可能性としての文化

今日は長女と一緒に公園の並木道をたっぷり歩いた。
芝生にひっくり返って空を見た。
光っていた。
われわれは、奇跡的にとても親和的で共感的な関係が結べている。
これはとても貴重なことに思える。
他の様々な事態から推し量っても、、、。
理想世界としての創造を果たさずにはいられない人間は、基本的に愛着障害と呼ばれる人たちに圧倒的に多い。
最近知った「愛着障害」という概念の元に謂えば。
基本、彼らは現実に自分を安らかに繫ぎ止めるものがないために不可避的に自前で創るしかないのだ。
自分が安堵し安らげる場所=作品を。
(繫ぎ止めるものがないと謂うより、その過剰または欠如からくる異和、不全感や不安や不快感、怒りなどが動因となるが)。
その特殊で根源性(本質力)を湛えた生成物は実際、文化のコアな部分に浸透している。
ただし、それらの文化(美術、音楽等の文芸作品)を享受するのは、同様の「愛着障害」を持った人がほとんどかも知れない。
それではじめて、作品に共感でき感動も生まれるはず。
作品に共振し吸い込まれる契機が彼らにあるのだ。
同様の不全感~異和を抱えていなければ、その作品自体を見つけられないと思う。
そういうものだ。
文化を組み込む社会の総体は様々な人によって重層されるが、そこに逆投影した姿をそれぞれが認知している。
文化の襞のその部分を深く享受している人間は、おそらく「愛着障害」の人間ばかりかも知れない。
「愛着障害」という言葉は嫌いだが、その概念により本質的な支配力が明瞭になる。
それに対抗し解放を図るには、芸術(文芸)が最も有効なものだが、必然的に終わりがない、ともいえよう。
あくまで代用なのだ。
偉大な大作家の作品であろうと。
(大作家に如何に愛着障害者が多いことか、、、いやそうでない作家を探す方が困難であろう)。
人間という本質的不全。
(全体ではないという意味での)。
必然的に終わりなき戦いへと、、、引きずりこまれてゆく。