いわさき ちひろ

NHKの日曜美術館で「“夢のようなあまさ” をこえて」と言う、”いわさきちひろ”の特集を観た。
(実は大分前の録画なのだが、直ぐに観ることをしなかった。触手が動かなかったせいだ)。
彼女は自分の絵を評して「わたしの描く子供には夢のようなあまさがただようのです」と言っている。
30年で9000点の絵を描く。
黒柳徹子さんが”ちひろ美術館”の館長であることも知った。
読んだことはないが、「窓際のとっとちゃん」という本の表紙もちひろの絵であったようだ。
その絵と本のイメージがピッタリ合っていて、それを壊したくない為に映画・ミュージカル化の誘いを全て断って来たという。
黒柳さんにとって余程大事な絵であり絵描きなのだと痛感する。
番組では、世間的によく知られる”絵本、挿絵画家”としてではなく、独立した絵を描く画家としてのいわさきちひろを強調していた。
絵本にあってもストーリーとはまた異なる時間を味わえる絵の技法世界がクローズアップされている。
まず、「描かないで、感じさせる」(ちば てつや)彼女ならではの作風。
確かに余白は彼女の絵の特徴であるが、よく見るとかなり過激な余白であることに気づく。
相当な意志(造形的で思想的な意思)で作らないと出来ない余白だ。
その余白が、子供~母子の心情や周囲の雰囲気、季節の光を雄弁に語っている。
そして存在の孤独や不安も、、、。

番組では彼女の変貌も紹介されている。
丸木俊(原爆の絵を描き続けた画家)に影響を受け、力強い労働者の鉛筆デッサンを描いていたことも知った。
これは黒柳館長の件よりも有益な情報であった(これだけでも見た甲斐がある)。
少女期に影響を受けたものに「コドモノクニ」という雑誌があり、その定型的な子供の姿が少なからず彼女の絵の元型を成していることも確認できた。
本格的に画家を目指し、油彩画、墨を活かした技法、パステル画、、、そして水彩と画材を広げてゆく。
彼女は画材を挑戦的に使った。
確かに使う画材によって描き方は制限を受ける。
それを自分の絵に創造的に活かす。
この方向性であろう。
しかし描く主題は一貫していた。この母子関係とそこから取り出された子供だけの絵。
人の一生に深く作用する愛着関係が昨今問題視されているが、ここで描かれる母子に関しては子供は母に全幅の信頼を寄せている事が分かる。
「スイカの種」(ちばてつや)のような目が満ち足りた表情を雄弁に語る。
しかし晩年の絵には、しっかり瞳が描き分けられている(通常の眼である)。
「薄い絵だ」という指摘には、ハッとさせられた。
決して平面的なのではない。
滲み、暈しによって生成される僅かな振幅を捉えた薄い空間。
稲垣足穂の「薄い街」というのを、読んでずっと気になっていた世界だ。
とてもアーティフィシャルで物理的でもある。
水彩、パステルと水を浸した筆でのみ可能となる煌めく時間をたたえている。
(これは油彩では難しい。構築的になり辻褄合わせとなって煩い絵になるはず)。
つまり、絵本であってもそのストーリーとはまた異なる揺らめきの世界が流れるのだ。
深みのある絵本となろう、、、。

最後のふたりの子供のいる海の絵には驚愕した。
マックス・エルンストたちのシュルレアリスムの画家は偶然出来た形から現実の何かの形を発見し取り出すことで作品化するが、彼女は自らの技によって技法の偶然性をコントロールして絵の主題に饒舌に嵌め込む。
とても豊かなイメージで海の表情を創り出すのだが、それを意識的に筆などで描けるかと言えばまず無理である。
しかし確かに偶然に生じる滲み技法を海なら海以外の何ものでもない形体に生成・昇華している。
いわさきちひろのそれは、彼女独自の技である。
偶然を操るのだ。
ジョン・ケージのいうチャンスオ・ペレーションでもある。
この点においては、彼女の右に出る者はいないかも、、、。
更にそれに加えて、晩年の横を向いた、こちらからそのこころを凝視せざるを得ない子どもの顔。
ベトナム戦争を題材に描いた絵本の子供のこちらから瞳を逸らせた力強い目。
わたしたちが思わず覗き込むしかない意志を秘めたその目。

ここに到達点~神髄があるのかも知れない。
“夢のようなあまさ” を超えて、確かな強度(差異)をもつ絵となっていた。