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GOMA28

Author:GOMA28
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ヴァイラス

Virus002.jpg

Virus
1999年
アメリカ

ジョン・ブルーノ監督
チャック・ファーラー、デニス・フェルドマン脚本
チャック・ファーラー原作・製作総指揮

ジェイミー・リー・カーティス 、、、ケリー・"キット"・フォスター
ウィリアム・ボールドウィン 、、、スティーブ・ベイカー
ジョアンナ・パクラ 、、、ナディア(ロシア船乗組員)
ドナルド・サザーランド  、、、ロバート・エバートン船長
マーシャル・ベル  、、、J・W・ウッズJr.
シャーマン・オーガスタス 、、、リッチー・メイソン
クリフ・カーティス  、、、ヒコ
ジュリオ・オスカー・メチョソ 、、、スクィーキー
   ナディア以外は全てロバート・エバートン船長の船の乗組員


これまた荒唐無稽なお話しである。
「電磁波生命体」というのが出てくる。
”Virus”はその謎の生命体の人類に対する呼び名である。コンピュータを介して対話が可能であった。
彼らはミールを介してロシアの衛星探査船に飛び込んだ。すぐさまコンピュータに侵入し地球人のことを学習してしまう。
その結果、地球人はウイルスとして殲滅すべきという結論が出たようだ(よくある話だが)。
物質的な身体を持たないため、その場にあるモノを何でも材料にしてロボット工場みたいに奇怪な身体を作り上げてしまう。
電気があれば何でもできるため、他の船や軍事衛星や環太平洋ケーブルにアクセスを許せば一気に人類が滅ぼされることが予想される。
それをたまたまその船を発見して乗り込んでしまったエバートン船長一行が、それぞれの魂胆を持ちながらエイリアンに向き合い、壮絶な闘いに及んでゆく。内容的にはサバイバル映画と謂えよう。

Virus003.jpeg

サイエンス・ファンタジーはどんな突飛なものでもそれを前提と出来る強みがある。
それにしても高度な知性をもった電磁波生命体である?!
で、あのような名状し難い寄せ集めモンスターの形をとるらしい、、、。目はやはりカメラレンズなのか。
ここがどうも人間(地球人)的な身体性に重なり、しっくりしなかった。
どれほど突飛な設定であっても構わないが、ディテールをしっかり構築しないと、このような噺はついてゆけなくなるものだ。

Virus001.jpg


ここでは、葛藤する人間同士の軋轢や裏切り、協調などのドラマと冷酷な電磁波生命体の怖さ残忍さに、人の死体のエグさ加減で勢いよく乗り切ってしまう。展開も早い。暗闇に蠢くメカ・エイリアンは充分に不気味であった。
ともかく、怖がらせようというところで、しっかり怖がれる。スプラッタームービー的な煽りと怖さが大きい。
各キャラクターもその人格面と個性が濃厚に描かれ、噺に厚みが出ていた。
ドナルド・サザーランドの船長がこれでもか、というほど憎たらしく描かれていたが、威勢よく敵の手先に寝返った~改造されたかと思うとかなり呆気なくやられてしまう。お気に入りの役者だけにちょっと情けない。

Virus004.png

しかし、いくら何でも折角馴染んできた味のあるキャラを片っ端から殺し過ぎである。
何でこの人まで殺されるのかというギリギリのところまでメンバーが死んでゆく。
せめてロシア船ただ一人の生き残りであるナディアくらい生かせておけない内容なのか?
結局最後に残るのはケリーとスティーブの二人だけである。
(主役的な雰囲気を持った存在はナディアであったのだが)。
Virus005.jpg

敵は何故かロシア船内でロボット工場を運営し始め、侵略の準備を進めているようであった。
それを阻止するため立ちはだかるケリーたちは、外部には一切連絡せず、この船を爆破して連中をここで食い止めようと捨て身の作戦に出る。だが隠して装着しておいた爆弾も見つけられてしまう。
完全に分の悪い闘いであったが、リッチー・メイソンの最後に仕掛けたトラップにより、二人の脱出ポッドの発射と共に、もう一つの(リッチーだけが知っている)爆弾が破裂することになった。

これで、人類が辛うじて助かるというトリッキーでスリリングな解決であった。
(ホントにそれが消滅したかどうかは知らんぞ)。
最後にも蛇足的に怖がらせる映画のトラップがあったりして、監督の思惑は成功しているのでは、と思う。
パニック・サバイバル映画としてはよく出来たものだ。


とは言え、われわれの体を一秒間に数百兆個も通り抜けてゆくニュートリノを考えると、そのような微細な粒子が何らかの影響をわれわれに及ぼさないことの方が不思議と謂えるかも知れない。
宇宙からは常に何かがやって来ているのだ。
いやわれわれの身体も超新星爆発などで生成された(吹き飛んだ)元素を元に形成されている。
レイ・ブラッドベリ的な感性は大切にしたい。





音楽を聴きたくなった。

piano001.jpg

かつて
ヴィバルディのヴァイオリン協奏曲を
バッハがチェンバロのためのそれに
編曲していましたけれど

メロディラインは、殆ど変わっていない
ですが言語がまったく異なっていて

そして
その違いが美し過ぎて。


音色とは
文字通り
音の色彩ですが

その感覚

その”響き”には
思想が内包されていると
気付いたのは

まさに
この”美しき違い”によってだったのです。



部分的に引用するつもりが、全部引用となってしまった。
『編曲者 バッハが教えてくれたこと』~エストリルのクリスマスローズより

わたしも以前から編曲の妙には酔いしれていた。
そんな機会は突然やって来る。
日曜美術館をぼんやり見ていたら、ヘンデルのフルートソナタをバイオリンに代えた演奏が流れて来て完全に感覚が音楽に集中してしまったり、、、。日常生活の中で偶然遭遇することがわたしの場合多い。

この美しいズレを愉しんではいたが、引用文にあるような洞察には至らなった。
意識的に原曲と編曲を比較して聴くという経験はしてこなかったと思う。
それに原曲と編曲の両方をよく知っていることは少ないと言える。
実際、編曲を原曲と思い込んで聴いて馴染んでいたりすることも少なくない。

印象派のピアノ曲はよく管弦楽に編曲されていて子供のころから聴いてはいた。
ドビュッシーの幾つもの曲、ラヴェル(特に「亡き王女のためのパヴァーヌ」)、サティも「ジムノペディ」がドビュッシーによって管弦楽に編曲されている、、、挙げればきりがないが、、、「美しき違い」を単に楽しんでいたような。
(特に印象派の音はとてもカラフルで流暢であり、、、)。
いま思うとわたしは、ほとんど音楽を分析的に聴いた経験がないようだ。
(分析というと語弊がある。この記事からすれば直覚的に洞察を得るであろうか)。

最近わたしも音楽の分析に興味をもち、「ビートルズの新しい解析のページ」にも度々お邪魔している。
(宇多田ヒカルの「初恋」の分析をいきなりお願いしてしまった)。


「メロディラインは、殆ど変わっていない
ですが言語がまったく異なっていて」
というところはとても共感できる。
本当にそうだと思う。
その言語~差異(響き)こそ、その音楽家の思想~身体性なのだ。

示唆に富んだ記事に触れ、思わず何か喋ってみたくなったのだが、それよりも音楽を聴きたくなる。
そんな気持ちに導かれるハッとする記事であった。
(いつもながら)。

piano.jpg


リディバイダー

Kill Switch002

Kill Switch
2017年
アメリカ、オランダ

ティム・スミット監督・製作
チャーリー・キンディンガー、オミッド・ノーシン脚本

ダン・スティーヴンス 、、、ウィル
ベレニス・マルロー 、、、アビゲイル
ティゴ・ヘルナント 、、、マイケル
チャリティー・ウェイクフィールド 、、、ミア


蔦屋で新作コーナーを眺めていたら、「こういうアイデアがあったとは!」という専門家(わたしは知らないが)の驚きのコメントがあったので、どんなアイデアかと思い、試しに借りてみることにした。
ユーチューブで公開されたティム・スミット監督のショート・フィルムが原案となっているそうだ。
それも探して観てみたが、本作のエコーワールドのシーンと同じ感覚の映像形式であった。
FPS(ファーストパーソン・シューター)の演出である。
ゲームではシューティング・ゲーム等に顕著にみられるものだ。

つまりこの映画、こちらの世界は普通の(客観的な)映画撮りであるが、コピーされたエコーワールド(パラレル地球)の場面は、主人公のAR(拡張現実)の主観世界となる、、、のだがその主人公の主観がこちらの主観には到底重ならない。
(最近こういう演出の映画が多い)。

Kill Switch004Kill Switch003
ゲーム感覚を強調しガジェットも工夫されてはいるが、それによって画面に引き込まれるかというと微妙である。
強いて言えば、単に画面が揺れるだけの観難く落ち着かない絵にずっと付き合わされることとなる。
ほとんどがエコーワールドのシーンで時折、元の地球のシーンが回想の形で挿入されながら展開する。
二種類の演出である。エコーワールドにあってはイケメン俳優のダン・スティーヴンスの顔はおろか姿も一切映されない。
全体としては観難さがずっと気にかかる。酔う人もいるかも知れない。

物語は、地球がエネルギーの枯渇に瀕し、コピーした地球~無機物のみのエコーワールドからエネルギーを搾取して問題を解決しようというもの。新たにエネルギーを宇宙に探しに出るとか、新しいエネルギーの開発ではなく、コピー世界から吸い上げるという発想なのだが、そのコピー世界の方にはエネルギー資源は潤沢に残っているのか?
ともあれシンボリックな巨大なタワーからシステムを作動させてみると、元の世界の物体が忽然と消滅する現象が頻出する。エネルギー会社は慌てて原因を調べるが、コピー世界からエネルギーを奪うと、元世界の同等の質量が奪われているらしい。つまり両者はプラスマイナスゼロの関係にあったのだ。エコーワールドではエネルギーを吸い取られた分、空から客船や飛行機や電車が落ちてきたりする。何とも、、、(絶句。

Kill Switch005

エネルギー会社に勤める元NASAのパイロットのウィルはこの異常(緊急)事態を収拾するためエコーワールドに単身赴きタワーに黒い箱を設置する任務を多大な報酬もあり引き受ける。
ただしその箱のことやその作業が何を意味するのかは機密事項として知らされない。

