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GOMA28

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エンドレスエイト インターミッション

Endless Eight007

Intermission

いくちゃんの写真集についてではない(笑。
恐れ多くてコメントなどしようがない。

そうではなく、「エンドレスエイト」についての考えがまとまらず、一先ず休憩にしたいのだ。

原作とか読まないと、よく分からない世界かも知れない。
(原作に忠実とは言え、原作にはこのような繰り返しはないという。一回の記述で凄まじい回数のループの後にキョンのひとことでループを脱したようで、読んでもこれについてはあまり意味はなさそうだが)。

原作を読んでいれば、感じ方が違ってくることは当然ある。
しかしこれは表現形式が異なるのだから当たり前のことであり、その世界観をその形式を活かして表すことに成功していれば文句はないはず。

どうなのだろう。
わたしとしては珍しく、これについて書かれたスレッドなどを拾い観してみたが、驚いたことにコアなファンにかなり評判が悪く、実際売り上げをこの話から落としているようで、それ以降立ち直らなかったようだ。いやセールスの問題より深刻なのは、この大傑作「ハルヒ」シリーズ自体の評価を落とす要因に、この作品がなってしまったらしい。何ということ、、、。

ちょっと今回は、いつものように無手勝流な感想を気軽に書けない気分に陥った。
同時に夏の疲れもどっと来た。
わたしは原作はおろか、毎週の番組を一周間楽しみに待ったうえで視聴していたわけではなく、DVDで一気にまとめて観てしまったのだ。この違いが殊の外大きく影響した感もあるが。

ファンのほとんどは、この作品に怒っているようなのだ。
主に8回ほとんど同じイベントをそれぞれ制作チームを変えてまで作ったのに、完全にイベント・セリフ・シーンが細かい部分まで統制がかけられており、ほぼ同じもの~シークエンスで出来てしまったのだ。それでも作画の個性などは滲み出ており、わたしはその辺の違いを味わうことが楽しかったのだが、、、つまり型を同じにしても溢れ出てしまう表現の妙が、である。

批判の多くは所謂、バタフライエフェクトによる作用がどうなってるのか、自然に考えてもっと多彩で多様な動き~イベントになって当然だろう、いつものようにキョンではなく視点を変えてイベントを捉えてみたらどうなのか、ここでは全てを知る立場の長門がその適役ではないかとか、同じイベントでやっても一回ごとに視座を変えたら変化に富むというのもあった。水着が毎回違うことに注目し、浴衣はその場で買うからまあよいとして、水着は家からもって集まるにしては、たくさん持ってい過ぎだと怒るファンもいた。わたしは毎回異なる衣装を愉しんでいたので盲点を突かれた。リアリティにおける信憑性である。確かに女子なら水着を8種類(以上)持っていても不思議はないが、男子が海パン8種類(以上)持っているのは、ちょっとマニアの領域かも知れない、とは言え、ここまでつつかれるのは、相当この作品が強い批判欲を引き寄せるものになっていることは違いない。

わたしの観方が甘かったのか。
しっかり観ていなかったから、怒りがこみあげてこなかったのか。

わたしは単に純粋に面白かったのだ。
ファンが如何に苦言を呈していても、わたしが面白かったのだから仕方がない。
どうしろというのか。
と、開き直ってみても、この温度差以上の感覚は、やはり気になる。

元々わたしは、滅多なことでは作品を批判的に観ない。
極めて受容的な姿勢で鑑賞する。
勿論、その姿勢もその作品の出来具合の程度によるとはいえ。
余りに酷い時は(最近、何作か確かにあった。「Her」などそのひとつで、普通のパソコンにインストール出来る程度のAIに安易に感情を持たせて、気色悪い会話を延々とさせる映画などには)流石にブチギレ鑑賞放棄するが。
これは、そんなおバカで下らぬものとは、次元の異なる作品である。

丹念な作画でディテールまで緻密に描かれた表現豊かな作品である。
ひとつだけ観れば、文句なしの京アニ品質の傑作ではないか。
要するに、問題は、「反復」(そのさせ方も含め)に尽きるとは謂えよう。
デザインの問題となる。

但し、ひとつだけ、大方のファンの意見にあるらしい「エンドレスエイト」が「消失」の要因となったというのはどうか。
確かにその「時間」は彼女にとって有意味に働いたと思うが、、、。
今日、娘たちと「涼宮ハルヒの消失」を一緒に観て、胸の締め付けられるほどの感動を覚え、思ったのだが、エンドレスエイトがなくても、「消失」は起きたし、それまでの流れの必然の結果でもあったのではないか。




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エンドレスエイト-Ⅰ

Endless Eight006

The Melancholy of Haruhi Suzumiya
より"Endless Eight"
2009年


石原立也 監督
賀東招二 村元克彦 脚本
谷川流 原作

       (声:
キョン 、、、杉田智和
涼宮ハルヒ 、、、平野綾
長門有希 、、、茅原実里
朝比奈みくる - 後藤邑子
古泉一樹 、、、小野大輔
朝倉涼子 、、、桑谷夏子


観て一日経ち、これは尋常ではない作品だとじわじわ分かって来た。
どうやらわたしはこれをお気楽ご気楽に観過ぎていたみたいなのだ。
だが、どう分かったのか(気づいたのか)自分でも良く分からない。
少しずつ感じたことを備忘録風に記しておき、その後、まとめられたらまとめたい。
今のところ、そんな状況なのだ。

まずその前に色々と整理するために気になったところをランダムにでもあげておきたい。
大事なことを忘れていてはまずいし、そうしておかないと、先に進めない。


この作品をわたしはDVDでまとめて一気に観てしまったのだが、実際はTVで週一で放映されていたのである。
しかも、たまたま見たスレッドから、視聴者には何話から何話までこれが続くという情報は予めなく(通常そうであるが)、エンドレスエイトの回が何回続くのか分からず相当な不安をもって見守っていたようだ。
(原作本では、一回限りの話しでそれを表現していたところを、京アニは8回繰り返して表現~演出したのだ)。
これは、確かにわたしが一気に観たのとは状況が大きく異なる。
ファンにとっては事件というか事故というか、災難ともとれる事態であったらしい。
まさか放送がエンドレスに続くわけはないにしても、5回目くらいからは、どうなるんだという焦燥と不安は拭えなくなったはず。

この表現はどうのような効果を狙ったものなのか。
かなり特殊なものであることは、端から分かるがさてそれは、と言われるとまだ確信がない。

最初に受けた印象も何か覚束ないものとなっている。
ただ冷静にもう一度、考えると、、、
時間が繰り返されてゆくのであれば、長門の謂った以上に、それぞれに様々なイベントパタンがあって楽しんでいても良いし、動きも大きく異なってよいはずで、通常、その方が自然である。しかもセリフが基本的に一緒ということはまずなかろう。
確率的にハルヒがやりたいことリストに載せる項目は彼女の趣味・趣向から同じとなったとしても、それをやる順番ややり方やその時の状況にもっとバラツキはあってもよいだろう。此処まで揃える意図が何であるのか。勿論、極めて意図的にそう作ってあるのは明らかであるため、そこを確認することがこの物語の理解においては避けられない事項となる。

昨日、書いたことだが、8回目の最後のカフェの場面で、一か八かの勢いでキョンが俺にはまだ課題が残っている。俺の家で皆で宿題だ~にハルヒが乗ってこのループをめでたく抜けるのだが、ここで何が作用してループを抜ける~ハルヒが漸く「夏休み」に満足したのか。
みんなで残った宿題を誰かの家に集まりラストスパートでやるということが、夏休みの風物詩みたいに感じて、これだ!と彼女も満足したのか?
キョンがこうしようと強く主張して、それに対し団員にそんな決定権はない、出しゃばるなと渇を入れ、わたしも行くわよ!と宣言したこと自体が、彼女を吹っ切れさせたのか、、、いまひとつ何とも言えぬが。
とは言えどうやら後者のように想える。何故なら彼女は最終日に、キョンの家では、彼の妹とテレビゲームに興じていて、宿題など彼女は休みの頭に終わらせていたため、ノータッチのようであったから。
キョンが声高に自分を主張する場面などこれまでに一つもない。これに感銘を受けたというか、ハルヒの何かを強く揺さぶった感があるのだ。

さてそれから、何と言っても長門である。
彼女はループの外にいてループ自体を対象化して眺めていたような存在である。
中にいながら全体をしっかり把握していたのだ。
他のメンバーは、その都度一回性の生を生きていたに過ぎない。
古泉の語るように経験の残滓みたいなものが蓄積して行き、時折(しかも決まった場面で)既視感に陥ることはあっても。
そこで、彼女は単に観測者であるため、動かなかったのか。
これまで、彼女は肝心な時には、キョンを朝倉涼子の魔の手から深手を負いつつも救ったり、同様に朝比奈みくるのカラコン光線を手で遮り酷い傷を負いキョンの命を救っている。状況を変えるスーパーウーマン並みの能力を発揮する場面は少なくなかった。
もし、彼女にとって1万5千を越えるリピートが辛ければ、何らかの手を打たないか。勿論、これまで自分のことに対し能力を発揮する場面はなかったが、エラーを自身の内に蓄積し本来の任務遂行に支障が出るような事態を予想すれば、当然手を打つはずである。
彼女の底知れない能力をもってすれば、ループを無化する方法など直ぐに見つかったはずだ。
それを敢えてせずに500年以上もループを許すと言うのは、彼女にとってそこが心地よかったのではないか?
そのなかでの生活が彼女にとってとても有益であった可能性が高い。
彼女に限りずっと連続性を持って本をつぎからつぎへと読破してゆけたはずである。
あの速読力で、500年を遥かに超える時間の多くを読書に充てていたのだ。
それだけ読書すれば誰でも人が変わる~豊かになる。
エラーとか壊れたとかいうことばを使うため、負に解釈し易い流れを作るが、実際はどうなのか。
「消失」で朝倉涼子が普通の女子学生として過ごしていたが、本来それがあるべき姿であったかも知れない。
そもそもハルヒが北高に超能力者と宇宙人と未来人の友達が欲しいという強大な無意識~願いを抱いた為、その役を彼らが担うことになってしまったのなら、長門有希だってそうである。いや古泉一樹も「消失」では普通の生徒としてハルヒの彼氏になっていたではないか。
ハルヒだけは変わらないのであるが。

どう見ても、長門の改変した世界の方が普通であることは間違いない。
とすれば、長門は「消失」で魅せた姿こそ本来の彼女なのだ。
感情の感じられないアンドロイド(対有機体ヒューマノイドインターフェイス)ではない、控え目で情感あふれる美少女。


エンドレスエイトの期間は長門にとっては豊潤な時間であったかも知れない。
ただ、ハルヒの消失により彼女を喪失し彼女が自分にとって掛け替えのない存在であることを自覚するキョンにとっては、長門は壊れたという判断となろう。いつも世話になってばかりでとても大変な役回りだという同情はあっても。
長門はそれらの全て知っているため、パソコンにどちらの世界(ハルヒのいる調子の狂った世界か落ち着いた普通の世界)を選ぶかをキョンに決めさせる手立ても予め用意しておいたのだ。
何と健気な。

しかしまだ、「エンドレスエイト」そのものの謎については皆目分からない。



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PRE:エンドレスエイト

Endless Eight001

The Melancholy of Haruhi Suzumiya
より"Endless Eight"
2009年

石原立也 監督
賀東招二 村元克彦 脚本
谷川流 原作

       (声:
キョン 、、、杉田智和
涼宮ハルヒ 、、、平野綾
長門有希 、、、茅原実里
朝比奈みくる - 後藤邑子
古泉一樹 、、、小野大輔
朝倉涼子 、、、桑谷夏子


この”8”は、8月の8でよいのか?
わたしは度々、日本のアニメ、そして京アニに驚いて来たが、これにはホントにたまげて笑ってしまった。
こんな作品が今から10年前に出来ていたのだ。今頃知るのだから、わたしはハッキリ、アニメの門外漢である。

夏休みも後15日というところで、涼宮ハルヒが一度しかない高1の夏休みを悔いのないように楽しもうということでSOS団員を集めてやりたいことリストに従い、片っ端から皆でイベントを愉しむというものだが、8月31日24時になると自動的に15日前の日に戻り、再度その15日間が繰り返されてしまう、というもの。これを全て一回ずつ覚えているのは長門有希だけである。
他は、皆時間内部に存在するため、繰り返し自体には気づかない。
そしてその現象を引き起こしているのは涼宮ハルヒであり、彼女の夏休みに対する不全感から休みを終わらせることに納得できない無意識が時間をループさせているそうだ。
これに気づいたのは、未来人朝比奈みくるが未来に還れなくなったことから、それを古泉一樹に相談して発覚したことによる。
誰もが既視感を持つようになり、その違和感の原因がそれであることを導き出し、長門有希に聞いてみるとすでに15000回を上回る数の反復をしていた。9月以降の未来が消失したことになる。長門がこのことを誰にも語らなかったのは、彼女の立場が観測者であるからだ。
ループの経験は実質上、長門の経験でしかない。
他の人々にとっては一回性の時~生であることには違いない。
朝比奈においては、その現象による被害を現実に受けてダメージを被ってはいるが、、、。


恐るべき実験作。追従は許さない孤高の怪作。直ぐにそんな印象を抱く。
8話に渡り作画の異なる同じ内容の(セリフや細かいシーンが多少異なる)話が繰り返される圧倒的に面白いアニメーション。
時間のループに気付かず終わる1話、ループに陥っていることに後半気付くも抜け出せない話が6話続き、ループから抜け出すことに成功する最後の1話で完結する。
6つの同じ話は、それぞれ違う制作チームが個別に同時に作ったものだという。
それだけあって、ニュアンスが異なる。どれも大変質の高いもので、愉しめる(8回観ても)。
登場人物の衣装が全て異なる点も充分に面白い(長門の選ぶウルトラマンのお面も被り方も異なる)。
声優のアドリブも異なる。その辺の見比べ聴き比べをしたらかなり濃い体験であろう。
同じ本でこういう表現~演出の可能性が提示される、これからアニメーションの勉強する人にはうってつけの教育的なアニメともとれる。
(アニメ制作会社の極めて良質な社内研修ビデオではないが)。

こんなアニメーション作品、他にあっただろうか?
ループそのものとは関係ないが、これだけ何度も同じシーンを見ると、普段だったら見逃していたり適当に確認していたであろう場面~ディテールをしっかり味わうことが出来る。特に京アニ品質で制作されたものであるから見れば見るだけの価値がある。
京アニの凄さを今更ながら確認する。
恐らく、他の制作会社ではこれは出来ないであろうし、仮にやっても技術的に成り立たないであろう。

さて肝心のこの8回に及ぶループであるが、どうなのだろう。
全てを記憶する長門有希~わたしはこのキャラにとても魅力を感じるのだが~が言うことには、15532回(594年間)も夏休みの終盤15日間が繰り返されるなか、異なるパタンが実際に幾つかあったという。
この異なるパタンも長門有希の恐るべき体験を追体験する意味で8回にそれぞれ入れることは禁止事項であったのか。
全て同じでなければ意味がなくなる(薄れてしまう)ものであったのか。
確かに長門の反復体験を僅かでも感じ取ろうとすることが第一の目的であればこの方が効果的であろう。
だが、異なる行動パタンとやらを分けて描いてもそれくらいのバリエーションなら許されないか。

