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GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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友だちのうちはどこ?

Where Is the Friends Home001

Khāneh doust kojāst ?   Where Is the Friend's Home?
1987年
イラン

アッバス・キアロスタミ監督・脚本

ババク・アハマッドプール 、、、 アハマッド
アハマッド・アハマッドプール  、、、モハマッド・レダ・ネマツァデ
ゴダバクシュ・デファイエ 、、、先生
イラン・オタリ 、、、アハマッドの母
ラフィア・ディファイ 、、、アハマッドの祖父

イラン北部のコケールが舞台。
そうとうな田舎である。
風が吹くまま」のシダレとどちらが田舎か、、、よく分からないが。
凄い土地だ。

今回もアッバス・キアロスタミ監督である。
8歳の少年が主人公である。
とても大変な濃密な一日を送るのだが、彼にとって一種のイニシエーションか。

様々な意味(政治的なものも含め)をくみ取れる余地があり、象徴も込められているかと思うが、そのまま少年に寄り添って彼のこころの打ち震えを実感したい。

朝の最初の授業で、少年にとって尋常ではない現場を経験する。
宿題をノートにやってこなかった少年が先生に退学のリーチを喰らうのだ。
先生に責め立てられ打ちひしがれて泣きじゃくるその少年ネマツァデ。
次回また同様なことがあれば退学というのだ(すでに同じ件で彼は3回注意を受けていた。この3回というのが限界値らしい。宗教的な意味もあるか)。
それを隣の席で見届けていたのが真面目で優しい少年アハマッドである。

アハマッドは下校時にすっころんだそのネマツァデ少年の脚を水場で洗ってあげる。
(どこのクラスにも一人くらいはいる世話の焼ける少年のようだ)。
面倒見の良い子だが、学用品を拾ってあげた際に、その退学リーチのネマツァデ君のノートも自分のカバンに入れて持って帰ってしまった。
帰ってすぐ、真面目に宿題をしようとした時に彼はそれに気づく。
アハマッドの唖然とした顔。今朝の修羅場がフラッシュバックする。
これは一大事だ!

ということで、彼のその友達の家にノートを届けに行く冒険の一日が始まる。
こちらもずっとハラハラし通しで寄り添わざるを得ない上手い演出で見せる。
まず家を出るまでが一苦労。母が彼の言うことを頑として聞き入れない。
事情を話しても、まず宿題をやれの一点張り、その上宿題の後にパンを買いに行けと命じる。
つまり彼が何故直ぐに(今日)届けなければまずいと訴えているのかを理解しようとしないのだ。
そわそわしながら宿題を始めるが、赤ん坊の世話やら何やら手伝いも次々に命じてちっとも宿題にも専念できない。
子供の話しは一切聞かず、一方的な身勝手な命令だけ押し付けてくる。
(大人側の考えとしては、規則を守り、言われたことは直ぐ行う、礼儀正しい人間にするための躾ということだ)。
これは、母だけでなく全ての周りの大人の傾向であった。

Where Is the Friends Home003

彼は隙を付き、意を決して、ジグザグな路を辿って丘を越え遠いネマツァデの住むポシュテまでノートを届けに行く。
手掛かりはポシュテという地名だけで、ひたすら聞き込みをしながら探してゆくのだがこれがちっとも埒が明かない。
細かい住所まではおさえていないのだ。名簿みたいなものはないらしい。
高低差のある細い路地をノートを抱えて走り回って、出逢った人に聞く。
ヤギの群れがその道を普通に通行して行く。
やはり凄いところだ。
ヤギが鳴き、牛が鳴き、猫が鳴き、鶏が鳴き、犬が吠える。

一度、コケルに戻ることになるが、祖父に見つかり在りもしない煙草を探してこいという躾~単なる意地悪をされる。
それで随分、時間を浪費するが、再びともだちの家を探しに走る。
「近くに枯れ木が立つ青い扉の家だよ」とか情報を得るが、青い扉でも違う家である。
よく見覚えのある茶色いズボンが中庭に干してあるため、てっきり彼の家だと思ったら違う子の家であった。
誰に聞いても的を得ず、その従兄弟までは近づくが、結局それもつかまらない。
ネマツァデという苗字の扉商人の後を追い、その家で尋ねると「この辺はみなネマツァデだよ」。
その地域がみんな同じ苗字というのは、日本にもある。

Where Is the Friends Home004

その内だいぶ暗くなってきた。
行き詰まる。パンはもうダメだなと、少年もこちらもすでに諦めている。
路地はいよいよ暗くなり、漆黒の闇から突然牛が人のように現れては静かに去って行く。
ステンドグラスのような灯りが暗い壁に反映するのが、余計に心細い。
そんな時に扉の上部が開き、お爺さんが顔を出して彼の呼びかけに応える。
(まるで寓話の世界みたいに)。

その物知り翁はアハマッドが探しているまさにその子をよく知っているという。
親切に一緒に行ってあげようと持ちかけるが、彼の表情は少し不安気である。
アハマッドはゆっくりと歩を進める扉職人の老人の案内で、暗い入り組んだ路地と階段を渡って行く。
少年は親に叱られる事は必須でもあり、かなり焦りの色は隠せない。
扉や窓に纏わる話をしながら事もあろうに老人は泉に差し掛かるとそこで気持ち良いと顔を洗い始める。
彼はアハマッドに花を一輪手渡し、ノートに挟めと促す。
そんな調子で充分遅くなったところで、その先の扉が、君の探している家だという目的地に辿り着く。
風が吹き荒ぶなか、アハマッドはその扉を前にして決断する。

扉を叩かず、踵を返す。
疲れた老人は彼に神のご加護をと言って自分の家にいそいそ入ってしまう。
ひとり残されたアハマッドのいる暗転した恐ろしい舞台袖には、犬が狂暴に吠えまくった。

少年はしっかり家まで戻ったが、夕食は勧められても拒否する。
父は無言でラジオを聞いていた。
その後、黙々と宿題を始める彼の目前で、突然扉が勢いよく開く。
真っ暗な闇に強風が吹き遊び、真っ白いシーツが激しくはためいていた。
それを茫然と見つめる彼。

明くる朝、例の宿題チェックを先生がはじめ、ネマツァデが怯えて顔を伏せ、まさに絶体絶命のタイミングに、アハマッドが救世主のように遅刻してやって来る。
ネマツァデの分まで宿題を完璧にこなし、そのノートを彼に渡す。
二人とも文句なしに合格するが、ネマツァデのノートには押し花が出来ていた。

アハマッドは大人に対する対抗策が練られるようになったようだ。

Where Is the Friends Home002

完璧な流れであった。
これに何かイデオロギーを当てはめて解説物などにしたら勿体ない。
しかし、ある意味、児童虐待的な演出にも感じられた。
出演者が皆、素人と言うのが、ちょっと際どい。
真に迫り過ぎているのだ。

舞台裏ってどうなんだろう?

花筐

HANAGATAMI001.jpg

HANAGATAMI
2017年

大林宣彦 監督・脚本
檀一雄『花筐』原作
竹内公一 美術監督
三本木久城 撮影監督
山下康介 音楽


窪塚俊介 、、、榊山俊彦(僕、17歳の学生)
満島真之介 、、、鵜飼(友人、17歳の学生)
長塚圭史 、、、吉良(友人、17歳の学生)
柄本時生 、、、阿蘇(友人、17歳の学生)
矢作穂香 、、、江馬美那(従妹)
山崎紘菜 、、、あきね(美那と同級の親友、老舗豆腐屋の娘)
門脇麦 、、、千歳(美那と同級の親友、吉良の従妹)
常盤貴子 、、、江馬圭子(叔母)
村田雄浩 、、、山内教授
武田鉄矢 、、、一条医師
入江若葉 、、、江馬家の婆や


大林宣彦監督最後の作品として、凝縮された想いを感じる仕上げになっている。
とてもアヴァンギャルドで濃密な様式美に統一され郷愁を抱かせるものだ。
(趣味的な小道具も満載で趣味的な匂いもプンプンする、、、レコード盤に等)。

169分が長くは感じなかった。細かいカットにトランジション(前半:ワイプ、後半:ディゾルブ)が多用され、ぎらつく極彩色の絵~空間にバッハの無伴奏ソナタが響く。
それぞれのキャラクターが劇画調にデフォルメされて単純化されアクも強く(年齢不詳で)、チェロや笛やハーモニカやら太鼓やら色々音も鳴り響き(鳴りっぱなしか)音の重なり、それぞれのキャラの反復する特異なフレーズに奇怪な画像合成による景観更にに血のメタファーと謂い、一時も目が離せない(いそうでまずいない各キャラクターにも惹き付けられる)。
箱庭のなかでの人形劇みたいなアーティフィシャルなエロティシズムと死が匂いたつ。
観ることの快感が味わえる眩暈を愉しむ映画だ。

佐賀県唐津市が舞台という。ホントか?
書割の夜の海に浮かぶ島影と謂い、呑み込まれるような大きな月に、吸い寄せるように誘惑する岬、、、。
江馬美那の喀血とバラの真っ赤な花弁の繰り返されるイメージ。
和洋折衷の館。医者の乗るイギリス製の古い自転車。ターンテーブルに乗った怪しいレコード、、、”nosuferatsu”。
千歳の二眼レフカメラ?は江馬美那の果敢なげな美を、吉良の望遠鏡はあり得ないアーティフィシャルな絵を切り取る。
祭では、あんなに沢山の(14種類もの)山車が繰り出すのか?
やはりどこか特異な場の出来事に想える。
そこに戦争の足音が聞こえ、17歳の学生たちは色めき立つ。

HANAGATAMI002.jpg

戦争がひょんな切っ掛けで始まってしまうことも熟知している脚の不自由な吉良。
(流石酒を呑み煙草を吹かす17歳学生である。面構えからして違う)。
だが、その戦争もどこの世界の戦争なのか。
ただし、その「戦争」(美那や義姉の圭子や吉良にとっては加えて「病」)という概念が彼らの生の自由を奪い生そのものも奪い去る死を際立たせる装置として作動し始める。
思わず飛び込む死臭の立ち込めるバーで、思いっきり酒を煽る鵜飼と榊山。
戦地に運ばれる馬に裸でまたがり浜辺を疾走して、その馬を解き放つ二人。
文学青年たちが、生と死を受け渡すことを拒否する身振りを始める。

本当に招集令状の届く身近な者~山内教授などが現れ、戦争が現実味を増す。
そして彼らは、死と恋愛と奇妙な友情の間で、殺される前に自ら命を絶って行く。
肺を病む美那も彼女を預かり守って来た圭子も亡くなる。
独り語り部である榊山俊彦が生き残る。
厳密に言えば、あきねも生き残ったのだろうが、忘れ去られた戦後の一般的民衆のひとりとなっていたのだろう。
戦争はそうやって忘却される。

HANAGATAMI003.jpg

叔母の江馬圭子の存在は両義性をもった女のイメージが強く打ち出されており、恋愛と死のイメージに彼らをくるみ込んでゆく。
パーティ、ピクニック、食卓の集いを重ねてゆくうち、彼女を中心にめくるけく、誰と誰が愛し合っているのか判然としなくなる、、、。
彼女自身、文字通りエロスとタナトスを体現している。
榊山俊彦は精神的な幼さを殊更強調するが何故なのか意味不明。
喘息持ちの阿蘇はそこに更に道化的要素が加わる。ゆで卵が彼ほど似合う人もいない。
アポロンのような精悍な鵜飼は、しかし思ったほど硬派ではなく、榊山と打ち解け一緒に遊びまくる。
これは少し意外であった。
やはり極めつけは、吉良である。
いちいち文学的なセリフで決めるが、その風貌と姿や仕草から虚無僧のニヒルさは、一貫していた。
こんな17歳いるだろうか。いや、昔はいたかも知れない。
あきねの素直で明るい元気さがここにあっては新鮮に思える。
人工的な照明の下、それぞれの生の一瞬の煌めきと果敢なさが甘味に綴られていた。

