、白(光)と黒(暗闇)の対比が何度も見られ、クレオの不安に重なる。
おまけにドロテをタクシーで送って帰る途中で殺人事件の現場に出くわす。ドロテは先ほどクレオの鏡が割れたことを今の事件の被害者の運命と関連付け彼女を落ち着かせる。
ドロテを家の近くで降ろしタクシーでクレオはそのまま進む。
ここからのシーンが素敵だ。音楽も良い。ドロテのおススメの公園の中の滝を観に行く。

水音に耳を澄ませていると、軍人に出逢う。
とてもお喋りな男で閉口するが、アルジェリアに今夜出発と聞いて、自分の病と死への恐怖について語り合う。
話してゆくうちに打ち解け心が和み、夜に電話を医者に掛ける前に、直接病院に一緒に行くことにする。
路線バスで病院のある停留所まで、2人して乗って行く。話ははずむ。
かなりの尺で、こちらも路線バスの旅を一緒に楽しむことが出来る。得した気分だ(笑。
ここでも彼女は兵士に写真をねだられる。
嵌め込み画像でない為、気持ち良い。
病院に着くが担当医はいないと謂われる。
これでは、やはり予定通りに電話で聴くしかないと諦め、アントワーヌがアルジェリアに発つ時間をどう過ごすかという噺になる。

Cléo004

そんな時に医者が車でやって来て、わたしに任せなさいと言う。
放射線治療の事を告げ、必ず治るから心配するなと、、、。
2人の歩く顔の正面からの接写が続く。
クレオから不安が消え、幸せな気持ちが湧き、生きる意欲が充ちて来る。

ほぼドキュメンタリーフィルムを見る感覚だ。
こうしたコンセプト~2時間の間を自分の病(実存)について心配しながら街中を廻り、最後に医者に出逢うという~ほぼリアルタイムの噺は、お洒落で極めて低予算に映画が作れる優れたアイデアであろう。
パリの街が舞台であることも大きい。
それに、主演のコリンヌ・マルシャン~アニエス・ヴァルダの人選~が良かった。
この作風自体もそうだが、大変参考になる作品であると思う。
何より、気に入った。





サラブレッド

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Thoroughbreds
2017年
アメリカ

コリー・フィンリー監督・脚本


アニヤ・テイラー=ジョイ、、、リリー(上流のお嬢様)
オリビア・クック、、、アマンダ(リリーの幼馴染、問題児)
アントン・イェルチン、、、ティム(麻薬の売人)
ポール・スパークス、、、マーク(リリーの継父)
フランシー・スウィフト、、、(リリーの母)


ウィッチ」、「スプリット」、「 モーガン プロトタイプL-9」、「ミスター・ガラス」のアニヤ・テイラー=ジョイが主演であれば、まず何であっても観る(笑。

効果音がとても印象的。
間と不協和音の作る緊張感が絶えない。
独特のリズムとセンス。そう、ズレのセンスか。
カメラのフレーミングにしても、スタイリッシュである。

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最初は対照的な2人に見えたが、どちらも闇は深かった。
リリーの方は義父の高圧的な支配に相当なストレスを覚えており、彼女なりの反抗はしていたが力の差は歴然としていた。
(一流校は退学となり、企業のインターンも辞めていた)。
アマンダは感情を喪失していた。
自分のサラブレッドが足を骨折したため、自ら殺処分したという。それがトラウマとなっているようだ。
また周囲からも動物虐待の目で見られているという。
(リリーとは、乗馬友達なのか。リリーの豪邸にも彼女が白馬に乗っている写真が飾ってあった)。
薬を年下の高校生相手に売り捌いているチンピラのティムも基本、誰にも信用されておらず、まともに相手にされない。
将来は大物になりこの辺一帯を仕切るみたいな法螺を吹いてる。
リリーが義父の殺害に彼を利用しようとしたが、小心者であるティムは逃げてしまう。

