プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
必ずパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。
友人から、お前はトマトか?と聞かれたので、だいぶ前に使っていた写真に戻します。

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鞄を持った女

LA RAGAZZA CON LA VALIGIA003

LA RAGAZZA CON LA VALIGIA
1961年
イタリア

ヴァレリオ・ズルリーニ監督・脚本
マリオ・ナシンベーネ音楽


クラウディア・カルディナーレ 、、、アイーダ(クラブ歌手、未亡人)
ルチアーナ・アンジェリロ 、、、マルチェロ(富豪の放蕩息子)
ジャック・ペラン 、、、ロレンツォ(マルチェロの弟)
エレオノラ・ロッシ=ドラゴ 、、、ロレンツォの叔母
レナート・バルディーニ


とても古典的な映画である。舞台もパルマで古都である。
落ち着いて観られるものだが、、、。

マルチェロ(ジャック・ペラン)が兎も角、素晴らしい。
演技もよいが、こんな青年いるか?!
まず今、こんな青年は最古の化石の発掘をするつもりで探さなければ見つかるまい。
何と謂うか、、、瑞々しくも切ない純愛なのだ!?
そしてその青年がたちまち恋に落ちたのがクラウディア・カルディナーレである。
クラウディア・カルディナーレがこれまた清楚で美しい。
(クラウディアにときめくのは別に何の不思議はないが。ときめかないなら病院で診てもらう必要はあろう)。

綺麗なお姉さん(CMにあったな)に初恋する(こういう言い回しあるか?)年下の男の子(こういう歌あったな)である。
しかもずっと後まで、手も繋がない(これも歌にあったな)、極めてプラトニックな愛が描かれてゆく、、、。
まあ~それでも何というか、、、管轄外の映画である(爆。
勝手にしなさい、と思いながら鑑賞である。
やはりイタリア女性である。よく喋り気は強くダンスやお酒は好きである。

LA RAGAZZA CON LA VALIGIA001

噺は息苦しい程にシビアである。
リッチオーネのクラブ歌手のアイーダは偽プロモーターに騙され、新しい仕事の為、その男と二人でゴージャスな旅に出かけたのだが、途中で見知らぬ街に独り置いてけぼりを喰らう。仕事どころか元のクラブからも見放され、彼女は途方に暮れるも、どうにか偽名で騙した男の家をつきとめて行くと、その対応に出たのが男の弟ロレンツォであった。
彼は彼女の困惑振りとその美しさに戸惑い、兄に言われたとおりにそのまま追い返すことが出来ない。
兄の不義と彼女への淡い恋心から彼女にお金やドレス、ホテルの部屋などの支援をしながら関わりを続けてゆく。
当然、彼の思いは次第に深まって行き、彼女もそれに気づくが困窮の為、彼の援助に甘えるしかない。
仕事を見つけるまでと思いつつ二人の時間が流れる。

LA RAGAZZA CON LA VALIGIA005

門限を破ったり勉強に身が入らなくなり、その素行から叔母や教師である牧師にことの次第がバレてしまう。
牧師はロレンツォを諭し、アイーダに対してはこの地を去るように言い渡す。
アイーダは牧師から、彼女を騙して捨てた男はロレンツォの兄であることを告げ知らされる。
しかしロレンツォは只管、アイーダに尽くす。文字通りの無償の愛である。
お金も叔母から貰うお小遣いからのやり繰りである。
恋に胸が張り裂けそうな本当に生真面目な青年(少年か)なのである。

LA RAGAZZA CON LA VALIGIA002

アイーダは故郷リッチオーネに戻るが、もう元恋人のバンド・マスターであるピエロは彼女に憤っており、頑として撥ねつけてしまう。
彼女はなす術もなく、上手く取り入って間に入って来たクラブオーナーに身を任せる方向になる。
金を無理やり2万リラ握らされ契約成立と持ち込まれた時に、後をつけてやって来たロレンツォが爽やかに割って入る。
この登場はまさに待ってました、である(分かっていても)。
そしてロレンツォが男になる。
相手を柄にもなく殴るのだ。だが逆に、怒った男にボコボコにされる。
仕方ない、喧嘩などはじめてなのだ。

LA RAGAZZA CON LA VALIGIA004

海辺ではじめてお互いのこころを開き、お互いに対する愛情を確認する。
しかし、二人は結ばれる運命にはないことは、最初から分かっていたことである。
お互い見つめ合い慈しむように静かに抱擁する。
これはすでに衝動的な恋愛を超えた崇高な姿に見えた。


薄暗い駅の待合室での静謐で張り詰めた別れのシーンは秀逸であった。
この感情を押し殺した言葉少ない空間の重みは限りなく切ない。
アイーダは終始ロレンツォに視線を向けない。
彼女は彼にに早く汽車に乗ることを促す。
ロレンツォは返事はいらないからと言って最後の手紙を手渡し彼女の腕にそっと触れ出てゆく。


当座の生活資金であろうか。当然、家が裕福とは言え16歳の男の捻出できる額を遥かに越えた札束が同封されていた。
これで、彼女は他者の思惑に惑わされずに自分のやりたい仕事を選べるはずである。
クラブを渡る流浪の身は変わらぬであろうが。
(鞄を持つ女である)。


まだ若い青年と若い未亡人との今生の別れである。
(恐らくこのシーンは、恋愛~悲恋映画の別れのシーンとしては不滅の名シーンに数えられると想える)。



LA RAGAZZA CON LA VALIGIA006









ボンヌフの恋人

Les Amants du Pont Neuf001

Les Amants du Pont-Neuf
1991年
フランス

レオス・カラックス監督・脚本
主題歌:デヴィッド・ボウイ、リタ・ミツコ

ドニ・ラヴァン 、、、アレックス
ジュリエット・ビノシュ 、、、ミシェル
クラウス=ミヒャエル・グリューバー 、、、ハンス


凄まじい貧困状況が映される。
「狂った夜」の貧困表現など飯事だ。
そして夜もうすぼんやりした夜ではなく漆黒の夜。
主要人物はみな、思いっきり汚い。

アレックスは路上で我を失い寝転がっていたところを片足を車に轢かれる。
偶然そこに出くわした片目を眼帯で覆っているミシェルはそれを死体だと思ってデッサンにする。
アレックスは片手の指をピストルで吹き飛ばす。
片思いはいつものこと、、、。

アレックスは退院すると自動的にボンヌフ橋に戻る。
ボンヌフ橋は修復の為、工事中であるがそれも中断しており、そこを住処にしている者もいる。停滞の象徴。
今のままではダメだ、南仏に行こうと良心的な人に誘われるが、気持ちは乗らない。
アレックスは基本、何処にも行けない。
それは分かる。わたしも行けないのだ。理解できる。
橋の自分の寝床には、彼を道端でデッサンした女ミシェルが寝ていた。
動ける契機と謂える。逆に謂えばこんな事態が生じなければ、そのままであり、多くはそのパタン。

アレックスは、眠り方を知らず、ハンスに頼っていた。
ハンスが箱から眠剤のガラスアンプルを取り出す。ここがとてもゾクゾクする。
ハンスは元警備主任であったためそこらじゅうの施設の鍵も全て持っていた。
世間から退き、年老いて沢山の鍵を持つ男はいるものだ。

Les Amants du Pont Neuf005

明るい時の明るさがことさら明るい。
夜の漆黒のせいだ。
レオス・カラックスの黒と呼びたいほど。
それによる明暗のコントラストが凄い。
アレックスの年上の相棒ハンスは女のホームレスを認めない。
家に帰れと、、、。しかし彼は彼女を嫌っているのではない。
彼女の視力はどんどん減退する。蛍光灯の光にも耐えられない。
夜、ハンスとミシェルは美術館に一緒に忍び込み、肩車して蝋燭の光で彼女にレンブラントを見せてやる。
レンブラント光線を逆照射された彼らも絵の中の姿になる。
この明暗の妙。

盗んだ魚を夜刺身で食べる。
「日本ではこれをスシというのよ」
アレックスに言っても意味はない。想像もつかない。
彼女もホームレスだが元は裕福な家のお嬢様である。
ふたりで睡眠強盗をカフェテラスで行い金儲けする。一緒に悪事をすることは楽しい。彼ははじめて海を見るが、、、
アレックスはそれ~金が彼女を橋から遠ざけてしまうことを恐れる。
徹底して彼女の移動を拒む。

Les Amants du Pont Neuf002


アレックスは彼女のもっていた手紙から素性を探る。
ジュリアンとは彼か。
彼女は彼を描き、彼は彼女に音楽を送った、、、
何かが起こった。彼は去り、彼女は待った。
彼のことが忘れられない。
それが愛か。
彼を探すために家を出たのか、、、
アレックスはそんな一連の物語を想い、彼女のことで頭が一杯となる。

火を噴く大道芸。
漆黒の夜にパリの祭りの花火と火炎。
夜。川。花火。音楽。ピストル。踊り。
酔っぱらって下品に笑い転げる。ピストルの弾丸を一発だけ撃たずに残しておく。
(それが後にアレックスの指を撃ち抜く)。

「空の白。雲の黒。」とアレックスはミシェルに求愛のサインを出した。
しかし彼女は別の男に関わっている。
何度も彼女がアレックスに言う言葉
「いつか話すわ」
戸惑い憤りにも繋がる。
それなのに、空の白を受け容れ、愛し合う。
だが、元々そのまま落ち着けるはずもない。そんな場所にいないのだ。

Les Amants du Pont Neuf003


メトロでチェロの音に惹かれて走り出すミシェル。
チェロの男を追い払うアレックス。
メトロで彼女を探すポスターが貼られる。
「彼女の目が治せるというメッセージ」
剥がして火をつけるアレックス。
ミシェルはドア越しにジュリアンをピストルで撃ったのか、、、だが一発も使われていなかった。
アレックスは、片っ端彼女を探すポスターに火をつけて周るが、荷を積んだ車ごと作業員も焼き殺してしまう。
こちらは悪夢では済まなかった。街で日常を生きる子供が目撃していたからだ。

ハンスは、ミシェルと絵を観た翌朝、川に沈む。
目が治せることをラジオで聴いたミシェルはアレックスに「あなたを愛してなかった。わたしを忘れて」と橋に書き残して去る。
服役していたアレックスに2年ぶりに目の治ったミシェルがやって来て言う「治らないものはないのよ」
生きていれば治るのだ。そして動こうと想えば何かに乗ってしまえばよい。動ける。違う人間になれる。
壊れた橋も直った。しかしそこには彼らの居場所はない。交通があるのみ。

人も生きていれば治るのだ。

Les Amants du Pont Neuf006

クリスマスか、、、。
雪の降る寒い夜、、、あまり寒そうには見えない。
午前零時のしっかり完成したボンヌフで二人は逢う。
ここでも二人は実に下品に笑い燥ぎ合う。
そして幸福を分かちあうが、彼女はもう帰らなければならないと切り出す。
「いつか話すわ、、、」
「嘘つき!」と叫びアレックスは彼女に飛びつき川に共に身を投じる。橋から弾き飛ばされるみたいに。
砂を積んだ船に拾われそのまま船の行く先「ルアーブル」にふたりも一緒に向かうこととなった。

Les Amants du Pont Neuf003


「微睡め、パリよ!」
橋を失ったアレックスはミシェルとこの先、何処にでも行けるはず。


やや、尻切れトンボで終わってしまった、、、。
が、それまでがとても良いからいいことにする(笑。




ボーイ・ミーツ・ガール

Boy Meets Girl001

Boy Meets Girl
1984年
フランス

レオス・カラックス監督・脚本

ドニ・ラヴァン:、、、アレックス
ミレーユ・ペリエ:、、、ミレーユ
キャロル・ブルックス、、、:ヘレン
アンナ・バルダッチニ、、、フローレンス

「汚れた血」も「ポンヌフの恋人」もとても入り込み易かったのだが、これはどうしても眠りに入ってしまう。
「夜」の映画で、モノクロの画面は何とも心地よいが、断片的で詩的で忙しない、、、。
ふっとどこか見損なったり飛ばしてしまっている。
セリフ過多の映画である為、映像より字幕を見てしまう率が高く、映画として見難い点も大きい。
フランス語に堪能な人向きの映画である。
噺に流れや方向性は特にない(物語性が生じそうになると拒絶している)。あるのは詩的な断片性とでも呼ぶべきものだ。
しかも詩をよく咀嚼するというよりも、映像に専念すべきところか。
(わたしはお陰で余り映像が見れなかった。まるでながら見をしている気分であった)。

部屋の額入りの絵を外すとこれまで自分がやって来たことの地図~見取り図が描かれていたが、お洒落だ。
真似してみたくなった。
そこにちゃんと道路と川沿いの間で恋人フローレンスを奪った親友を殺そうとして未遂に終わったことも記されている。
これは、お洒落だ。
ホントにやってみたい。

Boy Meets Girl005

暗転が動悸のように入って来る。
忍び込んだパーティーに居座る。
カップの割れ目からミルクを飲むアレックスは人生をやり直したい。

トイレに行きたいが使用不可であったり満員だったりで
その間ピンボールを知らないおじさんとやり続けたり。
そう謂えばタップダンスをフローレンスがひとりでやっていたり。
ひとつのシーンが充分に長いのも特徴。
わたしはその長さは好きだ。

Boy Meets Girl003

モノローグとことばの奔流
苦悩を音楽にしない為に喋り続けるのか
然し詩的だ
過剰に
わたしのもっとも苦手なタイプの詩だ
(フランス映画に多い。いやイタリア映画にもある)。
タルコフスキーのことば群(神学的な詩)にはしっくり来るのに、何故だろう。
そう映像詩というものとはまた本質的に異なるからだ。
ヌーヴェルヴァーグだ。
ゴダールを引き合いに出すべきだろう。
しかしゴダールはしっくりするし、入眠はまずない。
いや、「汚れた血」も「ポンヌフの恋人」もなかった。
この作品だけだ、、、。
何でこんなに騙らなければならないのか
「恋人を言葉で殺したくない」
「黙れば彼女が自殺する」

詩と謂うより内容的に思索であろうか。
観念論的な思索。
(タルコフスキーとはまた異なる)。
ある意味、それが落ち着かなくさせる。

Boy Meets Girl004

ミレーユに愛してると言ってみる。
だが同時にフローレンスにもまだ恋しているという。
そうしないと自分の心が開かないとか、、、。
当たり前だが気持ちは常にすれ違い遠ざかって行く。
彼女は恋人をまだ意識している。
だがその恋人とも終わった。

アレックスは走る。
この人はいつも必ず走る。
ミレーユに助けを求められるが、その時は、、、。
何故だかアレックスはふて寝を始めた。
(折角、走って来たのに、、、そういうものか)。

走る姿というか演出は
「汚れた血」~「ポンヌフの恋人」での方が格好良かったが。
やはり夜だ。
レオス・カラックスとくれば「夜」の映画だ。

Boy Meets Girl002

わたしはヒロインよりも手話の通訳の女性が素敵に思えた。



ポリーナ、私を踊る

Polina, danser sa vie001

Polina, danser sa vie
2016年
フランス

バレリー・ミュラー、アンジェラン・プレルジョカージュ監督
バスティアン・ビベス原作
バレリー・ミュラー脚本

アナスティア・シェフツォワ、、、ポリーナ
ニール・シュナイダー、、、アドリアン(ポリーナのダンスパートナー)
ジュリエット・ビノシュ、、、リリア・エルサジ(コンテンポラリーダンスの先生)
ジェレミー・ベランガール、、、カール(最初の彼氏)
アレクセイ・グシュコフ、、、ボジンスキー(ボリショイバレエ監督)


今日は何も頭は使わず、身体で感じる映画を選ぶ。
(日本のアニメはとかく小難しいものが多い。というか少女漫画形式であるところの難解さがある。面白いからいいけど)。
これはバレリーナ~ダンサーを目指して自分~自分の踊りを見出す女の子の噺である。
淡々と彼女の姿をそのまま描写してゆくといった捉え方がよい。

彼女はロシア~南フランス~アントワープと自分のダンスを求めて移動する。
その間にダンサーだけでなく、様々な人々の生活の中の動きを観察して取り込んでゆく。
動きの美学の可能性をゼロから模索してゆくのだ。
(異国でお金が無くなりバーでアルバイトをしながら自分のダンスを極めんとする)。
若いうちにしか出来ない。
大いにやるべき。
ただ、ボリショイの試験に一発合格して、将来を嘱望されながら、あっさりボリショイ・プリマを棒に振るというのも大した度胸。
「他人のフリを真似るのはイヤ!」、、、実力があるから言える言葉ではある。
父親は娘がボリショイのプリマになることだけが夢で、結局娘が道を模索中に亡くなってしまう。
これは、とっても無念であっただろう、、、。凄く共振する部分であった。

「眠れる森の美女」とか「くるみ割り人形」、「白鳥の湖」など彼女の舞で観てみたいではないか、、、。
ボリショイの試験に受かるなんてコメの粗である。
落ちた人も沢山いるのだし。まずは、踊りで成果のひとつもあげてから、転身しても良かったかもしれない。
自分でもわたしはクラシックに向きだと言っていたのだし、、、つまりは自分を探すのではなく自分の殻を破りたいということなのだ。これまで身体に沁み込んだ型を解体しなければ、必然的に他人の真似に落ち込んでしまうということか。

Polina, danser sa vie002

すぐにコンテンポラリーに行かなくても、モダンバレエではダメなのか?
あのイサドラ・ダンカンに始まる革命的バレエがあるのでは、、、。
アンナ・パヴロワそして重力を超越したニジンスキー、、、。
古典バレエの充分な素養のもとに進むならこれも視野に入れてはどうか。

しかし、人々のたむろするバーやクラブ、街頭などで、今現在の身体性を表現するものはコンテンポラリーダンスとなろう。
いまの自分をその中~関係性において見つめるとしたら極めて自然な成り行きであったか。
彼氏と一緒にコンテンポラリーダンスの「白雪姫」を観た影響も大きいものであったようだ。
(踊っていた女性の方は日本人と見た)。
自分を(そして家族というルーツも)解体することではじめて現存在に同期する踊りが発見できるのかも知れない。
ならば若いエネルギーの迸るうちにやるべきことだろう。

Polina, danser sa vie003

クラシックバレエやその練習風景などに流れる音楽はクラシックな弦楽奏などでよくマッチしていたが、コンテンポラリーダンスの場面などで流れるアシッドなシンセミュージックが余りにチープでつまらないものであった。
この辺の選曲にかけては、‎デヴィッド・リンチ監督のセンスが凄いのだが(ツイン・ピークスでつくづく思った)。

ヒロインのポリーナ~アナスティア・シェフツォワがちゃんとしたバレエの体つきであり動きも見事であった。
また、全体に渡って随所でしっかりした踊りを魅せていたことは、特筆したい。
この辺、映画によっては、とてもバレエの体格ではないのに何で?というヒロインに出逢ってしまうことがある(笑。
ブラック・スワン」は例外であり素晴らしかったが、最近の映画でもバレリーナには無理のあるヒロインが散見される。
勿論、動きにおいては専門家が代役をやっており、それが分かってしまうのだ。
(妙なイメージ映像になったり、スローモーションやディテール画像になったりもする)。
ここでは、全てポリーナがしっかり熟していて、とても流れがすっきりしている。
(もしかしてこの人そちらの方のプロなのか?)

