銀杏の皮むき

今日は娘の小学校の「銀杏作業」(PTAの仕事)に行った。
銀杏の皮をむき種を出す単純作業だが、その数が途轍もない数なのだ。
長靴履いてレインコートを着てビニル手袋にマスクに帽子姿でひたすら作業に打ち込む。
というより、わたしの場合、自閉的に自動的に埋没する。
それを9時から11時半まで続けた。一言も発せず、全く休むことなく。
その結果、その場を離れた瞬間、非常に疲れて、何をする気力もない(笑。
この後に映画を見るなど、とんでもない(もともとそんなに好きではないし)。
休憩にならない。
疲れているが、寝る気にもならない。
だが、ボーっとしていて何も手もつかない。
そんなときは、決まって”ニック・ケイヴ/20,000デイズ・オン・アース”を見る、いや聴くことにしている。
特に最後の13分くらいから終わりまでのところ、、、。
これで、動き出す気力が湧く。
少なくとも栄養ドリンクなどより1000倍、いや20,000倍よい(爆。
まだ、気力が戻らぬ場合は、わたしが特別セレクトしたニューオーダーのアルバム(プレイリスト)を掛ける。
アカデミーあたりで、ほとんど蘇生している。
(あの石野卓球さんもNEW ORDERの熱狂的なファンらしい。先日相方のピエール瀧氏とドイツでライブを観て大盛り上がりだったそうだ)。
ピエール瀧、懐かしい。また演技見たい。
銀杏特有の匂いは、することはするもほとんど気にはならない。
マスクで緩和される面もあろうが、銀杏に関わるという前提意識があるため、その匂いに殊更文句を言う気にはならない。
凄く熟れた末に腐った酸味たっぷりの匂いというか、観方いや嗅ぎ方によっては退廃的で官能的な匂いともとれなくはない。
ユイスマンスなら何と言うか、、、。
山のように積まれた銀杏の実を1テーブル6人くらいのママ(たまにパパ)が囲み、めいめいに程よい数の実を自分の手前に引き寄せてムキムキの作業を進める。その際、剥いた皮と種をしっかり分けて仕事をする。
当然のように各自の目の前には、二山がうず高く形成されてゆく。
一定時間を置いて、種と捨てる皮をそれぞれの担当ママが回収に来る。
わたしは今日、自分の目の前に14回、銀杏の種の山を作った。
作っては消え、作っては消える山。やってゆくうちに風情を感じ始めるではないか、、、。
(これはもしかして、かなりの前衛アートかも、と疑ってみたくなる。少なくともインスタレーションの一つとみても良い)。
回収に来る周期が微妙に異なるため、こちらが一定スピードで作業を行っていても、その時点で出来ている山は高さ~大きさが異なる。大きな山が崩され持って行かれると何か寂しい想いに囚われるのだが、まだ育ち切っていない山が持って行かれると、惜しい気がする。皮の滓の方は溜まり始めると目障りなので持って行ってもらうとスッキリする。
大概、皮屑の山の方が体積が大きい。
匂いは勿論、ここから発せられている。
今月のイベントは、今日で終わるが、来月初めには、娘たちの絵画の表彰式が控えている。
しかし今回は前回のように良い賞は受賞できなかった。
ここのところ、銅賞や佳作止まりが多い。
遠藤彰子先生に今回は今一つの審査結果でしたとメールすると、個展を控えた大変お忙しい時期に関わらずとてもご丁寧なお返事を頂いた。細かいお話を載せるのは控えるが、賞に一喜一憂することなく作品を作り続けるモチベーションに役立てましょうというお答えが基本であった。真っ当な考えだと思う。審査員全員で決める為、大賞の作品より入選作に良いものが見られることもあると。
確かに、審査員の価値観~審美眼によって選別される以上、好みの問題は避けられないだろう。
子供らしい描線、タッチの力強さと快活な色彩に加え大胆な構図、構成が見られるとポイントは高いことは、わたしも経験上分かるのだが、今回は、渋い印象派風の写実の方向で描いたものだ。もう5年生になると所謂子供の絵は描けなくなっている。
しかし受けが今一つであったものか。インパクトと謂うべきかな(笑。
家に遊びに来た時によくピアノを弾くお友達も、同じ美術展の授賞式で逢うことになっている。
ピアノと絵画両方のお友達は余り出来ないと思う。大事にしたいものだ。
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