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GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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桜の長い一日

Sakura001.jpg

今日は早朝から長女のスケート、帰ってから洗面所の蛇口の件でメーカーのショールームに行く。
蛇口の具合がここ4か月調子が悪く、放置していたら益々悪化してきたので、結局本体の取り換えとなった。
それから、娘二人連れて、長女の絵の展示場に行く(前回遠藤先生の講演会の時には私ひとりであった為)。
担当の方と話をして、展示されていた超高画質コピーを会期が終わったら頂くことになる。
原画は返らないので、これは嬉しい。
嬉しいと言えば先生と個人的にお話しできたことに尽きるが。


丁度、お昼となったのでインド人経営のカレーの店でキーマ、チキン、野菜カレーを食べる。
ナンが凄くデカいサイズだったが、お替りして食べきる。
ふと思い出したが妻と初めて食事をしたのが、こんなメニューだった。
ギュスターブ・モロー展で絵を鑑賞した後のことだった。

帰りに貰ったくじを引いたら長女が食事券を当てた。
長女は籤運が強い。

そのまま帰るのは勿体ないというところで、ピアノの先生に以前、紹介された恩田川の桜の件を思い出す。
考えてみれば、すでに今日ここまでずっと、桜に塗れてきた。
早朝から常に視界に桜が充満していた。
どこもかしこも桜なのに、敢えてまた桜を見に行くと謂うのもどうかと思ったが、行くことになった(笑。


満開ではないが見事な桜並木が何処までも続く。
娘たちはしきりに桜の写真をスマフォで撮るが、わたしは気が進まなかった。
(ピアノの先生のスマフォで観た時はかなりロマンチックで落ち着いた桜であったのだが)。
ひたすら桜のなかを、いや下を歩いた。
風はなく花弁も全く散らない。
次女が至る所に苔の生えていることに気づき、何故か喜んでいる。

 長い道のりである。
ただ歩いた。
凄い人だかりである。思えば今日は日曜日であった。
酒で赤らんだ客も目に付く。

途中の公園ではいい感じのジャズヴォーカルが聴けて気持ち良かった(スタンダートナンバーばかりであったが)。
そうか、桜とジャズはかなり似合うものなのだ。
粋なBGMではないか。
、、、この川はホントに長い。
ついに最後まで歩かずに切り上げることにする。
それでも相当な距離を往復し、足も疲れたものだ。

帰りの電車では彼女らは思いのほかへとへとだったのか口もきかなかった。
駅に着いてコーヒーラウンジでコーヒー、オレンジジュースを飲み、ついでに上の階の美術の催しを覘く。
子供向け美術展という感じでワークショップもやっていた。

また地元の桜を歩きながら眺めて帰ろうとしたら、娘たちが疲れたからバスで帰るとせがむ。
しかし乗ったは良いが、渋滞で一向に前に進まない。
今度は降りたいと泣きついてくるので、まだ乗ったばかりなのに適当なところで降ろしてもらう。
(すでにバスの運行は時刻表からは切り離されていることが分かる)。

家まであちこち寄り道しながら帰った。
祭でもないのに、祭りの屋台が幾つも出ていて、そのなかで何やら間延びした不思議な電子音を奏でるミュージシャンがライブをやっていた。曲が終わると、さあ、サインの時間です~と言って観客にサインを始めた様子。
桜に遮られていて声の主である女性ミュージシャンが誰なのか分からず仕舞いなのだ。
選挙のビラ配りと演説もそこに交じって来た。
ノイズとノイズの絡み合い。いや不協和音。

だがすべての絵が桜塗れであった。
桜の画面のなかで様々な事物が渦巻いて一様に見えた。
ちょっぴりボッチョーニの街頭の絵みたいだったが、、、
交通は酷い渋滞であった。


わたしたちは、早く風呂に入りたいという気持ちで一緒だった。





マジックアワー Ⅱ

Klee001.jpg

何かの拍子に、名前(題名・作曲者)を忘れたことで音楽の生々しい本質力の及ぼす美に痙攣し圧倒された経験がある。
覚えている限りでは、それ一度きりなのだが、、、。
今となると極めて宗教的な体験に思える。

絵~画像についてはどうであろうか。

これは確かに難しい。
ゴッホなど一目で特徴は判ってしまう。忘れようがない。彼ほどでなくても大概、画家の場合は分かる。
(視覚的表象についてはその表現形式から言って厳しい)。
画家自身について何も知らないのに彼(彼女)の作品であることだけは判ってしまう。
その判り易い「ゴッホ」でも、その人物についてはほとんど何も知らないにもかかわらず。
何が分かってしまうのか、、、極めて記号論的な認知のレベル。
安物クイズ番組的な。

ゴッホの謎の死については勿論、1889年に描いた「星月夜」の夜空の中心にある異様なうねりについても心理学的な解釈がせいぜいのところ。
精神的に衰弱~混乱していた所謂、異常~妄想がそうさせたと、、、。
彼は肉眼では見えない渦巻星雲をそこにしっかりと感知していたのかも知れなかった。
(その当時まだ一部でしか知られていない天体現象)。
彼は異常に気象や天体に対する感覚が鋭敏であった。
独特の緑の空と海についても、、、南フランスのほんの一瞬のマジックアワー、、、知る人ぞ知る色を捉えていた。


一番、理想的なのは、何も知らずに初めて「それ」を見る事なのだが、、、。

多くの場合、名前(名称)~言葉(に纏わりつく卑俗なイメージ)が被ることでその本来のアウラが掻き消えている。
もう一度、その世界を未知のトワイライトゾーンに見る事は叶わぬか。
何であっても一たび知ってしまったら元には戻らない。
再度、新たな表象の生成をよぶ方法は、、、。

narahara001.jpg




Marc001.jpg





Giacomelli001.jpg





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マジックアワー Ⅰ

わたしの~ ”マジックアワー” ~ 又はトワイライトゾーン


Gogh001.jpg



Ansel Adams001



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Atget 001




遠藤彰子先生と語る

endo003.jpg

やっと本来のテーマに戻った。
当ブログは、美術ブログであって、葬式について語る場所ではない(笑。
(わたしが勝手に語っているのだから仕方ない)。

本日、日本を代表する画家である遠藤彰子先生の講演会に出席した。
予約席は直ぐになくなったということで、通知を貰ったところで早めに電話を入れておいてよかった。
遠藤先生のお話が拝聴できるとなれば、直ぐ満席となるのは分かる。
わたしは美術の教科書で先生の絵を初めて見たときからの大ファンである。
相模原市民ギャラリーで巨大な絵を幾つも観た時のインパクトはずっと残っている)。

2年に1度開催されるカナガワビエンナーレで、前回の「国際児童画展2017」の小展示会の会期中、タイアップして審査を務めた遠藤先生の講演会が設けられたということである。
今10歳の娘が7歳の時描いた「かめとの遊び」のコピーがデンと飾ってあったのには、びっくりした。
(他の絵は全てオリジナルであったが)。
娘の本物は別の展示場に飾ってあり、ここではコピーがパネル化されて飾られていた。
わたしはその絵の関連だとは思っておらず彼女が最近、他の展覧会で受賞した絵かと勘違いしていた。
少し忘れかけていた絵であったが、長女が受賞した最初の絵であったので、感慨深いものである。
88か国から25000人を対象とした絵画展で、「独立行政法人 国際交流基金理事長賞」という覚えられない賞を貰ったものだ。
(「国際児童画展2017‐Ⅰ」、「国際児童画展2017‐Ⅱ」)

大画家でありながら威圧感や高圧的な態度など微塵もなく、誰にもとても暖かく気さくに接する姿勢に先生のお人柄だけでなく、全ての物事を等価に観る姿勢~哲学が基調として窺えた。

今回は子供の絵を形作る「感情」の力に力点をおいて話されていたことがまず印象に残る。
(特に10歳に満たない子供に特徴的な点である)。
確かに感情によるイメージの喚起力は独特であろう。
ものの大きさ、色彩、形体~構成は謂わば、感情の文法に従い生成・再現される。
この面白さ素直さ力強さを強調しておられたが、われわれも納得するし同感だ。
ここに客観的な写実~遠近法の入り込む余地はない。
(しかしこれは単に、その描写法~システムを知らないところから来ているとも謂える)。

子供は遠近法により空間を整序することを成長するにつれ自然に学んでしまう。
そこに配置されるモノ同士の関係や色彩、個々のディテールの描写も写真的な画像へと写実されてゆく。
(これは画一化や形骸化にも繋がる恐れも孕む)。
では、そのなかで如何にまた感情を揺り動かす「絵」が可能となるか。
ピカソのように方法論的に人の原初的イメージに回帰する表現もひとつであるが、わたしの質問に対して先生がお答えになった、写実を徹底して進める方法もあるということだ。
今、娘は写実段階にはっきり(ある意味、不可避的に)進んでいる。
余計な口出しはせず「寄り添いなさい」ということである。
凄い写実が生まれる場合もあると。

謂われていることは、単なるスーパーリアリズムとかいうレベルではない。
写実が極まって異化された現実の次元だ。
小説でいえば、カフカのような。

では、先生はどのような方法論~突破口を開いているかというと、、、。
人同士や物との関係が極めて歪となった現代が抱える不安や焦慮を無意識の層まで降りて描き尽くそうというものである。
絵は元々形式上それがやり易い。
もっともダイレクトに出来るのは音楽かも知れないが。
それには自由自在な表現を可能にしなければならない(集合無意識を扱うのなら)。
そこで、「重力のコントロール」を導き出す。
空間には遠近法の消失点が複数あり、上下左右も任意となる。
しかし元々われわれの宇宙とはそうしたものだ。
運動も然り。全てが生々流転する壮大なうねりの中にあり、それはまた循環~回帰してゆく。
そう、永劫回帰。
この自由自在な表現~重力コントロールを可能とするには不可避的に巨大画面を要請することとなった。


これは先生が幼少時に家の前の路面にロウセキで毎日描いていた「何処までも続いてゆく鉄道」の絵の集大成に向ってゆく。






家族葬が良い

piano.jpg

今回、初めて家族葬を経験した。
わたしは葬式の詳細など全く知らないが、参加した範囲で感じるところは、うんと近しい親族のみというのが良いと謂うのではなく、単に人数が少ないというところでホッとしたということだ。
遠い親戚すら来ていない。
いい感じ。

わたしは人混みが苦手なのだ(だから渋谷にも滅多に行かない)。
もう随分前になるが、父の葬儀の時に普通の形式で執り行うのだが、なるべく小規模にやりたいと思ってさして人に連絡もせずに準備を進めたのだが、結局550人来てしまった。
粗供養品も途中で補充するはめにもなる。
だがそんなことは実際どうでもよく気になる件にかかずらっていた。

弔辞やあいさつ文に専念しており、作った文の暗記練習を直前まで歩き回りながらしていたのだ。
喋るのに、メモ書きなど一切見たくはなかったので。
しかしタモリは凄い。8分間だったか紙の文面を読んでいるフリをして、すべて暗記した文章を流暢に語っていた。
紙は白紙であったのだ。
相手が赤塚不二夫だからそれくらい粋なことをやらねばと思ったのだろう。
わたしの場合は、そういった類の遊びの情熱を掻き立てられる対象ではなかったので、発想自体浮かばなかったが、責任は果たさねばならなかった。
至極、真っ当な形で(笑。
結局、首尾よくいったが、忙しかった。

噺が逸れたが、こういう環境だと実質何も語るに及ぶまい。
それも良かった。
今度わたしが喪主のときはこれでいこうと思う。
母もそう望んでいるようで、すでにその件を文にしたためているらしい。
つまり遺言である。

火葬場に移動し炉から焼骨が出てくるまで、食事をして待つが、その食事の場もとてもこじんまりしていて気持ちが落ち着く。
別に故人のことを普段ほとんど疎遠の親戚と話すほどのこともなく、ゆっくりと食事に専念すれば良かった。
実際、何が語られていたか定かでない。会話の中心の群れからすると末席を取っていたこともあり。
懐石弁当が豪勢でとても美味しかったが、隣に座った名前も知らぬ親戚のご婦人が、すかさず「おいしいわね~」と声をかけて来た。
こちらはこっくりと頷いた。
本当に美味しかったが、6つも余っていた。
骨を拾うまではまだ無理だと言う妻の判断で彼女が娘2人連れて花入れの儀式後帰ってしまっていた。
(娘たちは食べたいだろうな~と思ったが)。
それから来るべき一家族が来ず仕舞いだった。

例の夫人もこれが気になっている様子なのだ。
「このお弁当持ち帰って、夕飯にいいわよね~」と声に出して言ってきたのには流石に戸惑ったが。
その後、給仕の係にこれ持ち帰れない?とダイレクトに聞いているではないか。
ちょっと驚く。何と言うかホワンとした食事の平安から覚めて我に返ったような微妙な空気に呑まれた。
こころに浮かんだことをそのまま口にするタイプの人らしい。
お茶目である。

係の女性はやんわりと、保健所に叱られてしまいますもので、、、と笑顔で断った。
あら、刺身は無理だろうけれどね~、と呟き、暫く落ち着かない感じであった。
するとふいにこちらに向き直り、〇〇ちゃん(わたしの名前を呼び)、エッチャンの時には必ず呼んでね、きっとよ、、、と念を押してくるのだ。
真顔である。エッチャンとは、斜め向かいでしきりに喋っているわたしの母である。
苦笑いしかなかった(爆。
「こんな豪勢なお弁当は出せないと思いますよ」と喉まで出かかったが、やめてまた頷いておいた。

その時は、食事も簡易版にしようかな、と思う。
必ず余りは出るもので、捨てることになるのも忍びない。


次のこころの準備を静かにした。


blue sky







デビル

THE DEVILS OWN001

THE DEVIL'S OWN
1997年
アラン・J・パクラ監督
ケヴィン・ジャール原案・脚本

ハリソン・フォード 、、、トム・オミーラ(警官)
ブラッド・ピット 、、、フランシス・マグワイヤー、偽名:ローリー・ディヴァニー(IRA闘士)
マーガレット・コリン 、、、シーラ・オミーラ(トムの妻)
ルーベン・ブラデス 、、、エドウィン・ディアズ(トムの相棒の警官)
トリート・ウィリアムズ 、、、ビリー・バーク(武器商人)
ナターシャ・マケルホーン 、、、ミーガン・ドハティ(IRA女性闘士)

あの「ソフィーの選択」の監督である。


北アイルランド問題が英国のEU離脱によって再燃する懸念が持たれている昨今、丁度それを扱った「デビル」がデッキに入っていた。
「アメリカのお噺ではなく、アイルランドの話なんだ」をどれだけ理解するかというところが肝心か。
北アイルランド問題は「宗教問題」を超えた経済(利権・政治)問題を孕んだ問題と化している。

更に最近も話題となっている警官の誤射である。
トムの相棒のエドウィンが逃げる丸腰のコソ泥を背後から撃って殺してしまう。
普通の市民が止むに止まれぬ状況で銃を撃たねばならぬケースと職権乱用で何の思慮もなく発砲して疑わしい者を射殺するケース、そして自分の欲望でいとも簡単に人を惨殺する闇の武器商人たちとの対比も表す。

THE DEVILS OWN002

実際彼らの活動は、IRAに潜入していたMI5の諜報活動や王立アルスター警察隊 (RUC)の武力により鎮圧されていたが(その後は政治活動にシフトしてゆくが)、この映画でもフランシスの仲間は悉く殺されてゆき、最後は彼の文字通りの孤軍奮闘となっている。

