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風呂で寝る

sun001.jpg

ここのところほぼ毎晩、風呂で寝てしまう。
気持ちが弛み切って自分の外に自分が全て流れ出てしまうのだ。
風呂からあがると何も残っていない。
フレームだけのわたし。

空っぽの身体に、冷えた牛乳をマグカップで2杯流し込む。
これが染み渡って、クーっと気持ちよい。
夏ならプレミアムモルツだったりするが、、、(宣伝するつもりはない)。

部屋に戻ると、だらっと椅子に沈み込む(笑。
生まれてこの方、たまりにたまった蓄積疲労を全て何処かに垂れ流しているのだ。
重力が他の次元に流れ出てゆくように。

それから、新しい星が見たい。

何度目かのスケート

blue sky


またもや娘をスケートに連れて行って、わたしは観覧席で本を読んでいた噺(笑。
しかし今日はこの話題以外にこれと言ってない。
何度目となるか、、、。

ただ、長女が少し滑れるようになったためか、スケート教室に行きたいと言い出した。
、、、以前、バレエ教室、英語教室、水泳教室、中国語教室、空手教室は一回だけ体験であったが、、、今はどれもやっていない。
これまで送り迎えと向こうで終わるまでの待機も含めどれだけ付き合ってきたことか、、、。
まあ、今回については本人の技術を高めたいという希望が自然で無理もない要求に思える。
やる気があるのなら付き合ってもよいと感じる。
教室の日程とこちらの都合が合えばのはなしであるが。
スピード感を愉しめるようになったら、それは気持ち良いものだ。
やってもよいと思う。

勉強をしっかりやる約束で(笑。
というより長女の場合、まず忘れ物である。これをなくしたい。これで随分と損をしている。
それ以前に、学校嫌いについてもだ。だがわたしも学校は嫌いであったから、人のことは言えない(爆。

次女はそこまで熱心にやる気はないそうだ。
それはそれでよい。
お噺作りが好きだし、読書をも少しさせよう。


スケートか、、、わたしも高校まではよくやったものだ。
今はちょっと敷居が高い。
きっと脚が随分と痛くなはず、、、。
しかし観覧席から見ていると、いつもかなり年配のお父さんが、すいすいとどや顔でアクロバティックな滑りを魅せているではないか。
本当に得意げに。
あれを見ていると、わたしも復帰しようか、という気分にもなってくる?

でもどうかな。
体重もずいぶん増えたし、体もちっとも使ってないし、、、水泳でも暫くして体を動かしてからにしよう、、、。


今日も天気が良かった。
外に出たい。
外に、、、。



公園のはしご

sun.jpg

今日は晴天で朝から気持ちが良い。
風はヒンヤリ涼しく日差しはピリピリくすぐったい。
自然に外へと駆り立てられる。
外へ。

内にしっかり籠ったら、徐々に外へ、、、である。
起きるや否やスマフォを弄っている二人の娘を車に乗せて、近くの公園へ。
と言ってもいつも行く公園ではなく、スポーツ公園が今年最終日なので、まずはそこで身体を解す。

年の瀬も押し詰まったこの時期、野球場もテニスコートも空で、ランニングコースを走る人もいない。
空は真っ青、日光は燦々と射しているのに碁や将棋に興じる旦那衆もいない。
鳩がたくさん飛び立った。一際たくさん、、、飛んで行く。

二人も小走りに小高い丘を目指して走る。
室内で読書しているから、戻るときに電話して、と声をかけるとスマフォをもった手を振って見せた。
わたしは建物の中へ、プール観覧席に腰かけて落ち着いて読書。
ふたりは丘の峰の林の茂みのなかを縫うように登ったり下ったりして遊ぶのだ。
それが好きでたまらない。
スロープ状の路を歩いて頂上に着いたところで、パークベンチがあるだけで特に何が面白いと言うわけでもない。
花火の時期に下より良く見えるというくらいか。

峰の途中の林の下には、よくきのこや、いろいろな植物が雑多に生えていて春や秋には結構楽しめる。
(本当はそこは歩いてはいけないところだとは思うが)。
急斜面の道なき道を登り下りするのが彼女らにとって何より面白いのだ。
スリルがあって運動にもなる。
更に今日はスマフォで景色を撮りながらである。
これが面白味を増したようだ。

わたしのところにきて見せるころには、動画にBGMをつけていた。
確かに面白いし、最近の映画がこんな感じの画面の動きであったことに気づく。
そのうちパソコンで編集して何か作ろうということにする。

もう一つ別の公園に行きたいというので、図書館の隣の公園に連れてゆく。
着いたところで持ってきたカロリーメイトを食べて麦茶を飲む。
そこでもうひと暴れ。この公園は桜の時期と紅葉の時期はかなりの見もので人も集まる。
わたしは、月を背にしたここの夜桜が好きだ。
カメと鯉と白鳥の公園でもある。
池がもう年季がはいっている。

わたしは、図書館で中沢新一氏の本を読んで過ごす。
ふたりもわたしが15ページ読んだくらいでやってきた。
今は木も何も殺風景で余り撮るところもなかったようだ。
3人で読書室に入って静かにじっくり本を読んだ。
すぐ隣の机に娘と同い年くらいの女の子がやって来て慣れた感じでゆったり読書を始めた。
実にさまになっている。読書家という風情だ。
ふたりも慣れぬ環境で真剣に読んではいたが最初に次女が音を上げた。
常にお喋りをしている人だ。声を出さないことに耐えられるはずもない。
次女のギブアップを合図に引き上げることとなった。
帰ったらピアノである。


ビデオ作品は、車の中で何度も繰り返し見て楽しんでいた。
完全にスマフォが無くてはならないガジェットと化しているのにはちょっと不安もあるが。
今日は、とても良いパタンの1日ではあった。
日の光の下で遊び、静かに読書し~もう少し長く持てば言うことないが~帰ってピアノ。
わたしとしては理想的な流れとなった。
算数の勉強は時間がないということで、明日に回すこととなったが。


これからは、ともかく外に連れ出したい。


プレゼント

taniku.jpg

多肉には癒される。
外でも育てているが、室内でとても気を使って丁寧に育てている特選ものが幾つかある。
種類も豊富なので、いろいろな形のものを寄せ植えしている。
似た形態であれば同じ環境下で問題なく育つ。
しかし、なるべく違うタイプの形態ものを隣り合わせに育ててみたい。
それが愉しみになっている。
結構、実験的に試したりもしてきた。

わたしが多肉の寄せ植えに密かに力を注いでいることを知った知人(特に親友というわけではない)がやって来て、寄せ植えを譲って欲しいと言う。一瞬、引き攣る(爆。
う~ん。微妙な交渉だ。
特に親しい分けではないし、でもわたしの多肉寄せ植え作品が気になっていて是非欲しいと、、、。
大事に管理すると言うので、それならばとあっさり了解する。
(これといった交渉もない)。

他人にものを贈呈するとなれば、いい加減な出来のものは渡せない。
室内でじっくり育ててきた7種類くらいの多肉の寄せ植えもので、とても元気でまとまりのあるプランターを二つ選んで差し上げた。

急だったもので、ともかくよさそうなものをさっと選んで手渡したのだが、今考えるととっても惜しい気持ちで一杯だ。
せめて写真くらい撮ってから渡せばよかった。
次に作るときの参考にもなるし、、、。
余りに無造作に渡してしまったのだ。
そのことがこころに引っかかっている。
わたしは、急な出来事に弱い。
予め分かっていることなら、作戦を練って行動するのだが、ほとんど「えっ?」と思ってほぼ真っ白の状態で「じゃあこれどうぞ」という流れで行ってしまった、、、。

まあ、向こうで元気に冬を越してくれるのを祈ろう。
娘たちへのプレゼントは、(クリスマス・プレゼントってキリスト教徒でもないのに何で無理やりプレゼントさせられるのだろうか、バレンタインとか近頃すっかり定着したハロウィンとか、、、、習慣は恐ろしい)スマートフォンにした。
わたしのiPhoneよりスペックの高い(特にカメラの解像度が半端ではない)Androidのものだ。
渡すと直ぐに二人でLINEをしあってずっと遊んでいる。
四六時中スマフォばかりやっているようでは困るが、これなしでもこれからはちょっと不便かも知れない。

基本、必要最低限の電話とメール、ネットは地図を調べるくらいにするように言い聞かせた。
絶対に身から離さぬこと(GPSの効用もある)、外出先からの連絡は必ず入れることも含めて。
長女は、昨年ガラケーを公園で紛失している。
置き忘れがやはり心配だ。
そしてゲームは絶対ダメと念を押した。
パソコンとスウィッチでもやっていてそのうえで、またこれでゲームなどやりだしたら、大変である。
いつ勉強するのか。

だがこうしたガジェットは一度手にすると身体に馴染み、依存・癒着してしまう傾向は強いものなのだとつくづく感じた。
ちなみにふたりは植物の世話などほとんどしない。
余り関心が向かないのだ。
他の生命に対する関心がとても乏しい。
他者に対する感覚の問題だ。
どうもここが気になる。



初恋の分析

piano.jpg

今日は、娘の女子会があり、わたしも「マーブリングで綺麗なセンスを作る」という講師に呼ばれその時だけ参加した。
後は、わたしの関与したのはわたしの部屋でシーケンサーを使い、ハウスミュージックを即興で鳴らしまくった時くらいか。
お友達はピアノやキーボードも弾きまくっていた。娘たちにも刺激になったと思う。
どれにしてもパソコンに入れればいくらでも編集して面白い曲に仕上がるものだが、iMacが壊れてからは何もしていない。
お友達が帰ってから、録画しておいたTV番組をいくつか見た。
そこで思ったことなど、、、

論理的な分析は想像力の届かぬ場所にわれわれを導き、その思いも及ばぬ帰結に(過程であっても)新鮮な驚きを与えてくれるものだ。
飛躍した認識~外部の思考を共有できる(過程の流れの理解は別としても)。
芸術においては、例えば天才的な芸術家の閃き・洞察などは確かに驚異的で素晴らしいが、その認識はやはり彼だけのものに留まる。
彼の「未知の言語」~表現(形式)を畏敬の念で見る(聴く)ことで感動することは出来、貴重な体験を得るが、知的にそれを利用できるかというと、それ自体は無理だ。
作品(帰結には違いないが)を見て驚き圧倒されても、それは現時点の自分が個人的に感じ取るなにものかであって、自分なりの読み解きが可能なだけだ(ほとんどは無言のしこりみたいにずっと持ち越すことになる)。

わたしが科学に惹かれ、科学特番が気になるのは、明快に新たな認識が得られる(少なくともその契機となる)ことからだ(そんな番組は限られてくるにしてもとっかかりにはなる)。
そのため、番組表にそれらしきものがあると予約を入れてしまう。アマゾンでその関係の本を注文してしまう。
(TVでは、科学特番と美術・クラシック音楽番組と乃木坂46ものと、時折映画を観るくらい、、、そうだスケートも最近観るか)。

