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GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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日向ぼっこ

sun001.jpg

久しぶりに公園に行き、植物園の一階のテーブルで本を読んだ。
図書館が嫌いなので、必ず公園に行く時には、本を持ってそこで読むことにしている。
今日は殊の外、日差しが強くポカポカ暖かかった。

気持ちの良い光に包まれた読書は最高である。
だが、近くに入れ代わり立ち代わり、老人会の人々がやって来る。
恐らく、耳もちょっと遠くなっているのだろう。皆話す声が大きい。
よても大きいのだ。
だが暫くその声のトーンに対する調整をするとそのレベルだけ気にならなくなってくる。
ほとんど読書の妨げにはならなかった。

活字が身体に浸み込むように水も飲む。
今日はそのペースがはやくなって、量も必要になる。
いつも水(500ml)を携えてゆくのだが、今日は一本では足りなくなった。
明日はもう一本持ってゆこう。
今日よりたくさん読む必要が出た。

わたしにとって、読める本というのは、自分の幼少期の深く潜在しつつ常に自分を突き動かす源となっている域を刺激し、それにことばを与えてくれる類のものである。
哲学書でも自然科学でも小説でもエッセイでも何でもよい。

浮上してきた新鮮なことばを今度は、統合して行く。
躓きのことば、疎かにされた肝心なことばを、逃がさず、、、
この作業を当分続けてゆくことになる。
わたしには、自分を救う方法がこれ以外には、ないのだ。
ブログはその確認の場でもある。


だから、聖域である。
安全地帯は維持しなければならない。


道程はまだまだあるが、道を見出したことだけでも、ましかと思う。
こころの空洞は、幾ら書いても~描いても癒し尽くされないにしても、それを続けることが救いとなる。

きっと。


moonbow002.jpg



ジョルジュ・ルオー

Georges Rouault001

Nichibiでルオーの特集があった。
マティスとルオー」という形で以前、姉妹ブログ"Low"に書いてはいたが、ルオー独りは書いていない。
(ちなみに、マチスもルオーもギュスターブ・モローの愛弟子である)。

ルオーについて何をか書くとすれば「聖顔」が目に浮かぶ。
番組でもこれに時間が割かれていたと思う。
ルオーの「聖顔」(生涯に60点を数える)を見ると、確かに「ことばを超えるもの」が迫る。
この真正面からとらえた顔はゆるぎない存在感をもち、同時に非常に強いメッセージである。


20世紀最大の宗教画家と言われ、 バチカンからも勲章を授与されたルオーであるが(今や法王の授与する十字架のペンダントにも彼の描いた聖顔がプリントされている)、教会などには足を運ばなかったという。
それはよくわかる。そうだろう。
彼は、師ギュスターブ・モローの死後、自分~自らの芸術を見失い、宗教画の存在意義から問い直すことをした。
世はまさに印象派の台頭によって刹那的な光の煌めきに満ちており、それはまた享楽的な生を高らかに肯定する側面は強かった。
ルオーは学校(エコール・デ・ボザール)も辞めて彷徨い、修道院に籠り、暫く絵も描かなかったという。
そこでなんとあの「大伽藍」(「さかしま」や「彼方」より寧ろ「大伽藍」であろう)のユイスマンスに出逢う。
彼の影響を受けたのなら、外部ではなく、徹底して内界を凝視する目を磨いたかも知れない。きっとフラ・アンジェリコの例など噺も出たはず。
(それにしてもモロー~ユイスマンスとは、濃い~孤高の師匠をもったものだ。羨ましいが)。
彼は芸術的美が宗教心を真に沸々と蘇らせるものであるという確信を得るに至る。
絵を描くこと自体が信仰であり、自分にとってすべきことはそれだけだ。

吹っ切れて、市井に出るが、一個の存在として社会に対峙した際に出逢ったのが「ピエロ」であった。
以前のように物々しい宗教画や歴史画ではなく、「ピエロ」という存在を見出し描き始める。
それは「わたしであり、われわれすべての姿であった、、、」

Georges Rouault004

実際に見たピエロを何枚も描いてゆくうちに純化され、それはイエスにまで行き着いたものか。
いや、彼らの内にイエスが染み出るように現れて来たのだ。
モローの「出現」みたいに。
実際、聖痕の写真に衝撃を受けたりもしている。
この間、第一次大戦も勃発し、それを題材化した”misère”などの銅版画連作も制作している。
崇高な痛みが深化したと想われる。
その結果としての「聖顔」であろう。

しかし改めて見ると尋常ではない「顔」である。
この強度~差異は圧倒する。
目力が凄いなんていうレベルではない。
そしてキリストの神聖な威厳は勿論だが、わたしは「サラ」や「ヴェロニカ」の荘厳な美しさに殊の外惹かれる。
よく見るほどに、これほど純粋に美しい女性の顔を見たことがないのに気づく。
本当に限りない美しさである。

Georges Rouault003

厚塗りだ(化粧ではない(爆)。笑ってる場合ではない。
この色の付け方はモローに似ている。
ここまで物質的・本質的なレベルで師モローの技法が息づいているのには驚愕する。
それは厚塗りによる輝き。
ゴッホ、バルテュス、モンドリアンも相当な厚塗りでそれぞれ輝き方も異なるが、ルオーの輝きも独自である。
自身の教会と化したアトリエで、ひたすら塗る~スクレーパーで削るを繰り返す。
この塗る、削るの反復が、祈りであり神との対話であった。
混じり気のない信仰への到達であろう。
この「聖顔」の強度はこうして生み出される。

しかしこの異様な彩度~輝度は、彼が少年の頃憧れたというステンドグラス~イコンの神聖な光そのものであったかも知れない。
幼少年期の経験~記憶の重要さを再認識するところでもある。

Georges Rouault002






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田中一村

tanaka isson002

Nichibiで引き続き面白い絵を観たので、その感想など、、、。
(このパタンが癖になりそう(笑)。
田中一村 日本画家(1908年 - 1977年)


この田中一村という画家は「南画」を幼いころから描き始め8歳の時にはその技量から神童と呼ばれたという。
やがて芸大に優秀な成績で入学するも、自分の得意とする「南画」を描く場はそこにはなかった。
(つまり意気揚々と大学に入ったは良いが居場所がなかったようだ)。
それで2か月で大学を辞め、以降自分独自の絵を独りで探求し続ける。
枠に収まらないスケールの絵はこうして生まれたのか、、、。

南画に決別して独自の道を歩みつつ「白い花」から自らの新たな作風を確立し、安定した形でその後も変遷を重ねてゆく。
この絵が青龍社展に入選したことで、恐らく波に乗ったのだ。
彼ならではの個性を放つ作品が生まれてゆく。

tanaka isson004

日本画家であり「花鳥画」を描いているのだが、わたしは最初見たとき、日本画とは気づかなかった。
大変グラフィカルで独自の様式美をもったアクリル画のようにも思えた。
とても鋭い観察の行き届いた精緻な絵であり、実際、アクリルでこそ描ける絵とも思う。
細部への拘りも凄い追及がなされているが、絵全体の構成に圧倒され魅了される。
南国の光と生がテーマであることも合わせて、、、そう眩い光のせいで大きな葉の影の面が真っ黒なのだ。
花鳥画で真っ黒の葉は初めて見た。本土の日本画ではない。
とても好きなタイプの絵だ。そう気に入ってしまう絵なのだ。

確認すると確かに墨の濃淡で饒舌に空間が描かれている。
しかし構図が大変モダンで色彩使いも大胆な為、普通に思い描く「花鳥画」の範疇にはない。
言い換えれば日本画の平面性と装飾性が極限的に生かされている。

tanaka isson001

こんな絵に行き着くには、やはり場所が肝心である。
題材は風景~花鳥なのだ。出来れば手付かずの自然。
魚の絵も素晴らしい。やはり漁場も大事だ。
何より、場所なのである。
彼は創作意欲に燃え、南下する。

tanaka isson003

紀州、四国、九州、、、へと。
当時、日本はゴーギャン旋風が吹き荒れていたようで、北に行こうという向きはなかったらしい。
わたしも南は賛成だ。
あ~憧れの南仏、、、アルル、、、。タヒチまでは、、、ちょっと。

彼は千葉から全てを投げうって、ついに奄美大島に50歳になってから移り住む。
集大成と言えるものをここで思う存分制作しようということである。
神童から孤高の画家への道程であった。
風景画(花鳥画)の中の鳥が実に凛としている。
(よく絵のなかの動物に画家は自画像を忍ばせるという)。

tanaka isson005


そういう決意、どこでするかだ。
毛遅れにならないうちに、体力と知力の残っているうちに決断しなければならない。
出来れば、南に、、、。
わたしも南に行きたい。
何故なら、寒いところが苦手だからだ。
寒さと辛さは避けたい。


南国で美味しいフルーツを腹一杯食べながら人生の集大成をしたい、、、
と、この番組を観て思った、、、。


小原 古邨

koson001.jpg

小原 古邨とは、明治時代の日本画家、浮世絵師、版画家である。
これも録画してあった「日曜美術館」で観た。
最近、NHKの回し者みたいである。
決してそうではない(爆。


元は小原 古邨は1作単位で描く日本画家であったが、パリ万博の時期に丁度フェノロサに見出され、欧米に輸出する絵の制作を頼まれたという。超絶技巧の優れた芸術である上に、日本画ブームにも乗り、大変な注目と注文も殺到したようだ。
(日本画の極めてシンプルな題材である「花鳥」による自然に対する繊細な感性が欧米の人々に求められていた)。
制作が当然追いつかない。そこで木版画~所謂、多色摺り木版画錦絵によって対応することとなる。
ここではフェノロサが一枚噛んでいるが、どのような形で木版画生産の流れとなったのか。

それはともかく、とても瑞々しく透明感あふれる精緻な技巧に支えられた浮世絵である。
アイデアもセンスも抜きん出ており、絵の中に時間を描き込む手法も洗練されている(この点はマグリッドを凌ぐかも)。
特に「蓮に雀」という、葉に舞い降りた雀の重さで葉の上に溜まった水が滴り落ちる瞬間を捉えるところは凄い。
(今なら)そういう写真を写真専門誌等で観ることは出来るかの知れないが)。
彼は師匠から「対象よりも本物らしく描け」と指導されたそうだが、自然~生き物をそれ以上に美しく描くことに成功している。
確かに実物の雀よりそれらしいものとして極めて精緻に描きあげられている。まるでイデアに遡るかのように、、、。

そして当番組を見て、強烈に悟ったのは、版画制作そのものは、絵師と彫師と摺師との共同作業であること、である。
絵師の世界~思想を彫師と摺師がどれほど深く理解しているかで、「作品」が決まる。
当たり前なことかも知れぬが、実際に「原画」~版下絵の解釈によって摺り方が変わり、作品が違うものになるのを目の当たりにすると、つくづく彫師と摺師の「原画」の把握~受け止め方の重大さが分かる。
小原 古邨の版木が老舗の版元で見つかり、それを現代の摺師が、試行錯誤して刷り上げる様には惹き込まれた。
(21の版木に、30色の墨で繊細に摺って行く)。

koson002.jpg(解釈の異なるパタンもある(笑)

枝に泊まるフクロウの下に三日月が見える。
この月が空間に出ているのか、下の水面に反映しているのかで、絵の世界が大きく変わる。
この摺師は水面に映る月と受け取る。わたしもそう思う。
すると摺りの技法が大きく変わる。異なるぼかし技術を採用するのだ。
「あてなしぼかし」というそうだ。クリアな夜空に浮かぶ煌々とした光を放つ月とは異なる水面に滲んで光る月に見事になっている。
これには痺れる。

koson003.jpg

そしてもうひとつ、小原 古邨の版画に使われた技法である。
「正面摺り」これは輪郭が馬簾で擦ることで光沢が出る事を利用し、烏の羽の部分などに艶模様となって摺りあがる。
これにより、光が当たれば特に羽のリアルな質感が浮かび出るものだ。
「きめ出し」(何か相撲の決め手みたいだが)、積もった雪の質感を出すために、和紙に凹凸を作り、やはり光の当たり具合で白い雪に陰影が生じる。重さや雪の質感が絶妙に表れるものだ。
驚いたのは、まるで3D効果みたいに蝉の羽が震えるように煌く効果である。「雲母摺り」という雲母の粉を混ぜて摺る技法だそうだ。
しかもこの時期となると合成顔料が輸入される。
より鮮やかな色彩表現も可能となった。
そのユリの花弁の瑞々しい鮮やかさは、それまで見られない色である。

koson004.jpg

これまでわたしは単純に、絵師がもっとも上に立ってイニシアチブを握る者と想像していたのだが、、、その卓越した芸術性を支える創造者として当然だと思っていたのだが、、、実は版元の企画がまず先行し、絵師,彫師,摺師はそれを実現させるために動員される技術者という位置づけであったようだ。つまり商業資本~プロデューサーとしての版元であって、その下に絵師,彫師,摺師が配置されるのが一般的構図であったようだ。
まるで、映画産業の世界みたいだと思った。
とは言え、いくらテーマが出され、制約が課せられようと、その枠内で如何に創造豊かな逸品を作り上げるかは、絵師の原画~版下絵次第であろう。そしてそれを具体化する高度な技術(と技法)を持つ彫師と摺師の存在によるであろう。


しかしこれだけの版画がある会社の倉庫にずっと眠っており、300点が最近偶然、日の目を見たというのには、驚く。
彼の版画は海外に多く渡っており、向こうでは画集が幾つも出ている人気作家であるそうだが、、、。
わたしは、この番組で初めてこの画家を知った。

今は手袋とマスクで絵を扱うが、その当時の人はこれらの絵~版画を、たなごころで観ていたのだ。
丁度それにピッタリのサイズでもある。
贅沢ではないか、、、。



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いわさき ちひろ

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NHKの日曜美術館で「“夢のようなあまさ” をこえて」と言う、”いわさきちひろ”の特集を観た。
(実は大分前の録画なのだが、直ぐに観ることをしなかった。触手が動かなかったせいだ)。

彼女は自分の絵を評して「わたしの描く子供には夢のようなあまさがただようのです」と言っている。
30年で9000点の絵を描く。
黒柳徹子さんが”ちひろ美術館”の館長であることも知った。
読んだことはないが、「窓際のとっとちゃん」という本の表紙もちひろの絵であったようだ。
その絵と本のイメージがピッタリ合っていて、それを壊したくない為に映画・ミュージカル化の誘いを全て断って来たという。
黒柳さんにとって余程大事な絵であり絵描きなのだと痛感する。


番組では、世間的によく知られる”絵本、挿絵画家”としてではなく、独立した絵を描く画家としてのいわさきちひろを強調していた。
絵本にあってもストーリーとはまた異なる時間を味わえる絵の技法世界がクローズアップされている。

まず、「描かないで、感じさせる」(ちば てつや)彼女ならではの作風。
確かに余白は彼女の絵の特徴であるが、よく見るとかなり過激な余白であることに気づく。
相当な意志(造形的で思想的な意思)で作らないと出来ない余白だ。
その余白が、子供~母子の心情や周囲の雰囲気、季節の光を雄弁に語っている。
そして存在の孤独や不安も、、、。

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番組では彼女の変貌も紹介されている。
丸木俊(原爆の絵を描き続けた画家)に影響を受け、力強い労働者の鉛筆デッサンを描いていたことも知った。
これは黒柳館長の件よりも有益な情報であった(これだけでも見た甲斐がある)。
少女期に影響を受けたものに「コドモノクニ」という雑誌があり、その定型的な子供の姿が少なからず彼女の絵の元型を成していることも確認できた。
本格的に画家を目指し、油彩画、墨を活かした技法、パステル画、、、そして水彩と画材を広げてゆく。
彼女は画材を挑戦的に使った。
確かに使う画材によって描き方は制限を受ける。
それを自分の絵に創造的に活かす。
この方向性であろう。

しかし描く主題は一貫していた。この母子関係とそこから取り出された子供だけの絵。
人の一生に深く作用する愛着関係が昨今問題視されているが、ここで描かれる母子に関しては子供は母に全幅の信頼を寄せている事が分かる。
「スイカの種」(ちばてつや)のような目が満ち足りた表情を雄弁に語る。
しかし晩年の絵には、しっかり瞳が描き分けられている(通常の眼である)。


「薄い絵だ」という指摘には、ハッとさせられた。
決して平面的なのではない。
滲み、暈しによって生成される僅かな振幅を捉えた薄い空間。
稲垣足穂の「薄い街」というのを、読んでずっと気になっていた世界だ。
とてもアーティフィシャルで物理的でもある。
水彩、パステルと水を浸した筆でのみ可能となる煌めく時間をたたえている。
(これは油彩では難しい。構築的になり辻褄合わせとなって煩い絵になるはず)。
つまり、絵本であってもそのストーリーとはまた異なる揺らめきの世界が流れるのだ。
深みのある絵本となろう、、、。

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最後のふたりの子供のいる海の絵には驚愕した。
マックス・エルンストたちのシュルレアリスムの画家は偶然出来た形から現実の何かの形を発見し取り出すことで作品化するが、彼女は自らの技によって技法の偶然性をコントロールして絵の主題に饒舌に嵌め込む。
とても豊かなイメージで海の表情を創り出すのだが、それを意識的に筆などで描けるかと言えばまず無理である。
しかし確かに偶然に生じる滲み技法を海なら海以外の何ものでもない形体に生成・昇華している。

