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GOMA28

Author:GOMA28
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劇場版総集編メイドインアビス 旅立ちの夜明け・放浪する黄昏

MADE IN ABYSS001

MADE IN ABYSS
2019

「劇場版総集編メイドインアビス」の前編・後編である。
(昨日、この二編を続けて観た。感想は絶句して書けなかった)。

小島正幸 監督
つくしあきひと 原作
倉田英之、小柳啓伍 脚本
Kevin Penkin 音楽

富田美憂、、、リコ(「赤笛」、探窟家見習い)
伊瀬茉莉也、、、レグ(少年型ロボット、記憶を失っている)
井澤詩織、、、ナナチ(成れ果て)
大原さやか、、、オーゼン(「白笛」の探窟家、二層目の「監視基地」に暮らす)
豊崎愛生、、、マルルク(「蒼笛」の小柄な少年、オーゼンの弟子)
坂本真綾、、、ライザ(リコの母、「白笛」の伝説的探窟家)
森川智之、、、ボンドルド(「白笛」、イドフロントで研究を進める)

更なる続編『メイドインアビス 深き魂の黎明』は、まだ出て間もなく、AmazonPrimeになっていないので、その時期になったら観るつもり。まだまだ続く壮大な物語なのだ。


地底~縦穴という着想が良い。深海以外に、ロマンが残っている場所と謂えば、もう地下しかないだろう。しかしファンタジーというには苛烈すぎる(ダークファンタジーと謂っても甘い)。
つまり宮崎駿的世界からは程遠い。
残酷でリアリスティックな圧倒的な世界観に惹き込まれる。
ジュール・ベルヌをはじめから超えていた。

こちらは、火山の火口からではなく、アビスという穴から入って行く。
1900年前に南ベオルスカの孤島で発見された直径約1000メートル、深さ不明の縦穴である。
下に降りたら最後、戻るには「上昇負荷」に苦しむことになる。上昇負荷とはアビスの呪いであるらしい。
お宝~遺物を探し当てたとしても持って上がることは極めて困難となるのだ。

アビスは特異な生態系を持ち、それらは宙を舞い極めて凶暴で破壊力のあるものが多く人にとっては大変危険な場所である。
(クリーチャーたちの造形は適確であると思う)。
知性を持つ者もいたようで、今の人には作れない(人工物である)「遺物」があちこちで見つかる。
穴の中の空間は横に大変広大に広がり、そこには特有の力場が生じている。
地上とは時間の流れも変わる。
猶、この広大な縦穴を探検する者を「探窟家」と呼ぶ。

「探窟家」はその経験と技量~能力により、階級がある。
深界一層の深度450mまで降りる「赤笛」という見習いに始まり、深界二層まで可能な「蒼笛」、深界四層まで可能な師範代の「月笛」、深界五層まで可能な達人の「黒笛」、深度制限のない英雄の「白笛」までに分かれる。
彼らは帰還する為、上に戻ろうとするが、その際に「アビスの呪い」とも呼ばれる恐ろしく身体に作用する「上昇負荷」がかかる。これには「祝福」という効果も見られ新たな感覚の獲得や肉体の強化も図られる場合もあるという。

主人公リコは大穴の街オースの西地区にあるベルチェロ孤児院で生活をしている。
探窟家の築いた拠点が巨大化し、街となったという。
彼女の母は偉大な白笛の探窟家であるが、行方知れずである為、孤児として、ここで過ごしている。

まずは孤児たちの遺物を探す競争で始まる。それで小遣い稼ぎもしている様子。
そしてある日、リコの母の白笛と彼女からとみられる手紙も見つかる。
そこにはアビスで待っていると、、、。
この笛と手紙と以前からの強い好奇心~冒険心からリコは、アビスの底まで行く決心を固める。
友達からは止められるが、命を助けられた少年型ロボットのレグと共に、孤児院を抜け出し、アビスの下を目指す。
ここでは、その動機を憧れと言っていた。

縦穴の構造と深度は下のように段階に分けられている。
深界一層 : アビスの淵
 1350mまでの深度。上昇負荷は軽い目まいと吐き気。
深界二層 : 誘いの森
 1350mから2600mの深度。上昇負荷は重い吐き気と頭痛、末端の痺れ。
深界三層 : 大断層
 2600mから7000mの深度。上記に加え、上昇負荷は平衡感覚に異常をきたし、幻覚や幻聴を見る。
深界四層 : 巨人の盃
 7000mから12000mの深度。上昇負荷は全身に走る激痛と、穴という穴からの流血。「ナナチハウス」はこの深界にある。
深界五層 : なきがらの海
 12000mから13000mの深度。上昇負荷は全感覚の喪失と、それに伴う意識混濁、自傷行為。白笛はここまで可能。イドフロント(前線基地)がある。
深界六層 : 還らずの都
 13000mから15500mの深度。上昇負荷は人間性の喪失もしくは死。六層からの上昇負荷によって異形と化した者は「成れ果て」と呼ばれる。ナナチと彼のパートナーのミーティーがこの深界でボンドルドによって実験材料に使われる。 
深界七層 : 最果ての渦
 15500m以深の深度。上昇負荷は確実な死。
深界極点 : 奈落の底
 20000m以深の深度。

設定は荒唐無稽だが、性的な部分やグロテスクなシーンも漏らさず描かれており大変リアリスティックである。
下に降りるだけではなく同時にキャラの掘り下げも充分になされてゆく。
上昇負荷という疑似科学的な呪いも絶妙だ。
異界感を出すのに効果充分である。が、日常の異界感を逆照射するところでもある。

「度し難い」という言葉がレグの癖である。オーゼンも使っていた。
癖の強い登場人物たちと凶暴なクリーチャーに加え上昇負荷などの過酷な環境~呪いである。
激しい闘いや大きな怪我の思い切った処置や究極の選択などを強いられる峻烈な冒険となってゆく。
まだ解かれぬ謎もあり、、。

憧れだけで、自分の腕を間接で外すのではなく途中で折るなどして、冒険をしとおせるか、、、。
リコの場合尊敬する母に遭うという目的もあろうが。
正体不明のロボット?レグだが、どうやらアビスの底からやって来た(遺物)らしい。
リコもアビスのなかで生まれて間もなく、遺物である「呪い除けの籠」(上昇負荷から守る籠)に入れられライザに頼まれたオーゼンが地上まで運んでくれたという。それでも目に呪いは受けてしまったが。
何とリコはオーゼンがライザから取り上げたときには、すでに死んでいたが呪い除けの籠に入れたら動き出したという。とすればこの籠の利用価値はかなり大きくはないか?この過酷極まりない世界において。

色々と分からぬことも多いが、リコとレグは厳しい経験を通し、アビスの中で出逢ったナナチやオーゼンたちからも多くを学ぶことで、知恵と逞しさは増してゆく。
最も大きなレグにとっての経験は、死によってしか解放されない存在を目の当たりにし、親友となったそのパートナーから、彼女の尊厳死を頼まれ実行したことだ。
知性も言葉も失い、自殺も殺すこともかなわず、不死の身体となってしまった呪われたミーティーを、レグはナナチに頼まれ、火葬砲で滅却して魂を解放する。
こんな極限的経験は、地上で子供が出来る事とは通常思えないが、、、。
地下世界と呪い、このフィルター~パラダイムをかけると自ずと見えて来ることでもあろうか。
時間も流れを変え~固有時を変えて。
実際、地上の日常界においても、アビスは至る所に存在すると謂える。
わたしにとっても、見えないものことを見えるようにする重要さを痛感する昨今なのだ。


理不尽な障害を乗り越えて成長する子供たちの通過儀礼にもとれるが、、、。
だとすれば凄いイニシエーションだ。

MADE IN ABYSS002



今回は具体的なこと~シーンはほとんど書いていない。





劇場版総集編メイドインアビス 旅立ちの夜明け


劇場版総集編メイドインアビス 放浪する黄昏


AmazonPrimeで観るのがお得か。





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幼女戦記

The Saga of Tanya the Evil001

The Saga of Tanya the Evil
2019年

上村 泰 監督
猪原健太 脚本
細越裕治 キャラクターデザイン・総作画監督
カルロ・ゼン 原作
篠月しのぶ キャラクター原案
片山修志 音楽


悠木 碧、、、ターニャ・フォン・デグレチャフ(帝国軍の航空魔導師士官、少佐)
早見沙織、、、ヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフ/ヴィーシャ(航空魔導師士官)
玄田哲章、、、クルト・フォン・ルーデルドルフ(帝国軍参謀本部所属、作戦参謀次長、准将)
大塚芳忠、、、ハンス・フォン・ゼートゥーア(帝国軍参謀本部所属、戦務参謀次長)
飛田展男、、、アーデルハイト・フォン・シューゲル(帝国軍エレニウム工廠主任技師)
濱野大輝、、、マテウス・ヨハン・ヴァイス(航空魔導師士官、中尉)
森川智之、、、ウィリアム・ドレイク(連合王国の海兵魔導部隊指揮者、中佐)
戸松 遥、、、メアリー・スー准尉



>統一暦1926年。
>ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐率いる、帝国軍第二〇三航空魔導大隊は、
>南方大陸にて共和国軍残党を相手取る戦役を征す。

というところから、いきなり凄まじそうな戦闘が幾つも繰り広げられてゆく。
何と空を飛ぶ「魔導師」という魔術?を使う部隊が活躍しているではないか。
しかしどうも設定は全くの絵空事というより史実に微妙にリンクしてもいるようで、原作を読むときっと理解が深まり面白さも倍増するのだろう、、、。
ライトノベルやTVアニメ版で予め観ていないと、詳細に関しては、なんのこっちゃというところは多い、、、。
持ってるガジェットも能力についても全く説明なし。知ってる人しか分からぬか。
(メディアミックスで展開されてもいるそうだ)
全く白紙の状態で、この唐突な始まりから観ていても、荒唐無稽だが妙に力強く、グイグイ惹き込まれ、これはこれで結構楽しめてしまう。
内容はよく分からずとも目まぐるしい展開は面白い。
但し、魔導師同士が空中でホバリングしたままちょっと離れたところと普通に会話している。
全く銃弾が当たらない。バリアでそれを防いでいるというなら分かるが、どうもそうでもない。
この辺が、微妙に緊張感を削ぐ。

The Saga of Tanya the Evil005

ターニャというヒロインは、まだ10歳にもなっていないような少女であるが、軍隊を率いる少佐(終わりごろは中佐だったか)で、大変合理的かつ大胆な戦略で隊を連戦連勝に導いていた。
帝国軍としても頼みの綱のようである。
こういう人間離れした魔術すら使える「魔導士」がいれば、アドヴァンテージは高い。
物凄い戦闘力である。空中戦の表現は今一つというところなのだが、、、。
しかし、スリリングな攻防というより多勢に無勢で戦略を適確に出しながらもうんざりする闘いに身を投じる、この女の子の素性はとても気になる。
(恐らくこれを観る人たちの多くは、もう前提として知っているのだろうが)。

The Saga of Tanya the Evil002

うちの次女が2次元オタクなのだが、この凄い前提と謂い、荒唐無稽な戦闘と謂い、2次元の抽象性のなかにおいては、違和感より説得力が勝る。これがアニメの魔力か、、、久しぶりにアニメ~2次元に浸り、感慨深い。

上官に対する説得や戦略を練る時などは、非常に合理的で理路整然としているが、実際にやること~表情を見ると狂気を帯びて来る。迫真の狂気だ(笑。ここがアニメの強みだ。実写でこの顔はまず無理(爆。
日本アニメの2次元パワーはやはり凄いものを感じる。

The Saga of Tanya the Evil003
The Saga of Tanya the Evil004

軍のお偉いさんは、皆それ相応の歳なのに、こんな飛び抜けて若い娘がその中で優秀さを評価されて重用されているというのも、かなり開けた軍組織なのだなと思った。
まあ、魔法を使うのだから特殊能力者枠なのだろうが。
この軍首脳陣が、それぞれ微妙に異なる立ち位置にあるのも分かるが、誰が誰だか馴染んでいないこの映画一編見ただけでは分からない。
ただ、ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐が結構、立場の違う上官からこき使われていることは推察できる。

The Saga of Tanya the Evil006

ターニャ・フォン・デグレチャフとは、そもそも何者なのか、、、
Wikiで見てみると、何と日本のエリートサラリーマンが誰だかに殺された後、この娘に転生したとか、、、。
しかも前生の記憶を持ち越して今生の少女になっているそうだ。やりにくくないのか、、、。
存在Xという超越者がこれに深く絡んでいるとか。この存在に魔力を貰ったらしい。
敵対するメアリー・スーという少女も同じく力を授かっているそうだ。
何とも、、、存在Xまでいるのか?この辺は深入りして調べてみてもそれで何やら納得とかいう次元のものではなさそうなので、それはよしとする。
(もともとわたしは、その手の事には拘らないので)。

終わりごろでは、後方支援を上層部に願い出て、綿密な軍の立て直し細案を提出して受理され、前から狙っていたディスクワークに就き、一生これで過ごすぞと喜んでいた。
参謀の能力が高いのは、エリートサラリーマンの時の情報分析力などが活きているのか、、、。後方で楽していい思いをしたいというのは、やはりオヤジ感覚である。見かけは幼い少女だが中身はオヤジか。この先どうなるのか、この子のアイデンティティが心配になるのだが、、、。

だが、そのディスクワークの夢も水泡に帰し、直ぐに最前線に呼び戻されて、この映画は終わると、、、。

The Saga of Tanya the Evil007

メアリー・スーという連合国側についている魔導師が、ターニャ・フォン・デグレチャフと同等の力を持っており、2人は壮絶な闘いを繰り広げる。まさに死闘であった。
だが、2人は考え方が大きく異なる。ターニャは国家間の対立を距離を持って俯瞰し、戦争は必要悪と捉え、終息に向け闘っている。但し、彼女はコミュニストを毛嫌いしており彼らに対しては情け容赦ない。

メアリーは戦争に参加しているのは、父を帝国軍に殺されたという恨みからであり、その武器からターニャが直截的な仇であると決め込み、彼女を悪魔として葬る事だけに執念を燃やしている。ターニャにとっては、とてもウザい相手であろう。
更に、仇を見つけると、軍の命令などそっちのけで単独行動に突っ走る。
普通なら軍法会議に掛けられたり除隊させられるところであろうが、その爆発的な力の為、処罰対象にはならぬのか、、、上官の気苦労が募る様子も描かれていた。

普通の人間ならとっくに死んでいるようなダメージを喰らっても魔導師なら回復力も只ならぬものを持っているらしい。
この2人の因縁の対決はまだ次回に持ち越される。

The Saga of Tanya the Evil008


終わりは完全に次回に続くという形であった。
何やらすごく長く続きそうな壮大な噺~戦争物語のようである。

続編が出たら取り敢えず観てみるつもりだが、ライトノベルやテレビアニメ版まで遡って見る気はない。





海を飛ぶ夢

Mar adentro001

Mar adentro
2004年
スペイン・フランス・イタリア

アレハンドロ・アメナーバル監督・脚本・編集・音楽・製作

ハビエル・バルデム、、、ラモン・サンペドロ
ベレン・ルエダ、、、フリア
ロラ・ドゥエニャス、、、ロサ
クララ・セグラ、、、ジェネ
マベル・リベラ、、、マヌエラ
セルソ・ブガーリョ、、、ホセ
タマル・ノバス、、、ハビ
ジョアン・ダルマウ、、、ホアキン
フランセスク・ガリード、、、マルク


「内なる海」
25歳の時に頸椎を損傷し、30年にわたり全身の不随を生きたラモン・サンペドロの手記『地獄からの手紙』をもとに作った映画だという。
海を熟知する漁師が何故、浅瀬にダイブしたのか、その訳(無意識的な動機)は分からぬが、、、。