だが、芸術に意味がないということを言うつもりなど毛頭ない。
(どちらかと謂えば、わたしはそちら側ばかりを論じてきている(爆)。
芸術は極めて感覚的・感性的な形式である分、身体的であり距離がない。
言語以前の領域に働きかける部分が大きいため、すぐさま意識の変容を齎すというものではない。
しかし、芸術に触れることで確実に存在そのものは変容する。

科学は抽象的な内容であっても普遍的な概念~言語の獲得によって知的な認識~志向性・探求が可能となる。
何処までも微細に大きく遠方に又は異なる次元にマルチバースに展出する。
芸術は身体~無意識に訴えかけ、知らぬうちに受容性を深め~感度を高め、存在そのものを変えてゆく力を持つ。
われわれにとって、車の両輪のようなものではないか。いやひとつの鋳型の片割れ同士のようなものか。
両者は(人間の思考の根底では)、もともと切っても切れないものなのかも知れない。
有名どころでは湯川秀樹の「素領域」という概念(の発明)が李白の漢詩「夫れ天地は万物の逆旅にして光陰は百代の過客なり」や 芭蕉の句の「月日は百代の過客にして行き交う年も又旅人也」にインスピレーションを得ているということ。


そこで「素領域」みたいな概念の発明が生まれれば、幸いである。
ジル・ドゥルーズは哲学とは概念の発明である、と述べる。
そう、全ては思想である。
言語の営み~作用である。

何を言おうとしているのか、、、今日はすでに酒が(シャンパンだが)入ってしまっている、、、
わたしのブロ友のST Rockerさんがいよいよ宇多田ヒカルの「初恋」の数学的分析に乗り出した。
(以前、わたしが頼んだ件だ)。
はっきり言って”面白い”。
こういう試みは、とても刺激的なものだ。
ある意味、芸術を科学することにもなろう。
(これまでにも雰囲気的にはあったとは思うが、もっと徹底したものである)。

ウンベルト・ボッチョーニなどの未来派などは、科学の成果を取り込み応用し芸術を革新した。
写真から発見された様々な運動(法則)を絵画に昇華させた作家も多い。
写真そのものの化学的性質を利用して作品化したマン・レイ等。
更に活動写真の芸術への影響は大である事は良く知られる。

その逆側からのアプローチとなる。
これほど誰をも唸らせる芸術の感動がどこから来るのか、、、。
その構造を探る。
どうやらf/1揺らぎ等とは、関係ないとのこと。
音の数の少なさ、少ない音の分布等々から見えてくること、、、その他。
これからが楽しみである。

とても興味深い考察となる。
わくわくする。

ウォンテッド

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Wanted
2008年
アメリカ

ティムール・ベクマンベトフ監督
マイケル・ブラント、デレク・ハース、クリス・モーガン脚本
マイケル・ブラント、デレク・ハース原作

アンジェリーナ・ジョリー 、、、フォックス(フラタニティのメンバー)
ジェームズ・マカヴォイ 、、、ウェスリー・ギブソン(フラタニティで能力を覚醒する)
モーガン・フリーマン 、、、スローン(フラタニティの首領)
テレンス・スタンプ ペクワースキー(フラタニティのメンバー)
トーマス・クレッチマン 、、、クロス(フラタニティを裏切った男、ウェスリーの父)
コモン 、、、ザ・ガンスミス(フラタニティのメンバー)


ナイト・ウォッチ」の監督だ。
なるほど、同じテイストだ。突き抜けている。
“フラタニティ”という地下組織が1000年にわたり、「運命の意志」によって暗殺を執行し「世界の秩序」を守ってきたという!?
この荒唐無稽な(単純な)設定こそ監督の真骨頂か。
「ナイト・ウォッチ」に引けを取らない。
度肝を抜くカーアクションと銃弾のVFXに目まぐるしいバトルなどテンポも展開も速く息をつかせない。
凄まじい身体能力(及び超能力)に、怪我をしても早く治せる薬湯など面白い。
何分、1000年の伝統があるのだ。
機織機の織目に2進法メッセージが織り込まれて暗殺対象が告げ知らされる。

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その意思を下す上位存在とは如何なる者なのか、、、という疑問は当然生じるも、この映画を観ながらそんなことまで構っていられない。目まぐるしく進展するため、ただ映像を追うだけで精一杯である。
武器も古いのか新しいのかよく分からないが、ネズミを使う戦術なども出てくる、、、。
(とは言えやはり「世界」とは何なのか?人の数だけ、少なくとも思想・信条の数だけ世界はある。世界を救うなんて言われたって、「誰の世界」のことを指すのかである。そう考えれば、あながちスローンの、「われわれのためにこの組織が存在する」という考えも間違いとは言えなくなる。スローンたちも消されるメンバーに選ばれていたのだ。自分が死んでは、世界も何もない。当然反逆するはず。やはり命令~指揮系統は一体何者なのか、気になる)。

この流れだと必然的に伝統も組織を私物化し、その力で自分に有利な情勢を作ろうとする動きは出てきてもおかしくない。
この過渡期に主人公が“フラタニティ”に入り(誘われ)素質を開花させ、やがて組織に利用されていた(最大の悲劇は父の仇と知らされていた相手が実は本当の父であった。それを知らずに彼は本当の父を殺してしまった)ことを知り、現組織を壊滅に導く。欺瞞~搾取~造反~アイデンティティの獲得・覚醒へ。
自分をずっと見失って生活してきた青年が、父を見出す過程で自分に覚醒する物語でもある。

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(裏切者で父を殺した相手であると信じていた男が実の父~凄腕の殺し屋であった)。

とは言え上司にいいように虐められ謝ってばかりの冴えない社員から厳しい訓練を経て精悍な面持ちのクールな暗殺者に変貌して行くウェスリーは、余りに劇画的で誇張し過ぎの感はあった。
銃を撃つときに腕をしならせ弾道を曲げるというのもワクワクする(超能力だ)が、フラタニティ造反組が特別に開発した遥か遠方から放たれた弾丸(長距離射撃用の弾丸)が空中で螺旋状に分離し、目標に命中した途端、時間を逆行するように元の銃口まで戻って行く。余りに突飛で唖然としたが、あれは何でそうする必要性があったのか?よく分からない。撃ちっぱなしではダメなのか?開発した博士が説明してくれるかと思ったのだが、主人公が聞いてくれないため分からずじまいであった。
それから沢山のネズミに時限爆弾を付けて解き放つ攻撃であるが、どうも効率が良いのかそうでもないのか、、、少なくとも驚かせる価値はあったように思うがどれほどの破壊力があったろうか。結局彼が直接闘って殺しまくっていたように思える。

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最後にフラタニティのスローンたちに取り巻かれた際に、暗号の偽造がなされ本来の意図が実行されていないことを説いたのは功を奏する。それで真実を知ったフォックスが自分を含め首脳部を全員曲がった銃弾で始末する。組織に忠実なフォックスがいたお陰だ。
助かったウェスリーは、自分を始末しにやって来たスローンを罠にはめて返り討ちにする。
例の長距離射撃である。実の父の得意技でもあった。
この先、彼は独りでどうして行くのか、、、お金は底をついているし。
また、メッセージを機織り機の縫い目で送ってきた存在との関りは、、、?
(これって、続編はあるのか?)

アンジェリーナ・ジョリーがともかく、かっこよい。
ファンなら充分に愉しめる。

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特にファンでなくともスピーディーで面白い噺とVFXがテンコ盛りで目は離せないはず。




アウト・オブ・サイト

Out of Sight

Out of Sight
1998年
アメリカ

スティーブン・ソダーバーグ監督
スコット・フランク脚本
エルモア・レナード原作

ジョージ・クルーニー 、、、ジャック・フォーリー(泥棒)
ジェニファー・ロペス 、、、カレン・シスコ(FBI捜査官)
ヴィング・レイムス 、、、バディ・ブラッグ(ジャックの相棒)
ドン・チードル 、、、モーリス・“スヌーピー”・ミラー(悪党)
デニス・ファリナ 、、、マーシャル・シスコ(カレンの父)
アルバート・ブルックス 、、、リチャード・リプリー(頼りない泥棒仲間)

ジャッキー・ブラウン」の原作者だ。


ジョージ・クルーニーとジェニファー・ロペスの主演ということで、どんな映画であるかは察しが付いてしまう。
スタイリッシュなラブコメというところか、、、ジョージ・クルーニーがともかくカッコつけていし、ジェニファー・ロペスも思わせぶりタップリ(笑。

ここでは、片や銀行強盗、片やFBI捜査官であり、立場上相容れない間でありながら恋に落ちるというワザとらしくも分かりやすい設定だ。
見え見えのドラマだ。それを如何に見応えのある素敵な大人の?映画にするか、、、。
そこでストップ・モーションがオシャレに使われている。
これも多用されていることから、おしまいの方ではまたかよと思うが、そういうものなのだからと許容する気持ちも何となく芽生える。
クルーニーの”ライター”がとても気になった。
もう少しライターで魅せても良かったかも、、、。

激しい銃撃戦とかバトルが展開するものではなく、どちらかというとのんびりしていて隙があり大丈夫かとこちらが心配しつつ見るようなところも少なくない。それくらいに緊張感はない。
強盗を何百回も熟してきた男とやり手のFBI捜査官の息もつかせぬ頭脳戦とかいうものでは全くない。
本能の赴くままに強盗や恋をしている自由な男と一目惚れに流されつつ捜査をしている女のスタイリッシュな交わり。
要するにジョージ・クルーニーとジェニファー・ロペスの恋の行方がどうなるのという御話なのだ。

しかしこういう御話を映画にするために多額のお金が使われる。
この映画では4,800万ドルが制作費に消えたらしい。
元を取れば良いのだろうが、ホントに贅沢な娯楽と謂えよう。

マリー・アントワネットが現代に生きていたら映画製作(監督)などやっていたら平和であろう。
彼女自身、お忍び(公然のだが)でしょっちゅうオペラをパリに見に行っていたり、ポンパドゥール夫人のために建てられたプチ・トリアノン宮殿を譲り受けそこで自分が主人公の歌劇を披露していたくらいだ。
今であれば、ソフィア・コッポラ監督にでもなっていたか(爆。
別に爆笑するほどのことではないが。

話は逸れたが、それほどの金を使ってまで映画にする物語なのか、と思うものは少なくない。
これも荒唐無稽な御話だが、最初から流れは見えていて、後はどのように着地するのかというところを確認するだけの映画である。
勿論、その過程の映像もオシャレで楽しく見て行けるものだ。
現実的ではないが、分かり切ったファンタジーであり意外性も想像力を刺激するものも特にはない。
画面のそつのない綺麗な処理はやはり手慣れたものを感じさせ、とても見易い映画に仕上がっていた。


二人のファンであれば、面白く観ることの出来る映画であろう。


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マリー・アントワネット

Marie Antoinette001

Marie Antoinette
2006年
アメリカ

ソフィア・コッポラ監督・脚本
アントニア・フレイザー『マリー・アントワネット』”Marie Antoinette: The Journey”原作
ミレーナ・カノネロ衣装
ブライアン・レイツェル音楽

