プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
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とうもろこしの島
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トラピスト1に寄せて
「労働疎外より人間疎外」によせて
カッシーニ グランドフィナーレ
カッシーニ グランドフィナーレⅡ
シチズンフォー  スノーデンの暴露
スノーデン
シャイン
鑑定士と顔のない依頼人
英国王のスピーチ
やさしい本泥棒
末期の目
レヴェナント: 蘇えりし者
透明な身体性
森羅万象を描く デューラーから柄澤齊へ
ヴィデオドローム2 ~イスラム国 ~アノニマス
見えない重力を描く Ⅱ
美の翳りに寄せて
写真についてーⅡ
午前零時の奇蹟(シュル・レアリスム覚醒の時間)
パーフェクト・デイ ~ルーリード ~ローリー・アンダーソン ~スーザン・ボイル
未来派の画家~ウンベルト・ボッチョーニ
Balthus ~ バルテュス展行ってまいりました。
「ゴールドベルグ変奏曲」 バッハ  ~グールド ~P・オトゥール ~ニーチェ
大昔のスケッチ(詩画集のための試作)
すでに世界は終わっていたのか ~ ヒエロニムス・ボスその1
スヌーズレン002
情報リテラシー  ~華氏911 ~不都合な真実
南伸坊「歴史上の本人」
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金柑集め

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今季、ずっと使ってきた加湿器を二つ捨て、とても小さく可愛らしい加湿器にした。
これまでの加湿器は筐体がデカいうえにメンテナンスが面倒で付き合っていられなくなった。
ただでさえ、家事一般と亀の水替え多肉その他の植物の世話があり、デカい加湿器が鬱陶しくなったのだ。
ルーチンで一杯になると尚更、イライラして来る。

LEDで七色に光る小さな加湿器をつけて就寝する愉しい毎日となったのだが、加湿自体に問題はなかったと思うが(ちょっとパワーが弱かったか)、喉が少しカラカラして来た。
そこで今日、ナップザックをしょって金柑採集に出掛けることにした。
金柑を煮出して蜂蜜をタップリ入れてシンプルなジュースを作るのだ。
これがとても喉に良いし何より美味しい。
気分のリフレッシュにも役立つ。

散歩にもなるし、、、晴れた日には、徒歩と決めている。
健康のために漫然と歩くより、はっきりした目的のため歩く方が歩き易い。
コースに悩むこともないし。
ウォーキングに丁度良い距離でもある。

家の庭だけでは少ないので、弟の家に行くことにした。
庭の大きな2本の木からもタップリ採集出来るのだ。
採り始めるといつまでもきりがない。
無断であるが、多分気づかないだろう。
木を眺めると、実が減ったように観えない(笑。
ともかく、実の数が凄いのだ。

気づくと昼過ぎになっており、時間で切り上げた。
重い荷物をしょっての帰宅。
まさに山ほど採れていた。
大きな金笊に3つほど、山盛り。
当分、これでジュースに困らない。

天気も良く良い時間も過ごせた。

その後は、、、帰って来た娘をピアノ教室に送って、そのまま眠ってしまった。
気持ちの良い遅いお昼寝となった。




お気に入りCDを作る

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娘たちのお気に入りの曲が増えて、あちこちからその都度選んで聴くのが面倒になって来たので、ゲームをやる時間を切り上げて、「お気に入りCD]を一緒に作ることにした。
Web上から直接聴いているものは、ソースがないので今度お店に調達に行くことにした。
取り敢えず、長女の好きな曲を集めてプレイリストにする。
同じ人で3~4曲あったりするが、今回はなるべく一曲に絞る。色々聴きたいのだ。
アニメ系の曲がどうしても多くなるが、ポップスの名曲~逸品も入って来る(笑。


水曜日のカンパネラ、、、桃太郎(アニメを見ながら聴くと更に味わい深い)
夢みるアドレセンス、、、サマーヌード・アドレセンス(文字通りガールズ・アドレセンスパワーが弾ける。歌詞が良い)
ももいろクローバーZ、、、Moon Pride(これしかない。ただアニメで歌われていたVersionの方が更にかっこよい)
中谷美紀、、、砂の果実(これはわたしの青春?長女も気に入っている)
上白石萌音、、、変わらないもの(366日でもよかったが、何となくこちらにした)
Ceui、、、mellow melody(長女が昔よく聴いていた曲。アニメはまだ観ていない。『sola』のエンディングテーマ)
石川智昌、、、アンインストール(『ぼくらの』オープニングテーマであるが、アニメはまだ観ていない。歌詞が印象に残る)
乃木坂46、、、何度目の青空か?(いくちゃんセンターの曲!PVがこれまたよく出来ていて面白い)
菅野よう子*手嶌葵、、、Because、a little becuse(アコースティックギターの音色と手嶌さんの英語ボーカルが心地よい)
清浦夏実、、、すぐそこにみえるもの(アニメ『ささめきこと』のとてもリリカルでしっとり聴かせる曲)
菅野よう子*清浦夏実、、、お弁当を食べながら(ほっともっとのCMソング。聴くたびに感動する。流石は菅野さん)
遊佐未森、、、野の花(一曲絞るのは困難。歌詞が好きだからということで)
本田美奈子、、、天国への階段(この曲はアレンジを受け付けない曲だけど、本田さんの雰囲気で)
手嶌葵、、、テル―の唄(谷山浩子作曲の『ゲド戦記』の劇中挿入歌。萩原朔太郎に影響を受けた歌詞だという)
宇多田ヒカル、、、初恋(この中に入れるのはちょっと強引。だがお気に入りなので。天才の名曲)


の錚々たるアーティストのよく聴く曲を選んで、かなりランダムに並べてリストにした。
1時間10分程なので、一枚にすっぽり焼ける。

下川みくにと高橋 洋子は、今回は割愛したが、多分明日作る次女のCDには入る予定。
やはりエヴァンゲリオン不在ではちょっと、手落ちであろう。
次女だと「進撃の巨人」も入って来るか、、、。

ここのところ、二人が凝っている”東方Vocal”については手持ちのソースがないため、わたしが暇な時(常に暇だが)ダウンロードか近くのお店に見に行くことになるはず。しかし、「東方Project」というものはまだわれわれはよく分かっていない。
シューティングゲームのBGMのアレンジからはじまっているそうだが、歌手(ボーカル)もインディーズの趣味系の人ばかりらしい。
確かにインディーズ臭の強い面白いプロジェクトだ。曲はノリが良くって歌詞も韻を踏んでいたりしてついつい聴いてしまう。
CM曲では”電気グルーブ”の「ガリガリ君」も強烈だが、些か強烈過ぎる。
この中には入れられない。だが、これもお気に入りの曲だ。
わたしとしてはアニメ「コジコジ」のエンディングテーマ「ポケット カウボーイ」が一押しだが。
これも周りの曲に馴染ませるのは難しい(笑。
菅野さんで行けば、Origaのボーカルを配した”Exaelitus”(LEXUSのCM曲)が重厚でインパクトは充分である。
彼女の攻殻機動隊の一連の曲を想い起すものだ。
BGMであれば、菅野さんはたくさんある。例えば「中国12憶人の改革開放」(NHK)などかなりの名作だ。
完全にクラシック~現代音楽になるが。
娘たちも自分の弾く曲から次第にクラシックに近づいて来ているので、そのうちクラシック・現代音楽お気に入りCDも良いが、一曲が長いため色々集めるコラージュの面白さがないか、、、。

色々選んでいるうちにとても懐かしい曲に出逢い、暫し感慨に耽ってしまうものだが、そこがこんな作業の愉しいところでもある。
ひとつは木村弓の「いつも何度でも」久しぶりに聴き入ってしまった。

記憶の再編に関わる仕事~遊びでもある。
人生をゆったり味わうための。


piano001.jpg



planetarian~星の人~

planetarian003.jpg

2016年
津田尚克 監督
アニメーション映画

声:
すずきけいこ、、、少女ロボットゆめみ(プラネタリウム解説員)
小野大輔,、、、星の人(元屑屋)


恐らく事前に「Planetarian ~ちいさなほしのゆめ~」を1~5話まで観て、この映画を鑑賞することがベストのようだ。
わたしは、そのアニメ番組を観てはいない。だが、それでも伝わるものは伝わる。


非常にシンプルな構成だ。
登場人物も舞台もスッキリ絞られており、無駄な脱線も伏線もなくストレートに伝わる。

ゆめみの声が非常に良かった。
このロボットの個性(霊格)そのものであり、違う声であったら成り立つまい。
舞台で演じてもインパクトのある作品に充分になる。
キャスト次第ではあるが。

地上は完全に廃墟となっており、デパートのプラネタリウムに打ち捨てられたロボット解説員ゆめみがお客様を待ち続けている。
数十年もだれも来ないなかで。
電力供給もすでになく、予備電流で辛うじて起動出来ていた状態である。
そこに屑屋の男がやって来るところから始まる。

planetarian004.png

「わたしこわれてますから」自分が壊れているかどうか、自問自答するロボットである。
そこいらのバカな人間より遥かにマトモな存在である。

純粋に一途に生きることはロボットにしかもはや出来ぬか、、、
「人の危険を看過してはならない」(ロボット工学三原則第一原則)
屑屋の言いつけ「そこを絶対動くな」の重要命令を破って行動をとったのは上位原則があったためか。
この階層性の元の判断。どうなのだろう?価値判断に思えるが。
何れにせよ彼女の犠牲的行為によって屑屋の命は救われる。

planetarian001.jpg

演出も極めてシンプルだが説得力がある。
ゆめみが事切れる間際に降り注ぐ雨が瞳にも流れそれが確かに涙となって滴ってゆく。

彼は「屑屋」から「星屋」となる決意をし、コロニー間をプラネタリウムを見せて歩くうちに「星の人」と呼ばれるようになる。
やがて年老いた星の人は、深い雪の中で行倒れとなるも、三人の元気で好奇心旺盛な子供に助け出される。
そのコロニーも小規模で成員を食べさせるだけで精一杯の状況であった。
もはや星の人の居場所はなかった。
星の人は、子供たちとプラネタリウムの傘作りをし、彼らに星を見せる。
生まれて初めて星の存在を知り驚愕した子供たちは自分たちが後を継ぎ星の人になることを熱望する。
星の人は彼らに機材と貴重な本とゆめみのスロットから抜いた宝物であるメモリーカードを手渡し、後を託す。

星の人は死の間際、ゆめみの128エクサバイトのメモリーカードを「女神」のメモリースロットには挿せなかった。
もうこの世界には、「星の人」が役目を果たす場がないという諦観からなのか。
いや、世界が荒廃し先に見えるのが滅亡しかないのなら、尚更のこと「星を見ること」が必要なのだ。
空が無くても雪しか降らなくても地下にあっても、星は見える。
隠されていようが、あるものはあるのだ。
そしてそれを論理で見るのが人間の本質である。
目~思考を逸らしてはならない。
そしてそれを信じること。
その先に天国があるのだ。
天国のたったひとつの扉の先に、ゆめみはずっと待っている。

神とは何か?
それは、地上での行いを確かに見届けてくれる存在である!
それをもって人は、はじめて報われるのだ。
ゆめみは星の人をずっと見守っていた。
彼の、涙が堰を切って溢れ出したのは、あまりに自然なことだ。


まっすぐな少年少女レビ、ヨブ、ルツの三人にカードを託したのは正解であっただろう。
もしかしたら彼らが星の人として必要とされる世界が開ける希望がないとは謂えない。
それが役に立つ時があれば、まだ地球は持つはずだ。
三人がお礼に星の人に渡した宝のペンダントは、「女神」を彼が起動したときから共鳴して緑に灯っていた。
それで彼女は静かに星の人を看取りにベッドまで訪れたのだろう。

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ゆめみは天上にあって、すでに涙の流れるバージョンにアップしていた。
(廉価版ではなくなったのか)。


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スピーシーズ 種の起源

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Species

1995年
アメリカ

ロジャー・ドナルドソン監督
デニス・フェルドマン脚本

ベン・キングズレー 、、、ザビエ・フィッチ(研究所所長)
マイケル・マドセン 、、、プレス・レノックス(問題解決屋)
アルフレッド・モリナ 、、、スティーブン・アーデン(人類学者)
フォレスト・ウィテカー 、、、ダン・スミスソン(霊能力者)
マージ・ヘルゲンバーガー 、、、ローラ・ベイカー (分子生物学者)
ミシェル・ウィリアムズ 、、、少女シル
ナターシャ・ヘンストリッジ 、、、シル


ここでもエイリアンのデザインはH・R・ギーガーの手による。
似ている。リドリー・スコットの「エイリアン」に。
このフィギュアが業界スタンダードとなった感あり。

SETIにより1974年送ったメッセージ(人間のゲノム情報、太陽系の図、地球の人口)に対しその位置(場所)は特定できぬが驚くべき返事が来た。1993年だそうだ。
現実にはいくら待っても何にも来ないのが実情なのだが(時折ガセ情報が入るくらい)。
地球外知的生命体からのメッセージである(願望が先走る!)。