人間の「尊厳」とは、、、。「死を選ぶ自由」とは、、、。

Mar adentro002

主人公にとって生きることはすでに義務でしかなかった。
”生きる義務”
すると”死ぬ権利”が当然、浮かぶ。

彼の環境は裕福ではないが、特に兄嫁の献身的な介護は、その適切な距離感からしても素晴らしいものに思える。
父も兄もその息子も、ラモンの尊厳死の主張には賛成しかねるにせよ、彼の気持ちを受け止め尊重していると謂えよう。
兄は家族の中では、彼の死を最も否定しているが、弟を愛おしく思う心から少しでも長く生きていてもらいたいと願っている。
その息子は、ラモンの手足となり彼にいいようにこき使われているが、かなり親密な人間関係は出来ていた。

しかし、体が頭部以外不随状態だとすると、生きる上でプライバシーは、ほぼ存在すまい。
これは、健常者の想像出来ない身体的事情である。
自分という内面~秘密を持った身体性が果たして保証されるか。
極めて危うくなり脅かされるだろう。
その「場所」が覚束ないのなら、周囲に対する責任だとか義務などを果たすとかいう以前の状況である。
主体そのものの存在危機なのだ。これをもって人間の尊厳の危機と謂っても良い。

ここで宗教的イデオロギーがこの極限的な状況~実存に真摯に向き合い生きる人には全くそぐわないものになっていることがはっきりする。
宗教が思考停止を要請していると謂うより前に、そこには「愛」が決定的に無い事を知る。
人が生きるべきか死ぬべきかを選択しようという際に、判断をある意味決定づける要素としての。

Mar adentro003

普段、極めてシニカルで頑固ながら落ち着いた生活を送っていた彼が、夜中に激しく取り乱す。
尊厳死~安楽死を巡って裁判闘争する際に雇った弁護士フリアも不治の病(脳血管性痴呆症)を抱えていたことを知り、二人は急速に接近する。彼女はラモン宅で倒れ車椅子の生活となり弁護は他の弁護士へと引き継がれる。
過酷な生に耐え続ける二人であるからこそ共有出来るものは当然あろう。
ラモンの詩を理解する豊かな知性をフリアが持っていたことも外せない(ここはマヌエラも同じである)。
そして、彼の詩集を出版するところまで漕ぎつけたあかつきには、同時ではないが二人して安楽死を迎えようと約束していた。
その時ほど、ラモンが安らいだ表情を見せたことはない。
フリアが出版までの全ての手筈を整え製本まで首尾よく進み、ついに本が彼のもとに一冊届いた時に、挟まれていた彼女からの手紙を見て愕然とする。
(その手紙の内容はわれわれには明かされないが、想像のつくものであった、、、)。

フリアの夫はとても献身的な人であり、彼女はきっと彼の説得に応じたのだろう。
自ら死ぬことは止めたのだ。
一緒に死のうという言葉がラモンにとってどれだけ救いであったか。
どれほど大きなものであったか。
勿論、人は原理的に二人で死ぬことは不可能だ。
しかし、自ら死を選ぶことを深く理解・共感し同意してくれたことこそが全てなのだ。
(尊厳死を認めさせる政治的組織以外の人々で、そうしてくれた人は恐らく彼女だけであったはず)。
わたしもあなたと死にます、と。
これは愛と呼んでよいはず。
初めて彼は深い安らぎと歓びを得たに違いない。

彼が何度も白昼夢で自ら起き上がり海辺を散策する彼女に追いつき愛を語ったり、ベッドの横の窓から勢いよく飛んで、美しい海辺まで滑空しそのまま大海原を自由に飛んだり、、、その心象風景~イマジネーションは彼女のお陰で芽生えた確固たる内面であり尊厳を保証するものであったはず。

最も大切な人との約束~言葉が反故にされた。
これほど大きな喪失があるか。
改めて彼は思う「なぜ皆のように自分の人生に満足できないのか」と。
(わたしも度合いの問題で、ほぼ同様の気持ちであるが)。
マヌエラに頼み、睡眠薬で何とか眠りにつく。

Mar adentro005

ラモンを30年近く息子と変わりなく親身になって面倒をみてきているマヌエラにとって、目の上のたんこぶは、突然TVを見て訪問してきたロサという女である。
自分がシングルマザーで子供二人を抱え生活苦でもあり、男運が悪いと本人が言うように、どこか人間関係(愛着関係)に問題を抱えている彼女は、ラモンに異様な拘りを持ちしょっちゅう彼の部屋を訪れるようになる。依存性が高いのだ。
どうもこの女は軽佻浮薄で押しつけがましい。これは牧師と変わらない。
動けない彼なら自分のものにできるという感覚か。彼に尽くすことで自分の存在価値、自尊心を得ようとしたものか。
自分の悩みを相談したり、子供を連れて来たり、好意を持ったと仄めかしたりで関係性を築こうとする。
始めは、多くの一般人やわざわざ家にまで押し掛けて来て、命は自分のものではない、生きなければならないなどと説教に来る牧師と同じようなことを言っていたが(この牧師はラモンとマヌエラに欺瞞をこっぴどく晒され退散する)、次第に彼の気を引くような自死の手助けをするような噺をし始める。
マヌエラはフリアは高くかっていたが、こういう女は嫌いである。

ラモンは死に際して、彼のお金でロサが取った海の見える部屋で最後の時を2人で過ごすことにする。
これはフリアを失った、ラモンの諦観による流れであろうか。

Mar adentro004

何と言っても胸に込上げて来たのが、ラモンがロサと短い時を共にしその後、自死を決行するために車に寝かされ家を出るシーンだ。
見送る父の表情、弟の為海を捨て農業に就き彼の面倒をみてきた兄の表情、そして長年献身的に介護にあたった義姉の感極まった表情に、観ているこちらも耐え切れなくなる。そして叔父さんの原稿を全てパソコンで打った甥のハビは、去って行くラモンの車を追い走りだす。理由などない。後を走って行ってどうなるものでもない。
だが、行かないで欲しいという素直な気持ちは明白だ。
そうではないか。
誰だってホントは行かないで欲しいに決まってる。
しかし人間であるがために、彼は行くしかなかった。

死んだ彼、死ぬことは止めたが記憶を失った彼女。彼女はラモンのことすら覚えていなかった。
そうこうしながらも、彼の賛同者でもあるジェネは身籠り、新しい命が生まれる。

「なぜ皆のように自分の人生に満足できないのか」
そう思う人が、また生まれてくる。




圧倒的なキャストであったが、主演の2人は当然として、初老の兄嫁マヌエラ役であるマベル・リベラの演技にはとても胸を打たれた。





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顔たち、ところどころ

Visages Villages004

Visages Villages
2017年
フランス

アニエス・ヴァルダ、JR監督・製作
アニエス・ヴァルダ脚本
マチュー・シェディッド音楽


アニエス・ヴァルダ(映画監督)
JR(写真アーティスト)


Visages Villages006

これほどお洒落なペアのドキュメンタリー映画は初めて観た。
巨大ポートレートを壁に貼るアーティストのJRという人は初めて知った。
(JRという~ポピュラー過ぎる~響きは、日本においてはちょっとNGかも知れないが)。
この人もサングラスを外さない匿名性の高い芸術家のようだ。
バンクシーみたいな直截的で強烈な政治性はないが。
(常に壁面を探している。それは不可避的に政治性は帯びるが、バンクシーが夜中にやる作業を彼は真昼に衆目の下で行う)。
バンクシーの孤独さ孤高さとは大きく異なり、人々との直接的な関係性は実に濃い。
それにより彼らとの間に作られる場に想像力が羽ばたく。
訪れた土地で必ず人々と打ち解け親密になる。
「芸術の力を感じる」撮られて貼られた労働者が呟いて去ってゆく、、、、。

Visages Villages005


アニエス・ヴァルダは数々の賞を受賞している「ヌーヴェルヴァーグの祖母」と称えられる監督であり、映画に携わる前は写真家であった。
わたしも以前から彼女の「5時から7時までのクレオ」を観てみたいと思いつつまだそのままでいる。
この映画で見るととてもお茶目で可愛らしい人である。
映画の共作は初めてのようだ。ここでは語り部も受け持つ。
2019年に亡くなっており、本作が最後の監督を務めた映画となる。
終始、JRと仲良く田舎の旅を満喫するが、サングラスをかけていることに時折苛立つ。
(やはりJRと旅というのがわたし的に変に引っかかる(爆)。

Visages Villages008
Visages Villages009

JRの後ろが写真ブースになっているクールな車がとても素敵。
この車に二人で乗りそこらじゅうを回ってその土地の人々の写真(顔写真)を撮る。
直ぐに車のボディからペロンと巨大な写真がプリントアウトされ、糊で壁に貼り付けてゆく。
壁なのだ。
「壁」
この写真を貼るべく存在する壁がある。
最初からこの絵があった壁になる。
違和感など全くないのだ、、、。

Visages Villages002

凹凸でゴツゴツな壁に貼られた巨大なモニュメンタルな写真は、途轍もなく偉大なものに思われた。
瞬時に撮られた写真の、時間の畳み込まれようが尋常ではない。
そして、列車に貼られた巨大な目は行く先々で物語を生んで行くのだろう。
(場所を横断する壁である)。

Visages Villages001

映画では短時間に編集されているが、巨大な写真を凸凹な壁面に貼る作業は、かなり大変だと思う。
撮る~プリントアウトの方がよほど楽に思える(実際楽だ)。
彼の万能カーが自動でやってくれるし。
このボディそのものがカメラの形をした車、特注物であることは分かるが、凄い。
特に欲しいとは思わないが。
わたしには、「壁」が探せない。探せたとしても高いところに登って糊で貼り付け作業が出来るとは思えない。
もし貰ったとしても宝の持ち腐れになる(笑。

Visages Villages003

33歳のJRと88歳のアニエス・ヴァルダの凸凹コンビの旅である。
村人からどういう出会いなんだい?なんて聞かれたりする(笑。
親子ほどの歳の差で興味も沸くか。
「人に出逢うとこれが最後といつも思う」とアニエスは言う。
一期一会である。
確かに生涯に一度しかない機会ととらえ人に相対することをこの二人旅でしているのだ。

Visages Villages007

センスが良い。
絵~フレーミングのセンス、音楽にしても、田園や廃墟に良くマッチする。
特にロケーション。その美しさ。フランスの田舎とはこうも素敵なのか、、、。

海辺に落下したドイツ軍が作ったトーチカに写真を貼った翌日見に来るとそれは綺麗に剥ぎ取られていた。
「海の仕事は早い」、、、「写真は消えた。わたしたちも消える」、、、確かに。
自然に晒された壁面においては、絵にせよ貼り付けた写真にせよ、消え去るまでの時間は短い。
無常で、趣深い。

2人は彼女の旧友ゴダールに電車で逢いに行く。しかし彼は彼らが来るのを知っていて家を留守にする。
「コートダジュールの方へ」(彼女の2作目の映画)と入り口に彼の筆跡でメッセージ~謎かけが記してあった。
彼女はその仕打ちに腹を立て情けなくなる。
わざわざ会いに来たのに結局、逢えなかった。
近くの湖のほとりで落ち込むアニエスに、JRはサングラスを初めて外して慰める。


その後ろ姿がイラストへと変わり、エンドロールとセンスの良い音楽が流れてゆく。

これは、環境ビデオにもよい。







コンフィデンスマンJP  ロマンス編

THE CONFIDENCEMAN JP001

THE CONFIDENCEMAN JP
2019年

田中亮 監督
古沢良太 脚本

長澤まさみ、、、ダー子
東出昌大、、、ボクちゃん
小日向文世、、、リチャード
織田梨沙、、、モナコ
竹内結子、、、ラン・リウ
三浦春馬、、、ジェシー
江口洋介、、、赤星栄介
小手伸也、、、五十嵐
石黒賢、、、城ヶ崎善三
小栗旬、、、宝石研磨職人
前田敦子、、、鈴木さん

THE CONFIDENCEMAN JP002

キャストがやたらと豪華であった。
ただ、最後まで見るととても奇妙な映画であることに気づく。
謎解きがダー子たちによってなされ、実は誰と誰が組んでいたということが分かった時点で、物語のなかに不自然なシーンが沢山あるのだ。本当に組んでいる者同士でいる時や騙す対象がいない時にあり得ない演技を役者がしているのだ。
その演技~演出は視聴者を騙すものではあっても、その物語のコンテクスト上では、明らかにおかしい。
物語そのものを観ると大きく破綻している。

THE CONFIDENCEMAN JP003

騙す仕込みにしてもどこでそれ程の大掛かりな作業が出来たのか。
最後の種明かしは、どう見ても安易なやり方にしか思えない。
何にしても、当初からしっかりした伏線を張って丁寧に回収することでどんでん返しが図られなければ。
最後から見ると、あり得ない役者の動き~シーンが幾つも気になって来る。
物語そのものとして振り返ると、完全に破綻している。

THE CONFIDENCEMAN JP004

これまで観た、どんでん返しの見事な映画なら、そこまでのシーンが全てなるほど、だからこの時こう動いたのかと納得できるものとなっている。だが残念ながらこの映画では、それらの辻褄が合わないのだ。

キャラクター的に面白いので、その辺を基本に忠実にしっかり作り込めば、面白く充実した作品になったであろうに。
これでは、どうにも、、、。
織田梨沙という個性的な女優は、これから先が面白そう。
主演三人は、もう出来上がっていて、ストーリーさえしっかりしていれば、申し分ない世界観に浸れるはず。

THE CONFIDENCEMAN JP005

それよりも、東出昌大はここでこういうセリフは言いにくいだろうな~と思ったり、、、
三浦春馬はやっぱり華のある役者だな~。いくちゃんとも舞台で共演していて、彼女もショックを受けて生出演番組で久保さんが急遽代役を務めていたなあ~とか、、、
何であんなことに、と何とも言えない気分に落ち込んでしまった。
こうしてみると本当に惜しい役者を亡くした事が分かる。
周りの人は彼の内的葛藤や苦悩に気づかなかったのだろうか。
(実際、気づかれないものなのだ)。
そちらの方にばかり気持ちが向いてしまった、、、。









リアリティのダンス

La danza de la realidad001

La danza de la realidad
2013年
チリ、フランス

アレハンドロ・ホドロフスキー監督・脚本・製作・原作
アダン・ホドロフスキー音楽


ブロンティス・ホドロフスキー、、、ハイメ(父)
パメラ・フローレス、、、サラ(母)
イェレミアス・ハースコヴィッツ、、、アレハンドロ(少年期)
アレハンドロ・ホドロフスキー、、、アレハンドロ
クリストバル・ホドロフスキー、、、行者
アダン・ホドロフスキー、、、アナキスト


「辛い年月の重さに耐えても、心の中にはまだ少年がいる」。
ならば自己救済のための作品が作れるということだ。

アートによる心理療法~「サイコマジック」としての映画という狙いが良く分かる。
一家総出?の大熱演である。
演技も良いが末の息子アダン・ホドロフスキーの音楽が良い。
そして何より凄まじいイマジネーション。
毒親を見事解脱?解放し少年の自分を抱き締める叙情詩か。
普通の人なら優れたカウンセラーを探し出しセラピーを1年とか受けてどうにかなるかどうか、というところだが。
彼(彼のファミリー)は、このルーツを芸術で治癒、昇華させてしまう。
この迸るエネルギーには圧倒されるばかり。

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ビビットな色彩感覚が寺山修司に似たものを感じる(笑。色彩は両者にとって肝心な要素であろう。
フリークスたちが、とてもエキセントリックに演じていたが、その光景にフェリーニを思い出してしまった。
そして強烈な母サラのセリフが全てオペラ(アリア)仕立て。
(ただ、この母親が何のきっかけで息子にこころを開いたのかそこを掴み損ねた、、、また眠ってしまったか)。