いわさきちひろのそれは、彼女独自の技である。
偶然を操るのだ。
ジョン・ケージのいうチャンスオ・ペレーションでもある。
この点においては、彼女の右に出る者はいないかも、、、。
更にそれに加えて、晩年の横を向いた、こちらからそのこころを凝視せざるを得ない子どもの顔。
ベトナム戦争を題材に描いた絵本の子供のこちらから瞳を逸らせた力強い目。
わたしたちが思わず覗き込むしかない意志を秘めたその目。

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ここに到達点~神髄があるのかも知れない。
“夢のようなあまさ” を超えて、確かな強度(差異)をもつ絵となっていた。


中野区 アフガニスタン

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「店は独立国家である」、、、確かに!
良い店はそう感じる。
(これは、本屋にしても、、、そうだ)。

「孤独のグルメ」 ”Season5”の第五話を見た。
これまでにも、「孤独のグルメ 」は2Season分くらい観ているが、ブロ友花音さんの記事を見て行きたくなったが行ける状況ではないので、その店を松重豊がとても嬉しそうに美味しそうに食レポする映像で我慢することにした(笑。

アフガニスタン料理である。「キャラヴァンサライ」という店頭が屋台風で人目を惹く店らしい。
遊牧民料理ではないか、、、。
この店も各テーブルで、客が自分のペースで思い思いに楽しそうに好みの料理を食べている。
テーブルごとに、客層も(国籍も性別も年齢も)大きく違い、それぞれ別世界という感じだ。
まさに世界が様々であることが分かる。
こういう場所でそれをまざまざと知ることになるのだ、、、。

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最初にお通し(オードブル)ではないが、ヨーグルト・ドリンクみたいなものがやって来る。
わたしはヨーグルト物は何でも好きだが、かなり食欲を刺激するような飲み応えのようであった。
旨そう。
羊の肉はわたしも好きだ。家でもよく食べる。
串焼きを人が食べているのを見るとやたらと旨そうなのだ、、、。
「スパイスが燥いでいて、やんちゃな肉だ」とは、とても分かり易い。
そうだろうな~と感じる。

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このヒト食レポ上手いね。
ラム肉と羊のつくねを串から前歯で抜きつつまた、旨そうに食うね~。
美味しいものは誰が食べても美味しい。
食が全く異なる人同士を繋げているのか。
食文化の特殊性と普遍性を感じる。
そう彼らは遊牧民~ノマドであった。

syoku004.jpg

この人みたいに色々頼んでも、コース料理みたいに、ちゃんと一品ずつ出て来て、これも食べ易い。
(店によっては頼んだ幾つもの料理が、一度に運ばれてしまうところもある)。
わたしは羊の生を食べたことがないが、オリーブオイルで食べる、たたきが旨そうだった。
全然、臭みもないらしい。
生、食べてみたい、、、牡蠣だって生が一番旨いし、、、。

そしてメインの鉄鍋と来る。
兎も角、羊に肉に癖がないことが特徴のようだ。
癖がない美味しさの為、クセになるそうだ。
リピーターは、皆そうらしい。
食べ易そうだ。
その羊鍋をナンでいただく。
確かにナンが合いそう。
分厚くて噛み応えのありそうなナンだ。
相性よさそうではないか。

syoku002.jpg

今日は娘たちにも、カレー(中辛)にナン(ヨーグルト風味)で食べさせたが、ナンは羊鍋にはきっと合うだろうなと思う。
ナンは「オールマイティ」。確かに、何を付けても食べられるし、ナンそのものでもバターやチーズがたっぷり入っているのもあって、美味しく食べられる。わたしは以前、職場の近くのインド料理専門店によく行ったものだが、昼時はナンのお替りが自由であった。でもそれほどナンばかり食べられないと思っていたら、現地人と思しき人たちが凄く沢山のナンを食べているのに驚いた。この映画でも全く同じで、やはり現地の人であろうが、テーブルに山ほどナンを乗せて食べてる。
(イタリア人が物凄い量のスパゲティを頬張っているのをよく映画でも見る、、、単なる大食いか?)

ところで、この店は、辛いのか、、、。
店によっては出すもの全てが辛いところはある。タイ料理の辛さは大丈夫なのだが、、、。
わたしは、基本的に辛いのは、ちょっと苦手である。
松重氏の、「食べるほどに、辛さのマイレージが溜まって行く」、、、には少し心配になった。

syoku005.jpg

そして「ラグマン」、、、って、この人毎回そうだが、よく食べる。
昼にこんなに食べて大丈夫か?
(普通のサラリーマンだったら、午後の仕事の前に昼寝をしてしまいそう)。
見た目は香辛料(香菜)の利いた焼うどん(手延べ麺)みたいな感じであったが、、、
「濃い味系混ぜ麺」だという。香菜というと宇多田さんの曲をすぐ思い出すが、、、コリアンダー~って(笑。
日本人の味覚にとても合うという。
見た目からしてホントに合いそうだったが。

BGMが店のものか映画のものかよく判らなかったが、(終わりの頃のは)映画のものだろう。
店に流れていたものをそのまま使って欲しい。
常に安定している食レポ映画だ。
松重豊のイメージが固定しなければよいが、、、余計なお世話か。


まさに食文化映画だ。
シリーズで物凄く沢山あるので、到底見切れないが、また何処かのモノを観てみたい。
「乃木坂工事中」と同じくらい面白いではないか。



ティム・バートンのコープスブライド

Corpse Bride003

Tim Burton's Corpse Bride
2005年

ティム・バートン、マイク・ジョンソン監督・製作
パメラ・ペトラー、キャロライン・トンプソン、ジョン・オーガスト脚本

声)
ジョニー・デップ、、、ヴィクター・ヴァン・ドート
ヘレナ・ボナム=カーター、、、コープスブライド (エミリー)
エミリー・ワトソン、、、ヴィクトリア・エヴァーグロット
リチャード・E・グラント、、、バーキス・ビターン卿
クリストファー・リー、、、ゴールズヴェルス牧師
マイケル・ガフ、、、グートネクト長老


ジョニー・デップ繋がりで、、、いや死後の世界繋がりか、、、。
これはストレートに感動を呼ぶ作品だ。
ストップモーションということで、1時間20分に満たない映画だが、まさに労作という感じである。
ティム・バートン~ジョニー・デップ~ヘレナ・ボナム=カーターの相変わらず(鉄壁)のタッグである。

よく作り込んでいるが、話はスッキリ分かり易く、人形世界はディテールまで稠密に、ユーモラスで細やかな動きも実現している。
歌もミュージカル調に時折入るが、ヴィクターとエミリーのピアノの連弾など特に素敵であった。
ああいった場面、もっと見たい。
(ヴィクトリアとの最初の出会いもピアノであった。この辺の微細でセンシティブなところは、よい)。

噺は、19C.のヨーロッパが舞台で、魚屋で繁盛し財を成した一家の息子ヴィクターと没落し路頭に迷う寸前の貴族の娘ヴィクトリアの両家の間の政略結婚(片や社会的名誉、片や経済を得る為の婚姻関係)であったが、実際に2人が初めて逢ってみると直ぐに惹き合う相性の良さであった。お互いに結婚式を楽しみにしていたが、ヴィクターが式の練習で間違いを連発し牧師が怒って式を延期してしまう。その為、ヴィクターは独り森に入り式の練習をして、誓いの言葉を間違えずに言えたとき、それを闇の中で承諾したのがエミリーであった。そのさなか、結婚詐欺師のバーキスが持参金や宝石目当てに式の客としてエヴァーグロット家に入り込んでいた。
その頃ヴィクターは死者の国のパーティに圧倒されている、、、。
死後の世界の方がずっと楽しく美しく見える(笑。

Corpse Bride001

物語のポイントは、異界~異形の者たちとの関り。それによる生・死を超えた存在の解放である。
生者と死者がヴィクターの婚姻を契機に強張った接触~邂逅を果たす。
そこには恐怖も拒絶も対立も生じることなく、ただお互いにとっての悪ははっきり明確になる。
だがそれも死者の世界に吸い込まれて解消~昇華してしまう。
生者は彼ら死者と自分たちを隔てている時間をまたぎ、驚きつつも抱擁し合って再会を歓ぶ。

死者の世界は懐が深い。
そして色鮮やかで、楽しそうである。見たところしょっちゅう唄って踊りのパーティばかりしているようだ。
それに引き換え、生者の世界のモノトーンの息苦しさ物悲しさ。
「死んだら戻る気なんて起きない」のもよく判る。

Corpse Bride002

そして死者の心残り~怨念からの解放である。
これは恐らくヴィクターみたいな人だから、彼を触媒として可能となったと謂えよう。
邪心のない優しく素直な人間。
これは彼のホントの婚約者のヴィクトリアも、成り行きでそうなった死者のエミリーも同様である。
ヴィクトリアが他の男と結婚することを知らされたヴィクターはエミリーと死者の国で一緒になることを決める。
教会では死者と生者の結婚式が始まろうとしていた。
そこにはヴィクターの身を案じたヴィクトリアも忍び込んでいた。
エミリーはその時、ヴィクトリアを狙って教会に乱入してきたバーキスこそ、かつて自分をたぶらかして殺した犯人であることを知る。
結婚を約束して自分を殺害し金品を奪った男であった。
しかしその男も自滅し死者の国へ。


エミリーは今更自分の夢を叶えるために人から夢を奪うことなど出来ないことを悟り、身を引く。
ここはとても切ないところだが、彼女の身体は解放され、たくさんの蝶となって夜空に飛んで逝くのだった、、、
本当はわたし(たち)としては、3人とも自分の本懐を遂げてもらいたかったところだが、この形がやはりベストな在り方であろう。
充分に共感できるところだ。

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人形の造形、特に主人公たちの容姿が、「アナと雪の女王」を思い起こす、とても親和性のある愛らしさで自然に同調してしまうものであった。
人形劇では噺の内容・演出と同時に大変重要なポイントであると思う。
であるから、最後の流れに至って率直にこちらも感動できた。

ティム・バートンらしさのよく出たアーティフィシャルな映画であったと謂える。






プラネタリウム

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Planetarium
2016年
フランス・ベルギー

レベッカ・ズロトヴスキ監督・脚本


ナタリー・ポートマン 、、、ローラ・バーロウ
リリー=ローズ・デップ 、、、ケイト・バーロウ
エマニュエル・サランジェ 、、、アンドレ・コルベン
ルイ・ガレル 、、、フェルナンド・プルーヴェ
アミラ・カサール 、、、エヴァ・セド

「人が望むものを見せることができる」
ローラがケイトの才能を労って語った言葉。
霊を本当に見せるかどうかより、その人の期待に沿ったものが見せられることが大事なのだ。
本当の霊と言っても、本当の姿など誰が知っていよう、、、
それよりも、当人が見たと想えるように見せてやれればよいのだ。
要は相手が満足を得られるかどうか、である。

1930年代、アメリカからパリにやって来た交霊術を執り行う美人姉妹、、、
昨日の映画の続きのような感覚で観た。
似たような題材の映画が続く傾向あり。

妹のケイトに霊感があり、姉のローラが演出をして取り仕切る交霊ショーをキャバレーで開く。
それがかなりウケており、そこに居合わせた映画プロデューサーのコルベン の目に留まる。
コルベンは殊の外、彼女らとこの企画に興味を示し、この交霊術の映画を撮ろうと企てる。
それと並行してローラが女優として交霊に絡んだ恋愛映画も撮って行く。

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コルベンは映画会社そのものをもっと近代化しようとしていた。
彼女ら姉妹は、その切り札的な役割を担う存在であった。
幸い姉のローラも野心家である。その辺では噛みあう部分は少なくない。
コルベンは二人を自分の豪邸に住まわし、姉には内緒で妹と交霊会をしていた。
彼は兄や父にイメージの中で鮮明に出逢う。

ただ、彼はそれを真実の映像であると受け取り(確かに彼にとっては真実である)、VFXを使わないドキュメンタリー映画を撮るんだと息巻いている。つまり本当の実写で幽霊の出て来る映画を撮ると。
彼のイメージ界にはしっかり現れていたのだから、それを映像として作ればよいのではないか、、、。
それは映画としては、説得力があり真実でもある。
だがそれに納得しなかったことで、彼は身を滅ぼす。

実際、妹のケイトに物々しい電極を被せて、かなりハードな交霊をしたようだが、そこに現れたのは、コルベンの背後にうっすらと見えたエクトプラズムらしい光のパタンだけであり、退屈でまともに扱えないものであった。
怒った監督はさじを投げて帰ってしまう。
本物に拘るとこんなものでしかない。
本物を雄弁に誠実に伝えるフィクションをプロデュースすればよいのだ。
そのためにSFがある。いや「プラネタリウム」があるのだ。
実際の星は例え晴れ渡っていようとも、そこまで鮮明には見えない。見えないことの方がずっと多い。
プラネタリウムを見せてあげればよいのだ。いつでも見たいときに確実に見せてあげられる。

コルベンはフランス国籍であったが、ポーランド系のユダヤ人であった。
その為もあってか、会社の金を私的に流用した嫌疑をかけられ代表の辞任に追い込まれ、その後逮捕される。
丁度、時流も悪く、行く先は強制収容所となったであろう。
妹のケイトはその年の冬に亡くなってしまう。
「わたしの能力のせいで死ぬのよ」、、、コルベンの為に無理をして本物を見せようとしたこともあり。
本物に拘り繋がろうとすると、こういう流れになることも。


ローラは本格的な女優となり、ある意味「プラネタリウム」を体現する立場となっている。

リリー=ローズ・デップは、言わずと知れたジョニー・デップとヴァネッサ・パラディの娘である。
わたしは、両方のファンである。そして彼女は両親に程よく似ている。
その娘が凄くない訳はないが、どうも気になったのは眉毛であった。片方が途中で途切れているのだ。それが気になって映画に集中できなかった(苦。芸風は実にあっさりした感じなのだが。

ヴァネッサ・パラディの”ジョーのタクシー”(Joe Le Taxi)が久々に聴きたくなった、、、。


やはりママとパパによく似ている。
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ナタリー・ポートマンについては、今更何も言うことはない。
とても円熟してきたな、とは思った。
何より驚いたのは、ふたりは本当の姉妹みたいに似ているのだ。
この映画のわたしにとっての一番の発見はそこだったような、、、。
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パーソナル・ショッパー

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Personal Shopper
2016年
フランス

オリヴィエ・アサヤス監督・脚本

クリステン・スチュワート 、、、モウリーン(パーソナル・ショッパー)
ラース・アイディンガー 、、、インゴ(キーラの不倫相手)
シグリッド・ブアジズ 、、、ララ(モウリーンの亡き兄の恋人)
アンデルシュ・ダニエルセン・リー 、、、アーウィン
ノラ・フォン・ヴァルトシュテッテン 、、、キーラ(モウリーンを雇うセレブ)

面白い内容の映画であった。
勿論、クリステン・スチュワートがヒロインであることで魅せる映画ではあったが。
彼女は多忙で人前に気安く姿を見せられないセレブに、服やアクセサリーを代わりに買って来るパーソナル・ショッパーの仕事をパリでやっている。
時折、禁止されている、ボスの服を内緒で試着することをしてドキドキするところがよかったが、この映画全編ドキドキの心象世界の描写とも謂えるものだ。

アクトレス〜女たちの舞台〜」の監督でもある。
クリステン・スチュワートがメインで出演していた。主演はジュリエット・ビノシュ だったが。
クロエ・グレース・モレッツも鋭い役どころで出ていた。
クリステンとジュリエットとの緊張感溢れる見応えのある映画であった、と思う(もう記憶は薄れているが、、、クリステンは繊細な役であったはず)。

今回の映画も緊張感は充分にあったが、クリステンの相手は基本iPhoneである。
普通のヒト相手には然程の緊迫感はない。
ごく有り触れたやり取りが交わされるだけ。
ただ、彼女の若くして亡くなった双子の兄の影響で、霊の噺の好きなヒトが周囲に多かったが。
兄は交霊術に深く関わっていたようだ(その為、彼女も感化されており霊媒体質とも謂える)。
そして兄の最後のメッセージが死後にサインを送って寄こすというものであった。
兄が今、どうしているのか、何らかの死後の世界は存在するのか、、、これはこころの何処かに常に引っかかっていることだろう。

ということから、彼女は常に霊界~異界を意識する心的傾向の強い状況にある。
これは物語の前提となる。
ポイントは、相手が「不確か」な何かであること。

異音や物陰に絶えず彼女は兄~霊の徴を見ようとする。探ろうとする。
実際にエクトプラズムが現れこちらもびっくりするのだが、、、。
彼女の世界はそのような言語~物語により編成・変容されていると受け取れる。
つまり、そのエクトプラズムは、彼女の期待通りに現象し彼女を恐怖に高揚させたとも謂えるのだ。
兄のメッセージを受け取ったら落ち着いて、自分の穏やかな生活に戻れると考えていた彼女は、それを受信することに焦ってもいたとも謂える。
(兄からの解放も内心望んでいただろう)。
意思(意志)が表象を作る。

iPhoneに知らぬ相手から何から何まで筒抜けのようなメッセージが次々に送られてくる。
大体、見知らぬ相手からテクストが送られてくること自体かなりの高ストレスを覚えるものだろう。
(彼女は兄と同様に心臓疾患も抱えている様だ)。
このiPhoneメッセージが、彼女の内面の何でも見透かしており、しかも送信者が彼女のいる場所に迫って来るのだ。
ある意味誰もが少なからず経験するNet~SNSに抱く不安とストレスではあるが、この状況~イメージは極端すぎる。
TVで欅坂の平手女史が、スマフォのテクストメッセージにおける自閉的関りを述べていたが、それによって人と結びつくというよりその相手へのイメージを自分流に膨らめる(解釈する)作用は大きい。