そして、あのジュリエット・ビノシュが如何にもという感じの渋~い先生で出演している。
汚れた血」の頃が懐かしいなど禁句であろうが、やはり想いうかべてしまうところはある。
余りに渋いのだ。
的確なアドバイスの優しく出来るとてもよい先生なのだが。
ちょっと寂しい。

Polina, danser sa vie004

コンテンポラリーダンスの動きがポリーナ含め何人ものダンサーによって見ることが出来たが、どれも独自性がありアイデアがあって、饒舌なのだ。
やはり伝統や集団のものではなく、藝術~概念がはじめにあるのでもなく、今を生きる個人~個性~自分の踊りを追及するもっとも過激な形なのだと認識を新たにした。


最後のダンスで彼女は自分(自分の世界)を見出したのだった。
ある意味、父を失ったことで見えたものがあったのだ。
尊敬するボリショイの常に強面のボジンスキー先生が彼女に微笑む~彼女を認めるイメージを見るところで終わる。
アナスティア・シェフツォワという女優またはバレリーナは今後、どういう方向に進むのかも気になる。

Polina, danser sa vie005







魔法少女まどか☆マギカ 劇場版 新編

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新編:叛逆の物語
2014年

新房昭之(総監督)、宮本幸裕 監督
虚淵玄 脚本

鹿目まどか (悠木碧)
暁美ほむら (斎藤千和)
巴マミ (水橋かおり)
美樹さやか (喜多村英梨)
キュゥべえ (加藤英美里)
佐倉杏子 (野中藍)
百江なぎさ 、べべ(阿澄佳奈)


唖然としているうちに終わる。特にエンドロール後の最後の映像、、、。
そのシーンは何だ?という感じ。(ほむらが高台から身を投げ、キュウべえが毛並みをグチャグチャにして怯えている、、、怯えであれば感情の芽生えか?)
昨日より物語は錯綜して凝縮しており、観た後でパッと書くのは更に難しい。
だが咀嚼しているうち入眠してしまいそう。観たことのあらすじだけでも書ける範囲で記しておきたい。
後で考えることにする(爆。

「ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテット」とか言ってしまう序盤、どうしたんだ~と声を上げてしまったが、、、やはり尋常ではない禍々しくも美しいデストピアと謂うべきか、、、がギミックたっぷりに展開する。

まず驚いたのは出だしである。わたしは、ディスクを間違えて再生したかと思ってしまった。
前編そっくりそのままではないか、、、そして、やはり新編だったことに安堵するも、まどかが何故か普通に混じっていて、ほむらは眼鏡をかけた控え目少女としてやはり転校生として登場。もっとたまげたのは、5人そろって仲良く登校、そして放課後レクみたいなナイトメア退治でどうなるのか、、、。
大体、本来地上に一緒にいるべき面々ではなかろうに。

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そしてこともあろうに、5人そろって「いくわよ、みんな!」と来たときは、真面目に心配になる。
プリキュア・ファイブか!?
所々でミュージカル調に躍動し、プリキュアみたいにコミカルにナイトメアを処理し、フルーツバスケット風の遊びも入る。
巴マミはこんな生活こそ自分の理想の生活だと喜びを噛みしめていた。
だがその空間も、ほむらの記憶の覚醒によって綻び始める。

尋常ではない気配がひたひたと迫って来る。
(こう来なくちゃとは思うが、同時にとても不安になる)。
平面的で装飾的なアートワーク。そのコラージュが増々禍々しさを吐き出して行く。
実写ならカメラワークになる空間の切り出しアップ、引きの切り替えも鮮やか。
コラージュ、パッチワークに吸い込まれてしまう。

「見滝原」という5人~鹿目まどか、暁美ほむら、巴マミ、美樹さやか、佐倉杏子~のいる場所が外部の存在しない、魔女によって構築された偽装空間であることが分かる。そう、魔女というこの世界に無い存在を、ほむらは思い出してしまうのだ、、、。
そして誰もの記憶が改竄されているのでは、という疑念が生じてくる。

マミは自分をかつて殺した魔女べべと昔からの友達だと信じ仲良く暮らしているのだ。
まずは疑うべきは、魔女のべべである。

べべを巡る、ほむらとマミの闘いは凄まじい銃撃戦となり唖然とする。
ここで、ほむらとの対話を通し、マミもその世界にいない魔獣についての記憶を蘇らせる。
べべも百江なぎさのかつての姿に戻り、マミの前で釈明する。
一方ほむらはさやかに救い出され、彼女が明らかに何かに気付いていることを知る。
さやかは魔法少女の中にこの状況を望みこの世界を創造した者がいることを示唆する。
そしてこの状況が悪いものなのかも問いただす。この願望世界が、、、。
何の悪さをするでもなく、ただ彼女らを閉じ込め現状維持しているだけの魔女とは何者か?

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成る程ね、である。
ほむらが魔女になっていたのだ。
このような状況を~まどかの犠牲を無化するような茶番劇を~もっとも否定するほむら自身が創っていた。
しかも自身の「ソウルジェム」の中にひとつの街全体と自分が蘇らせたい人を無意識に選択的に再現していたのだ。
だが一人だけ世界に存在しない、鹿目まどかという存在も何の違和感なく入っていた。
まどかのことを知っている者は彼女しかいない。
インキュベーターにはそれは理解できない。
「あなたは円環の理を鹿目まどかと呼んでいましたね」ということだけは押さえている。

インキュベーターはほむらの「ソウルジェム」を遮断フィールドで隔離して、円環の理そしてほむらから仮説(事実)として聴いていた魔法少女から魔女への絶望による相転移エネルギーに関する観測及び干渉実験を試みその支配にまで及ぼうとしていた。インキュベーターが再編以前に自ら行っていたことを再発見する契機でもあった。(ほむらが魔女に変身したのはこの遮蔽フィールドによって円環の理の作用が及ばなかったからだ)。
インキュベーターはまどかに救済を求めるようほむらを促すが、インキュベーターの魂胆に彼女は激怒し、完全に魔女となりまどかを守ろうとする。後は百江なぎさ も含む5人にその身を委ねる。だが彼女らはそれを知っており、魔女の結界も遮断フィールドも破壊し、ほむらをインキュベーターから救う。この後の行動は、ほむらがまどかの本心を聞き取っていたところからくるものである。

まどか=円環の理にほむらも招き入れられようとするとき、ほむらは怪しい笑みを浮かべまどかの腕を握り、彼女から人間としての記憶を奪い取ってしまう。この行為は「ソウルジェム」を濁りより悍ましくも怪しい色に輝かせ、希望よりも熱く絶望よりも深い感情、すなわち「愛」によるものであることを告知する。
神を冒涜したことにより自身を悪魔であるとほむらは宣言する。
神の対概念である悪魔。
そしてほむらにより再び世界は再編される。
新たに生まれた見滝原中学校に彼女らは元のように在学しており、今度はまどかが帰国子女として転校してくる。

ほむらが彼女の校内の案内をするが、まどかは何か忘れている大きなことに気付く。
ほむらは彼女と敵対する立場となる可能性を示唆し自分がかつて貰った赤いリボンをまどかに返す。






この続きは間違いなくある。

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それにしても長女はこの難しい物語をどのレベルでとらえたのか。
聞いてみたら、「二度見なければ分からないね」と言われた。
恐らく、二度見るだろう、、、。



魔法少女まどか☆マギカ 劇場版前後編

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前編: 始まりの物語と後編:永遠の物語(2012)を観た。

新房昭之(総監督)、宮本幸裕 監督
虚淵玄 脚本

鹿目まどか (悠木碧)
暁美ほむら (斎藤千和)
巴マミ (水橋かおり)
美樹さやか (喜多村英梨)
キュゥべえ (加藤英美里)
佐倉杏子 (野中藍)
志筑仁美 (新谷良子)
鹿目詢子 (後藤邑子)


長女に何かいい映画ない~と聞いたら即、これが良いと言われた。
次女も競うように「進撃の巨人」と言って来たが、TVアニメ版では沢山観なければならない。
これは、ほぼ2時間を二つ観ればよい、、、時間が無い!直ぐ見なければ間に合わない、という事でこっちを観ることにした。

何というボリューム!
少女たちの張り裂けんばかりの苦悩と葛藤その果ての決意を、、、これほど繊細に力強く描いた映画を他に知らない。
魔法少女の間に生じる猜疑、反目、友情の密度も半端なものではない。
明日、新編:叛逆の物語を観る予定であり、その時にまとめたい。
今日は感想をまとめる余裕はどうやら、ない。


キュゥべえ(インキュベーター)の魔法少女になる契約時に「どんな願いも叶える」というのが、何ともよく分からない。
本当に無制限(無際限)にそれが出来るなら、別に地球の少女に頼むまでもないような気がするのだが、、、。
(魔法)少女に頼む必要があるなら契約の際に「宇宙の寿命を延ばして~」と、願いとして言ってもらえばよいのでは。
ダメなのか?
このキュゥべえ、プリキュアに出て来る支援キャラとは似て非なる者である。

魔法少女となると毎晩(夜に限らず)、魔女を探し出してこれを退治しなければならない。
そうしないと、自分の生命力が減退してゆくことになっている。
しかし、魔法少女たちは充分な説明を受けてなっているようではないらしい。
ただ、漠然と魔女~悪から街を救うくらいに考えている者も少なくないようだ。
犯罪や大きな自然災害なども、その姿~実態は普通の人間には見えぬが、魔女の仕業であることが多いという。
(ここは妖怪ウォッチみたいだ)。

第二次性徴の思春期女子のなった魔法少女が、希望から絶望へ相転移し魔女となる際に発生する膨大な感情エネルギーがエントロピーを覆し宇宙の寿命を延ばすエネルギーとなる、という呆気に囚われる途方もない原理である。
そのエネルギーを回収しに来たのがインキュベーターのキュゥべえであるという、、、。
縫ぐるみみたいな恰好をしている、高度な知的生命体が送って来た支援者とでも言うべき物らしい。
このインキュベーターを送り込んで来た異星人には感情はない、という。
では、音楽はないのか、、、。
確かに感情こそがエネルギーを生む。


根幹の部分に拘らなければ、そこから展開して行くストーリー自体のドラマチックな緊張感と迫力で一気に前・後編を観てしまう。
はっきり言って大変重厚なドラマである。

希望と絶望のバランスは差し引きゼロ。
誰かを救った分、恨みと妬みが溜まるというのは、ここで展開される噺を観ると説得力がある。
確かに思春期の少女でないと、強烈なエネルギーは生じそうもない。
おじさんおばさんといった達観した人からでは、何も出まい。
ただ幸せを祈った分、他の誰かを呪わずにはいられない、というエネルギー法則は戦争の原理に当てはまる。
ここは、老若男女だれもの問題である。

祈りに見合う呪いを背負い込んで来た有史以前からの歴史を、まどかはキュゥべえから見せられる。
彼女は目を覆うが、その破滅(破壊)運動なしに地球人の進化~文明は生じなかったと、、、。

「ソウルジェム」というガジェットに魂は格納され、体はそれにより痛みを感じず、修復もすぐに出来るという。
これが身体から離れると、もぬけの殻みたいになってしまうところなど、ガジェット系はアイデアも良い。
しかし少女である。そんな自分の体をゾンビのように受け取り取り返しのつかない引け目を感じてしまう。
それが恋愛に絡めばもう絶望を呼ぶだろう。
自分が身を犠牲にして救った相手が自分を捨て自分の大切なものを奪うと同時に、自分も相手に見返りを期待していたことを自覚する、この認識が自らを引き裂き苦しめる。
それが呪いの気持ちとなって募り「ソウルジェム」が黒く濁るとエネルギーを発しながら「グリーフシード」となり魔女に生まれ変わるシステムである。
つまり、インキュベーターによって仕組まれた魔法少女から魔女への変態によるエネルギー回収の流れでもある。

インキュベーターは、説明を求められても、その人間にとって不快な側面のことはいわない。
決して嘘は語らないが、相手が未知のことの為に質問すら思いもよらない件に関しての配慮はまったくない。
ある意味、無知に付け込んで契約を取る口の上手いセールスマン的なところである。
特に、最後は必ず魔法少女は絶望し魔女に変わってインキュベーターの餌食とされる件については何も語らない。
通常ならこれが判明したところでクーリング・オフというところだが、一度魔法少女になってしまっては後戻りできないのだ。
騙しであるが、理解認識上の齟齬と彼らは捉える。狡い。

切迫した質問に対し、そういった条理を覆す前例はまだ見たことありません、などと答える。
まず、不可能だと考えますとは、言わない。ここが大変な結果の差を彼女らに齎す。
こいつら、やはり人類の敵である。

ほむらは、まどかとの出逢いを変え、終わり方を変えるために平行する時間流を何度も乗り換える魔法を使う。
そのたびに途轍もない強敵「ワルプルギスの夜」との闘いに及び、まどかはそのたびに死んでいる。
ほむらはまどかを救いたい一心で何度も未来の時間系から遡行を続けて来た存在であった。
その希望を持つ限り闘い続けるしかなく、絶望した時点で魔女になり、その救済は消え去ることでしか訪れない。
救いのない無限ループにあって闘い続けるほむら。
しかしそれを余りに何度も繰り返した為、まどかを中心軸にして時間を束ねてしまうこととなる。
まどかは所謂、因果の特異点となってしまう。
その為、非常に強力な力をもつ魔法少女の素質を持つに至った。
だがそれは前代未聞の最凶の魔女を生み出すことにもなる。

何度も闘って敗北している「ワルプルギスの夜」を相手に、ほむらがもう後の無い劣勢に追い込まれたときについにまどかは魔法少女になる(実際に魔法少女となるのは最後の最後だ)。
その時の願いが、「過去・現在・未来の魔女を生まれる前に消し去る」というものであった。
その為、まどかはこの次元より一つ上の次元(全ての時間が既にある地平)の存在となり、地上からみれば概念のかたちとなる(謂わば、神と同じ位置付けとなる。「円環の理」と彼女らの間では呼ばれ伝えられる)。
彼女は、魔女となろうとする存在を全て浄化してゆく。
この行為は宇宙の因果律自体を書き換えることにも繋がり、宇宙が再編される。

その結果、命を落とした魔法少女がまどか以外は全て存命で残っているが、まどかその人のことを覚えている人間は、時間を遡行できるほむらだけとなっていた。彼女はまどかから赤いリボンを貰っていた。これによって宇宙全体が変わってしまっても覚えていられるようにと。この辺、「君の名は。」を思い出す、、、。



兎も角、見応え充分すぎる超弩級アニメーション映画であった。






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狂った夜

La Notte Brava002

La Notte Brava
1959年
イタリア・フランス

マウロ・ボロニーニ監督
ピエル・パオロ・パゾリーニ脚本・原作
ピエロ・ピッチオーニ音楽


ミレーヌ・ドモンジョ、、、ラウラ(謎の美女)
ローラン・テルズィエフ、、、ルッジェレーロ(ゴロツキ)
アントネラ・ルアルディ、、、スプリツィア(娼婦)
ジャン・クロード・ブリアリ、、、シンティッローネ(ゴロツキ)
ロザンナ・スキャフィーノ、、、ロッサーナ(娼婦)
フランコ・インテルレンギ、、、ベッラ・ベッラ(ゴロツキ)
エルザ・マルティネッリ、、、アンナ(娼婦)
アンナ・マリア・フェルレーロ、、、ニコレッタ(娼婦)
トマス・ミリアン、、、アキッレ(金持ち放蕩息子)


今日でいつの間にか、映画記事が1000記事となった。
その記事が、何とも書きにくい、、、。内容ではなく映画としてあっさりし過ぎていて観終わって何も残っていないのだ。
薄いという印象。
ピエル・パオロ・パゾリーニ脚本のもう刹那的な若者たちの空虚な噺である。
その空気感が出ている映像であったが、今更こういうのを見ても、同じ方向性の強烈なものを幾つも見ている。
音楽がそれにまたよく合っていてその辺は文句はないが、、、。
登場人物もゴロツキと娼婦と大金持ちのボンボンという、構成で無軌道この上ない。
言った先から違うことしていて、もう忘れているらしい。
過去に囚われないとかいう主義の問題ではなく、健忘症の領域だ。
恐らく彼らはほとんど記憶に残らない生を生きているように思うが、それを見ているこちらも記憶に残らぬものを観ている気がする。

La Notte Brava001

線をいちいち拾って収束させる必然性はないし、実際現実はそんな構成にはなり得ない。
無理に物語化する必要はないし、それを拒否していることも分かる。
だが、ルッジェレーロは豪邸で偶然出会ったラウラを見初め、一端は財布を盗んだ悪友たちとトンズラしてしまったが、その金を返しに行ってまた彼女にどうしても会うんだと息巻いて大喧嘩をしたのに、いざその金を取り戻したところで、悪友の彼女がたまたまその場にいたというだけでその彼女と大金を使いまくり夜のうちに蕩尽する。金を持ってラウラのところに駆けつけるのではなかったのか、と肩透かしをくらう。
どうやら目の前の刺激に呼応して動くようなのだ。ラウラがいれば彼女に夢中になるが、アンナがいれば彼女がよいという風らしい。
それをもって刹那的というのかも知れない、、、。
何か触覚で認知して行動する虫みたいだ(虫は見通しは持っているが)。