夢でも現でもない異様な強度の「場」がめくるめく成立してゆく。

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ロシア系ユダヤ人ということで学校では虐められ、父からは強権的に強い男らしさを求められ折檻される。
母は、アレハンドロを自分の父の生まれ変わりと信じ、金髪のかつらを付けさせられ役を負わされる。
奇怪で異常だ。自分の生を到底生きられない。強烈な毒親だ(わたしの毒親とは種類は違うがその抑圧とコントロールは見事なものだ)。
その父親役を監督の息子が演じているところがこれまた凄い。
この長男ブロンティス・ホドロフスキーの熱演には恐れ入った。
パメラ・フローレスの怪演にも唖然とし続けるしかなかったが、、、。

祖父を演じ切ったことは、孫にとっても大きな意味がある。
壮大な精神治療の為のロールプレイング~対象化であったはず。
勿論、監督アレハンドロ自身にとってそうであるのだが、、、彼は語り部であり少年期の自分を抱き締める大切な役回りでもあった。

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わたしも幼年期は流石に無理であるが、少年期から後を辿り、芋蔓式に無意識にまで沈殿した記憶を引き釣り出そうとは考えてはいるが、なかなかパワーのいる仕事になる。
この映画に溢出するイメージの豊かなこと。
もはや現実とか幻想などではなく、全てが自らを作って来た想念の奔流なのだ。
リアリティのダンス

但し、アレハンドロというより父の魂の遍歴と呼ぶに相応しい。
(自らを形成する親の歴史から描くというのは賢明なやり方であろう)。
まずは、親を描きカッコに入れ、次いで自らの魂の浄化へと向かう。
(次作~”エンドレス・ポエトリー”も観なければ)。

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一家皆が表現者であることは、監督にとっても心強いものだろう。
まだまだファミリーで、物凄い映画を撮っていって欲しいものだ。
何と言うか本作がとても観易いものになっていることに驚いた。
気負いの感じられない、ある境地に達したところで満を持して作られたと謂えようか。

この先、何度も見直してしまいそうな映画である。

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監督23年ぶりの作品であった。

癒しへの誘い。
タルコフスキーとはまた違う意味で、アレハンドロ・ホドロフスキーは優れた映像の詩人である。




アレハンドロ・アメナーバルといい、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥといい、わたしにとって、このアレハンドロ~がちょっと特別な響きをもってきた。











ピグマリオン

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Pygmalion
1938年
イギリス

アンソニー・アスキス、レスリー・ハワード監督
ジョージ・バーナード・ショー、W・P・リップスコーム、セシル・ルイス脚本
ジョージ・バーナード・ショー『ピグマリオン』原作
デヴィッド・リーン編集

レスリー・ハワード、、、ヘンリー・ヒギンズ教授(言語学者、音声学者)
ウェンディ・ヒラー、、、イライザ・ドゥーリトル(花売り娘)
ウィルフリッド・ローソン、、、アルフレッド・ドゥーリトル(イライザの父)
メアリー・ローア、、、ヒギンズ夫人(ヒギンズ教授の母)
スコット・サンダーランド、、、ジョージ・ピカリング大佐(言語学者)
ジーン・キャデル、、、ピアス夫人(ヒギンズ家の家政婦)


大ヒットミュージカル『マイ・フェア・レディ』の原作みたいなもの。

ピグマリオン、、、有名なギリシャ神話にある。現実の女性に失望したピグマリオンが、理想の女性像を彫刻に彫り上げる。
その女性ガラテアに恋をしてしまい、彼はその恋焦がれる像の前で次第に衰弱して行く。それを見かねたアフロディーテが彼女を人間にし、めでたくピグマリオンとガラテアは結ばれる。このテーマの絵も多い。とても甘味で優美な作品が目立つ。芸術的なテーマというより、芸術そのものの根源的な動機にすら思える。わたしはとても自然な共感を持つが。
ヴィリエ・ド・リラダンの「未来のイヴ」もこのピグマリオンが下敷きになっている。
ヴィーナスと謂って良いほどの美貌に恵まれながらも知性の欠如を窺わせるアリシヤという歌姫に恋をしながらも苦悩する青年貴族エワルド。彼の為にエディソン博士がアンドロイドのハダリーを創造する噺であった、、、。
確かに美貌と知性と才能のある、いくちゃんのような人はそうはいまい(時折いるが、、、)。それでアンドロイドを作ってしまえ、というのは永遠のロマンかも知れない。とても香しいロマンだ、、、。
その他にピグマリオン効果という、人に期待されると対象(人でも動物でも)がその通りの成果をあげてしまうという怪しい(教育)心理学も聞くが、どうでもよい。

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この映画、原作者であるバーナード・ショーが脚本で参加している。
ということは原作者自身、こう持って行きたかったのか、、、。
それから何と、デヴィッド・リーン監督が編集をなさっているではないか!
凄い映画なのだ、、、きっと(笑。
確かにストーリーに無駄がない。古さも殊更感じさせない。
セットもとてもシックな調度も整えられてセンスの良い舞台である。


上手くまとめられた面白いコメディ映画であった。
ヘンリー・ヒギンズ教授に何にでも染まる人形として下町の花売りイライザが拾われ、やはり言語学の権威ジョージ・ピカリング大佐も加わり、彼女を半年で一流の淑女に仕立て上げてみせようという御話。
猛特訓で言葉~発音・リズムは綺麗になるが、噺の内容が伴わない。
それは仕方ない。教養そのものがないのだ。
しかし、人としての知恵や感情は真っ当である。
寧ろその点(基本的な人格)では、教授の方が壊れている。

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トランシルヴァニア大使のレセプションに焦点を合わせ、それに向けて再度特訓をする。
合わせてファッション、美容などの点でも磨いて行く。
言葉と外見が伴えば、パーティーにおいては問題ない。
彼女は大使の息子の使命でダンスの相手にも選ばれる。
学者2人と彼女の大勝利である。
周囲の人間で彼女がコックニーであったことを見破れた者は一人もいなかった。
ヒギンズ教授の教え子の言語学者すらも、彼女はその正確すぎる英語から察するにポーランドの王族(王女)が身分を隠しているのであろうと言っている始末。

これだけの事をやり遂げたのに、教授からは何の労いの言葉もない。
当然、彼女は腹を立てる。そして出てゆく。
これで、教授は彼女の事が好きになっていた自分に気づく。
彼女を大佐と一緒に探し回るが見つからない。
しかし彼女は教授の母の家に身を隠していた。

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この時代のイギリス紳士のプライドなのかどうなのか。
教授は彼女に好きだとは、口に出さない。
飽くまでも突っ張る。
態度には、もうあからさまにでてしまっているのだが、素直には謂えない。
彼女は巧みに距離感を調整するのだが、、、。
映画のラストにやっと謂う(笑。
そういう”ピグマリオン”になっていた。

階級を表象するのは言葉と身なりと謂えるか。


主演の2人はとても芸達者であった。
レスリー・ハワードのロイド眼鏡が彼の人格すらも表すほどにピッタリと似合っていた。
ポール・デルヴォーの絵に登場する博士にそっくりである。
ウェンディ・ヒラーは如何にも正統なイギリス貴婦人という風情であり、花売りとの演じ分けは見事であった。









ガザの美容室

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Degrade
2015年
パレスチナ・フランス・カタール

タルザン&アラブ・ナサール監督・脚本

ヒアム・アッバス、、、エフィティカール(離婚調停中の主婦)
ヴィクトリア・バリツカ、、、クリスティン(美容室経営者)
マイサ・アブドゥ・エルハディ、、、ウィダド(美容室店員~アシスタント?)
ミルナ・サカラ、、、ゼイナブ(ムスリム)
ダイナ・シバー、、、サルマ(結婚式準備に来た花嫁)
サミラ・アル・アシーラ、、、ファティマ(妊婦)
マナル・アワド、、、サフィア(薬物依存者)


監督さんは双子らしい。だが、映画情報はそれくらいだ(爆。
「堕落」、、、「ガザの美容室」というのも良いと思う。

” Gaza”と聞くと直ぐに思い浮かべるのが『ガザに盲いて』Aldous Leonard Huxleyの小説だ。
わたしは彼の『知覚の扉』を高校時代に読んでかなりのインパクトを受けた。この”The Doors of Perception”から例の稀代のカリスマ、ジム・モリソン率いるドアーズが生まれたことは有名。

そう、ロックバンドで、Eyeless in Gaza(そのままのグループ名)はとても好きなポストパンク(嫌いな言葉だがネオアコの一派とも目されている)アーティストだ。
The Smithsあたりと同格のグループだと思っている。
そう、ちょっとその後出たBelle and Sebastianとも匂いが似ているではないか。

『ガザに盲いて』は持っているはずなので、明日探し出して読もうと思う。
最初に読んだのが、早すぎた気がする、、、。

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何とも言えない女性ばかりが出ている。出て来るのではなく最初から美容院の空間に暑そうにしてイラついている。
確か、女性だけで13人いたか、、、。店員は2人で、、、最初から無理がある。煮詰まるのは見えているではないか。
まあ、日本にもアメリカにも中国にもいるであろう、普通の逞しくて自己中で下品な婦人が(皆そうとは謂わぬが)美容室で、愚にも付かない四方山話をずっとグダグダ続けている。
わたしはこうした空間には5分もいられない。地獄だ。
一番理性的に見える店長さんがロシア人移民であるのも印象的だった。
それから前の舗道にライオンの雌がペットみたいに寝そべっていたのも異様な光景であった(美容院の店員の旦那の飼っているものらしい。よく分からないが)。

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客も客だが、店員も仕事途中でもお構いなく私用の電話を何回でもするし、客の一人がいみじくも言っていたが、まさにカタツムリよりも仕事が遅い。このペースで、こんな大勢の客をどう捌くつもりなのか、とこちらも途方に暮れる(笑。
鋏だって使うのにしょっちゅうよそ見をしているのだ。これでは待ってる方はイライラしてもおかしくないが、客もしょうもない噺をしたり喧嘩をしたりで、、、その上、暑い中送電を止められ店内は真っ暗、扇風機も使えなくなる。発電機を使おうにもガソリンが切れてしまっている。買おうにも国境封鎖で入ってこない始末。
美容院内のエントロピーは増大するばかり。
トマス・ピンチョンの短編小説にこの手のものがあった。

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そして何と、美容院の前の通りで普通に激しい銃撃戦が勃発する。
ここは、今現在の日本では考えられない事態だ。
しかしこのご婦人たちにとっては日常の内らしい。生活の一コマなのだ。
そう、戦争とは言っても生活をしなければならないのだ。美容は女性にとって最も重要事項なのだ。これだけは何があろうが譲れない。そしてお喋りも日常を形作る要素だろう。
日常と謂っても、産気付いた妊婦さえいるのだ。何でこんなにお腹の大きい人(臨月であろう)が美容院に来ているのかとは最初に訝ったが。
お祈りの時間になり、平然とお祈りを始める人~ムスリムもいる。
店自体が揺らぐほど、とても激しい銃撃戦で、少しでも角度が店に向けられたらどうなるのだろう、と見ていてドキドキもするくらいだ。
外では「殲滅しろ」とか「皆銃殺しろ」などの叫び~指令が断片的に紛れ込む。
早く迎えに来なさいよ、とか携帯で催促する人もいるが、ちょっと無理とか言われブツブツ文句を言ってもどこか落ち着いてる。
諦観もあるのか、麻痺しているのか、適応と呼ぶものか。いや抵抗、、、どれもあるように思う。
日常的にイスラエルとハマスが市民を巻き込む殺戮を繰り返していることが分かる。

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他の国々の日常の異質さに改めて想いを馳せる機会には充分なるものだ。
われわれの日常を相対化する意味でも見る価値はあるか。
そして自分たちの生活~日常をどんなかたちでも生きようする婦人たちの逞しさ、強かさの部分だけが最後に印象として残った。
(美容院でのお喋りこそ、ここにあっての彼女らの抵抗なのか)。

ヒアム・アッバスは『ブレードランナー 2049』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)にも出演している世界的な女優だ。
(今、気づいた)。








私はヒーローそれともヴィラン?よみがえれ勝連城

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2018年
杉山嘉一 監督・脚本


福田沙紀、、、比嘉華那(セレクトショップ社長)
金子昇、、、萩村栄介
大城優紀、、、飯塚美鈴(華那の親友)
伊敷幸一、、、平良龍一(華那の元カレ。今は美鈴の彼氏)
城間やよい、、、比嘉知子(華那の母親)
嘉手納良智、、、上原康彦
上原千果、、、井下幸子(華那によって心を開いた子)


この題、何とかならぬか、、、。

沖縄が舞台。勝連城跡からの見事なロケーションには魅せられる。
行ってみたいものだ。
「阿麻和利(あまわり)」という按司に纏わる伝説?(彼は悲劇の英雄なのか、卑怯者なのか)を絡め、「人は物事を見たいように見る」その認識の相対性についてヒロインたちが実感して行くドラマ。
ドキュメンタリータッチの思いの他、良い映画であった。
(子役の動かし方で取って付けたようなわざとらしい部分があるが、概ねリアリティある流れであった)。

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沖縄県の世界遺産である勝連城跡に、ボランティアで小学生に色塗りをしてもらった絵で勝連城を復元し、ライトアップして祝うプロジェクトを毎年行っているという。
東京拠点にネット通販セレクトショップを展開している比嘉華那が8年ぶりに親友の飯塚美鈴に会いに帰郷し、美鈴の関わっている勝連城復元プロジェクトを行きがかり上、手伝うことになる。
そこには8年前に分かれた萩村栄介もメンバーとして参加していた。
しかも今は飯塚美鈴と付き合っていた。

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華那は地域のボランティアの人々との触れ合いの中で、モノの見方、捉え方の違いからくるコミュニケーションの軋轢を経験し、それが東京の自分の会社で経験した社員との間の確執に重なって来る。

確かに華那は、栄介の謂うように、自分が良いと思い立ったことを強引に押し通してしまう。
その案自体が良いとか悪いではなく、構成メンバーとのコンセンサスを度外視して実行に移してしまうことが如何に独善的で専制的であることに気づいて来なかったのだ。
その案をロードマップ上では今夜実行することが最善であったとしても、構成員の健康状態を鑑みれば一晩休み翌朝に行う方が良い場合もある。誰もがそちらに傾いていても彼女は妥協しないのだ。そして皆が帰った後で、自分独りでその作業をやってしまう。翌朝現れたリーダーがそれを知る。彼は彼女の頑張りを労い礼は述べるが、問題点を認識する。美鈴もその朝早く来てその実情を知り、顔を強張らせる。それまでずっと華那に合わせにこやかな表情を保って来た彼女であったが。
(華那の見たくない部分をまた確認してしまった、彼女にとってフラッシュバックに近いものであったか)。

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美鈴が華那に対して胸に深くに抱いていた思いが爆発する。
華那の純粋で真直ぐだが、他者に対する感覚がまるでないこと~他者に対する想像力の欠如が、相変わらず露呈していた。
此処に対し栄介は遭った頭初から不快感を露わにしていた。これが元で8年前に分かれたようだ。
(体育館で仲間から外れて制作を独りで頑なにしていた子に勝負を仕掛けて真剣に競い勝ったところなどは、自分に正面から関わってくれたことで彼女が周囲の人に対して心を初めて開く契機となった。これは華那の良い面であり人を惹き付ける点でもある。この後、ずっとこの子は華那のことを見守り続ける)。