それから、この反復劇だが、果たしてハルヒの欲求不満(不全感)だけが原因なのだろうか。
「夏休みの宿題」をいつまでも先延ばししたいキョンの無意識も大きな作用を及ぼしてはいないのか?
結局は、彼がハルヒら全員に俺の宿題を終わらせよう、と持ち掛けたところでループを脱し9月が来たのだ。
それまでは、原因が掴めたという時点でも、あまりループを脱することに積極的とも謂えず、31日になってからも、またループしようがその時の俺に任せればいいや、くらいに思っていた。

長門に蓄積されたエラー~感情が「ハルヒの消失」を呼ぶ前段階としては説得力を感じるシークエンスである。
このループ(経験)は確かに長門以外には意味はない。



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今週はじめからすでに二学期

sun.jpg

夏休みが一週間早く終わるなど、暴動モノかと思っていたら、何の抵抗もなく二人は受け容れていた。
月曜日から普通に学校に通っている。
指導課程が消化しきれないなんて、もっとサクサク普段の授業で進められないのか、と思うが徒に長い夏休みも考えものでもあった。
これくらいでよかったかも知れない。

長い時間が与えられれば、その分色々と楽しいことが増えるという訳でも無い。
寧ろ充実度を維持することは困難となってくる。
こちらもイベント~旅行をそうしょっちゅう企画・実行はしきれない。
子供の方も日記が書ける日々をそれなりに演出するにも限界はある。

子供にも大人にも負荷が掛かる。
娘としては、絵とピアノはよく頑張った。
しかし、宿題はどうであったか分からない。
こちらに確認させない分、怪しい。

旅行にはこれまでの夏休みより余計に行ったが、消化しきれたかどうか、、、。
ただ、誕生パーティーを避暑地の三ツ星ホテルでやったのは、かなり楽しかったようだ。
いつも家でやるのが当たり前であった分。
いつもやっていることを少しでも変える~ズラす効果は小さくないことが分かった。

いい加減さダメさが出たのは、稲の飼育ポットである。
次女がもうこれは一学期で終わりと言って(勝手に解釈して)ほっぽらかしておいてダメにしてしまった。
終いには庭の隅に無残に転がっていたのだ。
わたしは何度か念を押して、枯らさないように面倒をみなくてよいのか、観察日誌はよいのか、二学期に学校に持ってゆかないでよいのか、確認したのだが、まともな返事すらかえってこなかった。亀と同じように見捨てられたのだ。
(ここで植物と動物に対するわれわれの差別意識が窺える。動物は飼い主がそっぽを向いても周囲の誰かがボランティアで責任感と愛護の精神を自然に発揮して面倒を継続してみてしまうが、植物はそうならない場合が多い)。
母がその枯れた草の生えた横たわったポットをサラリと処分してしまったのだ。

初日にいきなり担任から、例のポットを持ってきなさいと言われ、泡を喰う。
次女のわたしに対する愛想の良いこと、、、。
ポットに使った2Lペットボトルだけは用意してあげた。
情報の確認、管理、整理などは苦手でいい加減である。
パソコンの操作だけはやたらと手慣れてきてはいるが、情報管理が出来ないようでは話にならない。

長女に至っては、実際の落とし物、置忘れ、などもしっかり加わる。
わたしはそれがらみで、随分と時間を費やしている。何度もデパートを往復したりで。
お陰で大きなデパートのバックヤードというかバックオフィス内を探検することになった。
売り場の裏側が思たより遥かに広いことに驚く(迷うほどの仄暗い空間が広がっていた)。
長女が店内で財布を落としたためだ。しかしちゃんと拾ってくれた人がいたことには感謝である。
このデパートではほかにも、トイレに携帯をいれたバッグを置き忘れたり、なかなかやってくれる。

想えば色々とあった(これまでより一週間短い)夏休みであった。
かなり凝縮していたように感じられる。
濃密な疲れる夏休みであった。



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凶悪

kyouaku001.jpg

2013年

白石和彌 監督・脚本
高橋泉 脚本
新潮45編集部編『凶悪 -ある死刑囚の告発-』原作

山田孝之 、、、藤井修一(「明潮24」の記者)
ピエール瀧 、、、須藤純次(死刑囚、元暴力団組長)
リリー・フランキー 、、、木村孝雄(不動産ブローカー、「先生」と呼ばれる)
池脇千鶴 、、、藤井洋子(藤井の妻)
ジジ・ぶぅ 、、、牛場悟(牛場電機設備の経営者、多額の借金を背負う)
白川和子 、、、牛場百合枝(牛場の妻、夫・悟の殺害を木村らに依頼)
吉村実子 、、、藤井和子(藤井の母、認知症)
小林且弥 、、、五十嵐邦之(須藤の舎弟)
斉藤悠 、、、日野佳政(木村から託された舎弟)
米村亮太朗 、、、佐々木賢一(須藤のムショ仲間)
松岡依都美 、、、遠藤静江(須藤の内縁の妻)
村岡希美、、、芝川理恵 (「明潮24」編集長)


1999年に起きた殺人事件「上申書殺人事件」を基に、獄中の死刑囚が告発した殺人事件の真相を新潮45編集部が執念の取材によって暴き、警察の再捜査を促し首謀者逮捕に漕ぎつけたドキュメント映画ということだ。

このような「凶悪」犯罪は、想定の範囲内だろう。
TVニュースでも屡々、窺えるものだ。
知らぬうちに免疫は出来ているはず。
これからは、「行きずり」(理由なき反抗)や愉快犯やテロなどがこういったものに加わって行く率が高まると思う。
何処でも繋がるといった感じで。
殺気すら感じず消されるケースも出てくる。

最早、ここには情緒の余地はない。
殺された者も自分が死んだことにすら気づかないかも。
そんな速度の時代になる。
(映画から離れてしまった。戻ろう)。

この映画(こういった映画)を観ると、、、
悪意と敵意に充ちた共通感覚というか、集合無意識的な層の渦巻く感覚にヒリヒリする。
その底流に接続すれば、恐らく誰もが時も処も構わず「凶悪」を発動する可能性は高い。
これは時代~今の政治や教育や家庭環境をはじめ特殊な事情などの影響もあろうが、人間の本質によるところが大きいうえにその本質自体の変容も感じられる。最近、ロジェ・カイヨワの「戦争論」をNHKが特集していたが(わたしも昔読んで随分感銘は受けたものだが、ヒトという状況はどうもその先に来てしまった感がある。ただそれを指摘する用意はない。まだ漠然としている為)。

この映画で、特に強調されていたのは、金もうけに直結するしないに関わらず、「老い」の問題に焦点が当てられる。
この先、「老い」がこのような事態の触媒となってゆくことは間違いない。
更にエスカレートしてゆく余地は大きいはず。
木村孝雄が老人ホームを前に言うように、「ここは油田だ」であろう。
ヒトが加速度的にモノ化してゆく(勿論、随分前から記号化されてはいるが、生身で相対してもモノなのだ)。


虐めにしても、何であっても人を罰したい~殺したい、という沸々とした欲望を、陶酔や眩暈に塗れて満たしてゆく過程だ。
決まってこの流れに呑まれると自ら進んで深くのめり込んで行く。
ここでは、殺人鬼もその罪を暴こうとする記者も同等の修羅と化す。
自分の目的のためには全てを犠牲にする(ここでは、何の名の元であろうが、ヒトを葬る目的である)。
大概、後からムキになった方が際立つ。そして相手に冷静に指摘されたりすることもあろう。
あさましい目つきは日常によく見る。そう目つきだ。
一見、普通の顔をしているつもりであってもターゲットをそれとなく漁っている。
そして手ごろに感じたものに食らいつく。
その行為を自分の立場で正当な理由を宛がい合理化しつつ。
だが、それがほとんど意識すら介さずやってくるシーンにも準備が必要になってきた感があるのだ。
(また脱線しそうなので、これについてはやめる。ただこうした暴力について考えるとどうしても人間の変容についても取り込んで行く必要性は感じる)。


激しく渦巻く殺意の水脈はマルチバースに偏在し、破壊の欲望を刺激する標的を見出したところで、誰もがそこから無尽蔵の憎悪エネルギーを汲み上げてゆく。
基本、われわれはそうした機械とも謂えるか。
様々なレベルで、暴力が絶えない、戦争も常に世界のどこかで続いている、そしてテロが偏在し潜在する世界。


法廷での最後に、須藤純次の生の謳歌には、呆れ返るが清々しいものすら感じた。
あっけらかんとキリスト教に入信し神の言葉を唱えている。
自分が生きながらえるためには、全ての物事は等価であり、何のためらいもなく利用し排除する。
家を崩壊させ彼らを追い詰めた藤井修一が二重の意味で(彼らに対しても自分に対しても)切れるのも仕方ない。
認知症の母を彼らがエサにしていた老人ホームに入れることとなる藤井と妻の姿が何とも印象に残る。



キャストは皆、凄い演技であったが、やはりピエール瀧とリリー・フランキーの目である。



夜と霧

Nuit et brouillard002

Nuit et brouillard
1955年
フランス

アラン・レネ監督
ジャン・ケイヨール脚本・原作
ミシェル・ブーケ ナレーション
ハンス・アイスラー音楽


これは、記録フィルムである。
題名は1941年12月7日のヒトラーの総統命令「夜と霧」から。
フランクル「夜と霧」はわたしももっている(ある心理学者の強制収容所体験)。
撮影当時(現在)の雑草に塗れたアウシュヴィッツのユダヤ人強制収容所付近をカメラが映し出すところから始まる。
その辺一帯は、いたって静かで長閑な光景だ。
勿論、収容所跡に踏み込めば、今でも鉄条網が張り巡らされ尋常ではない場所であることは明らかとなる。
ただ、高圧電流は流れていない。

モノクロニュースフィルムとこの映画撮影時のカラーフィルムの編集構成による映画。
淡々とした必要最小限のナレーションが絡む。

モノクロニュースフィルムのあっけらかんとした即物性が際立つ。
そして何よりその夥しさ、である。
「数」に圧倒され力を失う。


夜陰に乗じて霧に紛れて貨車に荷物のように封印されて積まれ多くの死者を出しながらアウシュヴィッツに送り込まれるユダヤ人。
今もその線路は雑草の中に残る。

Nuit et brouillard001

彼らは丸裸、丸坊主、入れ墨を入れられ、分類、序列を付けられる。
施設は丸く穴の開いただけのトイレ。
ただの棚のようなベッド。無論、毛布などない。
強制労働によって地下に巨大な工場が建造されてゆく。
スープにありつけない弱者。
病院はあるがそれは人体実験の施設に過ぎなかった。
だが、交響楽団もあり、動物園もあった。
そこは拡張時には10万人からの都市を形作ってはいたが、途轍もない都市であった。
毎日、点呼の数が変わる。
死者が日毎に多数出る為。
些細なことで懲罰も絶えない。
暇つぶしに殺されるものもいた。
執拗に繰り返される拷問。
要はどの時点で殺されるかであった。
点呼の時間が異常に長く、皆、裸である。
屍も皆、裸である。
モノである。

ヒムラ―の視察により「生産的処分」が命じられる。
生産性の高い焼却炉が導入される。
囚人自らがその施設の施工をさせられる。
今でも観光客が記念撮影をするほど見栄えも良い。

ガス室の固い天井に刻まれた多くの爪痕。
累々と山積みにされた屍体。
何とか細い屍体。
なかには顔だけが無傷で綺麗な女性の皮と骨だけの屍体。
首だけ切り落とされた胴体。夥しい首の数。
ブルトーザーで屍の山を押しのけてゆく。
夥しい黒く焼け焦げた屍体。
それでも焼却炉が足りないのだ。
屍が多くて先に進めない。
焼却用の石炭が尽き、敗戦を迎える。

Nuit et brouillard004

後に残ったのはそれでも処理しきれず地を埋め尽くす屍だけではない

遺品の山
すべて回収して、、、どうしたのか。
身分証から作った膨大な名簿。
女性の毛髪の山は売られて毛布にされたという。
遺体は石鹸に。
骨は肥料に。
剥いた皮にはふざけた絵が描いてあった。どれくらい持つものか。


収容所で働いたカポ(ドイツ人刑事犯)も将校もみな口を揃えて言う、、、
全ては上からの命令でおこなったのだ。
「責任はない」と。


これが人間である。

Nuit et brouillard003

最終的に解放された人々もこれまでの生活に戻れるのか、、、?

映画のエンディングのナレーション、、、
「廃墟の下に死んだ怪物を見つめる我々は、遠ざかる映像の前で希望が回復した振りをする。ある国のある時期における特別な噺と言い聞かせ。」
「所内に消えやらぬ悲鳴に耳を貸さぬ我々がいる。」







EVA

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2011年
スペイン

キケ・マイーリュ監督

ダニエル・ブリュール 、、、アレックス・ガレル(ロボット科学者)
マルタ・エトゥラ 、、、ラナ・レヴィ(ロボット科学者、アレックスの元恋人、ダヴィッドの妻、大学教授)
アルベルト・アンマン 、、、ダヴィッド・ガレル(ロボット科学者、ラナの夫、アレックスの兄)
クラウディア・ベガ 、、、エヴァ(ラナの娘、ロボット)
アン・キャノヴァス  、、、フリア(ロボット科学者、大学教授)
ルイス・オマール 、、、マックス (アレックスの身の回りの世話役ロボット、ダヴィッド設計)

これはスペインの映画なのか?
常に一面深い雪景色であるため、北欧のSF映画だと思って観ていた。

10年ぶりに大学の研究室に引き戻されたアレックス・ガレル。
子供型ロボットの研究開発を再開する。
以前やりかけた仕事は、実は彼の恋人であったラナ・レヴィが引き継ぎ完成させていた。
全く人間と区別がつかないロボットである。
(彼女は安全基準を満たさないそのロボットを責任をもって引き取ったため、第一線の研究を退き教鞭のみとっている)。

ここでも感情が問題視される。
自立型ロボットであれば、感情~価値観を独自にもつものか、、、。
わたしはそれに断固反対するが。
そもそもロボットを似非人間に仕立て上げる必然性などあろうはずもない。
ロボットに感情など必要ない。

が、ここではロボットが感情を持つ危険な存在となっている。
エヴァに至っては、嘘もつく。運動神経も半端ではない。
アレックスが現在新たに構想中の試作ロボットは感情的に歯止めが効かず暴力行為に出てしまう。
「目を閉じて見えるものは?」と呼びかけることで、そのロボットは初期化され事切れる。
(そのロボットの一回性は潰える。文字通りの死である)。
マックスは従属モデルで、感情コントロールが安全な形でできるようになっている。
所謂、完全無欠なServantである。
ロボットもここまでで限界であろう。
これ以上、自立性が高まれば安全性は遠のく。
ロボットではない(ロボット3原則をはみ出す)。

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ここまで危ういロボット研究~実用生産の成される時が来るとは思えぬが、、、。
アレックスはフリアに任された少年型ロボットのモデルとなる子供を探すうちにとても気になる少女を発見する。
その子をモデルとして自分の研究中のロボットに「反映させるがその賢さとユニークさに彼は強く惹かれる。
そしてその娘、エヴァもアレックスに強い興味を示す。
運命の悪戯か、その子はラナとダヴィッドの娘であった。