キルステン・ダンスト 、、、マリー・アントワネット
ジェイソン・シュワルツマン 、、、ルイ16世
リップ・トーン 、、、ルイ15世
ジュディ・デイヴィス 、、、ノアイユ伯爵夫人
アーシア・アルジェント 、、、デュ・バリー夫人(15世の愛人)
マリアンヌ・フェイスフル 、、、マリア・テレジア女帝
ローズ・バーン 、、、ポリニャック公爵夫人
モリー・シャノン 、、、ヴィクトワール内親王
シャーリー・ヘンダーソン 、、、ソフィー内親王
ダニー・ヒューストン 、、、ヨーゼフ2世
スティーヴ・クーガン 、、、メルシー伯爵
ジェイミー・ドーナン 、、、フェルゼン伯爵(スウェーデンの伯爵、マリーと不倫の仲)
クレマンティーヌ・ポワダッツ 、、、プロヴァンス伯爵夫人


フランスに嫁いだ時、彼女は14歳だった、、、。
夫は錠前作りに熱中していたことは確かなようだ。
少なくとも嫁いでから7年間は常に夫が先に眠ってしまっていたらしい。
パーティーにしか捌け口のない彼女であった。
宮廷の誰だったか、彼女のことを「ケーキみたい」という率直な感想を発していたが、まさに、、、。
ケーキと謂えば、「パンが食べられなければケーキを食べれば?」というのは、でっちあげで、実際にマリーはそんなことは言っていない、というのが定説である。が、「ケーキを連想してしまう女性」だったのかも知れない。
キルステン・ダンストが好演していたが、まさに高価なケーキを演じているみたいだった。しかし肖像画からすると、マリーはちょっとタイプの違う女性に感じられる。

Marie Antoinette003

宮廷内も衣装も絢爛たるものであるが、物々しく芝居じみた仕来りも「ばかみたい」(マリー)なものである。
(誰が王妃に下着を渡すかで、ずっと裸で寒いなかを待たされるような硬直した、時に無駄な出費も嵩む既得権の絡んだ厄介なものであった)。
贅をつくした食事もまあ凄まじい。
衣装・装飾・美術の力の入れ様は鬼気迫るものであった。
また、庭園の虚しいほどの美しさ。ヴェルサイユ宮殿がどれほど庶民から浮いているかが容易に感じ取れる。
このあたりの再現性からして当時の歴史的資料価値の高い映画だと思う。

ソフィア・コッポラ監督と謂えば「 ロスト イン トランスレーション」がまず頭に浮かぶが、最近観た「The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ」もストイックで静謐な雰囲気が美しく、よく出来た映画であった。
この映画も、やはりキルステン・ダンストを起用しているとは言え、まるで正反対である。
ひたすら豪華絢爛であるが、伝統の重みというより、音楽も軽快なロックを使うなど、賑やかで空疎な現代のギャルのノリで進行して行く。
実際、彼女の年齢からしてそういった感覚であったはず。
いや、もともと彼女はノーマルな女性として生きたい願望が強かったのだ。
自らの身分を前提としたうえでの自由ではあるが。とてもそれを感じる。
監督は、そこを女性の勘で鋭く掴んで強調して表現したように想える。
それが、宮廷においても国民に対しても齟齬を生んだのだろう。
(夫を置いて若い貴族連れでパリにオペラ鑑賞や仮面舞踏会などに頻繁に出かけていては顰蹙も買おうが)。

Marie Antoinette004
ようやく授かった子供は二人とも大変可愛らしかった。
夫も以前と比べれば、随分頼もしさや共感力が感じられ、気遣いも出来るようになってきたのだが、如何せん余りに政治に疎かった。
マリーも母として子供には自然や動植物に触れさせるなど情操における良い環境と教育を施していた。
経済的逼迫を知ってからだが、倹約にも努め無駄な儀式の簡素化を図っている(それまでの無軌道な浪費は否めないが、まだ子供である。周りにしっかり諭せる人間もいなかったようだ)。
映画でも彼女の懐妊を急かすところばかりが強調され、肝心な政治に関する教育などほとんどまともに成されていない様子だ。
それで彼女らが命を落とすことになるのも関わらず。もっともマリア・テレジアは随分と心配を募らせてはいたが、、、彼女の手紙では不十分であったようだ。
革命はそもそも君主打倒ではなく、立憲君主制を標榜して起こったものであり、憲法のもとに君主と人民が協力する体制を受け容れれば殺されることは、まずなかったはずである(ここでは、投獄~ギロチンまでは描かれないが)。

彼女には敵も多く、彼らの噂や言動がフランス大衆の彼女に対する嫌悪感を増長させた部分も大きいと想われる。
隔絶された環境にあって情報が無いことの恐ろしさと巷における情報の錯綜とその信憑性の確認も出来ずに興味半分で広がる状況は、極端で単純な物語に結ばれる。
(パンの件もそのひとつか)。
だがその辺のドロドロした経緯はほとんどここでは描かれない。
人間的な情感や劣情などは寧ろ徹底的に避けて作られている感もある。

歴史的な柵から彼女を抽出して魅力そのものを描きたかったのか。
確かに最初から最後までケーキみたいに人を惹き付け、自分を生きた人であろう。

Marie Antoinette005

観て損はない映画ではある。当時の宮廷内の雰囲気を感じたいという人にはお勧めである。



ジェシー・ジェームズの暗殺

The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford002

The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford
2007年
アメリカ

アンドリュー・ドミニク監督・脚本
ニック・ケイヴ、ウォーレン・エリス音楽
ロジャー・ディーキンス撮影


ブラッド・ピット 、、、ジェシー・ジェームズ・製作(強盗団のリーダー)
ケイシー・アフレック 、、、ロバート・フォード(ジェシーを慕う子分)
サム・シェパード 、、、フランク・ジェームズ(ジェシーの兄)
メアリー=ルイーズ・パーカー 、、、ジー・ジェームズ(ジェシーの妻)
サム・ロックウェル 、、、チャーリー・フォード(ロバートの兄、子分)
ジェレミー・レナー 、、、ウッド・ハイト(ジェシーの親戚、子分)
ポール・シュナイダー 、、、ディック・リディル(ジェシーの子分)
ゾーイ・デシャネル 、、、ドロシー・エバンス(ロバート死ぬ間際の恋人)

BSで観た。
長い映画であったが、緊張感に充ち、全くだれるようなところはなかった。
抑えられた色調も良く絵になる光景が幾つも印象に残る。
舞台は西部開拓時代。何と言うか、、、荒くれ者が暗躍する時代であったようだ。
わたしは知らなかったのだが、ジェシー・ジェームズは、アメリカでは知らない人がいないほどの人気のアウトローなのだ。
南北戦争が始まると彼は兄と共に南軍のゲリラに身を投じ、そこで略奪や殺人に深く身を染めていったという。
そこから地続きで強奪グループを率いて西部を横断しながら荒らしまくって行ったものか。
凄い賞金首であった。
(伝説では金持ちから金品を強奪して貧者に与えたとか言われているが、そういう事実はないそうだ。敵も味方もなくかなりの人数を殺害してきたという)。


グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』のベン・アフレックの弟ケイシー・アフレックのひりつく心理的葛藤には充分共振できた。
寝る時もピストルを握り続けて過ごすジェシー・ジェームズも疑心暗鬼からくる不眠で神経がズタズタになっている様子がよく窺えた。
また、サム・ロックウェルのジェシーに恐怖と不信から卑屈に媚びつつも、耐えられる限界を超えてゆく精神状態の演技がまた素晴らしいものであった。
音楽も静かに物悲しくも重厚に迫るもので、映像と混然一体となっていた。
全体に、説得力ある流れを感じた。

The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford001

ジェシー・ジェームズは南部のヒーローとして伝説化された、庶民に愛されるアウトローであったが、彼を殺害したロバート・フォードは憎き卑怯者として葬られる。自分の店のカウンターで酒を飲んでいるときに突然撃たれて死ぬが、ほとんど話題にもならなかった。
しかし、このドラマを辿ってゆくと、ジェシーを心から慕う気持ちが、徐々に彼を殺すしかないところに追いやられてゆく過程が実感として受け取れる。
飽くまでも監督であり脚本家のアンドリュー・ドミニクの解釈~創作であるにせよ、こういう流れがあってもおかしくはない、というよりとてもリアリティの感じられるものであった。

人間関係というものは、特にこんな特殊な事情に生きていれば、本当に複雑で錯綜したものとなろう。
ジェシーが仲間の裏切りを執拗に警戒して、疑心暗鬼を深め心を病んで行くに従い、観ているこちらの方も息苦しくなってくる。
その煽りを一番喰うロバートの兄チャーリーが、精神的に参りきって泣き出すシーンなど真に迫っていた。
(自分の過去にも同期するものを感じてしまったからか、、、)。
弟にしてもどうすることもできない。
(彼のこころは冷めてゆき、反面計算が働き身の保全~恩赦と賞金も期待し、秘密裏に警察とも組む。もう早晩ジェシーが捕まることも想定出来ていた)。

何にしても、集団で共有するイメージ(集団ヒステリー)とは怖いものであり、ヒーロー扱いされると、何をやっても良い方に受け取られ誇張され単純化されるだけでなく、全くありもしない美談なども追加されて伝説化されてゆく。半面、その敵役とされた者に対しては、実に非情に一方的で理不尽な矮小化された人物像が与えられ、悲劇のヒーローの無残な引き立て役としてのみ名を遺す。
この物語の両者が良い例だが、共同体においてこのようなメカニズムは普遍的に自動的に作動している。

The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford003

よく堅気の生活に嫌気がさしてアウトローの世界にのめり込む類の話はあるが、(卑近な例では学校生活が規則があって面白くなく暴走族に入るとか、、、ちょっとスケールが小さ過ぎるか、、、しかしその共同体の方が上下関係も厳しくかえって規則でがんじがらめになって遥かに酷い目に逢うことは承知の事実だが)大概、精神的な搾取も比較にならないくらい酷いものになるのがおちである(笑。蛇足だが、急に思い出した。

ロバート・フォードも子供の時からの憧れであるジェシー・ジェームズみたいに自分もなりたいと思って懸命に彼に食い下がって子分にしてもらったのだが、、、。
皮肉なものである。

The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford004

久しぶりに映画を観たという感覚を味わった。



リトルバード 164マイルの恋

LITTLE BIRDS001

LITTLE BIRDS
2011年
アメリカ

エルジン・ジェームス監督・脚本

ジュノー・テンプル、、、リリー(自傷傾向の強い家出願望の15歳の少女)
ケイ・パナベイカー、、、アリソン(理性的で頭は良いがリリーに依存する少女)


