子供と遊ばない日

たまには、子供と離れて時を過ごす日も欲しい。
独りになりたいときもある(笑。
こんなに長期間、子供と一緒に過ごすことも珍しいし、そうはないことだ。
ふたりは、わたしの目を逃れるとエンドレスでパソコンゲームに走る。
今日はもう、良いことにする。
映画は観てみた。
が、映画のせいではなく感動が薄い。
こちらが感覚的に疲弊している。
感性がダウンしているようだ。
再度、見直さないと感想にもなりそうにない。
そんな感じだ。
観たものは、「グラビティ 繰り返される宇宙」と「万引き家族」
これを立て続けに観て、消化できるはずもない(爆。
思考停止寸前で混乱もしているため、明日以降にまとめてから書くために少しだけ整理しておきたいのだが、、、
出来そうもない。
取り敢えず、気になる事だけでも挙げておきたい。
「グラビティ 繰り返される宇宙」
VFXが良い。
とてもこじんまりした範囲の深宇宙の光景。
強大な重力場の近傍での出来事。
時間が遅延することは分かる。逆走する場合もあろう。時間のループと突然現れ過去の自分に追突する未来の自分、というところがインパクトはあるも、微妙。
無限ループの表現として巨大惑星の輪が全てその船から発せられた脱出ポッドで形成されている光景には瞠目。
良いSFというものは、世界が出来事の集まりであることを想い起こさせてくれる。
そうした感覚を目覚めさせてくれる。
その点で、この映画は好感の持てるものであった。
わたしは、時間を扱う映画では、時間を実体化していない脚本に期待する。
実際、熱力学関係の熱が絡む数式以外の物理の方程式からは、時間変数は消えている。
時間は無い、と言ってよい。
物の動きがランダムであることから不可逆性が不可避となりモノの移ろい~エントロピーの向きから類推により時間という測り~概念が身体化してしまったものか、、、。
その時間も分秒の計測などは生活環境には馴染まず、事象の起こる順番で身体的に感知するレベルである。
全体の基準となる線状的時間~絶対時間(ニュートン)など生活実感には元々そぐわなかった。
物事の軸に時間は無く、互いが互いの関係においてどう変化するかの相互作用があるのみである。
宇宙の局所、局所で多様な「時間」が生じる。人も固有時として存在し関係する。
その辺の感覚はある。
恐ろしい重力場において時間がほぼ止まっているのは、相対性理論による描写であろうが、その宇宙船の位置が気になる。
事象の地平面に取り込まれずにいられる場所なのか、、、ギリギリのエッジにあって時間の逆流と新たな時間系との激突を繰り返しているのか。
しかもそのループ現象が乗組員の行動の修正によって乗り越えられるという設定か、、、。
「万引き家族」も同様。
ギリギリの場所で奇妙な疑似家族形態を微妙に保つ。
勿論、揺らぎながら辛うじて形~枠を維持しているところがリアルで良い。
「万引き」~ちょいとした?ジャンプで繋がっているのだ。
これはアイデアの勝利に思える。
ゆりという連れてこられた少女は、まさに「ごっこ」のヨヨ子である。
ここでの子役も素晴らしい。
それぞれの存在の無軌道な揺らぎぶりがとても生々しさを覚えて心地よい。
よく比較されていた「パラサイト 半地下の家族」とは、趣きが違う。
ここにあの絢爛たるエンターテイメント性は見られない。その意味で実に地味で生~レアである。
ドキュメンタリーを観るような感覚で淡々と事象は起こる。
連続性と謂うよりちょっとした飛躍で進展して行く。
概ね子供にとって良い方に向いていると思っていたが、大事に育てていた祥太によってその危うい家族は解体する。
同じくネグレクト現場から連れてこられたユリは、元の親に還されたが、当然「柴田家」の方が愛情~愛着関係が篤い。
そちらに還りたがっているのは自然な欲求だ。幼少期の大事な経験が味わえない環境でひとは育たない。
だが、祥太はそこからの巣立ちが必要な段階だった。
意識の上でも彼は、「柴田家」を相対化してしまった。
そのきっかけは、近所のカモにしていた駄菓子屋の主人に現場を目撃され、妹には万引きはさせるなと、逆にお菓子を貰ったことだった。
恐らくこういった経験から子供は、ひとつこれまでの世界を包含する世界観を得るのだろう。
そうした運動が見て取れた。
これもまた静かで良い映画であった。
そのうちにまとめたい。
取り敢えず今日のところは、、、この辺で。