仮面ライダーで見てから随分久しぶりの矢作穂香(未来 穂香)は、しっかりヒロイン女優になっている。
これなら、かの浜辺美波にも対抗できるか、、、それくらいピッタリ役柄に嵌っていた。

HANAGATAMI004.jpg

大林宣彦監督がやりたいことを思いっきり詰め込んだ感のある、見どころ満載の大変濃厚な映画であった。
このように見るのが楽しいと感じられる映画に出逢うことは、余りないものだ。






セザンヌと過ごした時間

Cézanne et moi001

Cézanne et moi
2016年
フランス

ダニエル・トンプソン監督・脚本

ギヨーム・カネ 、、、エミール・ゾラ
ギヨーム・ガリエンヌ 、、、ポール・セザンヌ
アリス・ポル 、、、アレクサンドリーヌ・ゾラ(ゾラの妻)
デボラ・フランソワ 、、、オルタンス・セザンヌ(セザンヌのモデル、妻のような者)
サビーヌ・アゼマ 、、、、アンヌ=エリザベート・セザンヌ(セザンヌの母)
ジェラール・メラン 、、、ルイ=オーギュスト・セザンヌ(セザンヌの父、銀行家)
イザベル・カンドリエ 、、、エミリー・ゾラ(ゾラの母)
フレイア・メイヴァー 、、、ジャンヌ(メイド、ゾラの愛人)
ロラン・ストケル 、、、アンブロワーズ・ヴォラール(画商)


「セザンヌとわたし」ということで、ゾラの視点からのセザンヌか。
「ゴッホ」~「ゴーギャン」~「セザンヌ」というわけにはいかなかった。
(そのつもりだったのだが、、、甘かった)。
ゾラは中学に時に「居酒屋」は読んだ。もうほとんど何も覚えていないが。

セザンヌの仕事風景、制作過程などはほぼ無し。
パリでの印象派の画家たちとの交友やサロン絡みの面倒を逃れ、故郷エクスに戻り、あらゆる派閥や既成の方法・手法を離れ独自の絵画世界を探求する期間の話ではある。エクスでは、ほぼ隠遁生活に近い日々を送っていた。
(女癖は非常に悪かったが。ドビュッシーに感じられたものよりずっと酷い)。
とは言え、この映画で何が描かれていたのか、、、

余りに有名な「自然を円筒、球、円錐によって扱う」にどういう過程で辿り着いたか、その辺の試行錯誤や芸術論の変遷も展開もない。
観終わって正直なところ何を観たのかぼんやりしてしまい思い出せないのだ。
セザンヌがゾラのところにやって来ては管を巻いて帰る、これくらいしか記憶に残らない。
別にゾラの文学論も小説を書く苦悩も表されているわけでもない。
ただ、セリフの上でその過酷さを述べてはいたが、全く実感として迫るものはない。
友情がどうとか、わたしにとってまるで興味のない噺も面白ければよいが、何を言い合っているのか、そこに創造性はまるで窺えない、、。

草上の食事や水浴などの光景はまるで絵のモチーフのようであった。
印象派がそのまま飛びついて描くような景観はたっぷり見られる映画である。
しかし外で自然を描くことを強く主張するセザンヌだが印象派は否定していた。
(思想、芸術の方向性だけではないようだが、マネを酷く敵視している)。
彼は単なる光の戯れでは満足できない自然~対象の構造的な捉え方に腐心していたのだ。

Cézanne et moi002

仲間同士の会話やふたりの対話が多いが、ほとんどセザンヌが口汚く罵ったりしているだけで、興味が沸く話題が出ない。
「制作」という小説を巡り、セザンヌが何やらやたらとゾラに文句を言って食い下がっている。
「小説」という表現芸術において、たとえそこに実在する名称が使われていようが、それを現実のコンテクストに結び付けとやかくまくしたてる必要などあろうか。画家なら分かるはずだ。どれだけその人間の本質を突いた肖像を描こうが、それをもってモデルからいちいち文句を言われる筋合いのものではあるまい。絵は絵であるし、物語は物語に過ぎない。
当然、互いに才能を認め合いながら、片やゾラは「居酒屋」以降、成功を掴み大作家として地位と名誉と富も得たが、自分は落選続きで芽が出ないでいることに対する嫉妬もあろう(画家仲間から才能は評価されてはいたが)。

しかし、どういう親友なのか分からないが(少年時代を何時まで引きずるのか)、これで人間関係が成り立つのかと、思う。
わたしなら、さっと関係を切る。切り捨てる。別に後にセザンヌが「近代絵画の父」と評され多くの画家たちに天才と呼ばれようが、自分にとっては関係ない。

Cézanne et moi003

とても気になったのは、セザンヌがやたらとカンバスを雑に扱い、直ぐに癇癪を起し破ってしまうことだ。
本当に画家がそうも容易くカンバスを破るものだろうか?
売れていないのだから、そんな余裕があるのか。
しかも画家にとってカンバスとは、そんなものなのか?
ゴーギャンなど布が買えずに、麻袋の酷い布を使い丁寧にカンバスをこしらえ絵を描いていた。
(ゴッホもゴーギャンも激高する部分はあるが、カンバスは大事に扱っていた)。

全てにおいて破壊的な男だったのか?
画集などにも彼が偏屈な男であった様子の窺える文章はみられ薄々知ってはいたが、、、。
基本的には、人との面倒な関りを避けて純粋に造形実験を試みていた感があったのだが(勿論、人間なのだから様々な欲望や逸脱はあって当たり前だが)、ここまでとは思わなかった。
監督は随分時間をかけてこの辺の関係~事情を丹念に調べ上げたうえで、この映画を作ったという。

いつまでも妻として迎えられないモデルのオルタンスとの間に非常に生々しいやり取りがある。
「絵なんてやめて本当の人生に戻って来て。」これは創作に人生を賭ける人にとって多くがぶち当たる壁ではないだろうか。
「リンゴの方が人間らしいわ。」
わたしもその手のことは言われた記憶がある。
「彼は誰も愛してはいない。」ゾラの反語的表現か、、、。

オルタンスに対しセザンヌは「絵はやめない。描きながら死ぬ。」と毅然と答える。
実際に彼は絵筆を握ったまま亡くなっている。
その点では、大した男であった。

Cézanne et moi005

ぶつかり合いながらも、セザンヌとゾラは深い部分で繋がっていたことは確かだ。
そうでなければ、40年も腐れ縁でも続くはずがない。
お互いの才能が見えていたこともあろう。
如何に優れているか自分は分かっているのに、世間は認めない。そのために放っておけない点もあったはず。
それもあって、ゾラはセザンヌに金銭援助を続けていたのだ。

しかし、「制作」を巡って拗れた関係は修復されず、ふたりは別れる。
映画の終わり間際、ゾラが街に戻って来て雑誌のインタビューに答えているところにセザンヌも駆けつける。
人垣に隠れるようにしてゾラのことを見ていたセザンヌであったが、ゾラがセザンヌについて聞かれたときに「彼は天才だったが、才能は花開かなかった。」と淡々と答える。
それを聴いて肩を落として立ち去るセザンヌを追いつつエンドロールである。
救われない終わり方だと思っていると、、、

Cézanne et moi004

最後にやっと、観たかったセザンヌの「サント・ヴィクトワール山」が幾つもあらわれる。
(BGMも良い)。
饒舌に描かれた山が次第に単純化~純粋化してゆく。
徐々に画布には余白が目立って入り込み(いや、残されるのか)簡潔で確信的な山としていよいよ存在感を確固たるものとする。
この大胆不敵な物質感。絶対性。
これはやはり見事と言う他ない。
惚れ惚れする山だ!

画布の中心あたりに余白があるのにこの堅牢極まりない構造性は何なのか。
アングルとまさに真逆の造形である。
(セザンヌは劇中でもアングルを思いっきりバカにしていたが、本当にそれだけのことはある)。
ずっと、なんだかなあ、と思いつつ映画を観て来たのだが、最後のエンドロール上での「サント・ヴィクトワール山」ですべてが打ち消された(笑。
やはりセザンヌは最高!
ウンベルト・ボッチョーニフランツ・マルクと並び)。

このもう少しで抽象という間~縁に辛うじて留まるこの絵がたまらない。
やはりセザンヌは最高!

何であってもセザンヌはセザンヌであった。それでよい。







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ゴーギャン タヒチ楽園への旅

Voyage de Tahiti001

Gauguin - Voyage de Tahiti
2017年
フランス

エドワール・ドゥリュック監督・脚本
ウォーレン・エリス音楽


ヴァンサン・カッセル 、、、ポール・ゴーギャン
チュアイ・アダムズ 、、、テフラ(ゴーギャンのタヒチでの妻)
マリック・ジディ 、、、アンリ・ヴァラン(タヒチの医師)
プア=タイ・イクティニ 、、、ヨテファ(ゴーギャンのタヒチでの弟子)


ゴッホと違い、晩年は絵も結構高額で売れるようになり、評価も高まりある程度の手応えは感じる事が出来たはずのゴーギャンであるが、この映画で切り取られた場面はある意味、彼にとってもっとも苦しく貧窮を極めた時期であろう。
(時系列では、パリで株の仲買人と絵の買い付けをしながら絵の修行をしていた時期~妻はコペンハーゲンの実家に戻ってしまい単身パリで絵を本格的に制作し印象派展に出品する時期~ブルターニュ地方のポン=タヴァンの画家コミュニティで絵を描く時期~破産しマルティニーク島で赤痢やマラリアに罹りながらゴーギャン独自の個性の芽生えた絵を描き始める時期~ゴッホとアルルで共同生活をして絵を描く試みは、実りはあったが短期間で無残な破綻をみせる。~その後、ゴーギャンはタヒチという別天地で生命力あふれる作品を極貧のなかで制作し、パリに戻るまでの期間がこの映画に描かれた)。

Voyage de Tahiti003

タヒチの光景~人々は、ゴーギャンの絵そのものであった。
この絵はこんな場面でこんな風にして描かれたのか、、、というようなシーンが幾つもあり興味深いところであった。
(最後のエンドロールで、それが何枚も示される。物語を観た後のため感慨深い)。
降りしきる雨の中でゴッホが絵を描いていたのも印象的であったが、ゴーギャンもよく雨に降られたものだ。
どちらも本当に過酷で貧窮のなかでの制作に励んでいた事が身に染みるように分かった。
しかしゴーギャンの方は基本的に現地の住民には気に入られていたようである。
その分、ゴッホより過ごしやすい面はあった。
当時13歳の現地の美しい娘と結婚もするのだ、、、。

Voyage de Tahiti005

幼い妻テフラを得て(すでに妻とは完全に破綻し別居である)生まれ変わったように絵に専念する。
妻を娶る場面が面白かった。
遭ったばかりで、「お前はあの男を気に入ったのか?」「気に入ったわ」
これで唐突に決まるのだ。
若くて神秘的な美に湛えられたミューズでもある妻が突然舞い降りたのだ。
少し前に心臓病で倒れ、病院に運ばれた身であったが、これを機に復活する。
この恩寵に、心身共に元気が出て創作活動にも力が入るが、、、。