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この娘をモデルとして研究することはラナから断られ、アレックスは距離を置こうとするが、エヴァは余計に気を引こうとし関わってくる。彼女との関係は叔父と姪の関係であり、接することが多くなれば、かつてのアレックスとラナの関係も再燃してくる。アレックスとダヴィッドも兄弟であり科学者としてはライヴァルでもあり微妙な関係になって行く。
そんななか、ラナとアレックスの秘密の会話を盗み見したエヴァが自分がロボットであることを知ってしまう。
彼女は取り乱し走り去る。その後を追って行った母であるラナは、結局パニックになったエヴァともみ合い、崖の上から転落する。
ラナは病院で息を引き取る。
エヴァは深い罪悪感を抱く。

フリアがエヴァを解体するというのを引き留め、その役をアレックスが引き受ける。
「わたしを助けて」と何度も懇願するエヴァと彼は暫く時を共に過ごす。
彼女が助けてというのは、その記憶~想い出である。
感情の色濃く纏う情報である。
これを何より守りたかったのだ。

横たわりアラビアンナイトの話を聞かせてほしいとせがむ彼女にアレックスは意を決する。
「目を閉じて見えるものは?」彼は涙ながらにがそう囁く。
彼女の得た全ての情報が初期化された。
後には、もぬけの殻となった人形が寝転がっている。

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頭脳の視覚化VFXがよいアイデアに想える。
ストーリーにキャストがしっくり馴染んでおり、疲れていてもとても観易い映画であった。
特にクラウディア・ベガは注目したい女優だ。




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最近、来客が増える

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今日は娘の友人でピアノが上手なHさんが来て、家で絵を描く(オマケに成績も良い)。
いつもは、ピアノを娘たちと弾いてからゲームをやって帰るという形なのだが、今日は絵である。
彼女は家で写生(静物画)を以前描いたが、とても上手かったので、今度は夏休みの課題を一緒にやろうということに。
スマホにたくさん海の生物の写真を入れて来た。

何といっても、絵は時間のかかる作業である。
夏はこれがどうにもめんどくさく感じる。特に今日のわたしはグロッキーな状態でこれに臨む。
カンバスならよいが、画用紙だと、やはりこうしようと方向性を変える場合、とても厄介なことになる。
例えアクリルガッシュで描いていたにせよ、描き直しはやりにくい。
紙がごわごわ(よれよれ)になってしまったりする。

Hさんの今回のテーマ「深海の世界」は神秘的で煌びやかでもあったりする。
それをファンタジックに描けば、それは楽しく面白いものだろう。
この点では、充分納得なのだが、問題は幾つもの構成要素をどう配置し空間(水中)の構図をどのような形にするかである。
各要素間の距離や見る側(自ずと生じる視座)からの奥行きとインパクト~ドラマ性そして各要素の生む運動・連動~リズム等。
これらに関しては最初から意識して入って行きたい。

だがわたしのスタート時の話しに今一つインパクトがなかったか、空間のほぼ中間領域に要素が綺麗に配置される形をとっていた。同じ形の要素を並べてリズム・方向性を意識したものはあるが、並ぶ軌道自体の形状や大きさ又は色の変化(グラデーション)は特にみられなかった。べつにそこまでデザインする必要はなかろうと言えばその通りでもあるが、実際にそのような運動・変化は自然界に普通に見られる現象であり、その多様な秩序を取り込んで絵作りした方が楽しいのではないか。
そしてわたしがはじめに例として示した、用意された要素から、小さなもの~クリオネとか、、、をうんと前面に大きく取り上げ、遠く~奥にダイナミックな鮫をうねらせてみるとか、深海の神秘な奥行きと運動に可愛らしいインパクトなども画策してみては、と持ち掛けていたのだが、構図上の動的な深み~奥行き感があまり意識になかったみたいであった。これはあくまでもひとつの演出に過ぎず、そうする必然性はないのだが、同じくらいの大きさのものが、ほとんど同地点に並列していても図鑑のような静かな雰囲気しか生じまい。

結局明日もう一枚、描いてみようね、ということになる。折角だし、少しでも攻めたものを彼女には描いて欲しい。
家の娘もお世話になっていることだし。
わたしも最初からサポートを意識したい。
(最近、どうも人に教えていない為、勘が落ちている)。
だが家の娘たちに至っては、すでに描き始めていた「浅間山噴火後の鬼押し出し」と「白糸の滝にて」を仕上げるところであったが、だらだらしていてなかなか制作に乗ってこない。
折角、わざわざ友達が絵を描きに来てくれているのに、わたしに安易に頼ってきて、集中もしないのだ。
これでは友達に失礼である。
ちょっとわたしも気分を害した。
だが、どうにも乗ってこない為、わたしがこんな動きもあると言って上から手を入れてみると、、、
そこから、絵を崩しながらも上塗りつつ絵を再び作り始めた。
壊したと言った方がよい代物だが、取り敢えずもう描けないというところまで行ったので、良しとした。
(今年は入賞は無理かなと思う。せめて入選だけでも、、、)。

友だちが帰ってから、ふたりはソルフェージュの教室に行く。
わたしがいつも通り送り迎えをする。
どうもシンドイ。

今日はどっと疲れた、、、。
すると日も暮れたころになって妻の友人が幼い子供連れでやって来るのだ。しかも泊りがけである。急にである、、、。
先日、S君、O君ファミリーに提供したのと同程度の料理が気前よく出て来た。
準備は極秘に進められていたらしい。
わたしは夏バテ気味であった為、かなり食べてしまった(抑制が効かない(笑)。
しかしその時、流れでついワインも飲んでしまったことで、何を書いているのか今一つ定かでない現状なのだ(爆。
ついでだが、幼稚園年中組のその男の子は、ずっと眼を据えてスマホのゲームをし続けていた。
見ているだけで凄く眠くなってしまう。
目つきが印象に残る幼児であった。


昨夜、色々なモノの整理で夜中の3時過ぎまで起きてゴソゴソしていたことが祟ったみたいである。
夏は特に睡眠には気を付けたいものだ、、、。



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About the Pink Sky

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2011年

小林啓一 監督・脚本

池田愛、、、川島いづみ(高校生)
小篠恵奈、、、小野蓮実(いづみの親友、高校生)
藤原令子、、、黛薫(いづみの親友、高校生)
高山翼、、、佐藤光輝(天下り官僚の息子、高校生)
西田麻衣、、、麻衣(いづみの友達、高校生)
渡洋史、、、花屋店主
桃月庵白酒、、、印刷屋のオヤジ


女子高生のリアルな空気感が感覚的に伝わってくる映画であった。
主人公の川島いづみはなかなか魅力的である。
新聞を読み漁り、記事に採点しているところなど変わっているが。
そのせいで世事には詳しいし一過言もっている。
おやじみたいに(そういえば一頃、おやじギャルっていたっけ)。
印刷屋のオヤジと釣り堀でタメ口というより完全に上から目線で話をして、相手に兄貴呼ばわれされているところなど、生半可な女子高生ではない。みたいだが。
ともかく、面白いし世の中舐めてはいるが憎めないキャラである。

About the Pink Sky003

金持ちの天下り官僚の息子の財布をいづみが拾ったことから話が始まる。
それは親父からくすねた金がたんまり入った財布で、いづみにとっては、どう使っても構わない汚い金なのだ。
彼女は男らしく印刷屋のオヤジに好きなように使いなと言って渡してしまう。
(金に執着はない彼女ではあるが、ボーリング場でバイトをしており、もっと割の良いバイトは探していた)。
だが、オヤジは10万だけ残して彼女に返したりする(残りの金も仕事がうまくいったら必ず返すという)から、そこから色々と親友(悪友?)の小野蓮実と黛薫や落とし主の佐藤光輝を文字通り巻き込む妙な展開が生まれてゆく。
女子高生トリオがそれぞれ違う高校であることから、中学時代に余程深い繋がりが出来ていたことは察せられる。

About the Pink Sky002

ここでも何故か光輝は彼女らに新聞づくりを命令する。
勝手に20万円人に貸してしまったところから、彼には逆らえないのだ。
いづみは貸した張本人だし、蓮実はイケメンの光輝を彼氏にしたいし、薫は面白そうだし、という感じ。
それにしても新聞に拘る映画だ。
わたしはここ数十年間、新聞など読んだことがない。つまらないからだ。
だからとても新鮮な感じである(今時女子高生の映画なのにモノクロというのも新鮮)。
何でも入院中の光輝の愛するカズミが早く退院したいという気持ちになるための新聞を作れということで、彼女ら3人が(主にいづみが)奮闘する。何故か色々理屈は捏ねるが、いづみはトリオにおいて一番の下っ端であることが分かる(第三項排除とまでは言えないが)。偉そうに指図するのは蓮実で、グループの実質中心なのは薫で、いづみはいつもこき使われている。背後で画策する割に、光輝も思うように動かない。この一連の騒動の始まりと終わりは彼女によるものではあった。

About the Pink Sky005

それにしても、淡々と楽しく進行する飽きない噺であったが、いづみが入院中のカズミが男子で光輝がゲイであったことを知る場面は、演出も含めなかなか冴えていた。
ほとんどのキャストが新人であったそうだが、かなりの芸達者である。
素人っぽいところが自然に見えとても上手い。

About the Pink Sky004

カズミが亡くなり、いづみの光輝に対する考え~イメージが変わる。
自分に酔っていた部分も色々と見えてくる。
カズミが生前ピンクの空が観たいと願っていたことから、葬式にいづみが何やらお棺と一緒に燃やすとピンクの煙が立ち上るという物をたんまり買ってきて、その煙を見上げながら光輝と一緒に「カズミ!」と叫ぶあたりで、こちらも感動していた、ことに気づく。
いづみがひとつ皮がむけて、気づきを得た爽快感とでもいうところか。
とても良い感じでエンドロールかと思いきや、最後に大きなくしゃみを光輝にひっかけるところで幕となる。
このへんのセンスが好い。


続編が観たかった映画である。
もうすでに8年経過していて、この時のキャストも立派な大人であり、現状にそのまま合わせて設定を変えても、ちょっと連続性は難しそうな気がする。
でも、この続編なら観たいな、と思う。
(全く違うキャストでやっても、このストーリーと空気感を受け継いでいたら、きっと面白い)。





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本を買いに行く

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大概、わたしは必ず翌日に届くAmazonで本は購入してしまうが、娘の本は実際に本屋に買いに行く。
わたしの場合、まず読みたい本は決まっているので、ポチっと押すだけなのだが、娘の本はそのものを見てみないと彼女らが読むか読まないかが分からない。
今日も炎天下を本屋まで車を飛ばした。
ちょっと飛ばすと暑くても涼しい気分になる、、、。

ついでなのでわたしはイタリア系の本を買った。
ウンベルト・エーコの本。
ファシズム研究本。

長女は今度、観ようと話していた、新海監督の「天気の子」の小説。
観る前に予習なんてわたしもしたことない。
だが、観るまでに読み切れるかというと、かなりきつそう(笑。
読むのが凄まじく遅いのだ。

次女は「東方」系の漫画がどうしても読みたいという。
漫画の場合、観たいだと思うが、読書だと言って聞かない。
仕方なく買ってあげることになった。
実際は、「絵」を観たいのだ。

それからふたりとも工作?キット本をおねだり、ときた。
長女は、万華鏡作りの本というか材料・作り方入りのキットの箱だな。
次女は、触り心地の良い饅頭(それこそ「ゆっくり」)を作るキット箱。
こんなの作る年齢かい?と聞くと「工作」課題に使えるかも、というので買ってあげた。
学校に提出みたいに言われると弱い。取り敢えず買ってあげてしまう。

だが、帰ってから確認すると、「工作」か「絵」でよいのだ。
家では、ずっと「絵」で来ているではないか!今年も「絵」だ。
騙された。
次女はこういう時の交渉が上手いのだ。

娘たちは、ずっとパソコンばかり見ていてだらけている為、妻にふたりともノートを取り上げられたばかりだ。
かなり呆然としていた。まだ、適度に遊んで適度に勉強をやったふりをするスキルはない。
ともかく何かして遊びたかったのだろう。
玩具が欲しいのだ。

だが本自体がかなりフェティッシュな玩具でもある。
わたしは読みたい本は必ず買う。
よく借りればよいではないか、という人がいるが、買って常に手元に置くのがわたしにとっての基本(作法)である。
借りて読む気にはならない。

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LOVE MY LIFE

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2006年
川野浩司 監督
金杉弘子 脚本
やまじえびね「LOVE MY LIFE」原作
Noodles 音楽

吉井怜、、、泉谷いちこ(語学学校学生、CDショップでバイト)
今宿麻美、、、エリー(法学部学生)
高橋一生、、、タケちゃん(いちこの学友)
石田衣良、、、いちこの父
川合千春、、、CDショップの客
寺泉憲、、、エリーの父(弁護士)
平岩紙、、、ユカコ(いちこの学友)
秋本奈緒美、、、千波(いちこの母の彼女)
池内博之、、、立花健吾(いちこの父の彼氏)
浅田美代子、、、冴子教授(千波の現在の彼女)
小泉今日子、、、いちこの亡き母


”LOVE MY LIFE”エリーの書いた小説の題名であることが最後に分かる。

”Noodles”懐かしい!”ロリータ18号”がもてはやされていたころ、このバンドもこんな風なサウンドでかなりウケていた。わたしも両方よく聴いていたものだ。ロリータ18号のDr.アヤちゃん今はどうしてるのかな、、、?
この映画にNoodlesサウンドが空気のように馴染んでいた。選曲誰がやったの?