ひとつはメタンの触媒の構造式で、エネルギー問題を解決するほどのものであり、これをもって地球側としてはその送り主を好意的な存在と踏んだ。そしてもうひとつが新しい謎のDNA配列を示すものであった。
当然世界中で話題沸騰することは間違いないのだが、どうやら政府が伏せてしまったのだろう。
秘密裏にザビエ・フィッチ所長の元で、送られてきた通りの塩基配列を人間の卵子に注入すると驚くべき速度で分裂をはじめ急速に成長し、見かけは人だが全く違う生命体が出来てしまった。
これに危機感をもった実験者~当局はその生命体~女の子を抹殺することにする。
だが彼女の生命力と運動能力は予想以上のもので、ガス室から脱出して逃亡してしまう。

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それからは彼女は邪魔なものを躊躇なく殺戮し食欲を思う存分充たしつつ遂に列車の中で蛹となり、やがて成体となる。
一方彼女を秘密裏に処理するためのコンパクトなチームが結成され彼女の後を追う。
始末屋と霊能者と分子生物学者と人類学者による最小限のハンター組織である。
研究所の所長は軍用ヘリをはじめかなりの軍組織を必要とあれば自由に行使できる立場にあるようで、要所要所で使用しつつも一般~マスコミには真相を隠し続ける。
彼らは彼女の足取りを追い被害状況を検証していくうちに彼女が子孫を残し繁殖を図ろうとしていることが判明する。
すでに少女期の姿から大人の女性となり体勢は整っていた。

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派手にこの混血エイリアンが殺しや破壊をしていることから事態をいつまでもひた隠しには出来ない上に交配をして子供を産んでしまったらその成長速度からして、人類の存亡を揺るがすことは目に見えている。
最早一刻の猶予もないという流れでスリリングに展開してゆく。

そのキャストが素晴らしい。
「ガンジー」のベン・キングズレー、「ラストキング・オブ・スコットランド」のアミンのフォレスト・ウィテカー、後に「マリリン 7日間の恋」でマリリン・モンローとなるミシェル・ウィリアムズ、、、と凄い面々が揃っている。
特にフォレスト・ウィテカーの独特の繊細な演技がしっかり窺える(それにしてもあのアミンの繊細で激情的な狂気の演技は凄まじかった)。
それに加え、人類とエイリアンの混血児であるシルのナターシャ・ヘンストリッジのクールビューティな存在感も際立っておりとてもお洒落だ。そう、ホラー・エイリアンムービーとも言える本作だが大変ファッショナブルでお洒落な印象を与えるのは、彼女のお陰である。
マイケル・マドセンとマージ・ヘルゲンバーガーの物語の中心的カップルも程よいマイルド感を醸していてエンターテイメント性を高めていた。始末屋~殺し屋にしては親切で人が良く、分子生物学者の女史は妙に色っぽいのだ。この付加価値が映画に厚みを加えている。一人犠牲となる人類学者~アルフレッド・モリナもナターシャと好対照の人間的な良い味を出していた。
それだけではない。ツイン・ピークスの警官もモーテルの支配人で出ている。
その目で見るとまだまだ隠れた名優がいそうだが、わたしは俳優に詳しくないため、見つけられない。

冷酷非道のエイリアンとしてもっとも印象に残っているのは、「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」のスカーレット・ヨハンソンである(彼女も最終的には実存的不安に圧し潰され自滅して行くのだ)が、このナターシャ・ヘンストリッジ~シルは、最初から悪夢に悩まされ、自分が何処から来て、一体何者なのか、、、これから殺そうとしている人間に問うこともしている。
彼女としては全く異なる種として人類の只中に投げ出されたのだ。
そして一度は少女期に殺されかけている。
そんな過酷な地にあって、自らの生存欲と種の保存を図る目的で子供を作りたいという本能は、正統なものであろう。
ダン・スミスソンもシルの足取りを追う中で、彼女は恐れている、と霊視している。
謂わば過去にあった勢力争いのひとつとも言える。
ここに終盤ネズミが出てきて最後に不穏な存在と化しているが、ネズミこそ人類にとって湿地帯を争ってきた往年のライバルであった。

ここではすべての立場は相対化され善も悪もない生存を賭けた闘争~死闘として平板に展開している。
実際、こういう事態が起きてもおかしくはない。


もう地球人の無意識的願望として、高度な知的生命体に何でもよいから出逢いたいのね~。
他者を認める気などないくせに、漠然とETを欲している。
自分に都合の良いETを。
だから半面の危険意識~悪夢のパタンも想像し易い。






恋は雨上がりのように

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2018年

永井聡 監督
坂口理子 脚本
眉月じゅん『恋は雨上がりのように』原作

小松菜奈、、、橘あきら(短距離記録保持者女子高生)
大泉洋、、、近藤正己(橘あきらのバイト先ファミレスの店長)
清野菜名、、、喜屋武はるか(橘あきらの親友、陸上部部長)
磯村勇斗、、、加瀬亮介(ファミレスバイト店員)
葉山奨之、、、吉澤タカシ(ファミレスバイト店員、橘あきらに心を寄せるが相手にされない)
松本穂香、、、西田ユイ(ファミレスバイト店員)
山本舞香、、、倉田みずき(他校の短距離走実力者)
濱田マリ、、、久保(ファミレス店員)


小松奈々の綺麗な走りが印象的であった。
恐らく陸上をやっていたのでは。
終盤に出て来た山本舞香も粗削りで精悍な雰囲気が良いアクセントになっていた。
コミック原作の恋愛ドラマというが、設定に強調・単純化は観られても無理は感じない。

小松奈々の凛とした佇まいの魅力で最後まで観てしまった。
何と言うか、日本のレア・セドゥという感じか(小松奈々の方が綺麗だが)。
大泉洋という人は、これまたよく出てくる人だ。
俳優もたくさんいるはずなのだが、何故この人ばかりがこうも売れているのか?
この作品ではピッタリな役だとは思うが。
(他にこのような役のできる俳優はいなかったのか)。

小松奈々~橘あきらは群れてお喋りをして依存しあうよくいる女子ではなく、独りで淡々と何でもやってしまうタイプの女子だ。
しかし対人関係は得意ではない。率直で誠実だが、自分の気持ちの伝え方などかなり不器用である。
一方、大泉洋~近藤正己の方は対人関係にはこなれている、誰にも優しい接客のプロである。
一見頼りなげに見えて、大人としての分別がしっかりとある男だ。

両者ともに挫折を味わい、雨に降られている状況か?
あきらは高校短距離走の記録保持者であるが、アキレス腱断裂で現在リハビリ中であり競技人生に大きな不安を抱えている。
近藤は小説家志望であったが、今は生活のためファミレスの店長をしている。だが自分の部屋にはいつでも書き始められるように白紙の原稿用紙とペンが机に置かれている。書きたいという気持ちは捨てていないのだ。
また、あきらは父がおらず、近藤は離婚しており時折息子と逢って世話をしているという境遇である。

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あきらにとって近藤は父ほどの年齢であり、しかも自分の持たない人を和ませる豊かな包容力をもった異性であった。
雨宿りした近藤店長のファミレスにたまたま立ち寄った経緯で、彼の人柄に惹かれ性格的に合っているとは言い難い店員の仕事をそこで始める。
詰まり最初からあきらは近藤に好意を抱いており、それとなく言動や素振りや所作のなかで好意を伝えるのではなく、ある時彼をじっと睨むように見詰め、ストレートに「店長のことが好きです!」と告白してしまう。
これには店長も腰を抜かして驚く。

彼女はめげず、たじろぐ店長に対し何度もストレートに告白して迫る。
しかし店長も彼女のことをとても大切に思っているため、それをそのまま受け入れる訳にはいかない。
店長は頑なに彼女の気持ちは受け入れられないことを告げる。これは店長の人格をよく示すところである。
ふたりで図書館に行き、彼女が本当に読みたい本を探させて彼女の内省を促す方法もとる。
この辺のやりとりの流れがとてもコミカルで、結構シリアスでもあり勿論、噺の中心軸として展開する。
彼女は結局、短距離走の本を借りてしまう。
店長は昔の親友が出した小説を借りることに。
やはりふたりとも自分の抱え持っていることが何かがはっきりしたと謂える。

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店長は彼女に、海辺で自分の息子に走り方を教えて貰い、走ることの素晴らしさを思い出させようとする。
アキレス腱断裂を経験してもしっかり治療すれば、好タイムを出すことが出来ることをライバルの倉田みずきは証明してみせた。
彼女はあきらに憧れて練習を重ねてきた他校の優秀なアスリートであり、彼女も以前アキレス腱断裂から立ち直った経験者でもあった。このみずきの存在があきらを競技の世界に引き戻す装置として働く。

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最後に背中を押すのは店長である。
「もう来週からシフト出さなくていいから。やることがあるでしょ」と言ってもうバイトに来ないでよいことを諭す。
それを少し寂しげながら爽やかな笑顔で受け入れるあきら。

近藤もその後、長いこと書けないでいた小説を執筆し始める。意欲が湧いてきたのだ。
あきらが部活に復帰しトレーニングを続けているところへ近藤が車でやって来る。
彼は自分が会社で昇進したことを伝えに来たと言ってあきらの様子を窺いにやって来たのか。
あきらは彼に意外な申し出をする。
「メールしあいましょ」と、、、。
お互いに笑顔を交わし合う。


つまり、陸上も小説もお付き合いも継続して行くということか、、、。
ともあれ雨は上がった。




アデル ブルーは熱い色

Blue Is the Warmest Colour

La vie d'Adele ? Chapitres 1 et 2 / Blue Is the Warmest Colour
2013年 
フランス

アブデラティフ・ケシシュ監督・脚本
ガリア・ラクロワ脚本
ジュリー・マロ『ブルーは熱い色』原作

アデル・エグザルホプロス、、、アデル(教師)
レア・セドゥ、、、エマ(画家)


何と言うかドキュメンタリーを観るような感覚で浸ってしまった。
とてもセリフや仕草が自然でしかも長回しである。
しかも近い。接写が多い。
BGMもない。
ひとつのシーンを丁寧に漂うように描写する時間のかけ方がハリウッド映画とは異質のものだ。
擦れ違いざまに一目惚れするさり気無いシーンの何と饒舌なことか。

ドラマチックな演出がないところで、内容自体の痛々しいひりつく感情の動きがダイレクトに刺ささってくる。
長い尺の大半を苦しさが充満している。
恋愛とはこれほど苦しいものなのだ。
彼女らお互いが、若くて前向きで力強い分、これほどに激しく辛い。
こちらも辛い。
(特にアデルには同情してしまった)。

これはわたしにとって、かなりハードな映画であった。
主演二人の女優のとってもリアルな熱演。
なりきるとはこういうものか、、、という。
(双方アプローチの仕方は違うにせよ)。
この生~性そのものを曝け出す生の演技が、鬼気迫るものであった。

これは性描写に限らずとても多くみられる食べるシーンに如実に窺える。
余りに生々しい食べ方なのだ(特にアデル)。
赤ん坊が食べるときみたいな食べ方だし、喜怒哀楽そのものもとても初期を思わせる。そう、眠っているときのあの無意識そのものと謂った口を開けた無防備な表情、、、。
監督はこの水準まで要求したのか。
美人女優が涙と鼻水まみれで口の周りにはパスタソースがくっついて生々しい生が語られてゆく。

生理的~身体レベルで共振する映画だ。
そしてわたしは、アデルにもエマにもとても共感する。
アデルの弱さに流されつつも自分に誠実に生きようとする一生懸命さが好きだ。
エマの哲学的、芸術至上主義的な生き方には憧れる。
そして一度は愛し合ったにも関わらず元には決して戻れない。
そういうものだ、ということをはっきりと悟って、アデルはエマの個展会場を後にする。


独り煙草を燻らせて足早に歩み去る姿にそれまでの自分に決別する意志が滲む。
しかし彼女はこれから先どうするんだろう、という心細さを感じる。
少なくとも晴れやかな解放感や展望など微塵も感じない。


わたしは最近、大の苦手の恋愛映画を結構観るようになった。
考えてみれば、これもわたしにとってSFなのだ。




この完全版はレンタルより10分ほど長い約3時間のものです。

イカリエ-XB1

Ikarie XB-1001

Ikarie XB-1
1963年
チェコスロバキア

インドゥジヒ・ポラーク監督・脚本
スタニスワフ・レム「マゼラン星雲」原作
ズデニェク・リシュカ音楽
ヤン・カリシュ撮影

ズデニェク・シュチェパーネク 、、、アバイェフ艦長
フランチシェク・スモリーク 、、、アントニー
ダナ・メドジツカー 、、、ニナ
イレナ・カチールコヴァー 、、、ブリジタ
ラドヴァン・ルカフスキー 、、、マクドナルド副艦長
オットー・ラツコヴィチ 、、、ミハル