La Notte Brava003 La Notte Brava005


しかし勿体ない。わたしもラウラ~ミレーヌ・ドモンジョをもう少し観たい。本当に少ししか出ていないのだ。
あのドロンチョ様のモデルとなった人でもある。見たいのが人情ではないか、、、。
だが、ルッジェレーロが戻るのを忘れてしまうから、ミレーヌ・ドモンジョも出番が終わってしまった(残。
こういう空虚感はいただけない(怒。
ラウラが何者なのかもわからず仕舞いであったし、アキッレが放蕩友達を電話で呼び出したのに、どんな連中が来るのかも、何をおっぱじめるのかも知らされず、、、だいたいキャストもいないのだ。
アキッレの豪邸の方での噺が全く膨らまないのには、がっかりした。

La Notte Brava004


で、後半は大金を手にしたルッジェレーロが悪友の彼女アンナと高級クラブと豪勢なレストランでは楽士を借り切って食事とダンスを愉しみ、おまけに結婚まで仄めかすが、彼女に断られる。
そりゃそうだ。盗んだ財布の金は一夜で全て使い果たしたのだから、、、。
早朝、橋の上でタクシーを降り、1万リラ支払ったらもうスッカラカン。
虚しさを絵に描いたような光景ではある。
(だが光景に力が無い。絵の説得力とでも言うべきか)。

雰囲気は全体からそこそこ伝わってくる。
ただ、どうなのかな、、、空間の稠密さ、、、ディテールの描写は弱く感じられる。
然程、物質感が感じられないのだ。
その辺からくるのか、圧倒する空虚感の迫力がない。
何となく観終わり、何も残らない。


貧富の差の激しさはよく分かる。
アキッレなど出会う人間に金を撒いて歩いてる様子であった。
余程、金が有り余っているのだ。
それに引き換え、仕事もせず~職が無く、常に盗んだものを闇で売りさばくか、女であれば娼婦で何とか一日を生き延びるしかない者たち、、、。
ではあるが、、、どうにも薄っぺらく、同調も共感も受ける部分はなかった。


映画としては駄作に入るものだろう。
1000回目の映画がこれでは、、、こちらが虚しい(笑。



ことばとひかり

hikari008.jpg

ーー実際に星は見えなくとも論理に照らせば
        あるべき光の列が見られるーー

夜空を眺められて
こんなニュアンスのメッセージを下さったあなた

それは
あたかも
論理と想像力の協奏のようで
とても素敵な時の重ね方と

改めて
学びを戴きました。

ほんの少しの心配りで
随所に息衝く生のコンチェルト

何気ない
日常の些事が

束の間の休息さえも
きらきらと輝き出すようです・・・。


いつもながら音楽性溢れる美しい文(文体)でとても心地よかったので、全文引用させて戴いた。
(部分に切れないものであったので)。エストリルのクリスマスローズ*より。

 何気ない日常の些事が
 束の間の休息さえもきらきらと輝き出す生活は*Author:様が実現されていることは、ブログから実感しています。
 その文章と写真から、、、
 わたしも、人間はどのように時を重ねてゆけるか、にかかっていると思います。
 論理と想像力の協奏、、、テーマとします。


夏休みでのこと、、、。
iPhoneを夜空に翳すと、その場所の星座がパネルに現れるアプリで娘と遊んでいたのだが、飽くまでも実際の空の下でやりたい。
雲があったり、光で多少明るくても、やはり火星は見えていたし、ベガ、アルタイル、デネブは見えていた。
しかしその他となるとなかなか見えない。雲と明かりの影響は大きい。

久々に空を見渡す、、、夜は気持ちがよい。夜の散歩なんてまた格別である。
飛行機がゆっくりと過る。
雲が白く過る。
長女が言う。
雲は凄いスピードで飛んでいるんだよ。
わたしは、まだ飛行機は両手の指くらいしか乗っていないが、娘たちはすでに30回位は乗っている。

雲の中も飛んでいる。
窓際のシートが大好きだと、、、。
いろんなモノが見えるから。
どれもみんな飛んでるから。
見てる自分も飛んでるんだ。
もともと全てが、、、ピアノ曲線を描き、、、
そのうちに夢の中を飛んでいる。

自分などというものの無い場所から

見るという事の神秘と創造を想う。
生命(力)がひとつの志向性をもち、感情~感動と共に母音を発した、、、「海を見てウ~っと」(吉本隆明)
そんな場所から、ことばは有機的な分節をもって生成されていったのか、、、。
このことばの出現はわれわれの精神~思考と同時に自然に変質を齎してゆく。
思考はことばにより飛躍するにしても。
自然も大きく変わる。


ベテルギウスはまだあるのか、もうないのか、、、
わたしと娘も一瞬、リルケになって想いを巡らせる。


詩的関係、物質的想像力、、、なんていう言葉を思い起こす。


ことばがはじめてはっせいしたときのうちゅうがみたい



hikari009.jpg



霧の夜の戦慄

The Upturned Glass004

The Upturned Glass
1947年
イギリス

ローレンス・ハンチントン監督
ジョン・P・モナハン 、 パメラ・ケリノ脚本
ジョン・P・モナハン原作
ジェームズ・メイソン製作

ジェームズ・メイソン 、、、犯罪心理学講師、マイケル・ジョイス(脳外科医)
ロザムンド・ジョン 、、、エマ(手術を受けたアンの母)
パメラ・メイソン 、、、ケイト(エマの妹)
アン・スティーヴンス 、、、アン・ライト
ヘンリー・オスカー 、、、コロナ―
モーランド・グレアム 、、、クレイ


「ひっくり返りやすいグラス」
君はデザインは良いが「不安定で割れやすいグラス」だ、、、主人公に接した医者が彼をパラノイアだと診断して述べたメタファー。
確かに謂えてる、、、。
邦題は「パラノイア」でもよかったかも、、、しかしこの映画、霧に包まれてからが実にピリピリ来る。

主人公のこの人はパラノイアであろうか?
被害妄想でも誇大妄想でも独裁者的でも無いと思うしナルシシズムもサタニズムも持ち合わせていないような、、、。
どこがどうパラノイアなのか、、、。
彼の講義を公聴した学生が言う、自分の犯罪を人前で誇示してしまう性格からか、、、確かに、ナルシシズム、、、。
「倫理的な確信から裁く者の高潔さがある」ときた、、、ここはナルシシズム以外の何ものでもない。

The Upturned Glass003

主人公は3つの脳外科病院を掛け持ちする専門医であり、学生対象の心理学講義も週一で受け持つ男である。
学生への講義内容は、「健全で立派な社会の一員」による犯罪心理についてのものである。
全て匿名で物語が克明に語られてゆくのだが、それは自分の今の生活そのもの~まさに自分自身のことなのだ。

不仲となって別居している妻が離婚を受け容れない。
そんな時期に、失明の恐れのある少女を手術で救ったことで、視力が戻るまでの期間、彼女の母エマと親しく付き合う事となる。
彼女の夫も地質学者で一度調査に出ると数年帰ってこないこともある。
彼の仕事に明け暮れる人生の空虚さをエマが埋めてゆく。
音楽とピアノの趣味が合い、互いの生活は潤いのある豊かなものとなった。それは確かだ。

しかし、彼も彼女も既婚者であり、愛し合っても結ばれない。彼女には元気に回復したアンという娘もいる。
ということから、二人は別れることに決めた。
だがすぐその後、エマが窓から落ちて死んだという知らせが彼のもとに入ってくる。

The Upturned Glass002

その死に彼は不信を抱き、調べてゆくと彼女の妹が事件に深く絡んでいる事を知る。
正義感から行動をとろうがそのままほったらかしておいても、特に何がどうなるものとは思えないが、彼は行動に出た。
パラノイア的に関わる。もう止まらない、、、。
講義では、彼は妹に復讐を果たし完全犯罪が成立したことで終わるが、講義を終えて車に乗ると少し巻き戻った時間流に乗り込む。
これから妹のケイトを乗せて夜の街に、売りに出されているエマの家へと向かうのだ。
わたしとしては、ここに接続したことに一番わくわくした。かなりのものである。唸ってしまう。
ここからが噺の世界ではなく、現実界であり講義は少し先の成り行き~完結までの物語を示していた。

さて、実際どうなったのか、、、
恐らくここからがもっとも面白い所なのだ。
第二章としてもよいくらい。
ヒッチコックのよく出来た映画と同等の質だと思う。
噺の通りには行かないのだ。姉の時のように自殺に見せかけることは、抵抗されて首を絞めてはどうにもならない。
鍵まで下に落とされドア部分を壊している。これも内側に誰かがいたことを容易に窺わせる。
何とか車に骸を乗せて、海に運ぼうとしたところ深い霧に覆われる。
深い夜霧の中を進む途上で、交通事故にあい瀕死の少女の手術を行うことになる。

常にネタバレを大々的にやってるわたしでもこの辺で止めておく(笑。
霧の中の雰囲気と謂い、晴れ渡る夜明けの断崖も見なければその雰囲気は掴めない。
ただ一つだけ、この医者はどんな危篤の患者でも飽くまでも救おうとする。そして腕が良いため救ってしまう。
この強い正義感と完全主義こそが、途中で乗り込んで来た医者の出した”パラノイア”という診断である。
強い正義感は、思い込みが激しく極端な単純化を起こし不安定で、どうすっ転ぶか分からない危険なものなのだ。
理想主義者であり、原理主義的でもある。テロ組織にピッタリか。


はめ込み画像がかなり目立った。
車の運転シーンでは仕方ないと思ったが、公園を散策するシーンにもあった。
ちょっとどうなのか、と思うところであった。
それから学生にどのようにしてあのようなストーリーを話していたのか~理解させていたのかという疑問も湧く。
言葉で長々と詳しい説明は難しい。映画(の形式)であるからあのように描けるのだ。
(この形式~表現における二重性はやはり気になってしまう)。

The Upturned Glass001


繰り返しになるが、正気の犯罪者を強調しているところこそパラノイアたる所以だ。
しかし犯罪者と認定されなくとも、この世に正気の者がどれだけいるか?
そもそも正気~正常とは何なのか、、、その辺を問題とすると議論が陳腐になるのでやめる(やるほどの意味も価値もない)。


なかなか強気で憎たらしいケイト役のパメラ・メイソンはこの映画の製作まで担当している主人公のジェームズ・メイソンの妻だということ。パメラは小説家でもあり、この映画の脚本も受け持っている。夫婦で相当入れ込んだ作品であることが分かる。
確かに力作であった。




質屋

The Pawnbroker001

The Pawnbroker
1964年
アメリカ

シドニー・ルメット監督
デヴィッド・フリードキン、モートン・ファイン脚本
エドワード・ルイス・ウォーラント原作

クインシー・ジョーンズ音楽

ロッド・スタイガー 、、、ソル・ナザーマン(元ポーランドの大学教授、質屋経営者)
ジェラルディン・フィッツジェラルド 、、、マリリン・バーチフィールド( 社会福祉事業家)
ブロック・ピータース 、、、ロドリゲス (ソルの質屋のスポンサー、スラム街のボス)
ジェイミー・サンチェス 、、、ヘズス・オルティス(ソルの質屋の店員)
セルマ・オリヴァー 、、、メイベル(ヘズスの恋人、娼婦)


ソルは金は光の次に絶対的なものだ、と言い放つ。
「わたしは神、芸術、科学、新聞、政治、哲学を一切信じない」
それらは、ホロコーストからわれわれを救うことが出来なかった、ということか。
最愛の妻と二人の子供を失い大学教授の職も追われ、彼はニューヨークのスラム街で質屋を営む。
自分から他者との間に関係を築くような事は全くなく、自分の殻に引き籠っている。
アウシュビッツのフラッシュバックに感情は乱れ、生き残ってしまったことに対する罪悪感に蝕まれてはいる。
(亡き友の妻とその父との関係や経済的援助を続けていることもあり)。
彼自身、亡き妻の妹家族と取り敢えず一緒に暮らしており、経済的には問題ない。

息苦しい程に貧しい人たちの吐息が充満する硬質な夜の質屋。
ニューヨークのスラム街の一角の小さな救命ボート。
だが、彼は誰にも心を開かず、自分のこころに踏み込んで来る者は例外なく排除する。
ヘズスが腕の認識番号のことが何であるか知らず、秘密結社か何かに入っているのかと尋ねる。
ソルはそれに答えて言う。「水の上を歩ける者しか入れない」

物でありながら物ではないモノ~メタレベルの物=価値の秤である金、に対する関わり方でその人間の人生も決まるところはある。
カフカの小説に出て来る会計士みたいな感じに思えたが、、、。
ドライであるようで意外にナイーブな人でもあった。
娼婦の館で稼いだ金の援助はいらないと断りにボスに逢いに行ったりする。
「腐敗と恐怖の生んだ金」であるからと。金の金であることを忘れている。
彼はいとも容易くロドリゲスにねじ伏せられる。「君の懐に入る金は全て出所は俺だ。売春宿の収益は大きい。ボーリング場、駐車場、貸家からも。その事実を知らなかったとは言わせない」「知らなかった、、、」で泣き崩れる。

葬り去っていた記憶が堰が切れたように押し寄せてきて、ソルは恐怖に慄くようになる。
(わたしもあるきっかけから、こんな状況を経験した)。
彼はあっさりと誘いを断ったマリリンのアパートを自ら訪ねてゆく。
自分でも何故だか分からない。これまでの固い自我が崩れてきたようだ。
しかし、彼の絶望は深く、彼女の差し向ける手に触れることもなくそこを立ち去ってしまう。
それからは、商売にも(お金に対しても)執着が無くなり自暴自棄になる。


彼は基本的に周囲の人々から慕われている。
特に店員ヘススからは神のように尊敬されている。
スラム街のボス、ロドリゲスからもプロフェッサーと呼ばれ一目置かれている。
マリリンからは、明らかに思慕の情が窺える。

The Pawnbroker003

彼と話したくて質屋に来る人も少なくない。
ほとんど金にならない物を持ってくる。
(恐らく彼らには何も残っていないのだ。それでも彼に逢いに来るのは何故か、、、)。

だが彼にはもうこの仕事に意味や価値は無くなっていた。
彼は再度、ボスに逆らい、手下から暴力を受ける。
自分の記憶~本当の自分を封印するものであった商売~金、それは決して彼にとって理想でも希望でも心地よくもなかったが、ここで完全にどうでもよい無価値なものとして崩壊する。自己欺瞞を止めると同時に彼に死を意識させる(死を半ば決意する)。


スローモーションとフラッシュバックによる封じ込めたはずの記憶の溢出。
クインシー・ジョーンズの音楽がストリングスと混じって演出を超えている。


最後、ソルを師匠と仰ぐ店員ヘズスが彼を凶弾から身を呈して守り、倒れる。
死ぬ間際にヘススは、「あなたを撃つなと言ったんだ、あなたを傷つけてはならない」と言い残し息を引き取る。
彼はヘズスの遺体に呆然として近づき縋って慟哭するのだが、実際に声は出てこない。
これまで彼に関わって来た(彼の質屋に救いを求めてやって来た)人々の顔がフラッシュバックされる。

だが、それらに応える瑞々しく迸る感情が彼には枯渇していた。


The Pawnbroker002

亡き親友の父が「お前は痛みを感じたか、血を流したか」と彼に病床で問うていた。そして、、、「ない」
「生き延びた代償は大きかったな。愛も情熱も憐みの情も失った、お前は生きる屍だ!」


ソルは手に長い針を刺し、血を流す。
その痛みで精神の均衡を辛うじて保つかのように、、、。
また生き残ってしまった。
生きる屍のように街に出てゆくソルの姿で終わる。


ロッド・スタイガーの前半の淡々とした客あしらひがとても面白かった。
この映画の生理的な感触がそこにある。
それに加えてクインシー・ジョーンズのジャズである。






名作だ。

ハイヒール

Tacones lejanos

Tacones lejanos
1991年
スペイン、フランス

ペドロ・アルモドバル監督・脚本
坂本龍一 音楽

ビクトリア・アブリル、、、レベーカ(TVメインキャスター)
マリサ・パレデス、、、ベッキー・デル・パラモ(母、人気歌手)
ミゲル・ボゼ、、、ドミンゲス判事、レタル(ゲイの歌手)、情報屋
フェオドール・アトキン、、、マニュエル(レベーカの夫、ベッキーの元恋人、TV局経営)
ミリアム・ディアス・アロカ、、、イザベル(マニュエルの愛人、サブキャスター)
ハビエル・バルデム、、、TVプロデューサー


この題で惹かれた。とがった感じ。
赤が印象的であった。
今日も女たちががみがみ騒ぐ。
自己主張できることは、きっとよいことだ。

再婚相手の自動車事故死を機に単身メキシコに渡り、15年ぶりにスペインに戻って娘と再会する母。
まだ現役の歌手である。地元の人気も衰えていない。
彼女のそっくりさんのゲイの歌手すらいる。
そして、母は娘が結婚した相手マニュエルのかつての恋人でもあった、、、。

ああこのパタンで来るか、、、と思ったらその線であった(爆。
気が重くなるのだが、仕方ないということで付き合う。
母~息子パタンとは異なる重くヒリツクしこりが顕になってゆくが、かなりクールな感触で展開する。

娘と母との複雑な愛憎劇であり、娘が全身シャネルで固めているのも母への対抗意識からであろう。
とても酷い母だが、ある面において(女性として)娘は彼女に深い憧れを抱いていたことは間違いない。
歳をとっても未だに華麗な雰囲気を纏っている。


どうもよく分からないのは、ミゲル・ボゼはドミンゲス判事になったり、夜のゲイの歌手になったり、情報屋となっていたり、レベーカに求婚したりするのだが、どういういきさつでそうなったのか。そもそもレベーカとの距離感覚、とその不思議な行動様式である。ここがしっくり流れないのだ。判事があそこまで自由に容疑者を連れまわせるのもどうなのか、、、妙な権限を持つ抽象的な存在なのだ。

ただ、それがあってもグイグイと惹き込んでゆくストーリー・演出である。
これはかなりのものだ。
女性囚人の間で突然始まるダンスが面白く素敵であった。
その一か所だけでなく、もっとミュージカルな要素が入ってもよかったのでは、、、
(いっその事ミュージカルにしてしまえば、もっと面白かったか)。


レベーカが別荘で撃ち殺されたマニュエルの犯人であることを自らの番組で涙ながらに告白して見せ、彼女は逮捕されるが、その後、撤回する。ドミンゲス判事の計らいで母と対面しこれまで抱いて来た彼女への想い~憎しみの情、確執を語る。
レベーカは母が自分の価値を否定して置き去りにしたことだけは絶対に許せなかった。
母は話しの全てを受け容れる。
そして帰りにレベーカは倒れ、妊娠していることを知る。
ドミンゲスがレタルそして情報屋であったことを知り、彼との子であることも疑いなかった。
結局、判事の力が大いに働いたらしく、レベーカは証拠不十分で釈放となる。
(その後、具体的に彼とどうなったのかは描かれない)。