彼は8歳の時、家族の目の前で父親を射殺されている。
父はIRAシンパであった。
撃ったのは警官であったという。

長じて彼は極めて自然にIRAの際立った闘士となっている。
(つまりは武力による報復に走る~政治的解決や解消は見限った)。
当然国際テロリストとしてマークされる身であった。

ニューヨークに住む定年も近い警官トム・オミーラ宅にフランシス・マグワイヤーはIRAシンパの判事の手引きにより居候として入り込む。トムは銃は警官となってから4回威嚇射撃をしただけで、一度も人を撃ったことがないことを誇りとしている実直な男である。
フランシスは偽造パスポートのローリー・ディヴァニーという純朴な青年となっている。
直ぐにオミーラ家の家族とも親しく打ち解け良い関係を築いてしまうが、ローリー自身、トムを父に重ねシーラや娘たちを本当の家族同様に感じていたことが分かる。
しかし表向きは建築関係の現場仕事に就き、IRAの反撃のため武器と資金の調達を目的としていた。

闇の武器商人ビリー・バークを通して地対空ミサイルを購入する予定であったが、直前にIRAの内部情報が漏れたことが分かり一時取引を凍結する事態になる。
その際に、トムの家に強盗が入ったことで、トムにローリーの素性が知れてしまう。
ローリーはトムに全てを打ち明ける。だが、トムは彼の計画は断じて認めない。
入った賊はビリーの回し者であった。ローリーはその組織に独りで立ち向かい彼らを殲滅する。
しかしローリーいやフランシス・マグワイヤーの追手は強大である。

トム・オミーラは負の連鎖を断ち切り、しかもフランシスの命を救い(解放し)たいと願う。
それには彼の手で逮捕するしかなかった。
FBIや警察、RUCは彼を手段を選ばず消すことが目的であることをトムはよく知っている。
まして武器を携え国に戻りでもしたら命はないことはもはや明白であった。

フランシスの向かった先を彼の同士で恋人でもあるミーガンから聞き出したトムは彼の逮捕に駆け付ける。
(恋人も闘争より彼の命を優先した)。
彼は丁度、武器を船に積み込み岸を離れるところであった。
しかしそこで、両者の意に反し銃撃戦となってしまう。

結局、トムは肩を負傷するが、フランシスは致命傷を負ってしまった。
「きみとわたしはこういう風に終わってしまうのか、、、」

THE DEVILS OWN003

「銃を持てばいつか撃つ」(フランシス)
結局そういうこととなる。

虚しく、トムが船を岸へと向け舵を取るところで終わる。


北アイルランド問題を扱った映画が他にもあることは知っているが、これはその複雑な宗教・政治情勢を細かく分析する類の映画ではなく、寧ろ暴力による復讐という負の連鎖の起こる必然性とその虚しさを描くところに力点を置いた作品であろう。
が、この2人の名優が出ているにしては、今一つ強烈なインパクトに乏しい感は拭えなかった。



祈りの幕が下りる時

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2017年

福澤克雄 監督
李正美 脚本
東野圭吾 原作『祈りの幕が下りる時』

阿部寛、、、加賀恭一郎 (刑事)
松嶋菜々子、、、浅居博美 (舞台演出家)
溝端淳平、、、松宮脩平 (恭一郎の相棒刑事)
小日向文世、、、浅居忠雄 (博美 の父)
山﨑努、、、加賀隆正 (恭一郎の父)
桜田ひより、、、浅居博美(14歳)
伊藤蘭、、、田島百合子(恭一郎の母)


わたしは、このような映画(TVの2時間刑事ドラマみたいなもの)は苦手だ。
どうも同調できない。
その演出とかに問題があるのではなく、何と言うかこのような詰め込みドラマについてゆけないのだ。
はなしも実はちんぷんかんぷんで共感するとかいうレベルではない。
元々情念渦巻く人間ドラマには生理的嫌悪感が先に立ってしまうのだが、これも例外ではない。
特にマザコンである。
筋や推理をいちいち追う気も起きない。
あまり見たい類の映画ではなく、入り込み難いのだ。
もしかして、このシリーズを前からずっと見ていないと分からないのか、、、
この独特の感触。慣れの問題でもない。

阿部寛繋がりで軽い乗りで見てみようと思ったのが間違い。
Amazonプライムでタダだが。
確かに最初から真面目な顔をしているではないか。
「テルマエ・ロマエⅡ」にするべきだった。

音はつまらなかった。
小日向文世と桜田ひよりの演技が凄かった。
確かに小日向さんはどんな役でも独自の世界観を見せてくれる。
父とはこういうものだと想わせる説得力を生んでしまう。
娘の幸せだけを願う優しくて強い存在。
だが、わたしだったらあのような方向に走るかと我に返って?考えるときっと違う角度で逃げると思う。
恐らくわたしの逃げ方ではドラマチックな悲劇にはならないため、お話にはならない。
(コメディにはなるか?)

若い女優は実力者が多い。
ただ、松嶋菜々子の子供時代には見えなかった。
小日向さん相手のトンネルでの迫真の演技は特筆ものだ。
浜辺美波もうかうかしていられない。
(これ、すでに何処かで書いた(「ミスミソウ」で、、、笑)。

そう、どこかで、この映画が「砂の器」へのオマージュというのを見た。
なるほどねと思った。
その映画はわたしのもっとも苦手な部類の映画である。
それをリスペクトしているのか。
通りで、である。
その映画も音楽がとても酷かった。


ひとつ事件の真相を追う加賀がもう関係するすべての人間を調べ上げたとしたうえで、後に残るのは誰かと自問したところ、それが自分だということに気づく件は、ふと同調した。
夜の街路上に覚束なく立って、車の行き交う危うい雰囲気と共に惹き付けられる絵であった。
父の最期を知る看護婦から聴いた父の真意に打たれ、それが浅居博美の父への洞察~直覚に繋がる点はよく分かった。
犯人を探るということは即ちそうした人間の洞察力の深まりに呼応するものだというところ。
(看護婦が警察の覆面捜査官みたいな役割を果たすというのはどうかと思うが、彼女の介入なしには恐らく博美~忠雄のDNA鑑定の線は出なかったかも)。

12の橋を父娘の密会の場所とするのも面白いアイデアである。別々に携帯をかけているように見えるところが絵としても良い。
ホテルは確かにまずい。博美はもう有名人で顔が一般に売れているのだし、直ぐにマスコミに嗅ぎつかれてしまう。

また、長い期間(ここでは26年間)逃げ続けながら稼ぐ事の出来る職業として全国の原発を回るというのもなるほどと思う着眼だ。
若々しい頃の姿から原発仕事を続けるなかで年老い疲弊してゆく姿を見事に表した小日向の演技力も素晴らしい。

それにしても川べりのビニールハウスで娘が父を絞め殺すまでいかなくても別の解決法があったとは思う。
しかしその流れに同期して彼女は「異聞・曽根崎心中」を演出していたということは、すでにこういう幕引きを予期していたように受け取れもする。
人と謂うのは、恐らくそういうものだ。



テルマエ・ロマエ

THERMAE ROMAE001

THERMAE ROMAE
2012年


武内英樹 監督
武藤将吾 脚本
ヤマザキマリ 原作
住友紀人 音楽
ラッセル・ワトソン 主題曲「誰も寝てはならぬ」

阿部寛、、、ルシウス(古代ローマ帝国の浴場設計技師)
上戸彩、、、山越真実(漫画家志望の派遣社員)
北村一輝、、、ケイオニウス(次期皇帝候補)
市村正親、、、ハドリアヌス (第14代ローマ皇帝)
宍戸開、、、アントニヌス(次期皇帝候補)
笹野高史、、、山越修造(真実の父)

BSで入っていたので、観た。

”トゥーランドット”(プッチーニ)がとても良い感じで何度も聴ける。

何故か知らぬが感動してしまった?
音楽の演出力は大きい。
楽しいコメディであった。
着想からして面白い。
お風呂でこれだけのスケールを語ろうと言うのはよく考えたと思う。
確かに風呂は大事だ。
考えてみればわたしも生活は風呂中心だ。

これも大ヒットした漫画の実写だそうだ。
このパタン実に多い。
(ヒットしているのだから原作・原案としてはよいだろうが、実写化はかえってリスキーな場合が多い)。
原作は全く見ていないが、これ自体は面白かった。
特に音楽が上手く絡んでいた。映画ならではの形式がよく活かされていたと思う。
そのうえ、現代日本とハドリアヌス帝時代のローマ(これが軽めのキッチュなローマ)を行ったり来たりするところのテンポが良く映像として弛むことがない。
日本の風呂の作りと小物や環境(借景)との関係などにいちいち驚き、内心で呟く所も笑える。

THERMAE ROMAE004

古代ローマ人が日本の銭湯にいきなりテレポートしたら、そりゃ驚くに違いない。
その驚きのネタは幾らでも想像できるし、噺も作り易い面はあろう。
また、ローマ人役の日本人キャストがとても合っていた。やはりこの人か、という感じで(笑。
それに対して日本人側のキャストは、如何にも日本人であった。
何しろ「平たい顔族」である(爆。
「平たい顔族」のお風呂文化はかなりのものだ。
実際、風呂好きな古代ローマ人なら絶対に喜ぶはず。

THERMAE ROMAE003

日本の風呂文化を移入して大いに株をあげるルシウス。
遂にハドリアヌス帝から直々に声がかかり斬新な風呂事業を任される。
風呂~浴場がこれ程重要な政治的な要素であるのなら、古代ローマと謂う場所はかなり愉しいではないか。
ルシウスは依頼された新規事業に悩むと、決まって水に溺れて出てきたところは日本の風呂である。
そこでまた大きなヒントや着想を得る。
するとまた水に誘い込まれて溺れ、上がったところは古代ローマとなる。
取り入れたアイデアや技術が人々から称賛され、ハドリアヌス帝からの信頼も絶大なものとなる。
その連続で面白可笑しく見せてゆく。
このパタンが結構快感となっている(笑。

THERMAE ROMAE006

ルシウスが一方的に日本に来るばかりではなく、真実も古代ローマに行ってしまう。

ルシウスと山越真実が何故、何度も出逢うことになるのか、単なる邂逅ではないはずだが、その理由は明かされなかった。
(こんなに特定の個人と何度も逢うということは、それなりの設定理由は欲しい)。
涙を流すと2000年後の日本の銭湯(温泉などの水場)に来てしまう荒唐無稽な設定を基本にして話が進むので、こんなことに疑問を挟む必然性もないか?

THERMAE ROMAE005

出逢いを契機に自分のやるべき仕事~漫画家を頑張ろうという気持ちはわかるが、あんなに早くラテン語をマスターしたのなら、この人の適性は語学にあるのでは、、、そっちの方向に進んだ方がよいかも。

結局、真実がローマに行ってしまったことで歴史が変わることを何とか防ぎ、ローマは救うことが出来たが~そうしないと後の世界の歴史も激変してしまう~真実の実家の方は救えたのかどうか?
見る限りそっちは何も変わっていないようだ。旅館は潰れてしまうのか?
真実の漫画は採用されたのか?
(派遣社員も漫画家アシスタントも首になっている)。
彼女の状況がどうなったのかはいまひとつ不明であった。

2人の別れの場面は、他の邦画でも似た場面があり、既視感は拭えなかった。
まあ、不自然さは感じなかったが。

THERMAE ROMAE002

最後にまたルシウスが真実の前に水の中から姿を現す。
これのⅡがあるそうなので、そちらも観てみたい。

こうしたお気楽に観られる映画も貴重である。






原作コミック全6巻



叔母が亡くなる

A Sunday on La Grande Jatte

8年間意識がなく病院のベッドで眠り続けていた叔母が亡くなった。
(知覚を閉ざしている印象から意識がないと思えるのだが、触覚など非視覚的な感覚は分からない。もしそれがあれば非視覚的な表象は結んでいたと考えられ対外的精神活動は別な形で維持されていた可能性はある。それは脳波検査でも分かるか、、、そういったところに立ち会う立場ではないためわたしは知らぬが)。
脳が死んだということで、死亡となったわけだが。
外界との少なくとも言語的な(あらゆるサインも含む)関係(コミュニケーション)は一切持たずに8年間生命活動~代謝は維持していたのだ。
植物のような在り様を連想するも。
徐々に衰えつつも爪や髪は伸びてもいて、歯医者にもかかっていたようだ。

外部との関係性を考えなくとも、脳が生きているのなら潜在する何らかの活動はあったと推測される。
体は全く動かず対他的な関係を持てなくても。
表面的には生命の印象がほとんど洗い落とされていても。
叔母を表象する属性~表情が見事に欠けていても。
何かが宿っていたと考えられよう。

ほぼ完全に閉ざされた純粋な精神そのものが記憶のストックから生まれる様々な想念を生み反芻していたのだろうか。
幼い日の想いの片々等々を素材に変身を繰り返すとか、ありがちな連想が直ぐ浮かんだりするが、、、。
植物状無意識とでも謂える静かで明るい想念の海を漂い続けていたのかも。
いや想像を寄せ付けない異質な何かが生成されていたのかも知れない。

ただ、その世界をまさに生き続けていたとすれば。
つまり夢を見るのと同様に。
ひとつの現実(時空間)~固有時を普通に生きていたと謂える。

そう考えるとわれわれの日常生活と何ら変わりなくなる。
実はわたしもひとつの現実=夢を生きているに過ぎない。
夢か現かなんて原理的には分からない場所をわたし~われわれは生きている。
こちらで謂う8年をどう生きていたのか。

と謂うよりわたしは今何処に生きているのか、疑わしくなってくる。
足元が定かではないのだ。

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志乃ちゃんは自分の名前が言えない

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2018年

湯浅弘章 監督
押見修造 原作
足立紳 脚本

南沙良、、、大島志乃
蒔田彩珠、、、岡崎加代
萩原利久、、、菊地強

うまく喋れない志乃。うまく唄えない加代。口が勝手に喋り捲る菊地。
その為に孤立する。
皆、当人にとってはのっぴきならない障害をもつ。

主演の2人は14歳であると。


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吃音に悩み周囲と距離を置く志乃。
何事にも消極的になってしまう。
担任から積極的に皆に関わり克服するよう頑張れと言われ。
母親は怪しげな催眠術のパンフなど持ち込んで進めてくる。
的外れなケアと忠告。

密かに唄の練習をしている加代を覗き見したことから志乃と加代は音楽を通じて関わり始める。

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音痴に悩む加代はミュージシャンが夢。
ギターを弾いて唄いたいが、歌がネックとなる。
志乃は喋れないが、歌は上手い。
ギター加代。ボーカル志乃でデュオグループを組む。
カラオケなどで2人で練習を重ねてゆく。
2人の関係はとても濃密なものとなり、志乃は随分滑らかに喋れるようになってきた。
自転車に2人乗りして走るほど親密になる。
(自転車が走破する風景も饒舌な演出となっていた)。

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そして人通りの少ない場所を選んで街頭ライブを敢行する。
最初はえらく緊張するが、これが上手くゆき何度もライブを重ねるうちに、2人に屈託のない笑顔が見られるようになる。
加代から新しい音楽の刺激を受け、志乃はそれをギターに合わせ唄い自らを解放して行く。
とても理想的なパタンが出来てくる。
レパートリーも増えてゆき、高校の文化祭での発表にも手応えを感じるレベルになってゆく。
日常的に2人で燥ぎ回る仲良しの光景もたくさん見られるようになる。
2人にとって最高の時間であり、特に加代は志乃の絶対的存在となっていた。