このメッセージに多少なりとも頓珍漢で不透明な呼びかけがあれば、現実味があるが、、、これに関してはちょっと違う印象を持つ。何より、禁止されているキーラの衣服の試着をしたいという彼女の内心を知っていること自体、不思議である。そしてそのメッセージに刺激を受け、実際に大胆にボスの服を着て、そのままベッドに寝込んでしまうのだ、、、。
このメッセージの発信者は兄か?という以前に、果たしてこのようなメッセージが実際に来ているのか、、、。
である。勿論、彼女の世界においては来ているのだが、、、。
ほぼ統合失調症の急性期における症状に重なるような表象~幻想に取り巻かれてゆく。
ここまで来るとかなりきついと思う。しかし禁制を破り解放感も味わったことは、よい状況に運んだともとれる。
メッセージ相手からホテルのキーも送られてくる。
この辺が何ともこちらを混乱させるところであるが、着飾って行ってみるが誰も来ないし、誰が予約し金を払ったかも掴めない(彼女の名で予約し、前金の現金払いであった)。

Personal Shopper002

だが、そのタイミングで、彼女のボスに頼まれたアクセサリーを自宅に届けたら、何と彼女は惨殺されていたではないか、、、。
かなり恐ろしい音も聞こえてくる。
音はともかく、この殺害は幻ではない。
彼女は警察に疑われるが、キーラはインゴに殺されたことが分かり事件も解決する。
メッセージもホテルの仕掛けもどうやら一度彼女に会ってキーラを巡り噺をしたことがある、インゴの仕業であったようだ。
しかし、どこまでが彼のよこした内容であったのか、どうか、、、。

この事件で彼女が混乱しパニックになることもなく、しっかり気持ちを保ち、彼氏のいるオマーンへ出かけることになった。
パリにいる必然性も無くなり、転地して気分を変える良い機会でもある。
しかし現地で、またコップが宙に浮き下に落下することが起きる。これは、ララの家でもあったことだ。
彼女は、霊に対し質問を投げかける。しかしYesなら一回ドンね、とか申し合わせているわけではないのに、その方法で答えて来る。そして最後に、あなたは誰?と聞くと何ら反応もなく、「全て気のせい?」と聞いたところで、ドン!
、、、ときて彼女の表情の緊張が解けてゆく、、、。

画面が白転してエンドである、、、。
はっきりと霊がいたとか、全て自分の空想に過ぎなかったとか、結論しないが、現実とはもともとそういう在り方であろう。
、、、そういうものだと思う。
ここで彼氏とのんびり暮らせば、それまでの不安など全て忘れてしまうだろう。
彼氏は死後の世界など全く信じないタイプの人だし、、、。








聖なる鹿殺し

The Killing of a Sacred Deer001

The Killing of a Sacred Deer
2017年
アメリカ、アイスランド、イギリス

ヨルゴス・ランティモス監督・脚本
エフティミス・フィリップ脚本

コリン・ファレル 、、、スティーブン(心臓外科医)
ニコール・キッドマン 、、、アナ(スティーブンの妻、眼科医)
バリー・キオガン 、、、マーティン(謎の少年)
ラフィー・キャシディ 、、、キム(スティーブンの長女)
サニー・スリッチ 、、、ボブ(スティーブンの長男)
アリシア・シルヴァーストーン 、、、マーティンの母
ビル・キャンプ 、、、マシュー(スティーブンの同僚の麻酔科医師)


やけに際立つ効果音と長回しの引いた廊下や俯瞰カメラが不安と緊張を煽っていた。
そして一番、不安を煽るのがマーティン~バリー・キオガンの存在自体である。
あの個性的な風貌で、妙に礼儀正しく純朴な仕草で中盤まで絡んでくるところが、逆に怖いところだ。
後半から執拗にスティーブンに纏わりつき、そのしつこさが不穏さを際立たせてゆく。

スティーブンとマーティンの妙な関係も不気味である。
マーティンをわざわざ自宅にまで連れてきて、子供たちと遊ばせるというのも、、、不思議だ。
特にマーティンとキムの関係である。キムにとっては単純に彼氏という感覚になってゆくが、マーティンはどう思っているのか、あの風貌からは窺い知れない。

父親を手術ミスで失ったことから、執刀医の家族も誰かひとり死ぬべきだ、と願うことはあり得るであろうが、それを実際に不思議な流れで実現させてしまう噺である。この手術の直前にスティーブンは飲酒していたのだ。
その負い目もあって、彼は時々その息子のマーティンに会い、話し相手になったり食事を奢ったりプレゼントをしたり、金を渡しもしていた。マーティンははっきりと父は彼に殺されたという認識をもった上で親しく礼儀正しく接している。
そのゆるゆるとして不気味に進行する復讐劇となってゆく。

The Killing of a Sacred Deer002

それも何やら毒殺とか事故に見せかけるとか代理殺人等々の具体的な犯行を企てる類のものではなく、、、
呪いか暗示か、何だろう、、、あの急に脚が動かなくなるというのは、、、。
姉と弟の二人が下半身不随となり、床を這い始めるのだ。
車椅子に素直に乗らずに這うところが、また怖さを増す(日本ホラー的)。

そして食欲が失せ、暫く経つと目から血を流し、死に至るという。
そうなるまでに、当事者である父が誰かひとり自分の家族を殺せば、他にもう何も起こらないという。
要するに生贄を出せというものだ。
これは、マーティンがどういう呪術でそうなるようにしたのか皆目わからない。
だが、彼が企てたことには間違いない。その死までの過程を実際に知っているのだから。
(その辺の魔術だか呪術に関する説明的な話~場面は一切ない。暗示にかけたにせよ、その辺の仕掛け的なものも少しは匂わせてもよかったのでは。オカルティックなものでよいので)。

The Killing of a Sacred Deer005

しかしそれに罹るのは子供二人だけで、妻はなんでもないのだ。変化が見られない。
これも何故なのか、、、。アナはニコール・キッドマンだし、確かに強そうだ。
マーティンは直ぐに誰か一人殺さないと三人みんな死ぬといっていたが、妻はその流れに乗る気配はなかった。
それでも、いやそれだからこそ、か、、、。
ただならぬ雰囲気や気配はずっと途切れることなく続く。

何とか現代医学においてこの奇妙な症状を鎮められないか、徹底的に検査するが器質的な異常は確認されない。
では精神疾患なのか、、、しかし身体的に表れるその症状はマーティンの言ったとおりに重くなる。
そしてついにボブの目から血が流れ始めた。
スティーブンがどんどん追いつめられる。
この 厄災の元を作ったのは自分であるし、息子は死に瀕している。このままでいると家族全滅となる。
(こうなる直前に学校に、息子と娘のどちらが優秀かなどと大真面目で聞きに行ったりしていた。もう笑うに笑えない完全に逃れられない流れに嵌っている)。

The Killing of a Sacred Deer003

最後は、自分も含めて全員目隠しで、彼がくるくる回りスイカ割形式で銃を放ってゆく。
大真面目に飛んでもないまねをしている。
だが、人間切羽詰まるとこうなるしかないのだ、、、(傍から見ると狂気のギャグみたいだ)。
三回目の発砲で、彼も恐らく無意識的にそう決めていたであろう、息子に命中する。


暫く後に、レストランでスティーブン親子(父、母、娘)とマーティンが出逢う。
勿論、何も話さず、3人三様の表情~視線を彼に送り、さっさと彼らはそこを後にする。
マーティンはその様子をあの風貌でジュースを飲みながら目で追う。

普通の日常である。

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ニーゼと光のアトリエ

Nise da Silveira Senhora das Imagens002

Nise da Silveira: Senhora das Imagens
2015年
ブラジル

ホベルト・ベリネール監督

グロリア・ピレス、、、ニーゼ(精神科医、作業療法主任)
 以下、クライアント~
シモーネ・マゼール、、、アデリナ
ジュリオ・アドリアォン、、、カルロス
クラウジオ・ジャボランジー、、、エミジオ
ファブリシオ・ボリベイラ、、、フェルナンド
ホネイ・ビレラ、、、ルシオ


絵は実は人間にとって本質的なものなのだ、と再実感するものであった。
音楽だってそうなのだが、如何せん演奏技術が伴わないと自分のエモーションをそのまま表出することなどかなわない。
誰もがエリック・クラプトンではないのだ。わたしは成れるならロバート・フリップになりたい(笑。
(確かに全ての芸術は音楽の状態に憧れる、とはいうが)。

音楽的な絵というものはある。
決まってよい絵だ。
クレーの絵だけではなく、様々な名画が目に浮かぶ。未来派(ボッチョーニたち)も忘れてならない。
どれも心が軽やかに楽しくなるばかりではないが、律動と旋律に身体が惹き込まれてゆく。
それは例え重く稠密な体験であっても快感を呼ぶ。何と言うか、法悦と呼んでもよい、、、そうベルニーニ、、、彫刻もそうである。

で、この映画の統合失調症のクライアントたちの描く絵と作る彫塑であるが、とても素晴らしい。
無意識~(映画では)抽象的言語を、目に見えるように定着してゆく得も言われぬ解放感を感じる。
まさにそれは、芸術であり同時に治療~癒しの過程となろう。
ちょっと苦しくも必ず快感と陶酔を伴い、描くまたは作るのを止められなくなるのは、そのためだ。
抵抗感は最初のうち見せただけで、直ぐに彼ら自らがすすんで黙々と取り組んでゆく。
やはり、絵や粘土というのは、誰にとっても入り易い敷居のない有効なメディアなのだ。
(稚拙さも絵だと個性的な面白味として伝わるが、音楽はただの下手以外の何ものでもなく伝達不能である。パンクムーブメントはその域を微妙なところまで引き下げたが、、、恰も若者の政治表明みたいに)。

確かに彼らクライアントたちは、飛んでもない人権無視の差別を受けていた(時は1940年代ブラジル)。
その最たるものは、前頭葉切断手術であるロボトミー手術だ。
カッコウの巣の上で」は忘れられない映画である。
この手術がノーベル生理学・医学賞を取っているのだ、、、。佐藤栄作のノーベル平和賞が微笑ましく思えるではないか。
アイスピックが使われていたというのは、凄まじい。
(眼窩の骨の間から、アイスピックを大脳前頭葉部分まで通し、神経繊維を切断したという)。

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ヒロインの医師ニーゼは、そのような手術や電気ショックなどによる治療が主流の時代に、紅一点で病院に独り飛び込み孤軍奮闘する。荒み切った殺伐とした鉄格子ばかりの環境で、予算の分配もない作業療法の主任にされる。
彼女はそこから独自の目の覚めるような活動を展開して行く。
患者をクライアントと呼び、「アイスピック」を一切拒絶し、皆に「絵筆」を与えた。
病院支給の患者の服から自分の気に入った服に着替えさせる。
作業スペースを綺麗に掃除し、そこをアトリエとして彼らを新鋭画家にしてしまう。

Nise da Silveira Senhora das Imagens001

理論的な根拠をユングに置いた。
絵は最初はカオス状のものであったが、次第に幾何学的な図形へと整序される(特に円が象徴的に生まれてゆく。それに従い彼らの安定が見られる、、、ユング的だ)。
更に、そこから実に素敵な表現主義的な絵画が続々と芽を出してゆく。
アンリ・マティスフランツ・マルクみたいな極上のものに近いところまで辿り着く。
風景画は、ゴーギャン風のものも。
制作は彼ら自身に全面的に任せた。自由なキャンパスそのものである。
そのなかで彼らは直ぐに自分が何を描くかを悟っていた。

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彼らを厄介者と見ていた職員たちも彼らの無意識を恐れなくなっており、スタンスが彼らを理解しようというものに変わって行く。
ブラジルでもっとも名高い美術評論家はその作品群を見て驚きを隠せない。
彼らは少なくとも絵の教育は一切受けていないのだ。
だが、確固たる表現コンセプトをもっている。
そのもっとも説得力あったのは、神を見たことのあるクライアントが、他の人にも自分が見た神を見せたい、というもの。
これはもしかして、いやまさに「絵」でないと実現不可能ではないか。絵で描く他あるまい。
これ、ほとんどゾンネンシュターンに重なる。芸術の起源の神秘~魔術的時空のめくるめく世界であろう。
ニーゼ先生、絵を描く環境を作ったことは、実に的を得ていた。
「意味のある人生を取り戻してあげたい」、、、確かに。
彼らもしっかり言葉でも考えを伝える「いつかこの絵のように窓が開く。簡単じゃないけど。」

Nise da Silveira Senhora das Imagens005


これは、つまらぬ美大よりアグレッシブな環境と化してはいないか。
そしてユングからも注目される。
これでこの成果が世に一気に認められ、大変な成功例として新たな統合失調症に対するメソッドとなったか、と言えばまだ道程があった。
病院側の妨害であった。ことあるごとに彼女を批判し邪魔をしていたが、何とクライアントの精神的な拠り所として飼っていたペットの犬を全て殺してしまったのだ。当然の如く大混乱となる。
ここで、彼女の方法論は残り結果的に現在に継承されているが、アトリエは閉鎖され全ての絵は取り払われた。



わたしもブログを書いてる暇があったら、絵を描くべきだろうか、、、。
最近、ホントに考えていることだ。




初恋-Ⅱ

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暇になったので長女と一緒に歌ってみたが、花音さんの言う通り、ホントに日本語(の文節)のメロディに乗せ方が、まるで英語の乗せ方みたいだ。完全にメロディーリズムの作り方は欧米のコンテンポラリーミュージックのもので、とても際どくスリリング(トリッキー)に日本語の音が乗る形になっている。だがその詩そのものは日本的な宗教感を深く感じさせるものだ(アルバム全体の生死観などにおいて)。
ストリングスのアレンジが徐々に畳みかけてきて、打楽器も素晴らしい効果を挙げている。
(この辺のプログラミングは熟達を感じる。)
「メロディーが細かい周期で上下を繰り返し、全くの対称なのではなく、ややずれながらうねっている。宇多田さんの声と歌い方はバイオリンかギターのチョーキングのような感じを受けます」というST Rockerさんのわくわくするような分析が愉しみである。

ただわたしとしては、もう少しミニマルミュージック的な反復と重層(さらに重奏)と変化を愉しみたかった。
ラベルのボレロみたいな昇まりを、、、。
ロングバージョンとかもあって欲しいな。
楽曲全体として、余りに完璧に綺麗にまとまり過ぎている感じもした。
宇多田さん自身、完全主義者なのだと思う。
そしてやはり天才だ。

欲しいものが
手の届くとこに見える
追わずにいられるわけがない
正しいのかなんて本当は
誰も知らない


まさに「初恋」の澄み切った瑞々しい衝動である。
そして、これは、初恋に限らない。
いや、この「初恋」の衝撃~欲動と同質のエネルギーで、科学が芸術が哲学が生まれるのだ、きっと。
正しいかどうかは、後になって分かる。が、そんなことどうでもよい。

宇宙のすべてのイベントは、こちらが追うと同時に向こうからやってくる。
その瞬間のうるさいほどの胸の高鳴りが真実であることをはっきり告げ知らせる。
(古くは内的必然性などと呼ばれてもいた)。
後の意味づけなど歴史のやること。もはや関係ない。

風に吹かれ震える梢が
陽の射す方へと伸びていくわ
小さなことで喜び合えば
小さなことで傷つきもした


自然の摂理に従うように、この身を任せてみれば
些細な出来事がとても愛おしく感じられる、、、

狂おしく高鳴る胸が
優しく肩を打つ雨が今
こらえても溢れる涙が
私に知らせる これが初恋と


高鳴る胸が、肩を打つ雨が、溢れる涙が、、、切々と狂おしく重層する。
内なるリビドーの突き上げであるのか、天からの愛撫なのか、もはや内も外も混然一体となり、ただ涙だけが溢れ出て止まらない。
その溢れ出る涙そのものが、(その身体性の昇まりが)まさに「初恋」と名付けられた。


生きる意味を恋の中に見出す。
 これもまた真理

 ~エストリルのクリスマスローズより。



そう、至高体験に見出す真理。







芸術の秋って。。。

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娘たち(双子)の連合音楽会が今日10:30から、わたしの母校の中学校を会場に行われた。
他の小学校は2クラス単位で細かく分かれての演奏~合唱であり、舞台下の雛段2列にスッキリ立ち並び一人一人の演者の表情も良く見えて、こちらもゆったりと鑑賞できたのだが、、、
うちの小学校だけ学年(全4クラス)単位であり驚いた。
舞台上と舞台下の雛段合わせて3段ぎゅうぎゅう一杯子供たちで犇めいている。
長女はピアノ伴奏者であるが、直ぐ周りに広がってしまった高い壁に塞がれ、こちらの会場席からは全く指揮者の見えない状況に見えた。
それでも隙間から指揮が窺えることを願ったが、、、。
そのせいであろうか、、、。
戸惑ったらしく、出だしに一音とちってしまった(歌には影響ないところだったのでよかったが)。上手く誤魔化し滞らないように流したが、毎日聴いている耳にははっきり分かる。
その後は綺麗に合唱の伴奏となって流れていた。ペダルも効果的に踏めていた。
最後までシッカリ弾けていたので、よかったのだが、普段の家での練習では全くつっかえるところではないところでの序盤のミスは残念であった。