流石に霞を食って生きるわけにもいかない。
金がなく到底、妻に満足に食わせるどころのはなしではない。
やはり経済的基盤がないと、何をやろうにも上手くはいかない。

Voyage de Tahiti002

彼は所謂、西洋絵画の写実を追う制作に飽き飽きしており、原始的な芸術の象徴性や当時持て囃されたジャポニズムの芸術~浮世絵などの世界に活路を求めていた。
この地での制作は、自然と新たなミューズのお陰もあり、確かな実を結んだとは謂えよう。
モチーフにも拘るが想像力も駆使して形体と色彩及び構図を単純化して構成~編集する彼の絵画はこの時期に完成する。
だが、世間の評価はさほど芳しくはない。
誰もがゴッホのような慧眼を持つわけではないのだ。
それにこの劣悪な住居環境は快適さのみならず健康にもよくはない。
妻も苦しい生活から徐々に気持ちが離れてゆく。

Voyage de Tahiti004

このタヒチで弟子になった若者は、ゴーギャンの彫刻をそのまま真似をして、幾つも同じものを作り、西洋人相手の商売をして儲けてゆく。所謂、お土産品である。
ゴーギャンは自分の教えと真逆のことをしているこの男に激怒するが、自分は全く金が入らず、港で積み荷を運ぶ仕事に追われる始末であった。絵も満足に描く余裕がない。
おまけに、このかつての弟子に妻まで奪われてしまう。
皮肉なものだ。
心臓病も思わしくなく、タヒチでこのまま生活を継続することが不可能となり、彼はパリに戻る決心をする。

最後、悲哀の籠った眼差しでタヒチを眺めながら船に揺られ、、、この物語は終わる。

Voyage de Tahiti006

作家にとり、「ミューズ」がその制作にかなりのウエイトを占めることが分かる。
確かにそうだ。
タヒチには再び行くが、この別れた妻とまた会うことはなかったという。
この二度目のタヒチ滞在期に、あの傑作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』が描かれる。生活も安定し大きなアトリエも建て、画家仲間とのコミュニティも作り大きな発言力ももっていたようだ。
だが、健康状態は次第に悪化して行った。
(映画とは関係ない方向にいくのでやめる)。


ヴァンサン・カッセルは、「ジャンヌ・ダルク」のジル・ド・レイ、「ブラック・スワン」のバレエの演出家、「美女と野獣」レア・セドゥが美女役の野獣 / 王子など多彩な役を見事に熟す役者だが、このゴーギャンはちょっとイメージが違った。
どう違うとは言い難いのだが、わたしには今一つ馴染めなかった。ゴーギャンとしては、、、。


彼の演技は思いの他沢山見ていたことに気づく。
イースタン・プロミス」、「チャイルド44 森に消えた子供たち」、「たかが世界の終わり」、、、思い出す、、、。
芸達者だが伝記映画だと、どうしてもその主人公に対するイメージがすでに観る者のうちに色濃くあるため難しいものだろうなと思う。









ゴッホ 最期の手紙

Loving Vincent001

Loving Vincent
2017年
ポーランド・イギリス・アメリカ

ドロタ・コビエラ、ヒュー・ウェルチマン監督
ドロタ・コビエラ、ヒュー・ウェルチマン、ヤツェク・デネル脚本
クリント・マンセル音楽

声と演技:
ロベルト・グラチーク、、、フィンセント・ファン・ゴッホ
ダグラス・ブース、、、アルマン・ルーラン(ゴッホ最期の手紙を託される青年)
ジェローム・フリン、、、ポール・ガシェ(ゴッホの主治医)
シアーシャ・ローナン、、、マルグリット・ガシェ(ポールの娘)
ヘレン・マックロリー、、、ルイーズ・シュヴァリエ(宿屋の娘)
クリス・オダウド、、、ジョゼフ・ルーラン (アルマンの父、郵便局長)
ジョン・セッションズ、、、タンギー爺さん(画材商)
エレノア・トムリンソン、、、アドリアーヌ・ラヴー (ガシェ家の家政婦)
エイダン・ターナー、、、貸しボート屋


「われわれは自分たちの絵によってしか語れない」
という冒頭のゴッホのことばから始まる。
文字通り、「絵」が語り始めるのには驚愕である。

大変な労作アニメーションだ。
こちらの見方としてではあるが、通常の映画からは考えられない大変な情報量に晒される。
流して見れる場面など何処にもない。
しかもリズムと流れがよく、モダンな作りで観やすかった。
(これで晦渋な作りであったらかなり厳しいか)。

(わたしにとって)初めて見る表現形式だ。
ゴッホの絵の世界がアニメーションとして動き、物語るのである。
(回想のシーンはモノトーンとなる)。
途方もなく挑戦的だ。
贅沢極まりない経験だ。
途中ポーズして眺めながらの鑑賞となった。

更に絵だけでなく物語としての踏み込み方も素晴らしい。
ゴッホの出した最期の手紙を発端に彼の謎の自殺の真相に迫るものである。
脚本にも感心した。
この映画は吹き替えで観るに限る。山田孝之の吹き替えがとてもカッコよい。
文字など追っている余裕はないとは言え、ちゃんと筋を追う必要がある。スリリングで面白いのだ。

ゴッホが死んだ翌年、1891年アルルに始まる。
アルマン・ルーランがゴッホの出し忘れの手紙を遺族に届けにゆくよう父に頼まれる。
「親しい相手が生前自分宛てに書いてくれた手紙があったら読みたいだろ」と諭され渋々承諾する。
しかしテオはすでに他界しており、他に手紙を託す人を訪ね彼の旅は継続する。
彼はオーヴェールに赴き、彼のことを聞いて歩くなかでゴッホと言う人間に深く魅せられてゆく。
そしてゴッホは自殺で死んだのではなかったことを知る。

Loving Vincent002

ゴッホは死ぬ6週間前に完全に冷静で落ち着いているという趣旨の手紙をジョゼフに送っている。
他の者も彼は幸せそうで充実した様子だったと。調子は至って良かったのだ。
そして自らも芸術家である主治医ポール・ガシェは、彼が天才画家として認められる兆しも見ていた。
そんな矢先である。

他の医者で、彼が距離を持って誰かに撃たれたと証言する者もいる。
低い位置からゴッホの腹部を狙ったと。
自分では到底撃てない角度であり、そもそも自殺するなら人はこめかみか口に銃口を咥えるはずだと言う。
もっともである。
筆まめな彼が遺書も残さず自殺するとは考えられない。少なくとも何らかの言葉をテオに残すはず。
「ふたつのこころ、ひとつの精神」と自分たちのことを呼んでいたくらいだ。

Loving Vincent06

ゴッホが誰かをかばってこれは自殺だと言い、真相を闇に葬ったことは確かだ。そして彼は宿のベッドで二日後に息を引き取る。
何という人だ。
もし絵が売れていて、テオに経済的圧迫をかけていなければ、こんな死に方はしなかっただろう。そしてテオが心労から兄の後を追うように衰弱して死ぬこともなかったはずだ。
何故、生前にあれほどの絵が売れなかったのか?
主治医は彼の死後飾ってあった絵を勝手に持ち帰ってしまうが(それなら生前に購入したらどうか)。

朝9時から5時まで雨が降ろうと暑かろうと規則正しく絵を描きに行き、夜は弟のテオ宛に長い手紙を書き綴る。
まるで宗教者~行者のような生活である。言葉の真の意味においての宗教的な人間である。
であるから俗物たちから排斥されるのだ。
特に耳を切り落としてからの風当たりは凄まじかった。
苦悩~病のもがきを禍々しい狂気としか捉えぬ連中である。
ゴッホにしても、ゴーギャンを親代わりには到底できないことは悟るべきであった。
芸術的な面での良きライバルであっても、それ以上の存在にはなれない。

Loving Vincent003

この彼の孤独はどこから来ているのか。
画材商のタンギー爺さんの語る、テオから聞いたのだろう、噺が示唆的である。
彼は幼いころから家族には馴染めず大変な心労を味わって育ったそうである。
何と彼には死産した兄フィンセントがいた。
両親にとってはそちらが本当のフィンセントであり、生きているフィンセントではなかったのだ。
これはダリと全く同様のパタンではないか!
彼の根本的な生き難さはここに起因するのだろう。
ただし彼には希望があった。
テオという絶対的な存在=味方がいたのだ。
それで何とか苦難にも立ち向かえたのだが、モネからアンデパンダンで「輝ける星」とまで評価されながらも絵は売れず、テオ一家の経済的な負担を益々大きくするばかりであった。彼は人に撃たれたにせよ、それは彼自身の望んだことであったかもしれぬ。

アルマン・ルーランの洞察は的を得ている。
警察官に後になるが、適任であろう。

Loving Vincent005

油絵ですべてを繋いだという。セル画ではなく油絵であり、その枚数は62,450枚にのぼる。
1秒12枚の動画である。部分を描いて重ね合わせるのではなく、背景まで全てを描くのだ。
作画に動員された画家は125人だそうだ。
アニメーターではない。画家である。
途中でノイローゼになる者はいなかったのか。
俳優が実演した実写をもとに油絵でアニメーション化したもので、ゴッホの肖像画に登場した人物に似た俳優が選ばれている。ホントにそっくりなので感心する。

製作に7年というのも頷けるものだが。
どうなのだろう。写真画像を油絵風に加工するアプリがあるが、それの高度なものなら油絵を実際に描かずに同等の効果は得られないだろうか?コスパ的にも製作時間も詰められる気はするが。
わたしなら迷わずコンピュータパワー&アプリケーションに頼ると思う。


ゴッホをより深く見る機会になった映画であった。
何を置いてもまず生きることは描くことであった人だ。
彼はもっと愛されるべき人間であった、と アルマン・ルーランも呟いていたが、まったく同感である。
周りの誰よりも真摯に物事に接する、品格のある求道者であった事は確かだ。

周りの人間の見る目があのように様々〜多くは酷いものであったが、ピストルで撃たれた(自殺とされた)件についてもその現場状況の認識が人によってまるで違うというのも、ゴッホの最期を有耶無耶にし、ひいてはゴッホ像を禍々しく脚色する余地を与えている。

ただし、彼が自ら死を選んだ事は間違っていないと思う。
それは余りに哀しい。



コレクター 暴かれたナチスの真実

DE ZAAK MENTEN005

DE ZAAK MENTEN
2016年
オランダ

ティム・オリーフーク監督

ヒイ・クレメンス、、、ハンス・クノープ(ジャーナリスト)
アウス・フレイダヌス、、、ピーター・メイデン(絵画コレクターの億万長者)
ノーチェ・ヘルラール、、、ベティ・クノープ(ハンスの妻)
カリーヌ・クルツェン、、、メタ・メイデン(ピーターの妻)
アイアン・フォッペン、、、ピーター・メイデン(ピーターの弟)


「ナチスの真実」が暴かれているのではない。
こういう嘘をタイトルでつけたら詐欺に当たる。
人によっては、ナチス自体に関心があり、ナチスの何らかの真実を知ることを目的にこれを観ようと思うだろう。
単にポーランドで、ナチスの威を借り美術品の略奪と共産党員を中心に虐殺の限りを尽くし、巨万の富を築き私利私欲を充たした男の真実が語られているだけである。ナチス(組織)がやらせているのではなく、あくまでもこの男(の欲望)の仕業なのだ。
ただし、この男(の描かれ方)については、観てみる価値は充分にあろう。
この犯罪者の異常さは、やはり自分のしたことに対して何の罪の意識も持ち合わせていない点にある。
寧ろ無意識的な、この欲望の根拠とは何なのか、手段など選ばず遂行されるこの欲望の絶対性に戸惑い唖然とする。