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菊地という異様なテンションの空気の読めないというより、コミュニケーション障害の男子が突然、2人の間に割り込んでくる。
俺もグループに混ぜてと、いつものように一方的にごり押しして来る。
彼もまたクラスではみんなから疎んじられる存在であり、居場所を探していた。

加代は周りに対し志乃ほど自己防衛的ではなく、菊地も受け容れる余裕があった。
しかし志乃は加代との関係は絶対的なものであり、他者の入り込む場所ではない。
だが、加代は菊地を第三項として取り込む姿勢を見せる。
それに勢いづいて菊地が思いっきり纏わりついてくる。
志乃は溜まらず、そこから逃避するしかない。
菊池は志乃にとって何にも代えがたい神聖な場所に土足でズカズカ入り込んできた疫病神に他ならない。

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ここで2人の関係は一気に崩れてゆく。
加代は志乃に詩を書くことを勧めオリジナル曲を創ることを提案するが、、、
志乃は学校を休み始め、彼女とのデュオ活動は停止し、菊池と暫く続けてはみたが結局加代は菊地を首にする。
菊地は自分の場所確保もあり、何とか志乃に接触し3人で仲良くグループをやろうと説得するが、志乃は菊池を受け容れない。
この菊池の自己中で独善的なしつこさは、終始ウザい。
中学生の頃、こういう友達とわたしは付き合っていたことがある。
ウザいが面白いので卒業まで長く続いた(笑。
(菊池は絶えず誰かにすがり自己承認を得たいタイプの人間なのだ。自分一人で何かにコツコツ取り組む人格ではない)。

だが彼は2人がやろうとしていることの価値をしっかり見抜き、その可能性に惹かれて自分もその渦中にいたいという願いから絡んでいたとも謂える。
実際、タンバリンしかできないが、音楽的に求める方向性は加代と重なっている部分があった。
(つまりは、無意識的に求めるレベルが近いということも意味する)。
ニルヴァーナやダイナソーJrの趣味が合い、音楽的趣向ですんなり話が合うのだ。
しかしこれでは、志乃は置いてけぼりではないか。これまでに2人で築いてきたものはどうなるのか。
これほど苦しい立場はなかろう。
居た堪れないのは当然である。

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苦しんだ末、志乃はデュオを辞める。
加代はそれを呑み込み、独りで活動を続行する。
自分独りで曲を書き、弾き語りで文化祭のステージに立つことになる。

加代は音痴なのだ。こちらまでがとても心細くなる。
志乃は体育館のそばで耳を澄まして聴いている。
しかしその不安定な音程のボーカルの力強く捻じれたサウンドが歌詞と相まって充分にひとのこころを掴む。
拍手喝采とはまた別のインパクトを齎す。
(異質な力に出逢った時、ひとは暫し無言で呆然となる)。


Makita Ajyu

2人の主演女優は凄かった。
恋愛ものでも何でも良いが、やるんならこれくらいやって欲しい。
生々しく真に迫った文句なしの演技であった。








バリー・リンドン

BARRY LYNDON001

BARRY LYNDON
1975年
イギリス

スタンリー・キューブリック監督・脚本
ウィリアム・メイクピース・サッカレー原作
ロイ・ウォーカー美術
ミレーナ・カノネロ、ウルラ=ブリット・ショダールンド衣装・デザイン
レナード・ローゼンマン音楽

ライアン・オニール 、、、レドモンド・バリー~バリー・リンドン
マリサ・ベレンソン 、、、レディー・リンドン
パトリック・マギー 、、、シュヴァリエ・ド・バリバリ
ゲイ・ハミルトン 、、、 ノラ(従姉)
レオン・ヴィタリ 、、、ブリンドン子爵
ドミニク・サヴェージ 、、、ブリンドン子爵(子供時代)
マーレイ・メルヴィン 、、、サミュエル・ラント牧師
ハーディ・クリューガー 、、、ポツドルフ大尉
レナード・ロシター 、、、ジョン・クイン大尉
デイビット・モーリー 、、、ブライアン・パトリック・リンドン(バリー・リンドンの子)
マリー・キーン 、、、 バリー・リンドンの母


映像と音楽がこれ程高度に融合した映画を他に知らない。
この映画はまず、それである。
いきなりヘンデルの「サラバンド」である。この荘厳な出だしでもう惹き込まれるしかない。
そしてシューベルトでエモーショナルに静かな美しい盛り上がりを見せる。
(シューベルトだけはバロックではないが)。
音楽でも18世紀の再現に成功している。選曲が見事だ。

更に蝋燭の光で映像を魅せる。
当時の夜の室内空間は蝋燭の灯だ。
その明るさの再現に徹底して拘る。
ラ・トゥールの世界を想わせる演出~撮影を見た。
技術的にはさぞ工夫が凝らされたであろう。
何よりレンズの選択が大変だったはず。

そして「アイリッシュ」である。
このアイリッシュはまだまだわたしにとって神秘の異郷である。
感覚的にも、とても興味深い。

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内容的には金と地位を如何にものにするかという形振り構わぬ欲望丸出しの主人公の話であり、そこに必ず決闘が関わる。
初めは純愛の要素もあったが、世間に揉まれるうちに打算しかなくなる。
そして粗暴な性格はより強まる。
それにしても銃による決闘は痛い。
ピストルは一度喰らったらそれまでである。
運試しだとしても余りに過激で危険すぎる賭けだ。
ギャンブルをこの上なく愛する主人公ならではとは言え、せめて剣にしておく方が無難だろうに。
(剣による決闘もしていた。剣の腕もたつ。喧嘩も強いが)。


物語は二部に分かれる。

第一部:レドモンド・バリーが如何様にしてバリー・リンドンの暮しと称号をわがものとするに至ったか

BARRY LYNDON002

18世紀半ば、アイルランドから物語は始まる。
バリー・リンドンの父は馬の売買の商談が拗れ決闘で殺害される。
彼は母の女手一つで育てられる。
自分も従妹ノラを慕って彼女の婚約者に決闘を申し込み、勝利を得るが村を追い出される羽目となる。
親戚は皆、相手のクイン大尉の年俸を期待しており、バリーを厄介払いするため彼のピストルには麻玉が仕込まれており、倒れた一時間後に大尉は息を吹き返し無事にノラと結婚した。

村を出てダブリンに向かうバリーであったが追剥に所持金と父の形見の剣と銃と馬を奪われたり、イギリス軍の補充兵となり7年戦争に従軍したり、グローガン大尉の下でミンデンの戦いに加わるが、大尉の戦士と共に軍から離れる決意をし脱走する。
将校の服と身分証を盗み(軍においてはそれが日常茶飯事であり、彼もそれに対し無感覚となっており)同盟国のプロイセンに上手く入り込む(途中、夫が戦争に出てひとり家を守るプロイセンの女性に食住の面倒を見てもらうが、この時期には女性を上手く利用するコツも手中に収めている)。
嘘を適当に並べプロイセンに侵入し接待を受けるが、ポツドルフ大尉に脱走兵であることを観抜かれ彼の兵卒にさせられる。
しかし武勲を認められ警察の下で働くことになり、スパイの嫌疑がかけられたシュバリエ・ド・バリバリと名乗る賭博師に近づき彼の行動を詳細に警察に報告することとなる。
だがバリーはシュバリエが自分と同郷であったことから二重スパイの形でシュバリエ側に付く。
シュバリエがいかさま賭博にケチをつけた貴族に対して決闘を申し込むと騒いだことから彼は国外追放となるが、その時バリーも一緒に逃げることに成功する。そしてヨーロッパの社交界をふたりで巡り、いかさまで大儲けをする。
そんななか、彼が素晴らしい条件を備えたチャールズ・リンドン卿の妻レディー・リンドンを見初める。


第二部:バリー・リンドンの身にふりかかりし不幸と災難の数々

BARRY LYNDON003

バリー・リンドンは、チャールズ・リンドン卿の病死の後にレディー・リンドンと結婚し莫大な財産を好きなように使える身分となる。
端から妻の存在をないがしろにして豪遊し放題であった。
彼女は前夫チャールズとの間に男の子を儲けていたが、彼はバリーの本質を見抜き、最初から嫌っていた。
バリーはレドモンド・バリーからいつしかバリー・リンドンに改名している。
更に貴族の称号を手に入れるため彼は周りの貴族に大盤振る舞いをして法外な値段で絵を買い取るなどでリンドン家の財産を蕩尽してゆく。

BARRY LYNDON005

奥方が全ての財産の権限を握っていることから、彼女が亡くなるとかすれば財産はブリンドン子爵に移譲されてしまい、自分は路頭に迷うことになる。彼女は全ての請求書に気前よくサインをしてくれるが、彼女のサインなしにはことは一切運ばないのだ。
しかしバリーの母を軽んじた放蕩振りと身勝手な散財にブリンドン子爵は激しく抗議しバリーを憎む。
(バリーがブリンドン子爵に過酷な体罰を続けていたことも大きい)。
そしてパーティーの最中、ブリンドン子爵の挑発に乗りバリーは激しい暴力を彼に加えてしまう。
その為、彼は有力者たちはもとより誰からも敬遠される身となり貴族の称号など露と消える。
バリーと妻との間に生まれた溺愛するブライアンは、落馬事故で8歳で死んでしまう。
悲しみに暮れる夫妻であったが、ブリンドン子爵の怒りは頂点に達していた。
バリーとその母が好き勝手な振る舞いを続けてきたのだが、レディーリンドンの精神的な支えとなっていたラント牧師を解雇したことで、ついにリンドン邸を出ていたブリンドン子爵は確固たる態度に出る。
彼はバリーに決闘を申し込んだ。

バリーは相手に対し温情の姿勢を見せたことが仇となりブリンドン子爵の銃弾で足を砕かれ片足を切断することになる。

松葉杖をついて力なく馬車に乗り込み、アイルランドへと追い返される。
当然の報いであろう。としか言いようもないが、その後の足取りは知られていない。
また賭博師に戻ったという噂であるという。

主役は全くヒーローでも何でもないが、この殺伐とした人生模様が高密度な18世紀の再現のなかで実に精緻に描かれていた。
その物語絵巻に圧倒されたとでも謂うべきか。











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リバー・ランズ・スルー・イット

A River Runs Through It002

A River Runs Through It
1992年
アメリカ

ロバート・レッドフォード監督
リチャード・フリーデンバーグ脚本

ブラッド・ピット 、、、ポール・マクリーン(弟)
クレイグ・シェイファー 、、、ノーマン・マクリーン(兄、語り部)
トム・スケリット 、、、マクリーン牧師(父)
ブレンダ・ブレシン 、、、マクリーン夫人
エミリー・ロイド 、、、ジェシー・バーンズ(ノーマンの恋人)
スティーヴン・シェレン 、、、ニール・バーンズ(ジェシーの兄)
ニコール・バーデット 、、、メイベル(ポールの恋人)


「理解することは出来なくとも、ただ愛することはできる。」
前提としてまず愛する姿勢があれば、純粋に受け容れることは出来る。
それがなければ、そもそも子供など育てられない。
他者に対してはどうか。
理解が無理でも、取り敢えず受け止めることは可能ではないか。
しかし、他罰主義を基本とした排他的な共同体であると(共通)感覚的に異質と認めた対象には攻撃性を発揮するだけ。
とりわけ無意識的に過ごしている無自覚な個体はそうだ。
他者に対する感覚~感性が乾涸びている。
この映画では、先住民は入れない酒場などが最たるもの。

兄ノーマンが、釣りも覚束ない初老となった現在、遠い過去を回想する形で進む。
語り部は終始ノーマンである。
舞台はモンタナ州ミズーラ。20世紀初頭から始まる、、、。確かにクラシックカーである。

A River Runs Through It007

川である。川面のきらきら光る透明な川。鱒釣りである。大きな鱒。
川~釣り~魚が生活の延長~一部である。
こうした環境があるのだ、、、。
糸が三者三様の静かでしなやかな弧を描く川釣りの光景はまさに絵であった。
しばし見とれる。

そしてその所作からして美しい。
周囲の風景のなかに見事に調和している。
釣りが芸術に高められている。
4拍子のリズムと謂い、型と精神をおもんじるところは、フライ・フィッシングがイギリス貴族から始まった格調高い紳士のスポーツであるからだ。
牧師のやるスポーツというところか。
牧師である父が二人の息子に教えたものだ。
恐らく聖書~宗教と同じレベルで生活の内に自然に沁みとおるように身に付いていったものか、、、。
素敵だ。

A River Runs Through It003

父はスコットランド出身の厳格な牧師であるが、高圧的な姿勢は全くなく物腰の柔らかな、知的で紳士的な人物である。
兄はちょっとお堅い感じだが弟のやんちゃには必ず付き合う真面目な秀才。
ダートマスの大学を出てシカゴ大の英文学教授におさまる。
弟はチャーミングなルックスと反骨精神で際立つ危険な魅力で人を惹き付ける。
釣りの腕前は芸術のレベルに達し、父兄をして天才と言わしめる。地元の大学を出て、ヘレナで新聞記者となる。

しかしいつしか弟のポールはとても危険なポーカー賭博の「ロロ」にのめり込んでゆく。
賭け事に凝って、大損を重ね、更にでかい賭けに打って出る悪循環だ。
丁度兄ノーマンが独立記念日に出逢い、付き合っていたボーイッシュで勝気な美女ジェシーにプロポーズした日を好機とみて危険な賭けの勝負に出る。ノーマンにシカゴ大から英文科へ誘いがあった日でもあった。
(このジェシーもとても大胆な賭けに出るタイプである。車道が混んでいるときに、鉄道の線路上を車で走破してしまうくらいの度胸なのだ。ノーマンは助手席で肝を冷やすしかない。堅実なノーマンには危なっかしい相手が常に寄り添うみたいだ)。
この日は、縁起は確かに良いに違いないが。

A River Runs Through It001

あくる朝、3人で例のごとく、川釣りに出る。
最初はノーマンにやたらと当たりが出て何匹も釣り上げてゆく。
父は安定しており手堅くいつも通りである。
ポールに焦りが出るが、兄にヒントを聞き、また彼独特の芸術的竿捌きで誰よりも大きな鱒を見事に釣り上げた。
その時のポールの得意満面な笑顔。
兄が写真に撮り、父兄で彼を褒め称える。
(これで更にポールに弾みがついたのかも知れない。おれはついている、と)。

A River Runs Through It004

まさか誰もこれがポールの最後の笑顔だなんて思いもよらない。
勿論、兄には弟に纏わりつく危険な影は感じ取っており、困ってることがあったら手を貸すと言っていたのだが、、、。

ポールの死の知らせが届き、ノーマンが警察に検死に呼ばれる。
銃で頭を殴られ右腕の骨を粉々に打ち砕かれて路に放り出されて死んでいたという。

父がポールの死について細々とノーマンに聴くが伝えられる情報はそれ以上はなかった。
厳格な牧師である父にとって、ポールは到底理解しようにもし難い存在であっただろう。
だが、その彼を絶対的に愛していたことはよく分かる。
父は、ポールは釣りが上手く美しかった、と語ったその後は、彼のことは口にしなかったという。