エコーワールドは、すべての文字が左右逆転している。しかも驚いたことに生物はコピーされないはずなのに、コピーワールドにも元世界の人々がしっかりコピーされており、そこには反乱が起きていてドローン戦闘機が人々を狩っていた。
死体が累々と横たわっている荒涼とした異様な世界なのだ。
ウィルはドローン機に幾度となく攻撃され怪我を負いながらも任務遂行のためタワーに近づいてゆく。
この行程での様々な戦闘シーンがゲームそのもののように展開し、斬新なアイデアであると謳われているようだ。

後半、主人公が渡された黒いボックスは、システムに不具合が見られたときに片方(コピー側)を消滅させて地球を防衛するリセット(爆破)装置であったことをエコーワールド側の主任から聞かされる(こちらにも同僚や仲間がいるのだが、彼らは反乱軍に加わっている。彼らは自分たちの世界を守ろうとする)。
どちらの世界の荒廃も進み異常現象も凄まじさを増し、両方の壊滅も近づく。
彼は片道切符の特攻隊員に過ぎなかった。人類のためと言われ名誉をもって引き受けたがハメられたに等しい。
それに気づいても現状を見ればもうこれを止める以外にないことが明白であり、彼は身を顧みずボックスを設置して起動ボタンを押す。
何の捻りもない恐ろしく単純な筋であり、どんでん返しも何もない。
どのキャラもほとんど身体性を感じない。誰もがコマみたいに動いていた。

コントローラーを持っていないだけの戦闘ゲームの感覚というのか?
しかしそれでは面白さも何もなかろう。
ゲームも登場人物にそれなりの感情移入が出来ないと夢中になれない。
ゲーマーの次女はその点を強調している。恐らくそうだと思う。
このストーリーとても薄く人物にも肩入れできないのだ。
ペラペラで身体性のないところに主観世界を押し付けられては揺れに酔うくらいがおちだ。
そもそも映画でゲーム感覚を味わう意味があるのか?
である。

世界観も映像演出もどちらも楽しめるものではなかった。

パシフィック・リム: アップライジング

Uprising001.jpg

Pacific Rim: Uprising
2018年
アメリカ

スティーヴン・S・デナイト監督
ギレルモ・デル・トロは製作にまわる。


ジョン・ボイエガ 、、、ジェイク・ペントコスト
スコット・イーストウッド 、、、ネイト・ランバート
ケイリー・スピーニー 、、、アマーラ・ナマーニ
菊地凛子 、、、森マコ
ジン・ティエン 、、、リーウェン・シャオ
バーン・ゴーマン 、、、ハーマン・ゴットリーブ博士
アドリア・アルホナ 、、、ジュールス・レジェス
チャーリー・デイ 、、、ニュートン・ガイズラー博士
マックス・チャン 、、、チュアン司令官


大傑作”パシフィック・リム”の続編。
だが、監督が違う。
ギレルモ・デル・トロ監督の"パシフィック・リム"はリドリー・スコット監督の”エイリアン”に比較出来る荘厳さ、神々しさがあった。
しかし同じイェーガーが登場し、ストーリー上もしっかり引き継いでいるのだが、こちらは似て非なるものなのだ。
日曜日の午前にやってる戦隊もののゴージャス版に思えてくる。

やはりこうなってしまうか、、、。
何と言うか、「場所」が違うのだ。
"パシフィック・リム"世界特有の時空~重力が創出されていない。
そんな印象が最後まで続いた。


前回、この戦いに終止符を打った英雄ペントコスト司令官の実子ジェイクのノリが、お子様戦隊のテンションなのである。
この芸風ウィル・スミスの流れか(悪いとかいうものではない)。
二人の博士と共に前回から出ている森マコは前半であっさり死んでしまう。
優秀なパイロットから今は環太平洋防衛軍の事務総長になっているのに、もう少し活躍の場が欲しい。
ジェイクをジプシー・アベンジャーのパイロットにし、教官として奮起させるための存在~役割にとどまった。

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”パシフィック・リム:”では、夜の海上での闘いなど幻想的ですらあるどこか神話を想わせるシーンで占められていた。
単に夜(の海)が巨大ロボットとカイジュウの闘う場として効果的という小手先のものではなく、監督の世界観~仮想空間にどっぷり漬かれる場として結果的にあのような空間も導き出されたのだろう。
今回は真昼の闘いである。真昼というだけでなく、眩しく煌めく氷上の闘いなど特筆もののシーンもあるが、市街地であんな巨体同士が相見えるところは、日本の子供は既視感いっぱいであるに違いない。
動きの方は大変機敏で「戦隊もの」など寄せ付けないクオリティとはいえ、逆に軽さが気になる。
初めてのハリウッド版ゴジラを観て誰もが椅子から転げ落ちた時ほどではないとは言え。
(その後のギャレス・エドワーズ監督の荘厳なゴジラには敬服したこと、付け加えておきたい)。

だいたい孤児の女の子が最新鋭工場設備のないところで、独りでイェーガーのスクラップ集めて”スクラッパー”を手作りしてしまうって、それはないでしょ。しかもそれをいつの間にか(ホントに短時間に)リーウェンが遠隔操作の無人機に改造して最後の最後にここぞというときに主人公たちを救うとくる。余りに出来過ぎの噺の一つであるが、そういうところは全体に少なくない。

とはいえレア・アースを求めるメガ・カイジュウと富士山で闘うシーンは度肝を抜く荒唐無稽な迫力のあるものであった。
(東京から富士山まであっという間に移動していたが)。
白昼の決闘でこれだけ魅せる力技は日本の怪獣映画にもなかなかないものだ。
森マコのラストメッセージで飛んだシベリアの氷河の果てでの敵イェーガーとの一騎打ちもかなり壮絶で美しいものであったが。

そうであっても、やはり「戦隊もの」のゴージャス版の感は拭えない。
新しい要素として、イェーガーに有機生命体が融合して敵対してくる点がある。
『新世紀エヴァンゲリオン』の内臓的なドロッとした味付けに感じられるものだ。だが、その辺の描写もあっさりしている。
ディテールの追及が足りない。
キャストの背景のドラマが余りにありきたりというのもどんなものか。

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今回の映画は中国資本によって漸く製作のめどがついたというが、中国企業シャオ産業の開発した「ドローン・イェーガー」という優れた無人イェーガーが配備される流れとなっている。その企業のCEOはリーウェン・シャオであり、かなり際立つ存在として活躍する。
(ここのところ中国スポンサーに気を配るハリウッド映画が増えてきている)。
ハーマン、ニュートン両博士は相変わらずコミカルで良い味は出しているが、今回はニュートンの精神に干渉してきたプリカーサーに洗脳された彼が死んだカイジュウの細胞の培養を図り、イェーガーに融合させることを極秘に行っていた。「ドローン・イェーガー」もその餌食にされた。驚いたのは、リーウェンである。自分の会社が疑われたのだ。だが、あっさりその嫌疑も晴れてしまう。
その「暴動」「反乱」はニュートンが仕掛けていたものであったことがハーマンによって直ぐに暴かれる。ニュートンはシャオ産業の主任研究員であることを上手く利用して(意に反して)暗躍していたのだ。

だが、彼は操られているということで、ハーマン博士の配慮で生け捕りにされた。
縛られたニュートンに向かい「お前たちはもう地球に来なくていい。俺たちが行ってやる!」とジェイクが啖呵を切っていたが、続編の予告か?監督は誰がやるのか?ギレルモ、カムバック~!

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「相手がどんなに強くても、力を合わせれば必ず勝てる。俺たちはファミリーだ!」
そうなのか!

「ドリフト」や「ブレイン・ハンドシェイク」という操縦法~概念からして、すでに一心同体のチームプレイを前提にしているが。
”パシフィック・リム”では、気にならなかった(鼻につかなかった)。
何故だろうと考えるに、前作はもっと操縦が重々しくこれほどの自在性がなかったせいか、操縦そのものに視点が向いていたが、今回は余りに軽やか過ぎて操縦というよりも人間の動き~ジェスチャーそのものに目が向いてしまった結果か。
ふたりでシンクロして踊っている姿そのものが、ちょっと滑稽さをクローズアップしてしまう。
それらはみな、結果の一側面に過ぎぬものなのだが。

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カイジュウ大好き、、、。
(わたしも大好き(爆)。

マッチョでタフでお子ちゃまで凡庸な感じの”パシフィック・リム”であった。
しかしこれはこれでかなり楽しめた。
だが、わたしたちは前作を知っている。

世界観を物質的にどれだけ結晶化~場所化できるか、これが映画作りの本質かも知れない。
タルコフスキーをつい思い起こしてしまった。
(勿論、その他の名匠についても、、、ベルイマンとか、、、これはあげはじめたら一晩考えてしまう)。
この類の作品では「エイリアン」、「ブレードランナー」、「メッセージ」、「第9地区」、「 モンスターズ 地球外生命体」等々、、、

「場所」の引継ぎは、きっと不可能に近いものだと思う。
ブレードランナー2049」は奇跡的な例である。
(恐らくドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の手腕と言うより、持っている資質によるところが大きい)。



ミスミソウ

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2017年
内藤瑛亮 監督
押切蓮介 原作
唯野未歩子 脚本

山田杏奈、、、野咲春花(東京からの転校生)
清水尋也、、、相場晄(春花より前に東京から転校、彼女の味方)
大谷凜香、、、小黒妙子(学年のボス、最初は春花と)
大塚れな、、、佐山流美(春奈の前の虐めのターゲット)
中田青渚、、、渚橘吉絵(妙子の下で虐めを実行する女子3人組のひとり)
その他、悪質な虐めを行う男子3人

原作の漫画は知らない。


ある片田舎の中学3年生の物語である。もうすぐ卒業と進路を控えた雪の降り積もる冬である。
小黒妙子の野咲春花への秘められた恋愛感情が相場晄の介入によって傷つけられとことから、このような全的崩壊を齎す殺戮に展開・連鎖してゆくものなのか?
妙子が春花に怒りからそっぽを向く、というのは分かるが、例え嫌がらせめいたことをするに及んでもそこに取り巻きの加勢を許すだろうか?
お前ら関係ないだろ、にはならないのか?
やはりそれぞれ思惑もあり集まって来るものか。虐めの匂いにつられ。
虐めが娯楽~こころの隙間を埋める行為に短絡するか?そしてどこまでもエスカレートしてしまうものか?
集団心理でポゼッションに陥ってしまうことはカルト教団などに実際にみられる。
それに等しい状況と言えよう。