独特のヒンヤリとしたハーフトーンの金属的な質感である。
金属製の製氷器みたいな宇宙船にパトリックという年代物ロボットなど、、、。
ジュールベルヌやメトロポリス(フリッツ・ラング)から流れてきてチェコに発芽したものだと思うが、それにエポックメイキングなサウンドが絡む。
音響・音楽がこれぞチェコという素晴らしいもの。
イジー・トルンカの流れをくむ独自の伝統を感じるが、ここでは円谷の宇宙ものの効果音も彷彿させるゾクゾクくる音が全編を通して鳴り響く。
アルテュール・オネゲルの音も流れたか。彼らは20世紀の良い遺産として彼の音楽を語っていた。趣味が良い。
それらが一体となり、ヤン・シュヴァンクマイエルなどにも通じる禍々しさやエイリアンにも接続する物質的なフェティシズムに充たされる。
チェコはわたしに、特別な文化的基調を齎している。
そうショーペン・ハウアーとともにわたしに多大な衝撃を与えたフランツ・カフカもチェコの作家であった。

2163年、、、宇宙船イカリエ-XB1に乗って、、、
ケンタウルス座α星系に高度な知的生命体とのファーストコンタクトを求めた人類の物語である。

Ikarie XB-1004
船内には広いトレーニングスペースやピアノも置かれ、音楽や会話が絶えない。

ここは三重連星でありケンタウルス座α星A、ケンタウルス座α星B、赤色矮星のプロキシマ・ケンタウリで成り立つ。
プロキシマ・ケンタウリの惑星プロキシマ・ケンタウリbが地球型の生命惑星の候補として取りざたされたことは記憶にも新しい。
(何とタイムリーな)。
1960年代にこの着想も素晴らしいが、原作がスタニスワフ・レムであれば納得。
(ポーランドの先鋭的文学~SFも音楽ともどもわたしの新たな原風景を形成したものだ。「シルバー・グローブ/銀の惑星」も何故か思い出した。SFのもう一つの流れを強く感じる)。

Ikarie XB-1006

アルファケンタウリ系にあって惑星探査中に、彼らが地球の歴史上もっとも忌み嫌う20世紀を象徴する遺物~幽霊宇宙船に出逢う。
乗組員の死体からその世紀を象徴する醜い欲望からくる争いの跡が見られる。
彼らはアウシュビッツや広島の歴史的事実に想いを馳せる。
そして残されていた核弾頭の誤爆により、調査に出向いた二人のクルーが犠牲となる。
重苦しい空気に沈むが、オネゲルも20世紀の音楽家だ、と気を取り直す。
とって付けたような場面ではあるが、未来に向かう途上での過去の総括のような面白いエピソードだ。

Ikarie XB-1002

例の音楽による船員40名ほどのダンスパーティーが開かれる。
まさに宇宙空間に相応しいコズミックダンスである。
とてもこそばゆい感覚のダンスだ。

Ikarie XB-1003

そして船外活動したクルー二人が宇宙線に被爆し重傷を負いパニックを引き起こす。
ダークスターの放射線の影響で船内のクルー全員が眠くなり、人の心に迷いが生じ混乱が緩く沸き起きる。
地球に帰還するかどうか判断を迫られるが船長はそのまま探査を続行する意向を示す。
そんな中、やがて全員が眠ってしまう。
それを救ってくれたのが探し求めていた知的生命の住む惑星~ホワイトプラネットであった。
彼らはイカリエ-XB1を見出し、力場によってダークスターの放射線から船を守ってくれたのだ。

これは歓迎の印ではないか。
目覚めて集まって来たクルーたちも、その美しいホワイトプラネットに目を見張る。
人類初の宇宙空間における出産とファーストコンタクトに対する感動と希望に湧く船内の様子からエンドロールへ。

Ikarie XB-1005

最近ではほとんど味わえない未来への希望に充ち溢れた前向きなエンディングであった。
「われわれは後1時間で地球ではない地に降り立つのだ」

ともかく、音響・音楽にこの機械~ロボットなどのマテリアル感を充分に堪能したものだ。







ライオンは今夜死ぬ

LE LION EST MORT CE SOIR001

LE LION EST MORT CE SOIR
2017年
フランス、日本

諏訪敦彦 監督・脚本
トム・アラリ撮影

ジャン=ピエール・レオ、、、ジャン
ポーリーヌ・エチエンヌ、、、ジュリエット(死んだジャンの恋人)
モード・ワイラー、、、ジュールの母親
アルチュール・アラリ、、、フィリップ(映写技師)
イザベル・ベンガルテン、、、マリー
ルイ=ド・ドゥ・ランクザン,,,映画監督


「ライオンは寝ている」という曲は初めて知った。
多くの歌手に歌い継がれてきた曲だそうだ。
肝心のセリフもそこからきており、この曲から着想を得たものなのか、、、。

南フランスのラ・シオタを舞台に、「大人は判ってくれない」のジャン=ピエール・レオが「死」を演じる初老の俳優として出演。
目を15秒閉じてセリフを語りまた15秒目を閉じる。
目を閉じたらそれっきりかも知れない危うさしっかり感じさせてくれる。
「わしは疲れたから眠るよ」とよく眠っていた。
親近感を持つ。
わたしも睡魔との闘いであった。

共演女優が部屋に閉じ篭り出てこないため撮影が進まず、彼はその地にあるかつての恋人の家を訪ねる。
所謂、我儘な大女優というやつか、、、。
そこで彼は、バカンス気分に。
(こういう時に出来た空白の時間がもっとも自由で贅沢に思える)。

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屋敷に着くと彼はうら若きジュリエットに出逢う。
彼女の霊に遭ったのか、彼の白昼夢のなかのかつての彼女なのか。
しかしそれはどちらであっても彼にとってはどうでもよい。
きっと彼にとっての理想の彼女の姿であって、他の人に彼女は見えないことでは同じ。
南仏の光と闇のなかで、、、
生死~現と夢の間が曖昧になってゆく。

そんな時空間に映画ごっこをして遊ぶ幼い子供たちが入り込んでくる。
一緒に映画遊びをしたいと言う。
彼らがシナリオを書き、ジャンも役者として入ることになる。
恐怖の館というホラー映画を子供たちに撮られた。
その合間に、彼はジュリエットと語り合う。
そしてよく昼寝もした。

LE LION EST MORT CE SOIR003

このこどもたちとのやりとりは、恐らくほとんどがアドリブではないか。
スカスカでとても無理のない自然なものであった。
子供たちが皆、楽しそうで、まさに遊んであるではないか。
こんな場所だと、映画遊びなどとてもよく馴染む。

ジャンの謂うように、死もまた出逢いのひとつならば、、、
彼の美しい恋人との再会や映画を作る子供たちとの遭遇が、彼の死と生を一際煌めかせる場~時空となったと謂える。

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南仏は憧れの場所だ。
ライオンが歩いていてもおかしくない。






白痴

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1951年

黒澤明 監督
黒澤明、久板栄二郎 脚本
ドストエフスキー『白痴』原作

原節子 、、、那須妙子 ナスターシャ
森雅之 、、、亀田欽司 ムイシュキン公爵
三船敏郎 、、、赤間伝吉 ロゴージン
久我美子 、、、大野綾子 アグラーヤ
志村喬 、、、大野 エパンチン将軍
東山千栄子 、、、大野里子 リザヴェータ夫人
文谷千代子 、、、大野範子 アレクサンドラ
柳永二郎 、、、東畑 トーツキイ
千秋実 、、、香山睦郎 ガーニャ
千石規子 、、、香山孝子 ワーリャ
井上大助 、、、香山薫 コーリャ


この映画の全体について語る用意はない。幾つか感じたことのみ記して置くに留める。
4時間25分のものを二度にわたり松竹側からカットを要請され、ついに普通の映画1本分にあたる時間を切り取り166分になってしまった作品ということ。
監督は当初、第一部と第二部の二本立ての映画として計画したが、それを本作のなかに組み込んで一本の映画とすることになった。
第一部「愛と苦悩」そして第ニ部「恋と憎悪」。
冒頭の方で3度も字幕による説明文が流され、場面を切った後の繋ぎのトランジションなのかワイプなどが頻繁に入って展開して行く。かなりの難産によって日の目を見た映画という感じはする。ちょっと作品自体がダイジェスト版になりかけていて痛々しい。
(よくあるオリジナル作品の発掘はこれについてはないようだ。完全にカットした段階で消滅しているらしい)。

昨日の「七人の侍」の対極にあるような作品である。

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まさに” Femme fatale”とは、この人のことか、と実感させる黒衣の原節子~那須妙子(素晴らしいネーミング)であった。
小津映画ではまず見ることのないペルソナだ。こんな迫力というか情念・魔性を彼女に覚えたことはない。
(これを観てしまうと、他の役柄が皆、省エネ演技に思えてしまう)。
その相手役、ではなく主役は有島武郎の息子である森雅之だ。
基本的に女性キャストはピッタリの役柄でリアリティがあったが、森雅之の亀田欽司はかなり難しい役だ。
抽象的な人物を演じる困難さである。目からして極めて特異な「てんかん性痴呆症」を遥かに超えたペルソナを演じている。「一番大切な知恵にかけては、世間の人たちの誰よりも、ずっと優れている」人物として素描される。
語る言葉はことごとく、哲学的で詩情に溢れてもいる。魅力的であり、全く別世界の人間に見えてやはり世間一般の常識~パラダイムをはみ出している赤間伝吉が惹かれるのも良く分かる。

森雅之、彼はやはり文学的な雰囲気~面持ちの人である。(有島武郎はわたしの大好きな作家であり、文を読んでいるときの恍惚感は他の作家では味わえないものがある。とても堅牢な文体と構成力に眩暈を感じる)。

原作(勿論訳だが)は軽妙な文体で、するする読んで行ける(行ってしまった)が、映画の方も亀田と赤間の掛け合いが微妙なテンポで面白く、知らず惹き込まれてしまう。内容の重み、と言うか純度は途方もないが、観易い流れではある。
舞台は昭和20年代の札幌。異国情緒があり、何だかロシアっぽい。
特に赤間伝吉のアジトなど、かなり無国籍的で禍々しい魅力が漂っている。
「ぼくはね、君の家がこんな風だろうと思っていたよ」赤間の内面も見透かすような亀田欽司の洞察力は半端ではない。

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白く深い雪のなかでの純粋な狂気とその崩壊の物語である。

主要登場人物は皆、狂気の人である。いや、目をしている。
目が違う。
那須妙子の目、亀田欽司の目、赤間伝吉の目、大野綾子の目、、、その眼差しの力。
運命に対する途轍もない怒りに充ちた眼差し、自我から外れた純粋な洞察を湛える静かな眼差し、親の呪縛に対する激しい反発と自己主張にぎらつく眼差し、頑なに純粋さを求める半面の猜疑心による攻撃的な眼差し、、、
皆、尋常ではない。

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この他の目は普通の目とは言えるが。
その目を持つものもかなり強面だ。
大野里子に香山孝子の女性陣である。
正論を翳して襲い掛かる。男たちは皆、タジタジである。
特に八方から終始やられっぱなしは香山睦郎だ。
那須妙子を愛人として囲っていた政治家東畑から60万円の持参金付きで引き取ろうとした身である。
(それでいて大野綾子にもこころを寄せている。この点では亀田欽司の全く裏側に位置する)。
ずっといじけて不貞腐れっぱなしの小心者の目であった。

赤間伝吉は那須妙子に一目ぼれした瞬間が自立の決意と同期したため、まずは是が非でも彼女と結ばれたい。
100万円を用立て、香山睦郎に叩き付ける。
それが那須妙子によって暖炉に放り込まれるが、意に介さず「これが俺たちのやり口だ」と啖呵を切り彼女を連れ立ってゆく。
男では彼のみがひたすら強気で衝動的で、きな臭い。

それにしても「東京物語」の奥ゆかしい東山千栄子の見る影もない。
もっとも、大野里子は最終的に(本質的に)娘同様、亀田欽司という存在の尊さを認識している。

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亀田欽司の語ることが確信を突きすぎていて、その本質力から誰も異論は出しようがないのだが、那須妙子と大野綾子両者の純粋さと素晴らしさを認め、両者を好きだと公言してしまったうえで、どうするかという世間的な配慮など元より計算などない。
彼の本質を見抜いてしまい那須妙子と大野綾子も彼を心から愛してしまう。
だがそれが単純な取り合いにはならない。
那須妙子は彼の人生を自分のために台無しにはしたくない一心で、大野綾子と結婚させたいと願う。
それが余計に大野綾子の癇に障る。

そこに深く絡む赤間伝吉とそうした流れを理解しつつ世間体も考え口を挟む大野里子。
嫌われながらも当てつけで大野綾子に時折利用されつつ最後まで周辺に漂う香山睦郎。
それを激しく叱咤する妹の香山孝子。
亀田欽司に共感し好意を寄せるメッセンジャーボーイの香山薫。
彼らの動きから只ならぬ波紋は広がる。