しかしこれまではいつも華那に受け身で言いなりになっていた美鈴が本心を晒し、怒りを思い切りぶつけてきたことは大きい。
あなたは何でも自分の思い通りにしてしまい、わたしを見下していると。
「もうあなたになんかに逢いたくなかった」とまで言われる。
親友と思っていた人に此処まで言われては、予定を早めて帰るしかなかった。
東京には自分に反旗を翻した社員たちがいるのだ。そちらの解決も図らなければならない。

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ボランティアの人々の心~受容性の広さや優しさが際立っていた。
下手をすると嘘くさいものに見える危うさがあるが、ここでは彼らがそうする根拠がある為、不自然さのない爽やかさがある。
他者の為に働くことで、自分が見出されたというのだ。
自分の起こした事業もお陰で成功したと。
自分の陥っている状況をボランティアのチーフに話した結果、彼らの取り計らいで華那は夜の勝連城のモニュメント前で美鈴と対峙することになる。
東京に発つ前の最後の晩だ。
彼女は、これまで自分が美鈴の他者性に関して全く想いを及ばすことの無かった事実を深く詫びる。
全て自分本位で彼女をいいように扱い操ってしまったのだ。
これは彼女自身の大きな問題点で、自分の会社の社員にも同等の接し方しか出来なかった結果が会社の行き詰まりを招いていた。

そして美鈴にとっても、自分のなかのアンビバレントな複雑な蟠りを晒したことで吹っ切れ、これからは主体的に華那と同等の立場で関わってゆく事が出来る、彼女にとっても飛躍の機会ともなった。
これはアリストテレスの述べる真の意味でのフィリアではないか。

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この機を見て、心優しいボランティアたちが、一日早い勝連城ライト・アップをしてくれる。
華那と美鈴は仲直りをしたのではなく、完全に新たなフェーズに入ったと謂える。
翌日のイベント当日で実況ビデオで華那に呼びかける美鈴はとても活き活きして溌溂としている。
これまでの負い目を微塵も感じさせるところがない。
副社長からの電話では社長の謂うことの正当性は認めるがやはりその降ろし方が違うという社員の見解であるという。
それを受けて華那は東京に戻って行くが、美鈴との関係のように絆が更新され更に発展することがもう分かっているようだ。


ともかく沖縄の綺麗な部分がたっぷりと見られた。
そう言えば方言もあまり出ず、観易い映画だ。
キャストは、とても良かった。福田沙紀と大城優紀との両者の変化の流れが自然であった。

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里見八犬伝

Legend of the Eight Samurai001
Legend of the Eight Samurai
1983年

深作欣二 監督
鎌田敏夫、深作欣二 脚本
鎌田敏夫 『新・里見八犬伝』原作
主題歌 ジョン・オバニオン「里見八犬伝」、「八剣士のテーマ (White Light)」

薬師丸ひろ子、、、静姫
真田広之、、、犬江新兵衛
千葉真一、、、犬山道節
寺田農、、、犬村大角
志穂美悦子、、、犬坂毛野
京本政樹、、、犬塚信乃
大葉健二、、、犬飼現八
福原拓也、、、犬川荘助
苅谷俊介、、、犬田小文吾
目黒祐樹、、、蟇田素藤
夏木マリ、、、玉梓
萩原流行、、、妖之介
浜田明、、、悪四郎
ヨネヤマママコ、、、船虫
汐路章、、、幻人
岡田奈々、、、浜路


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あくまでも滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』ではなく、鎌田敏夫の『新・里見八犬伝』を元に映画化したものである。

国籍不明の大活劇であったが、特撮自体は今一つ。
だが役者の盛り上げで魅せる。
薬師丸ひろ子の頑張りが光った。
よくここまで頑張ったと謂いたい。
千葉真一は勿論、真田広之のアクションも頑張ってるなあ、と感慨深い。
志穂美悦子や京本政樹の動きもこなれている。
ともかく、皆若い!
若くて元気である。

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こういう映画を観ると、そういう感想しか出にくい(爆。

展開に無駄が無くテンポも良い。
荒唐無稽だが、静姫がこの先どうなるのか、、、ハラハラさせることで引っ張って行く。
しかし敵である夏木マリの玉梓が大変禍々しい毒母というより魔女振りで凄みは充分であり、目黒祐樹や萩原流行もキャラは際立つものがあったが、それに比べ八犬士の一人一人の個性や特技、必殺技とかがはっきりせず印象が弱い。

Legend of the Eight Samurai002

もう少し各自の持ち味や得意技~奥義をタップリ堪能できるシーンは欲しかった。基本的に彼らは超能力的な力を持つのではなく普通の人なのだ。
玉によって選ばれた特別な人間を印象付ける何らかの特質は欲しい。
結局、かなりあっさりやらてしまう(あっさり恋に落ちるのもちょっと気になった)。
終盤の敵のアジトに攻め込んでからの立ち回りの尺はもう少し取り、見せ場を色々と作って欲しかった。

Legend of the Eight Samurai005

『レイダース』や『スター・ウォーズ』の影響~オマージュは、分かり易いが、本家の方がずっとスマートである。
特にVFX面はキツイ。船虫は悪くなかったが、大きな石に追いかけられるところは、かなり厳しい。
だがそれを補うキャスト~特に悪役の二人と静姫、新兵衛の奮闘が支えていたと謂える。
岡田奈々は、もう少し活躍させたいところであった。
直ぐに殺され毒人形に改造されて犬塚信乃(京本政樹)と共に果ててしまう。
時のアイドル薬師丸ひろ子で売り出そうとした映画であり見事それに応えた形であろうが、岡田奈々も充分に姫役が可能な存在である。余りに勿体ない。

Legend of the Eight Samurai003

新兵衛も一度、蟇田素藤に切り殺されてから、幻人に改造されて蘇ったのではなかったか、、、。
その後、大丈夫なのか。後遺症とかなく普通に人間やって行けるのか。恐らく玉の力で何とかなったのかも知れぬが。
改造後、妙に品が良くなっていたが、、、。


薬師丸ひろ子は、何とこの映画を撮る時期に大学受験も重なっていたそうだ。
これは大変だっただろうと、気の毒になった。
あのラブシーンも微妙なものである。本人にとって微妙なものであったのでは、、、。
色々な面でやり辛くハードな映画ではなかったか。
彼女のお陰で面白い作品になっていたと思うが、、、。

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その後、彼女は大人になってから、かつてのような華々しさは見られず地味で堅実な役が目立つ。
芦田愛菜も今は天才子役で持て囃されているが、大人になってどういう立ち位置になるのだろう、、、そんな余計なことも思ってしまった。

どんどん横道に逸れそうなのでこの位にしたい(笑。













アス

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US
2019年
アメリカ

ジョーダン・ピール監督・脚本・製作
マイケル・エイブルズ音楽


ルピタ・ニョンゴ、、、アデレード・ウィルソン/レッド
ウィンストン・デューク、、、ゲイブ・ウィルソン(夫) / アブラハム
エリザベス・モス、、、キティー・タイラー(ジョシュの妻)
ティム・ハイデッカー、、、ジョシュ・タイラー(友人、別荘も隣)
シャハディ・ライト・ジョセフ、、、ゾーラ・ウィルソン(長女) / アンブラ
エヴァン・アレックス、、、ジェイソン・ウィルソン (長男)/ プルートー
カリ・シェルドン、、、ベッカ・タイラー(タイラー家の双子の娘)
ノエル・シェルドン、、、リンジー・タイラー(タイラー家の双子の娘)


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アメリカの地下に張り巡らされた広大なトンネルの中でかつて実験的に作られ打ち捨てられたクローン~テザードたちが生き残り増殖して地上の世界の支配を狙う、という発想はとても刺激的で面白い。そして怖い。わたしがこれまでに観たホラーの中で一番緊張感があり怖かったかも知れない。
確かに知らない「わたしたちがやって来る」のだ。「外に家族がいる!?」しかも手を繋いでいるのだ。ぞっとする。
演出~(構図上の)見せ方も上手い。
しかし何故、彼らは敢えて赤を着るのか、、、。普通の服を着ていた方が目立たずに効率よく入れ替わり易いはず。
(「赤狩り」にでも掛けているのか)。彼らが武器として使うハサミもそうだが、象徴的な意味合いや暗示を感じるシーンも多い。
(フリスビーの小さなシーンひとつとっても)。

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幼い頃、海辺に近い遊園地で「自分探しのお化け屋敷」に入ったら、迷路の中で鏡に映った像かと思ったら、何と自分そっくりのドッペルゲンガーに出逢ってしまう。
その後、アデレードは暫くPTSDで喋れなくなるが、無事に成長し言葉を取り戻して大人になる。
そして、幼少期の怖い想い出の残るサンタクルーズの海辺の街に家族(夫と長女と長男)でバカンスにやって来た。
最初から不穏な空気が充満し緊張が走る。音楽が更に演出効果を上げていた。
音楽そのものにも魅力を覚える(音楽だけ聴き返したい部分もある)。

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いきなり真夜中に自分たちと瓜二つの家族が眼前に現れたら、悪夢以外の何であろうか。
レッド~母以外は誰も喋れないようだ。
皆、異様な敵意と害意いや殺意に漲っている。
これは怖い。

「エレミヤ書11章11節」~11:11が度々出て来るが、これについては、内容的にどう絡んでいるのか良く分からなかった。
これについては、それ程の意味も感じられないが。
神がこれより地上に禍を下すであろう、、、。
(いずれにせよ神の逆鱗に触れたという徴であろうか)。
内容的に特に引っ掛かってくるようなところもない。

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監督がデビュー作でいきなりアカデミー脚本賞を取りこれが2作目となるが、確かにこなれてはいる。
監督をする前は黒人コメディアンであったそうだが、このゲイブという夫はかなりのコメディアン気質で、彼がタイトな流れの内に絶妙な間を作っている。受け狙いのジョークが見事に滑り言い訳を真面目にしてみたり、頼れそうで頼れない微妙な夫キャラである。
(監督の言では、コメディとホラーは構造的に同様のものであるそうだ、、、今後気にして観てみようと思う)。

この家族は何故か「わたしたち」には殺されない。散々怖くてひどい目に逢わされ逃げ惑うが、結局それぞれが「自分」をやっつけてしまう。見た目はひ弱そうな家族で、他の家庭も皆殺しの惨劇に見舞われているのに、しっかり生き延びている。
何故だろう。主役だからの他に、要因としたら、、、やはりアデレードのせいか、、、。

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タイラー一家の別荘にも「わたしたち」~影は同様に現れていた。一斉蜂起したのだ。赤いつなぎがその意志?を示す。
相手に対し唖然とした隙にタイラー家は植木バサミで皆、惨殺される。
「アレクサ」に呼びかけて家の中の全てを管理するスマートハウスに住んでいるタイラー夫妻たちの脆さも興味深い。
IoT化が万全とは言え、”Call the Police”と断末魔のタイラー夫人が呼びかけたのに"Fuck the Police"をガンガン流してしまうのだ。
家族全員が血みどろで息絶えている空間がやたらとご機嫌な雰囲気となる。

テザード(というクローン)も地上の”オリジナル”に同調して動いている点で、云った通りに作動するIoTみたいなものか。
魂も無いと謂うことだし(レッドの言によれば)。対比的に設置された場面だと思う。
そして何よりオリジナルの機械的な同調を示す部分がジェイソンのテザード版であるプルートーが燃え盛る炎の中にオリジナルの真似をして身を投じる様である。あそこまで鏡像関係では、魂は感じられない。その辺は、何とも言えないところだ。

いずれにせよテザードはオリジナルの動きを知っている為、置き鍵などは何処にあるかも分かっており、それを使いセキュリティなど気にせず入って来れる。

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政府は秘密裏にクローンを地下トンネルの中で作っていた。
廃棄された数千キロに及ぶ地下壕は、何かが密かに陰謀を張り巡らすに極めて適した地下世界となろう。
いつ作っていたのか定かではないが、どうやら、国民一人に一つの影という形で作ってしまったみたいだ。
赤ん坊も恐らくオリジナルに合わせて産んでいったのだろう。

地下の広くて綺麗な通路には、ウサギがどこにもたくさんいる。かつて実験用であったものか。
つまりウサギと共に捨てられた「わたしたち」という情景がその荒涼とした空間なのだ。
そして地上のオリジナルの動きに同調して地下でも動きはしていたが、彼らには果たして魂がなかったのか。
魂~こころが生じなかった為、失敗作として捨てられたのだが(何故政府は廃棄処理をしなかったのか。それ以前に生産目的は何であったのか)。
地上のオリジナルを倒そうと地上に上がって来たと謂うことは、魂が生じた為ではないのか。
ことばを発せられなくとも。
レッドの怒りの形相は心無くして現れるものではないが、他のメンバーについては確かに微妙な様相ではある。

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そして終盤にはっきり、実はアデレードが例の幼少期のお化け屋敷でテザードと入れ替わっていたことが分かる。
それまでに彼女の本性が徐々に表れる演技をルピタ・ニョンゴ(アカデミー賞女優)が上手にしてくれており、自然に納得できるような運びだ。
息子のジェイソンは、きっとレッドに攫われた際にそのことを告げられたのか。
難を逃れた家族で車に乗って出発した際、彼はアデレードとアイコンタクトをして、それを暗黙の裡に了解した素振りでお面を被る。
これで幼少時に、お化け屋敷から還って来た彼女が暫くの間、喋れなかったことも分かる。
レッドは、テザードでありながら言語~発話も含めすべてを習得したのだ。
恐らく魂も獲得したのだろう、、、。

最後に、夥しい数のテザードたちがみんなで手を繋いでいる光景からエンドロールへと向かう。
(何かで観た覚えがあり、調べてみたら「ハンズ・アクロス・アメリカ」という貧困問題を訴え西海岸と東海岸を多くの人で手を繋ぐ運動があった。この映画の最初の部分である1986年のイヴェントでもある。この映画、多重な解釈を呼び込もうとするところが少なくないが、必ずしもそれが必要であるかどうか微妙に思うところもある。ちょっと才気走った監督かも)。


随分怖い映画に仕上がっている。
この監督の作品はデビュー作も含め今後も観てゆきたい。
とても興味を持った。





サウンドトラックCD





早熟のアイオワ

The Poker House001

The Poker House
2008年
アメリカ

ロリ・ペティ監督・脚本

ジェニファー・ローレンス、、、アグネス (14歳、長女)
ソフィア・ベアリー、、、ビー (次女)
クロエ・グレース・モレッツ、、、キャミー (三女)
ボキーム・ウッドバイン、、、デュバル (客引き)
セルマ・ブレア、、、サラ (3姉妹の母、売春婦)
デヴィッド・アラン・グリア、、、スタイミー (耳の遠いバーの常連、キャミーの隣席にいる)
 

監督自身の実話であるそうだ。壮絶な半生である。

アイオワ州の小さな町が舞台。
ポーカーハウスと呼ばれる売春宿に暮らす売春婦の母とその娘たち。
母は全く保護能力なし、悪態をつき客を取っていないときは薬をやっているだけの毒親。
牧師の父がいたが、暴力を日常的に娘たちにふるっており、彼女らは警察に保護され、父と離れると同時に神からも離れる。
だが、ポーカーハウスが実家という最悪の環境では、勉強も落ち着いて出来ない。

The Poker House003

この成育環境で人の出入りは激しく騒々しいが、自分の生い立ちについて真面目に相談する相手もいない(街自体がそうした場所だ)。
育ち盛りなのに、ろくに食べるものを食べていない。
何より愛情を全く受けていない。
三女の幼いサラは寝る場所を求めて他人(お友達)の家に泊まっている。
その家の母に煙たがれながら、、、だが父親が朝食を奢ってくれたりもして、それとなく支えられて過ごしていたようだ。
パパがいたらなあという率直な気持ちも洩れる。