LGBT映画であるが、軽やかで爽やかな仕上がりで観易かった。
LGBTもので重いものはわたしには、みれない。
これは、軽みがあるだけでなく、非常にソフトでフワッとしている。
わたしには丁度良い。そして良い映画であった。

キャストが豪華であったが、いちこの父が最初は違和感強烈であった。
観ていくうちにこういうもんだ、と思うと急に馴染んだ。
(しかし何故彼~素人が選ばれたのかは謎)。


いちことエリーは同性愛者でとても仲良く付き合っていた。
エリーは何より硬い鎧を身に着けるために弁護士を目指している。
それは同時に弁護士である父や兄を見返すことでもあった。
自分を曝け出すのは、その鎧(社会的地位と理論武装?)を得た後と考えていた。
確かに不用意にカミングアウトしてもみくちゃにされるケースはある。
エルトンジョンみたいな体制~大衆との権力関係にも負けない大物であればまた別だが。

そしていちこはもうその時期だと考え、いよいよ父にエリーを紹介することにする。
すると、父はエリーの弁護士を目指す凛とした姿勢や豊かな教養と文学センスを認めこれを許すというより、それ以前の問題として、自分と妻がそれぞれ同性愛者であったことをやみくもにカミングアウトして、やっぱりお前は母さんの娘だなあとか(何とも言えない演技で)感慨に耽るのだ。認める認めない以前の問題であり、いちこの方が唖然としショックを受ける。
両親は、同性愛者でも子供が欲しかったため結婚し、お互いを人として愛していたが、解放される関係ではなかった、という。
であるから、お互いに恋人は他に存在した。だが、子供を愛する父を母は愛おしく思っていたという事を元母の相手である千波から聞かされる。ちなみに、千波と亡き母、そして父、更に今の千波の相手の冴子教授は皆お互いをよく知っており敬愛する仲でもあったようだ。(LGBTの人々がもっと表に出てくるとこの世は人類愛に充ちてきそうな気もしてくるではないか)。
ともかく親の方が一枚上手であった。

いちこの方は何とも言えない形で、片ついたが、エリーの父は、私のあとはお前の兄が継ぐ。それにお前は弁護士などにはなれん、付き合っている相手を見れば分かる、と睨みつけて帰ってしまう。取り付く島もない。
エリーの性格は、こういう父の権力に対する反動も大きいと感じる。
明るく素直で屈託なく過剰な自己防衛意識もないいちこに彼女が惹かれるのも分かる。
だがこの先、鎧を身に着け武装したところで、どうにかなるとは到底思えない。

それから、待つ時間が挿入される。
エリーが試験に受かるまで、いちことは会えないと切り出す。
いちこは一日でも彼女と会えないことを受け入れがたいが、エリーの決心は固かった。
これがこの物語に一種の緊張感を走らせる。

いちこは、その空白の時間を焦燥感と不安に浸りつつ持てあます。
この待つという行為は危険を孕む。ふたりはこの先、大丈夫なのか。
(こちらは充分ふたりに感情移入している)。
しかしそれを聴いた父から粋な提案(策)が出される。
後の翻訳業に繋がる仕事(これから翻訳される本の紹介文の執筆)を、彼の計らいで出版社から彼女に紹介して貰うのだ。
その仕事をやり始めたら、いちこは夢中になり仕事に没頭して行く。

無為に待つのではなく、その間に自分のやるべき仕事をやる。
自分のライフワークを持つ。
それぞれの時間を尊重する。
これが今後、ふたりが一緒になった後も、きっと大切なものになるはず。


エリーは独りになった時間を”LOVE MY LIFE”という本の執筆に充てていた。
自分といちこのことを率直に描ききったものであった。
これをもって、彼女は吹っ切れた。浄化された。
確かに書くことの最大の効用であろう。
もはや、丈夫な鎧も武装も必要なかった。
「わたしがわたしでいることが、何よりもわたしを守ってくれる」。
LGBTをきっかけとして、普遍的な認識に行き着く。

自分という自然を抑圧しない。これが誰にとっても肝心なことだと謂えよう。






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広島・長崎の特集番組を見て

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NHKで放送された広島・長崎の特集番組を見て思うこと。
結局、自分のその体験とは何であるのか?
それを各自が自分の場所で徹底して問い詰めること。
それが語られていた。

全くその通りだと思う。
わたしも自分の場所~身体の縁から一歩たりとも離れず、いまこの体験は一体何を意味するのかを考えつづけなければならない。
それ以外は一切考えたり語る必然性~意味がない。
これが倫理だ。

体験が常に学びであること。
そうでなければ、生きる意味などありはしない。
だから彼女らは語り継ぐのではなく、語り合う方法を選択した。
あの長崎の女子高生の方向性は正しいと思う。

わたしは風景画を描くことにした。
この場と社会~自然に連動するに都合がよい。
虚構を簡単に立ち上げるのではなく。
そこに籠められたコードを読み取るならば、定義はし易い。

静かに語り合うための、、、。



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ひろしま

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1953年
関川秀雄 監督
長田新 原作
八木保太郎 脚本

伊福部昭 音楽

山田五十鈴、、、大庭みね
岡田英次、、、北川先生
加藤嘉、、、遠藤秀雄
月丘夢路、、、米原先生
薄田研二、、、仁科芳雄博士
町田いさ子、、、大庭みち子
月田昌也、、、遠藤幸夫


広島県教職員組合と広島市民により作られた空前絶後の作品。
被爆者をはじめ市民が総勢8万8千人出演している。それは迫力というより異様な生々しさを覚えた。
極めて精確に事実をおさえようとした記録映画かと思っていたが、映画として実によく出来た作品であることに驚く。
単に核戦争の悲惨さを訴えるというに留まらず、民間人の救助より人心の統制を優先する政府や被曝による病に怯えケロイドを隠して細々と暮らさなければならない被爆者たちの境遇や差別の状況、朝鮮戦争に向けて軍事産業が早くもはじまるなどの光景もしっかり描かれる。そのなかで、エノラ・ゲイの「パールハーバーの敵討ちだ」という発言やドイツの学者の「有色人種だからモルモットにされたのだ」といったものなども漏れなく組まれている。
それでも登場する人々の気高さが基調となる画面は美しい。
推薦者のひとりオリバー・ストーン監督の謂うように、「詩的な(美しい)映画」であった。
被爆者自身が自らの体験を演じる鬼気迫るリアリティが余りに圧倒的で、崇高な美しささえ感じられるのだ。
伊福部昭の音楽が支える部分も大きい。
著名な俳優たちの演じるエピソードが大変説得力ある流れを作っていた。
この作品に近い強度のものを敢えて挙げれば「ゴジラ」と「この世界の片隅に」か。

広島にある高校の北川のクラスでは被爆により病や差別や貧困等で苦しめられている生徒がかなりいる。
生徒の大庭みち子は授業中に体調が悪くなり鼻血を出して倒れた。
その後彼女は白血病と診断される。この症状で多くの被爆者が亡くなって逝った。
すでに原爆投下から8年過ぎていたが、その被害状況(原爆による病)に対して余りに無知であったことを北川は恥じる。
実際、驚くべきことだが、最大の被害者である広島県民にすら、原爆投下による被害状況の実態・規模や原爆病に関する正確な情報がほとんど行き渡らないでいたのだ。
GHQが敷いたプレスコードの影響もあるが、すでに1953年はそれが解かれている。
しかし政府がそれを自ら引き継ぎ様々な自主規制と共に対米感情を配慮し正確な被害を伝えていなかったことが大きい。この映画の上映も反米的な要素があることで大手配給会社の忖度(今や流行語)により3か所のカットを迫られたと謂う。結局、自主上映にとどまることになり、70年日の目を見ぬこととなる。この姿勢は今も政府~体制側は不変である。
日本は、まだまだ自立していなかった(今も怪しい)。
遠藤幸夫は、北川のクラスの生徒であったが、学校を辞めてしまう。

戦争末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分にピカドンが来た。
丁度広島の高校生は疎開作業の最中であったようだ。
その閃光と爆風の凄まじさ。
吹き飛ばされて気づくと、周囲は一変し何処も瓦礫の山で、すでに死んでいる者、何とか火傷を負いながら起き上がるが足元の覚束ない者、子供や伴侶の名を叫び血眼で探し回る者、、、水を求める者はそのまま水の中へと絶命して逝く、、、。
遠藤幸夫の父秀雄は、家の下敷きになった妻を必死に助けようとするが火災に阻まれ見殺しにしてしまう。
その別れの際、妻から子供を頼むと強く念を押される。このような立場の人間もさぞ多かったはず(他の映画でもこのパタンがあった)。
漸く探し求めていた息子一郎を発見するが時既に遅し。彼はすでに亡くなっていた。父はおんぶするのも久しぶりだなと呟き死骸を背負ってゆく。

ポツダム宣言受諾する日本。
原爆病でもう生気のない人たちも怒りに身を震わせる。
(ここは「この世界の片隅に」も同様だ)。
75年間は広島には草木は生えない荒れ地となることをアメリカの学者は説いた。
病院の庭に植えた大根の芽が出た時の患者たちの歓喜の表情。
希望にすがるこの流れはよく分かる。
しかし遠藤秀雄は原爆病の発症で既に病院で末期を迎えていた。
そこに疎開していた息子の幸夫と洋子が、遠藤家の防空壕で出逢った夫人に連れられやってくる。
だが、幼い妹はこの人はお父さんじゃないと父のその姿を認めず何処かに行ってしまう。
この時、幸夫と妹は生き別れてしまうのだ。
父の死後、幸夫は福祉施設で過ごすが、叔父に引き取られ高校に入るも、退学してキャバレーで働き、パチンコにハマる生活を続ける。被曝により足の不自由な彼女はいるが、相手は自分の体を気にして決して結婚は受け容れなかった。

大庭みち子の葬儀の日に集まった生徒と北川。幸夫が工場で働いていることを聴かされ安心する。
だが、当の幸夫は如何わしいものを大人やアメリカ兵に売りつけて生活費を稼ぐ少年ギャングたちに、もっと金になるものを教えると誘い、宮島の防空壕を掘り起こさせ、そこに眠る頭蓋骨を売りさばけと彼らをそそのかす。
早速警察に捕まり、北川も呼び出される。
そこで、幸夫は、工場を辞めたことを先生に打ち明ける。
まだ、敗戦の傷も癒えていないのに、工場では朝鮮戦争のための砲弾を作り始めていたのだ。
彼はそんなものは作りたくない為に辞めたと言う。
今度は僕たちが戦争に駆り出され、恨みもないものと殺し合いをして原爆を落とすことになるのか、と問う。
戦争で沢山の人を殺せば英雄となり、普通に殺人をすれば死刑になる不条理を彼は最近観たチャップリンの「殺人狂時代」から引いて語る。


慰霊の儀式に北川や幸夫やその他の生徒が広島ドームに向かって歩いてゆくと、そこに夥しい人々が加わり行進となって行く。
流れに加わる人々の数が増え続ける。それは学生や子供や大人たちで何万人もの歩みとなる。
その時、それに重なるように、かつて8月6日に亡くなっていった人たちがあらゆるところですっくと立ち上がりまっすぐに歩き始める。
(この演出にゾックと来る)。
終始、伊福部昭の音楽が寄り添っていた。
この音楽はやはり同じテーマの「ゴジラ」に引き継がれることとなる。


岡田英次の主演する『二十四時間の情事』(ヒロシマモナムール)で劇中にこの映画を垣間見ることが出来る。
デジタルリマスターでかなり鮮明に蘇生されていた。
国宝級のフィルムであろう。



華麗なるヒコーキ野郎

The Great Waldo Pepper001

The Great Waldo Pepper
1975年
アメリカ

ジョージ・ロイ・ヒル監督・原案・製作
ウィリアム・ゴールドマン脚本

ロバート・レッドフォード  、、、ウォルド・ペッパー
ボー・スヴェンソン 、、、アクセル・オルソン
スーザン・サランドン 、、、メアリー・ベス
ジェフリー・ルイス 、、、ニュート
マーゴット・キダー 、、、モード
ボー・ブルンディン 、、、エルンスト・ケスラー
エドワード・ハーマン 、、、エズラ・スタイルズ
フィリップ・ブランズ 、、、ディルホーファー

BSで観たが、途中で一回しっかり寝てしまう。恐らく飛行する複葉機を見ているうちに気持ちよくなったのだ。
明日に向って撃て!」のジョージ・ロイ・ヒル監督の作品。
わたしとしては「スローターハウス5」の方が感慨深いが。

空を飛ぶことの快感が描かれる。
空にいるときだけ生を感じる~空に憑りつかれた男たちの生き様であり死に様である。
飛ぶことにかけては、相当の自信を持つウォルド・ペッパーが思うがままに広い空を大暴れする映画だ。
”Waldo Pepper”実在した人ではないらしいが、これに近いモデルはきっといたことだろう。

複葉機が圧倒的にロマンチックである。
「紅の豚」でも複葉の水上機が華麗に飛び回っていたのが印象に残るが、まだ見ていない「フライボーイズ」でも複葉機がたっぷり見られるらしい。だがこちらは戦時中のドッグファイトだと言う。
この映画は、戦時に優秀なパイロットとして活躍した英雄が、戦後は見世物の曲芸飛行で何とか食っている彼らにしてみれば不本意な状況が描かれる。
とは言え、いつも死とは隣り合わせの仕事である。ちょっとしたミスや故障は命とりとなる。

かつての英雄が、やりたくもないつまらぬ曲乗りを興行師に強いられていた。
飛行中に操縦席を離れ翼に乗り移りそこで愛嬌を振りまくとか、馬鹿げたことを要求される。
それを見に来る観客がどんどん要求をエスカレートさせてゆく悪循環が生じていた。
それに応えられず、墜落したパイロットを救いに駆け付けた主人公のウォルド・ペッパーが、野次馬たちに手助けを頼むが、連中は好奇心で傍観するだけで全く手を貸す素振りもない。更にそこにわざわざたばこを持ってきてそれが飛行機に引火し、助かったかも知れぬウォルドのかけがえのない友人が焼死してしまう。
ここでは流石に怒った彼が低空飛行で「この人殺し!」と叫び野次馬たちを蹴散らしてゆく。

かなり酷い有様である。
空に賭けた男たちならまだしも、女性が出ると客も増えるということから、主人公の親友の彼女であるメアリー・ベスも駆り出される。
親友のアクセル・オルソンが操縦する飛行機にめかして乗り込み、上空で翼に乗り移ったところまでは良かったが、彼女はそこで固まってしまい全く身動き出来ない。そのままのバランスでは着陸もかなわない。
そこでウォルドが別の飛行機からその飛行機の翼に飛び移り、彼女を座席に連れ戻そうとするが、彼に向けて手を伸ばした瞬間に、彼女は消えるように落下してしまう。
金のためには手段を選ばない興行主とどこまでも離れ業を要求し飛行士の死など何とも思わない(というより死を寧ろ望む)ような観客たちとの間で、身近な友人の犠牲が続く。

こういった事故から、政府機関の取り締まりが強化される。
空を飛ぶのに免許(試験)が必要になり、空に道が整然と敷かれてしまう。
もう自由に空は飛べないのだ。
空は自由な空間ではなくなった。
勿論、見世物の危険な曲乗りなど禁止される。

その機関の長には戦時中の彼の上官ニュートが納まっていた。
空の安全を管理する役に就いていたのだ。ウォルドにしてみれば180度の転身に見えた。
ウォルドはもう正式には操縦桿は握れなくなる。
それでも空を諦める気など毛頭ない彼は偽名を使い、ハリウッドの飛行機スタントの職にありつく。
自他ともに認める飛行の天才であるウォルドであるが、彼が一目も二目も置く、撃墜王エルンスト・ケスラーも何と飛行スタントと技術アドバイザーとしてそれに参加していたのだ。
世界一の男と認めているエルンスト・ケスラーに出逢えて感激するウォルド。
ここで本名を明かし、彼は敬愛するケスラーと戦時中の修羅場などの話を交わす。
そして二人して史実は撮影の都合上変えてはいるが、語り継がれている有名な空中戦の再現をするために飛び立つ。
ずっと戦時中、戦うことを夢見てきた空の英雄と映画とは言え、空で一戦交えることが出来、ウォルドは文字通り舞い上がる気分であった。
このシーンは迫力と尺から言っても、この映画の最大の見せ場である。
超音速のジェット戦闘機と違い、人の熟練した技術でここまでアクロバティックに操縦できるということが、しっかりと寄り添うように見届けることが出来る。これがプロペラ機の風情であろう。しかも複葉機である。何というか騎士道を見る気分にも近い。
そういった意味でもスリルと緊迫感が半端ではなく、よくここまでCGもないところで撮ったものだと感心する。
空中で何度もすれすれにぶつかり合い、もうこれ以上戦うことが出来ないところで、両雄はまじかで敬礼し合い、念願が叶い満足しきった表情でウォルドは大きく旋回し遥か遠くへと飛び去り、消えてゆく。
まるでサン=テグジュペリみたいに、、、。