夜の雪まつりの光景がまた禍々しく、そこに立つデーモン雪像が一際象徴的に見えた。
那須妙子と大野綾子のギリギリの対決を経て二人の共存の不可能性を感じ取った赤間伝吉は那須妙子を手にかけた。
亀田欽司と赤間伝吉は自らの精神を支えきれずに崩壊し精神病院に入る。

「そう!あの人の様に 人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら、、、
私、、、私、なんて馬鹿だったんだろう、、、白痴だったの、わたしだわ!」
大野綾子の最後の言葉で締めくくられる。



七人の侍

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1954年

黒澤明 監督
黒澤明、橋本忍、小国英雄 脚本
中井朝一 撮影
松山崇 美術
早坂文雄 音楽

三船敏郎 、、、菊千代(孤児の自称侍)
志村喬 、、、島田勘兵衛(智将)
加東大介 、、、七郎次(勘兵衛の元家臣)
木村功 、、、岡本勝四郎(郷士の末子、志乃と惹かれ合う)
稲葉義男 、、、片山五郎兵衛(勘兵衛の参謀)
千秋実 、、、林田平八(ムードメーカーの浪人)
宮口精二 、、、久蔵(凄腕の剣客)
土屋嘉男 、、、利吉(侍を集め世話役をする若い百姓)
津島恵子 、、、志乃(万造の娘)
藤原釜足 、、、万造(娘の髪を切り男装させる)
小杉義男 、、、茂助(防衛線の外に家を持つ百姓)
左卜全 、、、与平(中年の百姓、菊千代に目をかけられる)


これほど短い207分を味わうことはまずない。
見始めたかと思ったら、映画時間に吸い込まれ終わった後に時間の経過を知った。
観ている自分をこの間ほとんど意識しなかったため、こちら側での時間感覚はないに等しい。
(わたしは向こう側に飛んでいた)。
この比類ない直截的な臨場感はどこから来るのか。
脚本、演出・美術、撮影、役者の存在感と演技力、音楽どれもが優れたものであるからだろうが、ひとつ具体的に言うと、敵と味方をはっきり分断して描くことを徹底している点にあると思う。
敵は名のない野武士=エイリアンであり。
こちらの感情を傭兵と百姓との葛藤と協調そして一枚岩になるまでの過程に釘付けする。
これが本当に起伏があり濃密な活き活きした流れなのだ。
もし敵側にも個々の名のある個性があってその描写にシーンが行ったり来たりと飛んでいたら、われわれの視座が非常に揺らいで定まらない超越的なものにならざる負えない。恐らく抽象的な視座から距離が生まれ、相当現実味が削がれたはず。
この自然さ~質は現実体験に限りなく近い。
であるからその時間流に一体化してしまうのだ。

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この稠密な時空間は寧ろ夢に似たものかも知れない。
始まりは野武士に村を根こそぎ荒らされもうどうにもならなくなった百姓の苦悩とそこからひねり出された苦肉の策を巡り、村人に共振しつつ寄り添う。何とか侍が7人集まり村に到着してからは、徐々に百姓の強かさ狡賢さも露呈して来る(落ち武者狩りの戦利品を隠し持っていたり、食料も巧妙に貯蔵している)。逆に侍たちの身分~権威を純粋にリーダーシップにのみ発揮した高潔な姿勢に徐々に彼らに対する共感が増してゆく。元々村を野武士から守る間に食料を保証するだけの条件であり、西部劇のヒーローではまず引き受けない内容である。
彼らの献身的な働きで武装した百姓も様になり村は統制された要塞と化してゆく(防衛線の外の家は捨てられ、これを泣く泣く納得した時点で完全に一丸となる)。
侍たちを統率する島田勘兵衛の村の地形から的確に割り出した戦略がことごとく功を奏する知略ぶりとそれぞれ剣術に長けた侍が自分の持ち味を生かしつつチームプレイに徹するところは見事というしかない。そして智将島田とは正反対の無軌道かつ衝動的な爆発力で暴れ回る菊千代が、彼ら侍~百姓陣営に危険(不安)と活力(笑い)を呼び込みダイナミズムを生む。
大きく激しい緩急のなか、確実に戦果は挙げてゆくが、鉄砲に撃たれ侍がひとりまたひとりと死んでゆくと、こちらの胸も痛むほどに侍たちの方に共振を深めていた。
まさにこれらの動きが素早く交錯し気象も彼らの心象風景となって破れ目のない絵として展開し息もつかせぬ夢の時間を生きている。

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そして秀逸なのは、全ての決着のつく頃に大雨が降り出すのだ。
若い岡本勝四郎が尊敬の念を率直に伝えた凄腕の剣客久蔵と菊千代が鉄砲に相次いであえなく倒れ、激高した彼が「野武士はおらんか!」と叫んだ時には、すでに敵は誰も残っていなかった。
この雨がこれまでの非常に濃厚で分厚い時間を何もなかったかのように呆気なく押し流してしまう。
晴れて眩しい翌日、百姓たちは快活に歌と踊りを交えて一心不乱に稲を植えはじめ、その響きは空に木霊する勢いであった。
生き残った島田とその元家臣の七郎次と岡本の三人が立ち去ろうとしても関心を払う者もいない。
岡本と愛し合った情熱的な娘、志乃も一瞥して直ぐに田植えに入って歌を高らかに唄う。
侍は再び浪人として用無しの身となった。
「また戦いに負けた。勝ったのは百姓たちじゃ」呆然として島田が呟く。

確かに百姓たちは勝ち誇った生気が滾る顔をしていた。
こうした逆転もあるのだ。
夢から覚めるときの感覚にも似て。

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アイ、トーニャ

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I, Tonya
2017年
アメリカ

クレイグ・ガレスピー監督
スティーヴン・ロジャース脚本

マーゴット・ロビー 、、、トーニャ・ハーディング、製作
アリソン・ジャネイ 、、、ヴォナ・ハーディング(母)
セバスチャン・スタン 、、、ジェフ・ギルーリー(夫)
ジュリアンヌ・ニコルソン 、、、ダイアン・ローリンソン
ボビー・カナヴェイル 、、、マーティン・マドックス
ポール・ウォルター・ハウザー 、、、ショーン・エッカート(夫の悪友)
ボヤナ・ノヴァコヴィッチ 、、、ドディ・ティーチマン
ケイトリン・カーヴァー 、、、ナンシー・ケリガン
マッケナ・グレイス 、、、トーニャ・ハーディング(少女時代)


ナンシー・ケリガン襲撃事件というのは、記憶にある。
わたしもフィギュアファンであったから、当時テレビで観た。
まだカタリナ・ビットも活躍していたころだ。わたしは大のカタリナ・ビットファンであった。

はっきり言って、トーニャ・ハーディングには全く興味がなかったので、フ~ンと思ったくらいである。
(ただ、スポーツ競技において余りに露骨で下劣な行為だなとは感じた、、、スポーツでなくてもそうだが)。
その彼女の人間像に迫るといってもそれほど乗り気で観たわけではないのだが、、、

主役のマーゴット・ロビーの熱演にグイグイ惹き込まれてしまった。
彼女は製作にも関わっており、何を描きたいのかの芯もしっかり感じ取れた。思い入れがたっぷり籠った感じだ。
充分彼女の造形するトーニャ像には共感する。
そしてアリソン・ジャネイ演じる冷酷非道な母像の破壊力と共に見応えある作品に仕上がっていた。


まさに親子関係が作る成育環境は、その後の長い人生を支配し続ける蟻地獄ともなるものだ。
非常に横暴で挑発的な態度で娘に愛情の替わりに暴力と暴言しかかけない母に支配された(父はそれに耐えられずに家を出て行った)家庭環境で、トーニャは母のウエイトレスのバイトで得た費用でスケートレッスンに明け暮れる。
勉強もろくにやらせてもらえず、不可避的にスケートしか知らない人生となる。
トーニャ自身、幼くしてスケートに憧れたこともあり、母としては彼女のやりたいことを暴力的だが支援したというかたちでもあろうか。

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所謂、トーニャに関しては愛着障害以外のなにものでもない。
そして同様の障害を持った仲間を必然的に呼び寄せ、固着関係が出来てどうにもならない形で転がって行く。
打開しようともがくほど、悪い方向に膨らみ悪循環となる構図が窺える。
ことごとく、そういうものだ。
DV夫といい、彼の誇大妄想の虚言癖の友人といい、その友人の訳の分からぬ手下(この連中が実際にナンシー・ケリガンの膝を殴打する)などと腐れ縁となってゆく。どうにも断ち切れない。彼女自ら頼ってしまいもする。

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この映画で、トーニャを終始悩ませ続けるのが、アーティスティック・インプレッションである。
芸術点と言ってもそこは多分に「アメリカの良き家族像に訴えるような」(審査員がオフレコで彼女に答えた)ものである必要があった。多分に権威主義で偏狭な価値観に支配されている面は否めない。
トーニャのようにクラシックではなくZZトップのヒットチューンをバックに豪快にトリプルアクセルにかける滑り方は、審査員~スケート協会に喧嘩を売っているような挑戦的なものに映ったようだ。
彼女に浴びせかけられる批判は、スケートは技術だけじゃないんだ!という類のものに集約される。
しかしこれは聞こえは良いが、ある理想的なお上品な階級に迎合するスタイルで滑れよ、という排他的(権威主義的)メッセージにしか受け散れない。

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そこに持ってきて、誇大妄想狂の虚言癖のあるジェフの悪友ショーンの余計なお節介と謂うより、ボディーガード気取りの迷惑至極なナンシー・ケリガン殴打事件が突然引き起こされる。元はと謂えばショーンがトーニャにスケートの試合に出られなくなるような脅迫状を送ったのがきっかけである。ショーンの稚拙な姦計にはまり、ジェフもケリガンを脅迫状で脅すことには乗り気でいたが(トーニャはどうでもよい噺で相手にもしてなかったが)実際にやったことはケリガンの膝を殴打し負傷させる犯罪であった。これはジェフとトーニャにとっては寝耳に水であるにせよ後の祭りで、余りにお粗末な犯行のため直ぐにショーンは捕まり、彼はジェフが首謀者でその計画はトーニャも知っていたと警察に騙ってしまう。

女子で初めてトリプルアクセルに成功し全米で持て囃された矢先に、天国から地獄である。
誰もがその襲撃事件にトーニャが関わっていることを信じ期待した。
彼女の言うように、みんなはヒールを作りたがっているのだ。
ヒールに誰かを仕立て上げて、それをみんなで叩き優越感と爽快感を得たいのだ。
彼女は以前から問題行動(スケート協会にそぐわぬスタイル)をとっていたために格好の餌食であった。

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マーゴット・ロビーの体当たりの名演もあり、あそこまで追い込まれ叩かれる彼女に対し同情は禁じ得ない。
夫やその悪友やその手下など、とんでもない取り巻きにいつも邪魔される不遇もそうだが、とりわけ彼女が何度も和解を試みた母に再三再四にわたり残酷な形で撥ねつけられ絶望する姿には深く感じ入るところであった。
母親の愛を何とか得たい一心で頑張って来ているのに全く受け入れられず、遂に身近な取り巻きたちの引き起こした身勝手極まりない犯罪のお陰で唯一の取柄(本人の語るところ)であるスケートも取り上げられてしまう。
スケート協会から除名され、試合に限らずすべてのスケート競技の出場権は剥奪となる。
わたしは学歴も何もないのにこれからどうしろというのよ、ということでヒールとして人々の前に身を晒て稼ぐ格闘技のリングに上がる。わたしは暴力には慣れっこだから、、、である。

それが、”I, Tonya”、、、なのか。

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潔い生き方ではあるが、その前に、、、
現在の自分を形作ってしまった全ての要因に見切りをつけ排除・切断し、余計な未練や一抹の希望(幻想)など抱かぬことである。
独りになれば見えてくるものが必ずあるはず。惰性的な依存関係が人を破滅に導く一例でもある。

マッケナ・グレイスの少女時代のトーニャの存在感も圧倒的なものであった。
(凄い子役である)。
アリソン・ジャネイ最凶の毒母をクールに演じ切っていた。お見事というしかない。
彼女に些かも反省の念がないのもそれが彼女にとっての愛であったからだ。
永遠に平行線を行く親子というのは、はっきりとある。
(わたしも場合も同様に)。


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ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男

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Darkest Hour
2017年
イギリス

ジョー・ライト監督
アンソニー・マクカーテン脚本
辻一弘 特殊メーキャップ
ダリオ・マリアネッリ 音楽

ゲイリー・オールドマン 、、、ウィンストン・チャーチル
クリスティン・スコット・トーマス 、、、クレメンティーン・チャーチル(妻)
リリー・ジェームズ 、、、エリザベス・レイトン(秘書)
スティーヴン・ディレイン 、、、ハリファックス子爵
ロナルド・ピックアップ 、、、ネヴィル・チェンバレン
ベン・メンデルソーン 、、、国王ジョージ6世