DE ZAAK MENTEN004

そして全く事実と異なることを主張して被害者の顔をしている。
虐殺の場にいた生存者の証言やナチスの軍服を自ら着た写真、現場から掘り起こされた夥しい人骨、名画略奪の事実など多くの物的証拠があがっていっても強気に跳ね返す。
ナチス占領下で逃亡を図るユダヤ人の資産を買い取り支援をして感謝状を貰ったなどと嘯く。
当時の事情をもっともよく知る(隠遁している)弟については、もう死んだと騙る。
(弟はそれを知らされ、憤り呆れはするが、関わることは固辞する。その面倒さ加減を知っているからだ)。

メイデンは嘘がバレようが金の力で証言者を抱き込み、息のかかったメディアや政治家を利用し何とでもなると高を括っているのだ。
実際にそうした成功経験を積んできている。
「わしは一度も負けたことがない」実績がある。
その妻も彼と同様の精神構造であることには驚かされる。単に似たもの夫婦というところなのか、どうか。
お互いにいたわり合い支え合っている。そんぞそこらの夫婦よりも結束は固い。
(愛情と謂うより一心同体の共生関係みたい)。

実際、戦犯の割り出しとその責任追及は国もまたがり時効の問題もあり法的な制限からもかなり困難を極めるようだ。
それに加え、対象が資産と政治的力を蓄えている場合は生半可ではない。
更にその個人のパーソナリティ~人格である。
金銭欲と物欲だけでなく、サディスティックな支配欲も旺盛なのだ。
わたしもコレクターだが、共感できるところは何もない。

DE ZAAK MENTEN001

1976年のオランダはアムステルダム。

大富豪のピーター・メイデンが自分の所有する名画を大量にオークションにかけるというニュースをきっかけに、メイデンのかつて犯した忌まわしい犯罪の情報がジャーナリストのハンス・クノープに寄せられ、彼の粘り強い取材を通してその禍々しい事実が次々に明るみに出されてゆく。

DE ZAAK MENTEN002

金と地位による力を行使するメイデンは大変手強い存在であり、何と同じ新聞社でもハンス・クノープの取材を邪魔し、メイデンに有利な記事を書いて真相を潰そうとする記者も出てくる。
逆にクノープのでっち上げのような情報まで流され窮地に追いやられる。
まさにクノープの言うように「後ろから刺される」事態に等しい。
おまけに新聞社を辞める羽目にもなる。
これが事実に即した物語と言うのだから、実に重く苦々しいものであった。
だが執拗に弟に働きかけていたクノープの執念が実を結ぶ。
危うくメイデンが無罪を勝ち取る寸前まで行ったところで、弟が法廷に資料を抱きかかえて出廷し大逆転となるのだ。

DE ZAAK MENTEN003

ただ、この展開を追ってゆくと、やはりよくあるドラマである。最終的に既視感を覚えてしまう。
そう、クライム映画や日本の二時間ドラマでも悪徳事業家と政治家、マスコミとの絡みに対し孤軍奮闘して真相に迫る刑事やジャーナリストものなどこのパタン~物語構造に収まってゆく。つまり想像し易く、考え易いとも謂えよう。
僅か懲役10年の刑が言い渡され、然も5年で出所というのも、メイデンがうんと長生きしたことも、やはり物語的には想定内。
本当は(当事者にとっては)途轍もない一回的な事件であり大変な悲劇なのだが、何故か既知の物語に絡めとられて記録される。
何とも居心地の悪いものを覚える。

更にこの最後は痴呆症になって死んだというメイデンという存在である。
この無反省さは何かに似ていると思いつつ観て来たのだが、「親」という存在にそっくりであった。
そういう構造を観て来たのか、と思ったのだがどうなのだろうか、、、。








娘の用事を巡り

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土日のスケジュールは何時も一杯。

娘の用事で。

昨日は(特に仲良しのピアノの上手な)お友達のお家に招待され、おもてなしを受ける。
とても盛り上がったそうで、遅くまで遊んで、お菓子なども沢山ご馳走になり、御厄介になる。
(おやつ持参で行ったのだが、ほとんど持ち帰ってきた)。
庭でとれた金柑を持っていけてよかったが、量がちょっと少なかった(もうしこたまジュースで飲み、ジャムにしてしまっていた)。
おまけに帰りは車で送り届けてもらう。

わたしが迎えに行くことになっていたのだが、手間が省け助かった。
その隙にブログが一つ書けた(昨日の記事)。
今度遊びに来る時は夕食もどうぞと言われたとかで、二人ともその気になっている。
考えてみると、親戚の家とわたしの友人宅での食事は経験しているが、所謂よそ様のお宅で食事をしたことは、ない。
そういう経験も大事だ。一度、お言葉に甘えるつもり、、、。

何が面白かった、と聞くと、みんな面白かったと返す(予想通り)。
特に何?と問うと、アイロンビーズだそうだ。作ったものを大事そうに持ち帰って来た。ライオンのチョコレートみたいで美味しそうな絵柄である(次女の物)。他にはと聞くと、昔の思い出話だそうだ。ガールズトークとは違うのか?
いろいろこんなことがあったね、という類の話みたいだ(内容的にはガールズトーク)。
時折、家でも「わたしらが若い頃」、、、などと話すことがある。
こちらは、そんなとき眩暈に襲われる。
それから?と聞くと「お相撲」だそうだ。その子も下に妹が二人で、みんな女子だが何故かお相撲をとって面白かったらしい。
指相撲や腕相撲もあったようだが。面白ければ何でもよい。
そして何より長女が驚愕していたのだが、下の妹さんたちの名がそれぞれ乃木坂の人気絶頂のあの二人の名前なのだそうだ。
これは、わたしも凄いと唸った。長女に関しては、まだその頃は乃木坂は生れていないので付けようもない。
ともかく先取りしている。

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今日は朝からスケート。行きは真っ暗だったが、帰りはすっかり明るくなっていて、時間感覚が宙吊りになる。ただ欠伸が出て眠気が襲ってくる。無理矢理運転中に缶コーヒーをしこたま飲む。
スケート自体は、先々週の延長であった(先週の練習は風邪で休む)。
帰って掃除と洗濯物を干して、今度は公園に車で向かう。
お外で良い空気が吸いたいし、遊びたいと。
次女は予定があるとかで家に残る。
プロ用のイラストペンを買ってから、絵ばかり描いている(早くも二色インクが無くなり購入した店に単体購入メールを出す)。
今日は長女とずっと一緒で、次女とはほとんど顔も合わせる暇もない。
長女と一緒に何時もの公園へ。
アスレチックで遊んでから、暖かなコーヒーラウンジで読書をする(ここは食べ物・飲み物持ち込み可)。
ここでも、欠伸が止まらない。持って来た缶コーヒーを飲む(最近、缶コーヒーをよく飲む。糖分も多く余り体に良い気はしない)。
近くのコンビニでチキンナゲットとおにぎりを買ってくる。
ほとんど長女が食べてしまい、わたしは焼きおにぎりひとつだけ食べる。
中途半端に食べたため、とても空腹感を覚える。
二人で、日の光を楽しみながらメタセコイヤの路と木漏れ日の路をそそくさ歩いて車に乗り込む。

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帰ってから何かの記念日でもお祝いでもないのに、何故か御馳走をたくさん作って、夕食はひたすら食べた。
久しぶりにビールもよく飲んだ。
朝も早かったので、もう眠ることにする。



10億ドルの頭脳

BILLION DOLLAR BRAIN001

BILLION DOLLAR BRAIN
1967年
イギリス


ケン・ラッセル監督
ジョン・マッグラス脚本
レイ・デイトン原作
リチャード・ルーニイ音楽

マイケルケイン、、、ハリー・パーマー(英国の諜報局員)
フランソワーズ・ドルレアック、、、アーニャ(ソ連の工作員)
エド・ベグリー、、、ミッドウィンター将軍(打倒コミュニズムを唱えるタカ派、自由十字軍を組織)
カール・マルデン、、、レオ・ニュービギン(旧友、自由十字軍に所属)
オスカー・ホモルカ、、、シュトーク大佐(KGB)
ガイ・ドールマン、、、ロス大佐(MI5の上司)


『国際諜報局』と『危機脱出』の前二作があり、これはそれに次ぐ三作目にあたるようだ。
傑作『アルタード・ステーツ/未知への挑戦』のケン・ラッセル監督によるもの。
畳み掛ける迫力ある編集は刺激的であったが。

合言葉、「今や我らが不満の冬」緊張の続く冷戦下に膨らむ陰謀、、、。
ヘルシンキの雪に合う、いやスパイの哀愁を湛える音楽~テーマは妙に合っていた。

『10億ドルの頭脳』とはメインフレームを指すようだ。
テキサスの危険な石油王の反共産主義者ミッドウィンター将軍の所有するホストコンピュータである。
大掛かりな巨大なコンピュータがカタカタ動く味のある光景だ。
パンチカードと紙テープ、、、お茶の水博士を思い出す、、、。良い雰囲気だ。
この「頭脳」の指令に彼の組織「自由十字軍」の部下たちが従っているらしい。
神懸った狂信者の集団であるが、中には思惑絡みの者もいるようで、レオ・ニュービギンもその一人か。
そして彼の如何にも怪しい恋人役をしている謎の美女アーニャなど怪しさのかたまりか。
(レオは本気でアーニャを愛しているようだが)。
利用し利用され、騙し裏切る世界である。狂信者も洗脳の賜物による。兎角、そういうものだ。


ハリー・パーマーは大真面目にウイルス卵運びをする。
金に弱い。
ともかく、雪の中をしこたま歩かされることとなる。
最初から最後までずっと雪と氷ばかりで相当寒い思いをしたはず。
そのなかでイギリス流のユーモアもタップリで、007と比べてかなりマッタリしている。
いやコミカルでもある。
お間抜けですらある。
(勿論ジョニーイングリッシュまではいかない。真面目な劇なのだ)。

保安局を辞め私立探偵をやってコーンフレークばかり食べていたが、かつての上司ロス大佐から国家的重要任務に戻ることを促される。
それを断り、依頼された妙な指示の仕事を引き受けるが、殺人事件に巻き込まれ、、、
成り行きでMI5に復帰しカーナの後任に任ぜられる。
昇進と昇給で納得する。
それは危険組織「自由十字軍」の内情を探る任務であった。

フランソワーズ・ドルレアックは正体不明の美女をミステリアスに演じている。
チェロを弾いているがとても初心者丸出し。
その辺が妙に可愛い。
「頭脳」の言うとおりにハリー・パーマーを殺そうとしながらもシュトーク大佐の下で働く工作員というのも、どうなのか?