川~釣りを主体に流れてゆく物語であり、その流れのなかでの浮き沈みが静かに美しく描かれていた。
格調高く、釣りで人生を語る映画である。


マクリーン牧師のような父はわたしの理想だ。










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小さいおうち

chisai ouchi001

2014年

山田洋次 監督・脚本
中島京子 原作

松たか子、、、平井時子
黒木華、、、布宮タキ
片岡孝太郎、、、平井雅樹(時子の夫)
吉岡秀隆、、、板倉正治(平井の部下、デザイナー、時子の浮気相手)
倍賞千恵子、、、布宮タキ(晩年期)
妻夫木聡、、、荒井健史(布宮タキの親戚の青年)
橋爪功、、、小中先生(小説家)
吉行和子、、、小中夫人
室井滋、、、貞子(時子の姉)
中嶋朋子、、、松岡睦子
木村 文乃、、、ユキ(荒井健史の恋人)
市川福太郎、、、平井恭一(少年期)
米倉斉加年、、、平井恭一(晩年期)


赤い三角屋根のモダンな家が良かった。
良い家だ。
あの窓から眺める空や遠くの街の景色は格別だろう。
やがて戦争がそれを台無しにする。
これは確かに身につまされる。
絵に残したい。
(絵の本来の使命のひとつだ)。

生涯独身を通し現在初老に至った一人住まいのタキは、大学ノートに自叙伝を綴り始めた。
頻繁にやって来る親戚の丁度孫ほどの歳の健史が、それを読んでは感想を述べ、チャチャを入れては誤字を直す。
そんな形で創作は進んで行った。
(健史としては、自叙伝もさることながら必ず出してくれる美味しい豚カツ等の手料理目当てのところもあったか)。

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噺は昭和11年に始まる。
東京に上京した布宮タキは平井家に女中として雇われる。
平井時子と夫の雅樹。当時5歳の恭一の住むモダンで可愛らしい家に住み込みで働くのだ。
恭一が小児麻痺に罹り、タキが献身的な介護をするなかで、彼女への信頼は揺ぎ無いものとなってゆく。
やはり一人息子を安心して任せられ、息子からも最も頼られるということほど大きいものはない。
程なく主人の玩具会社の人間とは質の違う部下である板倉正治が家を出入りするようになる。
芸術的な感性の豊かな彼と平井時子は直ぐに「馬が合い」惹き合うようになっていった。
一方、タキは時子のことを好いており、平井家も自分にとって掛買いのない居場所となってゆく。
更に板倉に対しても好感を抱いていたことは間違いない(同郷の人であったことからも最初から親しさは感じていた)。

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タキが最初の頃は無口で動作もぎこちなかったが、標準語を習得し、徐々に饒舌に喋り出す。それと同時に所作も洗練されてゆく。
彼女の生活の充実感も感じられてくる。
この辺の変化が文脈に溶け込み自然に表されていた。

戦争がまだ現実味を持たない時期はさぞ居心地のよい屋敷であったに相違ない(東京オリンピックを見据えた展望もあり日本全体も浮かれていた)。
奥様、時子のブルジョア出のお嬢様特有の屈託のなさと自己肯定感は爽やかである。
彼女が如何に世間知らずのお嬢様であるかが分かるも、容姿端麗に加え穏やかな性格で誰に対しても気さくに接する人柄に次第にタキは惹かれてゆく。
主人雅樹は、人は良いのだがタキに戦時になったら若者は戦争に駆り立てられるからという理由で飛んでもない歳上の老人を婿に進めるようなセンスのまるでない実利一点張りの企業人である。見合い相手は時子がキッパリ断ってくれたようだ。
主人はさっぱりとした性格で別に実害はないため、こういう人だと思って付き合っている分にはよかったはず。

タキの当時の暮らし振りと現在自叙伝を書き進める彼女の姿を交互に見せつつ進展してゆく様が、まさにわれわれの心象〜想念が過去と現在の間を行き来するリズム~呼吸に共振するような極めて自然な流れに感じられた。

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タキは時子が板倉と逢瀬を重ねてゆくことに危機感を抱き始める。
戦争の機運がいよいよ高まり、巷が殺伐としてくるなかで世間体が気になりだす。
(時子は音楽に対する感性は豊かでも世間に対する感覚は疎い)。
そして自分と時子との関係が薄らいでゆくことに胸がざわつく。
平穏で住み心地の良い平井家が崩壊することへの恐れにも繋がった。
彼女は、板倉が召集令状を受け戦地に赴く最後の日に時子が板倉のもとに出掛けるのを思いとどまらせる。
替わりに手紙を書かせ、こちらに訪ねて来る分には噂も立たず問題ないと言って自分が手紙を手渡しに行く。
だが、その手紙は板倉に届けてはいなかったことが後に明かとなる。

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戦後、板倉正治の描いた赤い屋根の「小さいおうち」を布宮タキおばあちゃんは部屋に大切に飾っていた。
遺品整理の際、あっさり捨てられたこの絵の重要性が最後に分かるのだが、この絵とおばあちゃんとの接点が何も語られない。
それだけでかなりの尺を要するドラマチックなシーンともなるはずではなかろうか。
おばあちゃんの自叙伝は時子と雅樹夫妻が大空襲で庭の防空壕の中に抱き合うようにして亡くなっていたところで終わっている。
おばあちゃんは、ここで号泣して先に進めなかったようだ。
どこからかこの絵に纏わるエピソードが出てこないかと思ったが、板倉正治の記念館でもその特別な絵に関する情報は出なかった。そこで平井恭一がまだ存命であることを知り、彼を訪ねるが絵に関しては何も語られない。

少なくとも、おばあちゃんが有名な絵本作家として活躍する板倉正治を知っていたことは確かであろう。
そして訪ねるか連絡を取るか或いはただ絵本原画展とかもしくは回顧展みたいな展覧会で絵を購入しただけかも知れない。
意味深に部屋の絵を映しておいて、彼女にとってのその絵の今現在持つ意味やその絵を手に入れた経緯や作家となった板倉との関係などが全く語られないのもどうか、、、。

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目が見えなくなり脚も動かなくなった恭一を訪ねた健史とその彼女であったが、ここの件はいま一つに思えた。
毎日脚のマッサージを丁寧にしてもらい良くなって歩けるようになった誰よりもタキを好いていた少年が、何となく母の不倫に気付いていたとしても、タキの秘密や苦しみなど分かろうはずもない。 
健史にタキに何か言ってあげたいことはあるかと聞かれ、今知ったばかりの事実関係に対し、そんな事に悩まなくて良いと伝えたいと言うが、しかしそれ以前に、恭一はタキに何を話したかったのだろう。
ただ印象的だったのは、江ノ島を眺めにタキと板倉と3人で何度も浜辺まで訪れており、あの2人はお似合いだと思っていたと言う事だ。
この2人の間にも何らかの感情の交流が深まっていたに違いない。

この時子とタキと板倉の関係は何ともデリケートである。3人がそれぞれを好ましく思い、いたわり合っている。
その微妙なバランス関係が崩れるのをタキは誰よりも恐れていた。
絶妙のバランスを保ったあの赤い三角屋根のモダンな家を守ることが何よりも大切なのだ(戦争の不安も相まって)。
時子の暴走は、確実に世間の外圧からタキにとって掛買いのない場所を確実に壊す事は明らかだった。
だがそれだけではない。それならタキの提案通り板倉を家に呼べば、取り敢えずは当たり障り無くやり過ごすことが出来よう。
タキは板倉に手紙を渡さなかった。未開封の手紙が恭一の前で初めて開けられたのだから。
女中としての駆け出しの頃、レクチャーを受けた小中先生の意図を実行に移したのだと思われるが、、、。
きっと時子を守ろうとする彼女への熱い想いがそうさせたのだろう。

この三角形は、かなりダイナミックな揺らぎを保ちながら実質、大空襲で家が燃えて無くなるまで〜時子が亡くなるまでは続いたと言えようか。

chisai ouchi007







静寂の森の凍えた姉妹

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Grimmd
2016年
アイスランド

アントン・シグルズソン監督・脚本

マルグレート・ビルヒャムズドッテイル、、、エッダ(刑事)
スベイン・オラフル・グンナルソン、、、ヨイ(エッダの相棒)
ピエトゥル・オスカル・シグルドソン、、、アンドリ(エッダの弟、犯罪歴アリ)
ハンネス・オリ・アウグゥスソン、、、マグニ(犯罪歴ある知的障碍者)


暗い雪の中を歩いているうちにゆっくり睡魔に襲われるみたいな映画だった。
どんよりと寒々とした空の下で夢と現が混濁する感覚。
誰もが過去の記憶に繋がれ、過去の悪夢を呼び覚まされ、その悪夢を生きる。
病的に不気味に極めて曖昧に、事件を巡る物語は進行する。

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惨殺された二人の娘の母親は何故、娘の日記の犯人の特定に繋がる重要な部分を破りとってしまったのか。
娘の体に見られたという虐待の跡は誰によるものなのか。
夜の捜査中にエッダを襲った男は何者だったのか。
エッダは何故、アリバイがあるにも関わらず執拗に、犯罪歴を持つあの男に固執していたのか。
そもそも何故、その姉妹は森の中の目立つ道に抱き合うように寝かされ死んでいたのか~殺害されたのか。
警察がマグニに虚偽の自白をさせて濡れ衣を着せるが、こんな杜撰なやりかたが、ここでは通っているのか。
被害者の母に今度はお前を殺すという文字を切り貼りした、よくある脅迫状を送ったのもマグニの仕業と警察は決めつけたが、後に少年が愉快犯でやったことと分かる。しかしマグ二は自白した。それを絶対の決め手としている。
(白いバンを運転する男が容疑者なのに、車の運転の出来ない彼に罪を着せて、裁判で通るはずがない。)
目撃情報が曖昧なのは当然であり、目撃者の主観・先入観・思い込み・意図が入るのは当たり前だが、カップルでこれだけ情報に齟齬が生じるのは、何故なのか。ことによると犯人は複数か。
同僚たちに襲われ重傷を負ったアンドリのツートンカラーのスタジャンをエッダが目にして震撼するが、まさに目撃情報のスタジャンと同じ形であるにせよ誰でも着るようなものだが、あれで彼女は犯人を弟と断定したのか。
最後の弟が冷血な殺人犯の様相で二人の少女を連れ出すシーンはエッダの想像なのか、まさにその時の光景なのか。
確かに弟は白いバンを最近乗り回し、殺された姉妹に呼ばせていた「ライオン」というニックネームの根拠になり得る獅子座であった。が、それだけでは些か弱い。この光景が実際の光景なのかどうかで大きく異なるものだ。
彼は警察での取り調べでは全く何も語っていない~自白はしていない。

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北欧の怪しげな雪景色のなかで、過去に傷を持つ人々が次々と容疑者として挙げられ、エッダに執拗に怪しまれ続けて来た男はついに抗議の自殺をしてしまい、知的障害を持つマグニを、自白は誘導尋問であり当然冤罪であるが、犯人に仕立て事件終結を警察はプレスに宣言する。
エッダはそれに対し強い反発を示す。
そして彼女は、真犯人は過去の犯罪歴から同僚に疎まれ暴行を受け今現在意識不明に陥っている弟だと直覚し慄く。

結局みんなから怪しまれ排撃され酷い目に遭いつつも必死に耐えて来た弟が真犯人で終わるのか。
だが、終始この映画では何が確かなのか、登場人物全てが怪しく、やっていることも回収もされず曖昧なまま淡々と運んでゆく。
寧ろ、これが現実に近い光景なのかも知れない。
(あの警察の杜撰さはないが。それともアイスランドがこのような状況なのか?)

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よくあるこの手の犯罪劇(猟奇殺人)では、ずっと怪しまれている男がいて酷い目に遭ったりしながらも物語は進行して行き、最後の最後で、事件の捜査に率先して臨んでいる、とても真面目で模範的な警官が真犯人であったとかいうパタンがあるが。
ただこういう映画では、最終的にこちらがすっきり納得する明瞭な輪郭を物語に与えてゆく。
犯人の背景やそのパーソナリティ、彼なりの動機なども描かれ、意外であったが取り敢えず腑に落ちる形では結ばれるものだ。
(途中で大概、この手のものだと想定出来てしまうにせよ)。


この映画はそれぞれの人物の心象はエッダも含め、ほとんどはっきりしない。
だがはっきりしないのが普通である。
別にミステリーではない。
アイスランドの街の光景が独特の解像度をもつ映画であった。

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フェリスはある朝突然に

A Sunday on La Grande Jatte

Ferris Bueller's Day Off
1986年
アメリカ

ジョン・ヒューズ監督・脚本・製作

マシュー・ブロデリック、、、フェリス・ビューラー
アラン・ラック、、、キャメロン・フライ(フェリスの親友)
ミア・サ、、、スローン・ピターソン(フェリスの恋人)
ジェニファー・グレイ、、、ジーニー・ビューラー(フェリスの妹)
ジェフリー・ジョーンズ、、、エドワード・ルーニー(学生部長)
ベン・スタイン、、、経済教師
チャーリー・シーン、、、ドラッギー


シカゴは都会だということを改めて認識。
これ程気軽に観れる映画も珍しい。

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フェリス・ビューラーという高校3年生が、ある日、学校をずる休みして、親友と彼女と3人で街に繰り出しやりたいことして暴れ回る噺である。(ある日といってもその日で9回目のずる休みで、学生部長は業を煮やしている)。
彼を怪しみ尻尾を掴んでお仕置きをしようとしている学生部長との攻防戦もあるが、全てにフェリスが上を行き、部長は散々な目に逢う。これが実にコメディというよりギャグマンガのノリなのだ。
ずる休みして彼女を誘い出すには極めつけの高級車が欲しいフェリスは、本当に病で寝込んでいる友だちキャメロンをたたき起こし、彼の父が実際には運転もせず、ただおむつで磨いているだけのスーパーカーを勝手に借りることにする。
キャメロンは父の言いなりになっていて自分を抑圧してしょっちゅう病気に逃げ込んでいる状況にあり、彼を父から解き放とうという試みもあり父の権威の象徴でもある世界に数えるほどしかないフェラーリ1961年型250GTに(キャメロンが必死に止めるにも関わらず)乗り込み突っ走る。

狼狽えるキャメロンを尻目に暫くフライ家の家宝で突っ走った後、適当な場所に駐車し怪しげな男に後を頼み、シカゴの待ちに3人で繰り出す。
ウィリス・タワーにお上りさんみたいに登って下を見下ろして気が大きくなったのか、ソーセージ王に成りすまして高級レストランで食事をし、シカゴ・カブスの試合を観戦するが、その時血眼になってフェリスを探している学生部長の目の前のTV画面に彼らが映っていたのを彼は見逃す。そう、見逃されるのだ。3人が食事をとったレストランにはこともあろうにフェリスの父が商談も兼ねて食事に来ていたのだが、うまく気づかれないようにかわしてしまう。

そしてお祭り?のパレードの車のステージに上がり歌を唄い出す。
これにはキャメロンも彼女のスローンも驚き何とか止めようとするが聞く耳を持たない。
思いっきり目立つが、波に乗ってやりたいことをするほど、強いものはない、という証明か。
そのまま中央突破である。あとの二人は呆れるばかり。
ジョンレノン(ビートルズ)の「ツイスト・アンド・シャウト」がホントに久々に聴けたが、こんなに良い曲だったのだと感慨深い。
やはりジョンのボーカルは聴かせる。声が良い。(俳優は実際には全く唄ってない)。
フェリスの人気と影響力は凄いもので、ずる休みの際に友人に腎臓が悪いと出任せに伝えたら「フェリスを救え」と謂う募金活動を始める友人も出ていた。
校内だけでなく街にもフェリスを救えと電光掲示板やポスター、壁面にペインまでされている始末。新聞にも取りざたされていた。後でどうするつもりだ。