非常に説明的な邦題である。判り易いが味気ない。

ゲイリー・オールドマンが跡形もなくウィンストン・チャーチルになっていた。
大変な特殊メーキャップ技術だ。
顔だけでなく体形~シルエットや姿勢や仕草など全体の動きまで研究し尽くして臨んだことが実感できる。
凄まじい役作りだが、余裕を感じさせるところが、ゲイリー・オールドマン。
勿論、外観だけではないことは、言うまでもない。
そこは、ゲイリー・オールドマンなので、実に繊細に大胆に怪演している。いや軽妙で機知に富んだ好演であった。
きっとウィンストン・チャーチルとは、こういう人なのだろうと納得してしまうような。
それは、「アラビアのロレンス」のピーター・オトゥールみたいに、本人よりも似ていたかも知れない(笑。
愉しみながらやっている感じであった。

ダンケルク」を観ていたので、ダンケルクのイギリス軍兵士を救出する困難については、映画を一つ作れるくらいのドラマであることは知っていた。
ダイナモ作戦と民間人パワーの賜物である。ダンケルクからは多くの英兵が奇蹟的に帰還を果たすが、それを支援した”カレー”は殲滅してしまう。戦争の不可避の側面であるか。
戦争内閣で首相に任命されたチャーチルの使命は、徹底抗戦で国民のプライドを守り抜くことであった。
ファシズムに断じて屈しない。
確かにあの文脈では(この映画の流れでは)、それ以外にとるべき道はないだろう。

しかしこの映画を観て、ヒトラーとナチスドイツの底力もひしひしと伝わって来た。
それにほぼ孤立した形で立ち向かうチャーチルの恐怖と不安がどれ程のものであったか。
だが、この選択は閣僚が皆靡いていたイタリア(ムッソリーニ)を介した和平策をとるより圧倒的に正しいものであったことは間違いない。
わざわざ意を決して生まれて初めて地下鉄に独りで乗り込み人々の声を聴いて確信を深めたことだ。
この場面は素直に共感でき感動した。

だが、同時にチャーチルが閣外政治家や終盤の内閣での演説のなかで、もし和平案をとればイギリスはドイツの属国~植民地にされてしまうかも知れないという不安を市井の人々は抱えていると語り、彼ら(派閥を超えて政治家たち)を徹底抗戦に向けて奮い立たせるところでは、素直に共感を持って高揚できない距離感も生じる。
言うまでもないが、大英帝国の植民地政策も尋常ではないものであった。
清に対するアヘン戦争など自然に頭を過ってしまうだろう。
とは言え、、、日本も同等の過ちを過去に犯してはきたと言え、今後このような立場に置かれたら毅然たる態度で臨む以外にない。
今現在、この日常においても、、、
どのようなレベルであろうと、ファシズムは叩き潰すだけである。
ファシズムは徹底的に叩き潰すのみ!

何よりも透明化した何気ない日常に潜在するファシズムに対する感覚は、鋭利にしておく必要がある。



Darkest Hour002
ヒッチコックと間違えそうなゲイリー・オールドマンであった(爆。
貫禄である。
そう、音楽も映像によくマッチしていたことも忘れてはならないところだ。



50回目のファースト・キス

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2018年

福田雄一 監督・脚本

山田孝之、、、弓削大輔(オアフ島のツアーガイド、天文学者)
長澤まさみ、、、藤島瑠衣(記憶障害の女性、美術教師)
ムロツヨシ、、、ウーラ山崎(大輔の親友)
勝矢、、、味方和彦(旅行会社の上司)
太賀、、、藤島慎太郎(瑠衣の弟)
山崎紘菜、、、高頭すみれ(大輔の同僚)
佐藤二朗、、、藤島健太(瑠衣の父)


かなりよく出来たコメディーだと思ったらハリウッド映画のリメイクだった。
それは大ヒット映画であったらしい。
それをあえてリメイクする、、、その意図は、、、

オリジナル映画の方も舞台はハワイで弓削大輔に当たる男性は水族館で獣医師だという。
本作では、彼は天文学の研究のためにハワイに来ている。
わたしとしては、こちらの設定の方がしっくりする。
ハワイは世界で最も宇宙観測に向いた土地でもある。
夜空がフルに活きてきてロマンチックでもある。これはラブコメに最適だ。
どちらもプレイボーイの設定であるが、日本人旅行客相手のツアーガイドで持モテまくっているというのも判り易く無理は特にない。
藤島瑠衣のヒロイン役も双方ともに記憶障害で事故前の記憶はあるが、その後の記憶は一日単位の記憶しか保てず寝て覚めれば、リセットされてしまうのは同じ。それでいつもファーストキッスということになる。そこは物語の根幹であるから変えられない部分だ。
全体に良いアレンジなのではないか?
(オリジナル版までみたいという気はないが)


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毎日新たに愛する人に出逢えるというのは、考えてみれば素敵なものだ。
同じ相手(自分)なのに、その日によって直ぐに惹き合ったり、突っぱねられて相手にされないというのも面白い。
そういうものだと思う。ヒトは非常に複雑で繊細な生き物である。
記憶がリセットされ白紙の状態で同じ相手に出逢っても機械的に同じ反応をすることなどまずないはず。
気象に変化がなくても、その日の様々な状況が身体に及ぼす影響は小さくない。
更に謂えば、何度も何度も逢い続けるなかで、身体性~無意識に浸透する思い・記憶は確実にある。
だから彼女の夢に彼が出て来た。(記憶の場は脳にだけ局限されるものではない)。

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大輔と瑠衣のコミカルな掛け合いも良いアクセントにはなっていたし、脇のギャグ担当の面々も妙な緩さと灰汁の強さが適当な範囲であったと思う。
基本がシリアスな物語であるため、暗く重くならないためにもこのようなユーモアの部分は外せないものであろう。
ただ、独特な面白味であるため、爆笑するようなものではなく、こそばゆい感じでニンマリするところか。
ここはハワイである。こういう明るさはとても環境~景色にもマッチしたものだと思う。
慎太郎のキャラクタだけは少しくどかったが。

なかでも長澤まさみの瑞々しさは際立っていた。
山崎紘菜には、もう少し出番があっても良かった。

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瑠衣の家族が何故、彼女に苦痛を与えまいと同じ日~事故当日に閉じ込め反復を続けるのか。
(外に出ていれば破れ目が生じるのは必然である)。
やはり大輔の試みのようにヴィデオなどで彼女自身の状況をしっかり知らせてゆくことは重要であると考えられる。
更に彼女の一日毎に裁断された経験を編集したヴィデオを毎日更新して見せることが生を重ねてゆく可能性を生むだろう。
自筆の事細かな日記は更に経験の直截性を高める。これも必要不可欠だ。
でなければ、一日のスパンで結婚までの愛~感情を育むことなどまずあり得ない。

ともかく最後に大輔は、天文学の研究の夢を実現するために、別に彼女と別れる必要などないではないか、ということに気づいたことは、正しい(笑。
それは何よりも彼女にとって良いことだ。
こういう病いは常に愛情をもった人間がぴったりと寄り添っていることがもっとも大事なことである。
生が物語を紡いでゆくことなら、線状的な連続性が保証されなければならない。
共にいることがふたりにとって、きっと良い方向に進展して行くはず。
これだけは断言できる。

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何故だか前向きになれる映画であった(爆。


マグダラのマリア

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Mary Magdalene
2018年
アメリカ、イギリス

ガース・デイヴィス監督
ヘレン・エドムンドソン、フィリッパ・ゴスレット脚本
ヨハン・ヨハンソン音楽


ルーニー・マーラ、、、マグダラのマリア
ホアキン・フェニックス 、、、イエス・キリスト
キウェテル・イジョフォー、、、ペトロ
タハール・ラヒム、、、イスカリオテのユダ


わたしにとっては、ベルイマンの映画を観るような感覚で味わえた。
マグダラのマリアは、わたしが学生時代のころは、キリストの教えに目覚めた娼婦という立場であったが、ここでは12使徒と同等の立場であり、彼らの誰よりも覚醒したキリストの教えの第一の体現者の女性であった。
当時の女性でこれほど何から(パラダイムから)も自立してものを捉える感覚を有していた人がいたのだ。
特異な個性と謂える。
何よりルーニー・マーラの目である。純粋で神聖な目である。
これに尽きる。

そしてキリストがやけに人間臭い。
お説教好きの風呂屋の親父と謂ったら言い過ぎだが、他の映画に出てくる見るからに神聖な孤高の超絶感は薄い。
だがとっても人のよさそうな母性本能を擽る雰囲気のキリストである?
特にホアキン・フェニックスである必要性も感じなかったが、こういう肉付けのあるキリストの方がリアルにも感じられる。
奇蹟をおこなっても息切れしていて何だか泥臭い。

一番新鮮であったのがユダの描かれ方だ。
わたしはキリスト教には疎いため知らなかったが、最近はこういう解釈になっているのか。
キリスト関係の映画でこのようにユダを描いているのは、新しいこの作品だけではなかろうか、、、。
純粋で素朴な親近感を持ってしまう男であり、悲劇的な人である。
このユダも余りに人間的なのだ。
ある意味、キリストの神性をもっとも盲目的に信じ切っていた人なのかも知れない。
そして余りにそれに依存し過ぎた。王国が天を割いて降りてくるのを真剣に信じていたのだろう。
それをキリストの超人性が実現してくれるのだと、、、。

結局使徒たち誰もがキリストを利用しようとしていたことには変わりないなかで、マリアだけがキリストの謂う自らのうちに見えない王国を描いていた。
彼女はまず変わらなければならないのは、この外界ではなくわたしなのだということを強調する。
自らが変わることで自ずとここに王国が出現するのだと。

こういった思考形式は、他の使徒には直ちに納得は出来ない。
そしてマリアは独り出てゆく。
マリアにはキリストが見えた。
マリアだけは、実際に復活したキリストに遭うことが出来たのだ。


Mary Magdalene002
エル・グレコによるマグダラのマリア

ヨハン・ヨハンソンの音楽が秀逸であった。

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グッバイ・ゴダール!

Le Redoutable005

Le Redoutable
2017年
フランス

ミシェル・アザナヴィシウス監督・脚本
アンヌ・ヴィアゼムスキー『それからの彼女』原作

ルイ・ガレル 、、、ジャン=リュック・ゴダール
ステイシー・マーティン 、、、アンヌ・ヴィアゼムスキー(妻)
ベレニス・ベジョ 、、、 ミシェル・ロジエ(親友の妻)
ミーシャ・レスコ 、、、ジャン=ピエール・バンベルジェ
グレゴリー・ガドゥボワ 、、、ミシェル・クルノー


「中国女」の主演を務めたゴダールの二人目の妻アンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝を元にしている。
(最初の妻は、アンナ・カリーナである)。
アンヌ・ヴィアゼムスキーは、母方の祖父は作家のフランソワ・モーリアックであり自身も女優の他に小説家、映画監督でもある。
Anne Wiazemsky
本人、、、つい先ごろ亡くなる。

「サンローラン」のルイ・ガレルがジャン=リュック・ゴダール
かなりの印象を植え付けられた(笑。なりきっていた感じ。
監督は傑作「アーティスト」のミシェル・アザナヴィシウス。

「5月革命」であれだけ労働者に交じりドゴール批判をしてデモに参加しては眼鏡を壊したり、学生たちの革命集会ではケチョンケチョンに貶されてすごすごと退散したり、ジャン=ピエール・ゴランらと「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成してめんどくさい民主主義(匿名性)映画製作をしていたことなどわたしは知らなかった。
トリュフォーらとカンヌ国際映画祭を中止に追い込んだのは小耳に挟んではいたが。
ゴダール監督自身についてはほとんど何も知らない。
知らないからこの映画で観た印象を少しばかり語るにとどめる。
しかし、政治か映画かって、、、映画作ることが不可避的に政治的な行為でもないのか?
(例えばロックにおいて、パンクは極めて政治的行為でもあった)。
これを二項対立の図式にすることもないのでは、、、。

ということで、彼の妻であったアンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝映画で色々面白い逸話が披露されるかと想って見てみた。
ひたすら政治運動に首を突っ込み、理屈を捏ねていたが、あんななかで映画を作っていたのか、、、と感慨深いものはあった。
それから夫婦で何処に行くにも出来る限り一緒に行動し、夫が嫉妬深くうじうじ喧嘩を吹っ掛けてくるなど、思いのほか普通な夫婦生活なのには驚いた。
もっとリベラルな、芸術的で自由な夫婦ではないかと思っていたので、ちょっと暑苦しかった。
アンヌが結構献身的で、ゴダールのよき理解者足らんと努力していたこともよく分かったが、そこは彼女の自伝である。
多少差し引いて見る必要もあるかも。