わたしも演奏会場の環境設定、ピアノ、椅子の調整がとても気になっていたのだが、これは合唱編成上のミスだ。
2曲あるのだから、2クラス編成でそれぞれ1曲ずつ唄えばよいではないか。
見た目もあんなにぎゅうぎゅうに押し競饅頭でもあるまいし、まことに見苦しい。
各学校単位の意向にまかされているはずだと思うのだが。
ちょっとこれは酷い。
会場校は、何と4グループに分けて伸び伸びやっていた。
まさか、うちだけひとまとめにやってくださいよと、強制された訳ではあるまいに。

せめて、その整列時にピアノ席から指揮の見える隙間を作るくらいの配慮をその場の先生にしてもらいたかった。
帰ってきた長女に最初の部分に関して聴いてみると、指揮が観えずに椅子から立って、つま先立ちで出だしを確認したという。
確か音楽の先生が後ろの方に控えていたと思うのだが、、、。
結局、最後まで全く指揮者も指揮も見えなかったそうである。
何を頼りに合わせるのか。
絶対してはならないのは、歌声を頼りに合わせることである。言語道断。常識以前のことである。
指揮は何のためにあるのか。それが重要だから先生が指揮をしていたのではないのか。
混乱と心細さのうちで弾いていたのだろうか、、、。
こちらの席からはその辺の苦闘が窺えなかった。

これまでの演奏会では、練習中のものより常に良い演奏が出来て、本番に強い印象であったが、流石に今回はキツかったようだ。
想えば、夏休み直前に楽譜を貰ってからその後かなりの長丁場であった。あるところで演奏自体がピークになると、その後はテンション維持にかなり工夫が必要となる。そこが子供ならではの部分でもあるが。期間が長すぎると途中のダレが来て、演奏にもそれまでの緊張が保てなくなる。何とか発表直前にまたピークを持ってくるようにしたのだが、残念である。
(わたしも頼まれて随分唄った、、、唄わされた(笑)。

兎も角、終わったことで通常のピアノ練習に戻れる。これが一番大きい。
新しい曲をどんどん仕上げてゆく、いつものパタンに戻したい。
恐らく長女もウズウズしだしていたはずだ。
(次女は相変わらず呑気にマイペースでやっている。熱気はまるでない(笑)。

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噺は変わり、それぞれ異なる絵画コンクールであるが、初の姉妹一緒に賞を取った。
長女はこれで3年連続となった。
授賞式は、今回は近場であっさりしてそうなので助かる。
人数制限もないし、セレモニーとかで丸1日掛かったりもしない。ドレスで迷ったりもしない。外人に話しかけられないのも長女的にはホッとしているらしい(これは、語学や海外に目を向けるホントは良いチャンスなのだろうが)。
次女の方は単に展示を見に行くだけである。
ただし、横浜だと行った先で色々お金と時間のかかるアミューズメント系が沢山あってそれが怖い。
長女が前回横浜の違う場所であったが、随分あっちこっちに寄って大変であった。
横浜美術館にもついでに寄ったが、展示内容が実につまらなく残念であった。
調べずに偶々行くと当りと外れの差が大きい。

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ここで、一区切りをつけて、これまでのルーチンに戻りたい。

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暗黒街のふたり

DEUX HOMMES DANS LA VILLE001

DEUX HOMMES DANS LA VILLE
1973年
フランス、イタリア

ジョゼ・ジョヴァンニ監督・脚本

アラン・ドロン、、、ジーノ・ストラブリッジ
ジャン・ギャバン 、、、ジェルマン・カズヌーブ(保護司)
ミムジー・ファーマー 、、、ルシー(ジーノの新しい恋人)
ミシェル・ブーケ 、、、ゴワトロー警部
イラリア・オッキーニ 、、、ソフィー・ストラブリッジ(ジーノの妻)


ジャン・ギャバンのとっても渋いナレーションで進む。
いい感じだ。これが彼の最後の映画となったそうで、感慨は一際である。
この保護司の役が余りにしっくりくる。人の長所を伸ばそうとする深い愛情と思慮のある重厚な人格が窺える。
冒頭からフランスではまだギロチンによる処刑が行われていることが淡々と語られる。
最後にアラン・ドロンがギロチンにかけられあっけなく処刑される時に、ジャン・ギャバンとの目と目で語るシーンは確かに印象に残るが、ポイントはギロチンなのか?
主人公の半生は興味深いものであるが、映画そのものは面白くない。
アラン・ドロンとジャン・ギャバンの名優2人が素晴らしい演技を披露しているのに、ピンとこない映画なのだ。

ギロチンは置いといて、アラン・ドロン扮するジーノの刑務所出所後の生き様を追うと、、、
今、わたしの住んでいる地域社会と何ら変わることのない世界が描かれている。
この映画の舞台をそのままわたしの界隈に嵌め込んでも行けるものだ(笑。
エキストラ陣も充実しているぞ~。
こうした映画で決まって論じられるキーワードに、先入観や不寛容、他罰主義などがあろう、、、確かにそうなのだが、、、何と謂うか、自分の抱えている矛盾や不条理を誰か(スケープゴート)に投影して特異な凶悪犯に仕立て上げて(生贄として)処分したいという取り巻く者たちの無意識が強烈に見受けられる。自分に対する内省に向かわず、自分の内界を他者に投影していることに気づかない。
代理処分で合理化しようという虫のよい堕落しきった(思考停止した)思いである。
ひとえに知性の欠如の成せる業に他ならない。これだからバカは困る。ホントにウザい。まさに暗黒街と謂えよう(爆。
だが、バカは必ずやり過ぎて墓穴を掘る(これを自業自得という)。ここではゴワトロー。こういうのは、何処にでもいる。
(邦題の暗黒街とは、何を意味しているのだろう、、、ただこれだとマフィア組織の噺という「先入観」をもつだろう)。


この映画、裁判所で弁護士が出てくるシーンが非常に弱い。
映画をつまらなくしているところがここだ。
ジーノが不可避的にゴワトローをはじめとする警察権力によって犯罪を犯さざるを得ないところに追い詰められた過程における弁護ではなく、刑務所の劣悪な環境とかギロチンによる処刑制度の批判などをずっと熱く騙っている。
制度に関する一般論で彼の刑を軽く出来るはずなかろう。
所謂、ジーノ個人(個人史)を改めて衆目の前に晒してそれを読み直すことを全くしていない。
実にとぼけたやつである。わたしだったら、こんな弁護人など直ぐに願い下げだ。

人の歴史は多様に幾らでも読み替えが利く。検察側の読み以外の読みを披露する必要がまずある。
如何にゴワトローたちにジーノが彼の新たな普通の生活を営むことを妨害されてきたか、それらの積み重ねに対し彼がどれだけの苦痛と忍耐を要してきたかをまず問題化しなければならない。
恋人がああだこうだと言っても説得力はない。
弁護士は、人権無視の行き過ぎた捜査が犯罪者を作り上げる過程~物語を語って聞かせる義務がある。
ゴワトローはわれわれは人を疑う職業だと言っているが、そこには人に対する悪意以外見出せない。
だがこの悪意が空気に染み渡ってどこまでも広がっているのだ。
特定の先入観などというより、偏在し潜在する悪意とでもいうべきものが確かに基底を成している。

DEUX HOMMES DANS LA VILLE002

それを象徴しているような刑務所の壁に沿って歩んでゆくジェルマン。
ナレーションで、「この壁の中にまだギロチンが存在する」で終わる。
しかし別に電気椅子でも同じではないか、、、。
いや、死刑制度云々ではなかろうに。
それなのか?いや、ジーノの刑務所出所後の生き様を考えると、そこではなかろうに。

何が言いたいのか、この映画。










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初恋

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宇多田ヒカルの「初恋」は、必ず一日に一度は聴く。
はじめて聴いたときに、静かな激しい衝撃を受けた。
クラシックの名曲を聴いたときのような。
(わたしは、初めてラベルの「ボレロ」を聴いたときのような充足感を覚えた)。
他の曲とどう違うのか、、、これこそ強度としか言えない。
「桜流し」、「道」など好きな曲はそれは幾つもあるが、、、。
天才が閃きと才能で作ったというのではない、彼女の畳み込まれた経験からはじめて晶結した曲だと思った。
本当に詩に旋律にサウンド~アンサンブルに稠密な構築美を感じる。
(ただの才能とセンスに溺れない)。
デビュー『First Love』から20年後のアルバム(曲)が『初恋』という符合はとても興味深い。
長女も大好きで、いつも一緒に聴いている。
「初恋」
今もふたりで聴いている。
(酒が呑める歳になったら一緒に呑もうと約束した。関係ないが(笑)。


彼女のインタビュー記事があった。
それを読んで成程と納得するところがあった。

人は生きていく上で、最終的には他者との繋がりを求めますよね。浅いものから深いものまで。その関係性の築き方には誰しもモデルがあって、それはやっぱり最初の原体験というか、自分を産んでくれた人なり、面倒を見て、育ててくれた人たちとの関係だと思うんです。それがその人の一生の中で、おそらく多くの場合は無意識に作用して、他者との関係性に影響していく。その無意識の影響を紐解いては、「何故なんだろう?」と追求したり、時には受け入れようとしたりする。


わたしも(未だに、いや今こそかも知れないが)「何故なんだろう?」と追求したりはしている。
人は誕生と死は自分の自由には出来ない。
特に誕生は決定的である。暫くして気づいたら「こうしている」のだ。
違和感さえ抱けない。まだ何も相対化する立場にない。ただ苦痛と恐怖が持続した(わたしの場合)。
苦痛と恐怖は実際に(知識としての)外部を知らなくても、身体に外部性をすでに齎している。
今~この場~から遅延し内面化(純粋化)を果たす方向性をとる。
苦痛の度合に応じてその加速度は異なる。精神の病の域まで遅延する場合もあろうが、、、。
どうであろうが、芸術家にも作家にも科学者にも学者にも引き籠りにも狂人にもなんにでもなっていよう。
ただ、自分を(どれだけ)語れるかどうか、そこに掛かって来ると思う。
その契機が他者との繋がりの場に立ちあがってくることは多いはず。
何にしても、ひとは自分という縁まで語るので精一杯だ。

それを小説に書くか、絵に描くか、音楽に乗せるか、科学で語るか、哲学に論じるか、、、等々であろう。
勿論、宇多田さんは、音楽に見事に昇華している。
とても誠実に、人生の経験を凝縮し光輝かせる。


そして、声が違う。
他の誰とも違う。
素晴らしい声だ。
(これはきっとf/1揺らぎではないか、、、ST Rockerさんに分析をお願いしたい)。
これは、長女がよく言っていることだ。
わたしもそう思う。
「声が違う」
これこそ強度としか言えない。

そしてストリングスの極めて効果的な導入。
アレンジはいつも素晴らしいが、このストリングスは絶妙である。
Macにlogic9でプログラミングしているそうだ。
生オーケストラで聴いてみたいが。

そして詩には、あらゆる制約(検閲)を解かれた自由な”ことば”が踊っている。
「パクチー、ぱくぱく、、、」これも良い曲だ。
優しい生命力、、、を全体に感じる。

「初恋」という曲も、恋の始まりとも終わりともとれるように書いています。初恋というのは、それを自覚した瞬間から、それ以前の自分の終わりでもあるので。


始まりと終わり~生死観の感じられない曲は、薄っぺらい。
とても聴くに耐えない。
しかし、それを自覚した瞬間にそれまでの自分は無いというのは、まさにユリイカ!である。
「初恋」とは、それ程の強度をもつものなのだ!
その自覚の元に書かれた曲であるから、これ程の名曲なのだ。


わたしたちは、「初恋」に夢中だが「夕凪」も大好きだ。
ここにも水のイメージのうちに生と死が煌めきたゆたっている。

引用はREAL SOUNDより。

まだ半分も書けていない。
そのうち続編を、、、。



オウムアムア

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ʻOumuamuaー1I/2017 U1
ここのところずっとNHKのBS番組ばかり見ているような(NHKアレルギーであったのに)。
科学番組で観た未知の天体「オウムアムア」(インターステラー)を巡っての想定外の在り様に対する考察はかなり刺激的であった。
(この番組のテーマ音楽がとても好きだ。”カッシーニ グランドフィナーレ”の回では号泣した)。
1I/2017 U1、、、観測史上初の恒星間天体である。
軌道分析から太陽系外から来たことが断定された。
”1”ははじめての1(番目)。”I”は、InterstellarのIである。
「遠い場所から初めて呼びかけて来る、使い」という意味のハワイ語のオウムアムアと名付けられる。
天文関係者が色めきだった。
初めての太陽系外から来た天体の発見に沸く。

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太陽系圏外からやって来て二度と帰らない~太陽系軌道には乗らない~コースで凄いスピードで去って行った。
またいつか、他の太陽系を横切るのだろう、、、。
いつも思うが、こうした天体譚には何とも言えない郷愁と風情がある。

勿論、必ずUFOじゃないか?と取り敢えず騒ぐ人が出るがいつものことだ、、、言ってる本人も信じていない。
連星(一般的に謂って恒星は連星のパタンの方が多いらしい)の微妙な重力バランスによって弾き飛ばされてやって来た小惑星と考える人もいた。
われわれの太陽系では木星と火星の間に夥しい小惑星帯があるが、太陽の重力が強いため系の外に脱出する可能性はない。
大概、小惑星は恒星の近くで作られるものであり重力の拘束力は大きい。
恒星から遠く離れた領域で出来た彗星であれば、近くの大きな惑星の影響で加速を受け系を飛び出す可能性はあり得る。

可能性としてはわれわれの太陽系で謂えば、エッジワース・カイパーベルト~太陽系外縁天体(オールトの雲含む)にある夥しい数の氷の天体である。
表面は高エネルギー粒子や放射線に晒され茶色くなっている(炭素化)。

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ハワイの望遠鏡が最初に発見したというが、ハワイにはかなりの望遠鏡がある。
日本のすばる望遠鏡もマウナ・ケア山山頂にあるが、かなり各国の望遠鏡が密集している。
チリの高原も望遠鏡設置には良い場所だ。今回もチリの望遠鏡が活躍している。
但し、最も大きな貢献をしたのは、ハッブル望遠鏡であった。

物体の明るさの変化から物体の形が推定できると言うのは、成程と思った。
縦横の比率に変換できる。
ここで、オウムアムアは1:10の細長い形態であることが割り出された。
回転しながら移動する全長800mの細長天体である。
ドバイのブルジェ・ハリファビルと同じような形態であるようだ。

わたしが、この天体譚に感心したのはここからである。
彗星であることが優位に立った時、最初の報告者の博士が、彗星説を否定し惑星であることを主張する。
何故か。彗星であれば太陽に近づいたときに青白い尾を発生させるものだ。
確かにこれまでは皆そうであった。
しかしこの天体はどの望遠鏡で調べても尾を見せていなかった。ガスや塵を発生していないことから、彗星と見ることが出来ない為、岩石で出来た小惑星と捉えることを選んだのだ。

だが、尾を出さない彗星の可能性を示唆する博士が出て来る。
アイスクリームをメレンゲで包んで、ガスバナーで表面を焼いて仕上げるスウィーツである。
ブランデーで香り付けするのも忘れずに、、、。
つまり氷は炭素の皮(宇宙線の照射により凝縮された炭素の外皮)で守られた彗星となっている、と。
だからガスも噴射しない。

だが、最後の詰め~どんでん返しが、ハッブル望遠鏡の長時間観測データの解明によってなされる。
オウムアムアは単に太陽によるスウィングバイの重力効果以上の加速をして遠ざかっていたのだ。
これはオウムアムアが何らかの推進力を独自に持っていることを意味した。
ここからがわたしにとって特に瞠目した部分である。
その博士は太陽系の彗星のガスとは成分の異なるガスが放射されていたという事実を推測したのだ。シアン化物の光~色を発していないことから。
一度は通常の青白い尾~ガスのないことを決め手に彗星説を否定した博士が太陽系では観られないガスによる推進を果たす彗星であることを導き出した。
尾は地球のこれまでの目=言語では検出されなかった、というだけなのだ。
そう、他者なのだ。その成分も太陽系のものではない、という認識の獲得。
これは科学(の言語)でしか到達できないユリイカ~イメージである。

これこそが科学の醍醐味で、他の領域にないエレガントで崇高で愉しいところである。

そして最後に、たまたま地球近傍をオウムアムアが通過したという事実は、太陽系に他の系からやって来た天体が少なくとも1000個は存在すると考えられ(数学的推論)、過去に太陽系の周回軌道に捉えられたモノがあることも実際に分かった。
オウムアムアだけではないのだ、、、。かつて存在した数はどれほどのものであったか、、、。
そしてそのインターステラーの地球への衝突が生命誕生の秘密を握っているかも知れないのだ。
(わたしもそこには大いに関心がある。生命は彗星から来た、、、チャンドラ・ウィックラ・マシンジ=フレッド・ホイル)。
系から系へ。この壮大なる交通空間。
われわれは何処から来たのか。そして何処へ行くのか。そしてわれわれとは何か(ゴーギャン)。