レベーカにとって、自分が母に勝てたと想えたことは、マニュエルと結婚したことであった。
しかしそのマニュエルはレベーカに離婚を迫っていて、もはやどうにもならない状況なのだ。
二重に自己否定された彼女には、もうマニュエルの存在自体許せないものであった。

舞台終了後に母ベッキーは狭心症で倒れ、病院に運び込まれるが、危険な状態であった。
レベーカは真犯人は自分であることを打ち明けるが、死期の近い母が娘の罪を(自らの贖罪として)被ることにする。
彼女がもってきた犯行に使った拳銃を母が手で触る。

「ママといたころ、ママのハイヒールの音が
寝室を出て廊下に消えるまで眠れなかった、、、」

母は静かにベッドで息を引き取る、、、

「そのときから、いつかヒールの音が戻るのを
起きて待っていたのよ、、、」

レベーカは母の傍らに寝て彼女に縋りつく。





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3月生まれ

NATA DI MARZO003

NATA DI MARZO
1958年
イタリア

アントニオ・ピエトランジェリ監督

ジャクリーヌ・ササール、、、フランチェスカ
ガブリエル・フェルゼッティ、、、サンドロ
マリオ・バルデマリン、、、カルロ
ティーナ・デ・モーラ、、、ネーラ
エステル・カルローニ、、、フランチェスカのおばあちゃん

「3月生まれ」という題が魅力的でついつい観てみた。
はじめの出だしにびっくりした。
そんなところがあるのか!
二人が巨像の目から顔を出してふざけている。
そこから巨像の中を降りてゆく競争で燥ぐ。
直後からフランチェスカの回想シーンとなる。


フランチェスカとサンドロが初めて出逢ったのが、二人しか乗っていない路面電車であった。
この出逢いの場がまず特異であった。
運命的な出逢いとでもいうか。

誰の人生にもこんな恩寵ともとれる瞬間があった(ある)はず。
しかし、ことはそれで済まない。

電撃的に結婚してしまったからが大変~問題であった。
3月生まれは、その天候みたいに気まぐれ、と言われるそうだが、気まぐれなんて生易しいものではない。

NATA DI MARZO004

この女、医者に診てもらえ!と道端の娼婦が叫んでいたが、まさにそうだ。
度を越している。
我儘、傲慢、自己中、衝動的、、、。
最初の恩寵と思えた瞬間とは何であったか、、、眩暈がする。
自分にもそんなことがあっただろうか。
思い当たらない、、、まあ、子供の誕生とかがそれに当たるか。

ともかく、相手を攻撃する言葉ばかりをキャンキャン、ガミガミ機関銃のように放ち続ける。
尋常ではない。
やはり、医者にでも診せろと言いたくなる。
このヒロイン(17歳の設定)はフランス女優であるが、、、。イタリア語堪能なのだな。

結婚後、高級アパートに入り、建築家の年上の夫に好きなだけ甘えて暮らすが、、、
聖フランチェスカの祝いを何度も行ったり、高価な意味もない買い物で散財する。
そして、日中暇なことが辛いと夫をなじる。
わたしも仕事を辞めて、家事をやってはいても、日中家の様々なことや子供の世話などしていたら、全く暇などないが、、、。
メイドを雇っているから暇なのであれば、経済面も考え自分が家事仕事すればどうか、、、と思った。

が、元々仕事などする気は全くない女性である。
帰った夫にひたすら文句をいうばかり。
挙句の果てに、夫を試すような大嘘をついて困らせる。(単に気を引く程度ではない)。
赤ん坊が出来たと言って車を買わせる、、、若い恋人がいる等々。

NATA DI MARZO001

しかし、夫にも問題はある。
何と謂っても若い女性である。
彼女を一日中、家に縛り付けるのは無理がある。
彼女なりのこれからの自己実現もある。
勉強や仕事など彼女の自立に向けた支援も行う必要はある。
それを無視して閉じ込めることなど出来ない。
(よく聞くが、イタリア男性は結婚までは相手の人格を大切にしとてもマメに動くが、いざ結婚すると家に縛り付け男尊女卑的な封建的な態度をとると、、、その典型の旦那である)。
相手を猫かわいがりして甘やかすが、主体~一個の人格としては認めていない。モノのような扱いである。
(そう謂えば、日本のゴジラですと玩具を紹介され購入するが、あれはキングコングである。しかも極めて出来の悪いコングだ、、、ちょっと怒りを覚えた。ここで思い出した)。

彼女の狂態振りもここから来るストレスを大いに抱えているはず。
そこは彼女のサイドから考える必要はある。
それにしてもイタリア女性は(ヒロイン女優はフランス人だが)、基本的にみんなあんな風に気が強いのか?
やはりそういう気質~特性なのだろうか、、、。強気でズケズケと何の遠慮もなしに悪態をつく。
クラウディア・カルディナーレもそうなのかな、、、と心配になってしまった。(どういう心配なのか?)

NATA DI MARZO002

ジャクリーヌ・ササールは映画主演二作目の瑞々しい魅惑的な女優であるが、やけにこの役にはまっていた。
何と謂うか、ホント女性がめんどくさくなる映画でもあったなあ、、、と思う。
わたしであれば、もう序盤でジ・エンドである。

しかし、フランチェスカのおばあちゃんの語る「夫婦は2人の人間から成り立っているけれど、神様は一人分しか幸福を割り当ててくださらない。お互いに半分ずつ我慢するの」で、わたしもようやく安心する。「わたしは電気を上手に使い分ける。夫が寝るときは消して、彼が寝付いたら点して本を読むの。これが幸せな生活なのよ」イタリアでもおばあちゃんになるとこうなるのか、、、ある意味救われた気分にはなる。フランチェスカが実際どうなるかは分からないにしても、、、。

路面電車で出逢い始まった映画であったが、最後も路面電車(終電)で終わる。
散々、罵り合ったり別居したりで、忙しくも煩い映画であったが、別れを告げ乗り込んだ彼女の電車の後を、「フランチェスカ」と叫びながら夫が走る。
それを見て、彼女は電車に「止めて」と叫ぶ。「止めて」と言うと路面電車は止まるのだ、、、
電車から降りた彼女と夫はいつまでも抱き合っているのであった、、、。
(この先の保証はないが)。


彼女の他の映画も観てはみたい。これではあまりに彼女のイメージが、、、。
この映画の彼女のファッションは世界中にかなりの流行を呼んだとか、、、ササールカットとか、ササールコート等。
ジャクリーヌ・ササールは27歳で芸能界を引退したという。
大富豪と結婚したらしいが、この映画みたいにはなっていないはず(笑。
ズルズル長くやらず、綺麗な絶頂期に潔く辞めるというのは、素晴らしい選択だとは思う。





ハウリング

The Howling004

The Howling
1981年
アメリカ

ジョー・ダンテ監督
ジョン・セイルズ、テレンス・H・ウィンクルス脚本
ロブ・ボッティン特殊メイク

ディー・ウォーレス 、、、カレン・ホワイト(TVレポーター)
パトリック・マクニー 、、、Dr.ジョージ・ワグナー(精神科医)
デニス・デューガン 、、、クリス(テリーの恋人)
ジョン・キャラダイン 、、、アール・ケントン(オオカミ男)
クリストファー・ストーン 、、、ビル(カレンの夫)
ベリンダ・バラスキー 、、、テリー・フィッシャー(カレンの同僚)
ケヴィン・マッカーシー 、、、フレッド・フランシス(TVディレクター)
スリム・ピケンズ 、、、サム・ニューフィールド(オオカミ男)
エリザベス・ブルックス 、、、、マーシャ・クイスト(オオカミ女)
ロバート・ピカード 、、、エディ・クイスト(連続殺人鬼、オオカミ男)


狼男アメリカン」と同時期の作品。(こちらが少し早く発表される)。
特殊メイクのロブ・ボッティンとリック・ベイカー(狼男アメリカン)は師弟関係であるという。こちらが弟子にあたる。
(ロブが暗闇に変身したので、師匠は真昼に変身させたという)。
所謂ワンカットでラテックスフォームで作った造形を収縮・膨張させ変身のダイナミックな動きを撮ってしまうものだ。
これは「狼男アメリカン」の特典映像で大変な作業を見ることが出来た。
(この「ハウリング」の特典のバタリアンズという3人組のコメンタリーは絶対いらない。付けないで欲しかった)。
両者甲乙つけ難い出来だと思う。
こうしたVFXにはワクワクする。

The Howling003

怖さでは、この「ハウリング」が上である。「狼男アメリカン」はとてもビビットで見せ場は多かったが。
TVや電話その他の機器類はその年代を感じさせるが、特にそれによる古さを映画そのものに感じることはない。
不安と緊張感が持続するストーリーと演出は申し分なかった。
青ざめた感じのうらぶれた色調(ネオン等の光)が禍々しさを際立たせていた。


猟奇殺人事件の犯人エディに個人的に呼び出されたニュースキャスターのカレンは個室ビデオ屋で犯人に遭遇するが、駆け付けた警官に犯人は射殺され彼女は無傷で救出される。
しかしその時のショックでその犯人についての記憶を失くし(自己防衛で抑圧し)何も語れない為、暫く仕事から遠ざかることとなる。
カレンは精神科医の勧めで夫に付き添われ「コロニー」と呼ばれる保養所へ療養に行く。

この保養所が連続殺人鬼エディのいる場所であった。
オオカミ男/女は、銀の弾丸か火で燃やさない限り、切っても銃で撃っても直ぐに生き返ってしまう。
死んだはずの男が生きているのだ。エディも例外ではない。
コロニー全体がオオカミ人間の住処で、Dr.ワグナーを中心に人間社会との共存を模索していたことを知る。
だが、博士のやり方に異を唱えるオオカミ人間の派閥もあり、彼らは人間を片っ端から襲おうとしていた。
襲われた人間はオオカミとなる原理である。今は少数派であっても、やり方次第では増殖が見込まれるだろう。
ビルはオオカミから受けた傷が元でオオカミ化してしまい、マーシャと結ばれ完全体になってしまう。
夜空には禍々しい満月が、、、。

The Howling001


テリーがエディの部屋にあった風景画と同じ場所があることを突き止め、小屋を見つけ証拠となる品々を写真に撮り、真相に迫るが、現れた狼男に彼女は抵抗も虚しく殺されてしまう。この一連のシーンの緊張感はかなりのものであった。
彼らは、満月に関係なく変身は自由に出来、猛威を振るえるようだ。

The Howling002

結局、クリスが銀の銃弾を手に入れ、オオカミたちに捕らえられたカレンを間一髪のところで救い出す。
博士はこの時、自ら銀の銃弾を浴び、救われたと言って絶命するが、他の武闘派はどんどん襲ってくる。
クリスは銀の銃弾で次々に倒してゆき、後ずさりして行く彼らを建物に封じ込め火を放つ。
そして車に縋りつくオオカミを振り落として逃げるが、途中で出逢った仲間だと思っていた保安官や警官たちもオオカミで、彼らは銃を撃ってくるのだ。そうこの映画のオオカミ男は普通に銃を撃つのだ。
二人は車をやられパトカーに乗り移るがエンジンがなかなかかからずこの時、カレンは肩を噛みつかれてしまう。
どうにか彼らを振り切りニューススタジオまで戻るふたり。
しかしすでにカレンは自らの運命を自覚している。最後の晴れ舞台である。

本番のニュース番組でキャスターのカレンがオオカミ一族のことを喋り、自分の変身する姿をカメラを通しTV中継させ、この事実を顕に(ショッキングに)知らせる。
観た人はシンプルに信じる人もいるが特殊撮影で騙していると受け取る向きもあったが、当然世間は騒然となった。


カレンは怖いオオカミではなく可愛い犬になったように思えたのはわたしだけか?
クリスが冷静にスタジオのカレンを狙撃する。
犬なら人間との共存も問題ないし、撃ち殺すこともなかったはずだが。
これを機に、本格的なオオカミ一族と人類との共存を考えてみる場に移行するべきでは、、、と思った。
丁度良い(高視聴率)特集番組になったであろうに。
ディレクターはただ呆気にとられていて思考停止状態のようであった。


ところでマーシャはしっかり生き残っており、レストランでステーキをレアで注文していた、、、。
マーシャの怪しい笑みで終わる。


怖くて何とも物悲しい映画であった。

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ベイビー・オブ・マコン

THE BABY OF MACON002

THE BABY OF MACON
イギリス、ドイツ、フランス
1993年

ピーター・グリーナウェイ監督・脚本

ジュリア・オーモンド、、、赤子の母(姉)
ジョナサン・レイシー、、、コシモ・デ・メディチ三世
レイフ・ファインズ、、、司教の息子
フィリップ・ストーン、、、司教

これは、まずNHK・BSでは放映されない。買って来て観た。
ピーター・グリーナウェイは前から観たい監督であったので、、、。
なるほどねえ。


1659年のことだという。
イタリアの劇場で「ベイビー・オブ・マコン」というオドロオドロシイ舞台がはじまる。
吃音の餓鬼が預言をするところからもう尋常ではない空間構造を感じてしまう。
不妊と飢餓と貧しさに喘ぐマコンの街に美しい赤子が授かる。
奇跡の子と人々から崇められることになるその男の子は酷く醜い年増から生まれた(生まれる前は怪物が生まれると危惧されていた)。
しかし、その母の娘(赤子の姉)が自分がその子の母だと人々の前に名乗り出て、処女懐胎によってもうけた子供だと主張する。
娘はその子の聖性を頼みにその子から祝福を授からんとする人々から金品を受け取る。
金儲けを始めるのだ。教会(宗教)ビジネスであるか。
すると司教たち~教会が黙っていない。

だがその娘は堂々と自らが処女であることを調べさせる。
女たちは皆、口々に処女であることを認め、彼女は聖母の位置に着き、いよいよ奇跡の赤子の霊性は高まり人々はそれに縋ろうとする。
司教の息子は科学をもちだし、処女が子を産むはずがない、若しくは子供を何処からか盗んで来たのだと説く。
しかしその子が誕生してから街は豊かになり子供も生まれてくる兆しが現れる。
娘は生みの母と父を地下室のベッドに囲い幽閉してしまう。

白塗りのコシモ・デ・メディチ三世が観客として観劇に来ていたはずが、いつの間にか舞台上で子供を見たり触れたりしている。
次第に普通に観客が舞台上に登り、劇に絡んで来る。特にコシモは重要な場面で提案などして噺の成り行きを決めるほどの立場をもつ。
他の貴族も役をくれと金を払って舞台に混じってゆく。

一貫して「聖母子」を否定し批判を続ける司教の息子を娘は誘惑して堕落させようとする。
もうすんでのところで娘がその男を落とすとき赤子が牛を使って男の腹を刺し殺す。
娘は猛り狂って大きな鎌で牛を切り殺す。
司教は息子を殺されたことに怒り、娘から赤子を取り上げ教会で預かる。

教会もその赤子に目を付けていたことは明らかであり、これまでよりあからさまにビジネスを展開する。
しかもそのやり方は虐待による赤子の身体を蝕むような惨いやり方で商品化が成され、やがて人々も教会に批判的になる。
そんな折、例の娘がやって来て、赤子にこれまでの美しさが無くなっていることに悲嘆し彼を窒息させ殺してしまう。

何とか仕返しをしたい司教であるが、処女を罰する掟の無いその街では彼女に何もできない。
するとコシモが司教に知恵を与える。
その案通りに娘を処女を失う刑に処すればよいという事になった。
宗教的計算でよく分からなかったが、208回に渡り凌辱されることに決まる。
(コシモは途中で彼女に同情して泣いたりしてなかったかしら、、、要するに劇を面白くして愉しんでいるのだ)。
そしてその娘は刑の執行によってボロボロにされ結果的に血まみれで死んでしまう。

なお、その傍らで寝かされていた聖なる赤子は、周りの多くの人々(役者だか観客だか分からぬ者たち)によって衣服・装飾全てを次々に剥ぎ取られ、身体は切り刻まれ所謂、聖遺物として持ち去られていったのだ、、、。

これらの終盤は大概のスプラッター場面に鈍感になって来ているわたしでも観ていられないグロテスクさがあった。
全て人々の強欲の証である。こちらの方がグロテスクか。
そうだ、当然人々の凄まじいばかりの強欲が物質的に絢爛豪華に視覚化されたものだ。
実に豪奢なゴシック調の舞台装置であった。

恐ろしくどぎつく空虚極まりない劇が終わりを告げカーテンコールに、これまで死んでた役者も加わり挨拶をするが、死んだ牛はともかく、司教の息子と聖母がずっと死んだままで舞台に横たわっているのが気になった。
虚実が平坦に交錯する恐ろしく不気味で明るい空間が広がって行く。
そして驚くべきことに、、、観客席だと思っていた席も舞台の一部であり、拍手はその外から送られていたのだ!
飛んだ舞台~空間構造だ。
われわれは神の(超越的視座)からカメラによって彼らを具に見ることが出来たが、この観客席では観ることが可能なのだろうか?
オーケストラのコンサートではないのだ。

まあ、われわれの宇宙の構造だってどうなっているのかも分かっていない。
もっと驚くべき構造~余剰次元によって成り立っている感じである。
他次元から見ても、グロテスクに映る光景というのはありそうだ(笑。

THE BABY OF MACON001


観た後の余韻としては、「神々のたそがれ」(ゲルマン監督)あたりに近い。
また見ようとは暫くは思わない。だが、一度は見ておかないと損である作品であろう。







木と市長と文化会館 または七つの偶然

Les Hasards003

L'Arbre, Le Maire et La Mediatheque ou Les Hasards
1992年
フランス

エリック・ロメール監督・脚本・音楽


パスカル・グレゴリー、、、ジュリアン・ドゥショーム(ヴァンデ・サン=ジュイール市長)
アリエル・ドンバール、、、ベレニス・ボーリバージュ(小説家、ジュリアンの彼女)
ファブリス・ルキーニ、、、マーク・ロシニョール(小学校校長)
クレマンティーヌ・アムルー、、、ブランディーン・レノワール(政治社会学が専門、ジャーナリスト)
フランソワ・マリー・バニエ、、、ロジス・ルブラン・ブロンデ(政治雑誌編集長)
ギャラクシー・バルブット、、、ゾラ(マーク校長の娘)