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アンヌ・ヴィアゼムスキーとはタイプは違うがプロポーションのよい知的でコケティッシュな美女で役にはピッタリフィットであった。

ゴダールが学生との議論ではことごとく言われっぱなしで呑み込んでしまうのも印象的であった。
理論以前に若さに気後れしている感じである。そう若さにコンプレックスを抱いているみたいだ。
35歳(モーツァルトは35で死んだ)より歳をとった芸術家はマヌケだと彼自身独白している。
何を言われようが、彼らの支援者たらんとしていたようだ。

夫婦で手をつないで、デモに参加してはいつも眼鏡を壊す。
監督仲間(映画ファン)には、映画は、ゴダールはもう死んだと謂い、これまでの映画や自分の作品をことごとく否定してみせる。
だが政治集会では、映画監督として存在そのものを糾弾される。コカ・コーラの成れの果てとまで学生に突っ込まれる。
何と言うか、政治と映画の二項対立において前者からは否定され後者を自ら否定し、両者から批判されて抽象的に宙吊り状態で悶々となり妻に時々八つ当たりしているという様子であった。

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こうなるとゴダールの才能の煌めき場面を渇望してしまうが、終始書かれたことや謂われたことにウジウジし妻に慰めてもらっている構図ばかりが目についた。実際、映画を変えたというほどの作品を次々に発表してきたのだから、その辺に纏わる創造の閃きなど製作逸話もないかと思ったのだが、なかった。
どちらかというと、労働者の集会やデモに参加しているのに日常生活(ちょっとした会話)において彼らを見下しているような痛い人に描かれている。

わたしには何で映画監督がこんなことに首を突っ込んでいるのかが理解できないので、距離感を持ってずっと観ていた。
その間、アンヌはゴダールと出会ったことで得た世界観を彼女の視点からさらに的を絞っておし広げているようであった。
ゴダールが映画に戻り、いや本来の自分に戻り、監督として映画を撮って行けばグッバイはなかったかも知れない。
彼女は政治の人というよりも映画の人であったのだ。
少なくとも天才映画監督としてのゴダールを敬愛していたのは確かだろう。
もっとも、ゴダールは、ゴダールであったのだろうが。

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アンヌ・ヴィアゼムスキーは先ごろ亡くなったが、ゴダールは88歳で元気である。



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アンヌ・ヴィアゼムスキー  ステイシー・マーティン

ナチスが愛したフェルメール

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Een echte Vermeer

2016年
オランダ・ベルギー・ルクセンブルク

ルドルフ・バン・デン・ベルグ監督・脚本

ユルン・スピッツエンベルハー、、、ハン・ファン・メーヘレン
リゼ・フェリン、、、ヨーランカ
ルーラント・フェルンハウト、、、テオ


わたしの大好きなフェルメール映画は言うまでもなく「真珠の耳飾りの少女」である。スカーレット・ヨハンソンの最高の仕事に思える。

さて、こちらはフェルメールの贋作画家で金儲けと自己顕示欲と屈折した名誉心(自分を認めなかった美術界への復讐心)を充たそうとしたというハン・ファン・メーヘレンの噺である。
腕は良いそうだが、志と思想に決定的な問題がある。
少なくとも彼は芸術家ではない。
あるはずがない。

こんな男がフェルメールに近づけるはずもない。
だいたい自尊心と名誉心だけで何を描きたいのかも自分で分かっていない。
多くの芸術家は、自分の描きたいものをひたすら描き続けている。
それを描かざるを得ないために死ぬまで描き続ける。
それしかできないからそうするだけだ。

幸運にも生きている間に認められる画家もいれば、200年後に発見される画家やそのまま忘れ去られるヒトも数多い。
そういうものだ。
だが、それを気にする画家は実は少ない。表現自体は自己完結性を持つ。
自分のなかでよく出来たかどうかは分かるし、尺度も自分のなかにしかない。
逆に外部の評価は大方的外れで、当人にとっては煩わしいだけだ。
時に大々的に認められたことが迷惑でしかないこともある。
勿論食っていくために売れないと困るという面はある。
そのために自分のライフワークと切り離してクライアント用に売り絵を描いたりもする。
だがそれはどうでもよい別の責任に過ぎない(家族のためとか)。
ともかく、画家は自分のやりたいことを知っており、それを如何に描き切るかにかけている。
(勿論、主題はその時々の自分の問題意識に従い変化してゆくにしても)

この男は、まずもって前提となるそれが欠けている。
テクだけあって、それを何に使うかを知らない。
これで人に感銘を与える作品など作れようか。
修復師だって無理なはず。


そもそも若いうちに賞を得たりして認められているではないか。
その力量を活かし自分の描くべきものを探りその制作を弛まずに続けてゆくのが本来のはず。
何を捻くれてああなったのか。変な姦計を巡らしフェルメールの空白期に描いた絵だなんて、、、よくそんなでっち上げが通ったものである。
ヨーランカの夫である評論家でハンのパトロンにもなりそうだった男が彼を酷評したのは、妻にちょっかいを出された嫉妬からである。

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それは自業自得だ。それでへこんで酒に溺れてどうする。
たいそうイケメンの役者が悲劇の破滅的な天才画家みたいに熱演するものだから、こちらもついつい同情的に見守ってしまいがちになるが、少し距離を持って冷静に見れば単なるアホである。
政府も反ナチスのプロパガンダ的に利用しているのが見え見えだし、マスコミもその線で動いており、ハン・ファン・メーヘレンが国の宝であるフェルメールの絵をゲーリングに売って海外に流失させたことで国賊呼ばわりし、世間もそれを真に受けて踊らされていたが、一転、全ての絵はハン自身が描いた贋作だとカミングアウトしX線検査などでそれが証明されると、ナチスを愚弄した国の英雄扱いをし、絵をナチスに売った件では無罪、詐欺罪として懲役1年の求刑でおさまるのには呆気にとられる。
しかし、絵を売った金は返すことになる。
ハンにとってはフェルメールと同じ絵なのに何故、わたしの描いたものには値が付かないのかと、、、。
この失意・落胆とアルコール中毒が祟ったのか、実は恩赦が言い渡されるはずであったそうだが、それも待たずに彼は死去する。

わたしにはどう見てもそれがフェルメールには到底見えないが、それとは関係ない彼の絵として最初から発表していればそれなりの評価は得られていただろう。実際に美術館に彼の名で今では作品が飾られているそうだし。ほかの画家も、彼が目の敵にしていたピカソのように前衛画家ばかりではない。バルチュスみたいな古典的な(宗教的)画家もいて崇拝されていた。
ハンも時代に取り残された分けではない。自分のやるべきことを(贋作ではなく)成せばよいのだ。それを好む人は何処かにいる。
何をか勘違いした腕だけある絵描きのドタバタ劇であった。

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ヨーランカという女性~ミューズは単に思わせぶりなオマケみたいなものだった。
(画家たちの近辺には必ずこうしたミューズは現れるようだが、キキは特に有名である。絵描きであり同時に自身がそれでもあったのがタマラ・ド・レンピッカである。蛇足であるが)。


ビューティフル・デイ

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You Were Never Really Here
2017年
アメリカ・イギリス・フランス

リン・ラムジー監督・脚本
ジョナサン・エイムズ『ビューティフル・デイ』原作
ジョニー・グリーンウッド音楽

ホアキン・フェニックス 、、、ジョー(退役軍人元FBI、行方不明者捜索業)
ジュディス・ロバーツ 、、、ジョーの母
エカテリーナ・サムソノフ 、、、ニーナ・ヴォット(アルバート州上院議員の攫われた娘)
ジョン・ドーマン 、、、ジョン・マクリアリー(闇の仕事の仲介役)
アレックス・マネット 、、、アルバート・ヴォット州上院議員
ダンテ・ペレイラ=オルソン 、、、少年時代のジョー
アレッサンドロ・ニヴォラ 、、、ウィリアムズ州知事


音楽がレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドである。加えて主人公がホアキン・フェニックスとくれば、まともな映画ではなかろうと、察しはつく。
”You Were Never Really Here”
という感じで常にトラウマを引きずり、PTSDに悩まされる。
少年時代のジョーは相当酷い虐待にあっていたようだ。
それを覆い隠すようなカウントダウンが麻酔のように何度も覆い被さってゆく。

You Were Never Really Here005

それは、しょっちゅうやって来る。
やはり加圧された状況下が多いか。
非常にビビッドな想念である。
オマケに自殺願望もありその衝動が時折頭をもたげる。ナイフなどもって痛そう。
おしまいの方では、その自殺願望の衝動イメージが余りに鮮烈過ぎて、明らかに現実が侵食されていた。その血飛沫。
こっちまでびっくりしたではないか!

過去の想念が現在に交じり合うが、PTSDなのだから自然である。
実際、強烈な文脈が現在の時間系をふいに侵食するのだ。
時に、それが現実なのか想念に過ぎないのか区別があやふやになる。
(それは確かにそういうものだ)。
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とは言え、内容的に何があるかというと、、、。
殺人は頻繁に起こるが、特に何があるというわけでもない。
アルバート・ヴォット上院議員は娘を誘拐されたが、どうやらそれが闇の売春組織であることを掴む。
しかし選挙中のため事を表沙汰にしたくない。
そこで凄腕の闇の人探しの専門家ジョーの出番となる。
仕事の依頼は仲介役のジョン・マクリアリーから受けた。

手慣れたもので警備についていた男たちを皆殺しにし組織のアジトから手際よく少女を救出する。
父親に引き渡すモーテルで待つなか、当の上院議員が自殺したという報道をTVで観てしまう。
その後モーテルの主人を射殺して押し込んできた警官に少女がジョーの目前で連れ去られる。

どうやら警官もグルになった犯罪組織が動いていることが分かり、ジョーはその真相を確かめにマクリアリーのところに向かうが彼はすでにオフィスで惨殺されていた。危険を感じて直ぐにマクリアリーを彼に紹介したかつての相棒を訪ねるが彼も息子と共に拷問を受けた後、始末されていた。当然、ジョーは自宅に急行する。暴かれた彼の家で、すでに母は殺害された後であった。しかしその犯人はまだ家を立ち去ってはおらず、ジョーは彼らを撃ち殺す。
ジョーは何故か瀕死の倒れた男の隣に横たわり噺を交わす。そしてその男と”I’ve Never Been to Me”を一緒に唄う。
彼はジョーの手を握り目を開けたまま絶命した。、、、死とは何か、、、ここではっきりしているのは、死体のみ。
ジョーは母の遺体を湖に運び沈める。
この辺でこの映画の尋常でないところが感じ取れてくる。
勿論、音楽があってのことだ。

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彼は孤立したか。
だがまだ一度は助けた少女がいる。

隣で死んだ男の話からウィリアムズ州知事が少女を買っている大本であることを知り、アルバート上院議員もそれに関与しての自殺であることが分かる。
大物のそんな事情は表には到底出すことは出来ないものであった。
ジョーはウィリアムズ州知事の別荘に忍び込み、また手際よく警備を倒し、ウィリアムズを探すが彼は喉を切られて死んでいた。キッチンでは少女が血だらけの手で食事をしていた。そういうことだ。
その少女を再び保護して外のダイナーで朝食をとる。
彼はもう自殺願望が頂点に達し、自分の頭を拳銃で吹き飛ばす。そこにウエイトレスが良い一日をと伝票を笑顔で置いてゆく。
ウエイトレスに血飛沫がかかったはず。
トイレから戻ると少女ニーナは、”It’s a beautiful day”と語りかける。
「確かにいい天気だ」と返すジョー。
ジョーに関係なく世界がニーナと共に進行し始める。
ジョーはそれに乗っかるしかない。
何の希望も当てもなく一緒に何処かにゆくしかないだろう。
You Were Never Really Here001

他のクライムサスペンスとは似て非なるものであった。
はっきり言って作品の筋などどうでもよく、世界と自分のずれのもどかしさ、ひりつき、そして死とは、、、その漸近的な接近、、、死への憧れと不安。
そんな存在の不確かさを浮き彫りにしてゆくホアキン・フェニックスであった。


少女がどうにもいまいちであった。
エル・ファニングあたりがやってくれたらよかったのに。
音楽はこの世界のずれ感が良く出ていた。




レディ・バード

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Lady Bird
2017年
アメリカ

グレタ・ガーウィグ監督・脚本

シアーシャ・ローナン 、、、クリスティン・“レディ・バード”・マクファーソン
ローリー・メトカーフ 、、、マリオン・マクファーソン(クリスティンの母)
トレイシー・レッツ 、、、ラリー・マクファーソン(クリスティンの父)
ルーカス・ヘッジズ 、、、ダニー・オニール(クリスティンの最初の彼氏)
ティモテ・シャラメ 、、、カイル・シャイブル(クリスティンの二人目の彼氏、ベーシスト)
ビーニー・フェルドスタイン 、、、ジュリー・ステファンス(クリスティンの親友)
スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン、、、 リバイアッチ神父