やはり科学程、イマジネーションを解放できる世界は無いと謂える。



遠藤彰子

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遠藤彰子は日本の油絵画家の中ではもっとも好きな画家のひとりである。
はじめて教科書で観てからずっと彼女の絵のファンである。
あのキリコの輪回しをする少女を彷彿させる不安で気にかかる絵であった、、、。

先日のNHK「日曜美術館」で久しぶりに作品にまた邂逅したので、感想だけでも記しておきたい。
テーマとしては、「大きな絵」である。

自宅が見れて良かった。緑に包まれている。実はうちも緑に侵食されていたのだが、今日日中を使いその70%を剪定してしまった、、、。そうしてみると、遠藤氏宅がやたらと羨ましく思えたものだ。
アトリエも見れたし、階段に並ぶ小物が確かにアンティークショップを思わせた。
そして500号の絵が何枚も格納された倉庫も見ることが出来た。
脚立と謂い、この絵の釣り上げシステムと謂い、巨大画を描く画家のアトリエはテクノロジーも見合ったものが必要である。



家の前のアスファルトに蝋石で何処までもいつまでも絵を描く少女。
それが後の遠藤彰子となる。
誰もこんな風な幼少時の逸話(武勇伝)はもっているはず。


50年間毎日絵を描く。
30年前から大作にも着手する。
イメージの連鎖の作る世界。
相模原市に移り住み、それからは毎年、500号を超える大作を制作している。
これは一枚のキャンバスでは収まらない。

動物と人間の楽園をそこに見たという。
{楽園シリーズ}
このシリーズ画は、はじめて見た。
1970年代以降の作品である。
毎日のように森に通って制作した作品というが、林はあっても森は無いと思うが、、。
太った豚が子連れで歩いていたというが、その時点から彼女は幻想の世界に浸っていたかも知れない。
(いくら何でも豚が放し飼いはない。イノシシでもあるまいに。わたしは何故か相模原にはとても詳しいのだ(笑)。
まずはこの作品、ファンタジーとして見ることの出来るものだ。
アンリ・ルソーを賑やかにしたような、、、。ボスの絵にも繋がるものはある。

郷愁~イマジネーション喚起力の魅力。
人~植物~動物が等価。
大画面の初期は大きさの自在さはあっても、まだ平面的で装飾的な空間であった。
全ての物体が人間的ヒエラルキーから解かれ、自在に配置され、子供時代の囚われない物象世界を想わせる作品が見られる。
とても愉しい。作者の気持ちが伝わるような、、、。

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遠藤氏が現実に深く結びつく絵を描くようになったのは、息子の病気がきっかけであったという。
それは納得できる。深刻な生死観が根底にくるであろう。
「街シリーズ」から明らかに変わって来る。
この辺からわたしも知る絵が現れる。

俯瞰する視座からの迷路のような巨大都市。
人々は思い思いの仕草をしている。
あの輪回しの少女も何処か橋の欄干に持たれているかも知れなかった。

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空に吸い込まれるような構図の巨大建造物。
そして遠近法の消失点が複数ある絵である。
空も複数ある。
空が見つめるのか、人々が見つめるのか。
主体がはっきりしない不安で荘厳な眼差し。
「重力の反転」、、、確かにそうした眩暈を覚えずにはいられない。

今、500号×2のサイズの絵を制作している。
制作風景が見れたのは得した気分になった。
まずは、モノトーンで陰影の配分を見ながらの下地作りから始まる。
習字用の比較的細い筆でずっと書き進める。
番組ではあんなデカい画布にそんな細筆では途方もないという事を謂っていたが、絵の要素が全て小さいのだからあれで描くしかなかろう。

次第に奥行きが極端に深化し、渦巻くようなダイナミックな動勢が生じる。そして、上下左右が定かではなくなる重力からの自由(自在性)もその奥行きと動きの構造に加わる。やがて複数の時空の接合したような歪んだ空間が現出する。
大画面未来派のエッシャーとでも呼びたい絵。

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「大きい絵」を描く意味。
全ての制約から解かれた自由な絵の創作をそこで可能にした。
「重力のコントロールによって」(遠藤彰子)
~自由に動ける~イメージの連鎖・増殖~「自然に色々な場所から何かが出てきちゃう」~生々流転。
まさに、そういうことか、、、改めて確認した。

やはり自由とは重力から解かれることなのだ。
夢や思考には重力がない。


これは大変重要なことだ。


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太陽がいっぱい

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Plein soleil[
1960年
フランス、イタリア

ルネ・クレマン監督・脚本
ポール・ジェゴフ脚本
パトリシア・ハイスミス原作
ニーノ・ロータ音楽

アラン・ドロン 、、、トム・リプレー
マリー・ラフォレ 、、、マルジュ・デュヴァル
モーリス・ロネ 、、、フィリップ・グリーンリーフ
エルノ・クリサ 、、、リコルディ
ビル・カーンズ 、、、フレディ・マイルズ
フランク・ラティモア 、、、オブライエン
アヴェ・ニンチ 、、、ジャンナ


BSで観た。
遠い昔に観た映画で、ほとんど記憶はなかったが、テーマ曲が流れて随分懐かしい思いがこみ上げて来た。
とっても虚しい。
ボートのスクリューに醜く絡みついたワイヤー。徐々に引き釣り出されるその先の布に巻着つけられた死体は覚えていた。
中身はほとんど忘れていても、その禍々しい異物は潜在意識からはっきり浮かび上がって来る。

何と、この映画の原作は昨日観た「アメリカの友人」の原作者によるものである。もっともこちらの方が17年前のものであるが。
驚く。恐らくこちらの方が出来が良いのでは。
映画としてのディテールの質感(物質感)はこちらもよく描写されている。トムが散歩を始めると市場で何気なく足元に落ちている魚の不気味な頭の切り身が彼の入り込んだ新たな時間流を示唆していた等々、、、。
(多くの映画で市場は不穏な空気に充ち、幾つもの亜時間への出入り口が潜んでいたりする)。

全体に、演出がきめ細かく、自然~風や波、太陽光を巧みに利用し、不安と緊張を高めている。
そしてトム・リプレーという男の決して運命を変えられない絶望の生き様を饒舌に騙ってゆく。

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アラン・ドロンのぎらついた目が終始印象的であったが、彼はもう少し歳をとってから精悍な美男子という感じになってくるな、と思った。まだ若過ぎて、悪事に陶酔している姿から、欲望丸出しの軽いチンピラにしか見えない。
勿論、ナルシシズムはたっぷりある。
鏡に向かってフィリップの服を着て、まるで彼の人格になったかのようにマルジュへの愛を囁き、キスまでする、、、。
(そう謂えば、淀川先生が、トム~フィリップの同性愛を指摘していたような、、、)。

これでは、マルジュに上手くすり寄っても、彼女は靡くまいと思っていたら最後に淋しくなってしまったか、、、。
そう、人は、淋しくなってしまっては、ダメなのである。
依存の始まり、、、そこに良いことは断じて、ない!
本まで書いて自立を目指している女性は、ここで妥協はしてはならない。
(とは言え、フィリップの言う通り、マルジュの「フラ・アンジェリコ論」は月並みな出だしだ(笑)。

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筆跡を真似、声色を使い、パスポートを巧みに偽造し、タイプライターでラブレターや遺書まで捏造して相手を操り、想定外のことがあっても瞬時に言い訳をするところまではともかく、人を殺してしまったら大概、それまでとなる。
死体の処置とは、思いの外厄介なのだ。
(どの映画を観てもそうだ。死体から足はつく)。
いやしかし、このトムにとって、殺人だけは通常の彼の振舞いから逸脱した異質の行為であった。
謂わば、彼自身の生の行為となってしまった事で、彼の計略を逆に打ち砕くことになったか。

トムはフィリップにある意味同一化を無意識に図っていたところがあるが、これもフィリップへの依存とも謂える。依存、、、トム自身、他人の金で暮らすことしか考えられず、その手段、方法は全て筆跡、声、ID,書類、、、須らく他人の真似~成り済まし~究極の依存で済ませて来たものだ。
基本、自分というものがない。フィリップに従属し羨望の意識で生きて来たと謂える。
あったのは、フィリップを刺し殺すとき、と他に打つ手がなくフレディを鈍器で撲殺したときか。
この殺しは明らかに、手段としての成り済ましで急場を凌ぐ部分はあったにせよ、これからの自らの人生を生きる為の彼にとっての一か八かの前向きな投企であった事は確かだ。
だが、それが彼を破滅に導く。

彼にとって依存~同一化か殺人~抹消以外の選択がなかったこと自体が悲劇である。
これは彼の教育(養育)環境によるものか、彼自身の資質からくるものか、、、。
恐らく、フィリップとの会話からして、両者によるものだろう。

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やはり最後のシーンが圧巻であると思う。
完全犯罪を成し遂げ、マルジュと仲良くなり、まさにこの世の春である。
「太陽がいっぱいだ」。
離れた港では、マルジュの悲鳴が響く。
人生最高の瞬間を海辺でじっくり味わっている時に、「リプレーさんお電話で~す」と呼ばれる。
店の奥には鼻の利く刑事が鋭い形相で控えている。
トムはまだ何も知らず、笑みを浮かべて歩いてゆく。
この強烈で静謐な対比。
確かに太陽のせいだ。




アメリカの友人

Der amerikanische Freund001

Der amerikanische Freund
1977年
西ドイツ・フランス

ヴィム・ヴェンダース監督・脚本・製作
パトリシア・ハイスミス『アメリカの友人』原作
ユルゲン・クニーパー音楽

デニス・ホッパー 、、、トム・リプリー(画商)
ブルーノ・ガンツ 、、、ヨナタン・ツィマーマン (額縁職人、修復師)
ジェラール・ブラン、、、 ラオール・ミノー(マフィア)
ニコラス・レイ、、、ダーワット(贋作画家)
リサ・クロイツァー、、、マリアンネ・ツィマーマン(ヨナタンの妻)


BSで観た。
ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」、「エネミー・オブ・アメリカ」、「ベルリン 天使の詩」、「パリ テキサス」は、観ているが、どれも頗る良い。なかでも「パリ テキサス」は、乾いた虚しい雰囲気と噺そのものが大好きで、「ベルリン 天使の詩」の孤高の寂莫感も深く印象に残る。「エネミー・オブ・アメリカ」も大変スリリングで刺激的であったし、「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」は音楽と無名の音楽家たちへの深い愛に溢れていた。つまりどれもとても良かった(爆。

さて本作である。
英語、フランス語、ドイツ語が入り混じり、外国人同士が希薄に濃密に淡々と触れ合ってゆく。
高名な画家だというダーワットの贋作をオークションで高値で捌き大儲けする画商トムが、額縁職人で修復師のヨナタンにその絵の青がおかしいという指摘を受ける。こんな絵はとても危険で関われない。いやアメリカなら、特にカンサス当たりなら引っ張りだこだ、と謂うところなどは可笑しかった。トムはアメリカ人らしくカウボーイ風の男である(紋切り型か)。
トムはヨナタンが目利きで非常に腕の良い職人だが血液の病気で余命幾許もないことを関係者から聞かされる。
興味を惹かれ彼の店に行くと腕の良い職人らしい店内と作業場の雰囲気と仕事ぶりを気に入ってしまう。
自分の仕事からしても、彼に対する尊敬の念は禁じ得ない。
両者の抱える不安(死と不正)~哀しみ、その存在的~実存的レベルでの引き合いがあるに違いないが。
親友になりたい気持ちが沸くと同時に、そういう仲にはなれないことも互いに知っている。

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ヨナタンの病状が悪化しているという噂が周辺に広まる。
彼本人も大変気にしている病状ではあるが、噂共々尚更気になって来る。
地元ハンブルグの主治医の診断では、血液検査の数値に変化は無いが、それだけでは不安で居た堪れない。
丁度、そんな時にミノーという男から大きな金の転がり込む仕事の噺が入る。
それが何と絵の関係の仕事ではなく、殺しなのだ。
当然、キッパリ断るが、向こうもプロである。
彼の弱み~白血病を盾に、もっと良い医者に診てもらえとか、残った家族のことを考えろなどと彼の気持ちを揺るがしてくる。
ヨナタンはミノーの紹介でパリの血液専門医やミュンヘンの専門医に診てもらう。
殺人を依頼してくるマフィアの噺によく無防備に素直に乗るものだ、とは思うがヨナタンは何の疑いも持たず検査を受ける。
その結果は悲観的なものであった。彼の決断に及ぼす影響は大きかった。
(後で妻が調べて分かることだがその分析結果は出鱈目であった。見ている方は当然そう思っている)。

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治療にも、自分が死んだ後の家族のことを考えても、金はあった方がよい。
そしてズルズルとその依頼を受ける形で銃を持たされ実際にターゲットの殺害に及んでしまう。
それで金を受け取り終わりと思っていたら、その後直ぐに二件目の依頼が来る。
勿論、抵抗を感じるも、もう後には引けない状況となっている。
(一度、やってしまったら言うなりに動く他なくなるものだろう)。
いや、そもそも何で額職人がそんなことに巻き込まれるのかが皆目見当もつかない。
単に不安を抱えた病人を上手く利用したというだけのことか?
その背景や繋がりをわたしが見落としたのか、よく分からないが、その依頼主のミノーとトムが繋がっているのには呆れる。
トムは闇の画商なのだろう。他にも色々と黒い仕事をしてそうだ。
ミノーは地下鉄を何で犯行場所に指定するのか、、、防犯カメラが沢山ついているではないか。
そして二度目は電車内での実行を指定である。
これらの点も疑問だ。

Der amerikanische Freund006

二度目の仕事にはトムも自主的に協力する。
そして今度はターゲットと護衛の2人を列車から放り出して無事、始末に成功する。
その為に、ヨナタンはかなりあちこち走り回ることになり、身体には良い影響はない。
これだけ走りまわり疲労を溜めると病気にも影響するはずだ。
妻は単なる病気の検査とは思わず、ヨナタンにつき纏い、真相を問い詰めて来る。
多額のお金が通帳に振り込まれているからだ。

しかし、ミノーは自分の家が吹き飛ばされたと言い、ヨナタンを狙ってくる。
ここで最後の処理を、ヨナタンの妻も交え3人で行うこととなる。
サスペンスものなのだろうが、終始淡々としていて、007のようなスピーディで隙もノイズも無い流れるようなド迫力の展開はなく、大変素人臭い間のある、その分リアルな実況中継みたいな流れで進む。
何やら具体的に動きが掴みずらい展開でともかく、救急車でやって来た連中を追い払ったりやっつけたりする。
そして最後の厄介者を乗せた救急車を海辺まで運んでくる。

Der amerikanische Freund004

首尾良く行き、海岸で救急車を燃やして万歳と謂うところであるが、ヨナタンは妻だけ乗せてトムを現場に置き去りにしフォルクスワーゲンを爆走させる。
「、、、深い友情を感じるがその友情が成立しないことに安堵する」。
海岸沿いの道をどんどん逃げてゆくが、途中で彼の目が見えなくなり妻がエンジンブレーキをかう。
その時、すでにヨナタンは絶命していた。
全てを終わらせて、完全犯罪なのかどうか、、、自分も終わってしまう。


音楽は、ヴィム・ヴェンダースの拘り通りの音であろう。
キャスト共々、ジャストフィットというところか。
相変わらず絵が美しい。
特に日本風ホテルの障子を開け放った時の蒼い、曇り空の拡がりには何とも言えない。
筋の上で分からぬところはあったが、ヴィム・ヴェンダースの映画であることは、はっきり分かるものだ。
これもまた奇妙な感触の続く作品である。





東京暮色

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1957年
小津安二郎 監督・脚本
野田高梧 脚本

原節子 、、、沼田孝子
有馬稲子 、、、杉山明子
笠智衆、、、杉山周吉
山田五十鈴、、、相島喜久子
杉村春子 、、、竹内重子



BSで観た。
わたしは、無意識的に「東京物語」=小津映画という図式で観て来た部分が大きいように思う。
しかしまだ小津映画のほんの少しをかじっただけだ。ということを強く実感する。
昨日の「早春」といい、この「東京暮色」といい、わたしのこれまで抱いて来た小津(作品)像からはかなり異質なイメージをもつ。
「東京物語」が時空を超えた彼岸の眩い光のなかの記憶のような映画とすれば、これらの映画はダークサイド・オブ・ザ・ムーンである。まさに悪夢だ。
「早春」より更に泥沼化する。しかも徹底して暗い。闇夜ばかりの映像である。
バーも麻雀屋もとても暗くてどぎつい。下品ですらある。
これも小津映画なのか、、、と改めてその懐の深さを感じたが、余り感じたくもないものであった。

昨日の岸惠子は思い切り奔放で明るく我が道を力強く生きる女性であったが、、、
本日の有馬稲子はボーイッシュで岸とはタイプの違う美女だが、思いっきり暗い。内向的で頑なで厭世的な感覚がある。
まだ学生なのに、深夜悪い仲間とマージャンに興じていたりしているが享楽的な明るい雰囲気はしない。
父(笠)や姉(原)の言うように、母のいない淋しさが彼女をそうさせているのか、、、。