ロマンだ。



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しゃぼん玉

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2016年
東伸児 監督・脚本
乃南アサ「しゃぼん玉」原作

秦基博「アイ」主題歌

林遣都、、、伊豆見翔人
市原悦子、、、スマ
藤井美菜、、、美知
綿引勝彦、、、シゲ爺
相島一之、、、スマの息子


市原悦子の最後の出演映画。
バッテリー」でデビューした林遣都主演。
二人の繊細な演技が堪能できた。
そこに綿引勝彦の懐の深い演技が加わる。
過剰なことばのない、演技と自然の光景で魅せる映画であった。

宮崎県の北西部の椎葉村が舞台。
山の中腹域の緩斜面に集落の広がる息を呑む光景だ。
その村のスマという老婆を行きがかり上助けたことで彼女の家で世話になることになる伊豆見翔人。
彼は都会でひったくりや傷害を重ねてシャボン玉のように辛うじて生きてきた。
親の機能しない家に育ち極めて歪な自我を抱え彷徨ってきたオオカミ少年である。
椎葉村には、バックをひったくる際にナイフで女性を刺してしまい逃亡の果てに辿り着いたのだ。

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それまでのささくれた修羅の生活から一転して、スマや近所の老人たちに孫(スマの孫だと思われている)のように可愛がられ寝食に不自由ない生活~スローライフが始まる。
およそ緊張感のない生活に日夜ほとんどゴロゴロとして暮らす。
いつも集まってくるおばあさんたちの素朴な郷土料理が体に優しく美味しそうである。
「うめえ、うめえ」と彼は腹いっぱいよく食べる。どれだけそれを身体が欲してきたか、がよく分かる。
翔人が庭の腰掛に寝ころび「いい天気だ」と遠くの空と山を臨み、大きなおにぎりを頬張る姿は羨ましい。

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それでも暫くのうちは、隙を見て金を盗んでトンずらするつもりでいたが、次第にこの村の人々と自然の環境に癒されて馴染んで行く。
スマの変わらぬ翔人への信頼と労りが彼に安心できる居場所を与えたことと、シゲ爺による父親代わりの山仕事~労働を通した薫陶が図られ、彼は逃げずに物事に立ち向かう力を徐々に身に着けてゆく。
「坊はいい子だ」これまで一度も親からかけてもらえなかった言葉を毎日聴きながら、いつも持たされる大きなおにぎりがしっかりと彼という身体の糧になってゆくのが分かる。
やはり良きことばと食こそが、生活~家の基本なのだ。
今、如何にこのシンプルな形体が危ういものとなっているか。
(身につまされる)。

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そして衝撃的な事件が二つ続く。
美知という都心から故郷の村に心の傷を抱えて戻って来た娘と翔人は平家祭りの準備に携わる。
彼は何時しか美しい彼女に恋心を抱くようになる。
だが彼女が受けた心の傷が、通り魔に切り付けられバックを強奪された体験によるものと知らされ、彼は自分の犯した罪にはっきりと向き合い、嘔吐する。
まさにそれは嘔吐するしかない圧倒的な強度をもつ現実であった。
そして、夜中に食べ物を探りに冷蔵庫を物色していたらスマの隠していた札束を見つけてしまう。
スマに気づかれ詰め寄られ、申し開きをする翔人。
その時丁度、昔家を出て行った息子が金の無心に帰ってきてスマに暴力を働く。
スマを庇い、放蕩息子それはまさに自分の父親のような男と揉み合いとなり、首を絞められたときにかつての自分の顔がその男に重なる。
翔人は叫ぶ「お前なんか死んじまえ!」自分の姿を初めて対象化した瞬間であった。
異変に気付き入って来たシゲ爺の姿を見て、すごすごと息子は帰ってゆく。
スマが翔人に無償の愛を注ぐ理由もここに浮き彫りとなる。
彼女は息子をこのような形で愛せなかったのだ。(翔人の父親~母親もきっとそうした過程で育った結果なのだ)。もう決して取り戻せない。彼女にとってそれは断腸の思いであったことだろう。
せめてもの償いの気持ちが翔人に注がれていたことは間違いない。


翔人は独りで立ち向かうことが出来る気がした。帰る場所さえあれば、、、。
「どうか長生きしてくれ。ここにまた戻ってきたいんだ」と言い彼は自分の犯した罪をスマに告白する。
彼女は驚くが、務めを果たしてきなさい。坊はいい子だ。わたしはずっと待っていると返す。
父同様のシゲ爺に頼み、彼の軽トラで警察に向かう。最後に手渡された大きなおにぎりを一つ食べ終わって翔人は自首する。


3年後、出所した彼はスマの家に向かう。
家の窓には明かりが煌々と灯っていた、、、。


椎葉村の自然と林遣都と市原悦子さらに綿引勝彦の演技がとても美しい映画であった。




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O君とS君ファミリー集まる

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今日は家でO君とS君ファミリーを招き、食事会を開いた。
楽しかった。
だが、名残惜しい。
もう少し時間があったらな、と思う。
小2の作文ではないが、今日はみんなよく食べよく喋り、よいピアノを聴いてよい時を過ごした。


ちょっとしたO君のシークレットライブであったが、もう少し聴きたかった。
曲は即興モノと譜面モノであったが、3曲というのは惜しい。
(弾く人が弾くとこれほど音の響きが違うものか、、、ピアノの奥の深さを想う)。
それはフランス印象派的な現代音楽とでもいうか、、、。
何故か余韻のなかで、わたしは「クープランの墓」を想い起してしまった。
そんなクラシックではないのだが、質的なレベルでそう感じたのか、、、。
彼が作曲コンクールで賞に輝いた曲をお願いしたら、難しくて弾けないとのこと。
確かに自分の作ったスコアが難しすぎて弾けない作曲家の話しは結構耳にはしていたが。
それにしても、近いうちに曲そのものは聴いてみたいものだ。

娘たちが、発表会で演奏した曲を弾いてみせたが、発表後一度も演奏しないで堕落した日々を過ごしていたためか、ミスタッチもあり今一つの演奏に終わった。
しかし、O君との音色の違いには驚く。
うちのピアノはこんなに良い音がするのか、と見直してしまったほどだ。
これは、定期的に開きたい。
とても得した気分だ。
お土産の大きな猫の縫い包み(ひげまんじゅう)にはふたりともとても嬉しがっていた(抱っこして寝るそうだ)。


S君は、最新作を絵ハガキにして持って来てくれた。
S君の仕事」シリーズをちょっとばかし再会したい。
ちょっとばかしというのは、思ったより(その後の)近作が少ないのだ。
どうしてかと尋ねると、何とジオラマそのものを制作しているのだそうだ。
「ジオラマってねえ、写真に撮りにくいのよ」ってホントにジオラマに行っちゃったの?
確かに彼の絵は「平面ジオラマ」とも謂える世界であったから、3D化したところで驚くことではない(寧ろ普通の形になったようなものだ)が、これはもう展覧会でもひらくしかあるまい。
わたしとしては、2D世界に堪えて欲しかった。その方が抽象性も高いし香しい。
周囲では彼の展覧会をそろそろ開くべきだという声も多い。
わたしもS君のコレクションの数々も含めた「S君記念館」を作ることを提案しておいた。
(彼は最近、ジャズ・クラック以外のコンテンポラリーな曲を聴き始めているそうで、それを集めたCDを貰った。そのうち感想もここに書きたい)。

彼の奥様も見え、わたしのコアともなる書庫を見学されてその屋根裏までしげしげと観察された。
「これをご覧になれば、何故S君とわたしがお友達かお分かりになるはずです」とだけ伝えておいたが。
(非常に複雑な面持ちであった)。
お嬢さんにはかつてうちの娘が遊んでもらっており、今日をふたりとも楽しみにしていたので、後半になってパソコンで自分たちの趣味の「東方」や「ゆっくり」を見てもらい嬉しかったようだ。
うちでは、また見ているのか、早く勉強しなさいくらいしか声をかけられないので、すこしでも共有してもらった感は貴重なものだ。
今日は以前より遊んでもらう時間が少なく、もっとゆっくりしていってほしかったようだ。
(わたしは例の「ゆっくり」は、どうにも生理手的にダメだ。「東方」は良い曲があり一緒に聴いたりはしている)。


今日は妻のサムゲタン中心の韓国料理のフルコースであったが、とても旨かった。
ヤクルト入りのマッコリと八麦茶にスイカ・桃入りフルーツポンチも良かった。
出来れば定期的にやりたい。
O君のピアノはもっと聴きたい。S君の2Dの所謂、絵をもっと見たい。

残念なのは、ドライバーがアルコールを呑めないことだ。
3人ノンアルコールビールで我慢は正直辛かった。
バス電車で集合してもらうのは、何とも面倒なことでもあるが、最寄り駅までの車の送迎は、勿論アリ(爆。


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健康ブーム~腸に聴く

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我が家に健康ブームが到来。
食においてである。
確かに口に入る物は身体に対する影響は大きい。
いや、絶大か。

客観視すれば、悪癖の悪循環みたいな食生活に陥ってしまったりすることに気づくこともある。
わたしもかつてお菓子や栄養剤とかで適当に過ごしていた時期もあった。

食生活(食事・料理)は完全に文化であり、食欲やその嗜好も文化~コードである。
いや習慣とか癖と言った方がよいか。
本当にからだが欲するとかいうこととは別に、それは存在する。
というより、からだ自身=個体の欲望をそれは隠蔽する。

具体的にあげるまでもなく、もっとこうした方がよいはず、という食生活はある。
「わかっちゃいるけど、やめられない」的になし崩し状態になっている場合も少なくない。
内臓、特に腸が欲していなくても、癖によってついついそれを食してしまう、こともかなりある。
腸が嫌がってはいないか?腸の気持ちを受け取ること、、、。
そんなことに、気づかされる我が家の健康ブームではある。

おせっかいで煩く、如何わしいところもあるが、からだに関心を向け注意を払うことは、やはりしなければ、、、とおもう。
自然に対し感覚を開放する感じにそれは近い。




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映画 中二病でも恋がしたい! Take On Me

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2018年
石原立也 監督
花田十輝 脚本
虎虎 原作
虹音 音楽

福山潤、、、富樫 勇太
内田真礼 、、、小鳥遊 六花
赤崎千夏、、、丹生谷 森夏
浅倉杏美、、、五月七日 くみん
上坂すみれ、、、凸守 早苗


「小鳥遊六花・改 〜劇場版 中二病でも恋がしたい!〜」という前作があり、これはその後編に当たるようだ。
何処から見てもよいだろう。TVアニメも見ていない。いつものことだ。
かなりの熱量のアニメである。
ともかく、逃げる。
所謂、アドレッセンスか。
逃げるということは、引き伸ばすことを意味する。
「中二病」というのが何かよく分からないが、思春期に起きる内面化の一パタンと考えれば少なからず誰にもある時期ではないか。
わたしは、この病を時期と捉える。
パワーに溢れた時期でもある。
まさに「夢見るアドレッセンス」であろう。

Take On Me 002

この引き伸ばし時期が、内面~文化を熟成する。
人間がそもそも動物界からの成熟(大人になる事)の遅延によって文化を生み落としてきた。
いや動物界(自然)の流れから遅延することで人間化したと言えるか。
観念の動物となった。そして純粋に疎外された。
初めて内面を持ちそれは、遅延を繰り返し深く稠密に拡張して行く。
幻想が指数関数的に爆烈する。
如何なる動物とも異なる身体性を帯びて煌めき。
それはマルチバースに浸透する。

われわれの中学時代も、周りに全く分からない専門用語を駆使して喋り合っている共同体はいた。
特別な仲間とだけ親密な関係を結び外部に対しては壁を築き、大概家などでは部屋に籠り、家族に対しては何でも「うるせー」とかで済ましたりしていたようだ(わたしの場合は、大音響でビートルズをかけていたような)。
このアニメのようなまねを実際にやって、最後に両腕を広げて飛んで行ったクラスメイトを今でも思い浮かべることがある。
結構コアなパーティだと周囲から厄介者扱いもされていたような。
だがこれは、ディスコミュニケーションの状況でも、発達障害の症例でもないし、単なるイニシエーションで終わるモノとも思えない。
わたしもその頃は、自動車に凝りまくっており、その一点における強力なデータベースとして共同体の端っこあたりに位置していた(笑。
聞かれて分からないことなど、ひとつもなかった。絵でも詳細に説明した。その際に受ける賞賛が脆弱なアイデンティティを支えた。
きっとそうだった。ひりつくこころにとって無くてはならない場所がある。
或る偏った場所にアイデンティティを置く時期って誰にもあろう。
いや、わたしはずっと生徒会長として人々の中心に居続けた、とかいう人もいようがそれも、50っ歩、100っ歩というところである。

Take On Me 003

逃避行しながら、絶えず移動しながら、何処かに辿り着くでもなく。走り続ける。
ただここではそれを許さず、特定のレールに乗せようとする権力が発動している。
それがなくともわけの分らぬことを喋りながら日常のルーチンから逃げて来ているのだが、駆け落ちで逃げるアクティブな状況となる。
それで物語は更に面白さを増す。
逃げ続けながら恋はしっかりと実る。
孤独であるが、彼らの場合、番いである。
ワクワクしながら旅が続けられるというもの。
ただ、旅は終わるモノではない。

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何故か最後に感動した。
よく分からないが、感動した。


これも間違いなく、京アニの傑作に数えられるものだろう。


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かもめ食堂

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荻上直子 監督・脚本
群ようこ 原作
主題歌 井上陽水「クレイジーラブ」
近藤達郎 音楽

小林聡美 、、、サチエ(かもめ食堂店主)
片桐はいり 、、、ミドリ(サチエを手伝う人)
もたいまさこ 、、、マサコ(自分の荷物に確信が持てない人)
ヤルッコ・ニエミ 、、、トンミ・ヒルトネン(日本アニメオタク)
タリア・マルクス 、、、リーサ(夫に逃げられ不安定な夫人)
マルック・ペルトラ 、、、マッティ(サチエの店の前のマスター)


フィンランドのヘルシンキが舞台。
そこで「かもめ食堂」をはじめたサチエとそこに集まる人々を巡る話。
(フィンランドでお洒落な日本食レストランという趣味は良いなと思う)。
おにぎりがメインメニューだと。
マイペースで、客がいなくてもしっかり毎日のルーチンを熟す。
店を閉めると決まってプールで泳ぐというのも良い習慣だ。
そうしているうちに、「ガッチャマン」の歌詞を覚えている女性ミドリが店の手伝いを始める。
(ミドリは「ムーミン」に詳しい。彼女もアニオタであろう。だからか少しトンミと気が合う)。
彼女は、店にあまりに客が来ないことを心配し新メニューなどを提案するが、、、。

おにぎりはやはり「梅、シャケ、おかか」だと思う。
「トナカイ、ニシン、ザリガニ」を具にしたらもはやおにぎりではない。
いくらフィンランドの定番食材だとしても。
そこで、彼らの定番食のひとつであるシナモンロールを出したら客が集まってきた。
正しいメニューだ。
そこへ、かつあげ定食みたいな日本メニューを入れると食いついてくる。
お箸の日本食も定着してくるだろう。
最初から、おにぎりだけを売り物にしていたら、ハードル高いはず。
客が一人も来なかったというのも極端だが。