バックグラウンドに関してだが、気の利いたshopも娯楽もない土地に暮らすことが閉塞感を齎し鬱積してくるものだろうか?
(銃マニアのおデブがそんなこと言っていたが)。
わたしも一時期、田舎に住んだことがあるが、自然に恵まれ空気も美味く不足を感じたことがない。と言うより充足感をもっていた。
強烈に異質な外部(反転して欠如)を意識する事態があったり、抑圧・監視する何らかの力学により閉塞感を感じ鬱積するのか。
さぞかし村意識が強い土地なのではないか(そういう描写は無いが)とは思う。

東京に出たいという気持ちは、漠然とした解放~憧れの象徴としては分かる。
しかし現実として、パソコンがあれば大概のことはどうにか持っていけるものだ。
テレビにはない双方向性が前提としてあることは言うまでもない。
少なくとも最新情報に触れたり、SNS、ブログによる遠方との情報交換・コミュニティ作り、Netゲームや買い物など自由にできる。そのなかで都会の波長の合う同年代にしっかり繋がれば、実際に逢う等交流を深める機会だって出来るはず。
籠ってパソコンで日夜、何やらやっている子も出て来てもおかしくないと想うが、いなかった。
(よく目をぎらつかせて怪しげな会員制サイトを立ち上げて誘いをかけているオタクとか出てくるものだが)。
流美が憧れの妙子の似顔絵を描いていることくらい。これは素朴でよい雰囲気だがこの子がやるとやはり不気味。
後は武器オタクがふたり。これが虐めに絡むとかなり危険。他に趣味はないのか、、、。
ここは、偏りが何とも不思議なところ。

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さて、春花への酷い虐めがエスカレートし、父親は学校に抗議に行くが担任はまともに取り合わない。
担任も重度のトラウマを抱えた女性教員で虐めの問題を受け止められるような状況にはなかった。
しかも悪質な虐めグループの男子生徒から父は帰り際に暴行を受ける。
クラスでは、相場独りが春花を庇い、唯一こころの拠り所となっていた。
春花が登校を拒否すると、流美は再び虐めのターゲットに戻すと虐めグループに脅され、嫌なら春花を呼んで来いと命令される。
結局それが首尾良く行かなかったことで、流美は責任をとらされることになるが、春花をぶっ殺すと啖呵を切り、石油タンクをもって春花宅に虐めグループ全員を伴い脅しに行く。しかし脅しに終わらず、本当に火を付けて家を全焼させてしまう。その放火で春花の両親は焼死し妹も全身火傷の瀕死の重傷を負ってしまった。
父の転勤で飛んでもない土地に流されここで実質、孤児になってしまったかと思ったら、何故かこの地に祖父がいて彼に引き取られることになる(これは意外であった。こんなところに親族がいたのだ)。

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この大きな犯罪に対し何故か学校も警察も動かない。これが非常に解せない。
小さな田舎であってもこれはあり得ない。西部劇の無法地帯でもあるまいに。
この後、保護者が子供が家に戻ってこないと学校に詰め寄るところで、警官が事情を聴きに学校に来るが捜査をしている気配はない。ここはホントにどういう場所なのか?
保護者に吊るし上げられた担任が、たまらず雪空のもとに飛び出したところを雪上車に轢かれ呆気なくミンチとなる。


カタストロフに興奮して得意になっている虐めグループに対し春花の復讐が始まる。
ここでこの映画の肝であろうスプラッターシーンが相次ぐ。
次々に殺害容疑者を春花は殺傷してゆく。
まるで赤い血を鮮烈に染める為に雪白の地があるかのようだ。
振り切れている春花は、武器オタクの男子ふたりの待ち伏せ不意討ちにも怯まず冷静に対処して仕留める。
ボスの妙子に対しては、彼女の本心を察している為、これを許す。家の放火にも彼女は直接関わってはいなかった。

しかしいじめられっ子の流美に対しては隙があった。
春花は腹部を彼女に深く包丁で刺され致命傷を負う。
それを見た相場はすかさず流美を殴り、木の枝で刺し殺す。
だが更に、春花が自分と東京に行くことに同意しなかったことに逆上し、横たわる彼女を殴りまくる。
(ここに来るまでに彼は自分の祖母と彼女の祖父を殴り重傷を負わせている。それ以前にも両親を殴って母は亡くなっているらしい)。
彼もまた質の悪いサイコであった。
春花は武器オタクの持っていたクロスボウで相場を仕留める。
だが自分もその場に精魂尽きてしまう。

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真っ白い雪に、復讐のモードになった春花は真っ赤なコートを着ている。
彼らの相まみえる所、どこも白地が真っ赤に染まってゆく。
それに対し春花に詫びる妙子は真っ白な上下であった。
潔白の証明でもあるまいが、自分は春花に対しいまや真っ白であるという証のように受け取れる。
他に復讐され刺されて死んでゆく生徒たちは誰も黒が基調である。犯人の黒だ。
遊撃的に動き、妙子も春花も刺してしまう流美は黄色いジャンパーを着ていた。
一種のトリックスターか。
追い詰められ憧れの存在には幾ら尽くしても拒絶される、絶望に乱れ全ての破壊に向かう箍の外れたこころをよく表している。
(この全的崩壊劇の触媒は他ならぬ流美である)。


結局、この虐めの関係者はほとんど皆死んでしまい、卒業式に出ることが出来たのは妙子独りであった。
流美から深手を負わされたように見えたが命は助かったのだ。
最後に教室に戻り、春花との想いを済んだ明るい窓辺に描く。
春花のことを記憶に留めているのは妙子独りと言うことになる。
考えてみればこれは恐ろしいことだ。

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壮絶だが、この手のスプラッターは人狼ゲームとかでも見慣れてしまっていて、特別どうというものではない。
然したる根拠もなく生死を賭けた闘いにどこまでも及んでしまう、、、。
これは、はっきりと人間の一面を現してはいる。
しかし虐めに対する救済という点では皆死んでしまっては元も子もない。
妙子に何が託されたというのか。
こういうことがないとは言えないレベルでの、リアリティはとてもあった。

雪のなかで、若い役者が健気に頑張っていた。
山田杏奈の眼の演技は印象的であり、凛々しい女優がまた出てきた。
浜辺美波もうかうかしていられない。

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The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ

The Beguiled001

The Beguiled
2017年
アメリカ

ソフィア・コッポラ監督・脚本・製作
トーマス・カリナン『ビガイルド 欲望のめざめ』原作

コリン・ファレル 、、、マクバニー伍長(北軍)
ニコール・キッドマン 、、、ミス・マーサ(学園長)
キルステン・ダンスト 、、、エドウィナ(教師)
エル・ファニング 、、、アリシア(生徒)
ウーナ・ローレンス 、、、エイミー(生徒)
アンガーリー・ライス 、、、ジェーン(生徒)
アディソン・リーケ 、、、マリー(生徒)
エマ・ハワード 、、、エミリー(生徒)


The Beguiled002

南部バージニア州1864年の設定。
森の中の絵になるお屋敷が女学園になっている。
そこには園長先生と教師と訳あって実家に帰れない生徒5人が静かに学園生活を送っている。
食料に困っている様子はなく、衣服も綺麗で音楽会には豪華な衣装でドレスアップもする。
雰囲気的にはお伽噺みたいなのだが、外は南北戦争の最中である。

牧歌的な環境の中にも緊張が走る。
エミリーが森にキノコ狩りに行くと、北軍の負傷兵に出逢う。伍長であった。
彼女は礼儀正しく自己紹介と相手の名前と位も確認する。この少女が園長に次いでしっかりしているのだ。
エミリーは学園の精神であるキリスト教の教えに従い、敵兵であっても傷を負った人間を救う為、肩を貸して男を何とか連れ帰る。
マーサ学園長の判断で、傷を治療し癒えるまで彼を学園に匿うことにする。
ここから物語が始まる。

The Beguiled003

女学園である為、異性~男が環境に入って来るだけで波風が立つ。
女性全員(あどけない女子も)が皆きちっとした身なりの上に自分なりのお洒落をする。
興味津々で気を惹きたいのだ。
特に生徒の中では年長であるアリシアはすでに怪しい魅力~オーラを放っている。
(実はこれが取り返しのつかない魔の誘いになった)。

この状況を脚の傷の痛みが引いて来るに従い、察知すると彼は早速、皆に気を持たせるような動きに出る。
礼儀正しく手当には感謝を示し、好感を持たせる。
庭仕事などをまだ脚が痛むのに進んでやって見せたりする。
マメでかなりのプレイボーイのようだ。

The Beguiled004

早速エドウィナに目を付け頻りに言い寄る。当然彼女は拒否するも内心、次第に惹かれてゆく。
一緒にここを出よう。君はもっと輝く人だ。自分の魅力に気づいていない。などと言って押してくる。
今の場所から超脱しようという欲望は誰もが持ちやすい。
現実逃避の一種である。

そこに異性が絡んでくると依存の心も芽生えて来る。
これは危険だ。
だがそこにいる女性たちは(まだ幼い女子さえも)浮足立っていた。
この脚を怪我した(ある意味、女性本能を擽る)伍長はその静かに安定していた共同体を搔き乱す触媒の作用を果たす。
学園の空間は、いつしか大変不安定でちょっとしたハプニングで保たれていた冗長性が一気に崩れ相転換する事態まで達していた。

The Beguiled005

そしてマクバニー伍長はある夜、約束していたエドウィナの部屋には行かず、怪しいオーラを振り撒いていたアリシアのベッドにいた。この予定調和を崩す欲に駆られた行動が文字通り死を招く。
それを知ったエドウィナは激怒し伍長と揉み合った際に誤って彼を階段から突き落としてしまう。
身から出た錆とは言え、治りかけていた脚を骨折してしまいもはや彼の脚は切断しか手はなくなる。
解剖学の書物を確認し切断~外科治療を敢行する園長は皆が敬意をもって従うに足る人物である。
どんな時にも気丈で冷静なマーサ園長は的確な判断でことを運び、聡明なエミリーはしっかり右腕となって働く。