ブルックリン」のシアーシャ・ローナンである。「ブルックリン」は良かった。今でも印象が残る。そう彼女は名作「グランド・ブダペスト・ホテル」にも出ている。「ザ・ホスト 美しき侵略者」にも。
他にもいっぱい出ているが(笑。

軽快でテンポのよい、よく出来た青春映画だと思う。
キャストも皆、達者だ。
だが、よくあるよく出来た青春映画に見えて、何か違う。
他の青春映画と比べてもこれといったドラマがある分けではない。
ごくありふれた親や教師、世代間との対立(反抗)や葛藤と、思春期特有の性や疎外感や閉塞感、理想と夢が混然となった、その内容に特に新しさは見出せない。
主人公も生意気で自己主張の強い何処にでもいそうな娘だ。
なのに惹き付けられて最後はお母さんと一緒にジ~ンと来てしまう。

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恐らく時間の進め方の特異な方法論に原因のひとつはあるのだと思う。
わたしは映画が好きではなく、映画の手法にも詳しくないため、よく分からないがこのちょっと違う感覚がこの映画をよく出来た青春映画と差別化しているのではないか。

時制を弄ったり過去~想念と現在を織り交ぜたりする見飽きた手法ではなく、時間を平滑に流して、そして一年後とか一年前とかに接続するのとも異なり、あれ?数日経ってるのかと思うが特に無理のない、ハッとするスキップが繋げてゆく。時間を絶妙な幅でスキップさせて、展開して行くのだ。

特別新鮮とかいうほどのインパクトではないのだが、この映画そのものの意味を支える根幹における形式であろう。
ちょっとした差異なのかも知れないが、肝心なところに思える。

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親が勝手につけた自分の名前が気に食わない彼女は自分をレディ・バードと呼ばせる。
だがこんな街はいやだいやだと嫌いながらも深い愛着を持っていたことに漠然とするクリスティン。
そして自分自身の名前を認め、鬱陶しかった街と、対立していた母とも和解する。
恋愛はどれもすれ違いに終わったが、距離を置いていた親友との絆は深まる。
どれも自分にとってなくてはならない大切なものであったのだ。
大概、それに気づくのは、故郷サクラメントを離れ、外で自分一人になってものを想うときになってからである。
(夏目漱石もロンドンに移って日本論を書いた)。

Lady Bird002

ある意味、外部に身を移すということは有効である。
街と親と離れ独りになることで、その絆~関係性を確認(対象化)するというところか。
わたしもこの映画の流れの中で共感し最後には感動していたのだが、普通の(他の)映画で同様の内容で感動できたかどうかは疑わしい。
この映画特有の魅力がある。
(分析する必要があるかも)。


誰も知らない

NOBODY KNOWS

NOBODY KNOWS
2004年

是枝裕和 監督・脚本・製作

柳楽優弥 、、、明(長男12歳)
北浦愛 、、、京子(長女)
木村飛影 、、、茂(次男)
清水萌々子 、、、ゆき(次女)
韓英恵 、、、紗希(虐めを受けている他所の子、中学生か)
YOU 、、、福島けい子(母)


こんなふうに共同体から見えない形となって抽象的に存在する子はたくさんいる。
見えていてもやはり見えてはいない。
実は全然、見えていない形で存在する。そんなパタンは寧ろありふれている。
それが常態である。
恐らくそういう在り方しかできない。

この父違いの兄弟たちは、母がネグレクトで経済的に大変辛いが、シンパシーを感じ微笑んで親和的に関わってくれる紗希お姉さんがいて、兄弟で寄り添って生きていること自体、それほど酷い境遇ともいえない。

人はせいぜい3歳までにどのように養育されたかで基調が決まる。
彼らは(彼らも)もうとっくに手遅れである。そこはもうどうでもよい。
それ以降の境遇は、さして大きな(決定的な)影響を彼らに与えるほどのものではない。
この少年期前半に是非ともやっておかなければ手遅れなのは、音楽と数学くらいのものだろう。
京子のピアニストはもう不可能であるが、それ以外のことでは、他の人より始めるのが遅かろうが、大差はない。
これから先の本人の努力次第か。
早晩、彼らは社会~法的に見出され、保護教育を施設で受けることになろうし、社会人として陶冶されていくことだろう。

紗希の存在が大変大きいと思う。
このような他者が上からでも下からでもなく、溶け込むように入ってくれていることが彼らの救済になっていることは確か。
彼らを統率する長男の明の支えはやはり紗希である。
普通(多くは)、このような存在には恵まれず、ぎりぎりまで孤立を深めていった先に内部崩壊となるだろう。
もっとも、ここでも一番の弱者であるゆきが犠牲となった。
こうしたことは充分にあり得る。

実際、我々は周囲の誰に対しても何も見えてなどいない。
ある対象に対する自分の感じ、考えを抱いているに過ぎない。
それはその対象そのものとは何の関係もない自分の想念である。
さして関心もない対象に対して、一体何が分かるというのか。
色々な面において零れ落ちてしまって、戸惑いつつどうにもならないで表情を殺して生きている子供はいる。
一番下の茂などは、大した苦労も不自由や不足も感じず、結構面白おかしく生きている。
そんなものでもある。

であるから余計にそれが読み込める人間はそうはいない。
ここでは紗希がふっと共感して(直覚して)中に~まるで新たな兄弟みたいに~入って来た。
この、外部から入って来ることがきっと重要なのだ。
理解したり導いたりするのではなく。如何なる権力の介在もなく。
それまでは、実の母から存在自体を消し去られていたも同然で、外の目を避けて籠って生きて来た子供たちである。
これから何かの機関に捕まって保護を受けるにせよ、紗希以上に寄り添うケアはまず不可能だ。


ともかく長い映画であった。
長さをホントに感じた。
BSで入っていたが、観終わると同時に消した。
これを二度見ることなど、まずない。





ブルー・マインド

Blue My Mind001

Blue My Mind
2017年
スイス

リサ・ブリュールマン監督・脚本
ガブリエル・ロボス撮影
トーマス・クラットリ音楽

ルナ・ベドラー、、、ミア(15歳の少女)
ゾーイ・パスティル・ホルトアイゼン、、、ジアンナ(ミアの親友)
レグラ・グラウビラー、、、ガブリエラ(ミアの母)


異色の作品だった。
出だしでは、よくある無軌道で痛々しい青春ものかな(17歳の何とかという邦題の付く類のものか)、、、と思ったのだが。
途中から、何だこりゃとなる。
それもわたしの最も苦手な、痛いやつである。
生理的にかなわない。
指の癒着をカッターで切り離して血が出るところを絆創膏で貼るみたいな、それはないし痛いしもう耐えがたい。
所かまわずゲーゲー吐くし。
心理より生理的な痛さが至る所で効いてくる。
泳いでいる生金魚を手ですくって食べたり、理科の魚の解剖で使った生魚を食ったり、、、自分の食欲~身体性への異和と体の変化に悩まされる。

人間としての丁度思春期でもあり、自分独自の身体性がもっとも露骨に発覚する時期だ。
一生のうちでももっとも生々しく痛々しい時とも謂えるか。

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とは言え実によく出来た独自の作風である。スイス映画など滅多に観ない。
転校生のミアは最初から生き急いでいる。
このことは、無意識的にも自分が人とは違うことが分かっているからだ。
意識の上では自分は親と似ていないため、養子であり特異な遺伝子を受け継いでいるのかも知れないという疑いと不安も抱えている。
だから思い切った生き方を選ぶ。自分には時間がないことを何処かで察しているため。
クラスの大人しい保守的な娘からの誘いを蹴り、もっともビビッドな生を愉しんでいるグループに近づく。
そこで思春期特有の性や際どい遊びや非行まで片っ端経験する。
その中のリーダー格の娘ジアンナとは特に親密になり、彼女が池で溺れた時には躊躇なく助けたりもした。
しかしその過程で、自分の身体の異常な変化に戸惑う。
(自分が余りに泳ぎが達者であることにも違和を感じる)。

両親とこの娘の関係、彼女の出生の秘密は最後まで明かされることはなかった。
ミアが母の金魚をトイレに流したと聞いて、この両親は何も心騒ぐところがなかったとすると、どの程度彼女の素性を知っていたのかも疑わしい。
まあ、この子は人魚の末裔ですと言われて養子に迎えるというのも荒唐無稽であるが。
もしかしたら、両親は全く彼女が実子であることを疑いもしなかったのかも知れない。
だから彼女の発する様々なサインも頑なに突っぱねられたとも受け取れる。
少なくとも愛着障害ははっきり見て取れる親子関係ではある。

Blue My Mind004

フランツ・カフカの変身であれば、気になる悪夢から目覚めると自分が毒虫になっていたことに忽然と気づくのであるが、彼女の場合、リストカットして気絶から目覚めると完全な人魚になっていた。
その時はもはや確認と諦観の境地である。
それまでに彼女は、足の指の癒着と脚の異常な痣と爛れ、脇腹には鰓までできて、ジアンナから可愛いわねと言われたお臍も無くなっていたのだ。
薄々は感じていたとしてもこの現実に変態する自分の身体に激しい異和と恐怖をつのらせたのは間違いない。
この徐々に迫り来る孤独と絶望は、少しずつ確実に残酷な形で自分が異なる世界に旅立つことを彼女に告げ知らせるものであった。

これがメタファーであるのなら、極めて孤独で険しい路の選択であろう。
退路を断って孤高の詩人とか音楽家を目指す(昨日のフジコ氏のように突き進む)ものに等しい。
彼女が一瞬、岸辺のジアンナを顧みて、二度と振り向かずそのまま沖に泳いでゆく姿には胸が強く締め付けられた。
これを思春期の迷いと自立の物語と言ってしまうには余りに悲痛なものである。
そう、完全体の人魚になったところに訪ねて来たジアンナにトラックで運んでもらい、トラックの荷台では借りたスマフォからいつも激しく対立しているママに愛しいと伝え、海辺でジアンナとひととき別れを惜しむあたりから、わたしは胸が痛くたまらなくなった。
こんな情感はなかなか沸かない。

Blue My Mind002

前半、脚を強調して見せていたのは、終盤の人魚の鰭との対比としてか、、、。
一昨日のフジコさんが事あるごとに「わたしはひとと違っていたから」と繰り返していたが、ひとと違う者の不可避的な決断とも受け取れるものではある。

生々しく痛いのが生理的に苦手な人でも、そこを何とか耐えれば最後にこれまでに感じたことのない感動を味わえるかも知れない。
キャストは皆、自然体でリアルな感じで良かったが、女性監督というところが女子の描き方に如実に出ていた気がする。
これは滅多に遭遇できない。
お勧めの作品と謂える。



グルグルカイト

tako.jpg


青いバランスボールがストーブの熱でパンクしてしまった。
これで二つ目である。
家は居間だけ石油ストーブを焚いている。
そこにわざわざバランスボールを置くというのも変だが、何となくそうなっていた。
家の癖である。どうしてもそのようなパタンが出来てくる。
人に体癖があるように。
注意はしていても、同じようなことが起きがちになる。
わたしはずっと朝からデータ整理に追われていた。
目を使いとても疲れる。

今年初めての凧揚げに、一番広いスペースのある公園に行った。
お昼までということで、初めておろした凧を揚げた。
だが、長女の揚げた凧がすぐに木の枝に引っ掛かり、引っ張っても取れず余計にぐるぐる巻きになってしまい、あえなくお陀仏ということになった。
凧は、蛸の姿をした骨なし凧である。蛸なので軟体凧で正しい。
しっかり揚がれば、注目を浴びること必至なのだが、木に引っ掛かりそれまでとなった。
残念である。

糸を切って、そそくさ帰ろうと思ったが、もう一杯あるので、それを少し場所を変えて揚げてみた。
しかし思うように風が吹かない。
吹かないというより、無風なのだ。
いくら次女が走り回っても落ちてしまう。
わたしは最初から息切れで走る気もしない。
暫く頑張ったが甲斐なく、退散となった。
蛸は別の日にリベンジすると力なく皆で誓う(笑。


午後一番に、知り合いが息子連れでやって来た。
体力消耗しているところへ、ヘビー級の小1の男の子である。
家の娘(小4)より15キロ重い。
身長ははるかに低い。
真丸。
可愛いと言えばそうだが、声が大きく暴れ回り、とっても甘えん坊で我儘である。
隠れん坊をしたいとせがみ、娘を従えて家じゅうをドカドカ走り回っていたが、鬼の番になると、鬼はいやだ~と駄々をこねる。
終始その調子で、でかい笑い声と愚図ってフニャフニャ言ったりの繰り返しで、離れていても耳元まで響きっぱなしであった。
その子への対応を巡り娘ふたりで言い合いをはじめたところで、彼がけんかはやめなさい、と一括した。
その対応は正しい。