BSで観た。最近のNHKは良いものを流す。フランスモノばかりで嬉しいではないか、、、。
(もう当分、西部劇はやめてね)。
緑の光線」に続きエリック・ロメールもの。

「7つの偶然」は7章から成り立っていて、どれも、もし、、、という噺で始まるからか。
洒落ていて小気味よい対話で心地よい。
喋りがここまで映画を作っているのを観たのは初めて。

市長が田舎に「文化会館」を作ることを巡っての噺である。
図書館、ビデオライブラリー、野外劇場、プールそして大きな駐車場をもった建物だ。
しかし、田舎に自然の景観を破壊してまで、緑の広場を無くしてまで、そんなものを建てる必要が果たしてあるかどうか、の議論が様々の場面で繰り広げられる。

登場人物は極めて良識のある普通の人たちだ。
自分の信念をもって率直に語り合う。
それが全く劇じみていない。
ドキュメンタリー調というか、すぐそこの部屋で話されているのを聞く感じである。

Les Hasards001
クールビューティを絵に描いたようなブランディーンが村の人々にインタビューする場面も面白い。
本当の村人相手である。
村の実情と彼らの置かれた現実が伝わって来る。ルポルタージュだ。
勿論、市長に2時間も政治信条や今後の計画・展望などを確認し、その反対派の代表格のロシニョール校長のエコロジスト的な発言も平等に聴いて記事を書く。

しかし内容の刺激度と面白さから編集長のブロンデはジュリアンの記事は全て没にして雑誌に載せる。
つまり校長側にスポットを当てた特集記事となった。
市長の噺は平凡で当たり障りがなく、他の政治雑誌に載っている記事にも似たような内容が見られるという理由からだ。
確かに彼の話を聞いて、左派がどうの右派がどうの言ったところで、政府から予算をせしめて自分の地元で目立つ事をして実績を得たい、よくいる市長の域は出ない。しきりに自然に配慮して村の経済的発展(脱農業化)を図ることを述べても、今更読者が興味を持つほどの内容ではない。
ロシニョール校長の噺の方がそれは圧倒的に読者受けする刺激がある。
(大概反対派の過激意見の方が面白いものだ)。

ここで当然、ジュリアンとブロンデ(親戚でもある)には距離が出来る。
だが、ブランディーンとの関係は良好なままだ。
お互いに大人である。市長も基本的に真摯な姿勢をもつ良い人ではある。


市長の娘ベガ、校長の娘ゾエの出逢いから俄然面白くなる。
10歳の娘ゾエは将来立派な代議士になることを父から期待されている娘だが、なかなかのもの。
(父に対しても論理的な批判が出来る。親の言ったことなども鵜呑みにはしない)。
コミュニケーション能力が高いと言ってしまえばそれまでだが、まず自分で考える能力があり、それを相手に上手い間を取って精確に伝え、相手の考えを巧みに聞き取ることが出来る。
はっきり言って、大人でもわたしの身の周りを見回してそれが出来る者は極少ない。
それは悲しい程、、、と謂うより絶望的とも謂える。
(認識の枠というものは恐ろしい)。

結局、彼女がベガのお父さんであるジュリアンに伝えたことは、緑の広場の大切さであった。
人が集まれる場である。人の真の交流の場が無くなってしまったことによる閉塞感と不活性化が村の現状を支配していたのだ。
基本的に外(都会)から人を呼ぶ目的の文化会館では、更に村人を疎外する方向性しか持ち得ない。
これは、村人からブランディーンが聞き出した話に必ず滲み出て来たことである。
10歳でちゃんとその現状を掴んでいる。
二人の対話を見ると、彼女はディベートも上手そうだ。

Les Hasards004
娘のお陰で文化会館建設が中止になったような父の喜びよう。
(建設予定地の地盤の補強に予算がかさみ中止となったのだが)。
親バカであるが、確かに娘は将来有望である。

Les Hasards005
市長の彼女ベレニスは都会大好きのパリ出身者であるが、最終的にジュリアンと田舎に住み、リゾート気分で休暇に都会に行って愉しむという選択にしたようだ。それも上手い方法かも知れない。
ジュリアンはその地に持つ広大な敷地を人々の憩いの場所に提供する。
最後はミュージカル調に良い余韻を持って終わる。
音楽のセンスも良かった。

「緑の光線」と甲乙つけ難いセンスの良い作品であった。



ティコ・ムーン

TYKHO MOON002

TYKHO MOON
1997年
フランス/ドイツ/イタリア

エンキ・ビラル監督・脚本
ブリジット・バルドー主題歌

ジュリー・デルピー、、、レナ(暗殺者)
ヨハン・レイゼン 、、、アニクスト(彫刻家)
リシャール・ボーランジェ、、、グレンバール(ジャーナリスト、新国連の暗殺者)
ミシェル・ピッコリ 、、、マクビーと次男エドワード(二役)
マリー・ラフォレ 、、、エヴァ(マクビーの妻)
ジャン=ルイ・トランティニャン、、、マクビーお抱えの外科医
ヤン・コレット、、、アルヴィン(マクビーの長男)
フレデリック・ゴルニー、、、コンスタンティン(マクビーの三男)


お洒落なフランスSF映画として以前から耳に入っていたので、購入して観てみた。
こんなのをBSあたりでやってくれたら有難いのだが、、、。
(最近、フランスモノを放映している。とてもよいことだ。昔の西部劇ばかりでは食傷気味なのだ)。

ベルギー・フランスを中心とした地域のマンガ~”バンド・デシネ”からきたものだという。
ちなみにフランスでは、マンガは「9番目の藝術」とされている。
アルファヴィル」を直ぐに想いうかべてしまうが、わたしはあちらの方が好きだ。車での移動がそっくり。これは素晴らしいと思う。

だが、とてもスタイリッシュでタマラ・ド・レンピッカを想わせる女性ファッションがレトロ未来派志向(嗜好)で味わいがある。
ジュリー・デルピーの赤い頭が何だっけと思ったら「フィフス・エレメント」のミラ・ジョヴォヴィッチだ。こちらの方が魅力的だが。

月面の都市の埃っぽいダークな世界は、多くの近未来SFものによく見られる。
いつも酸性雨の降るイメージとこのような砂漠のようなものに分かれるようだ。
前者の代表は「ブレード・ランナー」。

ともかく、極々普通の埃っぽい街と車と古臭い拳銃や電話で、空気と水が有料で、重力の調整がおかしい、などハリウッドやロシア映画からは出て来ないと思う。もっとそれっぽく(通俗的・常識的に)作ることに力を入れ、とてもありきたりな感覚を与えるに終わる作品になることが多い。その意味でゴダールの「アルファヴィル」は斬新だった。これもベースの世界観は素敵である。

噺はマクビーが月世界を支配している。マクビー一族というべきか。
マクビーは皆、首にコバルトブルーの痣があり、細胞に疾患を抱えている。
そのマクビーに臓器提供する人間がティコ・ムーンと呼ばれる。
主人公がそのティコ・ムーンである。
マクビーに頭を手術され記憶を消され、20年間、記憶喪失の状態なのだ。

マクビーは臓器移植を繰り返し永遠に生きるつもりでいるらしい。
プロメテウス」にもそのような独裁者がいたが、権力を握ると究極的にはそこに目が向くのか、、、不毛、、、。
ヒトの遺伝子と豚のそれは似ているというが、彼のベッドの傍らには”ナポレオン”という豚がいつも煩く鳴いている。

ティコ・ムーンは病院で焼死したことになっていたが、「ティコ・ムーン第二の生」という本が巷でバカ売れしており、その真相を確かめるためにマクビー一族の差し向ける秘密警察やそれに対抗する組織(新国連)が動きはじめ、物語が進行してゆく。

TYKHO MOON001

グレンバーは新国連からマクビー一族一掃の命を受けてやって来た暗殺者であるが、何故ティコ・ムーンとレナを守るのか、、、。
そしてどうやら「ティコ・ムーン第二の生」は彼の著作のようだ。
コンスタンティンは初めは首に痣の無い唯一のマクビー一族であったため、彼は密かに母エヴァとティコ・ムーンとの間の子供ではないかと疑っていた。その為、父からティコ・ムーンを守る為の護衛としてレナを雇っていた。
しかし、グレンバーと最後に相撃ちとなったところで、コンスタンティンの遺体には痣が鮮やかに現れていた。


ティコ・ムーンと恋をした殺し屋レナは月を離れる。
レナは「月を離れるのははじめて」と窓の外を眺めて呟く。
もうすでに赤色超巨星のベテルギウス(オリオン座α)は存在しないというから、超新星爆発した後という事か、、、
そもそも地球に棲んでいない事自体、ガンマ線バーストで地球が壊滅的打撃を被ったのか、、、?
いやその場合、月もどうなってるか分からない。質量変動は地球自転軸にも大きく影響するであろうし。
このドラマの設定時代はいつなのか、定かではない。ベテルギウスの変形は分かっていても超新星爆発の時期はまだ算出されていない。
ともかく二人は冬の大三角かダイヤモンドのあたりにある星に向かうそうだ。
700光年離れたところにリゲルがあるが、どの辺に行くのか、、、なんてどうでもよいか、、、。
ちなみに、車ではなく宇宙船に乗っていた。ゴダールなら車でトンネル潜ればその辺に出てしまう。



グレンバール(リシャール・ボーランジェ)が立ち振る舞いもセリフもとても決まっていた。
最後に死ぬ場面もスローでスタイリッシュであった。

スタイリッシュでお洒落な映画ではあり、「アルファヴィル」や「フィフス・エレメント」が好きな人なら観る価値はあると思う。
バンド・デシネのセンスの好きな人にも受けるであろう。


グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札

Grace of Monaco001

Grace of Monaco
2014年
フランス/アメリカ/ベルギー/イタリア

オリヴィエ・ダアン監督
アラッシュ・アメル脚本
クリストファー・ガニング音楽

ニコール・キッドマン 、、、グレース公妃
ティム・ロス 、、、レーニエ3世
フランク・ランジェラ 、、、タッカー神父
パス・ベガ 、、、マリア・カラス(天才オペラ歌手)
パーカー・ポージー 、、、マッジ(側近)
マイロ・ヴィンティミリア 、、、ルパート・アラン
デレク・ジャコビ 、、、デリエール伯爵
ロバート・リンゼイ 、、、オナシス(ギリシャ航海王)
ジェラルディン・ソマーヴィル 、、、アントワネット(レーニエ3世の姉)
ニコラス・ファレル 、、、ジャン・シャルル(アントワネットの夫)
アンドレ・ペンヴルン 、、、シャルル・ド・ゴール
ロジャー・アシュトン=グリフィス 、、、ヒッチコック

監督は、「エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜」の監督である。あの作品にもグレース公妃がピアフに労いの言葉をかけ彼女がいたく感動していたのが印象的、、、。あれは良い映画であり、マリオン・コティヤールの美を封印した壮絶な演技を堪能することが出来た。


確かに誰もが役を演じている。

ある場所からモナコを見渡す場面が映されるが、、、美しい国~街だ。
(わたしはモナコと聞くと「モナコグランプリ」であるが)。
だが、モナコは非常に難しい立場に立たされていた。
ロイヤルウエディングの華やかさなんて一時のもの、途轍もなく大変な運命を引き受けることとなる。
勿論、ある程度の想定と責任は感じていたにせよ、、、。
グレース・ケリーの御伽噺~モナコ公妃の役を如何に演じたかが描かれる。
(勿論、フィクションを交えての御伽噺である)。

ヒッチコックが宮殿にいきなり現れ、グレース公妃に映画の出演依頼をする。
その時、ケイリー・グラントはどうしてる?ああ、絶好調だ、なんて会話も出る。
モナコ経済に多大な影響力を持つオナシスのパーティ。
ヨーロッパ全体の安定が揺らぐ、フランスのアルジェリア紛争を巡り議論に加わるが、、、
アメリカ的な考えでフランス政治家と対立する。
きちんと意見を言う彼女だが、政治に意見を挟むと疎まれる。
ドゴールはモナコに企業全てに課税し、フランスへ納税しろと迫る。
軍事費を強硬にモナコに求めるのだ。
赤十字の婦人たちに舞踏会の準備より病棟の改修工事の方が大切だと訴えるが、相手にされない。
どうも生活はストレスだらけであったようで、例の曲がりくねった坂をスポーツカーで飛ばしまくっていたようだ、、、。

モナコは生活全てのライフラインはフランス経由であり、独自の産業も軍隊もないモナコの自立は元々難しいものであった。
国境を封鎖されたらもうフランスの意のままとなる。
ドゴールがどれだけヨーロッパで権力を握っていたかも分かる。


ヒッチの映画に出るか迷う。それは離婚にも繋がる可能性をもつ。
誰もが批判的であり、とても孤独である。
難しい立場だ。

彼女はモナコの真の公妃となる為、学ぶべきしきたりや作法を基礎からしっかり学びなおす(ついでにフランス語も)。
1000年間個人の自由を守る国として存続したモナコの「したたかさ」と「信念」の神髄を。
そう、学びは周囲のお膳立てで出来るものではなく、自ら欲したときでしか始まらない。

しかしそれは丁度機を得ていた、というかそこで始めなければ万事休すの状況でもあった。
ルイ14世もナポレオンもモナコをとれなかったが、あやうくドゴールにとられそうになる所までくる。
モナコの宮廷内に裏切り者がいて、不利な情報をマスコミなどに流していた。
レーニエ3世とグレース公妃の関係を悪化させモナコを混乱に陥れ、レーニエ3世の排除を企てていたのだ。

Grace of Monaco002

側近のマッジが裏切っていたことが分かり、その黒幕は、、、と探って行くと
アントワネットがドゴールの閣僚と逢っていたことが突き止められる。マッジは探偵を雇って調べさせていたのだ。
実は姉が王位を継承する条件でフランスにモナコを売り渡そうとしていた黒幕であったことが判明した。
(映画みたいにドラマチックな噺だ)。
裏切り者は国外追放だが、その前にグレースが各国首脳を招いた国際赤十字の舞踏会で最後の公務をさせる。
ドゴールを欺き、安心して会に出席させる公務である。まんまとドゴールはやって来た。
やはりモナコの伝統を引き継いだグレースのしたたかさである。

マリア・カラスとオナシスのことなども雰囲気的に感じることが出来た。
マリア・カラスの(が唄ったであろう)曲も聴けた。

最後はことばの力である。
ヒッチの映画出演を断った彼女の一世一代の演技である。
モナコを守るために世界へのアピールのチャンスである。世論を味方に引き入れるのだ。
(何もないモナコにとってはこれしかない)。
彼女の率直な等身大のこころの籠ったスピーチによって、首脳たちの盛大な拍手を得る。
彼女、徐々に品格が上がって行くのだ。
レーニエ3世との関係もしっかり修復される。
(ここまでやったのだ。それは当然であろう)。

「君は人生で最高の役を演じにモナコに来たんだ」(タッカー神父)やはりこれに尽きる。
そしてニコール・キッドマン文句なしの名演技であった。
これまでに見たなかでは、最高に凛として際立って美しい。
グレース・ケリーが演じられる女優は、ニコール・キッドマン以外にいないと思う。

Grace of Monaco003




ヒッチコックも最後まで彼女を暖かく見守るとても良い役であった。
(これはどうも脚色っぽい気がしたが、、、(笑)。
最初と最後がスタジオ撮りの場面で繋がっていたが、「泥棒成金」の車のなかのシーンであると思われる。





泥棒成金

To Catch a Thief001

To Catch a Thief
1955年
アメリカ

アルフレッド・ヒッチコック監督・製作
ジョン・マイケル・ヘイズ脚本

ケイリー・グラント 、、、ジョン・ロビー
グレイス・ケリー 、、、フランセス・スティーヴンス(富豪令嬢)
シャルル・ヴァネル 、、、ベルタニ(レストラン経営者、事件の黒幕)
ブリジット・オーベール 、、、ダニエル(泥棒娘)
ジェシー・ロイス・ランディス 、、、ジェシー・スティーヴンス夫人(フランセスの母)
ジョン・ウィリアムズ 、、、ヒューソン(保険会社社員)


ジョン・ロビーはかつて”The Cat”と呼ばれる金持ちの宝石しか盗まない泥棒であったという。
が、金になる立派な宝石は金持ちしか持ってないだろう、、、。
別に偉そうにするほどのことではあるまい。

フランセス~グレイス・ケリーがジョン・ロビーを誘って警察の車を振り切る為、スポーツカーで蛇行する道を猛スピードで切り抜けてゆくシーンがある。これそのものはスリリングで爽快であるが、大公妃となってから自動車事故で亡くなっていることを思うと複雑な気持ちである(このロケ地近くらしい)。

ケイリー・グラントがやけに脂ぎっていて、グレイス・ケリーがエレガントなドレスを次々に着替え美しいが、他の出演作に比べ気品とオーラがない。
それ以前に、よく出来た作品だとは思うが、ヒッチコックの映画にしては、仕掛けや密度が大変薄い感じがする。
リヴィエラの高級リゾート街といってもあまり臨場感はのぞめなかった。
合成映像~スクリーン・プロセスが多用されているところがやはり没頭する気を削ぐところはある。
面白い機知に富むシーンなどは部分的に幾つかあったが、、、。

噺も込み入ったモノでもなく、昔の自分の盗みの手口そっくりの宝石泥棒が出現し、誰もが”The Cat”を疑うが、本人は恩赦により「仮釈放」扱いの為、足を洗い真っ当な生活を続けている。
ジョン・ロビーは一体だれがかつての自分に成り済まし宝石強盗をしているのか探り捕まえようとする。
身の潔白をかつてのレジスタンス仲間や警察に示さねばならぬし、犯人の目的と一体だれなのかを是非とも知りたいのだ。
彼は保険会社の社員と富豪の母娘などを巻き込みながら、次に強盗が狙いそうな富豪の集まるパーティーで罠を掛ける、、、。
保険屋は盗まれた宝石を彼が全て取り返すというから必死に協力する(支払う保険料が巨額なのだ)。

To Catch a Thief003

宝石が盗まれたパーティーの屋敷の屋根から転落して死んだ男フッサールがベルタニのレストランで働いていた男であり、警察はそれで事件を幕引きにしようとした。だがジョンは真犯人は他にいると見た。彼は片足が不自由であったのだ。
実はフッサールの娘がジョンの手口で宝石を盗んでいたのだ。
最後は屋根から落ちそうになったダニエルが全てを告白する。
協力(庇護)者と見せかけていた、かつてのレジスタンスなかまを雇っているレストラン店主ベルタニがその黒幕であった。