だが壊疽で死ぬことから命を助けられたにも関わらず、脚の無くなったショックは大きく、伍長は荒れまくる。
おれが部屋に行かなかったからこんなことをしたんだろう、、、など見苦しく当たり散らす。
銃で威嚇し不信感の塊みたいになって荒れるが、元は自分の不貞であり、最初の夜に浮気をしたことが原因であろう。
(戦争による外傷経験と忽然と生じた楽園気分で精神的にも箍が外れていたかも知れない)。
だが、エドウィナは彼を本当に愛してしまっていたようで、銃を持って立て籠る彼の部屋に行き、二人は結ばれる。

The Beguiled007

ここで落ち着きと平静を取り戻したマクバニーは皆に非礼を深く詫び、その埋め合わせをしたいと、当初のような態度を示す。
だが、彼の所にエドウィナが独りで赴いている時に、残された女たちで伍長の処分が話し合われていた。
女性の情念が窺えるところでもある。
その結果、園長は神に祈りを捧げ、エミリーにそっと森で毒キノコを採って来ることを命じ、彼女はしっかりそれを果たす。
キノコに始まりキノコに終わる、このどこを切っても絵のように美しい物語は、やはりどことなくお伽噺にも想える。
みんなが正装をして、とても豪華な食事と音楽で伍長の送別会を開く。彼もご機嫌である。
そして好物のキノコ料理をこれは絶品だといって平らげたところで、彼は息が出来ないと苦しみ倒れ、絶命する。
この計画を知らなかったエドウィナ独りが呆然とするが、逆らえない強固な共同意識が周りの女たちに窺える。
最後のエドウィナの諦観の眼差しが印象的であった。

女性監督ならではの作品に思えた。



ヴァレリアン 千の惑星の救世主

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Valerian and the City of a Thousand Planets
2017
フランス・中国・アメリカ合衆国・アラブ首長国連邦・ドイツ

リュック・ベッソン監督・脚本・製作
ピエール・クリスタン、ジャン=クロード・メジエール『ヴァレリアンとローレリーヌ』原作

デイン・デハーン 、、、ヴァレリアン
カーラ・デルヴィーニュ 、、、ローレリーヌ
クライヴ・オーウェン 、、、フィリット司令官
リアーナ 、、、バブル
イーサン・ホーク 、、、客引きジョリー
ハービー・ハンコック 、、、国防長官
クリス・ウー 、、、ネザ軍曹
サム・スプルエル 、、、オクト=バー将軍
ルトガー・ハウアー 、、、世界連邦大統領


如何にもリュック・ベッソンという作品。

28世紀の飛んでもなく巨大なアルファ宇宙ステーションが舞台。
こんなに宇宙人がたくさんいて、そこで共存が保たれているというファンタジー。
様々な異星人の代表と地球人の首脳が握手するたびに、アルファ宇宙ステーションが巨大化して行く。
なかなか楽しい光景が広がる、そんななかで、、、
宇宙連邦捜査官のヴァレリアンとローレリーヌはコンビで銀河の平和を守る任務にあたっている。
何とも判り易くもアバウトな仕事だ。
そのせいか、ずっとヴァレリアンはローレリーヌを口説いている。
所謂、チャラ男というやつだ。
銀河の平和を守るって結構、楽しいお気楽な仕事のようだ。
かつての宇宙戦争で無関係の惑星破壊による住民の虐殺・壊滅とその情報の隠蔽・改竄などの陰謀を軸に動いてゆくのだが、、、。この権力構造~上層部の巨悪の策謀そのものはよくある構図だが。

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スペース・オペラ・コメディという感じの極彩色のゴージャスで荒唐無稽な流れであった。
ある意味、リュック・ベッソンの独壇場かも。
特にパール星人の造形は美しくて素晴らしい。
その惑星の突き抜けたパステルカラーに煌めくビーチには惹かれた。
パールもザクザクあって、楽園というより天国みたいな光景である。
こんなビーチを歩きたい(笑。

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それからクリーチャー、異星人それぞれのフィギュアがカワイらしいものばかりであった(グロカワも含め)。
最新鋭のVFXあってこその光景である。
ガジェットも含めアイデアも豊富であり、ディテールまで楽しく工夫されている。
更にバブルの踊りもリュック・ベッソン映画のお約束であり見せ場の一つだ。
ヴァレリアンがお客としてニンマリしているだけであった。やはり気楽な稼業である。
ローレリーヌの方は正義感に燃える愛ある気の強い戦士という感じか。
(ちょっとエル・ファニング似の凛とした美女である)。

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謂わば、主人公カップルが超巨大ステーション内のたくさんの異星人のカラフルワールドをアトラクション的に巡りお互いの絆を深めてゆく御話である部分は大きい。
高校生の文化祭的な香りも漂う。
何か疼くような郷愁に染められた愉しさだ。

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しかしわたしが一番印象に残ったのは、パール星人の姫が地球軍の戦いに巻き込まれ絶命する際に放った念波が時空を隔てたヴァレリアンに衝撃的に受け取られるところである。彼はその後もずっとそれを身体記憶としてとどめ、想い起している。
これは大変切なくもあり本質的な力~関係であると思う。
こうした繋がりはわたしもしっかり押さえておきたい。

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頭を空にして思い切りゴージャスな映像に浸りたいというときにうってつけの映画である。
とは言え、感性に訴える質量はかなりのものだ。
お薦め映画である。


アイアン・ジャイアント

The Iron Giant002

The Iron Giant
2000年
アメリカ

ブラッド・バード監督
ティム・マッカンリーズ脚本

ホーガース・ヒューズ(スーパーマンの好きな少年)
アイアン・ジャイアント(宇宙から飛来したロボット)
アニー・ヒューズ(ホーガースの母、シングルマザー)
ディーン・マッコーピン(芸術家、スクラップ場オーナー)
ケント・マンズリー(政府捜査官)


如何にもアメリカのアニメーションであったが(いやアメリカアニメであったからこそ)感動した。
1957年のメイン州が舞台。

1957年ソビエト連邦からスプートニク1号が打ち上げられた。
その影響は当時のアメリカにとって大きい。
ある意味、その脅威が無意識的にもアメリカ全土を覆っていたかも知れない。

ケントのように空からやって来るものは全てソ連の兵器みたいに感じてしまう感性もあったと思う。
そして主人公アイアン・ジャイアントは自分が何者で何処から来たのか、地球に何しに来たのか知らない。
なんだ、わたしと同じじゃないか(笑。
ホーガース少年がジャイアントに言う。「自分のなりたい自分になれ」
ジャイアントはそうすることで自らを犠牲にしてその街の住民の命を救う。
少年の好きなスーパーマンになったのだ。

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CGなのに手描き風の絵がちょっとレトロでジャイアントのかわいらしさ、親しみやすさを増している。
ジャイアントそのものの造形も面白い。
ひょうきんな鉄人28号みたいなのだ。鉄を食料にしていてあちこちをかじり散らす。赤ん坊のような食い方だ。
ちょいとおっちょこちょいだし、いい加減なロボットかと思うと、戦闘モードになったときの重装備が半端ではなく驚かされる。
これはどこかの高度な武力をもつ異星人の送り込んだ戦闘ロボットなのだと想わせるものである。
だが、このロボットは基本的に平和を望むプログラミングがなされているようで、それは防衛体勢時のもののようだ。
最初に出逢った少年からベースとなる基本情報を得ていた。
それより深い目的的行動プログラムはどうやらなさそうである。

つまりこのロボット、幼児に等しい状態で現れたのだ。
そして驚異的なのは、その自己修復機能である。
どうやらどんな痛手を被っても回復してしまうのだ。
これは限りなく深い示唆でもある。

The Iron Giant001

基本的に、冷戦の齎す意識~無意識は、外部から侵入した他者は全て殲滅すべき敵なのだ。
であるから正体不明のロボット~理解しがたい他者は攻撃対象以外の何物でもない。

冷戦も終わりそういった意識構造はなくなったかと謂えば、更に個別的(分裂病的)に内面化し根深い排他性が行渡り遍在している。
いまも日常の平面で常に機能していることに変わりない。
それを自覚~対象化している人間はとても少ないことが分かる。

もっとも無自覚な意識を持つ政府のエージェント、ケント・マンズリーによって、ロボットに容赦ない軍部の攻撃がなされる。
ロボットは、それを全てかわしてしまう。
反撃は少年の気持ちを汲み禁じている。
恐怖に駆られてケントはロボットに向け原爆ミサイルの発射を促す。
ロボットはしかし、人々の住む(軍隊も集結した)街にいるのだ。
得体のしれぬ対象に対する恐れが如何に無思慮な短絡を呼ぶことか、、、。
原爆を使用すれば全的崩壊を促し、防空壕など意味をなさない。

それを冷静に判断するジャイアント。
少年もよくできたママもこころを決める。
原爆ミサイルに体当たりして、自分に対して害意と敵意を抱いていた者たちも含め少年たちの住む街を救ったジャイアントであったが、その部品~遺品の一つが軍部によって拾われ後日少年の元に届けられる。
芸術家であるディーンによりジャイアントの彫像が街に凛々しく飾られたが、、、、
その部品があるときアクティブになり、どこかに向けて動き出す。
少年の目が輝く。待ってるぞと、笑顔満面になる。

海上のロボットの頭部に向け散乱したパーツがあちこちから集まってゆくではないか。
明るい希望のうちに物語は終わる。

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何があっても、回復プロセスの現れる可能性はある。

間違いなく名作である。
子供たちに観てもらいたい。



センター・オブ・ジ・アース2 神秘の島

The Mysterious Island001

Journey 2: The Mysterious Island
2008年
アメリカ

ブラッド・ペイトン監督
マーク・ガン、ブライアン・ガン脚本

ドウェイン・ジョンソン 、、、ハンク・パーソンズ(ショーンの義父、元海兵隊員)
マイケル・ケイン 、、、アレキサンダー(ショーンの祖父、探検家)
ジョシュ・ハッチャーソン 、、、ショーン・アンダーソン(4年後17歳になる)
ヴァネッサ・ハジェンズ 、、、カイラニ(ガバチョの娘)
ルイス・ガスマン 、、、ガバチョ(旅行ガイド)


ジュール・ヴェルヌの『神秘の島』を元にしている。
全くセンターではないが、「センター・オブ・ジ・アース」の続編ではある。
ショーンのその後であり、ジュール・ヴェルヌ繋がりで、今度はおじいちゃんが出てくる。
前作より平凡であり、ご都合主義は限度を超えている。

