赤い風車

Moulin Rouge
1952年
イギリス
ジョン・ヒューストン監督・脚本
アンソニー・ヴェイラー脚本
ピエール・ラミュール原作『ムーラン・ルージュ』(ロートレックの伝記小説)
ホセ・ファーラー、、、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、ロートレックの父(アルフォンス・ド・トゥールーズ=ロートレック伯爵)
クロード・ノリエ、、、アデル・ド・トゥールーズ=ロートレック伯爵夫人
コレット・マルシャン、、、マリー・シャルレ(屈折した娼婦)
シュザンヌ・フロン、、、ミリアム(自立した聡明な夫人)
ザ・ザ・ガボール、、、ジャンヌ・アヴリル(人気歌手、ダンサー)
ミュリエル・スミス、、、アイシャ(アフリカ系女性ダンサー)
キャサリン・カス、、、ラ・グーリュ(スターダンサー、アイシャと犬猿の仲)
ジョルジュ・ランヌ、、、バルタザール・パトゥ刑事
画面が全体的に白んでいたが、映画そのものの色彩は綺麗であった。
当時のムーランルージュの活気に溢れた退廃的な雰囲気が充分に溢出していた。
同じ題名のミュージカル「ムーランルージュ」より遥かに良かった。
ロートレックの名作も幾つも出てきてホッとする(伝記映画なのに本人の作品がほとんど出ないものもある)。
ホセ・ファーラーのロートレックが渋い(本物はもう少し剽軽なところもあったのでは。貴族の品格はよく窺えた)。
ロートレックはわたしの思い入れの深い画家であり、どう描かれるかは大変気になる存在である。
病を気にしてお屋敷に連れ帰ろうとする母に対して、わたしはこの街に友達がいると言ってあげた名前がゴッホであった。
やはり天才同士、しっかり認め合う仲であったのだと思う(彼とゴッホが気が合うことは、美術関連書に散見されるが)。
(作風と題材はあまりに異なるにしても)。

ロートレックのアルコール漬けの自意識は、適切な態度、行為の決定が出来なかったと謂える。
最初のコレットにスウィッチを入れられたところで、思いっきり飛んでもよかった。
もう失うものなど何にもないという覚悟で軽やかに。
まさに”ダダ”である。
まだ大貴族であることと身障者であること(の拘りの自意識)から抜け出せない。
あれだけの才能を持ってしかも作品が認められつつあったのだ。
親の庇護を受けずとも自分の描いた絵で堂々と自立できるところまで漕ぎつけていた。

レッテルを外した単独者としてジャンプできるところまで来て、逃避の為に依存していたアルコールにやられてしまう。
皮肉なものだ。
ミリアムとしなやかな意識による関係が作れなかったことが敗因である。
人はそれぞれ違う。
コレットはロートレックとは成育環境は途轍もなくかけ離れてはいるが、自意識の壊れ方はロートレックに勝るとも劣らない。
惹かれ合うものがあってもそれは愛情とは別の心的現象であり、お互いに消耗し合い潰れることは最初から運命つけられている。
しかしミリアムは確立した自我を持った聡明で自立した女性であり、ロートレックにとってはこの上ない存在であったはず。
彼もそのことは分かっていながら意固地になってしまった。意識が強張っていた。
自己解体を恐れ逃げてしまった、、、。
後の祭りである。
前に失敗して大きな痛手を負っていても、次のチャンスに対してはまっさらなこころで受け止めるしなやかさがほしかった。
何が邪魔をしたのか、、、。
彼の自己保全意識もそうだが、ここではアルコールが大きい。
彼の意識~精神を曇らせ、生命も奪ってしまったものだ。
これではやり直しも効かない。
生きてさえいれば、何度でもやり直しは、出来るのだ。

ロートレックのような画家には少しでも長く生きていてほしかった。
しかしこの病的で甘美な腐臭漂うパリの雰囲気はまた格別である。
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