このトリオの社会からのはみ出し様が如何にもありそうなもの。その落ち着き先も完全なお嬢様であり刑務所の囚人でありホテルボーイであった。何とも。


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まずは、アマンダの母がリリーに勉強を教えてくれるように頼み、アマンダは謂われた通りにリリー宅を訪ねる。
久しぶりの再会となるらしい。

リリーのママの影は薄い。何でもマークの言いなりのようだ。
マークは日本刀も所持しており、筋肉トレーニングを毎日欠かさない硬派の男だ。
トレーニングマシンを使っており、その不気味な轟音が殊更彼の存在を邸内に際立たせている。
オマケにこの義父は、彼女を問題児ばかりを扱う全寮制の学校に入れる手続きまで勝手にしてしまう。
母は手厚い指導が受けられるのよと、マークには意見など出来ず、全く娘の意思は無視である。

リリーにとっては中学生の時、父を亡くしてからは、闇を溜めこむ生活が続いていたようだ。

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アマンダの挑発によってリリーのマークに対する殺意が次第に意識化される。
そして実際に作戦を練り実行に移す運びとなった。
チンピラのティムをそそのかし、実行犯をやらせ、自分たちはその日は旅行などに出掛けてアリバイ作りをする。
しかし尻込みしたティムはピストルだけ取って逃げてしまう。
マークがスパまで母を迎えに来たのだ。失敗に唖然とするリリー。
その後、ティムは姿をくらます。

リリーの自宅プールでアマンダと潜水で遊んでいる時、リリーはもう息が残っていないのにそのまま潜り続けて溺れかける。
アマンダに助けられるが、彼女のなかでなにか箍が外れたような契機となった感がある。

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ティムに愛想つかせた2人であるが、アマンダはすでに冷静になっており、計画自体の取りやめも考えていた。
しかし逆にリリーは何としても自分たちでマークの殺害を実行しようとしている。
2人はよく、古い白黒映画を観ながら相談をするようになっていた。
この役者たちはもうみんな死んでるわよね、とか、、、確かにそうだ。

びっくりしたのは、リリーがアマンダの飲むオレンジジュースに睡眠薬を入れていたことだ。
アマンダが飲み始めた時に、直ぐにそのことを打ち明け飲まないように言うが、、、。
あなたが眠っている間にマークを殺してそのナイフをあなたの手に握らせようと思ったの、と正直に告白する。
アマンダはそれを聞き、敢えて全部飲み干し忽ち眠りに落ちてしまう。

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アマンダの意思も酌んでか、リリーは刃物を持って二階に上がり、トレーニング中の義父を襲いに行く。
暫く後、マシンの轟音が止まり大きな物音が数回した。
戻って来たリリーは全身血まみれ。
アマンダの手や身体にも返り血を塗り付け、鼾をかいて眠っている彼女に添い寝するリリー。


後に、リリーはお嬢様として落ち着いて暮らし、アマンダは事件当時の記憶を喪失した患者として更生施設?にいた。
ティムが務めるホテルに、リリーが高級車で乗り付けて来て偶然出逢う。
ティムはバツが悪そうにしながら、彼女に義父やアマンダの話を向ける。
アマンダからの手紙が届いたという。しかし、彼女は全く中身は読まなかったらしい。
アマンダのいる部屋には、リリーと彼女がそれぞれの馬に乗る写真が飾ってあった。
悪くない所と評し、淡々として作業に就いている。

親友同士ということか、、、。恐らくそうなのだ。
双方に解放感が窺えた点で、ハッピーエンドの映画であったと謂える。


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アトランティスのこころ」、「オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主」のアントン・イェルチン。
これが遺作というのも寂しい。









幸福

Le Bonheur005

Le Bonheur
1964年
フランス

アニエス・ヴァルダ監督・脚本
ジャン=ミシェル・デュファイ音楽


ジャン・クロード・ドルオー、、、フランシス(夫)
クレール・ドルオー、、、テレーゼ(妻)
マリー・フランス・ボワイエ、、、エミリー(愛人~妻)
サンドリーヌ・ドルオー、、、ジズー(長女)
オリヴィエ・ドルオー、、、ピエロ(長男)