偶然自分もよく行くマージャン屋で、自分を幼い日に捨てて満州に男と出奔した母に邂逅する。
ここで自分のアイデンティティを確認しようとする。
自分の実母なのか。
どうして自分を捨てたのか。
本当の父は、いまの父なのか(そこまで懐疑的になっている)。
そして母に強い憤りをぶつけるが、同時に自分も恋人との間に出来た子を中絶したところであった。
母が自分を捨てたことに対する怒りは、自分にも向けられる。
哀しい宿命。それは繰り返す。

親にされたことを盲目的に反復していることに気付く。
また親に扱われた通りのことを周囲からされる。
そういうパタンが組まれている。
これを崩すのは困難である。

この有馬稲子~明子の心象風景が絵となっているような映画である。
何処にも出口が無いというか自ら固く閉ざしている。
愛し合ったはずの青年は(彼女が身籠った事に対して)全く責任感も愛情もなく、終始逃げ回っていた。
姉の原節子~孝子も亭主と上手くいかず、2歳の女の子を連れて父の元に戻って来ている。
父はかつて部下に山田五十鈴~妻を奪われている。
笠智衆~周吉は、男手一つで愛情を惜しまず2人の娘を大事に育ててきたが、「家」~婚姻・番関係は総じて安定しない。
元々、そうしたものだとは考えるが、男女関係は婚姻を超えたところに理想的な何かがあるのかも知れない。
(この辺になるとわたしは皆目見当もつかないのだが)。

ただ小津監督も原節子とは結局、結婚はしなかった。
結婚してしまってはそれまで、みたいな関係性はあるのだと思う。
確かに結婚は制度に過ぎない。そしてそれによってできる家も含めた幻想が、様々な疎外、喪失感を生む。
とは言え、フリーな恋愛観が問題が無いとは全く謂えない。
これに明子は足を掬われ、独りで抱え込み苦しんでいた。

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しかし、この暗さは救いの無さは、どういうものなのか。
ここで唯一、生きた愛情が通っていたところは、孝子の周吉に対する心遣いである。
確かに孝子は妹の明子にも優しいが、それはどうにも一方通行に終わるっているのだ。
妹がこころを開かなかった。

最後に唐突に妹が電車の踏切事故で死ぬ。
危篤の状態のときに彼女は「生きたい。もう一度やり直したい」と本心を素直に漏らす。
だが、そこまでであった。

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姉は実母のところに喪服で訪ね、明子が死んだのはあなたのせいだと告げる。
孝子は喜久子が花を手向けることも許さない。
実母は、今の夫と共に北海道で新しい仕事に就き暮らすことにする。


これは、どういう映画なのか、、、
まだ咀嚼が足りないようだが、、、暫く意識に絡みつきそうな感触である。





早春

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1956年
小津安二郎 監督・脚本
野田高梧 脚本

淡島千景、、、杉山昌子
池部良、、、杉山正二
岸惠子、、、金子千代
高橋貞二、、、青木大造
笠智衆、、、小野寺喜一
山村聰、、。、阿合豊
浦邊粂子、、、北川しげ
杉村春子、、、田村たま子
東野英治郎、、、服部東吉


BSで観た。
この作品、「東京物語」の次に作られた作品だそうだ。
何と謂うか、、、驚く。
笠智衆もかなり若くなっている!
山村聰と同僚の関係、、、。

今日初めて、サラっと観ただけの印象であるが、「東京物語」をはじめとする小津映画とは何か撮り方も異なる気がした。
ローアングルで、時折ビルの無機的カットが入ったり下町の風情と明暗の対比が描かれてはいるが、撮影手法が微妙に違う感じだ。
内容的にも、池部良と岸惠子の不倫による、池部ー淡島夫妻の危機的状況が描かれる。
間に笠智衆が入っている為、あっさり緩和されてはいるが、小津映画ではこういう情念の世界は初めて見た。
特に二人で初めて迎えた早朝の部屋に揺らめく川面の光の反映が彼らの内面の怪しく艶めかしい揺らぎを示しているところは唸った。流石である。

岸惠子は「君の名は」の次の作品ではないか?
ここでは「金魚」である。自由奔放な恋愛観をもつ積極的で自分に正直な女性である。
ある意味、怖いものなしでしなやかで強い存在である。
しかも大変チャーミングである分、言動が注目され易く、世間の噂に事欠かない。
もともと「目が大きくて、ズべ公だから」電車通勤仲間が「金魚」という綽名を付けたという。
随分である。

面白いのは、通勤列車仲間で定期的にハイキングなどを催しているという事だ。
そこで唄う歌がこれまた凄い。池部の転勤の時などみんなで「蛍の光」の熱唱である。
(軍隊仲間に通勤仲間と呑み仲間?等幾つもの共同体に属していることは今より寧ろ人付き合いは多様ではないか)?
ハイキングでも先頭はハーモニカで何やら文部省が推薦するような曲を奏でている。

そんな仲間とハイキングをしている最中に、無邪気に池部と共に、トラックを止めて、二人で荷台に飛び乗り燥いで手を振って走り去って行くのだ。万事この調子であるから、外野にいる連中はしきりに道徳や人道主義を持ち出し善人ぶってお説教を試みたりするが、要するに羨ましさからのやっかみに過ぎない。自分たちがサラリーマンで、「格子の無い牢獄」生活を強いられているという意識が強いために、自由で奔放な生き方をしているように映る人間が許せないだけだ。

しかしこの映画、過剰に会社勤め、サラリーマン、電車通勤をネガティブに批判する部分が多い。
まだ舗装されていない叢の目立つ道路をサラリーマンたちがぞろぞろと歩いてゆくシーンが印象的に映される。
(早く見切りをつけて良かったとか、、、脱サラした人が羨望の目で見られたりする)。
丁度、高度成長期に入った時期ではないか。
一方で植木等の猛烈サラリーマンがスーパーマン的な活躍をしているが。

単にこの時代の人々を距離を持って対象化するにしても余りに紋切り型で貧しい側面の捉え方にしか思えない。
(これは現代にも通じる)。
これを語っている時のBGMがサーカス小屋に掛かるような音なのだ。
サラリーマンの創造性~独創的な部分を見落としたら今の日本は語れまい。
どれ程の革新技術や発明、特許が生まれたか、それらは先進的な企業でのサラリーマンの斬新な発想と努力によるものだ。
逆に見れば登場人物たちの務める会社(丸ビルの)とはそれほどつまらぬところなのか、、、会社自体が先は無かろう。

噺は逸れるが、何をするにも結局、その枠内でどれだけ枠自体を揺るがす(ズラす)発想を展開するかに掛かって行くはずである。
蒲田から毎日、都心に通うサラリーマン。休日には、相模湖とか江ノ島~茅ケ崎へとハイキング等々。
このなかから見出せるものはあるはずだ。

とは言え、ここからの展開~逸脱は、岸惠子の誘いに乗って池部がお好み焼き屋でデートして一晩過ごすところか、、、その時の言い訳が病状の悪い同期の仲間の見舞いという嘘をつくところは、かなりドライである。これが夫婦間と金魚を含めた三角関係でのかなり重苦しい修羅場に当然の如くに発展する。


この映画流石に小津映画と思ったところは、「仁丹」のビルのイルミネーションが絶妙なところで大変シュールに夜空に光るところ。
同様なシーンに「月桂冠」もあったが、インパクトは「仁丹」であった。ハッとさせられた。

それから傘のついた電球の下で池部が新聞を読むところや向かいに住む杉村春子の夫が帰ったところで、鰹節を削らされるところなど、何ともいえない郷愁を覚えた。

相変わらず飲み屋~小料理屋の会話が軸になる。
呑兵衛は必ず出て来る。
そこにピッタリの東野英治郎。この人無しでは語れない(今回は酒に呑まれる役ではないが)。
そして浦邊粂子が小料理屋の店主であり池部の嫁である淡島の母である。
如何にも美味そうなおでんをいつも作っており、娘の最大の相談役である。


最初から倦怠期という感じであったが(冒頭の寝起きシーンからして)、浮気がバレ夫婦仲はかなり険悪になる。
池部はやり直す決心で、会社の要請を受け転勤を受け容れる。
岡山県の田舎町だ。
彼らの仲人の笠智衆の鶴の一声もあり、夫婦でその土地に移ることで心機一転、もう一度やり直しましょうと謂うところに落ち着く。
場所を変えるという事は、確かに効果はあるかも知れない。
関係性が清算される点において。

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最後はその新しい地で、池部が謝罪し妻が許し、希望を見出したところで終わる。
強い明暗のコントラストで外を臨む池部と淡島の姿。



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OSIRIS オシリス

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Science Fiction Volume One: The Osiris Child
2016年
オーストラリア

シェーン・アビス監督・脚本


ケラン・ラッツ、、、サイ(看護師、脱走囚人)
ダニエル・マクファーソン、、、ケイン・サマーヴィル(中佐、インフラ設備の統括者)
ティーガン・クロフト、、、インディ・サマーヴィル(ケインの娘、地球から休暇でやって来た)


半分観ないうちに止めて放り出した映画だが、今日改めて観てみた。
ここのところ同傾向の映画が続き、息詰まったのだ。
かなり荒っぽい映画だが、こざっぱりしているので最後まで付き合った。
少女インディがヒロインでナレーションをやっている。
やはり見ているうちに距離感が出てくるが、突き放して見る分には観れる。
チャプター分けしてそれぞれの物語を並べてゆく。
ずっと繋げて線状的に展開するより、一つの噺が深く掘り下げられるかとも思ったがそれ程の効果はない。
登場人物の背景もサイについてはよく分かったという程度。

父が娘の射撃の訓練をするが、それが別に伏線で生きない。
それはそれでいい。何でも回収すればよいというものではない。
最初と最後に(少女によって)意味深げに語られる「何かを求めて来る人間は信用できない。だが何かを求めない人間はいない」というのが、物語にどう絡んでいたのか、よく分からない。

兎も角、ある惑星を植民地化して支配しており、それを上空の基地から管理している。
惑星には街と刑務所があり、囚人(独房に移された者)は極秘に生体実験に使われていた。
植民地の先住民を制圧するためにウイルスによって生物兵器にされたモンスターが囚人と共に脱走する。
どれくらいの規模の街をどれだけのモンスターがどのように暴れているのかは分からない。
上空の基地に伝えられる情報で知らされるだけだ。
荒れ野にあるバラックで2人の男を群れで襲う、何とも淋しい光景はあったが、、、。
余程の低予算映画なのだろうか、、、?CGはなかなかそつないものではあった。

出来たモンスターがもう破壊衝動しかないイグアナ似の代物だが、それをどのように統率して使うつもりだったのか?
このような厄介で面倒なものを作るくらいなら、もっと効率のよい方法が幾らでもあると思われるが。
上空の管理責任者は、この事態を地球政府から隠すため、惑星を核で一掃して収拾することに決める。
つまり普通の住民たちの巻沿いを何とも思わない。その余りに非倫理的で不合理な決定を他の幹部が異論を挟まない。
軍事法規上も当然、引っかかるはずだが。

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その爆破のタイムリミットまでに、ケインはたまたま地球から遊びに来ていた娘を安全なシェルターまで避難させなければならないと、、、。
上層部は、下の住民たちに情報は流さないまでも、管理者たちの家族くらいはまず優先して基地に連れてこさせないか?
これだけ特権階級意識を持っているのだ。普通それくらいの処置はとらないか、、、地上に機密情報が流出することを何より恐れてのことか。
情報を全て遮断して、完全に地上との行き来を閉ざすという事は、口で何を言おうが地上を見捨てることを意味する。
上層部の家族でも、、、冷酷な女司令官だ。
そして単に囚人が暴徒と化し刑務所を脱走し、危険ウイルスを盗んで逃亡している。彼らは原子力発電所を破壊すると脅しているという偽情報を意図的に流す。そうすることで、原子炉破壊により地上を壊滅させることが合理的に出来る。

ケインは命辛々、閉鎖される直前の基地から脱出して地上に降り立ち、刑務所から脱獄していたサイと出逢う。
ケインは追いすがる基地の戦闘機数機と空中戦を交えている。
この空中戦がほとんど二次大戦級のものと変わらない。
あのような目視に頼る戦闘の可能な次元のものなのか、、、その速度と謂い、射撃システムと謂い、、。
ちょっと時代を(テクノロジーを)誤っている。

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脱獄後、サイは仲間と別れている。
「オペラを見に行く」と言って。どういう目的で別れたのかはさっぱり掴めず仕舞い。
・・・・いちいちこれらを書いていても仕方ないのだが、これから先も規定違反でビールを作っている店に立ち寄りバスを借りる。
バスの持ち主の男女が店ではかなりクレージーで凶暴であったのに、急に落ち着いた話を理性的に始める。
その辺の変貌が唐突に感じられる。バスを大金で貸すところまではよいが、彼らに協力してケインの娘救助に命を張る。
どうもしっくりこない。彼らは店で頻りにナイフ投げの腕を自慢していたがそれは実際の戦闘場面では活かされないし、ロケット砲を高い値段で仕入れたのにマシンガンくらいしか使っていない。

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とここまでにして置き、終盤はなかなか意外な展開を見せ、急に締まって来る。
バスがシェルターに着く直前に戦闘機に見つかる。一度は基地をやり過ごし戦闘機が過ぎ去ったところで全速でシェルターに向かう。助かったかと思ったその時、引き返して来た戦闘機にバスがハチの巣にされる。ここはスリリングであった。上手い。
そして娘と家族をこれから何よりも大切にすると誓ったばかりの父ケインも絶命する。
何故か体を張ってくれたバスの持ち主の2人も死に、サイとインディだけ生き残る。
この二人がシェルターに逃げ込むのだが、扉寸前のところでサイがイグアナモンスターに針を刺されウイルスを注入されてしまう。

シェルター内で、サイは体が見る見る変貌して行くことが示唆される。
ここは「ハウリング」や「狼男アメリカン」みたいにじっくり克明に変貌する姿を見せるというVFXはやらない。
こちらに想像させるだけである。それでよいのだが、何と謂うか物足りなさは感じる。

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そして一年後、その後を探査に来た船が見たのがその女の子である。
彼らはその子を救出しようとしたが、ひとりは殺され、インディとモンスター化したサイに船を乗っ取られる。
サイとインディは手話で意思の疎通を図っていた。
サイは理性が保てる特殊例であったらしく、船の座席に女の子と行儀よく座っているところは、「トトロ」みたいな妙に和む光景であった。
しかしそれを確認しつつ操縦桿を握る女性飛行士は何やら本部に通信を送っている、、、。


如何にも続編を匂わすエンディングであったが、それもこれくらい荒っぽい作りでゆくのだろうか、、、。
(だが、出たら気になって見てしまいそう(笑)。

確かにこの終わり方だと気になる。




誘う女

To Die For001

To Die For
1995年
アメリカ

ガス・ヴァン・サント監督
バック・ヘンリー脚本
ジョイス・メイナード『誘惑』原作

ニコール・キッドマン 、、、スザーン・ストーン(TV局のお天気キャスター)
マット・ディロン 、、、ラリー・マレット(スザーンの夫、イタリアレストラン経営)
ホアキン・フェニックス 、、、ジミー・エメット(スザーンに操られる高校生)
ケイシー・アフレック 、、、ラッセル・ハインズ (スザーンに操られる高校生)
アリソン・フォランド 、、、リディア・マーツ(スザーンに操られる高校生)
イリアナ・ダグラス 、、、ジャニス・マレット(ラリーの姉、フィギュアスケーター)


実話を下敷きにした物語だという。

女の魔性をフルに描いた映画であろう。
面白い映画であるし、悪女のニコール・キッドマンの魅力もタップリ堪能できる。
TVドキュメンタリー調に展開するところが観易く、コメディタッチでもある。
TVに出て有名人に成ることを至上目的に掲げその為には手段を選ばぬ女の噺だ。
だが、ひとつネックもある。

果たして夫を殺害するほどの状況であったか?
基本的に彼女をTVに売り出すところでは彼も同意していたはずだ。
夫も店に大物ミュージシャンを呼び、録画映像をスザーンにTVで紹介させることで彼女を有名にしようと提案していた。
同時に店をPRして盛り上げることを意図しているが、それも経済的に不可欠なことである。
夫が邪魔になり殺害する動機が弱いというか曖昧なのだ。
(敢えて探せば子供を欲しがっていたことくらい、、、)。
それに夫は、人としてとても良い人ではないか。

今は大物俳優のホアキン・フェニックスが何とも頼りない高校生でニコール・キッドマンに良いように翻弄される。
たぶらかされる頭の弱くお人よしの男子学生を巧みに演じていた。
(ホアキン・フェニックスの演技は特筆ものであった)。

To Die For002

何と謂うか、スザーンの有名になろうと色々企画を立てて頑張る過程はとてもまともである。
周りを全く見てはいないにしても、上の人がしっかりサポートしてプロジュースできればものになる可能性はある。
だが、何故だか夫が鬱陶しくなったのか、殺害を思いつき、、、別れるのではなくいきなり発想が飛躍し、、、その実行犯にお頭の足りない3人を選んで、ほぼ勝手にやらせる。
普通、クライム映画などでは緻密な計画・準備・人選のもとに犯行を企てるが、ここではいい加減で行き当たりばったりの証拠も残しまくりのお粗末さ、、、仕方ない、彼らは何も考えず急かされて、細かい指示も与えられずに、ただスザーンに気に入られたい一心でやってしまうのだ。