娘たちが何やらどかどか遊んでいる間に、パソコンで見た。
落ち着いて見れなかったが(笑。
以前テレビから録っておいたものだ。
民法のCMカット版だ。
ちょっと話が飛んだなとか、筋には直接関係なくとも重要な光景が欠けてる場合が多い。
だが、このお話なら気にするレベルのことでもなさそうだった。

とても豪快~大雑把な噺だ。
今度は地図上にない島に行く。ベルヌの本にある“神秘の島”だ。
生き物のサイズが大小逆転した島というが、その関係性自体の面白さは描かれていない。たまたま小さな像がいたくらい。
小さめのものがやたらと大きいことだけが目立ち、差し詰め巨大生物の島みたいだった。
動きのよい、でかいトカゲとか蜂に飛び乗り大きな鳥と対戦を交えるところが印象的だ。
何故、いきなり乗った途端にあんなに蜂を自由自在に乗りこなせるのか分からないが(以心伝心か)、よくある空中戦バトルではある。

The Mysterious Island002

前作は舞台が地下で環境そのものに複雑な構造が見られたが、今回は到着してしまえば、沈む前の島であっても平地のジャングルであり、デンジャラスな生き物が出没するくらいなので、その点で面白味~見せ場の奥行きは少ない。
その分、人数も増えた人間関係にドラマ性を絡ませている。
祖父からの暗号無線を受けたショーンは義父のハンクと共に暗号を解読し「パラオ沖100マイル」の地点に赴く。
ツアーガイドの誰もが行く先を聞いて直ぐに断るが、ガバチョは提示された金額に目がくらみ娘の大学資金欲しさに引き受ける。
おんぼろヘリでその地点に着くなり嵐の中に墜落する。
気が着くと目当ての島の浜辺にいた。
巨大なトカゲに襲われるが絶体絶命のところを威勢のよいおじいちゃんに救われる。
といった流れで展開して行く。

The Mysterious Island004

島を探検するなか、ずっとおじいちゃんとハンクの仲はまずく、ショーンも何かとハンクとは対立する。
途中で金を噴出する火山に出逢い、ガバチョは一人でそれを拾いに行ったりする。
人間関係がぎくしゃくし通しで来るが、それが良い流れとなるきっかけが、ショーンが蜂から振り落とされ足を脱臼した際、気持ちを安らげるため、ハンクが弾き語りで唄った”What a Wonderful World”である。
わたしもこのシーンがなければ、ここに感想を書く気はしなかった。
これがとてもセンスが良く雰囲気が一気に和らぐ。そういうものだと思う。音楽の効用だ。
(「胸板ダンス」をすると女性に受けが良いなどとアホなマッチョみたいなことを言うが、暗号解読と音楽はなかなかのもの。確かにマッチョだが)。
この突拍子もない噺の中で、ここだけは共感が持てた(爆。

島の液状化が非常に速いペースで進んでいることが分かり、あちこち浸水する中を、ネモ船長が隠したノーチラス号を探し出し、それに乗って一刻も早く脱出を図ることになる。
潜水してやっとのことで船に入るが電力不足で出航できない。
そんな折り、近くを暴れていた大電気鰻?を利用する。
相変わらずのご都合主義でうまく切り抜ける。
金を取りに行って失敗して港に向かい、島の破片ごと海に投げ出されたガバチョと彼を探しに行ったカイラニとおじいちゃん一行も拾い、ノーチラス号で岩を魚雷で粉々に粉砕しながら脱出する。

The Mysterious Island003


そんなアホなといちいち思いつつも、のんびり楽しめてしまった。

周期的に島は浮き沈みを繰り返してきたというが、今回は粉々に崩壊したため、これが最後の姿であった。
ということだろう。

今回は、ショーンがカイラニと恋人同士になり、おじいちゃんとハンクも打ち解ける。
ガバチョに至っては、ノーチラス号を譲り受けガイドツアーで大儲けしている様子で、全てハッピーエンドである。

The Mysterious Island005


最後にショーンの誕生日を祝いにおじいちゃんが訪れ、「月世界旅行」の本をプレゼントする。
、、、微妙である。
この線でまだやる気なのか?





おせっかい

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ピンク・フロイドのアルバムではない。
(”echos”また聴きたくなった)。
今日も長女のお友達がやってきて、二度目だからわたしはいいかとは思っていたのだが、、、。
ゼルダ伝説を一時間ぶっ続けでやっているようだった。
目に悪いではないか、、、心配になり、お茶の会に切り替え、少し休んで談笑しなさいと、また介入した(爆。
ゼルダ伝説のゲスト・アカウントをその子の名前に変えた。
これでいつでも自分のゲームが出来る。

まさに「おせっかい」である。

暫くお茶~ジュースを飲んで、クッキーやら大福やらチョコ系のお菓子を幾つか、何故かプッチンプリンなども食べて、今度は次女(いつの間にか入っているのだ。ゲームをやる気配を感じるとテレポーテーションするらしい)の考えたオリジナルゲームで「スパイゲーム」というのをやりだした。実際に人が動くのである。氷鬼とかそういう遊びみたいに。
彼女はちゃんと律義に付き合ってくれるのである。
かなりの人格者と見た。

そのゲームがひと段落したところで、暫く娘たちも見ていなかった顕微鏡で動植物の細胞を見せた。
プレパラート作っておいてよかった。
「そら豆の芽」とか「水草の芽」や「竹の茎の断面」に「グミの厘毛」など喜んでくれた。「蚊の頭」は娘につまらないからと止められた。
絵を描くときなど参考になるよととは言ったがもっと見たい感じではなかった。
うちの娘ももう新鮮味は覚えないようだった。他の標本を作らねば。

それでは今度はとばかりに、まだうっすらと青い空に浮かぶ「半月」を天体望遠鏡でみんなで見た。
高倍率で部分的に見るより、全体をすっきりと低倍率で見た。
双眼鏡でも何とか見えるレベルで見たため然程の感動はなかったみたい。
でも青空の月は好きだ。

そのついでに、わたしのパソコン部屋にある”パタン・シーケンサー”と”フレーズ・シーケンサー”3台で音出しセッションをやってみた。編集管理用に繋いでおいたiMacが壊れて亡くなったので、音を試しに鳴らし合うだけであったが。
(娘たちがかつて作ったデータもオジャンであった)。
今日は音も機能もほんの僅かをいじっただけである。
そのうちやり方を教えて、その場でそれらしいハウスミュージックなどを作ってみたい。
どっちみちパソコンに繋がないとハードディスクレコーディング出来ないから環境を考えたい。
そこそこのスペックのものを一台設えよう。

全て触りだけであり、ゼルダと創作ゲームが面白かったようだ。
余計な介入をしてしまったかも知れない。
また来てくれるかどうか、少し心配になった(笑。

次女に聞くと「うん、また遊ぶよ」と言っていたので大丈夫だろう。
この辺の感覚は長女にはほとんどないので、聞いても分からない。
いずれにせよ、音遊びシステムだけ作っておいて、今度はわたしはゆっくり本でも読んでいよう。

明日は子供祭りで、次女が祭りの後、おともだちを複数連れて来るという。
これは籠っているつもりだ。
溜まった片付け仕事をやってしまおう。



センター・オブ・ジ・アース

Journey to the Center of the Earth004

Journey to the Center of the Earth
2008年
アメリカ

エリック・ブレヴィグ監督
マイケル・ウェイス、ジェニファー・フラケット、マーク・レヴィン脚本

ブレンダン・フレイザー、、、トレバー・アンダーソン(大学教授)
ジョシュ・ハッチャーソン、、、ショーン・アンダーソン(トレバーの甥)
アニタ・ブリエム、、、ハンナ・アスゲリソン(山岳ガイド、火山学者シグビョルン・アスゲリソンの娘)


「地震計」繋がりである。
表の世界は退屈でも地下~垂直的世界にはきっと何かが待っている、、、。

この映画は気に入ってしまった。
ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』の香しい雰囲気が立ち籠めている。
全体のアトラクション的構成も子供のいる家族での鑑賞に最適かも。
充分に愉しめるファンタジー映画だ。

Journey to the Center of the Earth001

大量のダイヤをショーンが採取したところは、羨ましい。
よく地底探検の映画では、ダイヤがしこたま見られる場面がある(巨大な塊など)。
だがここでは、採取し易いかたちとサイズで、さあ持っていけとばかりに散りばめられている。
やはりファンタジーだ(笑。
光る鳥がいてもよいとわたしもずっと思ってた。
この鳥はショーンにペットとして地上に持ち帰られたがどうだろう。
どうやらペットにはなりそうもない。
ショーンの物欲はなかなかのものだ。
(わたしもダイヤは必ず持ち帰る。他に自由に持ち帰れそうなところと謂えば、超新星爆発の際の重力波衝撃で生成される星間ダイヤモンドとか。何百光年先の宇宙空間よりは、まだ地底の方が拾える確率は高い?)