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のんびりした風景や間はよいのだが、トンミ・ヒルトネンという日本贔屓の青年が何とも浮いている。
自然さがない。まるで変なロボットみたいなのだ。
最初に「ニャロメ」Tシャツで「ガッチャマン」の歌詞をサチエに聞いて来たところまでは、なるほどジャパニーズアニメオタクか、と思ったのだがその後が続かない。アニメオタクなら、その他にもコアな情報を収集したり、語り合いたい事があるだろうに(分らぬことはウェブ上で探せばよいことだが)。
でなければ、わざわざ日本人経営の食堂に頻繁にやって来る必然性もあるまい。
特に何かがあるでもないのに毎日のように「かもめ食堂」にコーヒー飲みに来ることが分からない。
その不自然さを想ってしまうのが、彼の存在自体の抽象性である。
日中に自転車に乗って来るのである。大学の授業はもう終わったのか。講義の合間なのか(あれ、学生ではなかったのか)。
いつも何故独りなのか。学生なら時には同じゼミの友達(またはオタク友達)と来ても良いだろう。
妙に愛想が良いが、喋らない時の演技がスイッチを切られたアンドロイドみたいなのだ。
(この人、ホントに向こうの俳優なのか?北欧の俳優は芸達者が目立つ。もしかしたら素人か)。

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わたしの好きな曲に「お弁当を食べながら」(菅野よう子&清浦夏実)がある。
食べるときに作ってくれた人のこと(優しい手のこと)を愛おしく想うという曲だ。
特定のひとに作って貰うことで、その料理が特別な意味~価値を帯びる。
われわれがお気に入りの店に行くのも、そこで(そこのマスターが)「作ってくれる」料理に惹かれてゆく。
その店のマスターの「淹れてくれる」コーヒーが旨い。それでいつも通ってしまう。
先ほどのトンミ・ヒルトネンもそうなのか。
マッティもサチエも言っている「作って貰うから美味しい」と。

確かにお気に入りのバーなどまさにそれだ。
このバーテンダーの作るカクテルだから好き、とか。
店が流行るというのは、店主とかに客が惹かれてゆくことで生まれる付加価値が大きい。
勿論、目玉メニュー(商品)が美味しいということが前提ではあっても。
何というかブランディングは、その商品とその製作者~売り手とこみであるように思う。

このサチエもシナモンロールと美味しいコーヒーから客を引き寄せ、人柄からも信頼を高めて「かもめ食堂」がフィンランド人で満席になる店になって行く。
プールで皆に拍手される演出は面白い。

ここでは、もたいさんが周囲から浮かない役で、ピッタリと要所を締めるちょっと不思議だが充分親和性のあるパーソナリティでとても好感がもてた。
(このひとは、癖の強すぎる役が多く、妙に浮いて違和感だけ覚えることが多い)。
リーサもマッティもセリフを必要最小限に切り詰めて演じるなかで個性が描き出せていた。
ちょっと危なっかしい感じもあったが、淡々としたよい空気感の映画になっていた。





フィンランドはムーミンとオーロラであろう。

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博士と彼女のセオリー

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The Theory of Everything
2014年
イギリス

ジェームズ・マーシュ監督
アンソニー・マッカーテン脚本
ジェーン・ホーキング原作『Travelling to Infinity: My Life with Stephen』
ヨハン・ヨハンソン音楽


エディ・レッドメイン 、、、スティーヴン・ホーキング
フェリシティ・ジョーンズ 、、、ジェーン・ホーキング(最初の妻、文学博士)
チャーリー・コックス 、、、ジョナサン・ヘリヤー・ジョーンズ(大学の親友)
マキシン・ピーク、、、エレイン・メイソン(後妻)
チャーリー・コックス、、、ジョナサン・ジョーンズ(オルガン奏者、ジェーンの二番目の夫)
エミリー・ワトソン 、、、ベリル・ワイルド(母)
サイモン・マクバーニー 、、、フランク・ホーキング(父)
デヴィッド・シューリス 、、、デニス・シアマ(スティーヴンの師)


ドゥニ・ヴィルヌーヴの作品「メッセージ」でも音楽担当していたヨハン・ヨハンソンが48歳の若さで亡くなった。
アイスランドにおいては、ビョークとこのひと。
氷河から聴こえてくるような、、、余りに繊細で神々しい反復の調べ、、、その響き。
暫くは彼のレコードを聴き続ける日々になりそう。


「やりたい事がある限り、希望は無くならない」
スティーヴン・ホーキングはそう語る。

スティーヴンとジェーンはケンブリッジ大学のパーティで出逢い、お互いに惹かれ合う。
スティーヴンは宇宙創成は創造主なしで説明可能であることから無神論であり、ジェーンは教会に行かないと調子が悪くなるキリスト教信者である。信仰に関する信条は生涯、変わるものではない。

The Theory of Everything001

「ブラックホールの特異点定理」を発表後、彼はALSを発症。
余命2年を宣告され、一度は失意のうちに彼女を遠ざけるが、、、
ジェーン・ワイルドはそれを知って、敢えて彼との結婚を決意する。
「ホーキング放射」(量子重力論から生まれた)を発表。ブラック・ホールは真っ黒という訳ではない、、、。素粒子を放出しエネルギーを失い蒸発する。
ワーグナーのコンサートで肺炎から救急気管切開により意識不明となり、生命維持装置を外すか医者に問われるが、奥さんが冗談じゃない!
彼は再び彼女によって生を得る。

しかし喉の切開手術により声を失い、頭脳が考えたことを外に知らしめる唯一の機能~手段が消える。
「スペリングボード」を元にコミュニケーションを図ることにした奥さんの深い決断は、更に彼が研究を深め人類に恩恵をもたらすことに繋がる。
その後、重度障害者用意思伝達装置を使い(スピーチではコンピュータの合成言語)、精力的に講演活動を行う。
ベストセラー「ホーキング宇宙を語る」出版。彼は軽妙なサイエンス・ライター的な手腕も発揮する。
結局ALS発症後、彼は50年以上も生きて宇宙物理最前線の研究に携わった。


わたしがこの映画で強く感じたことは、、、”Time”への異様な拘り。
それは純粋に物理学的な興味からくるテーマではあろうが、余命2年を若くして宣告されたことによるところは大きいはず。
そして女性に恵まれたこと。
ジェーン・ワイルドとの出逢いがどれ程大きなものであったか、、、そして看護師エレイン・メイソンである。
それから、スティーブン自身、軽みがあってとてもユーモアの感覚に優れていたこと。
これはもしかしたら、何においても肝心なことかも知れない。
アインシュタインもそういう人であった(もしそうした感覚に乏しかったら彼はナチスによって命を落としていたかも)。

何にしてもジェーンがいなければ、スティーブは本当に2年後には亡くなっていたかも知れない。
それを考えると、この運命の出逢いの大きさは計り知れない。
やがて二人は離婚し、スティーブはエレインと再婚し、ジェーンはオルガン奏者(子供のピアノの先生)で二人の手助けとスティーブの介護を熱心にしてくれたジョナサンと再婚する。このスティーブ~ジェーン~ジョナサンの3人の関係も最初から個(我欲)を超えたものであった。離婚後もジェーンとスティーブは親友関係が維持される。

The Theory of Everything003

ジェーンはスティーヴンがALS発症し余命2年を宣告されても、断固結婚の意思を変えなかった。
(いや敢えて、結婚を決めた)。
肺炎から意識不明となり安楽死を医者から勧められても、スティーヴンがどうなっても絶対に生かすことを選択した。
それは、彼の体が耐えられないかも知れない、不可避に声を失う大変な手術を前提とした。
そして、唯一完全な状態で残った頭脳~思考の発する情報をアウトプットする為に手を尽くす。
彼の潜在する能力を出来る限り発現させる手助けは何でもやる覚悟だ。
(この際に看護師エレインの果たした役割も絶大)。
それはスティーブ自身を救うと同時に、人類に恩恵を齎すことでもあった。
「ホントに長く生きたわね」とスティーブンに語るジェーンの言葉は無限に重い。

”Look what we made”
エリザベス女王に招かれ宮廷の庭で無邪気に遊ぶ自分たちの3人の子供の姿を眺め、元妻のジェーンにそう語るスティーブン。
この締めで、この映画の格が上がった。

そうなのだ。
確かに。
「無限への旅:スティーブンと過ごした私の人生」そのものであった。


彼は最晩年、スターショット計画に参画している。
アルファ・ケンタウリにたくさんの探査機を飛ばす計画である。
もうすぐ始まる。



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氷菓 実写

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安里麻里 監督・脚本

山﨑賢人、、、折木奉太郎(古典部、推理の達人)
広瀬アリス、、、千反田える(「豪農」千反田家のひとり娘、古典部部長)
小島藤子、、、井原摩耶花(漫画研究会、図書委員、古典部)
岡山天音、、、福部里志(奉太郎の親友、古典部、総務委員会)
本郷奏多、、、関谷純(千反田えるの叔父、古典部初代部長)
斉藤由貴、、、糸魚川養子(神山高校教師、司書)



アニメにかなり忠実に丁寧に撮られていたと思う。
インド(ベナレス)からの姉の手紙から始まるところがとてもよい。「ここで死ねば輪廻から外れられるの、、、」魅惑的である。

やはり思った通り、第5話までの古典部編をしっかり描くというものであった。
45年前ではなく、33年前の関谷純を巡る出来事になっている。一回り若くしてあまり大きな時代(世代)観の差を出さないようにしたのか、と思ったが噺の上ではそうでもない。ただし、当時と現在の建物、街の光景等の差はもっと明瞭に出しておいてよかったと思う。それこそCGで足りると思うが。
「氷菓」文集が壁新聞部ではなく現在の部室のテーブルの下から見つかる。
この方が噺をタイトにできる。壁新聞部を出しても引き取るところがないため余計なエピソードになる。
これはとてもよい変更であるが、関谷純が当時、古典部後輩の郡山(糸魚川)養子を火事から救い出す英雄的行為を取っていたことになっている。これは人格の変更とは思えぬが、、、あまり明瞭に肉付けされていない関谷純の人物像を一歩踏み込んで描いている。
この点は、騒動に対し冷静な立場に距離を置こうとしていた関谷を英雄に祭り上げやすくする変更であろう。
こちらの方が生徒への好感度と名前の浸透も含め指導者に担ぎ出すには無理はない。
彼女は校舎の傍にいて発火による爆風で右耳を痛めそちら側が聴こえない伏線ははられていた。
しかしどうなんだろう、些か陳腐な芝居がかった蛇足感が拭えない。
養子の挙動がどうにも腑に落ちないのと、熱狂による暴動には徹底して距離を持っていたという方が、変な色気を出すよりリアリティがある。ここは、アニメの通りでよかったのではないか。

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山﨑賢人と広瀬アリスが高校一年生。
昔の高校生には「花筐」の吉良みたいなもう老成したような味のある生徒もいたもので、山﨑賢人の折木奉太郎なら、拘らなければ見れそうだが、広瀬アリスの千反田えるには、演技でどうにかなる以前の溝が感じられる。お嬢様というのは大丈夫でも高1のハードルである。
最近の青春もののヒットは、ヒロインに浜辺美波か小松奈々を当てればほぼ間違いない感じだが、それはここでも謂えそうだ。
千反田えるを浜辺がやれば、まさにピッタリな感じがする。「君の膵臓をたべたい」のヒロインならこちらも充分掛け持ちできるのではないか。
しかし中盤まで観てゆくと、アリス=えるもかなり馴染んで観ていられる。
演技力でそうなっていたのなら、かなりのものだ。或いは、こちらの慣れのレベルか。確かにそれも大きい。
(アニメ作品を観ていなければ、最初から気にならないかも知れない)。
そういえば、桐谷美玲もかなりの時期まで女子高生で頑張っていた。
噺の最後には自然に女子高生になっており、実に大したものである。
だが、女子高生の美少女女優などいくらでもいように、このキャストは何らかの縛りというか上からの圧力とかで決まっていたものなのか?特になければ、乃木坂から久保さんあたりを連れてきてもバッチリであろう。きりがないが、、、。

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井原摩耶花と福部里志はこういう感じでよいと思う。
摩耶花は茶髪な気がしたが、黒髪でも彼女の個性がしっかり出ていた。
このキャラには魅力を覚える。
里志のアンビバレンツな感情表現は、なかなか難しいと思えるが、まだこの話の頃にはさほど表に出ていない。
もう少し先まで観たいキャラである。
この二人は自然に観れるか。特に摩耶花は問題ない。
四人の動きもアニメほどではないが、まとまっていた。

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本郷奏多~何と良い名前なのか~の関谷純も如何にもというストイックな感じでカッコよかった。
奉太郎たちの推理による幾つかのパタンの演技の切れがよい。
それだけでもなかなか楽しめる。
但し、何故「せきやじゅん」になったのか?これには、ちょっとびっくりした。
アニメでは「せきたにじゅん」である。
原作もそうらしい。
名前をわざわざ変える必然性があるとは、思えない。
となれば、名前はとても大事な要素である。
ここは、この変更点が気になる(千反田えるではないが。最初に「せきや」と口にしたのが彼女であった)。
これは監督に聞いてみたいところだ。

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推理の場面などで、映画ならではの演出も効いていた。
テンポも良い。
無駄はない。
BGMも情景に合っていた。
かなりよい映画になっていたと思う。
「お前の叔父はベナレスにいる。輪廻から外れられるんだ。そこで今も生きている。」
終盤の奉太郎のセリフがよい。

「わたし気になります。」で何か繋がって行くような余韻を残すが、、、この続きはないな、、、。
この監督の「零 ゼロ」を観てみたい。
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浅間山噴火!