街中で派手に遊びまくっているのに関係者には誰にも見つからない。
親にニヤミスすること何度あっても誤魔化してすり抜ける。
ここは、かつてのドリフのコント並みではあるが。
ここまで両親が騙されているのなら(フェリスを信じきっているのなら)平和でよいというもの。
(どんな映画でも、この両親程、平板で単純なキャラはあるまい。ちょっと呆れるが、まさに狙ったキャラなのだ)。
そして敵対するルーニー学生部長は噺を面白可笑しくするだけの道化に過ぎない。

フェリス・ビューラーはこんなに自由で何でも出来てしまうなら、別に学校をずる休みしなくとも学校で好き放題すれば良いのでは、、、とも思うが、外の世界でこそ何をかやらかしたいのだ。

Ferris Buellers Day Off002

「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(ジョルジュ・スーラ)が意味深に出てきたが、あれは結局、、、。
キャメロンの深層心理に何らかの影響を与えたのは確か。
(芸術~ポスト印象主義の威力か)。
光学理論に基づいた点描に、魂が吸い取られるような顔をしていた。
その後の彼の父の至宝であるフェラーリ1961年型250GTをぶっ壊すシーンに潜在的に繋がって行く。

ほとんどフェリスにそそのかされてやったようなものだが、その頃はもうキャメロンは父に反抗して自立にかける心づもりになっており、そのきっかけをくれたフェリスに感謝している。彼もこのはちゃめちゃな遊びを通して逞しさを身に付けた。

この引き寄せ力、巻き込む力は、感化させる力は、才能としか言いようもないだろう。
将来はタレント、アクター、歌手でも何でもスターとして成功することは間違いなし。

何ともやることなすこと良い方にとられ、彼の嘘を見抜き尻尾を掴もうとする人間は手ひどくやられてしまう。
何と恵まれた人だろうか。向うところ敵無しである。
唯一、彼のことを妬んで妨害しようとしていた妹も彼氏が出来た途端、兄の味方に変貌している。
大したペルソナだ(兄妹共に)。

Ferris Buellers Day Off003

噺全体は変わった作りもなく、特に異質で創意を感じるところもなく、寧ろ紋切り型にエンボス加工を施したような、開き直った感じを受けるのだが、そこが爽快で心地よく感じられるのかも知れない。
キャストがきっちりと嵌っていた。
それも大きな要素だ。
皆憎めない面々なのだ(笑。これは確かに大きい。


「人生は短い。たまには立ち止まって楽しめ。」よく言ったものである。
わたしはここのところ立ち止ったままであるが、ちっとも楽しんでいない、気がする(笑。
いい加減に、こころの底から愉しみたい。
ホントだ(爆。

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ラストベガス

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Last Vegas
2013年
アメリカ

ジョン・タートルトーブ監督
ダン・フォーゲルマン脚本

マイケル・ダグラス 、、、ビリー
ロバート・デ・ニーロ 、、、パディ
モーガン・フリーマン 、、、アーチー
ケヴィン・クライン 、、、サム
メアリー・スティーンバージェン 、、、ダイアナ


アカデミー賞5部門受賞の『カッコーの巣の上で』のプロデューサー、『ウォール街』でアカデミー主演男優賞のマイケル・ダグラス。
『レイジング・ブル』でアカデミー主演男優賞、『ゴッドファーザー PART II』で同賞助演男優賞、アメリカ芸術科学アカデミー会員のロバート・デ・ニーロ。『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー助演男優賞、ナレーターや司会者(「時空を超えて」は毎週見ていた)としても高名なモーガン・フリーマン。『ワンダとダイヤと優しい奴ら』でアカデミー助演男優賞、トニー賞3回受賞のケヴィン・クラインの4人による主演である。
そして重要な彼ら(主にビリーとパディ)の相手役ダイアナことメアリー・スティーンバージェンは『メルビンとハワード』でアカデミー助演女優賞、ゴールデングローブ賞 助演女優賞を受賞している何れも高い評価を得ているベテランばかりを贅沢に揃えている。


酒は呑むがだれも煙草を吸わない。
芸はやっているにせよ、ちょっとした余暇を楽しんでいるようにも見えるモーガン・フリーマンを筆頭に、、、
一癖も二癖もある芸達者の爺さんたちのレイドバックした余裕の演技で、まったり愉しんで見れる。
しんどい映画は観たくないときにピッタリかも。

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しかし噺の内容や持って行き方~展開はもう、ハリウッドである。
その意味での王道に乗せられて観ることになる。
ああ、やっぱりこういう感じねえ、、、。
でもその出来上がった手法と卓越した技術によって満たされてしまう。
と、そんな感じだ。
別にそれでも悪くない。
よく出来たエンターテイメント~コメディに違いないのだ。

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実際、細かいところまでよく出来ている。小さなところで笑える。特にアーチーの小ネタである。
そして「老い」でここまで面白く愉しませることが出来るのは、脚本や演出もあろうが、このベテランたちの技量と存在感によるところであろう。
それ以外に何も言うことがない。
まあ、脇を固める若い役者にせよキャストはみんな良かった。

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この映画を観て、やはり私自身の日常を振り返って言えることは、「遊び」が大切であるということ。
カジノで無心に遊ぶことで、解放とツキが一挙に自分のものとなる。
「老い」の幼子のような無心さを体現していたアーチーにはそれが来た。
彼の儲けた金で、全員がホテルの最高のスウィートルームに入り、思う存分、豪遊できた。

理想的な「老い」は、この自我~自意識を上手く手放し、巧みにリフレッシュする術も秘めてくる。
彼ら(特にアーチー)を見て思った。

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「老い」における恋愛~性の問題と長い歴史をもつ親友との関係~友情。
このテーマは、そこに老人ならではの病気や薬そして心配する家族のことも絡め、かなりしっかり描かれていると思う。
とは言え、殊更重くはならず、コミカルにストレートに進む。
そう、単純にストレートであることが肝心だ。

大事なのは、自分に対しても人に対しても嘘や誤魔化しは効かないということ。
ビリーに借りがあるパディが彼に対して行った行為は、そのタイミングからすると大変思い切ったことであったが、親友を想えばそうせざるを得ないものであった。
その結果、ビリーは本当にこころから望む幸せを掴む。

この部分は軽妙に描かれていたが、とても重く受け止めるところであった。
絶対に日和ってはならない。
自分の信じるところをブレずに進むこと。
これ以外に、ない。
その意を固くした。

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ジュマンジ

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JUMANJI
1995年
アメリカ

ジョー・ジョンストン監督
ジョナサン・ヘンズリー、グレッグ・テイラー脚本
クリス・ヴァン・オールズバーグ原作

ロビン・ウィリアムズ 、、、アラン・パリッシュ
ジョナサン・ハイド 、、、ヴァン・ペルト/サム・パリッシュ
キルステン・ダンスト 、、、ジュディ
ブラッドリー・ピアース 、、、ピーター
ボニー・ハント 、、、サラ
ビービー・ニューワース 、、、ノラ
デヴィッド・アラン・グリア 、、、ベントレー


「ジュマンジ」は、絵本に登場したボードゲームだそうだ。
それを元に作った映画がこれである。
パニックファンタジーと呼ばれるもの。
「ジュマンジ」とは、ゲームを始めた者に奇想天外な災厄を齎すボードゲームなのだ。
(ボードの画面に緑の文字が浮かび上がり、その文章通りの災難が降りかかる。最近流行りのARを遥かに超えているが、そのボードゲームが捨てられたのは1869年であった)。

確かに。
あんな危険な魔物が次々に飛び出して襲って来ては命が幾つあっても足りないが、死人は出ていなかったような。
ゲームをやってる者だけでなく、関係ない者まで巻き沿いにしてゆくところが実に傍迷惑なゲームだ。
店など竜巻にやられたような被害で、そのうえに商品を略奪する者が沢山いるところがアメリカらしさか。
様々な動物が暴れ回り、不気味な食虫植物が蔓を自在に操り、床がアリジゴクと化したりと、当時のVFXをフルに使っての奇想天外な廃墟空間が実現されている。

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いじめられっ子アランがそのジュマンジを掘り出す。
父は大きな靴製造工場の社長であり、厳格な父の期待に反発を感じていた矢先に、世界の外への冒険を仄めかすコピーで誘惑するそのゲームに魅了される。
しかし友人のサラと実際にゲームをはじめたとたんに彼はジャングルに飛ばされこの世界から消えてしまう。
(つまりその時点で彼は失踪し実質死んだことにされ、サラはその時の事情を説明するも精神の異常を疑われ医者の世話になっている)。
26年後に、屋根裏部屋でジュディとピーターの姉弟(両親を事故で亡くし叔母にかつてのパリッシュの大邸宅を買い取ってやって来たふたり)がそのゲームを発見しやり始め、賽の目で5を出したところでアランが突然何処からともなく家に戻って来る。
その間、ゲームは単に中断していただけであり、サリーをそこに加えて4人でのゲーム再開となった。
ドラえもん流にそのゲームでいじめっ子をてんてこ舞いにして懲らしめるとかいう単純速攻な趣向ではない。

主人公不在の26年間の間に彼の周辺の人間は皆、悲惨な境遇に落とされ、肉親は工場を封鎖しすでに亡くなっていたという惨憺たるものであった。しかしアランも悲嘆に暮れている余裕はなく、今現在もゲームが進行中であり被害は町中に広がってゆく状況である。

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被害を食い止め、過去の惨劇に始まる現在を救うためにも、ゲームを続行し、あがらなければならない。
あがった暁には、「ジュマンジ」と唱えるのだ、、、。

やはりこのボードは、魔法のボードであろう。
ジュディの謂うようなマイクロチップの埋め込まれたくらいの代物ではない。
悪魔の呪いとかその手の産物であろう。
(だいたいいつ創られたものなのか?)
こういう設定だと、もう何でもアリで行ける。
(SFのように突っ込まれる心配はないため、怖いものなしである(爆)。

ともかく、賽を振る度に次々に(ちょいと間を持って)現れ襲い掛かる飛んでもないモノたちは、まずその予兆の僅かな時間からして怖い。
そしてそれに呑み込まれるが、ギリギリのところで助かる、と謂うより次の順番の者が賽を振って事態を替える。
だが、ボードそのものをペリカンに持ち去られ賽を振るのもままならない事態に陥ったりもする。
結構、スリリングな構成~展開で作られている。
VFXも含め当時としてはかなりのものに想えた。

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結局、このゲームを始めてから失った時間~ヒトとの関係~をゲームをあがったところで、全て取り戻したということか。
それにアランにとっては、厳格なだけと思っていた父の溢れんばかりの愛情を知り、ただの友達に終わったかも知れないサラの愛を得て妻にもしている。そして初めて紹介されるジュディとピーターについてはもう親しい友人であるし、彼らの両親の旅行を阻止することも出来た。充分すぎるゲームからのお祝いである。

それにしてもあがる前にハンターに撃ち殺されていた可能性もあり、危険極まりないゲームと謂えよう。
像の群れが車を踏みつぶして走って行ったり、植物の蔓でパトカーが二つ折りに潰されたりするなど、、、その後の映画にもかなりの影響~インパクトを与えているはず。

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ロビン・ウィリアムズは相変わらずと謂った感であったが。
この映画で子役時代のキルステン・ダンストを初めて見た。
利発な凛とした可愛らしさである。
ボニー・ハントもとても良い雰囲気であったが、やはり何よりキルステン・ダンストであろう。




ハートビート

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HIGH STRUNG
2016年
ルーマニア、アメリカ

マイケル・ダミアン監督・脚本
ネイサン・ラニアー音楽

キーナン・カンパ、、、ルビー(バレリーナ、MCA学生)
ニコラス・ガリツィン、、、ジョニー(イギリス人バイオリニスト)
ジェーン・シーモア、、、オクサナ(コンテンポラリーダンスの先生)
ソノヤ・ミズノ、、、ジャジー(バレリーナ、ルビーのルームメイト、MCA学生)
リチャード・サウスゲート、、、カイル(バイオリニスト、MCAの優等生、ジョニーのライバル)
アナベル・クティ、、、エイプリル(バレリーナ、MCAの優等生)
マーカス・ミッチェル、、、ヘイワード(スウィッチ・ステップスのリーダー)


8人も世界のトップダンサーが出演しているという、本格的なダンスが見られる映画ということで、観てみた。
これに似たダンス映画があったな~。最近忘れっぽいので、思い出すのに一苦労。
ポリーナ、私を踊る」だ。
こちらも本物のバレリーナがヒロインであった。(しかし彼女はクラシックバレエから自らの意思でコンテンポラリーの道を選ぶ。本作のヒロインはクラシックは得意だがコンテンポラリーが苦手という設定である)。
ヒロイン役のキーナン・カンパも、全米ユース・バレエ・コンペティションで金メダルに輝き、サンクトペテルブルクのワガノワ・バレエ・アカデミーを主席で卒業した人だそうだ。だから踊りをしっかり見せる事が出来る。細かいカット割りやスローモーションやら引いたり極端にアップにしたりの目まぐるしい演出無しにかなり長いショットで踊りの全貌を堪能できるのは有難い。
コンテンポラリーダンスやヒップホップを踊る人たちのキレも良い。
バイオリンも見た目は申し分ない技巧と迫力であった。

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主人公のバイオリニストのガリツィンはミュージシャンでもあると言う。
そうだこの系統と謂えば「フェーム」というのもあったが、自然発生的に食堂で始まる音楽・ダンス以外はつまらぬ映画であった。
もしかしたら「 ラ・ラ・ランド」とかも入って来るのか、、、これもかなりいまいちの映画であった。
同じ監督の「セッション」は大変凄いテンションで一気にもってかれたものだが、、、。

横道に逸れていても仕方ないので、頭~噺を切り替えたい。
とは言っても、話自体は特にどうというものではない。
実にベタな青春サクセスストーリーだ。
これほどまでに捻りのない噺も珍しい。
だが、グイグイ惹き付けられてしまうのは、踊り~音楽のテンションである。
(筋など音楽~ダンスを乗せるためのベースに過ぎない)。

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ヒロインのルビーと彼女のルームメイトのジャジーはどちらも奨学生である。
遅刻厳禁でとても厳しい校風なのにそのジャジーに誘われルビーもしょっちゅう夜遊びをしている。
夜遊びで出掛けたバー?でテーブル合わせてそのうえで踊り出したり、招待されたパーティで、主演二人(ルビーとジョニー)のダンスがなかなかの(これこそコンテンポラリーな)ステップで決まっていたり、ルビーを巡ってジョニーとカイルのバイオリンの超絶技巧をかけた一騎打ちが始まったり(どことなくカーブド・エアーのダリル・ウェイを思わせる弾き方)、、、その辺の自然発生的なイベントは面白かった。明らかに「フェイム」よりも見応え聴き応えはあった。
駅のホームで始まったストリートダンサー同士の対決は、強面同士の威嚇する迫力はあったが、どうも奇抜で意表を突くような動きがなくて盛り上がりに欠けた。