暫く遊んで帰って行くと、まさに嵐が去った後のようであった。
箪笥の取っ手が一か所壊れていた。
物がよく壊れる日であった。
色々と後片付けをしていると、長女のバッグの留め金が一つとれていたり、帽子の缶バッチが一つ無くなっていたことに気づく。
缶バッチは、バッチの中にもう一つ相似形の小さなバッチがくっついたものである。
長女のお気に入りのものであった。

午後の予定は明日にずれ込んだ。
風のない嵐の日であった。


フジコ・ヘミングの時間

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いきなり、「人生とは時間をかけて私を愛する旅である」ときた。
激しく同意する。全くその通りだ。至言である。
完全につかみはOK(爆。なのだ。

ドキュメンタリー映画。非常に淡々としたものである。
だが、距離感を持って彼女の半生を辿るというような冷静に観れるものではなく、こちらで勝手にクローズ・アップして考えたり感じたりせずにはいられない深くて多様な流れの中で彼女の後をついてゆくようなものであった。
彼女の14歳の時の絵日記(夏休み?)が読まれては現在の彼女の現実が映されてゆく。
この絡みが微妙で面白い。
とても丁寧に綺麗に描かれた絵日記で簡潔な文と共に微笑ましく愛らしいものにも見えるが、そこにははっきりと愛着の問題も浮き彫りにされていた。
彼女の数奇な人生の原因も窺えるものである。
彼女はベルリンで生まれる。ピアニストとして身を立てようとした矢先に中耳炎を拗らせ耳が聞こえなくなる。今は辛うじて片耳だけ40%回復したそうだが、そのためもあり世界的なピアニストとして見出されたのは60歳を過ぎてからであった。

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デザイナーでロシア系スウェーデン人の父が蒸発してしまった後、残された母は独りでフジコと弟をピアノ教師で育ててゆく。
母はフジコにとって厳しいピアノ教師であり、将来の道はピアニストと端から決められていた。
フジコに強い罵声を浴びせては練習をさせていたという。
(そのせいで彼女は40歳くらいまで自分をホントに馬鹿だと思っていたそうだ)。
しかも彼女は顔立ちからしてハーフである。学校でもそのための虐めを受け、ピアノに向かう以外に行き場は無かったのではないか。
大人になって独り立ちした彼女の周りにはたくさんの猫と犬が生活を共にしていた。

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リストの「ラ・カンパネッラ」が絶妙のタイミングでちょっと出てきては消えて、、、最後にしっかり聴くことが出来てほっとする。
とってもよい。これまでに聴いたものの中で一番哀愁が感じられて、、、。
空間が何とも言えない豊潤さに充ちる。
わたしにとって一番印象に残ったものは「月の光」で、これまでに聴いたことのない甘味で濃厚なものであった。

何と言うのか、、、映像で観ているから尚更なのか、どれを聴いてもこの人の曲になる。
「ノクターン」(ショパン)もそうだし、「トルコ行進曲」(モーツァルト)もそうだ。
リストの「ため息」は初めて聴いたが完全に自分のものになっていて惹き付けられた。
「主題と変奏」(リスト)もモーツァルトのピアノソナタも、、、どれもこれもこの人の曲に思えた。
ガーシュインも弾いているではないか、、、「サマータイム」。幅も広い。

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これは何度も聴いて観てみなければ、、、彼女の世界各地にある自宅もとても素敵だし。
内装と調度のアンティーク趣味というか古いものが纏う格調高さを見つけそれを守る姿勢には感銘する。
シトロエンも古いタイプをいつまでも大切に乗っている、、、これはホントに趣味が良い。
音楽に関わる姿勢が、ものにも表れている。彼女は新しいものに気安く飛びつくことを嫌っているようだ。
自分の美意識をあくまで信じ貫いている。

更に自分の気になる人の家の中、書斎を見たいという気持ちにはまったく同感である。
わたしも人の書斎を観るのが無上の愉しみでもある。
それに加え、パリの風景~夜景がたまらない(ウッディ・アレンの映画並みの夜景)。
世界中をコンサートで飛び回り、彼女の行くところその周囲は、どこも素晴らしい絵になって行くが、やはりパリが圧倒的な美しさであった。パリの自宅にはパリ在住の日本の女性画家が丁度訪ねて来た。

この映画だけでも全く違う作曲家の曲のコンサートで、パリ、ニューヨーク、ブエノスアイレス、ベルリン、ロサンゼルス、東京、京都を回っている。練習だけでも凄まじいものなのに、飛行機、電車、バス、タクシー、徒歩の移動だってその歳で容易なものとも思えない。そう大事なことだが、彼女はマネージャーは持たない。全てを自分一人で管理している。
年間60本のコンサートをこなすのだから大変なバイタリティだ。
それから楽器の特性上、持ち運べないことから会場のピアノの当たり外れにもかなり悩まされるという。
近頃東京がつまらないそうだ。「日本人って新しもの好きなのね」どこもニューヨークみたいになったら面白くないと、、、世界中を回るひとにとっては、その通りだろう。

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終盤、彼女は来日して古都でコンサートを開く。
京都の自宅は古民家を宮大工にリホームさせたこれまた素晴らしく味わいのあるものだ。
(彼女は母の大切に弾いていた古いピアノも完全にリストアしている)。
彼女の孤独な憩いのひと時、練習に向かう姿~それにしてもどの曲も譜面が完璧に頭に入っている、いや身体化されていることに驚く~友人とのさっぱりしたお茶会、手をさすりながら後何年弾けるか不安を漏らす彼女、、、。
(わたしはそれでもいつまでも16歳の気分なのよ、と漏らした言葉が印象に残る)。
今の彼女は、しっかり自分を認め確信~自信をもってピアニストの人生を歩んでいることが分かる。
ラ・カンパネッラは他の大演奏家とも聴き比べてくれと胸を張っていた。
そんな時々を琴の演奏をバックにした編集画像は素晴らしく、胸にぐっと込上げるものがあった。
ここで終わっても良いかなと思ったがその後で、何度か出てきたリストのラ・カンパネッラがしっかり聴ける。

ちょっと蛇足に感じる映像が流れてから「月の光」でエンドロールになるが、何とフジコのデザイナーであるお父さんの作品が最後の最後で彼女に見せられる(美術館所蔵のもののようだ)。
「世界一周客船のチケットの広告」のポスターである。
確かに一流作家のものだと感じられる。アール・デコ調の幾何学的デザインであった。
フジコの活躍によって再発見されたデザイナーとなったのだ。
何とも言えない彼女の表情で締めくくられる、、、その作品の出来栄えで父を認めることが出来たのか、、、。

意外なエンディングである。


絵になる人である。
これはもう一回観たい。



東方ボーカルとは、、、



「メイドノココロハ アヤツリドール」 【森羅万象】

娘たちがハマっているピコピコサウンド。
わたしにとっては、とても懐かしい。
かなり身体に馴染みザワザワする音だ。

ただ、【東方ボーカル】なるものが、どういうものなのか知らない。
プロジェクトとして存在するらしいが。
もう10年以上も前から流行っているといいうから、曲がやたらと多いのも分かる。

わたしもたまたまこの曲から入ったが、他にもツボを刺激する曲は幾つもあった。

ときどき聞いてみたくなるピコピコ音である。
こうした音のわたしにとってのルーツは、やはりYMOか、、、。
そういえば「細野晴臣イエローマジックショー2」というのを昨晩やっていた。
昭和テイストの間延びしたスカスカの物凄く臭い、いい感じのコント番組であった。
ドリフのコントより落ちのないやつだ。
途中で寝てしまったのでどうなったか知らないが、見るまでもなくどうにもならないものだろう。
また来年も見て途中で寝たいものだ。

あけましておめでとうございます☆彡

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今年も宜しくお願いします。

羊と鋼の森

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2018年
橋本光二郎 監督
金子ありさ 脚本
宮下奈都『羊と鋼の森』 原作
世武裕子 音楽
久石譲×辻井伸行「The Dream of the Lambs」主題曲

山﨑賢人、、、外村直樹(新人調律師)
鈴木亮平、、、柳伸二(直樹の先輩調律師)
上白石萌音、、、佐倉和音(ピアニストを目指す高校生)
上白石萌歌、、、佐倉由仁(和音の妹のピアニスト)
三浦友和、、、板鳥宗一郎(ベテランコンサートチューナー)
堀内敬子、、、北川みずき(江藤楽器の事務員)
仲里依紗、、、濱野絵里(柳伸二の恋人~妻)
城田優、、、上条真人(バーのジャズピアニスト)
森永悠希、、、南隆志(引き籠りのピアニスト)
佐野勇斗、、、外村雅樹(直樹の弟)
光石研、、、秋野匡史(元ピアニストの調律師)
吉行和子、、、外村キヨ(直樹の祖母)


大晦日に観るにはよい映画であった。締めくくりにほっとする映画は助かる。
娘と一緒に観た。
主人公が何もない森の中で育てられた、というバックボーンを基調にして物語全体を調律している。
感覚を研ぎ澄ませて行う熟練を要する繊細な作業と、やはりその極みと謂えるピアノの演奏が交互に絡みつつ、張り詰めたトーンが最後まで途切れない。
最小限に抑えられたセリフと表情に、森の幻影とピアノの音色~音楽が静謐に重なりあって濃密に何をか語って行く手法は心地よいものであった。
(吉行和子などセリフは一言もなかったはず)。

ラヴェルの「水の戯れ」や「なき女王のためのパバーヌ」も鮮やかで良かったが「子犬のワルツ」にはふいに驚かされた。
あの入り方にはやられた。
とっても重い時間を畳み込んで籠っている人は少なくない。
その時間からの解放が手伝えるって、素敵な仕事ではないか。
山﨑賢人の笑顔がとっても良かった。
とは謂えサービス業である。様々な客相手に難癖付けられたりして結構すり減る職業でもある。

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山﨑賢人のセンシティブで純粋な直向きさと三浦友和の詩的で寡黙な熟達した職人ぶりは印象的であった。
鈴木亮平の先輩の距離感も爽やかで理想的に思えた。
「ずっと好きでいられるってことが才能なんだ」、、、彼の言う通り、恐らくそうだ。
周囲の人たちみなが魅力的であったが、役を作り込まずに感覚を研ぎ澄ます形で臨んでいる雰囲気が良く伝わった。
上白石姉妹が劇でも姉妹というのが、何とも言えない(笑。
何と言うか、阿吽の呼吸が窺えた。モーツァルトの「きらきら星の変奏曲」愉しかった。(どのくらい実際に弾いているのか分からないが、結構弾けているように思える)。
上白石萌音のいつもの明るさがなく、ひたすらストイックで神経質なのは、役柄が芸術家タイプであることが良く分かるところ。
モーツァルトの「ピアノソナタ第3番」によく表れていた。
終盤で、才能ある妹が姉がプロのピアニストになる決意を知り、自分は調律師として彼女を支える決心をする。

「姉妹って、いいですねえ」と彼女らの支え合う絆の深さに感じ入る山崎の言葉を聴いて、家のふたりが声をそろえて「よくない!」とピシャリと返してきた。そういうところはしっかりシンクロしている。
ああいう(仲の良い)姉妹もいるんだよ、とだけ返しておいた。
上白石萌音の「366日」はヘビーローテで姉妹でよく聴いたものだ。(今回のピアノも、結構ホントに弾いてるように思う)。

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演奏技術が確立されていれば、後は調律次第ということか。
勿論、調整・調律がしっかりされていることは、演奏の前提条件であろうが、余りに神経質に調律師に依存しているかに思えてしまった。普通なら一回調律してもらえば、半年は大丈夫だろうし、非常に弾き込む演奏家なら気になった時点で呼ぶのだろうが、ちょっと呼びすぎではないのか?
確かに演奏者は孤独であり不安も募るものだ。音そのものにナーバスになった時に頼れるのは調律師だけかも知れない。
技術・譜面の解釈レベルの相談なら自分のついている先生であろうが。
(何故か先生は一度も出てこない。迷いが生じたら寧ろ先生かとも思うのだが)。

何よりもピアノ調律の繊細な奥の深さが伝わって来る映画であるが、つい先日家にも調律師が来たが、何か随分違った。
家の調律師が別にいい加減とは想わないが、あそこまで神経を使うキメ細かい作業には感じなかった。
(わたしはずっと近くで見ていたのだが、「普段通りにしてください」とも言われなかったし、暇なため(笑)。

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山﨑賢人は”ジョジョ”よりこっちの方が(こうしたアプローチが)圧倒的に良かった。
三浦友和の静かで重厚な存在感は申し分なかった。こんな良い役者だったのかと気づいたものだ。

舟を編む」や「海街diary」のような映画と同じような感覚で観る事が出来た。
北海道の旭川のロケというのも趣き深い、、、。

久石譲×辻井伸行の主題曲には次女が感動していた。
久石譲の曲は、すぐにそれと分かるようになってきたものだ、、、。
(これだけたくさん映画等で聴いていると)。

親子で観る映画のベストかも、、、。




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