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浅間山噴火!4年ぶり。
テレビで観るとかなりの噴火・噴煙ではないか!
ちょうど鬼押出しに行く予定であったため、このタイミングにびっくり。と言うより、よりによって、、、である(絶句。
しかしポイントは警戒区域の赤い円のほんの少しだけ外にある。
娘二人はラッキーと楽天的。単に危機を感じるセンスがないだけなのだが。
しかし噴火が昨夜の10時に一回だけと言う保証はない。
相手は自然である。人の都合など関係ない。

朝食は夕食まではいかないが、とても美味しい。和洋共に充実。
ジュース類はどれも体に良さそうなので全て飲む。
昨晩からかなり食べ過ぎ状態。料理は流石に三つ星だけのことはあった。

部屋に戻り再度テレビを確認すると、噴煙が1800メートル以上、上がっていたとか。
4キロ以内は噴石の落下に注意する警戒レベルを3に引き上げたとかなんとか、今回は危ないからやめようか、、、と言う流れに、、、ちょっと気持ちが萎えて、ホテルでダラダラ過ごしてから、予定より少し遅めにチェックアウト。
のんびり歩いて駅に着き、案内所で確認するともう警戒も解かれ大丈夫とのこと。兎も角行きたいので思いっきり信用する。
しかしダラダラした報いで2分前にそのバスは出ており、駅で約1時間 足止めをくらう。
妻は南口のアウトレットモールに直行。時間は無駄にしない(帰るときに買い込むことに)。
娘二人はスマホでゲーム。
昨日の誕生会で、ゲームばかりしませんと誓ったばかりなのだが。
わたしは特に何をやるでもなく放心状態で過ごす。

バス停に15分前に行くともう大変な行列。何とかバスの1番後ろに席が取れた。
冷房空間の間を行き来して来たが、外は暑そう。
途中で浅間山が見える。頭が真っ白い雲にかたく覆われていた。
禍々しい黒煙を想像していたのだが。乗客はほとんど全て、途中の温泉に消えて行き、最後まで残った人間はわれわれと海外の一家族のみ。
確かにこの辺は外国客は多い。しかも何度も同じ家族に出くわす。
ここも広いようで狭い。

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鬼押出し園は、昨夜の浅間山の噴火の騒ぎで?人が少なく、うちの2人の娘も貸切に近い状態で奇岩の数々と不気味に広がる奇勝をたっぷりと堪能できた。
写真も珍しく撮りまくった。
表参道の惣門が、左右に二天尊像(持国天と増長天)を置き、ものものしい重みを醸していたが、浅間山自体はもう何食わぬ顔をしている。
浅間山観音堂は何とも言えない風情であった。遠くからでも目立つ朱塗りの社で無彩色に近い尖った岩の中で浮いている。
鐘楼堂で二人が鐘を鳴らしてみた。二人ともきょとんとしていた。
水盤舎に湧く地下水が飲めると言うことで、ペットボトルに汲んで飲んだ。
これが冷たくて美味しい。

次女はこの空間の広さと高山植物がゴツゴツした岩から生えている様などに、怖い怖いを連発していたが、確かにこんな荒涼とした場所に花が咲くこと自体、不自然な景観だ。
ツツジやシャクナゲの群生地があちこちにある。
だが、それと同様にひどく不自然な絵に思える遠くにポツンと建っている観覧車が怖さを一際演出していた。
空がとても広い。

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充分回ったところで、レストランでソフトクリームを食べ、下に降りかけたら、雷が鳴り出した。
広い青空に電光が走る。
また雷が轟いた。
雨がポタポタ落ち始める。
取り敢えず見終わって帰るタイミングで良かった。
奇岩にそれぞれ名前が付けられていたことを知る。サザエさんとか、、、まあ、どうでもよい。

帰りのバスに早めに乗り(終点であるメリット)雨宿りもできた。
よりによって、は良い方に働いた。

駅では台風そのもの激しい横殴りの風雨がホームを襲ったが、新幹線に乗る頃には小降りになっていた。
如何にもこの辺の天気である。われわれにとっては、気持ち良いミストであった。


ホテルはとても良かったのだが、やはり高い。
ホテルと同じ銘柄だと思われるクラフト黒ビールを駅近くの専門店で買ったのだが、ホテルで1800円。店で税別で257円であった。同じ味であったら哀しい(苦。
家に帰り早速飲んでみると、苦くて旨いビールだが、店の比ではなかった。雑味の全く感じられないあんな澄んだテイストとは歴然とした差があった。

違って、、、良かった(笑。




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娘の誕生日

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白糸の滝はとても冷たかった。
茹だるような暑さから急に解放されて、滝近辺はとても涼しく、滝は見るからに冷たそうで、滝からの水は見事に冷たかった(笑。ちょっと指を入れるとキーンとくる冷たさ、これは夏にあっては天国である。

この場をなかなか離れ難いところに弾みをつけるため、出口近くの店で冷えた桃を買う。これが700円。これを食べて旧軽へ。しかし、長女が虫に驚き、桃の切り身をいくつか落としてしまう。ここで、虫に過剰に反応すれば、美味しいものを買い損なうというインチキ・イソップ物語を説いて、バスに乗る。

旧軽をホテルチェックインまでブラブラ歩くが、急にもわっと熱い蒸気が立ち揺らぐ、ここは何と鎌倉の小町通りの並行世界であった、、、わたしは何処にいる?〜次女には受けた〜と言うくらい暑い。

濃厚ソフトと更にモカソフトを食べクールダウンして元の世界に帰還する。
ホテルはなかなか期待できる構えだ。汗だくなので部屋からそのまま温泉に直行。ゴージャスな風呂だ。
ゆったりと浸かろうとするが、あまり長く入れない。
温泉によってであろうが、3つほどを短時間でハシゴし、長く入るのがキツイので、ほぼカラスの行水で出てきた。


食事はバイキングスタイルであるが、種類も多く、とても美味かった。
ついでにクラフトビールで真っ黒なのを飲んだが、これが効いた。普段飲み慣れていないものを飲んだせいか、もう酔っ払ってしまった。

最後に部屋に頼んだバースデーケーキ。
半分眠りながら「お誕生日おめでとう」
八割がた眠りながら食べているが、これまでに食べたケーキで1番美味しかった。
フワッとソフトなチョコレートに酸味たっぷりな各種フルーツが絶妙な調和を醸している、、、もう眠い。

明日は、彼女らのはじめての鬼押出し体験である。
雨だけは降らないよう、お願いしたい。






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氷菓 その3

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2012年
武本 康弘 監督・脚本
米澤穂信 原作


                         声):
折木奉太郎(古典部、推理の達人)、、、中村悠一
千反田える(「豪農」千反田家のひとり娘、古典部部長)、、、佐藤聡美
福部里志(奉太郎の親友、古典部、総務委員会、手芸部)、、、阪口大助
井原摩耶花(漫画研究会、図書委員、古典部)、、、茅野愛衣
入須冬実(総合病院院長の娘、女帝と呼ばれる)、、、ゆかな
糸魚川養子(神山高校教師、司書)、、、小山 茉美
十文字 かほ(荒楠神社の宮司の娘)、、、早見沙織
折木 供恵(奉太郎の姉、元古典部、インドにいる)、、、 雪野五月
遠垣内 将司(壁新聞部部長、父が教育界重鎮) 、、、置鮎龍太郎
田名辺 治朗(総務委員会委員長)、、、福山潤
陸山 宗芳(生徒会長、絵が上手い)、、、 森川智之


二つ目の山は何と言っても文化祭である。
千反田えるのキラキラ瞳の「気になります!」はずっと健在であるが、「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に」というモットーはまだ基本に置いている折木奉太郎ではある。
文化祭は、部室に文集「氷菓」第46号が200部山積みされているところから始まる。
摩耶花の手違いで発注してしまった部数らしい。もとは30部の予定であったそうだ。
上手いイントロである。だが要するに売ればよいのだ。千反田えるは相変わらず前向きだ。
彼らは部活の知名度を上げつつ文集を宣伝し、よい場所に売り場を設けようとするところで、話は動いてゆく。
イベントなどに古典部の名で積極的に参加し、好成績を収めて目立つ。総務委員会にも売り場の拡張をえるが掛け合う。
折木奉太郎はモットーに従い、部室で売り子としてお客を待つ。
だが、わらしべプロトコルを実行して、お料理コンテストで窮地にある古典部を救ったり、単に推理の時だけ役に立つのではなく、普通に考える人になっていて、時折自ら有効な行動にも出たりするのだった。

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古典部がクイズに出たりお料理コンテストに出たりするなか、怪盗「十文字」が現れ特定の物品を盗み、後に犯行声明を残してゆく。狙われる部活に法則性が窺え、奉太郎のいつものスウィッチが入って謎解きが始まり、この回の軸となる。
そう、この物語全体はミステリーであった(謎解きはするも日常描写が濃いため、そのイメージが薄いのだ)。
今回は、漫画研究会の井原摩耶花の苦しい立場や彼女と副部長との傑作とは何かを巡る論戦も加わる。
摩耶花は「夕べには骸に」という漫画に絶大な賞賛をよせており、作品自体の質より全ては読者の感性次第という副部長と激しく対立する。
昨年発表された「夕べには骸に」という傑作同人漫画が最後までキイとなる。「響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ」にあるように、才能という問題が同時に語られてゆく。主に福部里志の心情の吐露からだが。
つまり、文化祭のなかで起こった十文字怪盗事件の展開に絡み、「夕べには骸に」を巡って傑作とそうでない作品はどう違うのか、その表裏となる才能と凡庸(諦め)とが切実に描かれてゆく。

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蛇足ではあるが、コンテストで仮装したお料理部部長のコメントが実に面白い。この辺の脇役の個性~魅力も忘れてはなるまい(声優陣の充実が挙げられる)。

時折姉のコントロールが強く感じられ、ちょっと何かの秘密機関の諜報員みたいで怖いところがある。
特に「夕べには骸に」を店番している弟のところに絶妙なタイミングで届けるところなど、この人は誰?という感じ。
この「十文字事件」は、その後記の内容と予定され未だ形を見ない「クドリャフカの順番」なしには解決しえないものであった。
彼女は明らかにヒントというより核心をついたものをここぞとばかりに持ってきたわけであるが、、、。

傑作「夕べには骸に」の次に今年発表されるはずであった「クドリャフカの順番」が完全に宙に浮いていた。
「夕べには骸に」の制作に携わったのは、原作者のアンジョウハルナと作画担当の生徒会長陸山 宗芳、その手伝いをした総務委員会委員長田名辺 治朗であるが、田名辺は「クドリャフカの順番」の構想を「夕べには骸に」の後書きで期待を込めて記していた。原作者アンジョウは、転校してしまい、不在である。
だが、その「夕べには骸に」をも超えるはずのアンジョウ渾身の作「クドリャフカの順番」の原稿を、渡された陸山は読んだ気配がなかった。元々、陸山は絵を続ける(漫画を描く)意志はなかったように見受けられる。ほかの二人と陸山との温度差は大きい。
田名辺は、その原稿~シナリオに従い、文化祭の最中を狙い「十文字事件」を起こしてメッセージを送るが、当の陸山は全く気づきもしなかった。50音順に参加団体(者)からこの音の物品(古典部は「綱領原稿」)をターゲットにするが、「く」は抜かす。「く」で始まるものが失われた、というこの田名辺の手の込んだメッセージは、陸山へ向けた絶望的な期待とアンジョウへの思慕の念と文化祭を賑わせたい悪戯心の成せるものであったようだ。
文化祭の最後に陸山は田名辺に単に「お疲れ」と言葉をかける。この虚しさ。
文化祭の賑わいの中でことばのぶつかり合いとすれちがいと宙吊りのままで終わる様々なことばが何とももの哀しさを湛えていた。

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登山家の先生の話は割愛。弘文堂の件も楽しい推理ゲームであるが割愛。おみくじの話も奉太郎が千反田えるの着物姿にぽ~っと見惚れる面白いものだが割愛。バレンタインデーチョコの里志と摩耶花のストイックな恋愛事情も割愛。ことばは実を結ばない。

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3つ目の山、生き雛祭りの話。
「遠回りする雛」桜の幻想が見事に描かれていた。物凄いセンス!
格式ある名家の伝統行事の準備の忙しなさと、面子と仕来り、統制の難しさ、そこに付け込む他者。
それは美しく仕上がった千反田えるの生き雛~女雛。そして入須冬実の男雛。人々が息を呑む。
コースの乱れは、狂い桜が原因であった。
これを見るために帰省してきた写真家志望の若者が、わざとコースを変え狂い咲の桜の近くを生き雛たちの幻想的な行列が通ることでこの世と思われぬ光景に化学反応を起こすことを狙ったのだ。無論、写真に撮るためである。
傘持ちに参加した奉太郎も彼の信条である省エネ主義が脅かされる(しきりに参加を悔やむが後の祭り)。
桜と空のピンクの絶対的光景に、ついに彼のグレーは上塗りされた、、、。

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そして、ここでも奉太郎のえるに対する内面描写はいとも鮮やかであった。
全てをピンクに染める桜と風が素晴らしい効果をあげていた。
このアニメ以外にない演出が極まった。

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これからも多くの優れた仕事を成し遂げたであろう監督の非業の死を心より悼む。





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氷菓 その2

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2012年
武本 康弘 監督・脚本
米澤穂信 原作


                         声):
折木奉太郎(古典部、推理の達人)、、、中村悠一
千反田える(「豪農」千反田家のひとり娘、古典部部長)、、、佐藤聡美
福部里志(奉太郎の親友、古典部、総務委員会)、、、阪口大助
井原摩耶花(漫画研究会、図書委員、古典部)、、、茅野愛衣
入須冬実(総合病院院長の娘、女帝と呼ばれる)、、、ゆかな
糸魚川養子(神山高校教師、司書)、、、小山 茉美
十文字 かほ(荒楠神社の宮司の娘)、、、早見沙織
折木 供恵(奉太郎の姉、元古典部、インドにいる)、、、 雪野五月
遠垣内 将司(壁新聞部部長、父が教育界重鎮) 、、、置鮎龍太郎
田名辺 治朗(総務委員会委員長)、、、福山潤
陸山 宗芳(生徒会長、絵が上手い)、、、 森川智之


古典部初代「氷菓」編集長で、えるの叔父である関谷純が、如何なる経緯でこの文集を作り、学校を去って行ったのか。
権力闘争が熱狂しエスカレートする様がよく窺える。
これは人間の性である。
戦争の原動力とも謂えよう。
たかが文化祭を巡っての学校側の理不尽な縮小通達に対する生徒会の反発・反抗行動であろうが、それが熱に浮かされた暴力による舵のとれない攻防となれば、先は知れている。
大きな逸脱が起きて双方とも驚いて鎮まるとか。
コメディというかギャグに近い。

ここでは生徒たちの焚いた火が格技場に燃え移り、全焼したことで一応の終結をみる。
文化祭は従来通りに開催され、生徒の要求は通るが学校は火災の責任をけじめとして彼らに取らせた。
結局、運動の実質的なリーダーは表には出ず、名目上のリーダーとして祭り上げられていた関谷純が生贄となり退学処分となる。彼は表向きは静かにそれを引き受けた。だが、それに対し誰一人として彼の身の潔白を主張する生徒はいなかった。
彼を学校~権力から生徒の文化祭~自主性を取り戻した英雄扱いすることで学校と生徒双方が事の本質を隠蔽した。
優しい英雄として彼を葬り、その後暫く文化祭は神山祭ではなく関谷(せきたに―>かんや)祭と生徒の中で呼ばれることとなる。欺瞞である(誰が望んでそんな英雄などになるか)。
関谷純は退学を予感したときに、古典部の文集を創刊しその名を無理を通して「氷菓」とした。
「氷菓」~アイスクリーム~”I scream”これが折木奉太郎の受け取った(暴いた)メッセージであった。
そして幼いえるが叔父に文集「氷菓」の意味を問うた時に、その恐ろしさに絶句して泣き出しその記憶を封印した当のものであった。その翌日、彼は姿を消した。
彼は幼いえるに、強くなれ、さもないと悲鳴すらあげられなくなる、それは生きたまま死ぬことを意味する、と説いたという。
その時の記憶を彼女は取り戻し、聞いたときと同様に涙が溢れ出す。

わたしは、このことより寧ろ、えるが優しかった叔父に何を聴いたのか、いつも気になりながらも思い出せないでいることを奉太郎に訴えた際、時が経てばそれも時効になると謂われ、何としても今、思い出そうと彼にすがった事に共感する。
時効でとても大事な思い(しかもそれがどうしても思い出せずにいる思い)が消えてなくなることの恐怖こそ真の恐怖である。
わたしは今を生きている。今(もっとも)気になることは、今それを知りたい。自然である。
これがえるの原動力であった。これが奉太郎をも動かした。