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イベントの始まる気配があり、そこに誰かが(主演者が)スイッチを入れると周囲のバンドマン、管弦楽奏者、ダンサーらがしっかりバックからアンサンブルや伴奏をつけてくる。これが結構絶妙なのだ。この映画の肝はそこにある。
ブレイクダンスもジャッキーチェンみたいにその辺の物を上手く使ったりしながらアクロバティックな動きでメリハリをつけてくる。
青春サクセスストーリーの枠を使い、思う存分クロスオーバーに音と動きのアグレッシブな美で魅せようとするものだ。
この重層する乗りがこの映画のもっとも肝心な部分と謂える。
どの場面を見ても、ソロは基本的にない。必ず絡む。絶妙に重奏してくる。そこにワクワクする。
地下鉄でジョニーがバイオリンのライブ(彼は大道芸という)をしている時も、列車や近くの工事(そこで働く彼らもストリートダンサー)の出す音~環境音に被せていた。

基本がクロスオーバーなのだ。
クラシックバレエ~バイオリン~ブレイクダンス(ヒップホップと謂うべきか?)
面白いのだが、最後の賞金がたんまり貰える何とか大会(弦楽器&ダンス・コンクールか)での出し物よりも上記の自然発生的な場~イベントのインプロビゼーションの方が格段に創造的でカオスで見応えは大きい。


エクス・マキナ」のメイドAIロボット役であったソノヤ・ミズノがヒロインのルームメイトで出ていたが、かなりの存在感を魅せていた。(「ラ・ラ・ランド」にもエマの同居人で出ていた)。
この日系イギリス人女優にはかなりの器を感じた。注目したい。

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最後にルビーの踊りを評してジプシーになったとバレエの先生が絶賛していたが、ジプシーの映画「ガッジョ・ディーロ」を観た後で感じるところでは、奔放なジプシーの域までは行っていない。コンテンポラリーの範囲内だと思う。
今一つテーマの創造性と躍動感に欠け、何とか形にまとめてみたという感じがする。
ストリートが身上のもの(偶然性の爆発)をステージに上げ、無理やりジャンルの違う表現、特にバレエという様式美と融合する難しさが露呈されていた。バイオリンの曲もクラシックでなくても良いが現代音楽と謂うよりポップスであり、ちょっとどうかなと思う。
あの拍手喝采スタンディング・オベーションはまず、ない。

キーナン・カンパがバレエの先生の前で独り残って踊るシーンが、地味ながらわたしとしてはもっとも印象深く、何より美しかった。

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アナスタシア・シェフツォワ(ポリーナ)もキーナン・カンパ(ルビー)両者ともにバレリーナとしても女優としても大変美しくオーラがあり、このような踊りで魅せる映画に今後も期待したい。


ハートビートはしっかり感じられる映画であった。
そのアンサンブルに。

心地よく観られるシーンの多い映画ではある。

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朝のスケート

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6時ちょっと前に車で出かけるようになってから、朝の開けるのがめっきり早くなった。
真冬は真っ暗だったのが、今朝はしらっと明るい。
車のライトは点けないで走れるが、何というか、薄ぼんやりした淀んだ白の中の走行。
力を全てに感じない。
空が原因だ。

5時起きして、オニギリを3種類作る。
シャケと海苔、鰻、卵とカリカリ梅、、、3つ作ってみた。
長女が休憩中に食べるオニギリ。
飲み物は、自販機の暖かいコーンスープで済ます。
彼女に聞いてみると、どれもおんなじくらいの美味しさだったという。
ただ前回は、カロリーメイトに冷たいスポドリだったから、それよりホッとしたとの事。

オニギリは確かにわたしもホッとするものがある。
栄養を摂れば良いというものではない、何とも言えない癒しが、ある。
丁度、菅野よう子の楽曲「お弁当を食べながら」に当たる。

さて、今日は帰ってから何をするか。
天気が良いので、公園を散歩でもするか。







ファビュラス・ベイカー・ボーイズ

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The Fabulous Baker Boys
1989年
アメリカ

スティーブ・クローブス監督・脚本
デイヴ・グルーシン音楽

ミシェル・ファイファー 、、、スージー・ダイアモンド
ジェフ・ブリッジス 、、、ジャック・ベイカー
ボー・ブリッジス 、、、フランク・ベイカー
エリー・ラーブ 、、、ニーナ
ジェニファー・ティリー 、、、モニカ・モラン
ザンダー・バークレイ 、、、ロイド

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ミシェル・ファイファーが全スコアを吹き替えなしで唄っていることが話題になった作品だ。
まず、声が良い。歌そのものも素敵だったが。
ブリッジス兄弟が兄弟役で出演している。これもやり易いのか、どうなのか、、、。

ビターテイストとはよく言ったものだ。ホントにほろ苦い劇であった。
才能があっても商業的な成功はまた別の話だ。
それも独りではなく、人と組んでやる仕事であれば、余計に大変なものになろう。
ギャラ絡みの損得や進む方向性の(微妙な)違い、性格などに起因する軋轢、、、いくらでも問題が発生する可能性はある。

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しかし何であってもまず、生きるために何とかしなければならない。
家庭があればなおさらである。
マネージメントの重要性が浮かび上がる。
縁の下の力持ちの存在は忘れてはならない。

要するにピアニストであれば、ピアノが上手に弾けるだけではだめなのだ。
趣味にピアノを弾くなら何の問題もないが、それを仕事としたとたんに、不可避的に多くの厄介な関係性が生じて絡まってくる。

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兄弟であれば絆は深いが、長年溜めこんできた不満の蓄積も重い。
そこに、有能な美女が加わり見事な成果をあげたとしても、そのままことはスムーズに行くとは限らない。
(人に認められ、音楽的にもセールス的にも良い結果が得られたとしてもである)。
その彼女の存在が新たな火種にもなる。
小さな拗れが大きな(取り返しのつかない)爆発にも繋がりかねない。

人の関係性~コミュニケーション~の難しさである。
日常会話や議論は、時に暴力装置として機能する。
ことばのその線状的構造から一気にある方法に過剰に突き進んでしまう。
ことばとは常に厄介なのだ。

そのことばの意味(一義性)によって入った亀裂を、詩や音楽、絵画などは埋めてゆく作用がある。
彼らも優れたミュージシャンである。
観客に対しては、美と癒しと安らぎを提供することが出来る。
だが、その送り手としての自分たちは、その音楽に慰められないのか。

いや、やがて音楽が、また再び彼らを結びつけることとなるはず。
音楽とは、そういうものだ。


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ミシェル・ファイファーは素敵だった。
ピアノの上であのように唄えるものではない。










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シカゴ

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Chicago
2002年
アメリカ

ロブ・マーシャル監督
ビル・コンドン脚本
ボブ・フォッシー・フレッド・エッブ原作
モーリン・ダラス・ワトキンス戯曲原作


レニー・ゼルウィガー 、、、ロキシー・ハート
キャサリン・ゼタ=ジョーンズ 、、、ヴェルマ・ケリー
リチャード・ギア 、、、ビリー・フリン(敏腕弁護士)
クイーン・ラティファ 、、、ママ・モートン(殺人棟長)
ジョン・C・ライリー 、、、エイモス・ハー


見事な構成の圧巻のミュージカルだった。
のっけからヴェルマ・ケリー~キャサリン・ゼタ=ジョーンズのダンスに圧倒される。

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劇中の(ロキシーの)妄想から始まる歌とダンスがとても自然でちょっとミュージカルに苦手意識を持つわたしにも全く違和感無いばかりか、テンションをより高めて惹きつけられる形式~演出であった。
唐突に歌が始まるミュージカルでは無い為、それが苦手な人にも、問題なく鑑賞出来るはず。
様々な工夫が凝らされた演出が憎い。噺に丸め込んだ時のマスコミたちが操り人形になっているところなど流石であった。
ロキシーがビリー・フリンのシナリオ通りに喋るところは、彼女が腹話術人形になっていたのにも唸った(笑いながらだが)。
いっこく堂を思い出してしまったではないか。
「目も眩むショーで客を丸め込め」、「歓声にかき消され、真実の声など聴こえない」、「追い込まれたらダンスを踊れ」、「魔法を皆に見せてやれ」、、、等々。
セリフもふるってるし、話の内容も爽快で楽しい。
凄い名曲とまではいかなくても、どれもよく出来たグイグイ惹き込む曲が続き、弛むところがない。
逞しくもチャーミングな収監された女性殺人犯たちの切れの良いダンスと歌がたっぷり堪能できる。

流石アル・カポネの街だと感心する。
スキャンダラスをチャンスに。
犯罪~殺人もショービジネスである!
ヒロイン二人が夫を銃で撃ち殺して裁判の最中。
下手をすると絞首刑にもなり得る。
そんな際どいなかでの敏腕目立ちたがり弁護士も交えての攻防を面白可笑しくスリリングに仕立てたミュージカル。
「それがシカゴ」という決めゼリフには笑う。

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ビリー・フリン弁護士の自信は途轍もない。
「おれを5000ドルで雇っていたらあのキリストも架刑に処されることはなかった」などと罰当たりなことを平気で言い放つ。
その辣腕のお陰でロキシーは、新聞・雑誌・TVなどメディアを通して一躍アイドルになってゆく。
裁判も勿論、有利に運ぶ方向に乗っていた。
しかしロキシー人気が高まった矢先に、浮気夫とその彼女二人の計三人を射殺した女が現れ、衆目はそちらに向き、ビリーもロキシーそっちのけで彼女に関わろうとした。それを見たロキシーが何と妊娠を訴える!
これで再び人々の視線はロキシーに注がれ、臭覚の利くビリーも駆け戻って来る。
これにはヴェルマやママも驚き呆れる。
随分、鍛えられたものだ。その点では、筋が良いというのか。大物の資質を備えている。

このショウマン弁護士のでっち上げ等ものともしないマスコミ操作術や陪審員を味方につけるあざとい手法が見事に実を結び、ロキシーに対する人々の同情は高まり、結局ロキシーもヴェルマも無実を勝ち取り自由の身となる。
だが、その直後、金持ちの娘が夫と弁護士を射殺し、マスコミは彼女に色めき立ち、ロキシーのことなど放置してそちらに向って行ってしまう。
メディアに乗らなければ、人気商売~ショウビジネスはお手上げである。

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不仲ではあるが、ビジネスのために、”ロキシーとヴェルマ”として二人は手を組む。
この競演ステージは極め付きであった。
何といっても”犯罪者デュオ”で売り出すのだ。話題騒然。
客も集まらないはずはない。
ダンスの小物に銃まで出て来て、ちょっとシャレにならないが。
これで間違いなく成功を収める。

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主演の二人の女優はとても素晴らしかった。
最初は、ロキシーにちょっと物足りなさを覚えたが、徐々にしたたかで蠱惑的な魅力を纏ってきて、ヴェルマと互角にやり合うところに行く頃には、こちらも彼女を応援していた。
冴えない感じの女子がママ・モートンやビリー・フリンとの駆け引きの中で揉まれ、強かな知恵と自信をつけて、このヴェルマの域にまで迫って来たのだ。

最後には、シンクロも鮮やかな本当に息の合った二人のダンスで締めくくる。
これは本番のステージであり、妄想~心に描いたイメージではない。
本当のカタストロフである。

キャサリン・ゼタ=ジョーンズにとってはこのような役作りは手慣れたものであろうが、レニー・ゼルウィガーがこれだけ踊るのはさぞや大変だったと思われる。ウエイトもかなり落として体を締めて来たことはよく分かる(「ブリジット・ジョーンズの日記」から見れば歴然としている)。
よく頑張ったというところか(爆。
リチャード・ギアも充分に怪しく、本来なら人気取りの高額弁護料をむしり取る悪徳弁護士なのだが、ここではヒロイン二人を助ける出来る男でもあった。
面白い役をきっちり熟していた。
クイーン・ラティファの貫禄と歌も大変印象的であった。

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これは気持ちよく面白い映画である。
ちょっと体調の優れない時に観ると、きっと元気になる映画に思える。








また、路に迷う

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今日の様に、日が暮れてから雨やら雹が降ったりすると、わたしは路が分からなくなる事が多い。
どこをどう走っているのか判然としなくなる(笑。

普段馴染んでいる視覚情報がたちまち乱れてしまうのだ。
晴れ視覚~光景に依存しすぎて来たのか。
いずれにせよ、最近視力が弱くなっているのに、絶対的に視覚優位でいる。

土地感覚はほとんど身体に刻まれておらず勘も働かない。
所謂、立派な方向音痴の部類かも知れない。

ナビに何処かで切り替えて何とか難を逃れるが、切り替えタイミングが掴めず、車の流れの中で暫く見知らぬ風景の中を彷徨う事もある。
近くにこんな場所があったのか、と感慨に耽るような発見もたまにはあるにしても。

ナビを使うほどの場所ではなくとも、嵌った迷路の磁場から脱するには、ナビが有難い。
自転車ならどうにでもなるが、車だと一方通行や何やらで、深みに嵌る事が少なくないのだ。
何であっても出口は肝心である。

とは言え、わたしは時間に余裕を持って家を出る為、目的地に遅刻して到着する事はまず無い。
それにしても、娘のスケート教室行きで迷うとは思わなかった(爆。
すでに何度も来ているのに。
(ちょっと危ない方向音痴かも知れない)。

やはり早朝の教室の方が、眠くてボーッとなっていてもわたしにとっては良い。
朝と夜の世界は全く異なる。
その上、雨、雪、ましてや雹などパラパラ降ってくると~磁気嵐の際にも脳への影響で知覚に異常(多くは反応速度の遅延)が見られるというが~わたしの場合、それらでも何かが変わる。
光、色の変化で世界は変わるのだ。
(印象派か)。


教室は余裕で間に合ったにしても、結構大周りして着いたものだ。
今回は些か極端な例であったが、夜の雨の日はよく路に迷って来た。
そう、まず生理的に変調する感じがする。
だんだんそれがキツくなっているみたいだ。
単なるボケだろうか?

それはそれで構わない。
絵に没頭するなら、その方が好都合かも知れない。
ブログはそのうち、書かなくなるだろうな、、、。





レイク・マンゴー ~アリス・パーマーの最期の3日間~

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LAKE MUNGO
2008年
オーストラリア

ジョエル・アンダーソン監督
デヴィッド・パターソン音楽

タリア・ザッカー、、、アリス・パーマー(女子高生)
ロージー・トレイナー、、、ジューン(アリスの母)
マーティン・シャープ、、、マシュー(アリスの兄)
デヴィッド・プレッジャー、、、ラッセル(アリスの父)
スティーヴ・ジョドレル、、、レイ・カメニー(霊能者)


ドキュメンタリーを装って作られたホラー映画
インタビューを録りながら進めてゆくニュース3面記事的なノリで事件への臨場感を高める(演出する)。
結局、幽霊の存在を主張する霊能者側の立場に立った映画となっていた。

まず、アリス・パーマーが溺死したところから始まる。
不在の少女を巡る物語である。
ただし、父が事務的な検死に立ち会うが、その時の溺死体がはっきり鮮明に映し出される。
これは通常お茶の間ニュースでは人権などの配慮もあり映されることはない。
ドキュメントとしての表現からは、はみ出ている。


彼女の死後、パーマー家で不可解な事が起きる。
夜、家のなか、特に彼女の部屋で物音がする。
この音は父も母も兄もはっきりと聴いており、家族中が不安と恐怖に駆られてゆく。
家の点検も含め色々な角度から調べるが、原因は分からない。
母が霊能者レイのカウンセリングを受ける。
彼の提案もあり、兄が3か所ほど家の中のポイントになる場所にビデオを据え付ける。
もの音のする深夜の様子を掴みたいのだ。

するとそのビデオにアリスらしき人物が映り込んでくる。
(ちょいとお手軽な感じを受けたのだが)。
もしかしたらアリスは生きているのではないかという疑念が家族に生じ、墓を掘り起こしてDNA鑑定をすることとなる。
しかし結果はアリスに間違いないと言うものであった。
すると映っているアリスは、、、彼女の幽霊なのではないか、、、。

ここでアリスの彼氏が面白いことを語る。
「何故、幽霊が必要なのか理解できない。幽霊が人の喪失感を埋めてくれるのか?」
喪失感に対応して現れるもの(用意されるもの)が幽霊なのか、、、。
この認識はある意味、的を得ていると思われる。


深夜父が気配を感じ、アリスの部屋で座っているとアリスに実際に遭う。
これは決定的なことだ。
彼女は気づかない様子であったが、はっきり父は彼女を見た(という)。
彼がベッドの端か、何処かに触れて音を出したため彼女が彼に気づき、そこを出て行ってと激しく叫ばれる。
父は居間に行きさめざめと泣いているところを母に目撃された。
仕事に逃げていた(追い詰められた)父の深層心理において幽霊が実体化してきたのか?