ジャケを見るとロマンチックなロードムービーを想像するし、邦題もまさにそんな感じだ。
例によって全然違う。見れば分かるんだから下らない邦題止めよう。

海が腐臭の漂う偽物の塩湖で、砂浜の白砂に見えるものが全て酸欠で死んだ魚などの動物の骨であるというのが良い。
妙なでっち上げの近未来SFのデストピアみたいな不自然な物々しさがなく、その村の息の詰まる生活や住人の心象風景まで象徴しておりリアルだ。
偽物の海に縛り付けられた生活に侵され腐って沈み込んでゆくことから逃れ出ようとする少女(たち)を追ってゆく話か。
物知りの人格者であるホーガンが「何処もみな同じだ」といった言葉が重みをもつが、ここでなければ何処でもよいという勢いで不良のスケボー少年を追いかけロスまで行ってしまう彼女たち。信頼するホーガンの車を失敬してアリソンは渋々だがリリーに従う。

誰もがここではない何処かに憧れて旅行をするものだろうが、何処に行こうと自分がついてくるということは新垣結衣が言っていた。その通りだ。自分が生き直すことで回りの世界が変わる。そういうものだ。というよりそういうものでしかない。

リリーについては特に成育環境(家~母)に問題があり、そこからくる個人的な特質が多大に行動に影響していることが分かる(自傷行為も含め)。アリソンも似たような境遇だが、その割にはしっかり育っていて人格的には(アイデンティティは)安定している。

ロスの彼らもまともな生活をしているはずはなかった。
空き家となった古いモーテルみたいなところで孤児みたいに共同生活している。
恐喝に暴行。堂々と犯罪を犯して暮らしている。これではギャング(予備軍)である。
リリーは無軌道で刹那的な生活に歯止めがかからず、ますます彼らの非行生活にのめり込んでゆくばかり、、、。
アリソンはリリーが心配で付き合って来たが、居たたまれない。
彼女独りがはっきりと浮いてしまう。

何でこの子はこんなにもこのリリーが好きなんだろう?
一種の愛着関係が幼少時から結ばれているのだと思う。
好きも嫌いも含めて。
たまたま同い年でこの閉塞環境の中でずっと寄り添って暮らしてきた姉妹に近い間柄なのだ。

LITTLE BIRDS002


結局、行くところまで行ってしまい、リリーはアリソンに救い出されて帰って来る。
行きとは違い疲れ諦観すら湛えた表情で。
黙って借りた車に乗って。
偽物の海の故郷へ戻ってきた。
こうなることは充分察知しながら観ていたが、全くその通りである。

だがこれをよくある青春の一コマみたいに一般化されては困るし余りに陳腐である。

「受けた傷がどれだけ深いのかは後になって分かる。
かすり傷なのか一生の傷なのか、、、
今できるのはそれを悟る瞬間を出来るだけ先に延ばすことだけ、、、」
って、虫が良すぎるし、延ばしては絶対まずいだろう。
そんなモラトリアムそもそも通用しない。
直ちに真正面から「それ」に対峙し、明瞭に対象化しなければならない。
その傷が一生ものにならないためにも。

LITTLE BIRDS003

親や生育環境(周囲の大人)から受けた傷をしっかり自覚すると共に、自分が他者に対して行った暴力~非道な仕打ちに関しても深く認識しなければならない。
当たり前のことである。
自己中心的で無反省な青春イメージに耽っている場合でない。
まあ、まずは自分をしっかりと見出すことだろう。
そのためには、その田舎町にいたとしても、親元は離れるか尊敬できる大人の支援が必要となってくる。
経済的に自立して親としっかり対決できるようになれば、取り敢えず安定してくるはず。
それからが本番となるが、アリソンという親友がいることが何より心強いことに気づいてゆくだろう。
この関係は大きい。救いである。




再生

piano001.jpg

おそらく、じぶんがじぶんにかさなってゆく、この感覚なのだと思う。

今聴いているリストの「愛の夢」も、独唱曲として作曲されたものをピアノ曲に彼自ら編曲したものだった。
わたしはピアノ曲でしか知らない。

編曲~編集
この感覚。


最近は片付けと瞑想くらいしかしてないが、焦燥や不安はまったく感じない。
寒さにも強くなった。

これは、いける、、、



安全基地

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安全基地は生を受けた時にすでに用意されていない場合、ある年齢になって(物心ついてから)意識的に探そうにも容易に見つかるものではない。自力で容易く手に入る類のものではない。
余程、幸運に恵まれないと不可能である。

「安全基地」は、仮想空間には見出せない。
「安全基地」は、身体という現実~歴史全体が格納される広さを持つ。
「安全基地」は、こちらの身体性の全てを受け容れる他者という身体性を要請する。
「安全基地」は、独りでは実現しない。鋳型の片側に過ぎない。
「安全基地」は、表現では創造できない。
「安全基地」は、極めて原初的な生物学的な構造~時間に属する。

「安全基地」を探すタイムリミットはせいぜい学生時代までか。
それ以降は、困難。
医者はまずほとんど頼れない。

他者という不可能性を要請しない汎用的「安全基地」が、創作出来たら、救済される人は多い。



ワーキングガール

Working Girl

Working Girl
1988年
アメリカ

マイク・ニコルズ監督
ケビン・ウェイド脚本
カーリー・サイモン(主題歌)

メラニー・グリフィス 、、、テス・マクギル(投資銀行勤務)
シガーニー・ウィーヴァー 、、、キャサリン・パーカー(テスの上司、重役)
ハリソン・フォード 、、、ジャック・トレイナー(キャサリンの元恋人)
アレック・ボールドウィン 、、、ミック・デューガン
ジョーン・キューザック 、、、シンシア(テスの親友)
フィリップ・ボスコ 、、、オーレン・トラスク


BSで、ながら見をしてしまった(笑。大掃除の時期である(少し遅いだろうか)。

如何にもアメリカン・ロマンチック・コメディーという感じのものであった。
80年代終盤の雰囲気がとても懐かしく、それだけでちょっとワクワクする。
M&Aもので、このころからよく話題になっていた。
日本企業をかなり脅威に感じ対策を講じていたのも窺える。
この時期は、まだ景気も良く時流に乗って盛んに行われていた。
そんなウォール街で、サクセスストーリーを夢見る女の子の、、、という
もう見る前から結末の分かる、決して裏切らない鉄板ものの映画である。
特にテスは真面目で勉強家であり実力はあるも、学歴がない苦学生であったため、「証券マン養成コース」からいつも外されている。しかも信頼を寄せた上司には自分のアイデアを横取りされ、恋人には浮気をされて失意のどん底に落とされる。それでも挫けず自分の野望に向かって健気に頑張る女性であり、観ていて誰もが自然に肩入れしたくなるというもの(笑。

ワールドトレードセンターで撮影が行われていた模様で何とも感慨深い。

実際、メラニー・グリフィスの物静かで物腰の柔らかい人当たりの良さ、直向きさから心地よく展開を追える。
彼女のおっとりしたトーンが、いち早く情報を嗅ぎ付け、人を出し抜いたり、蹴落としたり、騙して勝機を掴む業界の話も余りささくれ立った雰囲気にならない。やっていることは、秘書でありながら重役に成りすまして大きなヤマを当てようとするかなり大胆な賭けに出てゆくものだが(色々とやられっぱなしであったため、行動を起こしたのだ)。
親友のジョーン・キューザックもパンクミュージシャンみたいな出で立ちでよい味を出していた。
必ずヒロインのお友達で出てくるタイプである。
(雰囲気もマドンナよりもシンディ・ローパーであった)。
シガーニー・ウィーヴァーは如何にもできる女といった威圧感すら感じる敵役が嵌っていた。
ハリソン・フォードはいつもながら、ヒロインの相手役を無難に熟していたが、今一つインパクトが弱い気はする。

Working Girl002

テスの企画した合弁計画に双方の社長が乗り、とんとん拍子に事は上手く運んで行く。
しかし最後の詰めの会議でキャサリンが飛び込んできてしまったらテスに勝ち目はない。
肩書を偽って秘書の立場で上司の頭越しに仕事を無断で進めてしまったのだ。
ここで完全にチャンスは潰え彼女は全てを失ったかにみえたが、ジャックが間に立ち社長の誤解を解き、かえって彼女の高い能力を認め部長に就任させることになる。彼女は地位と彼氏を両方得ることになった。
というハリウッドドラマの方程式通りのサクセスストーリーである。
だが楽しめた。そういうものだ。メラニー・グリフィスのソフトな口調と雰囲気によるところも大きい。

兎も角、自分のアイデアを盗んだ上司の恋人と仕事を組んでやる羽目になり、その男が自分の新しい恋人となるというのは荒唐無稽だが噺としては面白い。
少しテスが仕事が出来過ぎなのも何とも言えないが、どんどん無謀な計画で飛び込んでゆき成功をもぎ取る姿は、恐らく見る人にやる気をもたらし元気にさせるものだろう。
この、やるときはやるわよという前向きさがこの映画の小気味よいところだ。
だがこれでキャサリンは仕事も恋人も失うことになるのは、ちょっと気の毒な気がする。
(周囲も実に冷淡だ)。
成功を掴んだ者と失脚する者との差が余りに極端であっさりしている。まるでオンとオフである。
そういうものなのだろう。

それにしても、ひとつ気にかかったのだが、キャサリンの病院(スキーで骨折入院)見舞いで手帳をテスが置いて行ったのを見て、自分の不在中に勝手にテスが自分に成り代わり恋人と合弁計画を進めていたことを知って激怒し反撃に出るのだが、この手帳は果たして忘れていったものなのか、わざとそこに残していったものなのか、よく分からなかった。



ブラジルから来た少年

The Boys from Brazil003

The Boys from Brazil
1978年
アメリカ、イギリス

フランクリン・J・シャフナー監督
ヘイウッド・グールド脚本
アイラ・レヴィン原作
ジェリー・ゴールドスミス音楽

グレゴリー・ペック 、、、ヨーゼフ・メンゲレ博士(元アウシュヴィッツ主任医師)
ローレンス・オリヴィエ 、、、エズラ・リーベルマン(ナチスハンター)
ジェームズ・メイソン 、、、エドゥアルド・セイベルト
リリー・パルマー 、、、エスター・リーベルマン
ユタ・ヘーゲン 、、、フリーダ・マロニー
スティーヴ・グッテンバーグ 、、、バリー・コーラー
デンホルム・エリオット 、、、シドニー・ベイノン


「ブラジルから来た少年たち」の意味が後半になって明らかになり、その気味悪さに愕然とした。
ヒトラーのクローンたちというのが凄い。(この豪華な主役の二人の起用と共に)意表を突いている。
夫が1910年から14年の生まれの公務員で妻が1933年から37年生まれの夫婦で、北欧系であることを条件に、ヒトラークローンの幼子を養子縁組をさせ育てさせた、というのだから、、、これまた荒唐無稽である(笑。
その子供たちは、ブラジルから送られていたという。
ヒトラー自身、「こわい父親を持った陰気な子で、税官吏だった父が52の時に生まれ、彼を甘やかして育てた母親が29歳。父親が65歳で死んだ時、彼は14歳であった」ことから、メンゲレ博士の采配で、丁度養父が65になった今、事故死に見せかけて、次々にタイミングを逃がさず殺し始める。
ヒトラー・スイッチを入れるためのようだ。