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この後、蛇足みたいな感じで、数学の授業での進度を教科担任が誤ったことに関して、何故そう言うことが起きたのかという推理を奉太郎が行う。何とも些細な日常にフォーカスしたものだと思うが、それをストーリーとしてまた面白く料理してしまう。
このホントに小さなエピソードが京アニらしさを如実に表すところか?
この件で、えるがその数学教師に対し抗議して怒ったことを7つの大罪と絡めて語って特に不自然さを感じさせないところもなかなかのもの。
結局、数学教師ならではの進度を記録する際のD組~”d”とA組~”a”の文字表記の見間違えということであった。確かに在り得る。

それから、部活の合宿で温泉旅行に繰り出す噺が続く。
直ぐにバスに酔ってしまい温泉でものぼせる奉太郎のイベントを楽しめない宿命を摩耶花に指摘される回。
その旅館で首つり自殺が以前あったことを知らされたうえで、その夜女子二人が向かいにある使われていない本館の窓にそれらしき影を観てしまう。当然の流れで奉太郎が推理を頼まれる。えるに頼まれたらやらざるを得ないパタンが確立してゆく。
目の錯覚ではあろうが、どういう錯覚なのか、、、
温泉旅館のふたりの小学生姉妹の性格を捉えたうえでの推理が冴える。
無断で借用した浴衣を雨で濡らしたことが姉に言えない妹が、かつて首つりのあった部屋にそれを干していたのを見たものであった。幼い姉妹の間の大変ささやかな、しかし充分にあり得るエピソードを何か郷愁に染め上げて描いたものであった。
一人っ子のえるの姉妹願望が一瞬揺らぐが、最後に姉が妹を労わる仲の良いところを目にして救われる光景で終わる。

古典部4人が招待されて2-Fの試写会に参加するところから始まる「万人の死角」は圧巻であった。プレ文化祭の回となる。
文化祭で発表する2-Fビデオ映画の脚本家が倒れたということで、撮影が途中でストップしてしまう。
そのピンチを彼らが救うという話である。
これがまたよく出来ている。女帝と呼ばれる入須冬実に最初はオブザーバーとして関わるように誘われるが、結局奉太郎が脚本家のその先の部分を推理するのではなく、推理作家の役をやらされ脚本創作を噺の最後までさせられてしまうのだ。
人心を操ることにかけて特別に秀でているために付けられたあだ名である「女帝」の名に恥じない乗せようである。
奉太郎が終盤、それに気づき怒りを顕わに食い下がるも、女帝は冷静にそれをかわす。
脚本家は、登場人物は誰も死ぬ設定をしていなかったにも拘らず、スタッフたちの暴走で死人を出してしまい、それに意見できずに本を進められなくなる。それを察し冬実が病気ということで彼女を降板させ、その続きを他の者に推理させて最後まで撮り終わろうとする名目であったのだ。しかしそれでも脚本家の考えがまずは第一のはず。入院中であろうとその先のプランくらいは聞き出せるであろうが敢えてそれをせず。

奉太郎としては、途中までの素人臭い映像を忠実に読み取り、他の生徒が批判するカメラワーク・演出の悪さ、稚拙さを彼女の積極的な意図であると受け取り考える。
何処にも死角のない密室殺人のトリックを、カメラを回しながら役者たちについて回る第7番目の役者として撮影件懐中電灯(照明)担当と捉えることで破綻なく見事解決する。
これでカメラが超越的視座をもたず、同時にあらゆる場所から情景を写したりする演出が取れないことが分かる。要所要所でカメラ担当者は光の必要な際に懐中電灯で対象を照らす。これも登場人物たちにピッタリ寄り添って移動する一人の役者であるところから自然な動きであることが分かる。そして他の6人がそれぞれの場所に散った後、彼はおもむろにマスターキーを堂々と取ってターゲットに接触して殺すことが楽々できた。所謂、叙述トリックを敷いていたのだ。

奉太郎の示した線で続きが制作され、誰もが唸る作品に仕上がり、冬実からも感謝される。だが、古典部の他の3人からは、それは奉太郎の作品であっても脚本を担当した生徒の真意ではないことを説かれる。その何れもがもっともなものであった。そして彼らの話を聞いて自分が脚本をテクストとして読み取るだけで、脚本家の気持ちに思いが向いていなかった事を確認する。つまり彼がテクストに向き合っているときに他の3人は脚本家自身に想いを馳せていたのだ。そこから導かれた結論はミステリーより彼女の思いを反映させた随分とロマンチックな内容であった。もう撮り終えた後であり、再考する意味は失せたにもかかわらず奉太郎は食い下がる。
(恐らく冬実の真の意図は、脚本自体が面白くないため極力誰も傷付けない形で、それをうまく書き換えて上映し成功させたかったのであろう)。
奉太郎の「やらなくてよいことはやらない」モットーは、えるや冬実さらに姉のお陰でとっくに破綻していた。


思いの外長くなったので、文化祭の回は、明日にでも、、、。



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氷菓 その1

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2012年
武本 康弘 監督・脚本
米澤穂信 原作


                         声):
折木奉太郎(古典部、推理の達人)、、、中村悠一
千反田える(「豪農」千反田家のひとり娘、古典部部長)、、、佐藤聡美
福部里志(奉太郎の親友、古典部、総務委員会)、、、阪口大助
井原摩耶花(漫画研究会、図書委員、古典部)、、、茅野愛衣
入須冬実(総合病院院長の娘、女帝と呼ばれる)、、、ゆかな
糸魚川養子(神山高校教師、司書)、、、小山 茉美
十文字 かほ(荒楠神社の宮司の娘)、、、早見沙織
折木 供恵(奉太郎の姉、元古典部、インドにいる)、、、 雪野五月
遠垣内 将司(壁新聞部部長、父が教育界重鎮) 、、、置鮎龍太郎
田名辺 治朗(総務委員会委員長)、、、福山潤
陸山 宗芳(生徒会長、絵が上手い)、、、 森川智之

ライトノベル~TVアニメ~実写映画と流れて作成されている作品であり、今回は全22話のTV版を観てみた。
(いつもながらノベルの方は未読)。

監督は、京都アニメーションにおいては「らき☆すた 」、「涼宮ハルヒの憂鬱」の監督も務めている。
更に「日常 」、「中二病でも恋がしたい! 」、「たまこまーけっと 」、「Free!」、「境界の彼方」、「響け! ユーフォニアム」、「無彩限のファントム・ワールド」、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」、、、等の演出、作画も精力的に行っている。

声優陣がとてもゴージャスで有名な作品でもあるらしい。
確かにそのせいか、アニメ門外漢のわたしにも大変心地よく物語に入り込むことが出来た。
精緻に描かれたキャラの表情・動きに声がよく合っているというレベルを超えた融合~調和を感じる。
つまりこの二次元の表現芸術がとても身体的に自然フィットするのだ(わたしはいつも多少の違和を感じるのだが)。
特にこの「声」に馴染んでしまうと実写~役者がやるのはきつくなるはず(実写への展開の難しさは実はこの「声」ではないか)。
(この物語は殊更、ことばに拘り、ことばを大切にしている)。
表情の細やかな変化~内面の変化は役者の技量でこのレベルの演技は可能であろうが。

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「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に」
折木奉太郎、とてもよいモットーだ。
しかし千反田えるが彼を焚き付け難問推理にあたらせるうちに、自他ともにその推理・洞察力を認めることになる。
そのため徐々に非効率的なエネルギー消費に自ら向かってゆく羽目となる。
確かに才能は、こういった形で引き出されてゆくことが多い。
(彼の姉はどの辺まで計算して彼を古典部に入部させたのか?)

「わたし気になります!」
あの目を綺羅めかせ訴えられると、取り敢えずは真実はどうでもよいが、えるを納得させる必要は感じてしまう。
奉太郎の必死さは分かる(笑。この時点で省エネモードはすっ飛ぶ(笑。
探求よりディベート要素もかなり感じるところでもあるが。
これで奉太郎も覚醒して行き、グレーの生活信条からピンクも良いなと思い始めることに繋がる。
えるは奉太郎に対する信頼度が高まり摩耶花も彼を大いに見直してゆく。
元より奉太郎に一目置いている里志はジェラシーを覚える。大らかで開放的に見える彼は自分の力を限定しており、「データーベースは答えは出せない」というのが口癖である。奉太郎につられ彼も揺らぎ始める。

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この作品も「無際限のファントム・ワールド」や「境界の彼方」と異なり、日常のディテールを静かに丁寧に拾ってゆく。
それこそ、えるの髪の毛の動きひとつも見逃さないくらいに。
すべてが微細な感情表現に連動する。
ひとつの動きが様々な関係性に広がって行く。

そうか、こうしてアニメーションというものはつくられてゆくのか。
ふと、合点したような気になる。

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古典部の文集「氷菓」がどういう経緯で作られたのかを、45年後の部員が解いて明かすという謎解きはとても粋である。
この第五話までの流れはとてもワクワクした。
また古典部の面々がストイックで直向きなのが微笑ましくもあった。
彼らはいつの間にか、よい高校部活生活を送っている(奉太郎などまさに姉の思う壺ではないか)。
特にえるのお屋敷で開く限られたテクストから抽出する各自の読み取りと仮説の発表。
今更ながら、わたしは羨ましい。
こんな経験は各自にとっての宝となるはず。
そしてここで奉太郎のまとめた物語の整合性に皆が感心し納得する。

しかし、失踪した彼女の叔父、関谷純の人物像にえるが感情的な齟齬を覚える。
実は奉太郎もそうであった。物語に理屈の上での破綻がなく綺麗にまとまっても、えるが納得しなければ意味がない。
これはえるの深層心理に沈んだ叔父の物語を白昼の元に引き上げる作業なのだ。
えるの感情を揺さぶれないことには、感情が納得しなければ、まだそれが真相に迫り切れていないことを意味した。
ここからの展開が一つの山である(時折、姉がインドから超能力者のようなヒントの電話をくれるところには笑ったが)。
とてもリアリティがあって良かったと思う。



犠牲~生贄を生む構造とはそうしたものだ。
当時がそんな風潮であったかと言えば、そんなことはなく寧ろそれは歴史的な問題というより人間社会にはいつでも起こりうる不条理な事件である。わたしは、こうしたことは今でもいくらでも起こりうると確信をもって謂える。
"I scream"のダジャレは、こちらも言われる前に気づいていたが、そんなことはどうでもよい。
感動した。

ひとつ蛇足であるが、何も限られた僅かなテクストから真相を掬い出すだけでなく、狭い街のようであるし当時の事件にかかわった年配の方からの証言を取って回っても良かったのではないか?個々の受け取り方の差はあろうが、より生々しい情報が得られる可能性は高いと思われたのだが、どうなのであろう?それはNGなのか?



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PRE「氷菓」

hyouka001.jpg

2012年~
武本康弘 監督

折木奉太郎 、、、中村悠一
千反田える 、、、佐藤聡美
福部里志 、、、阪口大助
伊原摩耶花 、、、茅野愛衣
折木供恵 、、、雪野五月
遠垣内将司 、、、置鮎龍太郎
入須冬実 、、、ゆかな
糸魚川養子 、、、小山茉美


今現在、パソコンで「氷菓」の21話まで観終わった(昨日から観始めて)。
明日、最終話の22を観てから、山﨑賢人, 広瀬アリス主演の実写版も(余裕があれば)観てみたいと思う。
一日に、短いTV版であろうと、こんなに観れない。
いろいろやることもありビデオだけ眺めて一日中過ごせる訳ではない。
非常によくできた話であるため適当に流して観れない。
作画が「けいおん!」に劣らず良い。
「響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ」と同じくらいか?
絵がよくできているため、内容に深く沈潜できる。

5話までの古典部文集「氷菓」初代編集長の関谷純(千反田えるの叔父)の人物像を巡る展開だけで充分な気がしたが、その後も大きな山が二つも現れる。最後にまた現在の文化祭から文集「氷菓」に戻り、見つからなかった創刊号(の内容にも触れること)で絞めて、終わるのかと思いきやそうではなかった。
そのまま先へと展開して行く。
灰色だとか省エネとかいろいろ謂いながらも、綺麗な桜の咲く中、折木奉太郎 と千反田えるの希望に満ちた終わり方となる。
こういう方向性なのね、と思った(がっかりしたわけではないが)。

映画版は5話までの関谷純の人物像を追った「氷菓」に絞り込んだ内容となるはず。
そうしないとダイジェスト版みたいな構成になり、薄っぺらいものしかできないはず。
ただしキャストが心配である。少しオリジナル(高1)設定ではキツイのではないか。
(それも演技力によるか?)

明日から特に印象的であった事柄を拾って簡略な感想を記してゆきたい。



ファントムワールド

Phantom World004

夢と現というが、われわれの現実が脳~言語作用の作り出す画像そのものであれば、どうであろう。
ただ、「その世界」があるのみである。
表象とは悉くそうしたものであろう。

するとしかしわれわれに果たして外部~他者というものが可能であるか?
それには自己対象化能力~空間に対する感覚(距離感)如何であるところは大きい。
少なくともわれわれの現実は、自らが作り上げた~投影した、ファントムである部分が不可避的に含まれると考えた方がよい。

「無際限ファントム・ワールド」は目一杯、娯楽性を高める形でそれを表していたが、実際の日常には愚劣なイメージの相克に終始する場合が多い。わたしも愚劣極まりないイメージの投影から酷い迷惑を被った経験がある。


今日は京アニの「氷菓」(TV版)を6話まで観たが、学園ものドラマとしてこれほどの水準のものを見たことない。
勿論、学園ドラマを見たことは少ないとは言え、瞠目する内容と表現形式~演出の妙であった。
斬新なキャラクタも創造し、日常の時間をここまで精緻に描きだせる制作集団はこの他にあるだろうか。

「氷菓」でいよいよこの京アニの途轍もなさが実感できた。
と同時に、京アニの熱狂的なファンと批判的なアニメファンの存在も強く意識した。
これだけのものを作れば当然、両者が生まれることだろう。
しかしそのどちらも、適切な距離(空間性)を保って対象に接していたはずである。


今回、スタジオを襲撃した者は、その距離感を持たない(対象化できない)ことが分かる。
自らが生み出したファントムを現実とする者であった。
自分が応募した原稿が選ばれなかったくらいで逆恨みをする人間は恐らくそうはいまい。
もし確信をもった自信作が相手にされなければ、普通ならファンをやめる方向に行くであろう。
そんな選択肢自体がこの男には存在しなかった(「俺にはそんな余裕がない」という叫びがもはや他の世界がないという魂の叫びに受け取れる)。

その男は間違いなく「京アニ」に熱狂し、激しく愛していた(自宅の京アニグッズなどからも)。
しかし愛憎は表裏一体のものである。
この男の憎悪は、強い愛情の裏返しの狂気に相違ない。
距離を持たない~自己対象化の経験の欠如した者の及ぼす悲劇。
他者に対する空間感覚の欠如が大きな悲劇を生んだ例だ。

こういったことは日常にたくさんある。
この世はファントムだらけである。
子供に対する他者感覚の微塵もない(距離のない)親もはっきり存在する。
こうした親は、間違いなく子供の魂を無意識に殺害する。
このような親と全く同質の精神構造の男と言えよう。
ジョンレノンを殺害した男も彼の熱狂的なファンであった。





”Bon voyage.”



金沢国立工芸館「ポケモン×工芸展」6月11日まで。人間国宝の実力派作家たちが新たな解釈でポケモンを創造。

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