音楽を聴きたくなった。

かつて
ヴィバルディのヴァイオリン協奏曲を
バッハがチェンバロのためのそれに
編曲していましたけれど
メロディラインは、殆ど変わっていない
ですが言語がまったく異なっていて
そして
その違いが美し過ぎて。
音色とは
文字通り
音の色彩ですが
その感覚
その”響き”には
思想が内包されていると
気付いたのは
まさに
この”美しき違い”によってだったのです。
部分的に引用するつもりが、全部引用となってしまった。
『編曲者 バッハが教えてくれたこと』~エストリルのクリスマスローズより
わたしも以前から編曲の妙には酔いしれていた。
そんな機会は突然やって来る。
日曜美術館をぼんやり見ていたら、ヘンデルのフルートソナタをバイオリンに代えた演奏が流れて来て完全に感覚が音楽に集中してしまったり、、、。日常生活の中で偶然遭遇することがわたしの場合多い。
この美しいズレを愉しんではいたが、引用文にあるような洞察には至らなった。
意識的に原曲と編曲を比較して聴くという経験はしてこなかったと思う。
それに原曲と編曲の両方をよく知っていることは少ないと言える。
実際、編曲を原曲と思い込んで聴いて馴染んでいたりすることも少なくない。
印象派のピアノ曲はよく管弦楽に編曲されていて子供のころから聴いてはいた。
ドビュッシーの幾つもの曲、ラヴェル(特に「亡き王女のためのパヴァーヌ」)、サティも「ジムノペディ」がドビュッシーによって管弦楽に編曲されている、、、挙げればきりがないが、、、「美しき違い」を単に楽しんでいたような。
(特に印象派の音はとてもカラフルで流暢であり、、、)。
いま思うとわたしは、ほとんど音楽を分析的に聴いた経験がないようだ。
(分析というと語弊がある。この記事からすれば直覚的に洞察を得るであろうか)。
最近わたしも音楽の分析に興味をもち、「ビートルズの新しい解析のページ」にも度々お邪魔している。
(宇多田ヒカルの「初恋」の分析をいきなりお願いしてしまった)。
「メロディラインは、殆ど変わっていない
ですが言語がまったく異なっていて」
というところはとても共感できる。
本当にそうだと思う。
その言語~差異(響き)こそ、その音楽家の思想~身体性なのだ。
示唆に富んだ記事に触れ、思わず何か喋ってみたくなったのだが、それよりも音楽を聴きたくなる。
そんな気持ちに導かれるハッとする記事であった。
(いつもながら)。