The Boys from Brazil001

兎角、ナチスものには、飛んでもない陰謀が噂されがちであるが、リーベルマン氏の調査に寄り添いこちらも彼と一緒に唖然とする。
メンゲレ博士、実に気味悪い(特に病院跡を訪れ、例の手術を回想するシーンなど)。
ただ、意味が分からないのは、何でまた94人なのか?
そんなにヒトラーで溢れかえってはネオナチを統率しようにも混乱を呼ぶだけだろうに。
せいぜい10人くらいでどう成長するかを見守りながら進めてみてはどうか?
その人数では、ヒトラーとして覚醒するに確率的に低いという計算なのか?
クローンの子役が、また論理的で共感性に乏しく芸術至上主義的でなかなか魅力的であった。
(一杯いたらそりゃ気味悪いが、、、愛着障害の疑いも感じ取れる)。

気になったのは、クローンであっても、人の場合、生後環境から獲得する形質の方が大きいことは間違いない。
DNA情報を大脳新皮質の吸収する情報が上回るのが人だからだ。
メンゲレ博士はその点で遺伝子決定論(生物学的決定論)者であり楽観的過ぎる。
映画で言うようにクローンでモーツァルトやピカソがいくらでも生まれるというのはお手軽すぎよう。
親の影響~成育環境でどの子もヒトラー的になるとは限らない。
単に65歳で父と死別しようが、それまでどういう親子関係を育んできたかで決まるものだ。
最後に出てきたクローン君など、偉大な写真家になりそうだし。
(アドルフ・ヒトラーだって、美術学校に受かっていれば社会派の画家として活躍していただろう)。
「我が闘争」とか読ませていれば、覚醒してしまうかも知れぬが、、、?
(わたしは影響を受けた)。

まあ、この映画はナチ・ハンターであるエズラ・リーベルマンが、ヨーゼフ・メンゲレ博士たちの陰謀に気づきそれを阻止しようと対決するサスペンス映画である。クローン自体どうこうという課題を提示する類の映画ではない。

The Boys from Brazil002

それにしても、この映画、グレゴリー・ペックとローレンス・オリヴィエという二大スターを主役に起用しているところがミソであろう。
彼らの出演費だけでかなりの予算を取ったのではないか?
特にグレゴリー・ペックがこんな極悪マッドサイエンティストになるなんて、やはり意表を突いている。
まさに怪演であった。
ローレンス・オリヴィエの説得力ある細やかな演技も惹き込まれる。
ふたりの取っ組み合いというのも重厚な迫力があった。
そして異様なクローン少年も何度か違う場所で見てゆく度に危ない魅力が深まる。

The Boys from Brazil004


この監督、「猿の惑星」 (1968年)の監督ではないか、、、。
なるほど。そのテイストは充分感じられた。


セント・オブ・ウーマン/夢の香り

Scent of a Woman001

Scent of a Woman
1992年
アメリカ

マーティン・ブレスト監督
ボー・ゴールドマン脚本
ジョヴァンニ・アルピーノ『闇と蜂蜜』原作

アル・パチーノ 、、、フランク・スレード中佐(盲目の退役軍人)
クリス・オドネル 、、、チャーリー・シムズ(苦学生)
ジェームズ・レブホーン 、、、トラスク校長(全寮制名門高校の校長)
ガブリエル・アンウォー 、、、ドナ(ティーラウンジで出逢う女性)
フィリップ・S・ホフマン 、、、ジョージ・ウィリス・Jr(チャーリーの悪友)
リチャード・ヴェンチャー 、、、W・R・スレード(フランクの兄)
サリー・マーフィ 、、、カレン・ロッシ(フランクの姪)
ブラッドリー・ウィットフォード 、、、ランディ(フランクの甥)


「夢の香り」ってどういうこと?また、余計なセンテンスくっつけてみた、という感じか?
まさに「女の香り」であった。中佐が香りに敏感になるというのは分かるが、あれだけ香水や石鹸に詳しいというのは、離れの自宅にそのサンプルが所狭しと並んでいてもよいと思うが、、、そういうところは見えなかった(なかった)。
チャーリーを連れてニューヨークに向かう飛行機でスチュワーデスのダフネが付けている香水をフローリスのものだと言い当てチャーリーを驚かせる。

主人公のアル・パチーノがアカデミー主演男優賞を受賞しているが、これで受賞できなかったら誰が貰えるのかと言ってよい圧倒的な演技であった。
この目の演技、どうやったら出来るのか?
アル・パチーノだけでなく、キャスト全ての演技が光った。
最初にチャーリーが出逢うフランクの姪カレンの超多忙なママぶりからして演技の質(自然さ)が凄い。
カポーティ』でアカデミー主演男優賞を受賞するフィリップ・S・ホフマンのデビュー作でもあり、ここでもその片鱗を覗かせている。

観ること自体が心地よい映画である。

わたしも以前、全盲の人と関わったことがあるが、とても鋭く見られている感覚はビシビシ感じた。
だからチャーリーがフランクから受ける圧力はよく分かる。
おまけに、実にメンドクサイ絡んでくるオヤジである。
これほど相手をするのに厄介な男もいまい。

この中佐、豪遊ツアーを組んで最後に軍服を着て高級ホテルの大きなベッドでピストル自殺する計画を企てている。
苦学生(奨学金で入学した)チャーリーは、このオヤジの世話をバイトで選んでしまった。たかが休み中に実家に帰る旅費のためである。
フランクに盲導犬扱いされ、途中で飛んでもない災難だと気づきながらも、大人しく振り回されるチャーリー。
フランク中佐は金を振りまきながらやりたい放題である。これはロードムービーでもあるか。

Scent of a Woman004

チャーリーは丁度、大金持ちの学友~悪ガキの校長への悪戯の仕掛け準備を前日に目撃してしまったことから、とても厄介な事態に巻き込まれていた。
連中は派手に、理事会から校長に寄贈されたジャガーと校長自身にペンキを浴びせてしまい、校長はカンカンに憤り、懲戒委員会を組織する。荒唐無稽な悪戯だが、彼らは放送室からナレーションまでいれていたのだ。その姿を見たものは他にもいたはず。
何とも大袈裟だが、名誉を傷つけられた校長の怒りは収まらない。そういう校長はよくいる(わたしは良く知っている)。

これまでの人生~経歴・育ちこそ違うが、ボソボソとした打ち明け噺からフランクは鋭くチャーリーの今置かれている立場とその不安を見抜く。
校長から、悪戯の首謀者を教えればハーバードへの推薦をするが、断れば退学を宣告するという餌で釣られそうになっている。品のない脅しである。
彼にとっては降ってわいた災難であるが、いきなり将来がかかった大問題となってしまった。
たかが悪ガキの悪戯準備に出くわしてしまっただけなのに。またそれを目撃して校長に伝える教員も厄介な者である。

Scent of a Woman003Scent of a Woman002

フランクは女性の香水や石鹸の香りにやたら詳しい。
「オグリビーシスターズ」の石鹸をお使いですな、と声をかけたのは、、、
ティーラウンジで偶々隣に居合わせたドナという美しい女性である。
彼女をチャーリーに勧めるつもりであったが、取り敢えずフランクはドナとタンゴを踊りはじめる。
ここで、躊躇するドナに「脚が絡んでも踊り続けるればよい」と諭す。
ドナはそれを聞いて緊張が解けてフランクと愉しく伸びやかに踊り始める。

チャーリーがフランクに自殺を思いとどまらせる時も「脚が絡んでも踊り続けるんだ」であった。
確かにそうだと思う。
脚が絡まっても踊っているうちに調整も出来る、、、。

とても美しいダンスシーンであった。
フランクは言うことはえげつないが、女性には紳士であることが分かる。
ガブリエル・アンウォーがこのシーンでだけ登場するが、まさに”Scent of a Woman”
香水や石鹸の香りを言い当てられると女性はこころを許すものなのだろうか?少なくとも垣根が下がることは確かなようだ。
このダンスは、もっとも印象に残る美しいシーンであった。

荒唐無稽な話は幾つもあったがその最たるものは、、、。
フランクを励まし元気にするためとは言え、赤いフェラーリを彼に運転させるとは。
それもアクセル踏みまくり。フェラーリである。
チャーリーから右とかの指示を聞きながら突っ走って事故もなく済むはずなかろう。
(あの速度で耳で聞いた意味を実際の動作に移すまでの遅延を逆算して指示が出せたら奇跡である)。
これはどうみてもギャグであった。

Scent of a Woman006

そもそも、悪戯が過ぎたとは言え(校長は卑劣な行為と言うが)、それをあのような全校生徒と教師が見守る公聴会で、誰がやったか吐けというような形で単なる目撃者を吊るし上げるなんて通常あり得ない。校長の資質が問われよう。
悪戯ぐらいでナンだとフランクの言うのは分かる。中佐自身も手榴弾の悪戯で目を失っている。
(その無鉄砲さはフェラーリの件を見れば納得できる)。

詰問会で校長から「卑劣な行為の犯人」を問いただされる。
答えによっては将来が台無しになるぞと脅しをかけられたうえで。
ジョージはコンタクトを外していたし暗闇だったからはっきり分からない、と逃げ遂せる。
(だが、執拗な校長からの追及に、推測では、と振ったうえで犯人の名前を三人とも答える)。
校長は推測ではない、決め手の証言をチャーリーに強く求める。
チャーリーは、人影は観たがそれが誰であるかは特定できないと返す。
校長は怒り、君は嘘をついたから退学だと言い放つ。

そこで、「告げ口をしない生徒の将来を奪うとはどういうことか?」から畳み掛ける演説は、まっとうだと思う。
「ここは卑怯者の育成所か。これではひとかどの人物を育成できるはずがない。リーダーを育てる?くだらない。彼を餌で釣り魂を買おうとしたが、彼は売らなかった。この学校は魂を殺そうとしているではないか。」

「彼は自分の未来のために友を売る人間ではない。これを清廉潔白と呼ぶ。勇気と呼ぶ。」
「それこそリーダーが持つべき資質だ。彼は険しい、品性を養う信念の道を選んだ。」
「その旅を続けさせてやろう。価値ある未来だ。わたしが保証する。」
「彼の追放こそベアード校の名折れだ。潰さずに守ってやれ。それを誇れる日がきっと来る。」
といった流れであったか。
終わると場内は拍手喝采であった。これは委員会に対する圧力に充分なったはず。
懲戒委員会からは、チャーリーはお咎め無しの判定が下る。
(だがこの流れは余りに予定調和であったものだが)。