スティーヴンス夫人が初めからやけにジョン・ロビーをかっていて、その器を評価する。
この辺、何を根拠としてそこまで信じられるのかよく分からない。女の勘か?
フランセスがやたらと積極的にジョンにアタックしてくるのも今一つ意味不明。
わたしのタイプよ!そう言われたら、それまでだが、、、(笑。
偽の”The Cat”からの警告のカードを受け取るが、この小物はちょっと稚拙な感じがした。
ヒッチコックにしては扱いも中途半端なのだ。
ただ、車のドライブで警官を出し抜いて、お昼にチキンの脚か胸?と聞いてチキンをがっつくところなどの流れのシーンはやはり巧みな感じがする。
全体にコミカルな雰囲気も漂う映画であり、内容的には緊張感があってよいようにも思えるが、展開にしても詰めが甘くかなり緩いことは否めない。

To Catch a Thief002

ジョン・ロビーのもとにフランセスがやってきて挨拶を交わし、さようならをしても彼女は去る様子がない。
「ここなら母も気に入るわ」ときた。
何とも、、、強引というか、彼女の力技が目立った。


ヒッチコックにしては物足りないと謂える。
キャストも充分魅力が発揮されているようには思えない映画であった。
(ケイリー・グラントの巨体が屋根の上を黒猫みたいに音もなく素早く滑り去るなんて想像がつかないし、グレイス・ケリーがまるでじゃじゃ馬娘みたいな性格である。おまけに母は新宿の母みたいな怪しげな感じ)。

To Catch a Thief004




緑の光線

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Le Rayon Vert
1986年
フランス

エリック・ロメール監督・脚本


マリー・リヴィエール 、、、デルフィーヌ
リサ・エレディア
ヴァンサン・ゴーティエ
ベアトリス・ロマン


BSで入っていたので先程、観た。
『緑の光線』という題に惹かれた。
最初SFかと思った。ゴダールに限らずフランスSFはなかなか手強い。
期待したが、全く縁のないものではなかった。
ジュール・ヴェルヌの『緑の光線』の噺は知らなかったが、そこから来ている。
バカンスの地が描かれていることもあり、絵は美しい。
ギリシャ旅行が友達のキャンセルで急にダメになったデルフィーヌがバカンスをどう過ごすのか、、、理想の彼をどうやってみつけるのかが淡々と描かれる。

7/4からバカンスの間、日記のように記される。
普通にバックに生活音が入って来てドキュメンタリーを見ている感覚にもなる。

デルフィーヌは少し鬱なのか、直ぐに泣く。友と噺をしながら直ぐに泣く、、、。相手は戸惑う。
友達は無いと(独りだとか)いいながらかなりいて、彼女のことを親身に心配し、バカンスの地を教えて泊まるところまで提供してくれたりする。
傍目にはかなり恵まれた環境~友人関係に想える。
「本当のバカンスが欲しいの~」ってなんだそれ?
独り旅を勧められるが、それも惨めで嫌だし、団体旅行なんてとんでもないという。
わたしにはよく分からぬままただ付き合う、、、。

Le Rayon Vert002

あのシェルブールにも誘われ周囲は彼女に暖かく気を遣うが、どうにも馴染めずすぐにパリに戻ってしまう。
かつての恋人のいる山にも行ってみるが、そこも直ぐに退散。
ともかく訳もなく虚しいみたいだ。これでは、確かに実存主義的ヒロインだ?
バカンスもこのままだと無くなってしまう。
何とか良い場所で良い出逢いはないか、と焦るデルフィーヌ。
こんなながれでもフランス映画は雰囲気で魅せてしまう。

カードに拘ったり、前に別れたジャン・ピエール(サルトルかい?いや、彼はジャン・ポール、、、それを言うならジュネかランパルか、メルヴィル、、、どうでもよい)のことをずっと彼氏みたいに言っている。
パーティやっても、肉は食わない魚も嫌だ、とか扱い難いお姉ちゃんではある。
肉は赤い血をもっているからとか、、、。
友人に「言葉の問題だわ」と言われ「味と印象よ」と否定しているが、わたしは言葉の問題であると考える。
理想の彼氏にしたって言葉の問題ではないか、、、。
結構、我儘なヒロインなのだ。
(ヒロインはちょっと地味な感じで周囲の女友達の方が華やかでもある)。
ともかく、「行動」を勧められる。

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「自分自身や他人との触れ合いを取り戻そう」
という緑の看板を見つける。
緑色のトランプも拾っているが、その緑は彼女の「今年の色」であるらしい。

極めつけは、どこかのおじいちゃんおばあちゃんたちによるジュール・ヴェルヌの『緑の光線』についての雑談のところだ。
ヒロインは彼らの対話を傍らで聴いている。
「水平線を切り裂く緑色の刃」の噺である。
「緑の光線を見た人は、自分と相手の気持ちが分かる」という。

その中にいる老人が立ち上がり得意になって原理を語る。
「それは空気の澄んでいる時に見える可能性がある。
大気のせいであの水平線上に見える太陽は光の屈折により実際には0.5度ほど下にある。
そして太陽が水平線に近づくほど光の屈折率は高くなる。
太陽が水平線に消えそうになる時、太陽はすでに水平線の下である。
プリズムと同様光の分散により、スペクトルの中で最も角度の強い青が大きく屈折し最後に周囲の空気の黄色に混ざり見えるのが緑の光線である」と。

デルフィーヌはその後やはり親切な友人に美しいビーチのあるリゾート地と義兄の持っている部屋まで貸してもらう。
随分、恵まれていると思うが、、、。
そこで出会ったスウェーデン人の美女と友達になるが、そこでも話しをしているうちに泣き出す。
やはりバカンス中の男性を交えその魅力的な女性が噺を盛り上げているうちにデルフィーヌは独りでその場から逃走する。
日本人なら義理でそこそこ愉しく立ち振舞ってから後でさよなら、であろうが間髪入れず気に入らなければ走り去る。
分かり易くてよいともいえるし、フランス人らしいといえばそうだが、、、。人に逢う事で自らの孤独が顕になるようだ。
それは理解できる。

そして最後に、、、駅でドストエフスキーの「白痴」を読んでいる時に気に入った男に出逢い自分から声をかける。
かなり積極的に誘い、その男の行くところについてゆく。
こざっぱりした港町のようだ。
そこで解放されたのか、自分のことを率直に喋る。

彼と岬に来て腰を下ろし話を続ける。
一緒に来ないかい、、、もう少し待って、、、。
彼女の見つめる先を知り、彼は悟る。
また泣き出す彼女と一緒に夕日の沈むのをじっと見守る。
そして見事に滅多に観ることの出来ない緑の光線を二人で見届ける。
(この女性はこれくらいの現象が味方しないと何の決断~相転換も出来ないのだ)。

Le Rayon Vert001

ここでもし光線が見れなかったら彼女は一生独りで暮らしただろうな、と思える。
強力な美しい現象というものは、確かに何かを変える契機になるものだ。
かなり緊張感のある心地よい映画であった。


ロリータ

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Lolita
1662年
イギリス

スタンリー・キューブリック監督
ウラジーミル・ナボコフ脚本・原作

ジェームズ・メイソン 、、、ハンバート・ハンバート
スー・リオン 、、、ロリータ・ヘイズ
シェリー・ウィンタース 、、、ロリータの母
ピーター・セラーズ 、、、クレア・キルティ

ここでも「博士の異常な愛情」で3役熟していたピーター・セラーズの七変化が見られる。
この映画の異常さを見事に演出しているではないか。特に眼鏡をかけた黒い背広の出で立ちでのダンスの姿は異様な個性を感じる。まさにただものではない感がビシビシと来る。
噺は時々、ハンバートの独白のようなナレーションが入るところが、ちょっととぼけていて面白い。


はっきり言って主要キャストは皆かなりおかしな連中であり、まともなのはロリータだけか、、、と思える。
彼女の成育環境からみても、とても真直ぐに強く賢く生きている。しっかり自分を守れるところなど凄い。
(弱い娘なら、不良にでもなっているところだ。日本ではヤンキーか)。


ハンバート教授は夏を過ごすために田舎町で下宿の家を探す。
ヘイズ夫人の家は乗り気ではなかった(夫人のせいで)。
だが、庭で偶然出逢った少女に魅了される。いや、、、
ともかく教授の内なる何かが強烈に呼び覚まされたとでも言うべきか?

直ぐにその家に滞在始めるが、ロリータが気になってたまらない。
しかしその母ヘイズ夫人が教授に恋をしてしまうのだ。
(夫は7年前に他界している)。
ハンバートにとっては婦人が鬱陶しくて堪らない。
何とか、ロリータとの二人の時間を作りたい。何でも欲しいものを買い与え気を引こうとする。
しかし夫人は娘にどうやら女としての敵対心を抱いているようで、ロリータを自分のところから遠ざけようとしていた。

ヘイズ夫人はついに、娘への嫌悪とハンバートと一緒に過ごしたい気持ちからロリータをサマーキャンプに出してしまい、その後は全寮制の学校に送りそこから大学に入学させるという、徹底的に娘のいない生活を企んでいた。
教授はロリータと離れたくない為、ヘイズ夫人の求婚を受け容れる。そうすれば父として彼女と繋がる。
だが、ハンバートの日記を盗み読みした夫人が事の次第を知るに及ぶ。
ハンバートとしては、ピストルで彼女を事故死に見せかけようか考えるほど追い詰められていたところであったが、ヘイズは怒り狂ってに雨の中、表に飛び出した際に車に引かれて絶命する。
転がり込んだ幸運。

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彼女を連れ戻し、それからはハンバートの天国かと思いきや、、、。
この男、詩を書き小説などを執筆し、人の機微や心理にも通じているはずなのに、ロリータを一個の独立した人格として扱えない。
酷い母親以上の関わりである。これで好かれるはずはない。
束縛が激しく帰りの時間や交友関係に煩く、自由や自立など微塵も認める気はない。
ダンスもデートも禁止、学校の演劇にも参加を認めようとしない。
完全に自分の物扱いなのだ。
つまり、美しい娘に純粋に恋をしたというのではなく、自らのエゴを彼女を通して実現しようとしたに過ぎない事が分かる。
言い争いが絶えない日々が続き、ロリータも発狂寸前となる。

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そして学校を退学させ、彼女を独占するために車の旅で過ごす。
これには参るが、ロリータも尊敬するキルティに頼み心理学の教授としてハンバートを説き伏せようとしたり、叔父にしてインフルエンザで入院した病院から脱走をして成功する。何役ものキルティを愉しめ、面白くも気味が悪い。
ロリータはやはり彼女に無理強いするキルティからも離れ、純朴な青年労働者と結婚し子供までもうける。
アラスカに移住するための費用を無心する為ハンバートに手紙を出し、ロリータは結局13000㌦をドライにせしめる。
これは曲がりなりにも彼の彼女に対する親心でもあり恋心と取ってあげてもよいところか。もう最後の清算(家まで売って作っている)で後を考えていないともいえる。
そしてハンバートは、彼女とキルティとの一件を知り、自分が彼女にとってどれくらいのものであったかを悟り、絶望して泣きながら去って行く。


そしてハンバートは冒頭にも繋がるキルティ宅を訪れ彼を射殺する。
少女像の絵の裏に隠れたキルティに少女の顔に弾丸を浴びせ彼を殺す、、、象徴的な最後となった。
これこそ清算であろうか。


ロリータ・ヘイズのスー・リオンはまさに”ロリータ”のイデアに相応しい。
ピーター・セラーズの毒は癖になる。要注意だ。



ジャイアンツ

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Giant
1956年
アメリカ

ジョージ・スティーヴンス監督
フレッド・ジュイオル、アイヴァン・モファット脚本
エドナ・ファーバー原作

エリザベス・テイラー 、、、レズリー・ベネディクト
ロック・ハドソン 、、、ジョーダン・”ビック”・ベネディクト II
ジェームズ・ディーン 、、、ジェット・リンク
マーセデス・マッケンブリッジ 、、、ラズ・ベネディクト(ビックの姉)
サル・ミネオ 、、、アンヘル2世
ロドニー・テイラー 、、、デヴィッド・カーフリー卿
キャロル・ベイカー 、、、ラズ・ベネディクト II(娘、次女)
ジェーン・ウィザース 、、、ヴァシタイ
デニス・ホッパー 、、、ジョーダン・ベネディクト III(長男)


テキサスとはこんなところなのか、、、
テキサスという場所をしみじみ感じる映画であった。

ジェームズ・ディーンがどれほどの名優かも身に染みて分かった。
24歳没はいくら何でも酷過ぎる。


3時間20分を超える映画であるが、負担を感じずに見ることが出来た。
まさに大河ドラマであるが、コテコテの南部の大牧場主のビックが大きな時代の流れに揉まれて変わって行く姿がアメリカを象徴しているのか、、、と感じた。アメリカの基本は南部にある。
「何もかも計画通りには行かないものだ」
確かにその通りだが、熟年になってベネディクト夫妻はとても良い関係になった。

元ベネディクト家使用人であったジェットは、まさにこの時代の典型的な寵児である。
ビックから彼の広大過ぎる牧場の一部をもらい受け、その地に独りで奮闘して油田を掘り当てたのだ。
丁度、二次大戦も始まり国がいよいよ石油を必要として来たころである。
彼は見事にチャンスを活かした男であった。
だが、彼は余りに恋愛において一途で純粋過ぎた。
そして南部の精神性から抜け出る機会を持ち得なかった。
それが彼を不幸にした。高倉健ではないが、不器用なのだ。

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登場人物は皆真面目でよく働いている。
自分の理想の為に労を惜しまない。
テキサスはもともとメキシコ人を騙して奪い取った地である(どう正当化しようと)。
しかし、テキサスのアメリカンはメキシコ人を怠惰であると蔑み、店に入っても「お前の来る店ではない」とつまみ出し、美容室に予約して行っても「手が空きません」と、マニュアル通りに彼ら、彼女らを真面目にしっかり排除して働いている。
実にアメリカらしい。

ビックも最初はその真面目で模範的な差別者であったが、妻や子供たちという身近な他者との暮らしを通してゆっくりと変質して行く。
この彼の言う、計画通りに上手くゆかないという事が大切なのだ。
息子(長男)が乗馬を嫌い到底カウボーイ―などに成れぬ事を自覚させられ(医者となって故郷に尽くすが)、ふたりの娘も全く親の想像の及ばぬ考えを持っている(実に自然だ)。
ビック夫妻にとっての最初の違和感は、3人の子供が幼い頃に、クリスマスの七面鳥の丸焼きをテーブルに出した瞬間、仲良しの七面鳥であることに気付き名前を呼んで大泣きしていつまでも泣き止まなかったことであろう。
このような感性に取り巻かれて過ごすのである。
この感受性は妻の先進的な東部の感覚と共に、大変重要な資質として後程、効力を発揮するだろう。

時代の流れも彼ら(南部)を取り残していってしまう勢いであった。
幸いにも経済的には、放牧では立ち行かなくなるであろう時にジェットからの提案で石油成金になったお陰で自家用飛行機や邸宅には豪華なプールまで完備する生活を享受出来た。
精神的にも、東部の名門の娘であったレズリーと彼女の思想の影響を少なからず受けた子供たちとの葛藤を経ることが出来たビックは幸せであった。
しかし、レズリーへの想いを胸に秘めたまま、ずっと独りで過ごして来たジェットは金だけで幸せは掴めなかった。
つまり、身近な~親密な他者がいないことで、自己解体もなにもする契機ももたず、精神的には以前と変わらぬ貧しさのなかに居続けてしまったのだ。
もしレズリーへの想いを断ち切れるような人に出逢っていれば、彼の人生も豊かなものになっていたかも知れない。
いずれにせよ、ジェットは億万長者となっても悲惨な生涯で終わった。

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最後に、普通のハンバーガーショップを訪れた際、その店のあからさまなメキシコ人差別に怒り店主と大喧嘩するビックであるが、そこで歳のせいもあり殴り合いで負けてテーブルに残債と共にたたきつけられるが、夫人のレズリーからは、これまでにない最高の賛辞をもらう。
ジェットとビックの最大の差は、ここである。
哀しいかなジェットにはレズリーはいなかった。
彼に気持ちを寄せていたラズ・ベネディクト IIではダメだったのか、、、。
この辺の難しさが、人生である。


時をかける少女 実写

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1983年
大林宣彦 監督
剣持亘 脚本
筒井康隆 原作
松任谷正隆 音楽
松任谷由実「時をかける少女」主題歌 歌:原田知世
「愛のためいき」挿入歌 作詞:平田穂生 作曲:大林宣彦

原田知世 、、、芳山和子
高柳良一 、、、深町一夫/ケン・ソゴル(未来人、クラスメイト)
尾美としのり 、、、堀川吾郎(和子の幼馴染、クラスメイト)
上原謙 、、、深町正治(深町の祖父)
内藤誠 、、、芳山哲夫(父)
津田ゆかり 、、、神谷真理子(学級委員)
岸部一徳 、、、福島利男(担任、国語教師)
根岸季衣 、、、立花尚子(保健体育教師)
入江たか子 、、、深町たつ(深町の祖母)
入江若葉 、、、芳山紀子(母)


かなり以前、一度カット版での感想を載せているが、改めて当時の完全版で見直してみた。
前回は、何かのついでで観たようである。当時「ニューホライズンズ」に興奮していた(笑ようだ。
もう一回、この映画を見直したい。
ここのところ、リバイバルブームでもある(わたしが)。

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ゆったり観てみた。
画面の何とも言えない蒼暗さが遠い記憶のようで気持ちが安らかに疼いた。
アスペクト比が1:1.375のスタンダードサイズ。
学校が週6日制で土曜の半日まであった頃だ。
(もっとも、これでなければ成り立たない御話~ファンタジーである)。

土曜日の実験室。
「土曜日の実験室」がこれ程切なくこころに響くものか、、、。
「土曜日の実験室」をこころに刻みながらテレポーテーションを続ける。
「時空間を彷徨う亡者になってはいけない、、、集中するんだ、、、」

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「わたしの(あなたに対する)気持ちは嘘ではなかった」
「ぼくもそうだ」
「そうよね、あのうたの続きは、、、」
「そうさぼくが作った。ぼくの気持ちだ」