To Die For003


しかし現実の犯罪なんて、どちらかというと、こういうパタンの方が多いと思う。
これは、スザーンに恋焦がれているジミーと彼女に憧れ信じ切っているリディアの思春期のふたりがとても瑞々しくも痛々しい姿を晒す(演じる)ことで余計に説得力を増す。ラッセルはよく付き合ったなと思うが、捕まって直ぐに全て自白したのは彼であった。
リアルな生々しさはとても伝わるものだ。
これに比べると綿密な計算で遂行される完全犯罪など平板で非現実的な絵空事に思えてしまう。

そう、匂い立つような思春期の欲動と自己中心の欲望が絡んで思慮を一切欠いた短絡的な犯行がなされた。
だから、バレるのも容易い。そもそもバレずにやろうという意思すら感じられない。
ただ、スザーンに忠誠を誓っていることを示したかったのだ。
結局、少女リディアのお腹に警察の付けたマイクでスザーンの指示による夫殺害であることが捕まれる。
(いじらしい程にスザーンを崇拝していた割にさっさと警察に協力している)。
勿論、スザーンは弁護士を立て真っ向から対立はするが。
取り敢えず、この時点で彼女は全国レベルで有名人となったことは間違いない。
ある意味、目的達成か。

その後のインタビューで、彼女はありもせぬ亡き夫の薬物疑惑などをでっち上げたのが命取りとなる。
高校生3人を薬の売人に仕立て、取り引きのトラブルで夫は殺されたのだと。
これに激怒した夫の父(義父)はイタリア系マフィアともつながっている。
TV業界のプロモーターのような風情で現れた男に打ち合わせということで雪原~氷原のなかに連れて行かれ、、、
氷のなかでスザーンは凍結することに。
ラリーの結婚に大反対であった姉はフィギュアのスケーターである。
彼女はスザーンをずっと冷たい女と批判していた。
皮肉なものである。

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ニコール・キッドマンの究極的に薄っぺらな自己中女も、素敵であった。
演技派ホアキン・フェニックスとダイエットプログラムをクビになっているリディア役アリソン・フォランドのリアルなボーダー上の学生演技は見応えがあって、面白かった。


サイコ リメイク

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Psycho
1998年
アメリカ


ガス・ヴァン・サント監督
ジョセフ・ステファノ脚本
ロバート・ブロック原作
ダニー・エルフマン音楽


ヴィンス・ヴォーン 、、、ノーマン・ベイツ(モーテルの管理人)
アン・ヘッシュ 、、、マリオン・クレイン(不動産屋従業員)
ジュリアン・ムーア 、、、ライラ・クレイン(マリオンの妹)
ヴィゴ・モーテンセン 、、、サミュエル・“サム”・ルーミス(金物屋経営者、マリオンの恋人)
ウィリアム・H・メイシー 、、、ミルトン・アーボガスト(私立探偵)


オリジナルヒッチコック版と同じカット割りという徹底した拘りで作られたリメイク。
ヒッチコック監督が観たらどう思うだろうか。
撮影技術の進歩で、ワンカット撮影やより饒舌な特殊効果が可能となったが、変更は基本的にない。
細かい所での追加・省略は僅かにあるが。
面白い試みであることは確か。
そもそも、「サイコ」のリメイクを作るにあたっての条件が、ストーリー、展開、セリフを変えない事であったそうだ。
思えばかなり厳しい条件であるが、それを呑んでやるだけの必然性が監督にあったのだろう。
大きく変わったところは、カラーとなった事だけか。
マリオンの鮮やかな服が確かにその恩恵を受けている。

ちなみにガス・ヴァン・サント監督の「グッド・ウィル・ハンティング」は、わたしの最も好きな映画のひとつだ。
この映画に似ても似つかない作品だ。
彼はこのリメイク映画で何を狙っていたのか。

わたしは以前、「サイコ」としてヒッチコック・オリジナルとこのリメイクを観てすでに書いていた。
「サイコ」の感想を書いたことは覚えていたのだが、、、
これについても言及していることを忘れていたのだ。
(やはり印象自体が弱いのか、、、正直、観たことも忘れていたのだった)。

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美術で謂えば忠実な模写であろうか。
それも銅版画を細密な油彩に写したような。
確かに見事に細部までトレースされていると思う。
だが全体の印象として、最初にオリジナルを見てしまっているとは言え、どうも緊張感が弱い。
不安や怖さが無いのだ。知っているからというだけではない(怖いものはまた見ても怖い)。
テンポも良く、流れも変わらないし、、、セリフは変わらず、そもそも役者もタイプは違うが上手く演じている。
(ただし芸術性というか品格から考えると随分、卑俗な雰囲気に染まってしまっている)。
カラーになって心理的にモノクロの禁欲的な雰囲気と反面豊かなイマジネーションが無くなったせいかと思ったが、それだけでは説得力が薄い。
気づいたところで、マリオンが白いシャワー室で殺害されるところの画面構図が少し違う。
空間構成の妙というか、ヒッチコックの方が構図・構成に不安定さを作り出しているのだ。
同じこと~内容をやっているように見えて、形式~構造が実は少しばかりズレている。

だが、この僅かのズレが天地の差を生む場合が殊の外多い。
ディテールの些細な部分の差異と思っていたものが基本構造の違いの現れであった、などという事もある。
主体を中央に置くか、少しどちらかにズラすかだけでも生じるイメージ~意味はかなり変わって来る。
監督がどのレベルで、そのオリジナル作品を把握・認識しているか、というところが浮上する部分だ。
まあ、これだけの労作である。よほどのオマージュが籠められているはずだが。
ヒッチコックは色彩や小物に限らず心理的な作用の齎す感覚をとても大切にしている。
ストーリー~プロットを確かな空間配置で饒舌に演出している部分が随所に感じられる。
これは絵を描くときの意識に等しい。

もう既に書いているものでもあり、この辺にしたい。

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そう、最後の心理学者の分析が少しオリジナルよりあっさりしていたような、、、。
オリジナル版ではかなりの説得力があった。そこだけ見直そうかとも思った。
(この映画を書くに当たり、引っ張り出して部分的に観たりはしたが、流石に全ては観る余裕がない)。

ザ・セル」、「 インターンシップ」のヴィンス・ヴォーンに「記憶の棘」のアン・ヘッシュ。「アリスのままで」、「CHLOE/クロエ」、「エデンより彼方に」、「ハンニバル」、「めぐりあう時間たち」、「 キャリー」等々のジュリアン・ムーア。「ダイアルM」、「イースタン・プロミス」、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」のヴィゴ・モーテンセン。「ファーゴ」のウィリアム・H・メイシー(この人が一番ピッタリな役であった)とキャストの方も充実している。
にも拘らず、、、。
この映画、ゴールデンラズベリー賞の最低リメイク賞、最低監督賞を受賞してしまったらしい。
そこまでの作品とは思わないが、、、。
これはこれで愉しめる映画ではあった。
何よりもオリジナルの完成度の高さを再認識させられるもので、それだけでもこの(オマージュ)映画の価値はある。
母の造形もしっかり作って見せている。

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「誘う女」もまだ書いていないがこの監督の作品だ。
これも良い映画であったと思うが。


  




キリング・ミー・ソフトリー

Killing Me Softly001

Killing Me Softly
2002年
アメリカ

チェン・カイコー監督
カラ・リンドストロム脚本
ニッキ・フレンチ原作

ヘザー・グラハム、、、アリス(IT関連のキャリアウーマン)
ジョセフ・ファインズ、、、アダム(有名な登山家)
ナターシャ・マケルホーン、、、デボラ(アダムの姉)


北京ヴァイオリン」の監督である。
「北京ヴァイオリン」の方が断然好きだが、この映画が悪いわけではない。

交差点で偶然視線の合った男女が忽然と恋に落ちる。
そう言う事はあろう。
恋とはそうしたものであろうし。

だが、恋をした勢いで直ぐに結婚までしてしまう。
(つまり全面的に生活を共にすることにしたのだ。衝動的な性愛に限った付き合いであったものを)。
知っているのは顔と名前と職名くらいのものなのに。彼が雪山の英雄として有名だという事が分かったくらいのもの。
勿論、何処まで知れば結婚すべきなどという物差しがあるはずも無いが。
大体、自分のことだってほとんど知らぬのがヒトというものだ。
伴侶という他者を鏡に自分が何であるか分かって来るところも大きい。
とは言え、これは衝動的な結婚という感じだ。

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結婚してから嫌がらせのような手紙~脅迫状や無言電話が家に来始める。
手紙の内容は彼に対する中傷だ。女性関係の拗れに関するものなど。
幸せな生活に不安と翳りが生じ、、、
彼女は旦那に対し疑心暗鬼になって行く。
惚れる~信じるのも早いが、疑うのも早い(爆。
こういうことは、有名人ほどアリがちだとは思う。
ゴシップに乗じた売名や金を巻き上げようとする類のゴロツキが企むことだ。
しかし彼の性向、性癖などから推し図ると信憑性を感じさせる噂も周囲から出て来る。
(彼は確かに特別な性癖や遍歴はあるようだ)。
人は噂に弱い。
噂で繋がっているような部分も大きい。

特に過去に拘る。
そう過去とは物語に他ならない。
大概は悪しき秘密の詰まった劣情を擽るような玉手箱なのだ。
誰もがそれを期待し欲しがる。
(有名人のゴシップ記事が売れるのも頷けるものだ)。
オマケに彼周辺に行方不明の女性の情報も絡み殺人も匂ってくるしまつ。

そうして彼女は鍵を探し彼の抽斗を調べ始める。
演出もあるが、彼も見た目、サイコっぽく映るようになってゆく。
まさに彼女目線の彼か。
とても怖く見えるのだ。雰囲気や挙動が只ならぬものになって行く。実はこの作用こそが怖いのだが。
だから彼が彼女に優しくしても憤っても釈明してもどんどん怪しくなってゆく。
一端、その方向に流れ出すと、認識の力学上そうなるしかない。
人は自分の知るものしか見えない。
これは見たいもののみ見えるようになることを意味する。

彼女は一方的に彼を怖がり警察に逃げ込む。
彼は彼女が素足で逃げたことを気遣い靴を持って警察にやって来る。
それが彼女の恐怖心を更に煽る。
彼女は警察では埒が明かないということで、彼女に好意的で優しい彼の姉のところに助けを求める。
義理の姉は、脅迫状を書いたのは実は自分で、弟の凶暴性を知らせようとしてやったことだと打ち明ける。
また、登山で弟の彼女が事故死したのは、彼が浮気をした彼女を許さなかったからだと(実は殺害であったと仄めかす)。
そして彼と付き合い(証拠写真あり)行方不明の女性も殺されているとみて、その写真の場所にふたりでゆく。
彼女も撮られた天使像の傍でその女性も同じように映っているのだ。
(これはある意味、彼の性癖のひとつであろう)。
その周辺を掘り出すと本当に彼女の亡骸が発見される。

だが、その首には自分が義姉から貰ったのと同じネックレスがかかっていたのである。
彼女がそれと察したと同時に、義姉は殺意を持って掴みかかって来た。
ここでずっと彼女らを追ってきた弟の彼が助けに入る。

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年端も行かない頃の近親相姦的な経験から姉は弟に恋をしており、弟が他の女と結ばれるのを妨害していたのだが、それで諦めない女は彼女が殺害していたという。
人当たりのよい穏やかで親切な義姉がサイコパスであったのだ。
アリスは最後にデボラがアダムを凶器で襲おうとしたところを銃で撃ち彼を守る。
だが、2人の恋愛の情はもう燃え尽きていた。

2人は2年後、エスカレーターですれ違うが、お互いを見つめただけで挨拶もしない。


ジョセフ・ファインズが最初はフェロモン出しまくりの色男として颯爽と登場し、すぐさまアリスを虜にしてしまうのだが、その彼が後半はただひたすら恐ろし気な男に変貌しているのには感心した。演出と演技力の賜物である。
アリスのヘザー・グラハムはわたしとしては、「オースティン・パワーズ・デラックス」の彼女の方がチャーミングで良いのだが、これも勿論セクシーで悪くはない。

「見え」は言葉による作用であり、言葉による有機的な編成をいったん解く別の言葉(の体系)は常に必要となる。
そこは知性がもっとも活躍する場であると思う。


ベティ・ブルー

Betty Blue001

37°2 le matin  ・  Betty Blue
1986年
フランス

ジャン=ジャック・ベネックス監督
フィリップ・ジャン脚本・原作
ガブリエル・ヤレド音楽


ベアトリス・ダル、、、ベティ
ジャン=ユーグ・アングラード、、、ゾルグ
ジェラール・ダルモン、、、エディ
コンスエロ・デ・ハヴィランド、、、リサ


白い猫が殊の外、凛として美しい。
わたしもこのような白猫と住んでいたので、とても懐かしい。
賢い猫だった。
この猫はベティの生まれ変わりと見ても良い。
猫とはそうしたものだ。

「37度2分・朝」
3時間の尺も長くは感じなかった。

ディーバ」の方が好きだが、この映画の質感も心地よい。

愛し合う男女の噺だ。
それ以外に謂い様がない。
相手に深くのめり込み激しく揺れ動く。
ユーモアも随所にちりばめられた大変ドラマチックな恋愛映画と謂える。
映像も美しく音楽もよくマッチしていた。

珍しい程の純度の高い相思相愛なのだろうが、、、
他者としての精神的距離をもっての愛情とは言い難い。
そして、ふたりともタガが端から外れている。
基本女の方は素直で邪心はないとは言え激情型で衝動的。男は受容的で献身的ではあるが規範意識に縛られない。
ふたりは一緒にいられることをもっとも大事にしている。
それは正しい。

しかし、一見、彼の膨大な原稿を徹夜で読み込み、それを何日もかけてタイプライターで清書し直し出版社に送り付ける行為が健気で微笑ましい内助の功みたいに思えても少し度が過ぎる。
女は自分の過剰な幻想を彼に投影し、現実の反応に憤りを爆発させる。
妊娠にしても陽性反応が出なかったという事だけで、酷く絶望し奇行に走り出す。
物に当たり、人を傷つけ、精神を崩壊させ取り返しのつかない自傷行為にまで及ぶ。
男にしても、彼女を喜ばせるためなら、女装も強盗も躊躇なくやってしまう。
このふたり距離感と時間感覚が異常である。短絡的で性急というレベルも超えている。
若いと謂うより、自立していないのか。
共依存の関係が強すぎるのだ。

Betty Blue002

また、とても奇妙に感じたのが、男が明らかに犯罪(法に触れる)行為に走った時に、必ず彼に同情~共感する人間が現れ、その行為自体を半ば正当化しうやむやにしてしまうところだ。
しかしそれは男にとってラッキーというより、後でツケを払うことにならないか。
少なくともずっとそれで乗り切ってしまうのだから、後が怖い。

ふたりが特にこれといった問題もなくピアノ店をやっていくことは不可能であろう。
ふたりで離れてピアノを弾き合っているシーンなどとても素敵で、ハーモニーも取り敢えず成立していたが、それも一時である。
そう、瞬間においては極めて高純度な愛の昇まりを魅せるのだが、またその経験がある為、離れられないのだろうが、たちまち女の破滅的衝動がやって来て男が狼狽え女を自分に引き戻す(正気に戻す)為に手段を選ばない行動をとる。
お互いに自立した関係で深く愛し合うのとは異質のものである。
愛されるためには、何でもしてしまおうとする。
その目的は自分の思い込んだ幻想に過ぎないのであるが。
作家として成功させ世間に認めさせたい、ふたりの子供を産みたい、彼女の為なら何でもしたい。
この願い自体は何ら突飛なものではない、もっともな願いであるが、それを叶える過程が極めて性急で破滅的で無軌道な形をとるのだ。
じっと現実に堪えて相手の気持ちをしっかり汲みつつ互いに努力を重ね実現させる、ことが本来の在り様であろう。
(ただし、それでは「激しくも悲しい愛のドラマ」にはならないか)。

女のその都度の爆発と精神の変調の増大、それをただ包み込み誤魔化す形で対応し続ける男のスタンス。
依存度~距離のなさ、が悲劇を呼ぶ。
これが行くところまで行ってしまった。
最期は、「カッコウの巣の上で」を思い起こすものである。

Betty Blue003


このタイミングで、彼女のお陰とも謂える、原稿が本として出版されることが決まる。
本当ならこの知らせに、ふたりで喜び燥いでパーティーをするところであったのだ。
彼は第二作目を白く美しい猫~彼女と共に書き始める。
勿論、彼女の半生を描くものだ。





ラストタンゴ・イン・パリ

Last Tango in Paris001

Ultimo tango a Parigi ・  Last Tango in Paris
1972年

イタリア

ベルナルド・ベルトルッチ監督・脚本・製作

マーロン・ブランド、、、ポール(安宿の主人、元アメリカ人)
マリア・シュナイダー、、、ジャンヌ
ジャン=ピエール・レオ、、、トム(TVディレクター)


意味ありげにフランシス・ベーコンの絵が始まりに掲げられる。
男と女の絵であるが、、、、。主演の2人を表すものか。
とても危うく不穏である。

彼の絵は頭部が大きくデフォルメされていて顔=名前が不明だ。
いつまでも掴めない。掴みようがない。
フィギュアの固定を拒む。生成し続ける顔とでも言うべきか。

お互いを掴めない間は常に新鮮な意識~精神で逢瀬を重ねることが出来る。
桎梏から逃れ生~性を全面的に実感する契機となろう。
名前や家や家族、職業これまでの歴史などアイデンティティに触れそれを特定する噺を徹底して避ける。
何者でもない、その都度初めて出逢う者として。