The Poker House007   The Poker House002

母サラと客引きの男デュバルはそろそろ長女のアグネスに客を取らせようとしている。
最も悪質な毒母に他ならない。
アグネスは成績オールAの優等生で、バスケットボールクラブの花形選手でもある。
アルバイトをして稼いでいるし、詩を密かに書いてもいる。
「、、、聖職者と呼ばれ周囲から尊敬を受ける者は神を必要とする幼い子供たちを食い物にする。その行為に終わりはない、、、」
確かな認識であるが、この現実にどう立ち向かうか展望はない。
この磁場のようなポーカーハウスから抜け出ることは、至難の業でもあった。
次女のビーは学校が紹介してくれる児童相談所が里親を見つけてくれることを期待していた。
新聞配達のバイトも幼くしてしている。
三女のキャミーは、バーで酒を呑んでる客のなか、ひとり金魚ビスケットを食べて時間を潰して過ごしている。

The Poker House006

彼女は(妹も含め)街の人々から迫害は受けておらず、バスケの練習に快く付き合ってくれる友人などに寧ろ恵まれていたと謂える。
勉強も手伝ってくれる友人もいる。
ポーカーハウスの娘と言うことで差別を受けるようなことは、特になかったようだ。
そこが、ちょっと意外でもあった。
恐らく街全体が貧民層で皆が似たり寄ったりの立場であったからか。
これで山の手みたいな高所得層が隣り合う環境であったら、こうはいかなかったのでは。

The Poker House005

客引きのデュバルにレイプされ、それを泣きながら母に訴えたのに、彼女は男の味方をして娘を労わるどころか突き放す。
母親の噺から、彼女は自分のことで頭が一杯であり、娘は鬱陶しい存在であったことが分かる。
こんな時ですら、娘に酒を買ってこいと言い放つ。
アグネスはデュバルに殺意を燃え上がらせ銃口を向けるが母がその前に立ちはだかってしまう。
母に対する微かな幻想すら完全に打ち砕かれた。アグネスは完全に愛想をつかし母から離れる。それまでは仄かな愛情すら抱いていたデュバルに対しては激しい憎しみに変わり、彼ら2人とは絶縁する意思を固めた。

毒親が子供の内面を理解することは、永遠にない。
これだけは断言できる。
恐らくその認識を正しく得たのだ。

その足で彼女は遅れてバスケの決勝を掛けた大事な試合に途中出場する。
(もう半ば負けを覚悟した試合で、監督は怒り狂っていたが、、、)。
アグネス独りで終盤7分の間に27点をたたき出し、チームを2点差で勝利に導く。
これは暫くの間、破られない記録として残ったという。
(家庭には恵まれなかったが、元々の能力の非常に高い子なのだ)。

デュバルの車を運転しアグネスはそのまま、居場所のない妹二人を道端で拾い、三人で唄いながら街を去ってゆく。
”Ain’t No Mountain High”を思いっきり唄いながら、、、。
(マービン・ゲイはほとんど聞いてこなかったが、このエンディングには丁度よい曲)。
~乗り越えられない山はない
~深すぎる谷だってない
~渡れないほど広い川もない

「今夜は素敵な夜だ。」
ここを去って20年後にこの映画が完成したという。
(何より監督にとって意味のある作品に違いない)。

The Poker House004

キャストがとてもよかったが、子ども三人の演技が飛びぬけていた。しかしクロエ・グレース・モレッツが余りに幼かったことに正直驚いた(笑。
2008年が思ったより、こんなに昔であったとは、、、感慨深い。
(子供の成長が早いのかも知れない、、、そうだ明日は娘たちの個人面談日である。いつの間にか子供は育っているものだ)。









透明人間

The Invisible Man001

The Invisible Man
1933年
アメリカ

ジェイムズ・ホエール監督
H・G・ウェルズ原作
R・C・シェリフ、フィリップ・ワイリー脚本

クロード・レインズ、、、ジャック・グリフィン博士(透明人間)
グロリア・スチュアート、、、フローラ・クランリー(グリフィン博士の婚約者)
ウィリアム・ハリガン、、、アーサー・ケンプ博士(グリフィン博士の同僚)
ヘンリー・トラヴァース、、、クランリー博士(フローラの父)


この映画を見てつくづく思うのは、透明だと、かなりのことが出来、気持ちも大きくなるのだろう、、、。
いやこの透明人間の場合は、大きくなるとかいう次元ではないが。
視覚に頼る文化のもと、人間にとっては見えないということのアドヴァンテージはかなりのものと言える。
(これは単に自分の体が見えないということだけでなく、こちらがしっかり観察していることも誰も知らないという有利さである。これによってまさにケンプ博士は殺害されたのである)。
そして元々もっている欲望がタガが外れて噴出し、やりたい放題してみたというところか。
やたらと態度もでかく、野望も世界を征服だと、、、薬の副作用もあるか。ともかく人格崩壊した危険人物であることは確かである。

「ギュゲースの指輪」を思い出す。いや、もうあまり覚えていない(笑。
プラトンの『国家』にある、透明人間になっても人は善をなすか、、、で大議論が繰り広げられていた。
不正を犯しても発覚しなければ、政治家などやりたい放題で、ウハウハではないか。
透明に自由になれるようなガジェットがあれば、人は内なる欲望の奴隷となり破滅するのが見えている。
そんな力を使わないと決めた者は、自身を完璧にコントロールし幸せな人生を送るみたいな話であったような、、、。

The Invisible Man004

確かに社会的な規制があれば、どんな欲望を抱いていようが、合理的でルールに沿った行動をとることを強いられよう。
だが、好きなように身を隠しやりたいことが野放図に出来れば、この透明人間に近い者になってしまう者は多かろう。
政治家がこれほどの特権ではないにせよ、地位を利用して欲望に身を任せ、身の破滅を呼んでいることでも頷ける。
(ただし彼らは、暫く自粛した後、禊は済んだとか宣言してゾンビみたいに復活している。やはり只者ではない)。

この映画の透明人間は、元に戻る薬も作らずにいきなり透明になってしまって、バタバタしている。
粗忽者だ。
プラトンのギュゲースの指輪の方が遥かに洗練されている。玉受けを内側に回すと透明になり、外側に回せば元に戻るのだ。
こっちの方が機能的に断然優れている(デジタルガジェットだ)し、安全である。
薬は副作用が心配であるし、このようにスイッチ一つでたちどころに変われるものでもない。
凄い発明と本人は言っているが、見た感じ運用がとても大変そうであった。
包帯巻いて服を着たり脱いだり、メンドクサイ。
ただし、包帯を解いた部分が透明の立体を思わせるVFXなど不自然にならない効果は、この時代としては見事であった。

The Invisible Man002

それにしても食べたものがしっかり消化しないことには、それが見えて分かってしまうだろう。
行動を起こすときには、腹ペコ状態で、裸だから暑かったり寒かったりでかなり身体的に過酷な状況である。
映画では雪の積もる冬だ。風邪をひいてしまい咳やくしゃみをする訳にもいかず。
内臓の状態は透明度にどれくらい反映されるのかも気になってしまう。

これって、手放しで透明だ~自由だ~でもないような不自由さを覚える。
おまけに元に戻る薬の開発が出来ておらず、とても不安。ヒステリックでイライラしているではないか。
ギュゲースの指輪を使った方が、ノビノビと思う存分悪事は働けよう。
なんせ、化学的に体を変質させるのではなく、こっちは魔法なのだ。
とは言え、この透明人間もサイエンス・フィクションつまり虚構の噺なのだが、科学的な架空の物語というところで、足枷がある。一方魔法であれば、もう何でもあり。こういうものだと言う押さえだけでよい。
しかしプラトンの謂うように内なる欲望の奴隷となってしまえば、身の破滅は確かに免れまい。
この透明人間も殺人ゲームはかなり楽しめたが、限度~限界は当然訪れる。多勢には独りでは勝てない。徐々に追い込まれてゆく。それもあり小心者のケンプ博士を恫喝して手下として働かせようとしたが、人間脅しだけで従わせることは無理に決まっている。飴をちらつかせることを怠ったことで、結局身を亡ぼす時期を早めたか。
粗忽と言う以前にかなりの愚か者である。基本的な人間心理が分かっていない。その上この欲望~野望である。
それから、彼は透明になって素手でどんどん人殺しをしていたが、見えないことの有利さというより明らかに腕力もアップしているのか。これは薬の副作用なのか、、、。

The Invisible Man003

映像として観てゆく分には面白い。
ただ、塗料がどうとか色々と手を打っていたのに全く何の役にも立たず、納屋に寝ていたところに火を付け燻し出して撃ち殺すという結末も、なんだかなあ~であった。
これも意外な展開の面白さなのか、、、。
古さは気にならない、独特の怪奇な雰囲気の薫る映画である。










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空(カラ)の味

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2017年

塚田万理奈 監督・脚本

堀春菜、、、聡子
林田沙希絵、、、マキ


インディーズ風の映画であった。
親子関係がすんなり上手くいっているところは、思いの他少ないのでは、、、。
こういう作品を見るにつけ思うところ。この手の題材そして主題はかなり見受ける。
この子の摂食障害が何から起きているのかは知らないが、症状~耐え難い苦痛としてはっきり表出しているのだから、「害」となる原因が日常生活環境に恒常的に存在することは確かである。

最初の方にクラブ顧問の先生への仄かな思慕の念が彼の結婚という現実を前に挫折するが、その程度のストレスでいちいち摂食障害などになっていたらきりがない。これもひとつのトリガー足り得たとしても、それだけ閾の低い精神状態であることが何より問題であろう。
しっかりした(自己肯定と信頼感を)自分に持っていれば、様々な困難に出逢っても精神的に病むことはない。シンドイと感じれば適切な対応が取れ、場合によってはゆっくり休んで自らの力で回復できる。
制御の効かぬ歪んだ方向~衝動へと翻弄されることなどない。

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やはりここでは、母娘関係が大きい。
どうしても母と娘は軋轢、葛藤を生じるケースが少なくない。
聡子が母の料理を食べたくない。
食べては吐く。これを繰り返すのは、生理的にも感情的にも母親を拒絶したいことの表れだ。
後にマキという精神科のクリニックに通う自分より重篤な女性と出逢い、初めて自分の内面に抱えたモノを吐露するが、この時にも「吐くことが復讐していることになる」と正直に自らを分析している。
きっとその通りだと思う。

この母を観ると聡子が何かを欲する前に先回りしてそれを用意したり、反発に対し直ぐに泣いて訴えたり、聡子に罪悪感を持たせてコントロールを図るタイプの人間であることが分かる。
母はとかく子供をコントロールしたがるものだ。であるがこの親の場合、子供の自律性~自立を疎外する共依存関係に持ち込もうとしている(すでに持ち込んでいる)。
当然子供が自立~自律的に生きようとすると軋轢が生じる。母の反応の仕方は様々であろうが、この親の場合、怒って恫喝したり、虐待めいた暴言を吐いたりするタイプではなく、憐れみを感じさせるような態度で、逆らうことに罪悪感を抱かせるやり方で絡めとろうとする。そしてこれまで彼女を依存させて、自分の思うままにコントロールして心の安定を図っていたはず。

聡子が何かにつけて「ごめんなさい」を連発するのも、自分の主体性~自律性を発揮すること自体に罪悪感が浸み込んでいるからだろう。彼女の無意識~身体には当然それに反発する強い怒りが煮えたぎっているのだ。
(ここではどうやら父も受験を控えているにせよ兄も母と共犯関係にある。家族のなかで彼女に正面から関わっている人間はいない。いつも心配しているのに何でわたしに相談しなかったのか、などと嘯いてくるところでアウト。偽善的言い訳)。

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助けを求める友人がいることは、とても救われることではある。
ここでは、まだ親の庇護下にいる立場である為、その子の家に泊まれることが大きい~条件ともなろう。
少しでも親と家族から距離を取り、自分と親和的関係が持てる他者との間で自分や家族を対象化し、冷静に考える時間はあるに越したことはない。
幸い彼女はその友人宅に泊めてもらい、友人の母も理解のある人であった。
わたしはここで自分の中に溜めに溜めこんだものを友人とその母に洗いざらい喋って聴いてもらうのか、と思っていたら結局何も話さない。友人がアホなバラエティーを観ているのを一緒にぼんやり眺めていたり、、、家にいる時と同様に取り繕って終わり。

彼女のこころを開くには、彼女に共感出来るこころの傷を克服したひとか、それ相応の見識をもつ専門家が要請されるか、、。
実際このようなケースでは、優秀なカウンセラーに親子で診てもらうことが最善に思えるが。
とりあえず独りで医者に行ってみたら、待合でマキという女性に話しかけられ、一瞬で自分より格上であることを察知する。
異様なテンションとぎこちなさ、ちぐはぐな話の内容であるが、聡子はこの女性を信頼した。
無防備で邪念がなく、混乱は感じられるが一途で優しい気持ちに溢れている。
彼女も充分に病んではいるが、聡子を受容し理解できる存在なのだ。
聡子はリミッターを外し自分の胸の内を誠実に語り尽くすと同時に、感情もほとばしり出る。
これでいいのだと思う。
ここから解放~快方に向けて確実に歩み出せる。
やはりこのように他者に向け語ることでしか、自分を肯定し信頼してゆく道はないのだ、と思う。

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終盤の河のメタファーはとても感覚的にフィットした。
演出に無理がない。と謂うより、、、
あのシーンには、既視感を覚えた。
(お面を付けて踊るところに何らかの必然性は感じなかったが)。


喰っては吐いてのシーンが余りに続き過ぎた。
そこまで反復しなくても、こちらはその実態は把握できる。
更に滑舌が悪いのか、音声の拾い方の問題か、せりふが聞き取りにくいところも多かった。
その2点でかなりイラついたのも事実であるが、謂いたいことは分かる映画であった。








放課後ソーダ日和 特別版

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2019年

枝 優花 監督・脚本


森田想、、、サナ
田中芽衣、、、モモ
蒼波純、、、ムウ子


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少女邂逅」(2018年)の監督である。これが二作目か。
すると前作から観ると随分さらっとあっさりしている。
まんまと謂う感じ。
だが、「放課後」という場所とは何か。「クリームソーダ」とは、親友と飲むものか。思いに浸ったものだ。
三人の仲良し女子高生が放課後と謂う”神聖な時”に「クリームソーダ」を飲み歩くという映画である。


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ちなみに、わたしは中学時代、掃除の時間に決まってフェンスをよじ登って学校の外に降り立ち、相棒(出席番号が隣の同じ姓の少年)と共にアイスクリームを食べ歩き、帰りのホームルームに間に合うように戻るという日課を送っていた。
涼やかな風と夕日の少し前の日差しがトワイライトゾーン~0の場所を保証してくれた。
時折、不良の先輩も外出中で、ばったり出逢うこともあった。
アイスを喰いながら挨拶はした。
他のクラスだが相棒の友人が不良の先輩に木に逆さに吊るされ、何やらしごかれているシルエットが遠く日の光の中に浮かんでいることもあった。
夢のコンテクストで全てのモノがシュールに流れてゆく。
ある日、われわれの外出を目撃したクラスメイトが、外で何やってるのかと聞いて来た。
「美味しいアイス」を毎日食べてる、と答えたら、おれもやる、と言って次の日に彼は真似した。
初日にいきなり彼は学校中で最も怖くて粗暴な教員に捕まる。その教員は何処に行くにも竹刀を持って歩く趣味をもつ。
その技術科の教員は大変な剣幕でわれわれの教室に乱入し(何の時間であったか忘れたが)そこにいた全員を横一列に並べ、「これまでに放課後前に外に勝手に出たものは正直に前に出ろ」と怒鳴った。わたしと相棒は目配せしてチャップリンみたいに一歩後ずさりして難を逃れる。
下の階段の踊り場まで来ても往復ビンタの音は幾つも幾つも高らかに響き渡った。
その日の掃除の時間は、パトロールが入りフェンス周辺はレジスタンスを阻む壁みたいになっていた。
だが、翌日はもういつもの状況に戻っていた。教員も暇ではない。
またいつもと変わらぬ永遠のトワイライトゾーンのなかを、美味しいアイスを相棒と共に喰いながら歩いた。
次の日も、また次の日も。