>愛の実りは海の底
>空のため息
>星屑が
>ヒトデと出逢って億万年

すでに知っている「桃栗3年~」の続きの歌(歌詞)をふたりで唄って、共にお互いに関する記憶を消して別れる。
何て切ない、、、。
別れるだけでなく、大切な思い出を抱いて生きることすらかなわないという残酷さ。
でも全てを忘れても、この歌(とその意味)は胸のどこかに眠っている。
きっと、必ず眠っている。

西暦2660年を迎えると、機械によってではなく超能力でタイムリープやテレポーテーションが出来るようになるとのこと。
だがその時代には、地球上に緑がなくなり、特にラヴェンダーの成分がどうしても必要となった。
そこで薬学博士のケン・ソゴルがこの時代(1983年)に派遣されたのだ。
「あのスキー教室の、、、星が不思議な感じの、、、」
「その時さ。一か月間だけ」
ケン・ソゴルは幼くして亡くなった深町一夫のIDを再生し、和子らの世界の文脈に巧みに自然に入り込んで来た。

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「だって小さい頃からの記憶が、、、」
「いや、それらの記憶は君と堀川君との記憶を借りたのさ」
それは和子も気づいていた。幼い頃のふたりが負った事故での傷跡である。
深町君にはそれがなく、堀川吾郎ちゃんにはしっかりとその痕跡があった。
潜入工作は完璧ではなかった。要は脳だけの問題ではないのだ。
「ぼくが念波を送った人たち全員の記憶を消さなければならない」
「君とぼくのもね」

「もう時間がないのね。何で時間は過ぎていってしまうの?」
「時間はやって来るものなんだ」
「じゃあ、また来るのね」
「いつか、来る。でも君はぼくを見つけられない。ぼくにもきみが分からない」
「いいえ、きっと見つけるわ。絶対に忘れない、、、」
そのまま、彼女は土曜日の実験室に最初と同じように気を失って(記憶も失い)倒れる。

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何もかも記憶を失ったに関わらず、和子は大学院で「薬学」の研究を続けている。
理由もはっきり分からないのに、それをひたすら続けているには、きっと深い分けがあるのだ。
きっとそうに違いない。
特に拘ってしまうお気に入りの曲などは、、、
どんな物語が潜んでいるか分からないものだ。
そう、指の傷跡など、その身体性の記憶から何かが綻び出ることがあった、、、。

そして再び邂逅。
だが、この再会もはじめから運命は決まっている。
決して結ばれず、想い出さえ残されない愛とは可能なのか
透明な痕跡を追う行為~それが歌(音楽)なのかも知れない。
ある意味、芸術はそれに縋って生まれ出て来る。


SFファンタジーの枠をとても有効に使った香しい映画だ。
尾道がまさにこの映画の世界観にぴったりの場所であった。
終始流れ続けるBGMのピアノも素晴らしく心地よい。


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8 1/2

8 12 001

Otto e mezzo
1963年
イタリア・フランス

フェデリコ・フェリーニ監督・脚本

マルチェロ・マストロヤンニ 、、、グイド・アンセルミ
アヌーク・エーメ 、、、ルイーズ・アンセルミ
クラウディア・カルディナーレ 、、、クラウディア
サンドラ・ミーロ 、、、カーラ
バーバラ・スティール 、、、バーバラ


「われわれは窒息させられている
無用な言葉や音や映像に」

全くその通り!

プロジューサー、批評家、記者、女優、愛人、妻、友人、、、の入り乱れる、新作の構想と療養を兼ねてやって来た温泉施設。
唐突に「ヴァルキューレの騎行」である。「地獄の黙示録」か、、、である。
静かに湧き出る鉱水を飲む広場において。
一つの遠近法的空間に収まっているように想えても、こころは多様な世界を同時に生きている。

それにしても凄まじいセリフの量だ。
このなかでコミュニケーションの成り立っていることばはない、というのが凄い、状況だ。
みてみると、別にグイドだけでなく、誰もが孤立しているのが分かる。
そして誰もが語り話し喋ることをやめない。
このセリフの全量がやがて無秩序に行き着く。
いや現実的な会話だけではない。
グイドの回想、妄想、想像、、、も含めた、、、
エントロピー最大。

つまり、フェリーニは沈黙をこのようなやり方で実現した。
「芸術家の名に値する人間なら”沈黙への忠誠を誓え”」

ちょっとタルコフスキーの「サクリファイス」を想わせる。、、、ああ、また見たい。


それにしても白・黒の対比も美しい映画である。
意識の様々な様態の切り替わりも鮮やかで美しい。
われわれの意識も常に幾つもの時間流を行き来するが、哀しいかな映画のように鮮やかで明瞭な過去や未来の画像を見ることは叶わない。これが映画という形式~文法なのだと再認させられる。
ともかく、映画の為の映画なのだ。
アルタードステイツにおいては、こんな風に意識流を明瞭な画像として見れるのかも知れない。
そう、あの白装束で浜辺を歩む人々もトワイライトゾーンの風のそよぎのなかにいた、、、。
他にも両親との関係やカトリックとの確執などを巡る回想にハーレムで鞭を振るう破れかぶれな妄想も美しくも面白い。
しかし一向に仕事は進展しないまま、、、。
何故か枢機卿にまで逢って悩みを相談するが、全く解決しない。


70mまで組み上げたロケット発射台がとりわけ素敵だ。
ここから地球を脱出する人々(と謂っても少数だが)などのことを描くSFらしい。
まあ、グイドの心情そのままの設定なのかも知れない。
もううんざり!というところか。
非常に無駄な大金を使って建てられたというこの塔がとても郷愁を感じさせ美しい。
だが、ここまでセットが進んで来ていても、彼に「本」は出来ていないのだ。
あらすじさえも語れない。

そして最後に、白いドレスのクラウディアに縋って救いを求めるが、それは叶わない。
彼女もまた他の女性と変わらなかった。ここで彼は次作はもう終わったことにする。
しかし彼の取り巻きがすぐさま押し寄せ、新作発表の段取りとなる。
翌日プレス向けの会見の席が発射台の傍に設けられるが、彼は何も語らず逃げてしまう。

彼に対しとても辛口の批評家が語る
「君のしたことは正しい。もうこれ以上、世の混乱を招く必要はない。君の醜い足跡をわざわざ後世に残すことはあるまい。君の過ちの集大成を見て誰が歓ぶ。」
だがそれを静かに聴いていたグイドであるが、急に嬉しくなって力が湧いて来るのだ。
製作中止となって多大な損失を出した後で、突然吹っ切れたのか。
確かにこういう事はあると思う。
(自分にもそれ程の大事ではないが、過去そんなケースがあった気がする)。
、、、塔が取り壊されてゆく。


「混乱したぼくの人生はぼく自身の反映だったんだ。理想とは違うがもう混乱は怖くない。
求めるものはまだ見つからないが、君の目を真直ぐに見てこう言える。
~人生は祭りだ、共に生きよう~」

愛人の件で揉めていた妻とのよりも戻す。

混乱を極めた先に全てを投げ出して、新たに始まって行くというのは、理にかなっているように思う。
それは、これまでにグイドが人生で関わって来た全キャストとの手をとっての踊りに繋がって行く。
ただ唖然とするが凄いブーツストラップである。

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重陽の節句

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9月9日は一番大きな数が重なる為、「重陽の節句」と呼ばれるようになった。
ちょうど季節の節目でもあり「無病息災」を祈願する行事の日となる。

うちでも簡単にこの別名「菊の節句」を行うことにしている。
そもそも、うちでは昔からやっていたのではなくわたしがブログを始めたころ、ブロ友の方が記事でそれは印象的に紹介されていたことに影響を受けて恒例の行事となった。とは言え、実に簡素にやっている。

早速、昼も近くなったので、近所に買い物に出たが、普通七夕やお月見などの行事では必ず特設コーナーが小さくも設置されるのに、どこにも何もない。「重陽の節句」が完全に無視されていることが分かった。うちの近所の店では、、、。
ちなみに、今年のお月見は9月24日になる。この日はお団子だ。このコーナーは出来るはず。月にお団子で分かり易いのか?

娘のバースデーに必ず頼むケーキ屋にも置いていない。
焦って他のお菓子店にも電話したが、ないのだ、、、。
和菓子専門店ならあるはずだが、ずっと長いこと続いていた大きな店が一週間ほど前に閉店したばかりだ。
(ここのところ、長く続いた店舗も含め、閉店ラッシュである。わたしも日頃の買い物はほとんどアマゾンだし)。
昨年はちょっと遠出した先の大きなデパ地下で前日に買ったと思う(たまたまである)。
菊の花と菊のお菓子。

仕方ないので、菊の花を3種類ばかり買って花瓶に挿した。
後はお酒と三色串団子を買って来た。
大人はお酒に菊を浮かせて、娘は麦茶に菊を浮かせることにした。
栗ご飯を夕食に焚くことにしたので、それで慎ましく行うことにした。


夜は菊を浮かべたお風呂に、これから入る。
まだ夕方だが。
一番は次女から、、、。
今日はゆっくりしたい。

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愚行録

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石川慶 監督
向井康介 脚本
貫井徳郎『愚行録』原作

妻夫木聡、、、田中武志(ジャーナリスト)
満島ひかり、、、田中光子(妹)
小出恵介、、、田向浩樹
臼田あさ美、、、宮村淳子
市川由衣、、、稲村恵美
松本若菜、、、夏原(田向)友希恵(田中、宮村の憧れの存在)


まずは物事の捉え方の問題である。
この国は見方が実にステレオタイプ化していて、警察国家的な様相がある。
規範(道徳)を振り翳し、得意気に暴力的に人に指図する愚劣な行為。
ここには人間の身体性~総体性はなく記号としての対象(関係)しかない。
年寄りがいるから、まだ若いお前が席を譲れ、(だけ)である。
(このような人間に絵を描かせて、感動~発見を感じるものなどまず無理であることは断言できる)。

この辺に拘り引っかかってくる映画なのかと思って取り敢えず見始める。

主人公の妹がネグレクトにより投獄されている。
彼女の幼い子供は、栄養失調による重体で後程亡くなる。
弁護士や精神科医との対話から、主人公と妹が壮絶な幼少時代を掻い潜ってきたことが分かる。
この妹はその家庭環境により、特に深い精神的外傷を受けていることが窺える。兄もトラウマは抱えつつも外面には出ない範囲で日常を送っている(陰鬱な無表情が主調となっているが)。

両親の虐待が精神に及ぼす影響は計り知れない。
幼少年時の精神を形成する時期であれば、大変深刻だが大概、生まれた後から直ぐに始まるものである。
それは外からは見え難い。場合によっては、手のかかる子供を懸命に守る親のように映る場合も少なくない。洞察力のある人なら異様な関係に疑いの感覚を持つが、上記のバスの車内で、高圧的に席を譲れと言って正義の味方気どりしている程度の馬鹿では、まず何も~内部の深く複雑に絡んだ関係、その襞に対する感覚など微塵も持ち合わせない。そしてほとんどがそんな者であることは、わたしも身に染みてよく分かっている。
ここで、主人公は面白い事をする。席を立った後、足を引き摺って歩き、ご丁寧にコケて見せたりしている。
バスを降りてからも窓からその男の確認できる範囲で足を引き摺って見せる。

やった行為の相対化は図れるかも知れぬが、その程度で人が利口になることはない。
こういう返し方も場面によっては、効果はあるかも知れぬが、、、。

多様性の只中に在って、われわれは選択を強いられもする。
日常のなかで正誤を決めなければならぬ場面もある。
しかし流布される情報はかなり曖昧だ。
自分の感性と美意識の問題である。それを研ぎ澄まさないとすぐに絡めとられる。

ここでは、大学生活での階層~階級のようなことについてもしつこく出て来る。
初等部からエスカレーターの金持ち学生と大学受験で入ってきた一般学生との間の格差だという。
受験で入った学生が(特に女子学生が)初等部上がりの学生に憧れるという構図であるが、何とも浅ましい。
金があり遊び慣れていて別荘や外車やその他諸々を所持していて色々な場所を知っている、、、程度のことだ。
何でそんな皮相的な部分に拘るのか?
主人公の妹はそもそもその大学に何しに入ったのか?
過酷な歴史~アイデンティティから抜け出るためにブランドを欲しただけなのか?
その時点ですでに、ペラペラな連中と同じ穴の狢であり、価値観が同じだから相克の関係が生じる。
親の(精神的・肉体的な)虐待によって真っ当な自己イメージが確立できない~崩壊していることはよく分かる。
だがそこに、憧れのアイドル(イコン)を持ってきて、あの人のようになりたい、はないだろう。
何と内省を欠いているのか!どこまで外面的なのか?あるいは、自己対象化の経験がないのか?それでは自己解体~自己遡行が出来ない。

わたしは、外の何かに理想を投影したことはない。
大学では、ここぞとばかりに独りになった(やっとなれる環境を得た)。
徹底して関係を切断した。
自分自身の為だけに時間を費やし、自分自身になることだけを目指した。
ここで、自分自身自体がフィクションだろ、などとぬかすタコは完全無視する。
こちらを他者(独立人格)と見れない親の無意識の為に、自分が自分を生きれない心身喪失(崩壊)の状況であれば、自己イメージを容易に誰かさんのものに同一化するなんてそれこそ危険極まりないし、そもそも出来る事ではない。
どうもこの妹の実存的症状が分からない。大学ではただの上昇志向で見栄っ張りの普通の女子ではないか。
トラウマに苦しみフラッシュバックに悩み、自己イメージの脆弱さと不安の為に躓くような、内的葛藤が窺えないのだ、、、。
外ばかりに関心を払っている。つまらぬ事や人ばかりに、、、。
大学でダラダラと自堕落な生活を送り、基本人を駒のようにしか見ない女子学生に憧れ彼女にはなれないと知って殺害に走るという事自体が、初めから完全に精神崩壊して極めて危険な形でずるずる生きていた証明だ。
(勿論、本人の元々の資質・価値意識の問題もあろう)。
育児放棄もその延長上のひとつに過ぎない。
自分を生きていなければ生命は扱えない。
何故、自分や親を、その在り方と歴史を洗い直さないのか。
いやそれが出来ないほどに病み切っていたのだ。すでに崩れていたのだ。

彼らの親もそういう人間であったわけだ。それはそういう形(愚行)で遺伝・継承される。
断ち切らなければならない。
何らかの形で(方法で)切断しなければ。
「親」を完全に断ち切り、周りの全てを敵にまわしても、自分自身になり自分の生命で生きることで、まず始まる。

この映画など途中からどうでもよくなった。
わたしにとっては、自分を振り返る契機となった。

ともかく、主人公の心理の流れは分かるが、妹には全く共感しないというレベルではなく、人格・精神状況の設定をもっと練ってもらわないと、全くリアルさはない。





魔女の宅急便 アニメ

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Kiki's Delivery Service
宮崎駿 監督・脚本
角野栄子 『魔女の宅急便』原作

荒井由実『ルージュの伝言』、『やさしさに包まれたなら』主題歌
久石譲 音楽 『風の丘』など、、、

キキ
ウルスラ(画家の少女)
ジジ(キキの飼う黒猫)
おソノさん(パン屋の女将)
トンボ(キキの友達の少年)
老婦人
バーサ(老女中)
マキ(デザイナー)

この『魔女の宅急便』アニメ版も内部リンクを張ろうとしたら無いのに気づき、焦ったもの。
ここで、一言書いておきたい(このパタンまだありそう。探して見る必要あり)。
「トトロ」に並ぶ傑作である。
本作も随分前に観ているのだが、、、魔女と謂ってもとても普通の世界が描かれていた印象が強い。

声優はプロの声優のようだ。安定していて身を入れて観ることが出来た。
キキとウルスラが同じ声優さんなのだ。やはり専門家は違う。
久石譲の曲も優しく馴染んでとても良い。
特に『風の丘』はうちの娘がよく弾いていた好きな曲のひとつ。
綺麗なだけでなく哀愁が溢れていて、この映画の世界観にとてもよく溶け込んでいる。


まず、この物語はかなりストイックなものだ。
13歳でキキは修行の為、家を出るというところから始まる。
まるでかつての徒弟制度やルネサンス期のレオナルドがベロッキオ工房に送られたのもこの年頃か、、、。
だが、どこかの街の魔法学校に入るとかではなく、住む街を探して自活しながら人生を学ぶみたいなのだ。
ちゃんと働いてお金も稼がないと食べてゆけないという下部構造もしっかり描かれる。
よくある子供向けアニメの、修行を重ね次々に新たな魔法を習得して、悪者に立ち向かうような抽象的な方向性はとらない。
ここでいう魔女というのは、どのような存在なのか。
もうすでに過去の存在になっている(極、希少な存在のようだ)。
キキの姿を目にし、バーサがまさにひいおばあちゃんから聞いた魔女そっくり、みたいなことを言っている。
街でもとても浮いた個性的な存在である。実際に街中を箒に乗って飛んでいるのだ。
しかし、人々はおやっと空を仰ぎ見るが、過剰に驚き恐れるような人はいない。強い好奇心を持つ人はトンボ独りであった。
そんな特にいてもいなくてもよいような存在である。

日常的にも見る、自分とは明らかに違う人種を、優しく無関心に受け容れる状況に似ているが、、、。
宅急便の仕事を考え、始めるとそれなりの需要者が付き、街の人との関係も現実的に出来てゆく。
やりがいを感じ充実感を味わうばかりでなく、とても虚しく落胆に沈み急な豪雨に逢って風邪をひいてしまったりもする。
確かにこうして人は(誰のものでもない)自分の生きた経験を糧に成長してゆくのだ。
ただ現実にありそうな差別や謂れのない暴力などは起きない適度な無関心さに救われているように思う。
彼女が選んだ街は、特に豊かかどうかは知らぬが殺伐とした感じがない良い街であった。
所謂、普通の学校にはそのうち故郷に帰ってから戻るのか、その辺は知らないが、、、。
これは教科学習では賄えぬとても素敵な学びの場になっていると感じる。

特にシャガール風の絵を描く少女ウルスラとの邂逅は貴重なものだ。
ウルスラは魔女ではないが、キキと同様に若いが求道者である。
キキが飛べなくなった悩みを相談すると彼女も描けない時の苦しみを語る。
その苦境をどう乗り切ったかも話してくれるちょっと先を行く親友だ。
こういう得難い友を得ただけでもこの街(の森)に来た甲斐はある。
かなりのピンチでの偶然の大きな贈り物でもあった。
映画の中でこのパタンが幾つもあり、実際チャンスはそういう場で掴むものであろう。