自殺を決めてすっかり厭世的な皮肉屋になっていたフランク・スレード中佐が活き活きと蘇ってしまう。
ついでにチャーリーも救われた。勿論、フランクを見直して。
二人の間に友情も育まれた。
演説の後、外に出たところで女性教師に呼び止められ共感したことを告げられる。彼女の香水はフランスの香水で「岸辺の花」であると言い当てられ彼女は呆気にとられる。女性教師の瞳に驚きと尊敬の念を感じる。


フランク・スレード中佐、これまで貯めた金、全部使い果たしたのではないか?
それがこれから生きてゆくうえで、ちょっと心配。

炎の戦線 エル・アラメイン

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El Alamein - La linea del fuoco
2002年
イタリア

エンツォ・モンテレオーネ監督・脚本
ロベルト・ピチウッタ音楽
ダニエル・ナンヌッツィ撮影

パオロ・ブリグリア 、、、セッラ(大学生の志願兵)
ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ 、、、リッツォ曹長
ルチアーノ・スカルパ 、、、スパニョーロ
エミリオ・ソルフリッツィ 、、、フィオーレ中尉


BSで観た。
娯楽性は微塵もなくひたすら過酷な砂漠を踏み惑う、静謐さと詩情も湛えた戦争映画であった。
1942年10月から起こった北アフリカ戦線エル・アラメインの戦いをイタリア軍新兵の視点から描いたもの。
(リビアからエジプトを目指したドイツ・イタリア連合軍は、アレキサンドリアの手前のエル・アラメインまで進軍したが、スエズ運河を守るため圧倒的な軍備をもって英国軍が襲い掛かる)。

のっけから英国の88ミリ砲の直撃で、入隊したての新兵セッタの目の前で伍長が片耳だけ残して砂になってしまう。
それから最後までまったく目は離せない。
激しい絨毯爆撃を受けた後で戦車や装甲車、歩兵部隊に応戦する場面はあるが、ほとんどは水や食料、薬の補給が途絶えた中で暑さと寒さに耐え忍び、砂漠を徒歩で淡々と横断する噺である。
車や弾薬すら手に入らない~補給が滞っていては、もはやまともな応戦すらおぼつくまい。
だが、この状況を目にしながら幹部は前線を死守せよとしか言わない。
ほとんど国から見捨てられたも同然である。
だが、重傷を負って担架に乗せられる仲間同士の合言葉は「またイタリアで逢おう」なのだ。

El Alamein001

敵は月夜の晩を狙って凄まじい攻撃を仕掛け圧倒してくる。
味方の兵は、情け容赦なく雨のように降り注ぐ爆弾になす術もなく薙倒され死んでゆく。
助かるかどうかは、塹壕にあって頭上にたまたま爆弾~砲弾が落ちて来るかという確率的な運によるもの。
これは対等の闘いではない。そして敵も味方ももはやない。

あるのはすでに勝負はついているのに引き下がれない立場に置かれた者たちの行き場を失った砂漠の流離という業である。
(ほとんど後ろ盾を失い、飢えと渇きと赤痢や怪我に苦しみながらも、指令だけは無線で届き、殲滅した部隊の替わりに勝ち目のない戦地に飛ばされる)。
敗走するにも物資に余裕のある独軍とは比べ物にはならない。今にも倒れそうなイタリア兵士を車で拾う姿勢もない。
怒りを何処に向けたらよいというのか、という感情も萎えて諦観すら感じられる。
音楽が彼らの内面を雄弁に表現していた。

El Alamein003

ふいに降り注ぐ雨が彼らの生にとっての天からの恵みであることがひしひしと共感できるものであった。
それから、水の補給に行ったとき、少し足を延ばして海に行き、みんなで童心に戻り海に飛び込んで燥ぐ姿にはこちらもホッとする。「終戦までここに隠れていましょうよ」というのは、あながち冗談でもないはず。
(戦争映画には、よく海辺に出て水浴する場面が出るが、何れも解放感ひとしほだ)。
だが、そこに現れた味方の兵士からそこは地雷原だ、ただちに離れろ!と声がかかる。
何処にあっても、気は抜けない。
悪夢の中での、ほんのひと時の楽園であった。

見張りをしていたセッタのところに駱駝が迷い込んできて、それを殺してみんなで栄養補給するほっとする場面もあったが、直ぐに曹長が英国軍の地雷原調査の囮であることを見抜く。セッタは自分のお手柄でみんなに御馳走を奢っている気分であったが、戦場にあって、やはりそんな甘い現実はない。即刻、警戒態勢に切り替わる。
どれも極めてリアリティがある。


だが、何と言うか、、、人物描写にやや平板な思いがする。
皆が余りに人格者なのだ。高潔な人ばかりだ。このような地獄巡りを経るとそうなるのか?
(司令部と非情な独軍以外だが)。
基本、入隊したての尊敬の念で軍人を見る学生セッタの目を通しての世界である為か。
軍医も退去せず野戦病院に「英国軍の兵士も診てやらんといかん」と言って残るところなど確かに高潔であるが。
妙に強くて不死身のヒーローめいた人間がいないのことには好感は持つ。
ザ・スクエア 思いやりの聖域」みたいな捻くれた映画を見た後、このような作品に接するとちょっと戸惑う。

全体にどれほど過酷で悲惨な戦場~砂漠であってもとても美しく見えてしまう。
(サンテグジュペリの「星の王子様」を思い浮かべてしまった)。
「美しくない悪臭を放つだけの死体に過ぎない」(セッタ)が、そんな場面でも綺麗に見えるのだ。
品格ある淡々と流れる砂漠の日々は、どこか黙示録か神話の世界を想わせる。

El Alamein002

この映画、何と言っても最後のくだりである。
英国軍の呼びかけでほとんどの退却するイタリア兵は投降し捕虜に甘んじたが、セッタたち3人は身を隠して逃避行する。
だが灼熱の砂漠を逃れる途上で、怪我を負った曹長は力尽き動けなくなる。
中尉は半ば潰れたトラックを何とか動かそうとするが無情にもエンジンはかからない。
その傍らで倒れていたバイクのエンジンを執念でかけることに成功したセッタ。
彼は中尉と曹長を乗せて砂漠を抜けようとするが、二人はそこに残ると言う。
セッタだけを行かせるのだ~生かそうとするのだ、、、この場面はいたたまれない。
「神に誓って車を見つけて戻ってきます!」と叫び、彼は後ろを何度も振り向きながら果てない砂漠を爆走して行く。

場面は現代に繋がる。
そこは、北アフリカ戦線の戦没者記念館である。
誰がその場に来ているのか?
年老いたセッタであろうか、、、

冷酷な程に綺麗な壁面に「無名兵士」“IGMOTO”と記されたプレートが何処までも続いてゆくところには絶句する。
この時に厳かに流れるグレゴリオ聖歌を思わせる曲が、それにとてもふさわしく感じられた、、、。




ヒンデンブルグ

The Hindenburg004

The Hindenburg
1975年
アメリカ

ロバート・ワイズ監督・製作
ネルソン・ギディング脚本
マイケル・M・ムーニー”The Hindenburg”原作
ロバート・サーティース撮影
デヴィッド・シャイア音楽
エドワード・C・カーファグノ美術

ジョージ・C・スコット 、、、フランツ・リッター大佐(ドイツ空軍)
アン・バンクロフト 、、、ウルスラ・フォン・リュージェン(伯爵夫人)
ウィリアム・アザートン 、、、カール・ベルト(一等系士、反ナチスレジスタンス)
ロイ・シネス 、、、マルティン・フォーゲル(船専属のカメラマン、ゲシュタポ)
チャールズ・ダーニング 、、、マックス・プルス(ヒンデンブルク号船長)
リチャード・ダイサート 、、、エルンスト・レーマン(ツェッペリン指揮官、ドイツ飛行船最高士官)
ギグ・ヤング 、、、エドワード・ダグラス(アメリカ大手広告代理店の重役)
ピーター・ドナット 、、、リード・チャニング(ブロードウェイの作曲家)
ジョアンナ・ムーア 、、、ベス・チャニング(リードの妻)
バージェス・メレディス 、、、エミリオ・パジェッタ(アールの友人)
ロバート・クラリー 、、、ジョセフ・スパ(曲芸師)
ルネ・オーベルジョノワ 、、、アール・ナピア(イギリス陸軍少佐)


BSで観た。
The Hindenburg003

ヒンデンブルグ号はわたしは思い入れがあり、自分の作品に何度も登場させている。
雲海に浮かぶヒンデンブルグは、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの絵画世界を想い起す悲壮な美しさに煌めいている。
ときに雲を裂いた光を浴びオレンジに輝くヒンデンブルグは、黙示録的な神々しさに染め上げられる。
そしてStエルモア現象も痺れる。ペンがずっとテーブルの上で立っているほど静かで快適な船内で、乗客は贅沢極まりない絶景を堪能する事が出来た。
巨大な姿は威圧感すら与えるが、飛行機にはかなわぬとは言え特急列車並みの速度も誇った。
フランクフルトからレイクハーストまで10往復、無事故で飛んでおり、飛行船の黄金期を築いた船である。

ヒンデンブルグものは、以前ドイツ映画「ヒンデンブルグ 第三帝国の陰謀」で観ていた。
これとはかなり異なるものである。やはり事故原因も解明されていない多くの謎に包まれた物語である分、フィクション~推理がかなり入って来る余地がある。制作側の思想が大きく反映されるところだ。

The Hindenburg005

1937年5月6日、米ニュージャージー州レイクハースト上空で、ナチスドイツの誇る巨大飛行船ヒンデンブルグ号が大爆発を起こした。
その原因は今日に至るまでまだ特定されていない(その事件を語る人間の立場によって原因は異なる)。
この映画では、人為爆破説がとられている。
乗船時のゲシュタポの厳しい身体検査は度を越しているように思えたが、ドイツの国力を誇示するプロパガンダの役目も担っていた巨大飛行船である。何より水素で浮かんでいるのだ。その危機管理に神経過敏になることは分かる。
アメリカのヘリウム独占の問題は大きい(水素より10倍も高値が設定されていた)。
霊媒師の女性が今度の飛行でヒンデンブルグが時限爆弾により爆発すると予言していたこともあり(これは本当なのか?)、ゲシュタポは警戒態勢を組みフランツ・リッター大佐とレーマン船長を搭乗させることにした。
大佐の見るところ、乗客は背景からして皆怪しい人物ばかりであり、彼ら自身も監視されていることを察知しており、船内に疑心暗鬼が深まってゆく。
それぞれの人間模様もグランドホテル形式で描かれる。
折角の美しい空の旅であるが(亡命目的であったりもするが)、子供以外には緊張感と閉塞感が充満してゆく。

早い段階で、リッター大佐はフォーゲルがゲシュタポでベルトが反体制の工作員であることを見抜く。
恋人のフリーダがゲシュタポに逮捕されたことを大佐から伝えられると、ベルト自ら時限爆弾をセットしたことを彼に激白する。
だが、人命を犠牲にするつもりはなく、乗員・乗客が降りた後にナチスのシンボルとしてのこの船を爆破する計画であることを明かす。その企てにリッター大佐も乗る。彼もナチスの政策にはついてゆけなくなっていたからだ。そして爆破時間を聞かれヒンデンブルグから人がいなくなる7時半を告げる。