「ヌーヴェルヴァーグの祖母」アニエス・ヴァルダの作品を初めて観た。
平穏に暮らす4人家族の満ち足りた時間が流れる。
田園風景が印象派の絵画のように柔らかく、明るく穏やかである。
しかし、人はそんななかに過剰を求める。それとも何らかの喪失が根底にあっての事か、、、。
夫は別の女性に心惹かれる。
恐らくファースト・インプレッションで、お互いに惹かれ合ったのだろう。
直ぐに意気投合して恋人同士になる。
暫くは、2人とも誰にもそれを喋らずにいたが、男の方がこともあろうに妻に愛人が出来た事を喋ってしまう。
嘘がつけない性格だからと。

Le Bonheur003

可愛い幼い子供が二人いることを忘れている。
妻との仲も大変良いのだし、子育ても順調でこれだけ家庭が安定していたら、これを壊すようなことは極力したくはないものではないか。
他に目移りしようが、現実的に考え所謂、浮気としてその件は、ひた隠しにした方がリスクマネージメント上安全である。
(好きになってしまったからには、もうそれ以前には戻れない。今後について真剣に考え手を打つしかない)。
嘘をつくのが嫌いと言っても、妻を愛しているのだから、もう一人好きな人が出来たからと言って、わざわざそれを本人に伝える必要はあるまい。自分の気持ちだけではなく、彼女のこころに対する想像力を働かせる必要がある。

相手の彼女は、最初から彼が所帯持ちであることを知っており、その立場で付き合う覚悟でいる。
とは言え、彼の奥さんに嫉妬はしており、彼との時間を多く持ちたいとは願っているようだ。
(ここには後の危険因子は潜んでいよう)。

Le Bonheur001

いつものように休日に森にピクニックに行ったところで、子供二人がテントで眠静まった時に、実は、、、という感じで夫はホントに喋ってしまう。
妻は、勿論驚くが、君の事はとても愛しているが、向こうの事も愛しているんだとあっけらかんと言う。
離婚などする気は全くなく、今まで通りやっていくが、向こうとも上手くやってゆきたいと、、、。
これがもしかしたら、この男の良い所かも知れないが、妻にとっては青天の霹靂に違いない。
夫のどちらとも上手くやって行けるという理屈を呆気にとられながらも受け容れ、取り敢えず納得したような妻であった。

ここで取っ組み合いの喧嘩をするくらいが良かったように思うが。
この妻は大変真面目で献身的な人であるが、繊細で内向的な面を強く感じる。
長女が目を覚ますと、妻がいない。
子供二人と妻を森の中を探して歩く。
だんだん尋常ではない胸騒ぎを覚え、森に和む人々に片っ端から「ブロンドの青いドレスの女性」を聞いて彷徨う。

Le Bonheur002

森の湖畔で異変に気付く。
子供を置いて、そこに駆けつけると、変わり果てた妻の横たわる姿が。
全て納得され、また平穏な時間が流れ始めたと思ったのも束の間。
妻はまず夫の言葉を呑み込んで、静かに反芻していたのだろう。
子供たちと夫が居眠りをしている最中に彼女は起き出し、森で出逢った人によると、花を抱いて歩いていたという。

一端、子供たちは兄夫婦に預けられることとなったが、愛人の彼女が奥さんの座に就き、これまでのように二人の子供の世話をやき、休日には森にこれまでとほぼ同様の形でピクニックに出掛けていた。
子供たちも幼いせいか直ぐに彼女に懐き、ママではなくエミリーと名で呼んではいるが、単に表向きは女性が入れ替わっただけの構図に窺える。


淡々とその後も同じ明るさで描かれてゆくが、、、。
男は、表向きはこれまでと変わりなく生活をしているように見えて、大きな喪失感を抱きつつ生きているには違いない。

Le Bonheur004

成程、アニエス・ヴァルダ、、、。
本当にシンプルに無駄なく絞り込んで描く。
彼女自身(人となり)を「顔たち、ところどころ」でじっくり見た後の為、とても感慨深いものがある。
他の作品も観てみたい。







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