レーニンの語ったという、一時的利益というのは面白い。
人民を歴史的使命から逸脱させる快楽だという。
これに応えてハリーは、英国人民の歴史的使命は一時的利益が主だという。
やりとりは、ほぼこんな調子だ。
旧友のレオと行動を共にするが、常に彼に裏切られ命を狙われるのだが、いつまでも無防備に彼と付き合っている。
得体の知れない自由十字軍と名乗る従兄集団に警戒もなく混ざってしまったり、この人大丈夫なのかと思うが、絶対死なない人だとすぐに分かる。

そういった意味ではほとんどスリルも緊張感も何もない。
隙だらけでしょっちゅう敵に捕らえられたりするが、拷問にもかけられず、うまいことKGBのシュトーク大佐に助けられる。
(頭を一回叩かれたときは痛そうだったが、、、そんなものだ)。
MI5は何やってんのか?KGBのアンテナが凄い、というよりハリー・パーマーがマークされているだけなのか。
やはりMI5は何やってんのか、である。
普通のスパイとかなら、すでに何度も殺されている。
ともかく、やたらとシュトーク大佐が濃い。
何でそんなに身近にいるのか。

自由十字軍~ミッドウィンター将軍はラトヴィアが蜂起寸前だと信じており、それに加担しコミュニズムを一掃すると軍事的な準備を進め、ついに実行に移す。が、大挙して進軍~侵攻するが氷が割れてトレーラーもろとも水没し、野望は呆気なく水の泡となる。
ここでもハリーはひとり生き残る。
氷の上にヘリでまたもやシュトーク大佐が降り立ち、一噺してから、アーニャの素性を明かす。
ハリー・パーマーは最後まで飄々としている。

「違う世界であなたに逢いたかった、、、」アーニャ~フランソワーズ・ドルレアックは軍用ヘリで飛び立ってゆく、、、。
この最後のシーンは如何にも不吉だ。
とても胸が痛くなる。
何とも、、、無常な。



お終いに取り戻したウイルス入り卵がひよこにすり替わっているオチは、余りにベタで誰もの期待を裏切らない。



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多肉は室内で健やかに

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小さな多肉の苗を室内の窓辺に並べて置いたら、とても健やかに綺麗な色で伸び伸びと育っている。
花も咲かせて勢いも感じる。
かなり暴れているものもある。
子供が根元にたくさんできているものもある。
生命の瑞々しさを感じる。

外に出している古株たちも寒さに耐え、なかなかしっかり生きてはいるが、色が良くないものもある。
寒さ特有の色に変化しているものもあるが、明らかに痛々しい色のものもある。
しかし大きさと数がやたらと多いため、室内には入れられない。
今室内では4か所に分けて、育てているがみな調子が良いがもう空きはない。
外のビニールハウスに適応しているものもあるが、日中の日が強すぎたり夜の気温が低すぎたりで、過酷な状況であることは否めない。

やはり気候(気温や日照)の変化の幅が広すぎることは、健やかに活きるにあたって厳しい。
そのことが多肉を観ているとよく分かる。

しかしこの冬の適度な寒さは、生命にとって良い刺激に思える。



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MY COUNTRY MY COUNTRY001

MY COUNTRY MY COUNTRY
2018年
ミャンマー、日本

チー・ピュー・シン監督

ウィ・モン・シュエ・イー、、、ナン(パティシエを目指す女子高生)
アウン・イェ・リン、、、トゥラ(サイの店の従業員)
ヤン・アウン、、、サイ(ナンの父、ミャンマー料理のレストラン店主)
森崎ウィン、、、木村アウン(ミャンマー出身の日本の歌手)
川添野愛、、、ミユキ(サイの店の従業員)


高校の道徳の教材にもってこいの映画であった。
(プロパガンダ的な要素のある教育的な作品であった)。
ナショナリズムとか難民問題とか討議する題材によい。
しかしそれにとどまらない恋愛やファッション、文化(スウィーツ)や習慣、ミャンマーの景色も窺えて薄っぺらさは回避している。
だが映画と謂うよりテレビドラマに近い作りである。

民主化運動の様子はアウンサン・スーチー氏の動向などから日本でも垣間見ることは出来たが、かなり大変な過程を経ていることはわかる。ナンの両親もコアな政治運動の活動家であった(そうあることを強いられた)。

ナンは日本に難民として両親が逃れてきた後に生まれたため日本しか知らない普通の女子高生である。
(その割に日本語はたどたどしい。恐らく日程の関係で充分な練習がつめなかったのでは、、、)。
しかし父が母国語をしっかり教えていたため、ミャンマー語の会話と読み書きには不自由しない。
(ミャンマーの女優であるからそちらは楽そうであった)。
父のサイは自国の文化に誇りを持ち日本にいても、こころは常にミャンマーにある男だ。
(彼にとっては日本はあくまでも仮の住いに過ぎない)。
店で稼いだ金をミャンマーの教育機関に毎年寄付している。
同胞を救う気持ちから職場をクビになったトゥラを自分の店に雇う。
そんな人であるから、娘がミャンマーになどに帰りたくない、日本でパティシエの夢を叶えると言い張ることに対し苦慮している。
しかし、それは自然なことであろう。母国語を教えながらも娘の主体性~個性を尊重して育てて来た結果であり、民主化を推し進めてきた人間の正しい教育によるものである。ここで妙な愛国心を強要して来なかったのは正しい。
そんなものは外から植え付けるものではない。

MY COUNTRY MY COUNTRY002

しかしナンにとってのショックは、自分が無国籍であることを父の会話から知り、当然日本国籍をもっていると信じていた基盤を失ったことであった。
実質、ここから物語は始まる。
彼女の、自分は何者なのかという問いと葛藤である。
その中でナンは一度、父と亡き母の故郷を訪ねる決心をする。
そして彼女とミャンマーの人々との関りを通した彼女のこころの変化を追ってゆく。
勿論、彼女のアイドルである木村アウンからの影響も大きい。
彼は二国を故郷に持つことに矛盾も不安も感じず誇りをもって活動している。

MY COUNTRY MY COUNTRY006

彼女も悩みはするが、ミャンマーという異国を自分の母国と感じるまでの過程が淡々と描かれる。
その間に恋愛も経験し、ミャンマーの親戚や父の親友との交流を通し両親の足跡を辿ることで自分のルーツを感じ取ってゆく。
この歳になるまでは理解は難しいだろうと父が伏せていたことを、タイミングは良く知ることとなった。
しかも、店を継ぐ意思のないことで、父はパティシエの専門学校進学に反対だと考えていた彼女だが、実は専門学校の費用も貯金して準備していてくれたのだ。娘の理解の行き届いた良い父である。
父娘の関係のギクシャクは解消までほぼ分かる流れで進むが、恋愛関係はかなり表現が粗雑であり余計に見える。
アイドル木村アウンの熱狂的ファンであり、彼が父の店を訪ねたことから、直接彼と遭って相談などする仲になったナンに嫉妬するトゥラであるが、彼女の気を引こうとミユキを当てつけにデートに誘うところやそれ以降のやり取り場面など学芸会レベルである。
このナンとトゥラのふたりのラブコメ関係はどうにも作りが甘い。
もうちょっとナンとかしろと言いたい(笑。

MY COUNTRY MY COUNTRY005

ミャンマーには将来的に戻るのだが、パティシエの資格はしっかり得ることが出来る。
つまり自分のやりたい職業には就ける。
向こうの地で店を開けばよいのだ。
何も日本の激戦区で店を構える必要はない。独り勝ちの可能な場所で発展させる方が有利だ。
有名歌手とも仲良くなったことだし、彼に宣伝を頼む手もある?
(森崎ウィンは役と現実の自分がほぼ同じではないか。妙な気はしないものか)。

MY COUNTRY MY COUNTRY004

ナンがトゥラをお供に連れて父と母の国であるミャンマーを訪れるシーンでやはり映像がガラッと変わる。
ミャンマーである。場所が違う。寺院が違う。なかなかよいミャンマー紹介ビデオである。(そういえば最初の方で手持ちカメラが揺れていたことも思い出す)。
ミャンマーはとても綺麗に撮られている(宣伝の要素もかなり窺える)。
あちこち金ピカである。
僧院に開かれた寺子屋では、サイから贈られた寄付金で子供たちがパソコンの授業を受けていた。
これまでに寄付をして来た人名表に父と母の名前がしっかり刻まれていることを知る。
両親のこの国(の未来)に対する深い愛情を実感するナン。
父と母の人物像が彼女にとり、より豊かに身近になってゆく。
現地の人々との交流を通してナンの気持ちがミャンマーに対して親和的になるのは判るが、やはり両親の発見に魅了されてゆくところが大きい。父と距離を持ってみてはじめて父の存在が強く大切に感じられる。
共感できる部分であった。
ここでは「大事なところ」では靴を脱ぐ。

ナンは、両親が大学時代に共にデモ行進をした現場で靴を脱いで深く一礼する。
彼女はこの国をルーツとして受け入れ、将来こちらに帰る決心をする。
抹茶ケーキが彼女の得意だが、ミャンマーにも茶畑発見。これが彼女の希望にもつながる。

オマケに、まさにオマケに思うが、ナンに思いを寄せるトゥラの気持ちを彼女が受け入れる。
彼女にとって木村アウンは憧れのアイドルであり親友であり、トゥラにとってのミユキは信頼できる友達であることをはっきりさせる。
(どうでもよいところだが。ただ、ミユキ役の川添野愛の演技はとてもしっかりしていた)。

MY COUNTRY MY COUNTRY003

気持ちよく、すんなり観られる作品である。
ただし、これを観て何をか考えたりするような気持ちには特にならなかった。
キャストは、皆爽やかである。
観ていて楽しい。

音楽はもっとミャンマーぽいものを聴きたかった。



ミスエデュケーション

The Miseducation of Cameron Post001

The Miseducation of Cameron Post
2018年
アメリカ、イギリス

デジレー・アカヴァン監督
デジレー・アカヴァン、セシリア・フルギュエーレ脚本
エミリー・M・ダンフォース『The Miseducation of Cameron Post』原作


クロエ・グレース・モレッツ 、、、キャメロン・ポスト
サシャ・レーン 、、、ジェーン・フォンダ
ジョン・ギャラガー・Jr 、、、リック・マーシュ神父
フォレスト・グッドラック 、、、アダム・レッド・イーグル
ジェニファー・イーリー 、、、リディア・マーシュ医師
クイン・シェパード 、、、コーリー・テイラー
エミリー・スケッグス 、、、エリン
ダルトン・ハロッド 、、、 ジェイミー


最近流行りのLGBT映画。
まだ同性愛者が差別されていた1990年代の噺。
そして今回も信仰の問題が妙に絡む。
シャレにならない茶番を真面目にやっている。
そこが不気味でならない。
「アダムス・ファミリー2」では、クリスティーナ・リッチが見事に中央突破してサマーキャンプを壊滅状態に追い込むが、、、あくまでもギャグ満載のはコメディであり痛快で面白い。
こちらは、ストイックで真面目だがピントが根本的に狂ってる。
だから”Miseducation”なのだが。
一番鬱陶しいパタン。


交通事故で両親を亡くし叔母のもとで暮らしていた女子高生のキャメロン・ポストであったが、同性愛の相手に裏切られ~密告され「神の約束」という更生施設送りこまれるはめとなる。
すでに名前からして如何わしい、、、「神の約束」だと。
信仰の強制が見え見えではないか、、、。

叔母は何とか彼女を真っ当な人間にしようとして迷わずここに連れて来た。
「神の約束」では、キリスト教の信仰を盾に、入所者を正しい人に更生するカリキュラムが実施されていた。
高校生たち~弟子と呼ばれる彼らは、間違った人間という自覚からはじまり、正しい人間に向けて矯正されてゆくのだ。
入っていきなり荷物検査で神を賛美していない物は没収とくる。
「ヘブンピクス」というエアロビも実に気持ち悪い。
集団のディスカッション?がもっとも気色悪いが。
芝生に横たわってのひと時にすら、彼らお互いに告白を強制して来る。
告白と言う制度を内面化している。
ジョークではない。滑稽を通り越している。