かつてジュール・ヴェルヌに触発され、地底世界の発見~探検に向かったきり消息を絶った兄の遺志を継ぎ、兄の息子と兄と親交のあった火山学者の娘と共に地震計の置かれたアイスランドの火山から地底探検へと赴く。

ある意味、こういった探検物のお約束の定石コースかも知れぬが、地下空間に次々に巻き起こるハプニングがスリリングで面白くて申し分ない。
どうしても出てくるのはトロッコシーンで、スリリングな動きの要素として欠かせないのだろうが、少年期の夢想を刺激する世界にとっても必需品であるかも知れない(わたしの友人のS君の絵にもよく出てくるアイテムだ)。
地盤が白雲母であったことに気づくところや間欠泉の出る川を筏で目指す冒険などこの映画ならではのシーンも際立ち、退屈はない。ショーンが切れたマストにつかまったまま強風で飛ばされてゆくところなど見せ場も多い。
マグマの活動により、この世界を脱出しなければならないタイムリミットもあり、緊張感も充分である。

Journey to the Center of the Earth003

だが同時に、地下世界は実に魅惑的で幻想画のように美しい。特にアーティスティックな湖と空である。
地上とは異なる自然が支配している。
巨大キノコの化石など大小の感覚も擽る。
恐ろしい食虫植物や獰猛なピラニアや恐竜などのデンジャラスなもの達もたくさんいて命からがら逃げ惑う。
特にギガノトサウルスは迫力満点であった。3Dで映画館で観たら相当なものであろう。

その間、しっかり父の亡骸との邂逅もあり、親子と支えてくれる身近な者との関係の深まりも描写される。
こういった映画では、(特にハリウッドでは父子関係の愛情は)なくてはならぬ要素でもあるし。
これだけ凝縮した時間を共に過ごしているのだ。
探検を通して絆が深まることは、納得できる。
トレバーとハンナの間に愛が芽生えることも最初から想定されているとはいえ、予定調和の着地点としてほっとさせられるものだ(笑。

しかし最後にマグネシウムの付着する岩を発火させて砕き、水を呼び込みマグマの熱で水蒸気にして舟ごと押し上げられベスビオ火山火口から飛び出るという脱出劇はいくら何でも荒唐無稽過ぎないか、、、笑うに笑えない終盤ではあった。

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親子で楽しむ映画としては最適な部類の映画である。
ジュール・ヴェルヌの香りが感じられて心地よい。




健康

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わたしにとって今一番のテーマは「健康」である。
自分を苛む「あやふやなもの」はなくなったところで、全てに的確な対応がとれる。
地図は明瞭になり見通しは明るい。
自分の作ったシステムに乗っかり愉しんでゆけばよい。

無自覚な「病」の連鎖は、はっきりと断ち切らねばならない。
引き継がれてしまった歴史は葬り去る。
わたしの場所で全て清算する。

まずは焼き潰す。


後には残さない。
特に娘たちには。


青い空だけ残る。

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トレーマーズ

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Tremors

1990年
アメリカ

ロン・アンダーウッド監督
ブレント・マドック、S・S・ウィルソン脚本

ケヴィン・ベーコン 、、、ヴァル(ヴァレンタイン)・マッキー(何でも屋)
フレッド・ウォード 、、、アール・バセット(何でも屋)
フィン・カーター 、、、ロンダ・ルベック(地震学研究の大学院生)
マイケル・グロス 、、、バート・ガマー(村人)
リーバ・マッキンタイア 、、、ヘザー・ガマー(村人)
ボビー・ジャコビー 、、、メルヴィン・プラグ(村人)
ヴィクター・ウォン 、、、ウォルター・チャン(村人)


よくあるSFクリーチャーものは夜や闇のなかでのショッキングな殺戮などが圧倒的に多いが、この映画は白昼のスリリングだがどことなく長閑な攻防がメインだ。
地下に住む怪獣だが、外連味なくしっかり姿を現す。
悪臭も凄いらしい(笑。

ネバダとはこんなに砂漠と荒涼とした荒野の広がるところなのか。
ここはそこにあって特に退屈で辺鄙な田舎町のようだが。
何もないところで獰猛な地底生物が突然、僅かしかいない住民を襲う。
まるで特設舞台にも感じられる。丁度ウルトラマンが戦うための人里離れた空き地(何とも都合のよい場所)みたいだ。
路を塞がれ電波も届かない状態のその閉ざされた場所で人間対怪物の一騎打ちが繰り広げられる。

凶暴で巨体なのに面白い。そしてユーモラスでもある。
アイデアと特殊効果が良い。
定石であるが、ちょっとずつ飛んでもない死に方の変死体を見せつつ興味と期待を煽り、ここぞとばかりに犯人の獰猛な姿を見せつける流れは鮮やか。
それにしても砂漠のなかから突然、巨大なナマコ(みたいなの)が出てくるのだ。
しかも振動計から複数の揺れが検出され、一頭倒したのに、まだ3つもいるというところも充分楽しませてくれる。

それは人が走るのより速く地中を移動し、人の音声や気配を感知し襲ってくる。
固い岩の上ならとりあえず安心ということで、岩から岩へ棒高跳びみたいにして移動するところなどとても和む。
口から蛇みたいな触手を幾つも出して探査するところも細かい設定~描写で何やらワクワクさせる。
学習能力があり、同じ手は食わない。
そのくせ、激突死や転落死で片が付いてしまう。ちょっと血の気が多いのか?
火器による徹底攻撃による根負けや爆弾を食っての爆死はありがちであったが。

最後の方はもうひと展開あるかと凝視して待ったが、主人公のヴァルとロンダのラブラブでほのぼのと終ってしまった。
この映画は主人公ふたりとヒロインの大学院生の性格の肉付け充分であるが、その他のガンマニアの夫婦などの登場メンバーもなかなかの個性で描かれていた。怪物も後から出てくるものほど頭が良くなる。
登場キャラに厚みがありノリは軽いが内容的に充実していて迫力と緊張感とニンマリもある。


久々に映画を観たいが、重いのは嫌だしつまらないものは御免だ、という向きに最適かも。
クリーチャーもののユーモアもタップリあるパニックアクションの佳作と言える。


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続きを読む

Epitaph ~ Sea Song ~ Grand Hotel

今は亡きグレッグ・レイクによる” Epitaph ”



クリムゾンの” Epitaph ”が少しスマートになっている。
音楽の歌詞に最初に共感した曲。


そしてロバート・ワイアットによる” Sea Song”



感性が溢出する。箍を外れて、すべてを覆い尽くすほどにひたすらそれは美しくてよいのだ。


絵とロックとコンピューターそしてカフカをはじめ何人かの作家がいなかったら、わたしはどうなっていたことか、、、。


最後に、わたしにとっての唯一のロックグループ、プロコル・ハルムの”グランドホテル”


ロビン・トロワーとマシュー・フィッシャーがいないが、彼らの最高傑作が生まれた。


病を完全にあっけらかんと対象化しきっている。
一分の隙もなく完璧な構築美によってぬけぬけと作品にしている。
わたしの方向性がはっきり見えた。



続きを読む

一言

blue sky

わたしの場所で絶つ。








リボーン Reborn 

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現在の状況を作っている原因が掴めると、まずは落ち着いた足場が与えられる。
それを的確なことばで顕わにできれば揺ぎ無い体勢がとれる。
繊細な作業となるが自分のなかで腑に落ちてゆけばよい。

しかしそれを元にした再生への具体的な対処方法を明確に打ち出せるかとなると問題がある。
この時、他者(第三者)の協力を不可欠とする場合、それを得る当てがないと何らかの代替存在が必要となる。
(たとえどれほど優れたAIをもってしても身体性がなければ意味はない)。
となると、自分しかない。
自分の中に自分の上位存在を出現させなければならない。
超自我を食い破ってもよい。
自分がかなり明瞭にふたりになるか。

新たな自分が親を引き受けることになる。
それ以外に、ない。

生まれ直す。

果たして人は自分独りで”Reborn”可能か。
この実験となる。
もっともまったく記憶にない時期についての情報~素材は、他から収集しなければならない。
出来る限り準備は整える。

そして
大きく変えてゆく。


人は生れて来たからには、健康に生きたい。


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長女の作品展受賞式

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長女の作品展受賞式に出る。
昨年も一昨年も人数制限などの理由でわたしは参加出来なかったため、今日は出る事は決めていた。
事前に知らせておけば主席に問題ない式である。しかも歩いて行ける距離なのだ。
滅多にないことで、出ないわけはない。

何故か受付より1時間半早く会場に行き、入選、入賞した全作品を見て回る。
わたしはギリギリで良いと思ったが、余裕を持って行ったため(家族に無理矢理連れてこられ)あちこち見て回れたのは、それはそれで良かった。

かなりダイナミックな作品があり、楽しめたものだ。
子供の作品は面白い。
制約がないほど面白い。
学年が上がる程、型が見えて来て上手い割に面白味は失せる。
だが全体に、やんちゃで無鉄砲な絵が多い。
元気になる。
癒される。
解放される。
こちらも無邪気に遠慮なく笑える。

今、わたしに最も必要なのは、笑いではないか、ということに気づく。
久し振りに笑った。
何と言うか、一瞬でも柵から解かれ自由を実感する。無となる。
これは大切な事だ。
これから一日に一度は笑えるようにする。
これは気づきかも知れなかった(爆。
絵を観てこんなことを思ったのは、恐らく初めてだ。
(大画家の崇高な思想に圧し潰されそうになることはよくあることだが)。

審査員の先生に会場で出遭い、どの絵か聞かれ(長女が)指さすと、構図をしきりに褒められた。
「こんな構図は初めてだ」こう言われて嬉しくないはずはない。
わたしの指南だ(爆。
娘も描いている時はどうかな、という顔でいたが今は納得しているようだった。
(忽然と蝶やヤギが現れるところについても)。

その後、時間が空いてダラダラ、ボンヤリ過ごす。
こういう時間が体にとって危ない。
些かコーラを飲み過ぎた。

だがその後の式は長い。あまりに長い。噺が長いのだ。しかも似たような内容が。
特に次から次に来る来賓挨拶はキツイ。その後の審査員挨拶も同様だが。
「本当に皆さんの作品には感動しました」確かに謂わないわけにもいくまいが、、、その後もほぼ同様の運び。
欠伸をしたら涙が出てきた。
これが学校のかつての朝会なら、バッタバッタと倒れる生徒続出であろう。
ああ、あの光景、懐かしい、、、。
(一時間目のはじめに額から血を流している女子がいたっけ。鼻も真っ赤だったような)。


ボロカメラを一つ下げていったが、ちゃんと保護者が写真を撮る為のスペースが設けてあって、皆物々しい一眼レフで撮影していた。夫婦そろってビデオと高級カメラでバシバシやっているのを見ると執念を感じる。
これには参った。
こちらは手ぶらで行くつもりが、出るときについでに昔のコンパクトカメラを首にぶら下げて来たものだ。
取り敢えず撮れたが、その前に撮ったスナップの方がずっと良かった。
賞状を貰う時の写真はやはり退屈だ。式全般、そういうものだ。


ともかく、いつも残念なのは作品が戻らないことだ。
高解像度のコピーが賞状と一緒に貰える場合もあるが、ほとんどが冊子や画集に小さく印刷が載る程度。
やはり額に入れて飾りたいので、コピーが欲しい。
これさえ貰えれば嬉しいものだが、、、。

でも作品は返してくれても良いのではと思う。
(ずっと保管管理など出来るとも思えない。その後どうするのだろう)。


最後に集合写真を撮って、帰り際にシクラメンの鉢植えを頂いた。
(色鉛筆セットとかサインペンセットにスケッチブックとかいう、よくある副賞はなかった)。
シクラメンは上品なピンクで、一度は絵に描かせたい。
冬はシクラメン、クリスマスローズ、冬咲きクレマチス、ジュリアン、パンジー、ノースポールなど家にあるだけでも描ける花は多い。