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この映画を観ていたら自分も似たような経験をしていたことに気づく。
ここの彼女らは、しっかり放課後と謂うめくるめく時間にそれをやっていたが、われわれは放課後の時間は何故だか使えなかったのだ。その理由が何であったかもう覚えてはいない。
放課後は、もはやわれわれにとり、違う場所であったのかも知れない。
放課後はさっさと家に帰るようにプログラミングされていたのだろう。
わたしは、「放課後」という煌びやかな宝石のような時間を知らずに過ぎてしまったのだ。きっと。
まあ、それに代わる奇妙な掃除の時間が恩寵としてわたしに与えられていたのだ。きっと。











Anastasia: Once Upon A Time - アナスタシア・イン・アメリカ

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Anastasia: Once Upon A Time
2019年
アメリカ

ブレイク・ハリス監督・脚本


エミリー・キャリー、、、アナスタシア(ロマノフ王朝の皇女)
ブランドン・ラウス、、、ロシア皇帝ニコライ2世
アミア・ミラー、、、メイガン(1988年アメリカの女子高生)
ドナ・マーフィ、、、魔女のヤラ
アルマンド・グティエレス、、、ラスプーチン
ジョー・コイ、、、レーニン


アナスタシア伝説が色々とあり、確かアニメやミュージカルでもあったような~というところで、ちょと気になって観てみた。
(イングリッド・バーグマンの「追想」も原題は「アナスタシア」だった)。
17歳で二月革命の際に成立した臨時政府に監禁され家族、従者と共に銃殺された皇女である。
悲劇の少女でもある為(いや、ロマノフ王朝の遺産目当てでもある)、密かに彼女は救出され逃げ延びたという伝説~ドラマも沢山生まれ話題にはなった(わたしも知っているくらいだし)。帝政崩壊しソ連になった後、沢山出て来たアナスタシアであったが、埋葬された場所が分かり、家族と共に遺骨が確認された為、全てが偽であったことが判明する。
とても有名な偽アナスタシアに関してはDNA鑑定を彼女の遺骨(彼女も故人となっていた)に対して行ったが別人であった。

ニコライ2世がハンサムであった為、子供も皆美形揃いと言うが、皇太子のアレクセイは確かにそのままハリウッド映画で子役が務まりそう。皇女たちも、、、皇女は4人おり彼女は一番下のお転婆娘とのこと。

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さて、この映画の方であるが、舞踏会の最中に急襲してきたレーニン一派から逃れ地下室から、アナスタシア独りラスプーチンの作ったポータルに飛び込み、1988年アメリカの公園に着地する。ソ連もゴルバチョフ政権(ペレストロイカ~グラスノスチ)になっている。アメリカとも雪解けムードにはなっているが、、、。
かと言ってめんどくさいタイムリープものではない。
シリアスなものでもなく、所謂(青春友情モノ)ファンタジーである。
ラスプーチンは、何と普段はニコライ2世に忠誠を誓う極めて善良な僧であり、ここではアナスタシアを逃がした後、魔女のヤラに魔法をかけられレーニンの謂う通りに動く手下にされ、アナスタシアを捕えるために同じ時空のアメリカに自らも飛ぶという設定。

アナスタシアがラスプーチンに貰ったネックレスの光(青く光れば善人、赤いと悪人)を頼りに出逢ったアメリカ少女がメイガンである。
彼女は好都合なことに、本の虫で特にロシアの歴史に明るい。
しかし本ばかり読んでいる為、クラスでは友達もなく、虐められている。
この女優、「猿の惑星 聖戦記」のヒロインで鮮烈な印象を残したノバを演じた美少女である。あれから結構育っているが。
今回はライトなコメディで、ごく普通の地味な女子学生役であった為か、綺麗な笑顔は際立っているにせよ、特別冴えた雰囲気は見られない。演出のせいか、演技もクサイ(この次はもっと自分が活かせる役を選んで欲しい)。
ともかく、ちょっと不自然な出逢いで直ぐにアナスタシアとメイガンは親しくなり、彼女の両親も抵抗なく古風なドレスを着た少女を受け容れてしまう。アナスタシアは普通に英語を喋るし。もう何にしてもご都合主義と謂ったレヴェルではない。

ラスプーチンときたらもう、子供騙しのクリーチャーキャラである。
車を念力で蹴散らす程のパワーを持ちながら、見つけたアナスタシアを捕えるのに一苦労である。
メイガンにちょいと小突かれ暫く倒れていたり、、、キッズ映画にしてもそれは無いというわざとらしいレベル。
これで噺のテンションもダラダラである。
追いかけられているのにスリルも緊張感など何処にもない。
遊具を挟んでワオ~とか言って鬼ごっこである(監督はホントにこれを指示したのか、、、)。

悲劇の皇女アナスタシアがアメリカの美少女と楽しく過ごすシーンは、こんな経験もあって欲しいという気もちも誘い同調できるが、何とも、、、。
アナスタシア自身とても快活な女の子であったそうで、メイガンが実際に身近にいたらそれは嬉しいものであったはずだが。
そんな架空のパラダイスを夢想するような感じで観ていく分には良いとしても、やはりラスプーチンに出逢ってからのやり取りは子供騙しにも程がある。
ラスプーチンが単独でアメリカのあちこちで珍騒動を仕出かすところなどそこそこ面白いが、このパタンならもう少し他にもあるだろうと言う気がする。ちょっと物足りない。コサックダンスくらいしっかりやってもらいたい(笑。

時折入る歌~ポップスは、とてもフィットしていて~"A Life Like This"などちょっとはっとさせるチューンもあり~良かった。
かなりこの時期のサウンド・ポップスがシーンにスッと入って来るが自然に溶け込んでしまう。
そういう画面なのだ。
シンディ・ローパーの”Time After Time"は郷愁を誘い特に心地よかった。もっと曲を入れても大丈夫だったように思う。

最後に我に返ったラスプーチンと共にアナスタシアはポータルから還って行ったが、歳をとってメイガンの家の隣の空き家に越してくる。そこで感動の再開となり、ここまでの物語をこれからアナスタシアがメイガンに語って聞かせようとするところでフェイドアウト、、、


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そう、ミュージック・ヴィデオを眺めるような感じで観るのが丁度よいのかも知れない。
綺麗で可愛い二人のヒロインを観ているだけで和むと言えるか、、、
映画としては、極低年齢層向け、キッズ映画であった(爆。





この子の七つのお祝いに

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増村保造 監督
松木ひろし、増村保造 脚本
斎藤澪 原作

岩下志麻、、、倉田ゆき子/麻矢~本名は「きえ」(バー「往来」のママ)
岸田今日子、、、真弓(麻矢の母)
根津甚八、、、須藤洋史(新聞記者)
杉浦直樹、、、母田耕一(ルポライター、須藤の先輩)
辺見マリ、、、青蛾(占い師、秦一毅の内縁の妻、麻矢の親友)
村井国夫、、、秦一毅(次期総裁候補、礒崎大蔵大臣の秘書)
芦田伸介、、、高橋佳哉(ホテル王)
室田日出男、、、渋沢刑事
神山繁、、、柏原(母田が勤める月刊雑誌社の編集長)
名古屋章、、、古屋源七(青蛾(麗子)の実父。バー「ヌーボー」のオーナー)
中原ひとみ、、、結城昌代(会津で漆工房を営む、麻矢の育ての親)



敗戦後の日本の混乱期において、劣悪な環境下で赤ん坊を死なせてしまうというような事例は少なからずあったはず。
不幸なことに、母親は精神を病んでしまう。
こんなとき、父はどうあるべきか?
この男の事情は少し複雑で、中国に出征する前に日本に妻がすでにいた。
しかし戦後、妻との連絡がつかなかない為、中国で知り合った女との間に子供が出来、夫婦の形で暮らしていたのだが、女が病んでから元の妻に出会ってしまう。そこで彼は女に有り金を全て渡し、承諾を得て妻のところに戻ってゆく。

戦後と言う厳しい状況下であるが、それなら猶更、この措置はあり得ない。
相手はこころを病んでしまっているのだ。独りで放置したらどうなってしまうか。今のようにケアを行う福祉機関もない時代である。
せめて女が自分のこころを取り戻すまでは、懸命に精神的なケアを施す責任があるはず。
その後に、金を積んで了承を得られれば、元に戻るのもアリかと思うが、精神的にまともな判断の出来ないような状態で金を渡して返事がもらえたからと言ってもその有効性は認められない。

案の定、独りとなって狂気を膨張させた女は、男の家庭に忍び込み生まれたばかりの赤ん坊を攫って行ってしまう。
それに気づいた男の妻の嘆きはいかほどか。
まだ混乱期における日本で、その赤ん坊を探し当てることは、出来なかった。
そしてその悲しみから男の正妻は衰弱死してしまう。

この妻こそ完全な被害者だが、この事態を作ったのは男である。
その後、どれだけ攫われた我が娘を探したのか、、、。
男は仕事に専念したそうな。
最初の女との娘を死なせてしまったのは、不慮の事故であったにせよ、その女のケアを怠ったために、新たに生まれた大事な娘も奪われ同時に妻を絶望から死なせてしまった。飛んでもない負の連鎖である。だが、せめてあらん限りの方法を使い、攫われた子供だけでも救出していれば、災い~不幸はそこで止められたはず。だが男はひたすら金儲けの世界に埋没したしまった。
責任逃れというよりこれは犯罪にあたる。

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そして狂った女は奪ってきた娘に7歳になるまで毎朝、毎晩わたしを捨てた父親に復讐してくれと父に対する悪いイメージのありったけを娘に浴びせ続けた。もう娘のこころは、最も深いところからズタズタである。一生のうちで最も大切な幼児期に真っ当な愛着関係が得られず、途絶えることのない悪霊の呪文により完全に世界との安らかで肯定的な関係は失われてしまう。
信頼感や受容性などという観念など生じる余地もなく、ただ自分たちを捨てた父に復讐を遂げることのみを自己目的とした生しか残されていない。こんな異常極まりない子供の育成などあり得まい。おまけに将来この誓いを忘れることの出来ぬようにと女は幼い娘の頬に火傷傷を火箸でつける。戦時下の捕虜であっても子供にここまでのむごい仕打ちをするだろうか。
大犯罪以外の何物でもない。
そして最後の仕上げに、首と腕を自ら切って子供の隣で自殺する。
無残な血まみれの死に様で、子供のなかに鮮烈なイメージを残す。凄まじいトラウマとなった。

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これで長じて大事に育てられようが、まともに育つわけがない。
彼女の中には、自分の生を生きる何物ももはや残っていないのだ。
あの無残な女の復讐機械に成り果ててしまっている。
自動的にその目的に沿って進んで行くだけであり、妨害者は即、血まみれの惨殺死体にするだけである。
自分の母のように(彼女はあの女を母と当然思っている)。

最大の被害者は言うまでもなくこの娘~長じてひっそりとバーのママにおさまる倉田ゆき子である。
彼女の念頭には狂った女に植え付けられた復讐しかない。
女が男と平和に暮らしていたころに取った3人(男と狂った女とその間に生まれ2か月後に不慮の事故で亡くなった赤ん坊)の手形のアルバムが彼女にとって唯一の手掛かりであった。
その本当の父の手相を徹底的に研究するうちに手相占いに長けてゆく。
バー「ヌーボー」で知り合ったホステス青蛾を傀儡として彼女を(手相)占い師に仕立て、大きな財産を築いたという父親が網にかかるのを待った。青蛾が依頼された手相(の写し)をゆき子に見せ、カリスマとなっている青蛾がゆき子の鑑定結果を依頼人に渡す仕組みだ。余りに良く当たる占いの為、評判が立ち青蛾は有名政治家や実業家の依頼をしきりに受けるようになる。
そしてついに、目当ての手形が見つかる。

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その間、邪魔するものは、自分の好き嫌い関係なくそれより大きな自分を支配し操作する観念~目的により殺害してしまう。
自分がこころを許した相手である母田すらも殺してしまい、後に墓を前に泣き崩れる。
唯一の協力者である青蛾をも彼女が殺人を思いとどまらせようとしたため、殺してしまう。
これほど悲惨なことがあろうか。

実の父であり占いの依頼者でもある高橋を、自分が7歳の時まで住んでいたアパートに呼び出し、殺害を企てるがそのことを事前に見抜いていた須藤により高橋は気持ちの準備は出来ていた。
ここで、高橋は真実を打ち明けるからよく聞きなさいと言い、母に名付けられた麻矢は本当の名ではなく「きえ」が正しい名であり、わたしと本当の母との間の娘であること、そして麻矢は生れて直ぐに亡くなり、お前が母と信じてきた女がお前を攫ってきて麻矢の身代わりとして育てたのだと。
言い訳はしないと言ってはいるが、言い訳にすらなっていない。
戦時下に始まる混乱の中であったが、人のすべきことをせずにこの災厄を招いたのは、高橋自身である。
偉そうに説教めいた話の出来る立場ではない。

「きえ」は、女が生前唄っていた「この子の七つのお祝いに」を口ずさみながら精神崩壊する。
全く罪のない「きえ」にこれほどまでの地獄を味合わせた罪は無限に重いことを知るべきだ。

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しかしこのようなケースは、もっと見えずらい形をとって世界の何処にでも発生している現実である。
わたしもよく知っている。
物凄くよく知っている、身近なケースとして、、、。
そこが、ほとんど巷では論じられていない。大変な問題であるにも関わらず、問題化されずに来ているのが実情。
これでよいはずがない。










私はゴースト

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I Am a Ghost
2012年
アメリカ

H・P・メンドーサ監督・脚本・撮影・編集・音楽


アンナ・イシダ、、、エミリー(幽霊)
ジーニー・バロガ、、、シルヴィア(霊媒師)
リック・バーカート、、、青頃い大男(凶悪な人格)


これもインディーズ系か。AmazonPrimeでなければ見られないものの一つ(あることも知らずにいる類のものだろう)。
基本的に出て来るのは、エミリーと終盤に意表を突いて飛び出て来る男のみである。
霊媒師はエミリーには見えないため、声の出演であった。
そして舞台はちょっと古風なセンスの良い家の中のみである。
(究極の低予算映画か、、、しかし安っぽさはない。コンセプトの勝利であろう)。

死んだことに気づかないで地縛霊になっているエミリーを成仏させようとシルヴィアという霊媒師が現在の家主に雇われてやってくる。
霊であるエミリーを視座~主体に展開するが、彼女にはシルヴィアが見えない。
他の人間もどうやら視界にはないようだ。
シルヴィアとは声だけ聴こえて、対話をする。
(最初はエミリーの方が、シルヴィアを幽霊だと思ってびっくりする)。
淡々と日常を反復するエミリーであるが、死んで霊になっても成仏できずに生前の習慣を(自傷行為も含め)反復している。
目玉焼きを二つ焼いて、買い物に出かけたような気分になったり、掃除をしたり、、、ナイフを手に刺したり。
生前の経験の残滓に浸っている。全てが記憶の追体験に過ぎない。そんな時間に内閉されているのだ。
特に害のある幽霊にも見えないが、家人としては突然、箒やドアや調理器具が動いたりしたら気味悪いのは当然。
シルヴィアは彼女にやっと自分が死んでいることを納得させる(母の唄っていた歌を聴かせたり「わたしは幽霊」と何度も唱えさせて)。