同性愛が病~悪という考えをベースにするにしても、神への信仰つまり神の意志に反しているという宗教観の次元から教育し直そうというのは、信心深くても信仰に関心がもてなくても、困難なことだ。
罪の意識を植え付けるにせよ、真面目に信仰しているキリスト教徒なら、日々罪悪感に苛まれ自分を誤魔化して(抑圧して)快方に向かおうとするかも知れず、無神論者や宗教に無頓着な者なら、別にどうでもよいことであり、適当に合わせてともかく早い出所を狙うだろう(刑務所と一緒である)。いずれにせよより内面化を深め他者との距離は広がるばかりだろう。

LGBTは生にとって本質的なものであり、簡単に変われるものではない。
その人間の個性であり人格そのものである。
そのような荒唐無稽な更生施設に少しばかり入ったところで何が変わるものではない!
性は死よりも本質的で地球上における歴史も長い。

だがそこで真面目に関わり、自分を追い詰め、変わろうとし、それでも不完全だと非難され自殺を試みる者がでる。
信仰とはそもそも何なのか。
差異~個性を周囲が全く認めない。
当たり前だが、どうあがいても誰もが違うのだ。
その違いの、ある部分を厳しく差別する。
しかしその人間にとって、そこがもっとも肝心である場合どうなるのか。

他者から存在を完全否定されるわけだ。
人を治すという名目で、人の魂の殺害を行っている。

The Miseducation of Cameron Post003
欧米人のこういう感覚がたまらなく嫌いだ。
自分を素直に解放しているシーンなのだろうが、余りに無神経でわきまえていない。
何でシステムキッチンの台に土足で上がれるのか?
これを自由と呼んでいるのならわたしは、彼らの神経の治療も必要だと考える。

この施設や教師に虫唾が走るのは当然だが、ここにいる入所者にも色々な面で不快感をもつ。
感覚的にも体質的にも。
何でこんな施設に適応を図ろうとするのか、と言うだけでなく、自分を信じようとしないのか。
更に自分が知らず学習して身に着けてしまった感覚の対象化も肝心である。
そして何より、、、
保護者や教師の力で強制的に収容されたのだろうが、何故怒りを感じ、反旗を翻さないのか。

キャメロン・ポストが終盤口にする、「自分自身を憎ませるのは、精神的虐待だと思う」は当然。
その程度でも、言うだけましか。彼女と悪友二人はこの施設をきっぱり否定する。
後は、とっとと逃げて行けばよい。すぐに権力に絡めとられるが、気づいたときにまた逃れればよい。
そうするしかない。

暴力=制度からの逃走である。
トラックの荷台に飛び乗ったは良いが、3人の悪友同士でこれからどうするか、虚ろな表情だが何となく楽観的な感じである。
そんなものだ。何とかなるかも知れない。
悪い映画ではない。


クロエ・グレース・モレッツについては「キック・アス」は勿論だが、「ヒューゴの不思議な発明」、「アクトレス 女たちの舞台」、「フィフス・ウェイブ」などで好演していたものだし、いくら「クリミナル・タウン」が酷い代物だとしても怒りに任せてハイさよならというのは惜しい気がして、とりあえずもうひとつだけ観てみる事にはした。

The Miseducation of Cameron Post002

だが、期待するほどのものではなかった。
大した映画ではない。
月並みである。



バラバ

Barabbas.jpg

Barabbas
1961年
イタリア

リチャード・フライシャー監督
クリストファー・フライ、ナイジェル・バルチン、ディエゴ・ファッブリ脚本
ペール・ラーゲルクヴィスト原作
ディノ・デ・ラウレンティス製作

アンソニー・クイン 、、、バラバ
シルヴァーナ・マンガーノ 、、、ラケル
アーサー・ケネディ 、、、ピラト
ジャック・パランス 、、、トルヴァド
ヴィットリオ・ガスマン 、、、サハク
アーネスト・ボーグナイン 、、、ルシウス
ハリー・アンドリュース 、、、ペトロ


BSでやっていたのを観て、わたしもすでに持っていたことを思い出して観てみた(笑。
まさに映画の手法で作られた重厚な映画であった。
(最近、映画とは思えない映画が多い)。

キリストの身代わりに生きることを運命付けられた男の数奇な人生を描く。
それにしても壮絶である。
彼には死ぬことが許されない。
死ぬべきところで三度も生かされる。
そして信仰を心より欲したところで召されるのだ。
2000年以上前のエルサレムにはじまる。


死刑にされるキリストの身代わりで釈放というのも、まさに途轍もない巡り合わせだ。
彼はキリストが光の中に佇む姿も十字架を背負って歩むところも彼の死後、真昼の空が真っ暗闇になったことも知っている。
そして三日目に蘇ったことも確認する。だがそれを認めたくない、、、
それは、信じることを伴うからだ。

キリスト教徒となっていた愛人のラケルの説く話に彼は耳も傾けず、放蕩を続けているうちに彼女は反逆の罪で処刑されてしまう。
彼は怒りに任せかつての仲間を統率し強盗を続けるが、怒りに我を忘れているうちに再び捕らえられてしまう。
シチリア島の硫黄鉱山に送られ劣悪な環境で過酷な重労働を課せられるが、サハクというキリスト教徒の相棒が出来る。
地下の坑道が陥没し誰もが押しつぶされ焼け出され死んでゆく中、バラバと彼が助けたサハクだけが生き残る。特にバラバの体力、生命力は尋常ではなく、皆から不死身と呼ばれる。そう彼は生きる運命を強いられていた。
ひょんな切っ掛けで彼らは剣闘士養成所に取り立てられる(彼は度々特別な運命が与えられる。その為大変波乱万丈な生を歩む)。
だがサハクは決闘で闘った相手にとどめを刺さなかったかどで彼もまた反逆罪でトルヴァドに処刑されてしまう。
サハクは奴隷~剣闘士の前で人間の魂の平等とお互いに尊重し愛し合う尊さを説いて聴かせた。
奴隷たちの間で明かな動揺が走る。
バラバはそれを無言で聴いており、それをすでに思想として理解しているがまだそれ以上には踏み出せない。
すぐにサハクの言動は咎められ、危険思想として処刑を言い渡されることになる。
こうして身近な人が次々に殉教して逝く。

葛藤しながらも信仰には踏み込めないバラバではあったが、盗賊の長をしている頃から、人は置かれた立場~枠の内で自分の欲望を満たして生きるだけの存在であるという認識は持っていた。
たまたま自分は娼婦の息子に生まれ、こう生きる以外に道はなかったと。
盗賊の罪で捕えられたときに、州総督に向かって堂々とそちらは単に法の中にいて好き放題に殺戮と搾取を繰り返しているだけで、俺もお前も所詮変わりはないという実に真っ当な認識をぶつける。
かなり時代のパラダイムから外れたアウトサイダーとしての洞察を彼は早くからものにしていた。
枠自体を考察する視座をもっていた為、思想の相対化は容易いものであっただろう。
しかし信仰に生きるということは、言うまでもなく考えるのではなく信じることである。
心的構造が変質することを意味する。わたしには到底できない。わたしは信仰からは限りなく遠い存在である。
果たしてバラバのような人間が信仰に身を投じるということがあり得るのか、、、?

バラバは次々に貴族の見世物としてトルヴァドに処刑されてゆく剣闘士を見ながら自分の順番が巡ってくるまでに策を練る。
作戦が功を奏し見事彼らの上に君臨していたトルヴァドを仕留めることに成功した。
彼はその活躍ぶりを観客たちから熱狂的に讃えられ、国王から自由の身を勝ち得る。

キリスト教徒たちが秘密の集会をもつカタコンベにサハクの亡骸を運ぶが、キリスト教徒たちはバラバを受け入れない。
何故今更やって来たのか。もっと早く彼が救えなかったのかと。
彼らはバラバを非難し蝋燭を手にして真っ暗な闇の回廊に消えてゆく。
この時、彼はまさに文字通り、道に迷う。
彼に初めて明確に、新たな未知の道が示唆された。
本当に寄る辺ない不安な幼子のような顔で彼は闇の中を彼らに追いすがろうとする。

このカタコンベのシーンを見てこれが映画だと身に染みた。
バラバの不安が直接こちらにひりつくように響く。
そして漸く光る出口を見つけ出てみると、何とローマが燃えているではないか、、、。
見渡す限り一面の火の海なのである(現在のVFX効果を利用すれば遥かにインパクトある画像が得られたと思ったが)。

このシチュエーション~インプレッションは強烈この上ない。
すぐにかつてのサハクの言葉をありありと思い出す。
「古きものを焼き払い新たな王国が生まれる、、、」
彼は建物に火をつけて回る。
信仰に身を投じた瞬間だ。
彼は現行犯で捕えられ、自分はキリスト教徒でわれわれが火を放ったと自白する。
捕えられたキリスト教徒たちの中に20年以上も前にエルサレムで遭ったパウロがいた。
われわれが火を放つわけがない。またしても君は誤った。これはキリスト教徒を弾圧するための皇帝による姦計であると。

、、、犬死だ。後にはいつも死骸と苦痛しか残らない、と呟くバラバに対してパウロは語る。
「君はこころのなかでいつも戦いを繰り返してきた。それこそが神への道であり、そのこころのうねりこそが神の国の到来を促すのだ」と。
これにはわたしも説得力を覚え共感する。


一日の終わりが来た。
苦痛の後には眠りがある。
祈ろう。

殉教者たちの夥しい磔刑の姿が闇に浮かび上がる。
そのなかのひとりにバラバの姿が、、、
「すべてを主に委ねます」バラバは息を引き取る。





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死霊院 世界で最も呪われた事件

The Crucifixion002

The Crucifixion
2017年
アメリカ・イギリス・ルーマニア

ザヴィエ・ジャン監督
チャド・ヘイズ 、 ケイリー・W・ヘイズ脚本

ソフィー・クックソン、、、ニコール(ジャーナリスト)
ブリタニー・アッシュワース、、、バドゥバ(シスター)
エイダ・ルプー、、、アデリーナ(シスター)
コーネリウ・ウリチ、、、アントン神父


The Crucifixion003

「はりつけ」である。
こっちの方がインパクトある。
2004年にルーマニアに起きた悪魔祓いの死亡事件を描く。
修道女アデリーナが”アガレス”という強力な悪魔に体を乗っ取られ、彼女は完全に異なるペルソナを呈する。
アデリーナを救うためディミトル神父が過酷な悪魔祓いで対抗するが、途中で邪魔が入り、中途半端な形で投げ出されたことで彼女は死亡してしまう。
その衰弱振りから、警察は悪魔祓いの儀式による殺害と断定しディミトル神父は7年の刑に処せられる。
つまり宗教を盾に取った殺人とされたのだ。
確かに三日に及ぶ激しい儀式であった。それを三日間続いた虐待による死と捉えるのが合理的な判断なのであろう。
果たして悪魔は実在するのか彼女は精神を病んでいただけなのか。

ただ、医者の言うように彼女が統合調症であったにしては尋常ではない症状を呈していた。
外部からの憑依によるものとしてしか見えない姿と言動そして異様な力の誇示である。
そして何より「目に闇が宿っている」のだ。この表情はもはや人間ではない。
明らかに彼女のものではない力~どこから発せられているのか分からない力が周囲を圧倒し畏怖させる。
(エクソシスト映画によくみられるショッキングな~観慣れたシーンではあるが)。
さらに何故か室内だけに雨が降る、、、聖水を使わせないためだという。