さて来年はどう狙うか。





長女のお友達が来た

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次女は女子会と銘打って大量に友達を連れてきてドンチャラ騒ぎを時折やるが、日頃ほとんど自分から声をかけない長女が初めてお友達をひとり家に連れてきた。
ピアノ友達で、今年度の合同音楽祭で同じ曲の伴奏者に名乗りを上げ、長女がその役に、お友達の彼女は他のステージを借りて行う音楽発表会の伴奏者になった仲である。何度も学校の休み時間に一緒にピアノ練習する機会があり、徐々に親しくなったらしい。
しかし聞くと幼稚園でも同級生の時があって、それまでもお互いに知らない相手ではなかった。

その子はピアノの上手な優等生で人気者とのこと。
実際に会うとまさにそういう子で、受け答えもハキハキしてしっかりしている。
お互いにピアノを弾いて、お菓子やジュースでお喋りをそこそこ(ぎこちなく)愉しみ、ゲームをひっそりやって、次女も加わりわたしの勧めで迷惑な振りも見せず律義に花の写生もして、最後は書庫で暗い空間にランタンを灯し次女お得意の怖い話をフ~ンといって聞いて帰って行った(お疲れ様。

次女開催の女子会の際は、わたしは部屋に籠り、絶対に部屋には来ないように次女に伝えて一切関知しない。
それでも騒ぎは響き渡り、階段をドカドカ上り下りする様子も手に取るように分かる。おまけに開けないようにと言われた部屋ほど気になるようで(それは人情である)、そおっとふたりの子の目がドアの隙間から覗いていたりする。
こちらと目が合うと「ぴ~っ」(キャーではない)と声をあげてまたドカドカ下りて行ったりする。
まあ、こちらとしてはモノを壊さぬ範囲でやってくれたらよいという構えである。

しかし今回の長女の会?は、余りに無音でわたしも心配になり、ついつい下に様子を確認しに行ってしまう。、
静かにハーブティを入れているところだ。それはよいが茶道ではない。ちょっとは、お喋りなどしながらでもよかろうに。
わたしの方からピアノのことやら何やら幾つか質問などして、入っていったついでに、自分で食べようと確保していたお菓子やジュースなどを幾つか提供する。
そしてまた部屋に戻るが、まだ下がお通夜のように無音なのだ。
また気になり、今度は絵は好きかどうか確認し、長女の絵を冊子や本に印刷されたのを見せたり、ついでにわたしの教科書の絵や社会教育課からの依頼で描いた絵を画集で見せたりすると興味は結構もったようなので、帰り際に絵をひとつ描いてみることにした。

来ていきなり絵では絵画教室のお試しみたいで趣旨が違うため、まずはピアノを弾き合うことを勧めた。
やはり彼女はキータッチがしっかりしていて、音が確実でリズムもブレない。
(うちの娘は、ペダルに少し酔っている)。
それでふたりは気持ちもほぐれたか、ボソボソ会話らしきものもあったが、、、すぐに途切れる。

ゲームはどう?と(ホントは任せればよいのだがお節介に)聞くと、かなり好きそうな返事が返ったので、「ゼルダ伝説」を勧める。
長女もそれで背を押されたようでニコニコしながらふたりでゲームを始めた。
するとゲームの気配を察して次女が何処からともなく普通に入って来るのだ。
いつもなら自分が主体になって騒ぎながらやる次女だが、今回は静かにふたりがやるのを眺めている。
とても静かな淡々とした新鮮なゲームの光景があった。
(最近の子はゲームは手馴れている)。

暫く自室に戻り片付け事をしているが、次女もいるのにやけに静かで気になり、また声をかけにゆく。
随分介入してくる保護者だなとは思われたはず(爆。
今度はアイスクリームを差し出し、そろそろ絵でも描くか聞いてみる。
ちょっとめんどくさそうな感じも受けたが、シュタイナー・シューレで使う蜂蜜で練ったクレヨンを渡すと彼女は描く気が盛り上がったみたいで、次女を交え黄色い菊二鉢をモチーフに描いてみることにした。
長女と次女は種類の違うパステルを使う。日頃勿体ないので使わせなかった画材を今日は奮発した。
その分(かどうかはともかく)活気が出て、ようやく適度に騒がしくもなってきた(主に次女のお喋りだが)。

正直、三者三様の個性の光る、思いのほか面白い絵が出来た。
お友達の彼女は、少し硬くまだ来たばかりのお家で本領発揮まではいかないだろうが、終盤なかなか思い切った表現にトライしてきて、描き進めると面白いことになる期待値が高まった。
うちのふたりはいつもの作風だが、持ち味がスムーズに出ており独自の世界が芽生えてきている。
やはり描けば描いただけのことはある。描かせるべきだ。

そしてそろそろ帰る時間30分前のところで、次女主催の怖い話コーナーとなる。
最近物置状態と化している手狭な書庫で、暗いままでランタンと「野田屋電気」で購入したランプも灯して行われたようだ。
わたしは、そこからはもう部屋に戻って自分の仕事を進めていた。
携帯で呼ばれた家の方が迎えに来て「また遊ぼうね」と言って彼女は帰ったという。
後で、怖い話はどうだったと長女に聞くと、お友達は「ふ~ん」と聞いていたそうだ。
とてもよくわかる、その突き放したような反応。充分光景が目に浮かぶ。
大概話している本人だけ凄いノリノリなのだ(笑。


次に遊びに来てくれた時に、長女は「美女と野獣」を弾いて聴かせる約束をしていた。
かなり前の、ピアノ教室のステージ発表演目である。もうすっかり忘れて弾けない状態のようだ。
ちなみに、お友達はヤマハ音楽教室で、うちはカワイ音楽教室である。
(実はわたしもカワイ音楽教室でフルートを習っていた。もう10年以上吹いていないし、触ってさえもいないが)。

わたしもまた何かやりたくなった。
彼女らも創造意欲が増したみたいだ。
次女はその後、パソコンで自分の作った怖い話を書き込んでいた。

友達関係がその方向で活きれば申し分ない。







ブルー・マンデー


何度もリフレインされる
”Tell me how does it feel”
”Tell me, how do I feel”


わたしの今の心境を表す曲か、、、
聴きたくなった。
フロッピーディスクのジャケットだ。
その制作コストから売れるたびにファクトリーは赤字になったという。
これは、NewOrderにとっての最初のヒット曲だ。

NewOrder010.jpg

話を聞いていても何も受け取れてはいない。
自分の言葉にも確信がない。
かつての人々は確信に満ちた言動がとれたし、後から振り返ることもなかった。
でもいまわたしは言うべきことを伝えられるとは思えない。

わたしがどんな気持ちなのか分かる?

きっとわたしは間違っていたんだ。
あなたの話を聞いたと思っていたのに。

港に停泊するあの船に乗り込んでもいい。
あなたの不幸がなければ、今日は天国の気分だろう。

あなたと岸辺を歩いているとき、わたしはほっといて、と言った気がする。
あなたはその時どう感じていたんだろう。
こころが冷たく凍えていったのか。

今わたしは、ここに立ち尽くすばかりだ。


ことばの過剰な意味がただ溢れてゆく。
Emulatorによってどこまでも反復する。
それは暴力的であやふやだが、どうにもならない。
こころもあやふやなのだ。
コミュニケーションなど所詮成り立たない。
ただ、このことを身体でどう感じているか。
どう感じてゆくか。
いや、どう感じたらいいのか。
教えてくれ。


それを確かめるしかない。
不在のあなたに対して。


IanCurtis001.jpg





激変を迎え

Michelangelo Pieta003

すべてが大きく解体する。
変動する。
しかし本当に生きようと進めてゆけば、必然的に崩壊するものは当然ある。
容赦ない動き。
そして消滅。
それに耐えきれるかどうか。

想定も見通しもたたない。
何も分からない。
不安しかない。


完全に解体すべき時には、そうなる他ない。
どうにもならない。
暗闇のジャンプ。


なるように成る。
なるように成るだけ。
自然の摂理のように。


最後に正しさを実感できれば良い。

Michelangelo.jpg

回復プロセス

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プロセスに入るにあたり、親との関係をまず断絶するする必要がある。
勿論、言葉の通じない者や邪悪な輩とも如何なる関係も断ち切る。

すべてをニュートラルに、中庸に保つ。
身体の深く、より深くへと言葉の境界にまで沈潜しなければならない。

余計なノイズはカットする。
純粋領域を掘り返す。

新たなことばを見出す。

これは科学だ。
実験でもあり観測でもある。

永遠に拒絶された愛の果てに延びる路を探るための。
新たな可能性にかける意味でも。

このプロセスは機械的に自動的に始まる。
冷徹に進行する。

心地よい入眠

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以前は睡眠導入剤が必要だったが、最近は飲む必要がなくなった。
夜が更けるころになると、起きているうちからすぐに朦朧としてきて、ばったりと眠れる。
病院の高血圧科にも通院はしているが、ほとんど125/70前後を維持しており、問題はない。
数値に振り回されたくはないが、この辺の数値であるとすっきり過ごせる。
生活の質は、快不快で左右される部分が大きい。

極力、不快・不安要素は取り除きたい。
それでも怒りだけは激しく噴出する。
これは、まだ当分収まるまい。
反復・回帰~再現がある限り、鎮火することはなかろう。

変わらないのだ。
基本的に人は変わらない。
やはり自分が大きく変わり、健康になることだ。
ことばの真の意味での。
ニュートラルに。

まずは、身軽になっていこう。
拘り~自我から少しづつ解かれて。
そう、どうでもよくなってゆけばよいのだ。
だが、まず前提としてやるべきことがある。

よく専門書にも出てくる幼年期からのこれまでの自分を想起し、その時期における欠如を埋め合わせてゆく作業を実質やっておきたい。どれほど有効か、はともかく。
少なくともその最も大事な時期は霞の中なのである。
断片は幾つも、幾つも拾い集めた。
拾える範囲は自ずと限られるが。
独りでやる他ない。
それに不足分を与え生気を蘇らせて統合出来れば、自分の足場として確立するか。

