
I, Tonya
2017年
アメリカ
クレイグ・ガレスピー監督
スティーヴン・ロジャース脚本
マーゴット・ロビー 、、、トーニャ・ハーディング、製作
アリソン・ジャネイ 、、、ヴォナ・ハーディング(母)
セバスチャン・スタン 、、、ジェフ・ギルーリー(夫)
ジュリアンヌ・ニコルソン 、、、ダイアン・ローリンソン
ボビー・カナヴェイル 、、、マーティン・マドックス
ポール・ウォルター・ハウザー 、、、ショーン・エッカート(夫の悪友)
ボヤナ・ノヴァコヴィッチ 、、、ドディ・ティーチマン
ケイトリン・カーヴァー 、、、ナンシー・ケリガン
マッケナ・グレイス 、、、トーニャ・ハーディング(少女時代)
ナンシー・ケリガン襲撃事件というのは、記憶にある。
わたしもフィギュアファンであったから、当時テレビで観た。
まだカタリナ・ビットも活躍していたころだ。わたしは大のカタリナ・ビットファンであった。
はっきり言って、トーニャ・ハーディングには全く興味がなかったので、フ~ンと思ったくらいである。
(ただ、スポーツ競技において余りに露骨で下劣な行為だなとは感じた、、、スポーツでなくてもそうだが)。
その彼女の人間像に迫るといってもそれほど乗り気で観たわけではないのだが、、、
主役のマーゴット・ロビーの熱演にグイグイ惹き込まれてしまった。
彼女は製作にも関わっており、何を描きたいのかの芯もしっかり感じ取れた。思い入れがたっぷり籠った感じだ。
充分彼女の造形するトーニャ像には共感する。
そしてアリソン・ジャネイ演じる冷酷非道な母像の破壊力と共に見応えある作品に仕上がっていた。
まさに親子関係が作る成育環境は、その後の長い人生を支配し続ける蟻地獄ともなるものだ。
非常に横暴で挑発的な態度で娘に愛情の替わりに暴力と暴言しかかけない母に支配された(父はそれに耐えられずに家を出て行った)家庭環境で、トーニャは母のウエイトレスのバイトで得た費用でスケートレッスンに明け暮れる。
勉強もろくにやらせてもらえず、不可避的にスケートしか知らない人生となる。
トーニャ自身、幼くしてスケートに憧れたこともあり、母としては彼女のやりたいことを暴力的だが支援したというかたちでもあろうか。

所謂、トーニャに関しては愛着障害以外のなにものでもない。
そして同様の障害を持った仲間を必然的に呼び寄せ、固着関係が出来てどうにもならない形で転がって行く。
打開しようともがくほど、悪い方向に膨らみ悪循環となる構図が窺える。
ことごとく、そういうものだ。
DV夫といい、彼の誇大妄想の虚言癖の友人といい、その友人の訳の分からぬ手下(この連中が実際にナンシー・ケリガンの膝を殴打する)などと腐れ縁となってゆく。どうにも断ち切れない。彼女自ら頼ってしまいもする。

この映画で、トーニャを終始悩ませ続けるのが、アーティスティック・インプレッションである。
芸術点と言ってもそこは多分に「アメリカの良き家族像に訴えるような」(審査員がオフレコで彼女に答えた)ものである必要があった。多分に権威主義で偏狭な価値観に支配されている面は否めない。
トーニャのようにクラシックではなくZZトップのヒットチューンをバックに豪快にトリプルアクセルにかける滑り方は、審査員~スケート協会に喧嘩を売っているような挑戦的なものに映ったようだ。
彼女に浴びせかけられる批判は、スケートは技術だけじゃないんだ!という類のものに集約される。
しかしこれは聞こえは良いが、ある理想的なお上品な階級に迎合するスタイルで滑れよ、という排他的(権威主義的)メッセージにしか受け散れない。

そこに持ってきて、誇大妄想狂の虚言癖のあるジェフの悪友ショーンの余計なお節介と謂うより、ボディーガード気取りの迷惑至極なナンシー・ケリガン殴打事件が突然引き起こされる。元はと謂えばショーンがトーニャにスケートの試合に出られなくなるような脅迫状を送ったのがきっかけである。ショーンの稚拙な姦計にはまり、ジェフもケリガンを脅迫状で脅すことには乗り気でいたが(トーニャはどうでもよい噺で相手にもしてなかったが)実際にやったことはケリガンの膝を殴打し負傷させる犯罪であった。これはジェフとトーニャにとっては寝耳に水であるにせよ後の祭りで、余りにお粗末な犯行のため直ぐにショーンは捕まり、彼はジェフが首謀者でその計画はトーニャも知っていたと警察に騙ってしまう。
女子で初めてトリプルアクセルに成功し全米で持て囃された矢先に、天国から地獄である。
誰もがその襲撃事件にトーニャが関わっていることを信じ期待した。
彼女の言うように、みんなはヒールを作りたがっているのだ。
ヒールに誰かを仕立て上げて、それをみんなで叩き優越感と爽快感を得たいのだ。
彼女は以前から問題行動(スケート協会にそぐわぬスタイル)をとっていたために格好の餌食であった。

マーゴット・ロビーの体当たりの名演もあり、あそこまで追い込まれ叩かれる彼女に対し同情は禁じ得ない。
夫やその悪友やその手下など、とんでもない取り巻きにいつも邪魔される不遇もそうだが、とりわけ彼女が何度も和解を試みた母に再三再四にわたり残酷な形で撥ねつけられ絶望する姿には深く感じ入るところであった。
母親の愛を何とか得たい一心で頑張って来ているのに全く受け入れられず、遂に身近な取り巻きたちの引き起こした身勝手極まりない犯罪のお陰で唯一の取柄(本人の語るところ)であるスケートも取り上げられてしまう。
スケート協会から除名され、試合に限らずすべてのスケート競技の出場権は剥奪となる。
わたしは学歴も何もないのにこれからどうしろというのよ、ということでヒールとして人々の前に身を晒て稼ぐ格闘技のリングに上がる。わたしは暴力には慣れっこだから、、、である。
それが、”I, Tonya”、、、なのか。

潔い生き方ではあるが、その前に、、、
現在の自分を形作ってしまった全ての要因に見切りをつけ排除・切断し、余計な未練や一抹の希望(幻想)など抱かぬことである。
独りになれば見えてくるものが必ずあるはず。惰性的な依存関係が人を破滅に導く一例でもある。
マッケナ・グレイスの少女時代のトーニャの存在感も圧倒的なものであった。
(凄い子役である)。
アリソン・ジャネイ最凶の毒母をクールに演じ切っていた。お見事というしかない。
彼女に些かも反省の念がないのもそれが彼女にとっての愛であったからだ。
永遠に平行線を行く親子というのは、はっきりとある。
(わたしも場合も同様に)。
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