The Hindenburg001


しかし、レイクハーストの天候状態は悪く、風雨の強さから着陸を控え上空に待機することを強いられた。
当然、爆破時間を遅らせなければならない。
だが肝心のベルトは、自分のナイフの柄に爆弾を仕込んでセットしたため他の乗員のナイフを盗んでいたことで疑いをかけられ、フォーゲルに拷問を受け最早動ける状態ではなかった。
代わりに装着された場所を聞き出した大佐が爆破時間を調整しようと爆弾に手をかけた瞬間、無情にも爆発が起きる。
轟音と共に一瞬にして船室全体が火に包まれ、乗員、乗客はパニックに落とされる。
船長やレーマン最高士官は最後まで船内に留まり乗客を逃がそうとするが、、、
水素に引火する凄まじい火災は、数十秒で夜の虚空に浮かぶ全長245mのヒンデンブルグをアルミニウムの残骸と化す。
船体の巨大さが際立つとともに、それを一瞬にして覆い尽くす燃焼の激しさに愕然とする。

The Hindenburg002


撮影セット、全景の模型との間に質感、色調も含め連続性が維持されていて全く不自然さがなかった。
これは最後まで見事で緊張感を絶たなかった。
ヒンデンブルグ号爆発事故の場面は生々しい白黒映像に切り替わり、当時の実際のフィルムが新たに撮影・作成されたフィルムのなかに溶け込むように編集されて使われている。
これには息を呑む。

壮絶な最期である。
乗員、乗客97人中35人と地上の作業員1名が死亡した。
リッター大佐とベルトも、レーマンも死亡している。
ヒンデンブルグのドイツのプロパガンダとしての役目は、全世界にこれが報道されることで潰える。
(結局、カール・ベルトたちの目的は果たせたと言ってよいものか。これより急速に飛行機の時代に突入する)。

あの実況アナウンサーであるハーブ・モリスンのアナウンスが最後に流される。
これ程短い間に、感情の激しい動揺によって事故の様相を雄弁に語ったものはあるまい。


再度、安全を確保したうえで、優雅な飛行船の旅など実現は無理だろうか。
速度ではなく、地上からでは見ようにも見れない絶景に触れつつ、宙に浮かぶ醍醐味を愉しむという、、、。


ザ・スクエア 思いやりの聖域

THE SQUARE004

THE SQUARE
2017年
スウェーデン、ドイツ、フランス、デンマーク

リューベン・オストルンド監督・脚本

クレス・バング、、、クリスティアン(チーフ・キュレーター)
エリザベス・モス、、、アン(女性記者)
ドミニク・ウェスト、、、ジュリアン
テリー・ノタリー、、、オレグ(サル人間のパフォーマー)


最初のインタビュアーとのたどたどしい間の悪い無駄の多いやり取りからして、これは一癖も二癖もある映画だなとは思った。
内容もほとんどないのにもう終わりというインタビューと人を食ったBGMといい、かなりの悪意を感じる。
「ザ・スクエア」とは地面を正方形の枠で区切った聖域であり、そこを人が出入りすることで意識の変容を図ろうというもの~作品と謂える。「関係性の美学」に触発されたものだという。
一種のインスタレーションか。


”The Square is a sanctuary of trust and caring. Within it we all share equal rights and obligations.”
が、何度もうたわれる。
主人公をはじめ、出てくる人々を見るに、皮肉にしか聞こえないが、これが主人公の美術館が導入(購入)した次回展示作「ザ・スクエア」の基本コンセプトである。
その作品の宣伝プロジェクトと主人公の気がかりを絡めた展開となってゆく。
「ザ・スクエアは、信頼と思いやりの聖域です。この中では誰もが平等の権利と義務を持ちます。」
すべての人が公平に扱われる場所なのだ。
キュレーターの主人公はそれをまともに信じて、皆に語っているのか、、、。
彼の日常生活~態度とはかけ離れている。

広告代理店は、今回の作品の呼び込みにおいて、問題提起は優れているが、内容があまりに普通過ぎて広告展開は難しいと説き、賛否両論ある議論を呼ぶものを考えると力説していたのだが、最終的に非難だけを浴びる代物を作ってしまうこととなる。
美術館側もふたりにインパクトのある斬新なアイデアを期待した結果であった。
会議中に、赤ん坊がいて泣いているが、それが普通の光景みたいだ。代理店の二人は気になっているようだったが。

絶えず話はノイズ~電話、動物の鳴き声、赤ん坊の泣き声、病んだ男のヤジ、その他の物音~に邪魔され中断する。
中断まで行かなくとも、それが会議、プレゼン、講演などの集中を著しく削ぐ。
映画全体に物乞いの「命に救いの手を、、、」とかのノイズが入る。色々な形で物乞いが物語を細々と切断してくる。
物乞いがこんなにたくさんいる街なのか、、、とも思う。
格差とエゴイズムの蔓延する空気は充分に描かれる。

彼は出勤の途中で、珍しく人助けをして、スリの女に財布と携帯を取られる。
助けて-という女の声に反応はしたが、それに対応しようとした男に頼まれ、はずみで協力したのだが、相手はプロだった。
GPS機能で盗まれたアパートは特定するが、各部屋に脅しの手紙をばら撒いた為、少年が親に疑われて傷付く。
少年が猛抗議に主人公宅まで押し掛けるが、彼はそれを冷たくあしらう。
しかしこの後の主人公がずっと浮足立ってキュレーターとしての仕事もどこか上の空みたいになるのは、これが原因となっている。

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それから意味不明のやり取りもある。
インタビュアーとの情交の後にコンドームの取り合いをムキになってする。
それがどういう意味を持つのかいまひとつ分からない。
その女性記者の部屋には巨大なサルがいて、絵を描いているようであった。
この際立った動物であるサルについてはまったく彼らの間で話題にもならない。
こんなものものしい存在がこんなところにいることに無頓着というのがまた不思議であった。
その後、女性の方が美術館内であなたはわたしのナンなのという類の話を大声でくどくどする。
主人公は、優柔不断にのらりくらりかわすのが精一杯。だがこほ噺は深追いされない(少なくとも映画では)。

更に、パーティーでサル人間(パフォーマーによる)が野生のサルになりきって暴れまわるというもの。
これがかなりの尺をとって見せられるが映画の客もこちらにとっても実に居心地の悪い辟易する場面である。
高慢ちきな客を揶揄するレベルを完全に逸してしまっているのだ。
ノイズと謂い、少年の抗議のしつこさ(主人公が原因だが)、この執拗な傍若無人なパフォーマンスもすべてこちらをイラつかせるに充分なものである。監督の狙い通りに。

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そして極めつけは、広告代理店が「ザ・スクエア」のプロモーションビデオを突然、ユーチューブにアップしてしまったことで巻き起こる波紋。勿論、大炎上である。
それは、スクエアに入った少女が最後にどうなるかはまだ決めかねていると言っていた最後のシーンが出来上がった結果であった。
物乞いの金髪少女がスクエアの中でばらばらに吹き飛ぶショッキングな映像なのだ。

美術館はそれを見た人たちやマスコミや宗教関係者から凄まじいパッシングを受ける。
その矢面に立った主人公だが、いかなる弁明も火に油を注ぐだけ。
彼も基本的には、わたしは知らなかった~部外者だと言う論調だ。
彼は責任を取らされキュレーター解雇となる。

THE SQUARE003


その後、二人の娘と共に、例の少年の住む貧困層のアパートに向かう。
自分のエゴイズムや差別意識に思いが及んだと謂えよう。
娘たちもそれを感じ取っている。これは彼女らにとっては良い勉強の場である。
少年を探そうとするが、住民によれば先ごろ彼の家族はそこを出て行ったという。
何処に引っ越したかは分らぬまま、、、気まずいままに終わる、、、。


ずっと居心地悪さを味わって、最後には解放されるかと僅かな期待もしたが、とてもリアルな結末で納得はした。




レキシ - SHIKIBUを聴いてしまって、、、

SHIKIBU001.png

この”レキシ - SHIKIBU”、ブロ友の”日々ゆらり。”のAuthorであるmuzi-qさんの紹介で初めて知った。

”SHIKIBU feat. 阿波の踊り子”というのが正式名なのか、、、。レキシのファーストシングルのMVだそうだ。
何となく聴き始めてから、今や中毒状態であり、わたしよりも長女の方が重篤である(苦。
「もう一回聴く」と言って、何度も聴いて(観て)いる。
わたしとしては、特に、、、

めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
     雲がくれにし 夜半(よは)の月かな~

、、、これが詠まれるところで戦慄を覚える。
やはりセンスである。異様に(不気味に)高揚して美しい。
サウンドに完全に融合し、古典的で神聖な雰囲気すら帯びる。
ここのところ、この歌を長女と一緒に唱えている。

ご存知の通り紫式部の歌で、天智天皇に始まる『百人一首』の57番にも付されている。
(折角逢えたのに、月がすぐに雲に隠れてしまうように去ってしまわれた)。

ひたすら京都の寺(建仁寺や知恩院や清水寺に木屋町通りあたり)を駆け抜ける紫式部に公家が追いすがるだけのシンプルで悪乗りのコミカルMVなのだが。紫式部のコスプレをしてタフに逃げ回るのが”レキシ”=池田 貴史という人らしい。
児童の登校の旗振りの保護者(先生か?)が笑っていたのが印象的。
歌も何ともキャッチ―でハイテンポのベースラインの効いたノリのよいサウンドだ。

こういう系統のものとしては、”水曜日のカンパネラ” の「桃太郎」など思いつくが。
「桃太郎」もmuzi-qさんの紹介で知って、中毒になった。何度繰り返し聴いた(観た)ことか、、、依存症か?