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エミリーの思い出すところでは、まず自分が凶悪な大男に襲われ絨毯の上でめった刺しにされて殺されたというもの。
しかし、それでは不十分なのだ。いや不正確なのだった。
この因果を解かないと彼女はいつまでも、この状態のままだとシルヴィアは説く。
繰り返し出て来る箪笥から取り出してはニンマリしながら眺める古い写真と人形は何であるのか、、、。
これについては、何のヒントもない。

シルヴィアによれば、普通の幽霊は自分が死んだことに気づきさえすれば成仏するというが、エミリーの場合、それでは用がたりないのだ。
(恐らく、便宜的に訳では「成仏」を使っているが、例えキリスト教徒でないにしても、アメリカ人で「成仏」というには、仏教徒に回心したとかでなければ、おかしい。役者は日本系にも見え何とも言えないが、、、微妙であるが些細なことではある)。
彼女は、母に言わせれば悪霊に憑りつかれていたのであり、自分の記憶が飛びその間、妹の首を絞めているようなことが続いたという。父は悪魔祓いを試みたが叶わず、母は天井裏の部屋で折檻もしたが事態に変化がない為、妹と共に家を去り、彼女は捨てられてしまったのだ。
「成仏ってどういうもの?」と聞かれシルヴィアは「光に包まれて昇天すること」と答える。

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映像もひたすらシーンの反復が続く。
それがエミリーの意識?の進展に伴い不穏な気配の高まりとともに少しづつ変容して(角度が変わって)ゆく。
まるでミニマルミュージックみたいに。
この辺は厳密に計算されている。
そしてエミリーは、たまらず外に出ようとしてドアを開けた瞬間、悍ましい無を目の当たりにし叫び声をあげドアを閉める。
家のなかでは、これまでのルーチンを続ける自分の様々な残滓が浮かんでは次々に消えてゆく、、、。
(シルビアによれば因果が解け、生前の記憶を客観視出来る事態となったという)。
エミリーはこのままだと自分が殺されるシーンも目の当たりにしなければならないことに狼狽える。
しかし彼女は自殺したのだとシルヴィアから告げられる。
霊媒師の調べた結果、エミリーは解離性同一性障害であり、多重人格症なのだった。
シルビアによれば、エミリーの成仏の為には「二つの魂を成仏させる」必要があるのだという。
そのエミリーの記憶にない影の人格、謂わば彼女を不幸に陥れたその人格を見つけ出さなければならない。

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終盤の怒涛の展開には驚く。
反復がひたすら続き過飽和状態になったところに、一気に相転換が起きたかのよう。
シルビアとの交信が途絶えたかに思った瞬間。
屋根裏部屋から青白い大男が突然降りてきて、凄まじい形相でエミリーに襲い掛かる。これ怖い(爆。

それが、エミリーにただならぬ恨みを抱いていることは確か。
エミリーは別人格で知らなかったが、この人格が監禁され母からの折檻をずっと受けて来たのだ。
家中を逃げ惑い、何度もシルビアに助けを乞うエミリー。
その怪物は、エミリーを亡き者にして自分がその体を乗っ取ろうと目論んでいたのだ。
不穏な静けさの中で禍々しい記憶の残響が続く、、、。
そして例の絨毯の上でその凶暴な男に何度も体を刺されることとなった。
そこから離脱してその様子をまざまざと窺うエミリー(の魂)。
だが、その様はエミリー自身が自分を刺し殺す場面へと変容してゆく。

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それを傍らで見ていた男の表情から凶悪さが消え、慄きに変わってゆく。
シルビアの声で「死者よ立ち去れ。光へと導かれよ」と何度も繰り返される。
だが、何処にも光はなく、ただの暗闇より遥かに恐ろしい虚無が覆い迫りくるだけ。
自分を刺し続ける姿を凝視しながらエミリーはただ「わたしは幽霊」と唱え続ける。



多重人格で、片方(の魂)の因果を解くだけでは昇天できないなどという隙間を突いたホラー?である。
しかもその際に、光など全くなく悍ましい虚無の闇が包み込んでくるのだ。
これ程、幽霊自身が怖がる映画を観たことがない。
欧米にとっては極めてラディカルで斬新なショックではないか。

独りで全部やってしまった監督である。とても興味を持った。アイデアもあり、次作も期待したい。
(ホドロフスキーのDUNEみたいにハリウッドもしり込みするような法外な製作費を使わなくても意識を拡張させるような映画は可能だと思った)。












ホドロフスキーのDUNE

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Jodorowsky's DUNE
2013年
アメリカ

フランク・パヴィッチ監督

アレハンドロ・ホドロフスキー 、、、 監督
ミシェル・セドゥ、、、プロデューサー
H・R・ギーガー 、、、建造物デザイン
クリス・フォス、、、宇宙船デザイン
ブロンティス・ホドロフスキー 、、、アレハンドロの息子、ポール役
クリスチャン・ヴァンデ 、、、マグマメンバー、ハルコンネン家の音楽担当
アマンダ・リア、、、ダリの当時の愛人、イルーラン姫役
ダン・オバノン 、、、特殊効果担当、録音音声のみ
ジャン=ポール・ジボン 、、、共同プロデューサー
ニコラス・ウィンディング・レフン 、、、映画監督
リチャード・スタンリー 、、、映画監督、脚本家 
デヴィン・ファラチ 、、、映画評論家
ドリュー・マクウィーニー 、、、映画評論家、脚本家
ゲイリー・カーツ 、、、『スター・ウォーズ』第一作、第二作のプロデューサー
ダイアン・オバノン 、、、オバノンの妻
ジャン=ピエール・ヴィニョー 、、、ブロンティスの指南役の武道家


他にもここには出演はしていないが、”DUNE” に重要キャストとして参加する、ジャン=ジロー・メビウス、サルバドール・ダリ、ミック・ジャガー、オーソン・ウェルズ、ピンク・フロイドなどがヴィデオなどを交え紹介される。何とも凄まじい面々である。

エイリアンブレードランナーもこの「ホドロフスキーのDUNE 」から生まれてきたと聞いていたが、確かに制作ブレインは、ここにホドロフスキーによって選ばれた戦士たちによるものだ。よく分かった。それがどれほどのことを意味するかも。

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”DUNE” を作ることは、枠に閉じ込められている自我と知性を開放する自分のための壮大なる闘いであり、世界(人々の意識)を変える試みでもあった。フランク・ハーバート原作『デューン』のヴォリュームは、不可避的に超大作を要請する。
ホドロフスキーは自分の夢を実現できる彼の謂うところの「魂の戦士」を世界中からかき集め具体化に向けて準備を着々と進めていった。演者もすべて集め、役のための特訓も受けさせた。
その12時間に及ぶ超大作の彼のシナリオ~内容を絵コンテ、キャラクターデザイン等で共有した関係者たちは皆、最も偉大なSF大作になるはずであったと口を揃えて謂う。

そして既存の映画会社の体質から実際の制作にまで漕ぎつけなかった”DUNE”は、その後の多くの映画に影響を与え続けることになる(2年半かけて製作準備を完璧に終えたにも関わらず、中止となった)。
ホドロフスキー は一切の妥協を呑まなかった。
ハリウッドからは、予算の件だけでなく、上映時間を1時間半にしてくれと言われたという。
これでは、ホドロフスキー が怒るのも無理もない。
だがそれだけではない。「エル・トポ」や「ホリーマウンテン」の前衛性にハリウッドが拒絶反応を示したところも大きかったのだ。

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確かに強烈な独創性である。アクは強い(笑。だが、わたしは上記二作と「サンタサングレ 聖なる血」はエンターテイメント性もしっかり確保されており、刺激的で深淵だが重くならず楽しめた。ヨーロッパでは大ヒットを記録している。意表を突く面白さや独特の刺激が人の深層にまで届く何かを確実にもっていることは間違いない。その点での受けは心配はないはずだ。
デューン/砂の惑星」として後に(個性では負けない)デヴィッド・リンチ監督が引き継ぎ発表するが、リンチ自身大変不本意な出来で手放すことになり悔しがっていたとか、、、。

ホドロフスキーはこの映画を見て、あまりの酷さに嬉しくなったという。
「リンチのような優秀な監督がこのありさまだ。製作側の責任だ」と彼は語る。
何故、映画会社は再三にわたりこんな真似をするのか、、、。
何でも以前流れた情報では、3度目の正直で、リメイクを 「ブレードランナー2049」のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督に託すそうだが、、、。
ただでさえ稀にみる超大作になる上に、映画会社・製作側との闘いもあり、非常に大変な仕事になるはず。
くれぐれも身体には気をつけて欲しいものだ。

「デューン/砂の惑星」を書いたときに、本作を見る気はない、みたいなことを謂っていたが、実際に見てみるとどれほどの熱量で製作の準備が完了していたかが窺え、愕然とした。
昨日観た寺山修司であるが、彼はホドロフスキーに対してすごく嫉妬していたという(天井桟敷の団員の談より)。
確かに現実と非現実(夢想の世界)が同格で自然に融合しているところなど共通項は多い。
ホドロフスキーも前衛的舞台劇を沢山作ってから映画に転じているのも似ている。

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実際、尋常でない情熱である。狂気も交じっている。彼が映画製作に関するあらゆるパートに深く関与していることが分かる。
(監督でもこれほど全体に関わり細部に至るまで自分の意図を徹底する人は少ないという)。
映画(という表現形式)を異なる次元にまでもっていこうとするかのような憑かれたような情熱だ。
更に噺を聴いていると、彼が仲間~戦士たちから大変魅力的な教祖みたいな存在として敬われていたことも実感できる。
かなりお茶目でチャーミングでさえあるのだ。
彼がダリを皇帝役に誘ったときのエピソードが特に面白い(ダリ自身、変人のなかの変人でもあるが)。
「わたしはピカソと海辺に行き、車のドアを開けると、いつもの砂浜に時計を見つけた。君は砂浜に時計を見つけることがあるか?」と聞いてくると言う。やはりとんでもない変人だ。しかしこれで出演の是非が左右されるのだ。困ったホドロフスキーであったが、直ぐに名案を思いつき「わたしは、時計を見つけたことはない。しかし多くの時計をそこに失くした」と返した。
「なるほど」と答え、ダリの出演は決まった(爆。
監督業は大変だろうが、変わった人相手で、結構面白いものに感じる。

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それらの多くの努力がそのまま実を結ぶことはなかったとはいえ、映画会社に送った素晴らしい出来のDUNE の完成されたシナリオ絵コンテ、イラスト、デザインの本から多くのSFの名作が生まれてきた功績は大きい。
ホドロフスキーのDUNE 無しに、エイリアン、ブレードランナーは存在しなかったかと思うと感慨深いものだ。

85歳でまだ矍鑠としており、これからの活躍を期待したい。
「リアリティのダンス」を観たいのだが、AmazonPrimeで年会費を払っている会員なのに有料というのが気に喰わない。
当分観ることはなさそうだが、必ず観たいものだ。











田園に死す

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1974年

寺山修司 監督・脚本・原作・製作

J・A・シーザー音楽

菅貫太郎、、、私(作家)
高野浩幸、、、少年時代の私
八千草薫、、、化鳥(隣の美しい若妻)
新高恵子、、、草衣
斎藤正治、、、股引(見世物小屋の人)
春川ますみ、、、空気女(見世物小屋の人)
新高恵子、、、草衣(見世物小屋の人)
三上寛、、、牛(見世物小屋の人)
原泉、、、幻婆(見世物小屋の人)
蘭妖子、、、せむしの少女(見世物小屋の人)
木村功、、、映画批評家
原田芳雄、、、嵐(化鳥の愛人、共産党員)
粟津潔、、、詩人
小野正子、、、魔性
サルバドール・タリ、、、兵隊バカ(見世物小屋の人)
ミスター・ポーン、、、一寸法師(見世物小屋の人)
大前均、、、大男(見世物小屋の人)
高山千草、、、母親
中沢清、、、曲馬座長


AmazonPrimeでこれが観られるとは思わなかった、、、。
(サルバドール・タリって何なの?)
しかし、わたしは、寺山修司をほとんど知らない。
上の(別の)世代の文化人~芸術家で、谷川俊太郎、大江健三郎や横尾忠則、宇野亜喜良、花輪和一や合田佐和子などと親交が厚くコラボを行っていたあたりは、何となく知っている。そう、ファイティング原田の友達でもあった。ちょっとずつ思い出してきた。タモリが彼の物真似をしていたような気もするが、、、。
学校の先輩などの噺からちらほらその活動の一端を窺い知る感じであったが強く興味を惹かれるという対象ではなかった。

やはり観たことはないが「天井桟敷」である。
「見世物の復権」とか、、、そこに見られたグロテスクでエロティシズムに充ちた原光景であろうか、それを極彩色に演出した前衛と土俗文化(元々前衛と土着文化は相性は良い)の融合した実験性溢れる舞台で観客を大いに挑発した、みたいなことが盛んに言われていたものだ。寺山修司と謂えば直ぐに連想するのは、「天井桟敷」であろう。
天井桟敷と謂えば劇場の最も料金の安い席ではあるが、高みに位置する。ふとその場から遊離し崇高な思いにも浸れそうな場所ではないか、と思ったこともある。そうした微妙な場所~余地というものが時折見つかるものだ(いや、だんだん見付け難くなって来てはいる)。

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「田園に死す」は有名な歌集?であり映画にもなっていた為、題名は知っていた。
ちょっと観る前の期待感は、いつもの邦画とは違ってくる。

例の雛人形を乗せた雛段が河を流れて来たが、それ程のインパクトはなかった。
歌集からの短歌がかなりの数詠われるのだが、何と言うか、入ってこなかった。すんなり読み過ぎているというか、、、。
本来ならお得感タップリのはずなのだが。

色彩、配色もビビットではあったが神経を逆なでするような強度は無く、全体に思ったより落ち着いていた。
アバンギャルドな装置なども気にしながら観たが、登場人物の多くが白塗りの顔で出ている他は、シチュエーション上関係ない人々の同じ空間への配置や全体の構図が舞台空間的であるのが特徴的であった。
(白塗りとそうでない組の違いはなんであろうか?)
噺の間をヘビのようにすり抜けてゆく小野正子の退廃や血や地獄をイメージさせる舞踏は鮮烈な装置であったか。
花輪和一の画面を想い起すような色と構図も観られた(構図には細心の注意が払われている)。
しかしかなり通常の映画枠を守り丁寧に作られている感触であった。
勿論、内容的には現在の自分と過去の自分が対峙して母殺し問答をすることや深い情念がシュールなまでに描かれてゆくところなど刺激的なところは沢山ある。
そう、終盤の少年が寺?で草衣に襲われるところなどBGMも相まってかなり重厚なインパクトがあった。

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映画の前半は、今の自分が映画監督として製作した作品であることが、評論家とのスナックでの会話を通して分かる。
試写会の関係者たちはその出来を称賛していたが、本人はとても引っ掛かる。
その出来具合が良い悪いのではなく、出来事~思い出を対象化した途端、彼の言葉で言えば「厚化粧をした過去」となってしまい「原体験を書く対象にしなければ真実の過去としてしまっておけた」と謂い表現してしまったことに大いに葛藤していた。
相手の評論家はそれに対して「過去を虚構化することで作者は過去から自由になれる」と諭す。
「人間は記憶から解放されない限り自由になれない。記憶を自由に編集できれなければ本物の芸術家といえない」とも謂う。
わたしは、まず現在の自分を形成している(その要因となった)過去の出来事は極力精確に(不可避的に言語的な文節化による変容は受けるにせよ)そのまま取り出しじっくりと吟味することこそが肝心で重要極まりないことだと考える。
その行為により対象化が十全に図られある意味過去から解放され、虚構なりなんなりの表現に持ち込めるものだと思う。
(実はわたしが今やっていることは、その部分なのだ。しっかり~厚化粧せず~対象化することは思いの他難しい)。