Last Tango in Paris003

偶然にアパルトメントの同じ部屋に目を付けたというだけのきっかけで、2人はその部屋を聖域として何度も性愛に耽る。
彼らにとって唯一のことばであるが如くに。自動的に機械的に続く。
何も知らない同士で、非日常における確かな時間を堪能する。
非日常であるからには、部屋には生活臭があってはならない。殺伐とした人工的な光が射していればよい。
そう、廃墟である。
これは傍目に(観るのは観客~鑑賞者から)見れば虚無的に映りかねないが、彼らを取り巻く日常的現実社会の方が不条理で浮ついていて混乱している。

男は明らかに現実~理由の分からぬ妻の自殺に打ちのめされて、逃避する場としてその部屋~彼女を必要としている。
彼女は勝手に役を押し付けて自分たちの日常をいつもカメラで撮り続けている彼氏にうんざりしている。
実際、彼氏の行為・言動は社会~規範を諧謔的に誇張して示しているとも受け取れるものだ。
2人は確かなものを掴もうとしていた。
そもそも男~ポールはアメリカ人である。異国フランスにやって来てフランス語を身に付けて暮らす外国人である。
ここに来て結婚をして定住するまでに色々な場所や人、モノを捨てて来たはずである。
「アメリカには嫌な想い出しかない」

Last Tango in Paris002

ことばを持たない(放棄した)純粋な関係というものも実現・維持は困難に思えるが、、、
しかし何を血迷ったか、男は「部屋」の外(日常文脈)で彼女との関係を持とうとする。
(その「部屋」は彼女のTVディレクターの彼氏には大人の生活ができない不吉な場所にしか感じられず、彼は他に部屋を探すことにする。明らかに普通の部屋ではないことを嗅ぎつけたのだ)。

妻の原因不明の自殺から、妻そのものが誰であったのかが分かっていなかったことに男は気づく。
(妻はこともあろうに、同じホテルに棲む彼の愛人に夫と同じ柄のガウンを着せていた)。
自分が何も分かっていなかった妻が35セントの剃刀で死体となっている現実。
彼はそのこと~分からぬことにも耐えられなくなったのか、、、。

男は彼女に「愛してる」とまで言う。
これでは、普通の社会のコミュニケーション関係に脱する。そこから逃れて来た匿名の者同士の関係で成り立っていたはずなのだが。
妻の自殺から自分のことまでID関係を喋ってしまう。名前も明かしてしまうのだった。
しかしそれで何かが分かる訳ではないことは、彼の死んだ妻の件から認識できることである。
(ただ通常のコミュニケーションレベルに彼らの関係が落とされることを意味しよう)。
だがこれまで通りの、またはその延長線上の関係が成立・維持するはずもなかった。
彼と妻との関係のやり直しを彼女とやろうと試みたのか。
それでは彼女はもはや彼と関係する意味がない。もはや謎を価値としない存在なのだ。
相互理解の世界に彼女を引きずり込もうとする彼には用はない。

この後は、彼の一方的で強引な彼女への働きかけである。
ダンスホールに連れてゆき(ラスト)タンゴを無理やり踊るが出鱈目な踊りがその枠内で認められるはずもなかった。
「もう終わり」なのである。当然そこを追い出され、彼女は彼から懸命に逃げる。
彼は彼女を追うストーカー以外の何者でもなくなり、彼女の家まで来てピストルで撃たれてしまう。
彼女に追いすがってレイプしようとしたただの不審者として。


男は、フランシス・ベーコンの描いた肖像画を凡庸な肖像画へと描き替えてしまったところで殺されたのだ。



性愛の描写は特に今の映画から見ると大胆でもなんでもないものであった。
お嬢さん」の方がずっと過激である。


愛人 ラマン

L Amant005

L' Amant
1992年
フランス、イギリス

ジャン=ジャック・アノー監督・脚本
ジェラール・ブラッシュ脚本
マルグリット・デュラス原作

ジェーン・マーチ、、、少女(15歳のフランス人)
レオン・カーフェイ、、、大富豪の中国人青年
フレデリック・マイニンガー、、、少女の母(教師)
アルノー・ジョヴァニネッティ、、、少女の上の兄
メルヴィル・プポー、、、少女の下の兄


マルグリット・デュラスの自伝なのか、、、
彼女が数奇な少女期を生きたことを知った。
「モデラート・カンタービレ」は読んだが他の記憶がない。(著作は「愛人」も含め幾つか持っているが)。
映画化された「二十四時間の情事」と「かくも長き不在 」は観た。どちらもこれに劣らぬ名作であった。

とは言え、変わった幼少期を生きて来た人は少なくはない、と思う。
わたしもその点においては人後に落ちない(笑。
折に触れ、何をか書き残そうと、このようなブログを始めたものである。

別に映画を素材~題材にする必然性などないのだが。
映画評など端から書く気はまるでない。
ネタバレなどお構いなし(笑。
そもそも映画自体好きではない。
でも自分の日常を書くよりは、面白味のあることは書けそうだ。
とは言え、それについてわたしが書く以上、日記を超える世界が描けるかと謂えばそんなことはない。

L Amant002

サイゴンの街の如何にも高温多湿な空気がたまらない情念を湛えていた。
連れ込み部屋の刹那的な光と影が永遠に続くようでいて虚しい。

2人とも自らの生活環境と置かれた立場に閉塞感と虚無感を抱いている。
家やルーツに纏わりつく慢性的で逃れ難い状況に鬱屈していたのだ。
少女は経済的な諍いや兄の暴力から、男は父の支配と仕来り(伝統的な規範)からの解放を願いつつも現状に依存せざるを得ない。

富豪(華僑)の彼は結婚の為、留学先のパリから呼び戻されたところであった。
少女は男物の帽子を自分が自分であることを誇示する為、被り続けることに決めた時だった。

L Amant001

そして偶然の出逢いで、磁石のように2人は惹かれ合う。
生理より早く物理的(肉体的)に。
少女は想いも考えもほぼ何も追いついていない。
生活経験上、まだ無理であるか。
境遇、人種、文化、習慣、年齢、、、全てが異なるが似た者同士の2人は、ちょっと敷居を超えれば日々のルーチンのように性愛に耽るようになってしまう。
ただし、男はそれを愛と信じ、少女にとってはひとつの自立心(大人になること)の満足と現実逃避の綯交ぜになったものか。
両者とも周囲にどう見られようが知った事ではない、というスタンスではある。
(聞かれれば、中国人なんかと寝るはずないでしょと強く否定するが、誰もが周知している)。
毎日黒い高級車で学校に迎えに来るのだ。それに乗って行く先も直ぐに知れてしまう。

L Amant004

差別意識は大変強い。
特に彼が少女の家族をディナーに誘った時の彼に対する家族の態度は余りに酷いものであった。
しかし結局、少女の兄の借金やフランスへの家族の渡航費やその他諸々の費用は全て中国人の彼が支払っている。
母は最後に感謝の意は彼女に吐露するが、、、。

2人の関係は際限なく機械的~自動的に続いていた。
不全感のある限り続くような互いを求める関係、、、。
そう、喉が常に渇き切っていて、飲めば飲むほどに渇きを感じるような。
しかしそれには最初から、タイムリミットがあった。
彼の結婚式とその後の彼女一家のフランス帰りである。

L Amant003

2人は不可避的に別れることとなる。
彼は婚礼の儀をあげ、彼女は大型客船に乗った。
波止場に密かに彼の高級な黒い車が見送りに来ていた。
姿の見えぬままにお互いに見つめ合う。

そして、そのまま、岸を遠く離れ水平線しかない海に出る。
やがて夜のデッキに流れるショパンを聴きながら、はじめて彼女は彼を愛していたことを知ってさめざめと泣く。


数十年後、彼は彼女の著作活動を知っており、突然の電話で今も変わらず彼女を愛し続けていることだけを伝えた。


きっと小説は大変読み応えのあるもののはずである。
(小説より先にDVDを見てしまったが、本は学生時代に買って持っていた)。



ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ

Je taime moi non plus001

Je t'aime... moi non plus
1976年
フランス

セルジュ・ゲンズブール監督・脚本

ジェーン・バーキン、、、ジョニー(中性的美少女)
クラスキー、、、ジョー・ダレッサンドロ(廃棄物業者、同性愛者)
ユーグ・ケステル、、、パドヴァン(廃棄物業者、同性愛者)
ジェラール・ドパルデュー、、、白馬の若者(同性愛者)


ボリス・ヴィアンに捧ぐ、、、とある。
『うたかたの日々』以外は読んでいない。ボリス・ヴィアン自身ジャズトランペット奏者でもある小説家であった。
過激でアナーキーな作風には共振するところがあろうか。

”Je t'aime... moi non plus”は、確かに聴いたことがある。
セルジュ・ゲンズブール&ジェーン・バーキン盤である。
セルジュ・ゲンズブール&ブリジッド・バルドー盤は幻のレコードらしいが、、、持っていたら大変なプレミアものだろう。
(喘ぎ声がどうのと言われているが、ヨーコ・オノの迫力の比ではない)。

ゲンズブールの曲はわたしを惹き付ける独特の哀愁がある。
歌詞にしても、、、感覚的な質感がひりっとする。
この曲にはそれほど魅力を覚えなかったが、相当なヒット曲にはなったようだ。オルガンアレンジが良い。
官能的かと言われるとやはり哀愁が強く感じられる。


パドヴァンはいつもビニール袋を手に持ち歩いている。
持っていないときっと落ち着かないのだ。そいえばタオルをいつも手にしていないとダメな人もいた。
時に、それが武器になる。

ジョーはパドヴァンの彼氏に当たる男であろう。
ジョーがジョニーと付き合うようになると、ヒステリー女みたいに喚き散らして嫉妬するパドヴァン。
「あんた、あんな小娘のどこがいいのよ!」
笑うに笑えない。イタリア系で鍋に山のようにパスタを作って食べている。

ジョーにしてもジョニーを男と見做して愛しているのか。
いやジョニーを女を超えた愛の対象として、ジョニーそのものを愛そうとしているのでは、、、敢えて異性であっても。
確かにショートカットのラフなジーンズスタイルでいるジェーン・バーキンは美少年の趣もあろうが。
そもそもジョニーはジョーを男として愛しているのか、いやゲイと知って愛しているのだから、、、ともかくジョー自身が好きなのだ。
(喧嘩になると「何よオカマ!」と罵る)。

これも三角関係というのか、、、。
そうだろうな。
勝手にしなさい、という他ない。

裸の彼女の白肌にほくろみたいなのがあると想ったら、それは蠅であった。
喋っている顔の傍でも蠅が飛び回っていた。
彼女を雇っているスナックのマスターが説教しながら決まっておならをする。
どちらかにしないと、どちらにも説得力はない、と思う。
マスターに対しジョニーは嫌悪感丸出しである。ジョーも「クソまみれの下衆野郎め」を連発していた。口癖なのか?
説教を垂れる事自体、ろくなもんじゃない。
ジョーとパドヴァンは廃品処理業者で都会から出たごみを大型ダンプに積んで地方のゴミ集積場に捨ててゆく。
そのごみの山をジョーは美しいという。そのごみの斜面を転げ落ちたりしている。
ちょっと外骨格の昆虫のような雰囲気が彼らには漂う。

彼らの立っている地平が実感できる。

車の往き交う中を白馬をいつも乗り回しているゲイは一体何をしているのか、不明のままであったが。
不思議なジェラール・ドパルデューである。


余りにジョーとジョニーが仲の良いのに嫉妬して逆上したパドヴァンは、伝家の宝刀ビニール袋を入浴中の彼女の頭に被せて窒息死させようとする。
「もう、いい気にならないでよ、、、」その他罵詈雑言を浴びせつつ、、、。ここはホントの女より怖いカモ。
苦しくて転げ回るジョニー。容赦しないパドヴァン。
その時、ジョーが颯爽とやって来る。
震え上がり言い訳をして小さくなるパドヴァン。

「わたしを殺そうとしたのよ!殴って!」とジョニー。
「いや、あれを見ろ、それでも殴れるか」とジョー。
逆上して「何よオカマは出て行って!」、、、この一言で、ジョーの愛情の危ういバランスが崩れる。

ジョーはとどめるジョニーを振り切り、パドヴァンとダンプに乗って去って行く、、、。
「嘘よ」と言って裸のまま外まで追い、泣き崩れるジョニー。


ジョーの覚醒しかけた愛の冒険の終息する噺であった。
ジョニーがあそこで怒るのも全く無理のないことである。
この愛は、所詮どうにもならないものであったのか、、、。

ジェーン・バーキンの魅力だけで魅せている映画ではない、独特の切ない哀愁があり、かなりのところを突いた映画であった。
シャルロット・ゲンズブールはこの映画をどう思うのだろうか、、、。






幸せはパリで

The April Fools001

The April Fools
1969年
アメリカ

スチュアート・ローゼンバーグ監督
ハル・ドレスナー原作・脚本
バート・バカラック音楽

カトリーヌ・ドヌーブ、、、カトリーヌ(テッドの夫人)
ジャック・レモン、、、ハワード(テッドの証券会社部長)
ピーター・ローフォード、、、テッド(証券会社社長)
ジャック・ウェストン、、、シュレーダー(ハワードの親友の弁護士)
マーナ・ロイ、、、グレイス(富豪の夫人)
シャルル・ボワイエ、、、アンドレ(富豪)
サリー・ケラーマン、、、フィリス(ハワードの妻)

イサムノグチ制作の”Red Cube”(彫刻)があった。
という事は、マリン・ミッドランド・ビルという超高層ビルに会社があるようだ。
相当儲かっている証券会社らしい。
部長であれだけ豪勢な個室があり、物凄い厚化粧(山姥を彷彿)の秘書も付く。
かなりの身分だ。
彼の妻は月に一度は、家を買い替える。
内装に凝り、それに飽きたら他の家に移るそうだ。
(結構な身分である)。

しかし夫婦間で会話が無い。
一方通行な噺~報告、予定だけがなされるのみ。相手の噺は聞かない。
子供は彼に全くなついていない。電話にも出ない。犬も吠えるだけだ。
そんな愛情もコミュニケーションもない家庭であった。


そして、彼が社長主催のサイケデリックなパーティで恋に落ちた女性が何と社長夫人であった。
如何にもというラブコメ展開である。
笑えるシーンは結構ある、だが全体の流れが余りに安易というか凡庸。
いやこういうジャンルの映画なのだ、と謂われればそうなのかという他ない。
ここ三日ばかり、わたしの苦手な映画が続く。

わたしが一番戸惑ったのが出逢いの場からの展開なのだ。
パーティーで特に何があったでもないのだが、何となく二人は恋に落ちていたみたいなのだった。
別に特別~特殊なプロセスを踏まなければならない道理はないし、恋とは一目で電撃的にするものなのだろう、、、。
理論的に結論を出すモノではなく、直覚する領域にある事である。

とは言っても、、、双方がどのタイミングでピンときた(ビビビと来た)のか、分からないのだ。
わたしが見落としたのかも知れないが、何となくそうなっていたとしか思えぬ流れであった。
えっそうなの?という感じ(笑。
そういうものなのか、どうなのか、よく分からないのだが、、、。

で、その後は双方とも家庭を持っている為、伴侶にそれぞれ別れを告げて、カトリーヌの故郷パリへ2人して飛び立つのだ!
ハワードは昇進したところで、きっぱり会社を辞めて、つれない家族を捨てて、新たな世界へ。
カトリーヌはどうやら愛想尽かしていた夫と別れる契機を狙っていた感もあるが、丁度良い機会として乗ったのであったのだろうか。双方とも安定した経済と地位を捨てるには、相当な覚悟であるはず。
ハワードの方は、若くて美しいパリジェンヌに全てを任せ一目惚れの逃避行と言ってもこちらも納得できるが、、、。
カトリーヌはカエルの王子様にキスして本当の王子様を彼に見たのか?ホントなのか?
そこのところが、今一つよく分からないのだ。

この映画はカトリーヌが最後にどんでん返しを喰らわす類の映画ではないのだ。
ブラック要素の無い、具体性(現実性)も無い、ひたすら愛を追うことに比重を置いた夢心地な御話なのだ。
勿論、所謂不倫による泥沼的な展開などないあっさりしたものだ。
良い感じで2人は旅立ってゆく、、、。
人生をやり直す~再生をパリ~ロマンチックな都で図るのだ。

だが、裕福な生活に慣れている人が大丈夫か、、、
職の当ては、そしてお互いに相手をまだ知らないだろうに、、、富豪夫人の占いで相性が良いと言われただけ。
逢って、たった二日間の流れではなかったか。
白昼夢をぼんやり見るような映画であった。


音楽はバート・バカラックだった。
”The April Fools”は確かに彼ならではという曲である。
(わたしとしては、「オースティン・パワーズ」での彼が一番印象的であるが)。

カトリーヌ・ドヌーブもアメリカ映画に出るのか、、、結局、ニューヨークに愛想尽かしてパリに帰ってしまうが(笑。




”Bon voyage.”

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