The Crucifixion001

この修道女はドイツに赴いたときに現地の男性と恋に落ちてしまった。
信仰心の揺らいだ脆弱な心にそれは忍び寄って来るという。
帰国後その罪悪感に悩む心に付け込んで悪魔が乗り移ったそうだ。

それに対し、彼女の精神科医は幼いころ目の前で父が自殺した経験が、父代わりであったゲイブリエル神父の飛び降り自殺を目の当たりにして、抑圧から解かれ蘇ったことによるショックが症状の原因だという。
当然大変な衝撃には違いないが、それにより起きる統合失調症の幻聴、幻覚の域は「物理的に」踏み越えてはいないか。

全く無信仰のジャーナリストのニコールは神も悪魔も端から信じていないが、自分の身に起こる超常現象に悩まされるにつけ、信仰のフィールドに引きずり込まれてゆく。
偏見を持つとそこに付け込まれるとアントン神父に諭されるが、もうすでに彼女のパラダイムは変質している。
彼女も全く信仰の世界に無関係というわけではなく、母は厳格なキリスト教徒であり彼女の死に際し信仰の世界に誘われた。
だがニコールは母の臨終のときの気持ちに応じられなかった。それがずっとトラウマになっており、今回の事件の真相を追う無意識的な要因にもなっていた。
終盤になるともう彼らの論理でものを考え対処しようとする。
死んだアデリーナが襲ってくるあのような状況に呑み込まれればそれ以外の方法はもはや見出せないだろう。

特に彼女に取り憑いたアガレスの納屋での派手な(荒唐無稽な)暴れようである。
駆け付けて悪魔祓いをするアントン神父の「悪魔の実在を信じなと君を救えない!」という叫びが説得力をもつ、と謂うよりそれしかあるまい。
部屋のなかでの大雨のなか、神父とニコールが辛くも勝利を収める。
静寂が戻るその際に、彼女は母に遭ったという。

The Crucifixion004

ドーンという何度もびっくりさせる効果音と衝撃波やテレキネシス等は既視感タップリの演出とは言え、只管力技で押してくる。
ここは先日見た「アンダー・ザ・シャドー」の控えめなシーツの畳み掛けとは大きく異なる。
(そこが目的の映画でもある)。

だが、それを観ているこちらは、ほとんど神も悪魔もない日常にいる。
いや単に見えないだけだと言われればそれまでだが、その両極に程遠い温い場所にいる感覚は否めない。
「実話」を描いたにせよ、その距離感は余りに大きい。
(ルーマニアに対する偏見がかえって深まった感もあるくらいだ)。

このような映画が撮られること自体、われわれの無意識が内属するパラダイムに安住できない軋みを覚えるからではないか。
科学ももう一つの論理による信仰に過ぎない。
かと言って魔女狩りの頃のような状況に陥ることは避けなければならない。
ただ、今のわれわれの世界が余りに平坦で均質になっている危険性は大きいのではないか。
闇が闇でなくなっていることで、光もはっきり感じられない。
うすぼんやりした灯りの元、何も見えなくなってはいまいか?
(われわれが夜空に星々を眺めたくなるのも、こういった精神の渇望から来るのではないだろうか)。

このような映画がひとつの問題提起というか、外にはみ出す為の刺激剤になるのではないか。
わたしの苦手なホラー映画とはまた一線を画する作品であった。

The Crucifixion005

ディミトル神父は出所後も精力的に悪魔祓いを続けているという、、、。









アンダー・ザ・シャドー

Under the Shadow001

Under the Shadow
2018年
イギリス・ヨルダン・カタール・イラン

ババク・アンバリ監督・脚本

ナルゲス・ラシディ、、、シデー(医学部復学を願う母)
アビ・マンシャディ、、、ドルサ(シデーの娘)
ボビー・ナデリ、、、イラジ(シデーの夫、医者)
レイ・ハラティアン、、、エブラヒム(隣人)
アラシュ・マランディ、、、シデーの元学友の医者


イランのホラー映画ということで、観てみた。
イラン・イラク戦争下のテヘランが舞台。
マンションに住む医者の一家に迫りくる得体の知れない不安と恐怖、、、。

Under the Shadow003

その一家には様々なストレスが重層していた。
イラクがいつミサイルを撃ち込んで来るか分からぬ状況。
(これは日本人には実感しにくい日々の恐怖と不安である)。
若い母親は大学の医学部に復学を熱望しているのだが、大学側がかつて学生運動に参加していた過去を理由にそれを認めない。
(戦時下において、かつての反体制活動はまさに国賊のような扱いであり、彼女にとってはこれが最も大きなストレスであろう)。
医者になる夢が絶望的なために医者の夫に対し八つ当たりをしたり、娘の養育も絡み夫婦仲もぎくしゃくしている。
娘も妙な人形に拘り、両親を戦争で亡くし近所に引き取られた緘黙の男子の影響で、”ジン”という古くからの言い伝えの精霊を観たと言って不安定になっている事から来るストレスも大きい。
(得体の知れないものが見えるという娘自身のストレスもかなりのものだ)。
合理的思考に馴染んだシデーにとってジンは、子供を怖がらせるだけの迷信に過ぎなかったが、徐々に超常現象と思しき経験~悪夢との区別が困難である経験~をするにあたり自分の信じる世界の基盤が揺らいでくる。

Under the Shadow002

マンションにミサイルが着弾するも爆発に至らなかったが、その部屋の老人がシデーの救護にも拘らず死んでしまう。
彼女は天井を突き破って着弾したミサイルによる心臓発作によるものだと断定するが、その男の娘によるとその直後は元気に話をしており、暫く後に悲鳴が聴こえて亡くなったという。ドルサが言うように誰かを観たことによる死ではないかとその娘は訝る。
シデーはそれを頑なに否定し、その件でドルサに話を聞きたがるその娘を遠ざけるが、徐々に彼女もその世界に引きずり込まれて行く。
ミサイルが呪われたジンを呼び込んだということばを話さない少年の「言葉」を信じるドルサ。
ドルサは彼らと密かに話もしており、母より彼らを選ぶというような言動もとるようになる。

Under the Shadow004

後半から只ならぬ素早く移動する人影がミサイルによって出来た天井の罅割れから降りてきたりするようになる。
これが悪夢なのか幻想か実際の何者なのかがはっきりと判断し難い。
だが、ドルサが肌身離さず持ち歩いている人形の「キミア」がいなくなり、彼女は「あの人たちが持ち去った」と主張する。
その人形を必死に探すがカギの掛かった母シデーの戸棚からバラバラになったその人形が見つかった。
シデーの毎日見て実践しているジェーン・フォンダのエアロビクスのビデオもテープを引き出されゴミ箱に捨てられている。
そういったシーンが連打されてゆく。

風に乗って移動しながら人に取り憑くジンという邪悪な精霊が見え隠れするようになる。
後半から終盤にかけてその存在が彼女らにとって最大のストレスとなる。
実際、戦争の激化によるミサイルの飛来に怯えるというより、ジンの恐怖から逃れるようにして、マンションの住人は次々に疎開して消えてゆく。
もう残っている家は夫が召集令状が出て前線に赴いている母と娘の二人だけになった彼女らだけになる。
(最後の隣人もジンにとり憑かれないようにと言い残して去って行った)。

Under the Shadow005

シーツに囚われたり黒いタールのようなものに足を取られたり、はっきりとクリーチャーのような具体物は出さず、最後まで過酷な重圧によるストレスの産物なのか実際の何者なのか分らぬうちに車で開かないガレージの扉を突き破り這う這うの体で夫の義母の家へと脱出を図る母娘の姿で終わる。

狙いは良く分かる映画であった。
だが、イライラの募るストレス一杯の家庭状況は実感できたが、得体の知れぬもののインパクトはいま一つであった。
少しずつ煽って行く心理ホラーである。
強いて言えば母シデーのヒステリックな怒りがかなり怖いものであった。
(特に夫にとっては、、、夫に共感した)。

イラン、、、というか中東ホラーは、かなり渋い。

おバカ映画二連発

Terminal.png

アニー・イン・ザ・ターミナル
Terminal
2018年
イギリス/ハンガリー/アメリカ/香港

ヴォーン・スタイン監督・脚本

マーゴット・ロビー 、、、アニー / ボニー
サイモン・ペッグ 、、、ビル
デクスター・フレッチャー 、、、ヴィンス
マックス・アイアンズ 、、、アルフレッド
マイク・マイヤーズ 、、、クリントン / ミスター・フランクリン


キャストに文句はない。
ただ、映画が酷いだけ。
まさに末期的な映画。もう瀕死。
マーゴット・ロビーもここでは全く空回り。
ホントにくだらん映画に出てしまった。
世界観そのものが噺にならない。
スタイルだけで何かの形にしようとしても元になるものが何もないから何も出来ない。
これ程つまらぬものを近年見たことがない。
言語道断。



November Criminals

クリミナル・タウン
November Criminals
2017年
アメリカ

サーシャ・ガヴァシ監督・脚本

クロエ・グレース・モレッツ 、、、フィービー
アンセル・エルゴート 、、、アディソン・シャクト
デヴィッド・ストラザーン 、、、テオ・シャクト
キャサリン・キーナー 、、、フィオナ


何処がクリミナル・タウンなのか、、、?
ここでも途轍もなく邦題が酷い。
しかし映画自体が問題外。
こんなひどい映画に出てるとキャストの魅力も失せる。
と謂うより、これは映画か?
高校生でもこんな噺~脚本まず書かない。
一体何を撮りたかったのか、である。
俳優も出る映画を選ばないと、バカかと思われる。
(もう選べる立場だろうに、クロエなど)。
ホントに、この本を読んで納得して演じたのか、、、?幻滅!