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別に、中学時代の自分の思いが対象化された後であれば、駆け落ちすると言っていた若妻が愛人と心中していても、間引きされた赤ん坊が実際は奇形で村人たちから排斥されていようが、前半のままの流れで、自分は美しい若妻と駆け落ちして東京で暮らしたとしても、赤ん坊が可愛い元気な子で村人みんなから大切にされたとしても本人の問題が解決されていれば、何でも良いはず。

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評論家は最後に「タイムマシンで3代前のおばあさんを殺したとしたら、現在の君はいなくなると思うか」という問題を出す。
それを解く為もあり、自分は過去の少年の自分に遭いに行く。
2人で将棋を打ちながら母殺しについて相談する。
恐山(父親の霊との対話、あの世についての関心)、家出(見世物小屋団員の話で外の世界に強く惹かれる)、母殺し(解放そのもの)、、、である。
これらは全て母の呪縛から発しているのか。
その呪縛からの解放の物語をもがきながら目論んでいる。

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確かにシュールレアリスムと(青森)土着文化が融合したかのような絵と運びが至る所に見られる。
だがそれをもってしても、計画は遂行されない。
少年は東京から戻って来たかつて赤子を間引きすることを強いられた女に出逢い襲われる。
彼はそのまま今の自分を残して電車に乗り何処かへ行ってしまう。
今の自分は、どうにもならず、家に戻るとまた母と向かい合い無言で食事を始めることとなる。
突然パタリと家の書割が倒れるとそこは新宿の交差点なのだ。
周りには一般の人々や映画のキャストが通ってゆくなか、母と無言で食事を続ける。
ここはよく分かる。まさにこのシチュエーションだ。このどうにもならない寄る辺なさ。
この微妙な交差点において、こんな形で母とずっと対峙し続ける。
永遠に「母殺し」は宙吊りにされたまま、、、。

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寺山修司はこんな風に呪縛の人生を送ったのか、、、。








呪いの館 血を吸う眼

LAKE OF DRACULA001

LAKE OF DRACULA
1971年

山本迪夫 監督
小川英、武末勝 脚本

岸田森、、、吸血鬼
藤田みどり、、、柏木秋子(中学教師)
江美早苗、、、柏木夏子(秋子の妹)
高橋長英、、、佐伯(秋子の恋人、医師)
高品格、、、久作
大滝秀治、、、吸血鬼の父
二見忠男、、、トラック運転手


血を吸うシリーズの真ん中の2作目を観てみた。
かなりシンプルな作りで、1作目ほど凝ったものではない。3作目よりもさらっとしていた(笑。
キャストも女優にもう少し人材が欲しいものだった。
今回も自動車事情はほぼ同じで、コロナマークⅡで走り回っていた。懐かしいし嬉しい。

これといった特殊メイクなしにドラキュラに成りきれる岸田森の凄さ。
岸田森は1作目の吸血鬼役の小林夕岐子同様にその本性を見せる時に目が金色に光る。
こうしたサインは以降の怪人、クリーチャーものの基本スタイルにもなっていったような。

それから第1作目「幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形」にも使用人で出ていた高品格の気のよい爺さんと気味の悪い吸血鬼の手下という振り幅の広い演技の安定度が際立った。
そこから見ると女優陣が些か弱い。
1作目は松尾嘉代がしっかりと引っ張ったが、今回はキツイ。
佐伯役の俳優も3作目「血を吸う薔薇」の黒沢年男と同じくらいは頑張ってはいたが。
何やら女優たちの脚線を強調するような演出が見て取れるが、それが作品の魅力に繋がる程の効果はあげていない。
寧ろ岸田森や高品格の俳優陣の演技でもっている。

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中学の美術教師である秋子は幼い頃の恐ろしい目を見た経験がトラウマとなっていた。
その目だけは悪夢として度々観るが、それがどのようなコンテクスト上にあるものかそれがはっきり思い出せない為に悩んでいた。
美術展に出す絵としても1枚、金色に光る恐ろしい目の絵を描くが、その過程で当時の背景や文脈を割り出すまでには至らなかったようだ。
普通、あれだけ絵に表出出来ているのなら、何かを掴んではいまいか、、、。
やはり観た時が極めて幼かったことが大きい。
しかし、内省を深めつつ絵に起こしてゆく姿勢は、識域下に恐怖から沈めてしまった思いを探るには有効なものだと思う。

その経験によって内面的になり繊細で過敏になってしまった姉に何かと両親が手をかけ、その分妹に注がれるべき愛情の不足感から、妹は姉を心の底では憎んでいたということは、あり得よう。
妹は中盤で吸血鬼に血を吸われ彼の誘導でいつでも血を差し出すようになってしまう。そして人格も変わる。
(そして血を吸い尽くされると死に、その後自らも吸血鬼となって覚醒する。それを阻むには死体となった時に体を燃やさなければならない)。
表面的には仲良し姉妹(兄弟)であろうが深層では思わぬ軋轢や相克を抱え込んでいることは少なくないものだ。
とすれば、吸血鬼に血を吸われ吸血鬼と繋がることは、日常的なペルソナを脱ぎ自分の深層心理にも降りてしまえるのか。
(それは場合によっては必要な面もあるが、貧血で死んでしまっては元も子もない)。
血を吸われた女性たちは、貧血で顔色は悪いが、安らかで確信に満ちた顔つきでもある。

LAKE OF DRACULA002

結局、恋人の医師佐伯の催眠療法により自らに向き合った秋子は、5歳の頃に犬を追って行った洋館を彼と共に突き止める。
そこは何故か当時のままの様子で残っており、その場所の記憶がはっきり蘇って重なるのだった。
吸血鬼の父の書いた日記で吸血鬼の素性と経緯を知り、タイミングよく家に戻って来た吸血鬼との最後の闘いとなる。
力では圧倒的に強い吸血鬼であるが、もみ合っている時2階の欄干が砕け、父にも足を掬われて落ちた際に折れた柱のひとつが胸に刺さり苦しみもがいた末息絶える。妹の夏子も同時に息をひきとるが、とても安らかな死に顔であった。
この作品もまとまっていて観易いものであった。

この血を吸うシリーズ、わたしとしては、1ー> 3ー> 2の順番で面白かった。









幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形

VAMPIRE DOLL002

VAMPIRE DOLL
1970年

山本迪夫 監督
小川英、長野洋 脚本

松尾嘉代、、、佐川圭子(和彦の妹)
中尾彬、、、高木浩(圭子の恋人)
中村敦夫、、、佐川和彦(夕子の婚約者)
南風洋子、、、野々村志津(夕子の母)
小林夕岐子、、、野々村夕子/吸血鬼
高品格、、、源造(野々村家の下男)
宇佐美淳、、、山口医師

「ゼイラム2」がAmazonPrimeにあったのだが、何と有料なのだ。会員なのに有料というところに納得がいかず、そのうち無料になったら観ることにした(爆。
そこで今回は以前観た「血を吸う、、、」シリーズの第1作目を観てみることにした。
ここのところ、古い日本のカルト映画?を出逢った機会に観ては来たが、本作もなかなかのものであった。
キャストも豪華であり、役柄にピッタリである。

これは、「血を吸う薔薇」(シリーズ3作目)よりもよく出来ているかも(この作品が良く出来たからこそ、シリーズ化され3作目まで製作されたというべきか)。
バリバリの主役級の中村敦夫が出て来て、これからどんな活躍をするのかと思っていたら、あっけなく前半で姿を消してしまう。
この喪失感~急展開は「サイコ」に近い。情景がガラッと変わる。(最後の方で椅子に座った佐川和彦の成れの果ての姿を見せるところもサイコそっくり)。

VAMPIRE DOLL004

大雨の夜の深い森の古い館から、カラッと明るい昼の都会の若いカップルの情景に。
中尾彬と松尾嘉代の溌溂としたヤングカップル登場だ。
こうやってみると、若いというそれだけのことでも価値だなあ~と思えてくる。
(映画とは関係ないが、自分とも照らし合わせても、、、つくづく)。
脂っこさのない涼やかな中尾彬(しかし芸風に癖在り)とピチピチギャルの松尾嘉代である。
ファンが見たらさぞ感慨深いものだろう。わたしもその新鮮味は悪くないと思った。

VAMPIRE DOLL005

野々村夕子の吸血鬼も上品でゴシックホラーのレベルとしてもかなりのところと思うが、あんな金色コンタクトで凄い効果であったが大丈夫なのか、と心配になった。
調度品や絵画など装飾性も高く、窓から中庭、2階から地下の階段を用いた上下の構図~動きも様式的に効果的に使われていたと思う。
そう、当時の車もとても愛おしい業界に勢いと元気のある頃のものだ。わたしとしては、こちらの方に感慨深い。

噺の方は、海外出張から帰国した佐川和彦が早く会いたい一心で、婚約者のもとへ車で夜も遅くに駆けつけるが、何とすでに彼女は自動車事故で亡くなっていたという。
その屋敷に一晩泊まり翌朝墓参りをする予定であったが、窓の外に何と死んだはずの夕子の姿を見る。
和彦はその後を追ってゆく。

VAMPIRE DOLL003

8日経ってまだ帰らない兄を心配する圭子は恋人の高木と共に夕子の屋敷に乗り込む。
そこで、母志津から夕子の死を告げられ、兄はすでに帰ったと言われる。
腑に落ちない二人は一晩泊めてもらい、様子を探ることにする。源造の排他的な動きも充分に怪しいものであった。
圭子は夕子の姿を深夜目の当たりにし、どうやら兄も帰った様子もなく、この屋敷の人間を疑い、周辺から探ることにする。

2人は役所でかつてこの屋敷に起きた一家惨殺事件を知り、何やら尋常ではない屋敷に掛けられた呪いのようなものを感じる。
夕子の死亡診断をした山口医師には、死後も人の意思は生き続ける例を聴かされた。
その後、圭子は屋敷で志津を問い詰め、高木は土葬された夕子が本当にそこに眠っているのか確かめる。
案の定墓地には、マネキンが寝かされており、夕子は死んではいないことを突き止めた。
逃げ出した墓掘り人夫が殺され夕子の走り去る姿を目撃した高木は、夕子が殺人鬼となって徘徊していることを確信する。

VAMPIRE DOLL001

兄が夕子の部屋で椅子に座ったまま腐乱死体となっている姿に遭遇し逃げ出した圭子と助けに来た高木は、突然現れた山口医師にピストルを向けられる。山口は、自分が夕子の父であり、かつてこの家の家族を志津以外全員殺害したことを告白する。戦争に出ている間に婚約者の志津が別の男の妻になってしまったことで起こした事件であった。
その後ずっと母子を守り続けて来たが、自動車事故で娘が死に瀕した時、催眠術で生き還らせる方法をとったという。
2人が山口医師に撃たれそうになった時、夕子が現れ父の喉を掻き切って殺してしまう。
すると彼女も術者の死により、息絶えてしまう。泣き崩れる志津。抱き合って呆然と立ち尽くす圭子と高木。

催眠術で生と死の間を不確かなものにする、というのも凄い噺だ。
意思~魂が死を超えて存在するとしてもこの場合肉体も血を吸い生きながらえるのだ。
エドガー・アラン・ポーの小説にそのようなものがあったはずだが。
古びた屋敷を舞台にした超自然的な怪奇譚として充分に愉しめた。


キャストもピッタリで(この点で3作目を凌ぎ)見応えもあった。
真ん中の一本も観てみようか、迷うところだ、、、。











ゼイラム

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ZEIRAM
1991

雨宮慶太 監督
雨宮慶太、松本肇 脚本
松本肇 原作

森山祐子、、、イリア(マイス星系の捜索者)
螢雪次朗、、、神谷(ゾーンに巻き込まれた電気工)
井田州彦、、、鉄平(ゾーンに巻き込まれた電気工、神谷の後輩)
吉田瑞穂、、、ゼイラム(凶暴な宇宙生物)
半田雅和、、、ボブの声(イリアの相棒AI)

「最強の特撮ヒロイン」というだけあり、その美しさに凛々しいカッコよさは、「スーパー戦隊シリーズ」ではなかなか見られない女性戦士ぶりであった。電子戦隊デンジマンの桃井 あきら、炎神戦隊ゴーオンジャーの須塔美羽、特命戦隊ゴーバスターズの宇佐見ヨーコ、警察戦隊パトレンジャーの明神つかさ辺りが同レベルのヒロインであるか?何とも言えぬが、これが1991年に作られていたとは、、、洗練されている。ヒロインものであるから、この主役にかかって来る比重はどうしても重い。
このヒロインでもっている部分は大きいが、噺もしっかりできているし、脇のキャストも充分に盛り上げている。
これで面白くない訳はない。

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ヒロイン、イリアの相棒はAIであり、コンピュータのパネル上で意思疎通を行っている(お喋りが少し多いが)。
CGも、この時期のものとしてはかなりのクオリティだ。
ストーリーはシンプルで、生物兵器として作られた宇宙の御尋ね者みたいな怪物を賞金稼ぎであるイリアが相棒と共に捕獲に乗り出し地球の電気工とも協力し合い悪戦苦闘してそれに成功するというもの。噺を単純にしてゼイラムの造形の変化やアイテムを使っての戦闘~攻防を工夫を凝らして描いて行く。捕獲の空間をゾーンとし街並みは同じだが時間制限付きの無人密閉状態とする。
つまり誰もいない夜の街で捕獲作戦を実行するというもの。
(低予算で効率よく撮るには、良いアイデアだ)。

メティス砲など特別なアイテムを色々と出すが、ともかく相手がねちっこい。
やられても、違う形態として復活して襲ってくる。
しかし、最初から本体は相棒AIが割り出しているし、そこをダイレクトに狙えば効率よかったのでは、、、と思うが。
その本体が白塗りの歌舞伎の面のようにも舞妓さんにも見える顔でヘビのように首が伸びて噛み付く。
不気味で日本的(笑。
登場時のBGMからも東洋的である(お寺で聴くサウンドである)。日本の妖怪にも通じるフィギュアだ。本体が兜の額の位置に埋まっている。

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最初は現地人とは一切関わらず、口もきかないようにしていたが、電気工がひょんなタイミングでイリアと一緒にゾーンに転送してしまい、彼女も関わらざる負得なくなる。
現地人を死なせてしまうと賞金どころか賞金稼ぎの資格も失ってしまう為、彼らの命を守りつつ、思いの他手強い生物兵器の御尋ね者を捕らえようとする。
しかし敵が強すぎて捕らえることは難しく、退治してしまうことに。

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ハラハラさせる演出が上手く、相手のしぶとさが生きているが、強さが今一つ分からなかった。
物凄い破壊力を発揮するのに人に押さえ込まれていたりして、その実力のほどが掴めないもさもさしたところも、ハラハラさせる要因でもあった。
音響がなかなか面白く、随所で演出効果をあげている。
イリアも地球人を遥かに凌駕するタフさで、やられてもダメージを感じさせないところなど高度な異星人らしさを見せていた。
アクションは地球の格闘技にも通じるものであったが、、、。


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低予算であることが分かるが、ただ狙った獲物を倒すだけという余計な思想的なものを排した、無駄なく作り込まれた作品であった。
毎週放送のTVドラマの形でも充分に成り立つものだと思う。

続編もあるようで、AmazonPrimeで観る事が出来れば是非見たい。

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最後は仲良くなって記念撮影。
2人の電気工は地球の英雄扱いに。

やはりヒロインの映画であった。





”Bon voyage.”

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