蝉の音

蝉の幼虫は3-17年を地中で暮らすと言う。
戸川純の歌みたいに、地中で樹液を啜って何度か脱皮するそうだ。
その間、敵~モグラなどに襲われる場合もある。
そして長い時を経て地上へ、、、。
夕方に出てくると言うのは風情を感じる。
滅茶苦茶暑い強烈な日光をいきなり浴びたら、出てきたことを後悔するはず。
木に登り、日没後に「羽化」する。
このときの蝉の殻を子供時代によく集めた。
元の形を少しでも綺麗に留めているものはお宝であった。
それは見事でフラジャイルな造形をじっくり味わう濃密な時間になる。
いくら辛い日常のなかでも、その時間を暫し断絶する自然の美の力をそれは放っていた。
こういう美がなければヒト~わたしも到底生きてはいけない。
「人間原理」の研究を進める科学者の中に、その絶妙な調整に恩寵を見出し「神」を持ち出す人もいる。
ちょっと、びっくりしたものだ。科学者がまた何で神を、、、。
辛うじて知的生命となるまでどうにか環境的に保護はされてきたとはいえ、このわれわれの共同体~社会がどれ程のモノだと言うのか!
これはかなりの失敗である。
神など全然大したことはない。
別にアウシュヴィッツや広島・長崎を引き合いに出すまでもなく、この日常の歴史をどう説明するのか。
極近傍で、とてもソリッドな音が静かにじわじわと立ち上がる。
周りを見回すが部屋にはその音の主は見えない。
ただ、凄く近いことが分かる。
窓を窺う。
よく分からない。
いるのかいないのか。神のように。
小さな低音から、徐々に大きくゆっくりうねりだし、それはグレツキの「交響曲第三番」の第1楽章 Lentoを想い起させた。
だがその音には、調性、旋律のテクスチュアは抜け落ちていた。
だが、はっきりと生命活動を知らせる律動がビビットである。
それはとても近傍に響き、近さの内に留まった。
そして、、、
ひとつの厳かな音が始まりから終わりまで重厚に奏でられた。
蝉の音であることは明白であるが、いつも聞く、距離を持った途中の音ではなかった。
やはり今回も分厚い音となったが、近くで始めから終わりまでを(恐らく初めて)聴いた。
時間はそれほど感じなかったが、成虫は長くて一か月の生命である。
一曲とて疎かには出来まい。
音の粒まで確認できた気がする。
彼らのディテールを聴いたようだった。
近くのディテール。
この辺、最近科学でも何かと話題になっているところ、、、。
何故か「交響曲第三番」を聴きたくなった。
やはり「神はディテールにいらっしゃる」か(ミース・ファン・デル・ローエ)
あっけらかんとした原始宗教的な感覚を味わった。
この宗教感覚は何なのだろう。
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