この映画に出ている俳優には全く興味を失くした。
今後、このキャストの映画を観ることはない。


―――――――――

今日は酷い一日であった。
憤る前に気が抜けた。
時間は大変貴重である。
これらについて何か書くだけ無駄。
今後、気を付けたい。






娘のスケート教室

penguin.jpg

長女がスケートと空手を習いたいと言う。
スケートは即、賛成したが、空手はピアノがあるし他のスポーツを考えようということになる。
指でもケガをしたらシャレにならない。
走るのが好きになり陸上もやってみたいと言うから、学校のクラブを勧めた。
(わたしも走るのと器械体操だけ体育では好きであった)。


今日がスケート教室、第一日目である。
何と朝5時起きである。
これはキツイ。
ボーっとしたまま軽くトーストにミルクで朝食を済ませて、車に乗り込む。

6時に着くが、リンクにはすでに凄い人数が集結しているではないか。
娘は今日が初めてなので、初級に入ると、そのクラスはなんと彼女1人だけだった。
先生とマンツーマンの形で基礎練習となる。


小学校や家で自己流でこれまで何度も滑ってきたのだが、勝手に滑ることは許されず、ずっと基礎の型を延々とやる事に。
顔を見てると面白いのかどうか分からないが、、、。
何となく滑って来た形ではやはり上手くないか。
教室なのだから教えて貰うことに必然的になるものだ。
ペンギンみたいな形で行ったり来たりをずっと繰り返すが何とも、、、。
リンクの外から見ているのも寒い。
とても冷える。
これから毎週これではかなり大変だ。
滑っている当人は結構、熱いものだが(わたしも経験上そうであった)。

暖房の入った控室をみつけ、そこでiPhoneに入れたドストエフスキーをここぞとばかりに読む。
(iPhoneに本を入れておくと、ふいに出来た空き時間も有効に使える)。
暫くして、ふと気が付き、娘の様子を見に行くと、、、バックで滑っていた。
、、、教室に入って良かったと思う。

これまでに、長女がバックで滑っていたところは見たことがない。
やはり基礎を教えてもらう意義はある。

最後に上がってきたところで、娘に聞いてみると面白かったとのこと、、、。
面白ければ、良い。

今は面白いことを目一杯やる時期だ。
そう思う。



告白小説 その結末

Based on a True Story001

D'après une histoire vraie  Based on a True Story
2017年
フランス・ベルギー・ポーランド

ロマン・ポランスキー監督・脚本
オリヴィエ・アサヤス脚本
デルフィーヌ・ドゥ・ヴィガン『デルフィーヌの友情』原作
レクサンドル・デスプラ音楽

エマニュエル・セニエ、、、デルフィーヌ(小説家)
エヴァ・グリーン、、、エル
ヴァンサン・ペレーズ、、、デルフィーヌの夫


作家が作品を創造する過程の内的葛藤をサイコサスペンス調に描いた作品。
その内面を二人の女性作家同士の対峙の形で現す手並みを堪能する映画であろう。

デルフィーヌが生み出した幻想のペルソナ(人格)であるエル~彼女は、デルフィーヌの無意識であり罪悪感であり、スランプ状態を打ち砕く創造的なリビドーでもあろう。
エルというデルフィーヌに対する忌憚ない意見を吐きつつ献身をみせるエヴァ・グリーンの大変ビビッドな姿で描かれるため、ふたりの作家の間の危うく激しい創造的なやりとりとして可視化されるが、実際籠って悶々として破滅的な幻想の世界を生きているかと思うとぞっとする。

Based on a True Story003

やはり家族の不幸や問題をネタにした小説で大人気作家になってしまったことが、無意識的に余程の負い目となってしまったものなのか。
通常の人格から乖離した批判的でヒステリックな人格を知らず(疲労混迷する意識に)立ち上がらせてしまったのだ。
(まずは彼女の意識に、とても話の分かるファンであり信頼に足る助言者のような存在として現れ)。
だがその分、不安と自己批判も高まる。
そんななか何より大事な4冊の創作ノートがなくなる。
(わたしも時折、大事なものをどうやら知らぬうちに処分してしまっていることに気づくことがある)。
共同生活をエルと始めるが、自分の過去や秘密を彼女に探られていることに慄く。
更にエルから貰った(恐らく新たに買った)ノートも影の人格であるエルが破り捨てている。
不安と猜疑心と恐怖と命の危険も覚えるのだが、、、

肝心のデルフィーヌの意識レベルでは、エルはどうにもならない他者であり続ける。
(自分の中の他者は誰にも存在し得るが)。
これがこのような心的状態での危うさとその手強さともいえるか。

Based on a True Story002

デルフィーヌのエルに対する無防備さパソコンのパスワードからメールその他何もかも突然現れた女性にすべて任せてしまうこと自体、彼女が本当の他者ではない証左である。(一体どこの誰が他者に自分のパソコンの中身を見せ、メールの返事までお任せにするか?)果ては替え玉講演まであっさり頼んでしまう。この度を越した依存ぶりは半ば彼女が自分自身、または自分の影の分身であることを前提として知っていると受け取る方が合理的だ。
映画のシーンに一度でもエルが第三者と何らかの接触ややり取りを持っている描写はない。
終盤、ガソリンスタンドで出逢った講演を頼んだ高校の司書が、デルフィーヌがすっぽかしたことを怒り激しく非難する場面があった。
エルは替え玉で講演などしていなかったことがはっきりする。
デルフィーヌが毒を飲まされ雨の夜に外に脱し、そのまま道端に倒れ気を失うが、彼女を追うこともなくエルが消えていることも合わせ、エルが幻想の産物であることを如実に示している。つまりここが終盤での種明かしだ。

Based on a True Story004

母親の自殺を元に家庭を晒しものにしてベストセラー作家になった事実に圧し潰されそうになって、自分への非難メールやフェイスブック炎上の自作自演やついには自ら食事に毒を混入させるところまでエスカレートする。
アパルトメントの階段を落ちたのもわざとやった感がありありであった。
創造の影の部分~ダークサイド・オブ・ザ・ムーンが鮮やかに描かれた映画と謂えよう。


最後はちゃっかり、またヒット作が生まれて大ファンの行列が出来てスッキリした表情でサイン会を行っている。
この作品はまさにこの映画そのものを描いた小説であろうか。
またいつエルが現れることか、、、。
こうしてみると、作家の創造の場の極限的な危うさを扱ったものであることは分かるが、透明化したエルを通してなんともあっさり新作が出来てしまったのにはちょっと拍子抜けするところでもあった。
だが、そんなものだろう。
この作品はエルの側が書いたのだ。




風が吹くまま

THE WIND WILL CARRY US001

THE WIND WILL CARRY US
1999年
フランス、イラン

アッバス・キアロスタミ監督・脚本・製作

ベーザード・ドーラニー 、、、ベーザード(TVディレクター)
ファルザド・ソラビ、、、ファザード(小学生の男子)
バフマン・ゴバディ、、、先生


イランのテヘランから北700キロにあるシダレという山村が舞台。
物凄い異国情緒を愉しめる。
一面の石と岩の丘。
道案内に大きな木が目印。
漸く着くと少年が待っている。
用を頼むが彼はテストで忙しいと、学校のことばかり気にしている。
一応、客の接待と世話を頼まれているらしいが、学校の勉強とテストのことで頭が一杯らしい。
こんな生活、子供にとっては良いようだ。
電話のない村だ。

岩山を刳り貫いて作った住居。
入り組んだ階段を上ってゆく。頭に注意する必要のある高さの通路もあり、、、。
白い壁に青い窓枠。肌色の模様。
テラスで洗濯物を干したり、赤ん坊のハンモックがあったり、、、
上の段から出来たばかりのスープを下のテラスの住人に手渡したり、踊り場みたいなところで膝の上でスープを飲んでいたり、、、。
ちゃんと紅茶を出すカフェもある。良い雰囲気だ。
そこの女店主と旦那が口喧嘩するが、内容は何ら日本と変わらない。

THE WIND WILL CARRY US004

飲み物は、紅茶と牛乳ばかりが出て来た。
ヤギの乳もあったか、、、どうか。
もう、この光景だけで魅了される。

噺はまた面白い。
TVディレクターとそのスタッフ一行がシダレの村独特の葬式のロケのために、車で道に迷いながらやっとのことでやって来る。
当初、3日で撮影、取材を済ませて帰る予定であったのだが、危篤のおばあちゃんがいつまで経っても亡くならない。
ディレクターが暇を持て余してイライラしながら時を過ごすだけの映画だ。
彼と一緒にこちらも只管待つためともかく長い。
BGMもなく、上司からの電話に言い訳をして何とか滞在を引き延ばすのを観ているうちに知らず眠ってしまい慌てて起きる。
これの繰り返し。
面白かったのは、野原をのんびり散歩していた陸亀に八つ当たりして靴で亀をひっくり返して車に乗って帰って行くところがあったが、その後亀が自分で起き上がって歩き始めたので安心した。
同じようなシチュエーションで、ふんころがしが一生懸命働いているところにやけくそディレクターの視線がロックされたとき、何をしでかすつもりかと、ちょっと気になったものだが、ちょうどそこに会社からの例のお小言の電話が来たので助かった(ふんころがしは)。

村では彼のことを技師さんと呼んでおり、葬式の番組を撮りに来たと知っているのは、知的な風貌の小学校の先生くらいだ。
葬式を撮りたい等と言うと、如何にもおばあさんが早く死ぬのを待ちわびているように受け取られるため伏せている。
とても友好的な関係が結べており、パンやミルクを分けてもらったりしている。
そして一たび携帯が鳴ると、いつも慌てて車に飛び乗り高台まで走って登ってから通話する、と言っても上司の文句を何とか宥めるといった対応ばかりだが、いちいちそんなに電波を気遣って電話をするなら普通の固定電話の方がよっぽど便利だ(笑。
まあ、電話のない村だから仕方ないが、真剣に電話している分、笑える。
村人との会話も真面目なのだが、ユーモアがあって愉しめるものだ。
なかなか雰囲気の良い村で、いつか滞在してみたい。
というよりも、この長回しのうえに、正面からの接写が多いが、俯瞰した景色も絶景のこの映画を堪能するうち、自分もこういう映画を撮ってみたいという気持ちが湧いてくる。
不思議な魅力の映画だ。

THE WIND WILL CARRY US002

とても長く感じるがこれがディレクターの焦燥感に同期するもので、われわれは生理的にその引き延ばされた空虚感を彼と共に味わうことになる。この長さは映画の意味~内容そのものだ。
全般にわたり、とても物質感があってリアルである。

特徴的な部分は、ディレクターが独りであくせく暇を持て余して車ともどもオーバーヒートしているのだが、、、
同行したはずの他の撮影クルーは何をしているのか一切画面には出てこない。会話はあるが声だけであり姿を見せない。
この姿を見せない~不在なのがミソであり、危篤のおばあちゃんも全く画面には出てこない。
都会から見舞いに来ていた息子が帰っても、体調が戻ったから帰ったという説と再度会社に休暇を申請しに戻ったという説が入り乱れる。薬の面倒をみる家族も回復してきたと言う人もいれば、もうダメだという医者もいる。
家族や医者以外は部屋には入れないようで、ディレクターは彼らの言説に踊らされるばかり。
しょっちゅう確認の電話をよこす上司にも対応に窮するが、取り敢えず「順調です」と応え取材の延長の申請を出す。
「待つしかない」待たせるしかない(爆、のだ。
彼がいつも電話の際に登る墓のある丘の上で只管穴を掘る男も一度だって顔は見せない。
ディレクターと会話はするが、いつも穴の底からなのだ。
オマケに穴掘り男にミルクが欲しいことを伝えると俺の彼女に貰えと言われ名前だけ教えてもらう。村に戻ってその名を伝えるとその娘はまだ16歳で、何と家の地下室の暗闇にいて顔も見せない。
暗闇で娘が乳絞りをしている間、ディレクターは彼女に(彼氏に対してと同様に)語りかけ、詩を暗唱して聴かせる。
面白い。これがイランという国か。
ちなみに、ミルクを入れるポットは他の家で貸してくれたものだ。
器をもって中身を貰いに行くというのもなんとも風情があり趣き深い。

医者のバイクの後ろにも乗せてもらうが、そんなときも医者が詩を暗唱する。
「うん、いい詩だ」と後ろで感心する。
こんなに美しい自然が鑑賞できるんだから死ぬ気にはなれない、みたいなことを語り合う。
彼らの走る飛んでもない景色は、まさに異景とでも呼ぶしかない。
(単に美しいというものではなく)。

THE WIND WILL CARRY US003

荷物をまとめて車で帰るときに葬式があげられ喪服の女たちの列に遭遇する。彼は彼女らの写真を撮る。
ディレクターは拾ってずっと持っていた人骨を川に投げ捨てる。
骨は川の流れのままに流されてゆく。
彼も風が吹くまま身を任せるしかない、、、。
という感じで、どう終わったのか記憶はない。
そんな映画だ。


映画というものが何なのかを、睡魔のなかで感じさせる作品だ。



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