しかしその後、兄のマシューが写真やビデオに映った妹の画像は全て自分が合成したものだと告白する。
家族は混乱する。
この兄は何を考えているのか?
これも兄の心的動揺~混乱による脅迫的な行為によるものか?

アリス存命のうちに録ったスマフォの動画や他人の家で撮られたビデオやらが色々なところから出て来て、秘密主義であったアリスの生前の人となりや思わぬ側面や抱え持ってきたものなどが浮上して来る(当然誰でも少なからずそういうものだろうが)。
そして、レイに死の5か月前にのっぴきならない理由でアリスはカウンセリングを受けていた。
このことが今更明るみに出たことで、パーマー家はレイに対する信頼感を失う。
そして、レイク・マンゴーに高校のキャンプで行ったときに、彼女が楽しく燥ぎ回るクラスメイトから距離を置き、別行動をとっていることが分かった。ここがもっともショッキングな場面であったが、彼女がその時に失くしたと家族に語った時計とブレスレットと携帯を彼女自身が埋めていたのだ。親友が撮ったスマフォ映像を手掛かりにその場所に行き、掘り起こしてバッテリーの僅かに残った携帯の動画を見てみると、そこにはアリスの溺死した時の顔が映っていたではないか。
恐らくこれが自分に降りかかる近い将来の災厄であることを直感し、恐らくは避けられない不幸とその恐怖に慄きレイのところに助けを求めに行ったことが推測できるのだった。

予めそういった運命が分かってしまう~分かったと確信してしまうことの恐怖と不安は尋常なものではないだろう。
母親からも秘密主義と言われていたアリスは、結局家族のだれにも相談せず独り抱え持ったままでダムの事故を受け容れたのか?
レイには相談したとはいえ、守ってはもらえなかったことになる。

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レイク・マンゴーから戻ってからある意味、パーマー家は前より家族としてのまとまりが強固なものとなっていた。
さらに距離が出来ていたレイとも和解を果たす。
そして残った家族で引っ越しをすることにしたのだ。

パーマー家は、アリスの存在~霊の存在をはっきり認識することなく、引っ越してゆく。
最後にアリスが母が部屋に入って来るのを見守るが母は彼女に気づくことなく家を出て行ってしまう。
兄が合成した映像の他の部分や写真にアリスが映っていることには誰も気づかず仕舞いであった。

もはやパーマー家にとって、霊は必要なものではなくなっていた。

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よくあるホラー映画にはない、とても物悲し気で内省的な音楽が印象的であった。
ショッキングに煽る映像や効果音も余り目立たなかった。
トワイライトゾーンの風景に郷愁を覚える。


わたしにとって、幽霊の役目について考える機会となった。








裸足のイサドラ

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Isadora
1968年
イギリス

カレル・ライス監督
モーリス・ジャール音楽

ヴァネッサ・レッドグレイヴ、、、イザドラ
ジョン・フレーザー、、、ロジャー(秘書)
ジェームズ・フォックス、、、クレイグ(詩人、舞台装飾家)
L・チェンバース、、、デアドリー(娘)
J・ロバーズ、、、バリス・シンガー(億万長者、シンガーミシン社長)
C・デュバレー、、、アルマン(ピアニスト)
I・チェンコ、、、セルゲイ・エセーニン(詩人)
V・レスコバール、、、ブガッティ(ブガッティのオープンカーに乗る男)



イザドラ・ダンカンの「わが生涯」を大学に入ったばかりに購入したのだが、まともに読んでいなかった。
彼女についてのちょっとした考察などは読んだものだが、全く覚えていない。
ニジンスキー(重力の超越者)と共に、超人的な舞踏家という印象だけは持ってきた。
わたしの観たこのフィルムは133分版であるが175分のオリジナル版があるという。
(それは現在、手には入らないようだ)。

彼女は12歳の時、「芸術と美に身を捧げ独身を貫く」ことを誓う。
その証に両親の婚姻証明を燃やす。
面白い子だ。
「美とは真実。真実とは美。真実と美に反するものには従いません」と誓う。
この確かな認識と信念は何処から来たのだろう。
美を愛にするとジョン・レノンか。

彼女にとって極めて自然に、生きることは踊ることであった。
波の調べや森に吹く風の声から踊りの着想を得ていたという。
人生の主な出来事は全て浜辺で起きたというのだ。
わたしはアフロディテであるというのも納得できる。

彼女はギリシャ風の簡素なチュニックを着て、トウシューズを履かない。
これは徹底している。
ギリシャ芸術に憧れ拘るというか、そこに本質を求めている。

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所謂、彼女はバレエを否定しているのだ。
その様式は人間にとり不自然であることから。
しかし彼女の舞踏が様式を持たないことから、学校の設立と教育にお金と心血を注ぐも、後継者はできない。
基本的に彼女の踊りは即興である。
その場から彼女が感得する霊感や直観により身体が自在に踊り出すものだ。
まさに天賦の才によるものであり、これを引き継ぐことは出来ない。

だが映画を観た範囲でも、彼女には憧れる。
自分の才能に全く疑問を感じたことがない人だ。
何時でも何処にあっても、自然に自分の踊りが踊れ、喝さいを浴びる。
この圧倒的な図式は揺るがない。
素晴らしいことだ。

この完全に自分を信じ解放していることが、全く周囲の規範などに囚われない自由恋愛にも直結しているのだと感じる。
逆にその恋愛感情や行動を理性的に抑圧でもしたら踊りの霊感も枯渇してしまうのだろう。
彼女にとって生~性は踊りそのものである(その逆も真)。
この流れに僅かでも滞りや不純物が介在すれば、誰をも魅了する舞踏は生まれまい。

自分を貫いたということでは悔いのない人生を送った人だと思うが、彼女の優れた遺伝子を継承した二人の子供(長男・長女)を事故で失う悲劇は、彼女のみならず人類の損失でもあった。
この子たちは、教える前から自ら踊り出していたという驚くべき資質を見せていたのだ。
やはり、血である。

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それにしても、イザドラの最期は余りに出来過ぎで、本当かと疑うところだ。
ブガッティに颯爽と乗り込み、「皆さんさようなら」と座席をすっくと立ち「私は昇天します」と言ったとたんにホイールにマフラーが巻き付き首を絞めるとは、、、確かに遊園地などで同様の事故があり、その可能性としてはあるにせよ、まさかあのタイミングはなかろう、、、と思う。
カード占いにも(事故)死を予感させる不吉な兆しが出ていたが、、、。

あらゆる意味で本当に濃密で非凡な生を生きた人だと思う。
その踊りが写真や動画で残されていたら、、、せめて画家が描いてくれていたらと思うと残念である。
(彼女が腰かけたところとポーズした写真は観たことがある)。
子供が健やかに成長していたら彼女の天才を継承した踊りが、少なくとも記録されたのではないか。


イザドラ・ダンカンのイメージとヴァネッサ・レッドグレイヴが今一つ合わない気がして観ていたのだが、いつの間にか彼女に馴染んでしまい、終盤には違和感は感じなくなっていた。







ガッジョ・ディーロ

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Gadjo Dilo
1997年
フランス、ルーマニア

トニー・ガトリフ監督・脚本・製作・音楽

ロマン・デュリス 、、、ステファン(パリから来た青年)
ローナ・ハートナー、、、サビーナ(ロマの村娘)
イジドール・セルバン、、、イジドール(ステファンの世話人、バイオリン弾き)
その他、大勢のロマのミュージシャン


初っ端の曲が余りに強烈であった為、後の曲はそれほど印象に残らなかった。
流浪の民は結局、砂漠に還るのか、、、?

亡き父の好きだったロマの歌手~ノラ・ルカを探しにルーマニアのロマにパリからやって来た青年ステファン。
ノラ・ルカに遭い歌を直接聴くことと、その他のロマの歌も収集することが目的だ。
ことばが全く通じず、村人から追い出されそうになるが、彼の持っていたノラ・ルカの歌のテープを聴いたイジドールが間に立ってどうにか仲を取り持つことになる。イジドールはロマの人たちにステファンがロマニ語を勉強しに来たと言って納得させる。
ステファンはロマの人々に怪しがられ(鶏泥棒と疑われ)ながらも彼らの共同体に次第に打ち解けてゆく。
何といっても彼の屈託のない笑顔が警戒心を解くのに好都合であった。
(ことばの分からない国外に行った時のにやにや笑いとは違う、無防備な赤ん坊のような笑みである)。

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ロマではないルーマニア人からの差別を受ける彼らの様子が残酷に描かれる。
その過酷な境遇が彼らの排他性にも繋がっているようだ。
ロマの音楽に魅了された青年が主人公であり、音楽が前面に出てくると思っていたのだが、この辺の差別と弾圧の問題が不可避的にテーマに上がってきてしまう状況のようだ。
つまり彼らの音楽が生まれる背景のひとつとしてこうした土壌があると謂える。
(とは言え、ヨーロッパは基本的にルーツを辿れば多くの人種の混交により成り立つ。何故、ロマがこれほどの目に逢うのか)。

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彼らがノマド(ノマドを強いられている)とは言え、ある期間留まり生活を送る必要はあろう。
(定住を望む場所もあろうし、定住を続けている例も少なくないはず)。
だがその際に彼らは定住者から侵入者として差別、迫害の対象とされるのだ。
少なくともこの映画の場面ではそのような構図が色濃く見られる。
イジドールの息子は無実の罪を着せられ半年も投獄された。
そして出所後、彼を警察に売った男たちのいる酒場に酒を奢りに行く(これが彼流の仕返しか)。
しかし、そこで侮辱されたことで相手を傷つけてしまい、彼は定住民たちに追われて、逃げ込んだ所で焼き殺され、村のテントも皆燃やされてしまう。
これを機会にロマ~他者を追い出してしまうのだ。
この構図、世界各地に次第に際立て見られるようになっている(アメリカ、イタリア、、、)。
父イジドールの嘆きは如何程のものか。
このような嘆きが音楽を楽士を生んでゆくのか、、、。

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しかし期待していたほど、彼らジプシーの音楽が聴けたとは思わない。
この10倍は聴きたかった。
ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」くらい音楽を堪能したかった。
ロマの魂の籠った音楽をもっと聴きたい。
踊りが自然な感情表現として嬉しい時も悲しい時も生じて来ることはよく実感できた。

焼け出された彼らジプシーがこれからどこに行くのか、、、。
こうして移動が続くのか。
ステファンは懸命に録音して集めたテープを壊して街道沿いのジプシーの村があったところに墓碑のように埋める。
そしてそこで彼らのように踊る。
彼のなかには今やジプシーの音楽が流れているのだろう。
(もはや「バカな余所者」ではない。テープなど必要ない)。


ユダやの民はイスラエルを得るが、ロマは土地を持たないようだ。
トニー・ガトリフ監督の映画に籠めた意図はよく分かる。また(希少な価値を持った)大変重要な仕事だ。
ノマドはひところ哲学的な意味で、全ての領地を(非常に主体的な意味で)横断する、あらゆる固着から逃れ全てを解体再統合する極めてアクティブ~アグレッシブなスタイルのように持ち上げられていたが、実際にそれを身体レベルで生きるとなれば(思想とは本来そういうものだ)、痛みと悲しみと多くの苦痛は必然的なものとなる。
そして定住する者でも余所者は必ずいる。アウトサイダーとして生きることを強いられる者である。
感性、感覚、思考が絶えずはみ出す者もロマに共振する精神は持ち合わせるはずだ。
であるから、彼らの音楽をこそ聴きたい。

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ロマン・デュリスとローナ・ハートナー以外は皆、ロマの村の素人さんで演技経験などない人たちが演じているという。
驚きだ。かなり個性の濃い人たちばかりで、情熱的で豊かな感情が伝わる。
イジドール・セルバンの演技など、もう演技を超えている。自らの境遇(経験)から自然に滲み出たパッションの成せる業か。
アッバス・キアロスタミ監督は素人を如何にも素人っぽく使うが、こちらはある意味、玄人はだしである。







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桜桃の味

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Ta'm-e-Gīlāss   Taste of Cherry
1997年
イラン

アッバス・キアロスタミ監督・脚本・製作
ホマユン・パイヴァール撮影

ホマユン・エルシャディ、、、バディ
アブドルホセイン・バゲリ、、、バゲリ(トルコ人剥製師)
アフシン・バクタリ、、、クルド人兵士


今度はジグザグ坂をランドローバーで走る。その点で心配はなく観る事に専念出来る(笑。

バディは自殺を決意しその手助けしてくれる人間を車で探していた。
深く掘られた穴があり、そこに自分は睡眠薬を飲んで寝るから翌朝覗いて呼びかけに反応無ければスコップ20杯分土をかけてくれと言う依頼である。
どれほどの悩みと苦痛により自殺を選んだのかは一切語らないが、他人に話しても頭で理解は出来ても実感する事は所詮不可能であるから話さないと言う。確かにそれはもっともだ。
礼金は20万払うと約束である。相当な金額らしい。

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最初に出逢ったのは、若いクルド人兵士で、金が儲かる簡単な仕事ということで、一度は乗りかかったが、仕事内容を察すると気味悪がって逃げていってしまう。
自殺の手助けなんてとても出来そうにない、まだ幼さの窺える内気な感じの青年である。
人選を誤ってはいないか。

次の男は、アフガニスタンの神学生であった。彼も貧しい苦学生のようであったが、バディの話を聴くと、コーランの教えのもと自殺は神に背く行為だと否定を繰り返すだけであった。
彼の立場ならそうするのは自然であろう。
普通、、、神学生にこういうことを頼むか?