何をするにせよ、土台は必要なのだ。
土台の上に、何度も何度も建て直す必要がある。
最終的に更地にするにせよ。

何かを作りつつ、解体の準備もしてゆく。
その過程で「存在」が屹立してくる。








最近、よく夢を見る

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夢と言うのが、大変現実的で緻密な光景なのである。
しかし、考えてみればそうでない夢など見たことがない。
夢は常にディテールがしっかりしており、へたな映画よりずっとリアルである。

そして変に入り組んだ複雑な映画の脚本より、もっと複雑でダイナミックである。
物凄い出来の良い詩的な映画みたいだ。
そう、タルコフスキーの映画に似ている。(ベルイマンのものにも)。

    タルコフスキー以外では、、、
    わたしは「去年マリエンバートで」は好きだが、「メランコリア」に寧ろ究極的なリアルさを感じる。
    「メランコリア」は人類にとって正夢かも知れない、、、。

うんと苦しい夢の時は、「ストーカー」である。
そんなときは、寝汗もかいている。
何を求めて彷徨ったものか、忘れていてもどっと疲れているものだ。

「鏡」みたいな夢も見たが、その他となると、定かでない。
(「サクリファイス」は知らぬうちに見て忘れてしまった夢であったかも知れなかった)。
いま、緊張感と言うか一種の研ぎ澄まされた濃密さを感じる。

高濃度の時空である。
酷い疲労を誘いつつ、、、。
逆らい難い眠気を纏わせ

ひんやりと醒めている、その時空がこの夜のしじまにすでに嵌入して来ている。
稠密なタルコフスキー時に連結していた。
このまま「ノスタルジア」に導かれそうだ、、、。

   あの回廊は何度も歩いた。
   何度も過った。
   その先を眺めやった。

そんなとき、何故かわたしは決まって自転車に乗っているのだ。
遠藤彰子かジョルジョ・デ・キリコに借りた自転車である。


驚異的に明るい崖の裏面に漆黒の闇が貼りついている。


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次女の作品展示会

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明日が搬出日で今日しかないため、肌寒い中、次女の作品展示を観に行く。
昨年の長女の時と同じ展示会場になった(今年は長女は違うコンクールに出品している)。
電車に乗りながら知ったが、作品はWebからダウンロード印刷が出来るようであった。
展示会場の風景も見渡せる。
別にわざわざ行かなくてもと思ったが、実際に行って雰囲気を感じるのも良いし、昨年の長女のときみたいにみんなで作品の周りで写真を撮るのも悪くはない(実はそれが目的で行くのだ(笑)。
出した作品は戻ってこないため、やはり一度は現物にお別れをしておくべきだろうし。
作るという時間の思いがしっかり畳み込まれているのだ。それは大切にしたいではないか。


次女の作品は長女のものより、柔らかい印象派である。
ふたりには、描く前に印象派の色使いが分かる絵を幾つか軽く見せておいた、、、モネ、シスレー、ピサロ、、、など。
基本、筆で塗るのではなく、色を置くようにさせたかった。ほっておくとペンキ屋さんみたいに塗っている。
色を混ぜ過ぎず、彩度・輝度の保たれた色を短い筆致により構成する快感を体験させたい。
ともかく違うパタンも覚えさせたいのだ。筆使いは特に大事だし意識させたい。
ゴッホは筆使いの発明家であった、、、。

次女は体質もあろうが、淡い色彩の使い方とタッチは、モネがアルジャントゥイユの草原の光景を描いた、何という題だか忘れたが、あの雰囲気に似ている。ちょっと盛りすぎだが(笑。
常に長女の方が良い賞につくのだが、次女の作品の方がいつも絵画的なのだ。
わたしは次女の作品の全体に醸す雰囲気が好きだ。ただいま一つインパクトに乏しい。
今回の絵の題(題材)は「夕日を眺める母娘」である、、、(展示会ではちょっと題名が違っていたのだが)。
ちょっと絵本の挿絵にもなりそうな絵であった。

長女の作品の方が一言でいえば子供の勢いで押すタイプである。
彼女のスタイルをより推し進め、攻めの絵を描かせてみた(笑。
今回はかなり彩度の高い色を短い筆致で並置させ、色彩に鮮烈さを持たせた。
構図上では、思い切り人物を前後に配置させその大小で奥行きというものを意識させた。
特に画面を大きく占有する中心人物はその体勢~動作から特に前後への動勢を印象付かせ、斜め後ろに位置する人物はすれ違い逆方向に遠のく速度により空間の奥行をさらに深める。
勿論描いたのは全て長女だが、わたしが事前レクチャーを入れた。というよりプロデューサー的立場か(爆。
(少し描けるようになって、絵が説明的で平面的~並置的になっている。生き生きさせるため搔き乱すことにした)。
画題は何であったか忘れたが、「ターザンロープをする少女」には違いない(笑。


次女は実は昨日からかなりの鼻風邪になってしまいグロッキーなのだ。
彼女だけでなく、家族みんながなんとなくだるい(風邪がようやく治りかけた長女とか、わたしも風邪気味)。
写真をみんなで撮ってから、確かにみんなテンション低いので(爆、、、軽食をとり早めに帰ることに、、、。
(ちょっと勿体ない気もするが、、、横浜までは日頃なかなか来ないし)。
長女の時は観た後、しこたま道草して遊んで帰ったが、今日は体調の関係ですぐに帰路に就く。


長女の作品の授賞式は来週だ。
多少寒くても晴れだと良いが。
体感温度がかなり違う。

blue sky




可能性としての文化

sun.jpg

今日は長女と一緒に公園の並木道をたっぷり歩いた。
芝生にひっくり返って空を見た。
光っていた。

われわれは、奇跡的にとても親和的で共感的な関係が結べている。
これはとても貴重なことに思える。
他の様々な事態から推し量っても、、、。


理想世界としての創造を果たさずにはいられない人間は、基本的に愛着障害と呼ばれる人たちに圧倒的に多い。
最近知った「愛着障害」という概念の元に謂えば。
基本、彼らは現実に自分を安らかに繫ぎ止めるものがないために不可避的に自前で創るしかないのだ。
自分が安堵し安らげる場所=作品を。
(繫ぎ止めるものがないと謂うより、その過剰または欠如からくる異和、不全感や不安や不快感、怒りなどが動因となるが)。
その特殊で根源性(本質力)を湛えた生成物は実際、文化のコアな部分に浸透している。


ただし、それらの文化(美術、音楽等の文芸作品)を享受するのは、同様の「愛着障害」を持った人がほとんどかも知れない。
それではじめて、作品に共感でき感動も生まれるはず。
作品に共振し吸い込まれる契機が彼らにあるのだ。
同様の不全感~異和を抱えていなければ、その作品自体を見つけられないと思う。
そういうものだ。

文化を組み込む社会の総体は様々な人によって重層されるが、そこに逆投影した姿をそれぞれが認知している。
文化の襞のその部分を深く享受している人間は、おそらく「愛着障害」の人間ばかりかも知れない。

「愛着障害」という言葉は嫌いだが、その概念により本質的な支配力が明瞭になる。
それに対抗し解放を図るには、芸術(文芸)が最も有効なものだが、必然的に終わりがない、ともいえよう。
あくまで代用なのだ。
偉大な大作家の作品であろうと。
(大作家に如何に愛着障害者が多いことか、、、いやそうでない作家を探す方が困難であろう)。


人間という本質的不全。
(全体ではないという意味での)。
必然的に終わりなき戦いへと、、、引きずりこまれてゆく。



暫く沈潜

Pluto moons

  前回からの続き、、、

ゾンデを幾つも垂らしている。
狙いはほぼ定まった。
存在の根っこの部分にいよいよ向かい始める、、、
冗長性やノイズもあるし、ブレもあるだろうが、見当違いはない。
まだ根っこに達するまでには、聊か時間はかかるが。


重度の回避性愛着障害である場合、いや不安性であっても同様に、必要な時期にそれに相応しいものが与えられなかった結果であることから、もう取り返しはつかない。

無意識~身体性の反復パタンを収めるには、単に過去の愛着関係の疑似的想起・再体験とその修復というレベルでは、構が弱い。
過去を想起して、と言っても必然的に(自らによって)編集された物語である。
勿論、それに付随する感情に焦点を当てるにしても、それで水に流せるのか。
そういった個別的(局所的)レベルなのか。


それは、恐ろしく個人的な場所で密やかに発生しているように見えながら、普遍的な社会問題としても成り立ってしまう。
そもそも幼児期を欠如でもなく過剰でもない生を送った者がいるだろうか。
何れにせよ、社会~文化そのものが様々なパタンの愛着障害を原動力に出来上がっていると言える。

その社会とは、自らの自我が無意識的に拒絶した影の投影であった。
これはイコールと捉えられる。

すると、幼少年期の気分的な手直しで埒のあくものではなく、現在の自我の解体自体が必要となる、恐ろしい作業が控えていることが分かって来る。
何れにせよ、母との和解などという事が出来ようはずもない。
これほどあり得ない絵空事はない。
機械状に無意識的に母親は自分の抱え持ったトラウマを埋める為に、生の尽きるまで子供を貪り続ける。
であるからこそ、われわれ(わたし)は、このような事態に(およそ不可避的に)陥ったのだ。

単に分かれる~断絶するとかしても何の変化もあるまい。
消費されないレベルにまで自我解体すること。
違う者になること。
(空間的に離れたところで、何の意味もない)。
社会が違って見えるところまで。
解体を果たす。
異なるモノへと再組織化を図る。


ではないか。

今を生きること

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本を読んで煮詰まる。
そんななか、、、
抑圧されてきたことば~考えが集う。
ゆらゆら混ぜると、濃厚なスープになってくる。

だが、まだ食べられるところまでいかない。
まとまった味になり、ある程度冷めてからでないと、、、。
口にはできない。

わたしの探る真相が揺らめく煙のなかから、形を伴って現れてくるのは不安な喜びである。
そう、ここのところずっと、わたしは不安で居心地が悪かった。
体調もおかしく。
わくわくするところまでは、到達していない。

当分、それは無理な気がする。
宙吊になりながら続けてゆく作業というものがあるのだ。
きっと。

緊張と不安を抱えて。
定めたルーチンをこなす。
必要な本が届くべき時に届かない。
予定通りに事は運ばない。

こういう時に大事なのは、体力である。
明日は緑と噴水のなかを歩こう。
そして盆栽を眺めて。
また、ゆっくり読もう、、、


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