だがこのヴィデオの飛んだところは、MVの途中で「長篠の戦い?」が突然挟まれるところだ(レキシだからか?)
「武田、織田に派手に負けたな~」とか言っていたから多分そのはず。だがそっちはどうでもよく、馬のことばかり唄っていた(馬はいいよな~、パカパカいうしな~、みたいな?)。
飛んでもないシチュエーション~別の文脈が、突然割って入るのだ。
しかも曲の構想を練っている(ディスカッションの)こじんまりとした一場面?で、パーカッションに合わせてセリフを唄っているというような、、、もの。
この違和感がこれまた妙にしっくりして、更に面白いコラージュMVの世界を創りあげていると謂えるか。
これも「桃太郎」に引けを取らない「絶妙なナンセンス」である。

ともかく、くどくど述べても埒は明かない。
百聞は一見に如かずで、観てもらえれば、一発で納得であろう。
池田 貴史氏の走り方のバリエーションにも注目あれ。もう最後の方はエイリアンばりである。
(宮崎駿の「千と千尋の神隠し」の妖怪みたいでもある)。
兎も角、「しきしきぶ~ぶ~ しきぶ~ぶ~」で飛ばしまくる5分超のMVであった。

紫式部像前で出だしと同じ「ヘイ!」で終了するが、また出て来て、、、
ああ、よく走って疲れたわい、、、と鳥が飛んでゆく中を、ふたりで並んで帰って行く、舞台裏みたいな感じでフェイドアウト。

また、観たくなる(笑。






学校

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1993年
山田洋次 監督・脚本
冨田勲 音楽

西田敏行 、、、黒井先生(夜間中学教師)
新屋英子 、、、オモニ(在日韓国人、焼き肉店店主)
裕木奈江 、、、みどり(不登校)
竹下景子 、、、田島先生(英語教師)
萩原聖人 、、、カズ(清掃会社勤務)
翁華栄 、、、張(日・中のハーフ)
中江有里 、、、えり子(不登校)
田中邦衛 、、、イノさん(会社は皆勤賞、競馬・酒好き)
神戸浩 、、、修(イノさんの弟分)
渥美清 、、、八百屋の親父
大江千里 、、河合茂(若い医者)


徹夜で授業案練っていざ授業を行ってみたら、てんで話にならない、なんてことはよく分かる(笑。
イノさん流に言えば、出来レースに乗せるようなもの。
上手い共犯関係が生徒との間に成立すれば、何となくお互いに成就感も味わえようが、それは欺瞞に近い。
形だけ問われても、レールとその先の答えがはっきり決まっているものに対して、辛酸を舐めてきた者の感覚は鋭い。
鼻で笑ってしまうから、おおかた授業にならない。

大変な苦労人でとても人間味溢れる生徒で仲間でもあったイノさんが卒業式を待たずに亡くなった。
体を酷使し過ぎた結果であった。勤めも皆勤賞をもらって、夜間の勉強にも人一倍真面目に取り組んでいた人だ。
そのことを告げた臨時HRでの生徒と半ば自発的に生まれた授業こそ、結果的に生きた授業となっていた。
身近な存在の死を契機に発動した純粋な思考のぶつかり合い。
普段は物事を寧ろ深く考えないようにして生きて来たかのような面々が、真剣に生と死と幸せとは何かをめぐり、何らかの納得のいく答えを探ろうとする。納得したいのだ。そうしないといたたまれない。

生前イノさんは、この夜間中学に入れて幸せだと漏らしていたという。
主観的な価値観を重く見て、イノさんの想いを大切にしようという考えで収まるかと思ったら、それは自己欺瞞だという反論が出る。本当にそう信じていたのなら、それは余りに悲し過ぎる。客観的に見てみれば、イノさんはまるでぼろ雑巾じゃないか、、、と。
いい歳した親父が読み書きを覚えたくらいで喜んでるなんて、そんな人生のどこが幸せなんだ!
親しく長い時を共に過ごし、その人生~境遇の一端をよく知っているからこそ、それに憤慨することが出来る。
深い共感と愛情のうちで。そしてその結果、自分をも危うくする。
ここで自分の意見を重い口を開けて敢えて言うこと自体が自己解体を意味する。
不可避的に。
だがそれを指して勉強と謂うのではないか。

どこにも用意された答えなどない。
黒井も何の答えも持ってはいないし、持ちえない。
生徒と教師が真剣に頭に汗をかいて共に考える。
そして正解など出てこない。余計に迷う。だが考える前に迷った経験などないはずだ。
これは、社会の縮図だ。あらゆる共同体においても重なって来る。これが如何に規模が小さいものでも。

行き詰まって焦り、寄る辺なくなったカズに、なあどうする、と問われて、、、
えり子が、だから、、、学校で勉強するのよ、で締めくくる。
(わたしは、残念ながら学校で勉強した記憶はないが、、、)。

人にとって学校にいる時間は長い。それを無為に過ごす手はない。
このような創造的な授業も可能であるなら、学校の時間をフルに活かしたらどうだ。
そういう「場」を黒井は作って見せた。
とは言え、大事な教え子の「死」をもって、である。
このようなシチュエーションは通常望めない。
外部から無理やりテーマを拾ってきても、直接的な情報でなければ信憑性が薄く実感にも乏しい。
しかし一度でも真剣に本質を探ろうと考えたことのある人間ならそこに何かを見出すことは出来るだろう。
そして常に他者が身近にいる場である。本来的には他者を受容することで成り立つ場である。
(勿論、他者を拒絶し死に至らしめる虐めが横行している現在ではあるが)。
学校を出来る限り肯定的に見てその可能性を認めるのなら、学校という集合場所(タモリ)の価値はないとは言えない。
だが普通の全日制でそれにどれだけ迫る契機があるのか、とは言え夜間中学などのような形態に過剰な幻想~思い入れを持ち込むことも不合理に思える。現実は余りに複雑に深く病んでいるからだ。
余りに深く病んでいるから、、、。

えり子は高校~大学の教育学部に進み、黒井のように夜間中学の教師になることを決意する。
それはとても良いことだと思う。
彼女なら良い先生になるはずだし、救済される生徒もいるかも知れない。


この「学校」と同質の場所をわたしはWebやTVでも観ていたことに気づく。
とっかかりは乃木坂の卒業を巡ってである。
スター(選抜常連)の子の卒業に際してはそのお別れ会が華々しく行われる。
彼女らの達成感は大きいだろうし、卒業後の活躍も期待されているだろう。
ほぼずっとアンダーで過ごした子の卒業は知らぬ間に過ぎていたりする。
後で気づくようなことが多い。ファンの数も知れたものであろう。
先ごろその立場にいた子の自己対象化の果ての透徹した表現によるヴィデオを見て大変感動した。
もしかしたらこの子たちは、所謂学校などより、この真摯に自己表現を追及する集合体において遥かに多くの学びや気づきを得て来たのではないか。
非常にシビアな世界である。ヒエラルキーは厳然と存在する。それを常に突きつけられ、そのすべて受け容れたうえで自己解体を何度も経て来た過程を彼女らに感じる。ぼんやり幻想に浸って生きてはいられないのだ。
最早、本来的(理想的)「学校」はこういう場所にこそ成り立っているのかも知れない。
蛇足ながら、そう感じるものがあった、、、。





咲-Saki

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2017年
小沼雄一 監督
森ハヤシ 脚本
小林立 原作


浜辺美波、、、宮永咲(主将)
浅川梨奈、、、原村和
廣田あいか、、、片岡優希
古畑星夏、、、竹井久(キャプテン)
山田杏奈、、、染谷まこ
  以上、清澄高校
加村真美、、、福路美穂子(キャプテン)
樋口柚子、、、文堂星夏
星名美津紀、、、深堀純代
吉崎綾、、、吉留未春
武田玲奈、、、池田華菜(主将)
  以上、風越女子高校
岡本夏美、、、加治木ゆみ(キャプテン、主将)
あの、、、東横桃子
大西亜玖璃、、、蒲原智美
長澤茉里奈、、、妹尾佳織
山地まり、、、津山睦月
  以上、鶴賀学園
永尾まりや、、、龍門渕透華(キャプテン)
柴田杏花、、、国広一
小篠恵奈、、、井上純
金子理江、、、沢村智紀
菊地麻衣、、、天江衣(主将)
  以上、龍門渕学園


よくわからないが、感動的な映画であった(笑。
麻雀をする女子高生という、わたしにとって二重の意味で謎の映画である。
どちらもチンプンカンプンな為、VFXも含め神秘的ですらある。

麻雀がとても盛んな近未来、麻雀部で活躍する女子高生たちの奮闘を描いたもの。
ともかく、たくさんの個性的な女子高生キャストがゾロゾロ出てくるのだ。
キャストの役の作り込みも徒ならぬものがある。
最初のうちは誰が誰だか分からない。
(勿論、『君の膵臓をたべたい』の浜辺美波と『人狼ゲーム ラヴァーズ』の古畑星夏はよく知っているが、そして何より驚いたのは山田杏奈が『ミスミソウ』の彼女とは眼鏡と髪型で別人に見え、気づかなかったこと。やはりアクトレスとは大したもの)。
菊地麻衣はこの当時、12歳くらいなのか?一番キャラが立っている。
女優の年齢幅はかなりあったようだが、皆女子高生に見えた。
(天江衣は設定上、小さな華奢な子でなければいけなかったのだろう)。
原作の漫画はまったく知らない。

saki002.jpg


内容は全国戦出場権をかけた地方選決勝の大会のTV中継の場面とその裏(控室でのやり取り)のみである。
そこに来るまでの様子~エピソードは随時回想として差し挟まれながら展開してゆく。
であるから、それまでの流れを知らなくても(原作やTV番組を見ていなくても)、およその把握ができるようになっている。
この辺は上手い。展開も手堅い。各キャラの濃い人物像も判り易いエピソードで明かされてゆく。
孤独を抱えている少女が多く、日常的コミュニケーションを苦痛とする子が麻雀を通して意思の疎通を可能としているところは示唆に富む。
そのなかでもすでに伝説の存在である天江衣は極端な例で、麻雀にまさに自閉していた。
彼女は麻雀にしか自分の生きる場所がないのだ。
強烈なオーラを伴う圧縮したパワーで他を圧してくるところはオカルティックである(VFXも物々しい)。

咲の清澄高校チームだけでなく、各校の人間関係も描写が行き届いており感情移入も自然であった。
試合はかなり緊迫感があり、牌の動きにVFXをかけたり、何故か桜の花弁が舞ったりして演出は劇画的である。
ちょっと勿体ぶって鬱陶しいところはあったが。
分からなくても白熱の対戦が続き、意表を突く手が次々に繰り出されているらしいことは察しが付く(笑。
ただ、隻眼なのかと思ったら「目が開いた」、と勝負どころでは両目になるのか、何のタイミングでまた片目が閉じるのか、いま一つ分からない風越高校キャプテン福路美穂子と鶴賀学園の東横桃子の「ステルスモード」でどのように彼女が(差し手が)見えなくなるのか、気にかかるところなどはあった。


最終的には宮永咲が神憑り的な天江衣を倒し、清澄高校を全国戦へと導くが、それによって衣も麻雀から解放され、咲や自分のチームの友に心を開き、改めて自分の意思で麻雀に関われるようになる。
(彼女自身、自分を倒してくれる存在を待っていた。内心、解放と真の繋がりを求めていたのだ)。

そして咲の謂う「今を楽しく生きよう」へと共感して行く。
愛着に問題を抱えているような場合であっても、麻雀などを通してのこころの絆が生まれれば、きっと救済に繋がって行くのだと思う。

saki003.jpg


そしてやはり、浜辺美波が主演というところは大きい。
彼女の爽やかで凛とした存在感で、物語をきりっと締めている。
語ることが説得力を持つ。
もし主演が違う女優であったら、ここまでの稠密度と緊張感の維持は難しいのでは。

そして咲は別れた姉と逢うために決勝に闘志を燃やす。
(姉は衣に似た妖気を持ったプレイヤーらしい)。
続編はもうあるようだが、、、
これなら観てみたい。
キャストが変わっていたら観ない。

プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。

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