コンクリート会社の掘削場で死んだように座り込み、思いに沈むバディの人影に土砂が勢いよく零されていく。この演出は実際に翌朝土をかけられる死のイメージを掻き立て秀逸であった。
映画ならではの演出を最大限に活かしている監督である。


いつのまにか助手席にいた老人は、バディの仕事を引き受けたただ独りの人間であるようだった。
最初、いきなり助手席にいるところから話が始まるため、バディの脳裏に浮かんだ架空の人物かと思った。
苦痛と悩みの内容は知らされないが、初老の男は彼をまるごと受け止め、彼の願いを聞き入れたのだ。
そして自分も過去に自殺を企てたが、首を釣ろうとロープを掛けた桑の実の甘味な味に助けられ自然の美しさに打たれ生還したと謂う。死を意識した後の生の素晴らしさを語る。
彼はバディの願いを受け止めた上で語る。夕日の美しさ、星空の美しさ、緑の美しさ、それらに君は目をつぶってしまうのか、と。
君が変われば世界も変わる。
わたしはむしろ君が生きる手助けがしたい、友よ、、、と呼びかける。

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バディの幻想かと、思った彼は自然史博物館まで送らせて中に消えてゆく。
バディは帰りかけるが気持ちを高ぶらせまた博物館に取って帰す。
そして剥製の製作方法を講義している彼バゲリを外に呼び出し、明日自分がただ眠っているだけかも知れないから、声をかけるだけでなく石を投げて起こしてみてくれ、腕を持って揺らしてみてくれと頼む。
バゲリはよおく分かったと言って講義に戻ってゆく。

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座り込んで空を眺めるバディ。
明らかに彼の心に変化が訪れているのが見て取れる。
長く伸びて行く美しい飛行機雲を見つめる。その後まさにターナーの夕日が燃え広がった。
そして黒い雲が空を覆い月も隠れて行く。
バディはその夜、穴に降り横たわる。

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とても解像度の荒いビデオ画面に切り替わっている。翌朝であろう。
穴から青空が窺え、外には撮影スタッフがカメラや集音マイクなどを持って働いている。
バディ役の俳優が緩んだ表情で歩いており撮影スタッフ、監督か?と何やら話す。
若い兵士達が号令をかけながら勢いよく列をなして走っている。
不思議に唐突に変わったとか物語を中断してしまったという感がない。

兵士達に監督から撮影終わり、もう休んで結構と言う指示が伝わる。
若い兵士達はめいめいに疲れた様子で腰を下ろし、談笑する。
映画自体は昨夜で終わってしまっていたのか、、、。
バゲリの出る幕はなかった。つまり、バディがどうなったかは示されない。
いや、それでよいのかも知れない。
この目の荒い光景が陽の光に包まれているようだ。
桜桃の味をあの自然史博物館のベンチで知ってしまったのかも知れない。
(バディ独りではなく、こちらも)。


そういう映画だったのか。
アッバス・キアロスタミという監督、かなり形式~様式美にこそ拘るひとに想える。
窓の扱い、光と影の使い方になど特に。
そういえば、小津安二郎の大ファンということだ。
(分かるような気がする)。








オリーブの林をぬけて

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ZIR-E DERAKHTAN-E ZEYTOON  THROUGH THE OLIVE TREES
1994年
イラン

アッバス・キアロスタミ監督・脚本・製作

ホセイン・レザイ 、、、ホセイン(夫役、撮影キャンプの雑用係)
モハマッド・アリ・シャバーズ 、、、監督
タヘレ・ラダニアン、、、タヘレ(妻役)
ザリフェ・シヴァ、、、シヴァ(助監督)
ファルハッド・ケラドマンド、、、前作からの監督役


ホセイン・レザイとタヘレ・ラダニアンは前作「そして人生はつづく」で震災の翌日に結婚した若夫婦を演じている。
(そこでは、タヘレは二階のベランダにおり、姿は見せず声~セリフだけの演技であった)。

実生活において少し以前から、ホセインはタヘレを見初めて、求婚し続けているのだが、彼女の祖母にはきつく断られ、彼女には無視されている始末(両親は先の震災で亡くなる)。何度も心の内を訴え、熱烈な求愛をしているのだが、一向に相手にされないで悶々とした日々を送っている状況である。彼は自分が文盲で家を持っていないことが彼女(特に祖母)の意に沿えない理由と受け取っている。
しかし、彼の理屈では、両者が読み書き出来ることも二人とも家を持っている必要もなく、お互いに補い合い協力し合って生活することこそが大切であり、持てる者同士が一緒になることより尊いことだという。
確かに一理あると、監督も頷く。
何れにせよ、彼としては彼女自身の口からハッキリと返答を聴きたいのだ。
さもないと気が済まない。諦めもつかない。確かにそういうものだろう。
彼らのやりとり、、、必死の説得と完全無視の対応の模様がたっぷりと見られる、、、。

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映画キャンプの雑用係であったホセインが代役でタヘレと新婚夫婦を演じることになり(結果は「そして人生はつづく」である)、暫く会うことも出来なかったのだが、これを機にお互いに話す機会が得られた。
これはホセインにとっては願ってもない好機であった。
「そして人生はつづく」で4分ほどの尺に過ぎなかったシーンが役者自身の日常生活の背景にまで拡張され極めて個人的な心の内まで晒され「オリーブの林をぬけて」という映画になってしまった、と言ってよいか。
所謂、スピンオフものだ、、、。
(これも入れ子状に全て作ってあるようにも思われるのだが)。

実際、靴下はどこだと言いながら階段から降りてきて一言二言交わすシーンをこんなに撮り直しするかどうかはともかく、降りるまでの上での待ちの時間を利用しホセインは彼女に対し饒舌に彼の結婚観を披露する。
彼女は、押し黙ってひたすら本を読んでいる。
聴いているかどうかも分からないが、濃密な二人だけの時間には違いない。

そしてタヘレがどうしても監督の指示に従わず、何度takeを重ねても、ホセインにトマトの入った袋を手渡す際に、彼を「さん」付けで呼ぼうとしない。
彼はタヘレを擁護し、最近の女性は夫をさん付けでは呼びませんよと監督を必死に懐柔しようとする。
そのまま撮影は終了となり、彼女は学校の勉強(試験)もあり、これでトラックに乗ってめいめいの家に帰ればそれっきりということとなる。

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そんな折、トラックに乗れる空間とメンバーの数がどうにも合わず、誰がどう乗るのかで喧々囂々となり、なかなか現場を出発できない。
業を煮やしたタヘレが自分の用意した鉢植えを手に持って、さっさとシートから降り、徒歩で家に向かってゆく。
それを見て焦っているホセインに、監督が君も若いんだから歩いて帰りなさいと、暗に彼女と帰るように促す。
(この辺、監督は人が良いのか悪いのか、よく分からないところである)。

当然、最後のロングショット狙いであるのは分かる。
もう、わくわくする大詰めになる(爆。

彼女の脚は思いの他速い。彼より脚も長い。
雑用係の荷物を下げながら、君の気持を聞かせてくれ~。
僕は君じゃなければダメなんだ。
おばあちゃんの意見はいいから、君の気持はどうなんだ。
何で答えないんだ、、、美しいことを鼻にかけているのか、、、などと言っている間に距離を開けられてしまう。

脚が速いでけでなく、地理に明るい。
林の中を、近道を選びどんどん進む。
ちょっと気を抜くと遥か前方にいるではないか、、、これは上手だ(わたしはそう感じた(笑)。
僕のことが好きならそう言ってくれ!
これだけ言っても君は何も喋らないのか?
君の心は氷なのか、、、とかなんとか、、、色々まくしたてるが、全く相手にしていないのは歴然としていた。

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そして待ってました。壮大なロングショット!
遥か遠くの彼女の元に林の中をちょこちょこ必死に追いすがるホセインの姿。
必死に動くパックマンみたいだ。
うんと近傍まで接近し、懸命に何をか訴えたのだろうか、その後のこちらを振り向く視線~その表情は、、、。
しかしその視線は、どこに向けられていたのか、かなり上空である。まさにわたし~視聴者にである。
そっと見守るなんていう監督ではない。そして彼も彼女も共犯か?!


、、、物語上、彼はどうなったのか。
わたしは目が悪いのでよくそれを読み取れなかったのだが、「ムンクの叫び」にはなっていなかったか?

走って荷物を両手に抱えて戻って来る彼の姿を確認して終わる。
ペーソスを味わいつつ宙吊りにされるわたし。
出来過ぎの物語にも当惑しつつ、、、。


物語の上で、基本的なところであるが、ホセインがいくら純愛を説いたところで、彼の話している最中にあてつけがましく本を読んでいるようなキツイ女性である。こんな女性と結婚を無理やりしても、わたしは彼が幸せになれるとは考え難い。
どうなったのか分からないが、いずれにせよ上手くはゆくまい。
(彼の考えでは両親が読み書き出来ないと子供の宿題が見てやれないから、片方は出来なければ駄目だと言う。しかしこれは家とは別問題に思える。家は彼の言うように同時に二つに住めないから片方の家に二人で住めば済むことだろう。だが文字の読み書きはそれ自体に留まらず、認識そのものに関与すること。文字を持たない者と持つ者の違いは家や金を持つ、持たないとは質的に異なってズレてくると思う)。


やはり最後にやってくれる監督である。





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そして人生はつづく

Life and Nothing More001

Zendegi digar hich  Life, and Nothing More...
1991年
イラン

アッバス・キアロスタミ監督・脚本

ファルハッド・ケラドマンド、、、アッバス・キアロスタミ監督
プーヤ・パイヴァール、、、プヤ(監督の息子)


とってもドキュメンタリー調である。
しかしドキュメンタリーでは全くない。
出演者もわざととぼけているのか、素人風に演じているのか、、、観るほどに怪しい作品である。
相当に曲者の監督である。

イラン北部を襲った大地震(1990年)で30,000人以上が死亡した。
キアロスタミ監督と息子プヤが映画「友だちの家はどこ?」に出演した少年の安否を確認しに現地に車で赴く噺である。
街道沿いに観る被害状況はかなり凄惨で深刻に見える。
大きな落石に圧し潰された車などが散見され、原形を留めない家屋の残骸を片付けている人や跡地に座り呆然としている人など、、、生々しい。
(セメントではなく泥と日干し煉瓦の住宅である。ひとたまりもなかった模様だ)。
これもどこまで作っているのか、分からないが。

路も塞がれ交通も渋滞しているが、どうにかなるさと脇道に入って行く。
黄色い非力なオンボロ車プジョー?でとことこ走る。
道行く人にコケールの被害状況を訪ねるがそこに繋がる道が寸断されているため誰にも分からない。
(自分たちの避難生活のことで一杯であり、他人事どころではないのだ)。
悪路をや急坂を踏破してゆかねばならぬ為、「その車では到底無理」と皆が口を揃えて忠告する。
しかし監督は「どうにかなるさ」と必ず呟く。
息子が後部座席から「この道で大丈夫?」と聞くと「道はどこかに続いている」と返す。
そして人生はつづくのだ、、、

終始、この調子で続く(笑。

ここでもジグザグ道をエンジンを吹かして昇り降りして行くことになる。
ロングショットで観ると、ユーモアとペーソスに溢れる、まさに人生そのものに思えてくる、、、。
結局、脇道に逸れながら走ってゆくうちに、どうにかなっている。
思わず自分の人生をそこに重ね合わせてしまった(爆。
嘘である。
ただ、こうして遠目に眺めてみるとコミカルだ。
物悲しいほどにコミカルだ。

ともかく、道を聴く人の誰もが家族や親族を何人も亡くしている。
例外なく親しい誰かが犠牲となっている。
次作「オリーブの林をぬけて」にメインキャストで出てくる震災の翌日挙式をあげた(という設定の)若い男性は、親族合わせて65人を亡くしたと言わされている。実際彼の親族で犠牲となったのは総勢25人だそうだが(それでも大変なことだ。そもそも数の問題ではない)。
にも拘わらず、このカラッとした前向きな姿勢は何か?
死んだ人は死んだ人、今生きているわれわれは生を愉しまなくちゃ。だって、次の地震で今度は自分が死ぬかもしれないじゃないか。
この乾いた土地柄もあろうが、彼らの培ってきたしたたかな哲学であろう。

道々で、映画のパンフを見せ、この子知ってると聞くと、誰もが映画に出てたあの子でしょと答えるのにも驚く。
物のない単調でしんどい生活を強いられているのかと思っていたら「友だちのうちはどこ?」を皆見ているのだ!
それにコケールとポシュテの住民はちょい役も含めかなりの人数が映画にちゃっかり参加している。
皆素人みたいな顔をして、実際素人ではあるが、素人っぽい演技をしたたかにしていた。

面白かったのは、「友だちのうちはどこ?」で終盤登場した扉職人の老人である。
この災害で家が壊れなかったのはわしのところだけだ、何故神様はわしの家だけ壊さなかったのだろう、、、などとセリフを語った後、この家はわしの家ではなく、この映画でわしの家とされているだけなんだがな、、、わしの家は壊れてしもうたと普通にバラしている。
そう「映画」なのである。
なんでもありなのだ。ここでドキュメンタリーフィルムを観ているような感じになっていた視聴者は水をかけられたような気持になるかも。内容と謂うより形式を解体するようなことを、敢えて意図的にしてくる。挑戦的というか戦略的というか。
思い出したが、ピエール・ド・マンディアルクが小説「大理石」で随分と硬質なめくるめくイメージの世界を堅牢に構築した、まっただなかで、主人公にこれは小説であると敢えてぶちまけて来た時の感じにも似ている。
この監督相当なものだ。

Life and Nothing More002

それに劇中の監督であるが、家が跡かたなく潰れてしまい、親族を何人も亡くしてテントに寝泊まりしている娘が皿を大量に洗っている水場にやって来て、君の兄弟が地震で亡くなった時の事を教えてくれとしつこくせがむのだ。
まだ10代前半くらいの彼女がPTSDであったら(少なからずその可能性はある)どうするのか。
この男は、他の少年にも兄弟がどういう風に死んだかを細かく聴いている。

最後の方で、テント村みたいになった場所で賑やかな歓声が聞こえる。
アンテナを遠くで立てているのだ。
ワールドカップのサッカーの試合が是が非でも見たいのだ。
この監督が何でこんなときにそんなにサッカーの試合が見たいのかね、と一生懸命アンテナを設置している青年に問うと「ワールドカップは4年に一度、地震は40年ぶりでしょ。観れるときに見ておかないと」今愉しめるものはとことん、愉しもうという姿勢が良く分かる。
そして彼が言うには20分前に探しているアハマッドが弟と一緒にストーブを持ってここを通ったよ、ということだった。
すぐにポンコツを走らせその方向に進むと、まさに二人の少年がストーブを持って歩いている。
しかし彼らは別人であった。車に乗せ彼らと語り合うが、例外なく身内の誰かが死んでおり、少年は蚊に刺されて母のところに向かったために助かり、兄は先ほどまで少年がいたところで瓦礫の下敷きとなっていたという。
彼らも例の映画はしっかり見ている。しかも片方の少年は映画に出ていた。
(他にも映画に出ていた少年に監督は出逢っており、成長したことを感慨深く語っている)。

コケールはどっちだね、彼らを下ろすときに聞くと、この車だとフルスピードで坂を登るしかないということだ。坂は3つあるという。
監督はフルスピードで駆け上がる。途中で乗せてくれと叫ぶ男がいたがそれどころではない。
カメラは上空にうんと離れてロングショットで小さな車を追う。
坂を青息吐息で登る黄色い車。
だがしかし途中でエンストか、ズリズリ後ずさりして遂に止まってしまう。
その時、遠くの峰を眺めると兄弟でストーブを運ぶ少年のシルエットが目に入る。
そこへ先ほど声をかけた男がやって来て、車を押して走らせる。
車は諦めたように来た道を帰って行く。
男はそのまま荷物を担いで急坂を歩いてゆく。
すると先ほど戻ったかに見えた監督の車が猛ダッシュで勢いをつけて駆け上がって来るではないか。
今度はその男を乗せ、坂をまた駆け登って行く。
ヴィヴァルディが実に爽やかに絡む。

相変わらずの演出に乗せられる。




”Bon voyage.”



金沢国立工芸館「ポケモン×工芸展」6月11日まで。人間国宝の実力派作家たちが新たな解釈でポケモンを創造。

金沢城公園、兼六園、金沢城、ひがし茶屋街、近江市場も直ぐ近く。
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