キキを御贔屓の老婦人もおソノさん同様キキの精神的支えとして心強い存在だ。
そして前向きで上向きなトンボ少年である。
やはり同年代の異性はとても大切な存在である。
空を自由に飛び回れるキキを素直に尊敬しているところも良い。
良い話し相手になるに違いない。

最後にこのトンボ少年の危機をキキがとっても危なっかしくもドラマチックに救ったところで、二人の関係もとても自然になったが、その情景をその場やTVを通して観た多くの街の人々がキキに好感を抱いたのも間違いない。
これから商売も繁盛するだろうし、トンボとの将来や、ウルスラとも更に創造的に、、、など明るい未来に続く感覚で終わる。
黒猫ジジとは、この先どうなるんだろう、、、とちょっと思ったが。
絵と音楽が違和感なく融合して、この絶妙な世界を彩っていた。

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どこにも破れ目や不自然さのないとても静かな説得力に充ちた作品であった。
実際に箒に乗って低空飛行しているような感じで自分も暮らしていることは確かで、そういった面からも親近感を抱く映画である。







シェルブールの雨傘

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Les Parapluies de Cherbourg
1964年
フランス

ジャック・ドゥミ監督・脚本
ミシェル・ルグラン音楽

カトリーヌ・ドヌーヴ 、、ジュヌヴィエーヴ・エムリ
ニーノ・カステルヌオーヴォ 、、、ギィ・フーシェ
マルク・ミシェル 、、、ローラン・カサール
エレン・ファルナー 、、、マドレーヌ
アンヌ・ヴェルノン 、、、エムリ夫人
ミレーユ・ペレー 、、、エリーズ(ギィの叔母)


真昼の用心棒」の時、「シェルブールの雨傘」に内部リンクを張ろうとしたら記事がないのに気付き、焦る。
もう随分前に観て大感動したもので、感想だけは書いておきたい。
なお、「ロシュフォールの恋人たち」(1967)と同じくジャック・ドゥミ監督・脚本でもある。
こちらの映画では、カトリーヌ・ドヌーヴとフランソワーズ・ドルレアックという史上最強姉妹が主演と来ている。
音楽もミシェル・ルグランで素晴らしいものであったが、形式的には通常のミュージカル映画となっていた。


第一部 旅立ち 1957年11月
第二部 不在 1958年1月
第三部 帰還 1959年3月
エピローグ 1963年12月
で構成され、音楽のみで地のセリフの無い唯一無二の形式を誇る藝術作品である。

その実験的(革命的)試みが完璧に成功している。
”I Will Wait For You”が鳴るたびにきまって号泣だ。
もうこれは仕方ない。
恋愛ドラマをこのレベルまで持って行った映画を他に知らない。
音楽の力は勿論だが、まだ瑞々しいカトリーヌ・ドヌーヴとニーノ・カステルヌオーヴォも素晴らしい。
更にマルク・ミシェルの紳士振りも言う事なし。
歌は全てプロの吹き替えだが、当然だろう。
でなければ、この完成度は不可能だ。
(敢えて謂えば、エムリ夫人が少しばかり煩すぎ)。

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しきりにお母さんが、あなたはまだ若すぎるからと言って、結婚を思いとどまらせるが、確かに17歳では早い。
だがそう言われている彼女が、大人の顔立ちである為、どうも感性的に謂って子供には見えない。
この時カトリーヌ・ドヌーヴは21歳で、そんなに歳の離れた役ではないが、若過ぎるに説得力が感じられなかった。
乃木坂のいくちゃんが21になったそうだが、彼女なら17は楽勝である。違和感なし。
(ミュージカルにつられてこちらに流れてしまった。勿論ファンという事もあるが(笑)。

戦争で恋人ギィ・フーシェ不在中に宝石商ローラン・カサールから結婚を申し込まれたジュヌヴィエーヴであるが、彼女は大いに悩む。
ギィ・フーシェと将来の展望はないにせよ、愛し合っており、彼の帰還をひたすら待っているのだが、その間手紙もろくに来ない。
写真を見なければギィの顔も思い出せなくなってきた焦りもある。
母はギィとの結婚には一貫して反対で、裕福なカサールとの結婚を望んでいる。
しかし、ここに大きな問題が立ち塞がっていた。
すでにジュヌヴィエーヴはギィとの子供を宿していたのだ。
女の子なら”フランソワーズ”と彼と一緒に名まで決めた子だ。

そこで、彼女はもし妊娠している自分を受け容れてくれないなら、カサールに然程の誠意はない。
でも、そんな自分を受け止めてくれるというなら、それを断るなんて誠意を裏切ることになる、、、。
こういった理屈に走った悩み方は、もうすでに彼女の中でギィより宝石キラキラ紳士のカサールに傾いていることが窺える。
予想通りすんなり彼はお腹もプックリなジュヌヴィエーヴを受け容れ、一緒にその子を育てようと言ってくれた。
もう結婚しかない。大きな宝石の指輪である。

絵としては、カトリーヌ・ドヌーヴの美しさは圧倒的である。
ウエディングドレスを着たマネキンたちの中に彼女がベールを纏って混ざって立っているところは、シュルレアリスティカルな美でありハッとさせられた。
こういった美しい演出も盛り込まれたところが素晴らしい。

二部の最後のところで、ギィの叔母の世話をしていたマドレーヌがこの結婚をしかと見届けていることをわれわれに知らせている。

三部で、ギィは脚に怪我を追って帰還するが、彼女らの「シェルブールの雨傘店」は人手に渡っていた。
ことの次第を知って自暴自棄になるギィ。
酒と娼婦にうつつをぬかし、朝帰りするとマドレーヌから昨夜叔母が亡くなったと聞かされる。
彼女は行く当てはないが、そのアパートに留まる理由もない為、出てゆこうとするが、ギィに一緒に住もうと懇願され留まることにする。
そして叔母の遺産もあり、以前からの夢でもあった白い事務所付のガソリンスタンドを作り、その前向きなギィの姿にマドレーヌも心を開き彼のプロポーズを受け容れ結婚する。
この辺の流れは余りに予想がつき易いが、もうこれ以外の展開はあり得ない。

Les Parapluies de Cherbourg002

そして当然、予定通りの邂逅による最後の結びとなろう。
息を呑む切なさである。
クリスマスの夜。雪積もるさなか、結婚後初めて里帰りしてやって来たジュヌヴィエーヴ。
丁度、ギィが独りになったばかりのタイミングに彼女が偶然車で入って来た。
給油の間、白い事務所でほんの一時、ぎこちなく語り合う。
お互いの幸せを、ことばで虚しく確認する、、、。
ギィは車の助手席に見つけた女の子の名前を聞く。
「フランソワーズよ、、、あなたにとても似ている、、、」
「もう、行った方がいい」
彼女が車で出てゆくのと入れ違いにマドレーヌと幼い息子のフランソワが戻って来る。
カメラが急速に引いてゆく箱庭のような光景の中に、ギィが息子相手に雪遊びをする姿とそれを見守る妻がいるが、すでにギィの表情は掴めない。

”I Will Wait For You”のもっとも哀しいアレンジが鳴り響く、、、。



メアリと魔女の花

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Mary and The Witch's Flower
2017年

米林宏昌 監督・脚本
メアリー・スチュアート原作『The Little Broomstick』

声:
杉咲花 、、、メアリ・スミス(11歳、赤毛、青い瞳、そばかす少女)
神木隆之介 、、、ピーター(12歳、赤い館村で新聞配達する少年)
天海祐希 、、、マダム・マンブルチューク(エンドア大学の校長)
小日向文世 、、、ドクター・デイ(エンドア大学の魔法科学者)
満島ひかり 、、、赤毛の魔女(エンドア大学の昔の生徒)
佐藤二朗 、、、フラナガン(エンドア大学にある箒小屋の番人)
遠藤憲一 、、、ゼベディ(赤い館の庭師)
渡辺えり 、、、バンクス(赤い館に勤める家政婦)
大竹しのぶ 、、、シャーロット(赤い館の主人で、メアリの大叔母)


TVで観た。CM入りまくりのカットもある映画であった為、それを差し引いてみる。
カットされてよいはずはない。ほんの僅かな風景の描写であっても重要な役目をもつ。
だが、それでもその映画の良さは分かる範囲で確認~鑑賞は出来ると思う。

米林宏昌監督と言えば、「借りぐらしのアリエッティ」、「思い出のマーニー」であり、両方ともとても好きな作品だ。
それで、観てみた。
何と謂うか、、、前二作は監督が思うように作った、ジブリブランドを意識しない作品ではなかったか、、、
とても繊細で文学的で素敵な世界観に浸れたものだ。
しかし、この作品はどうだ、、、。
今になってジブリ意識し過ぎなのか、どうなのか、この監督ならではの作風というものを感じない。
忌野清志郎ではないが、「♪~どうしたんだ~♪」と聞きたくなる。

作品を製作する環境は、とても重要なものなのだと思う。
彼はスタジオジブリのスタッフに支えられた上で自分の世界を表現することが上手く出来ていたのかも知れない。
新しく立ち上げた「スタジオポノック」というのもジブリで働いていた人が多数を占めるそうだが、やはり違うのだろう。
この過剰にジブリ色の強い演出と軸となる流れは、原子力エネルギーやクローン技術などを象徴しているかに想える、どうしても制御出来ないヒトの文明の方向性に対する危惧であろうか、、、。


しかし、あまりこの監督の持ち出すテーマとは思えないが、、、
もっと私小説的な個としての存在を問うテーマが真骨頂にも思えるのだが。

今回はやたらとキャラが空を飛び回るのだが、空滑りをしているだけの印象である。
しかも「魔女」である。
これはやらない方がよかった。
だって、あの傑作「魔女の宅急便」があるではないか。この時点で圧倒的に分が悪い。
勿論、強力な基本コンセプトが暖められており、独自表現が用意されているのなら、それで行くべきだが。
実際のところ、それ程はっきりしたコンセプトを詰めておらず、表面的な繋ぎ合わせとこれまでの経験で作ってしまった感がある。
自分の作るべきものではない何かを、プロジューサーか誰かに強いられたのか、、、その辺の経緯は知らないし、探る気もない。
やるのは、自分である。

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わたしは、魔法大学の校長が水の中から現れた時、思わず「うっへ~」と唸ってしまった。
余りに、これまでのジブリ作品のピースをあからさまに使い過ぎてはいないか。
これをやるには、余程基本構造がしっかりしていないと、ただのつぎはぎになってしまうだろう。
結果的に、なってしまった。

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全てのキャラが弱い。
出て来る動物たちも、不自然。
猫は中では、頑張っていた方だが、、、。
ヒロインのキャラに高潔な魅力があまり感じられない。(ジブリにはその魅力がある)。
その為、ストーリーがとても単純で大雑把になってしまった。
共感を覚えるところが少ない。
わたしとしては、メアリが大学に招かれ、校長に褒めちぎられて気をよくしてゆくところなどは、よく分かるし面白かったが。
その程度の少女が一晩ほど魔法が使え、その力で自分のせいで捕らえられている生意気な男の子を助けに行くという、ほとんどどうでもよいような話である。大袈裟な感じで動き回るが登場人物もごく少なく少女を軸にした世界観は小さい。
男の子と一緒に戻ろうという幼い動機のレベルである。
噺全体(校長~魔法科学者)からみても上記の思想的観点があったとしても脚本・演出が粗雑に思える。

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「夜間飛行」が7年に一度咲く花と言っていたが、7年後にはまた反復する話なのか、、、もうその花が存在することは知れている。
7年後の想定の続編を今度は満を持して作っても良いかと、、、渾身の力を込めて。

でもこの作品の続編ときたら、見ようとはしないだろうな、、、。
だが、米林宏昌監督の次回作には期待したい。

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真昼の用心棒

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Massacre Time/Le colt cantarono la morte e fu... tempo di massacre
1966年
イタリア

ルチオ・フルチ監督
フェルナンド・ディ・レオ脚本

フランコ・ネロ 、、、トム・コーベット
ジュゼッペ・アドバッティ 、、、ジェフ・コーベット(トムの義兄)
ニーノ・カステルヌオーヴォ 、、、スコット・ジュニア(トムの実弟)
ジョン・マクダグラス 、、、スコット(悪党の資産家、トムの実の父)
リナ・フランチェッティ 、、、メルセデス(コーベット家の伯母)
チャン・ユー 、、、葬儀屋
ジョン・バーサ 、、、キャラダイン


フランコ・ネロというマカロニガンマンのスターを観ておきたいので、これを今回のシリーズ?の取り敢えずの最後にしたい。
実際に観てみると、一番面白かった。
フランコ・ネロはクリント・イーストウッドをさらに渋くした感じか。彼もやや詰めは甘いが。
ヴァイオレンスシーンがかなりあるハードなタッチで物語の見応えはあった。
どうやらマカロニウエスタン(西部劇もそうか?)は、悪党の資産家が街全体を制圧してしまい、保安官から銀行家などその全てを手中に収め、皆が搾取され疲弊しているところを、孤高のガンマンが立ち上がり街を解放するという構図が基本となるようだ。
当然、その悪党はしたい放題で多くの人を無慈悲に殺している為、復讐劇も絡む。さらにここでは、愛に飢えた狂気の執念みたいなのも絡み、女、子供も平気で惨殺される。鞭でこてんぱに打ちのめしたり、、、酒を浴びるほど呑んだくれたり、、、そして早撃ちで多人数を一瞬のうちに鮮やかに葬る(馬の横乗りもある)、ある意味、マカロニウエスタンらしさの針が振れ切っているところでもある。


ただ、「用心棒」とかって何なの?ここでは砂金を取る仕事ではないのか?
呼び戻され帰ってきたら家を悪党に奪われていて、伯母が殺され(育ての父も殺されていて)、その復讐をしたものだ。
へんてこな邦題つけないでよ、、、どういう意味?特に「真昼」ってことでもないし。
”虐殺の時”といのも捻りはないけど、ストレートで分かり易い。

ストーリーはこれまで観たマカロニよりも凝っている上に説得力があった。
屈折した(首も終始傾けている)スコット・ジュニアの迷走ぶりの訳も分かるし、その取り巻きのひとりインディアンの男の複雑な立場も伝わる。ニーノ・カステルヌオーヴォ、表情など少し役作りし過ぎな感じもするが、、、独特な異常さは良く出ていた。
結局、トム・コーベットの実の父が、コーベット家のみならず街全体の宿敵であるスコットなのであった。
これが物語の肝となる。この血の因縁が悲劇を呼んだという、何やら横溝正史の物語にも共振するところが感じられる。
確かに前半のシーンで悪党どもがトムに対して抜いて来ないので変だと思ったらそういうことであったのだ。
特に、幹部の如何にも凄腕風のインディアンの男がやけにトムに対して微妙な間を取っていつも監視しているのが気になったが、彼は狂って暴走するジュニアに限界を感じており、同様に彼を排除したい父スコット側に付いて動いていたようだった(その為に終盤、ジュニアに殺される)。

ジュニアは父が自分を見限って、実の息子(ジュニアの実兄)であるトムを探して会いたがっており、父の遺産相続権についてもだが、愛も奪われる事に対して強く反発し、歪んだ精神による残虐な狂態を繰り返していたのだ。
その合間にパーティでオルガン演奏に興じ、余興に鞭で人をひっぱたきまくり、闘犬に人を襲わせるなどして愉しんでいた。
父スコットがトム・コーベットを探しに出る度(逢おうとする度)、その周辺の人物がジュニア配下の者に殺される。
それもあってか、しきりに乳母のメルセデスやジェフがトムを街から追い出そうとしていた。
だが街の名士、キャラダインに呼び戻されたトムはその理由をどうしても知りたかった。
(探る中で、キャラダインもジュニアの配下に、妻と幼い娘たち共々撃ち殺される)。
そしてその血の関係を知るに至り、トムはこれまでに起こった惨劇の訳を認識する。

Massacre Time003

結局、再会をずっと望んで来た父と一対一で逢い、父の本心をトムが聴いたところで、その父も撃ち殺される。
やはりそれもジュニアの仕業であった。
トムはジュニア~実の弟を倒しに行くことに決める。
義理の兄であるジェフは、「家族のことは自分で片付けろ」と言ってその場を立ち去る。
(この兄は銃と馬の横乗りテクニックは超絶的だが、そのパタンばかりである。)

しかし今回ばかりは相手が多勢すぎる。
やっぱり見物するぜと言って舞い戻り、フルに手助けすることになる。
つまり神業ガンマンが二人で大人数の悪党ガンマンを次々に様々なパタンで打倒してゆく。
この面白さ~醍醐味である。


葬儀屋の中国人が、何かと言えば孔子がこう言ったとかいって、結局金せびりをしていたが、特に物語に深く関わることなくお飾り程度であった。
バーでピアノも弾き多彩なので、もっと情報屋的な働きでもするのかと思った。
トムは彼に金を払い過ぎである。
インディアンも含め、もうすこし突っ込んでも良いが、テンポが悪くなっても困る。
これくらいの触れ方が丁度良いかも知れない。

全て事が済んだ後、ジェフが飛ぶ鳩を撃ちそうになるところを、トムがそっと手を置きそれを制する場面は粋であった。
ディテールまでよく行き届いた作品だと思う。
キャストも皆、なり切っていた。
特に、狂気の殺人鬼ニーノ・カステルヌオーヴォは「シェルブールの雨傘」のギィ・フーシェではないか、、、。
切ない(笑。
場面の転換と流れがよく、編集がとても功を奏していると感じる。
最後のマカロニが良かったのできりのよい締めとなった。



明日はアニメでも観たい。




続・荒野の1ドル銀貨

The Return of Ringo001

Il ritorno di Ringo/The Return of Ringo
1965年
イタリア、スペイン

ドゥッチョ・テッサリ監督・脚本
エンニオ・モリコーネ音楽


モンゴメリー・ウッド(ジュリアーノ・ジェンマ) 、、、モンゴメリー・ブラウン(リンゴ)
ジョージ・マーティン 、、、パコ・フエンテス (メキシコの悪党)
ロレッラ・デ・ルーカ 、、、ハリー・ブラウン(妻)
アントニオ・カザス 、、、保安官
フェルナンド・サンチョ 、、、エステバン・フエンテス (メキシコの悪党)
マヌエル・ムニス 、、、花屋


リンゴは故郷へと帰ってきたって、、、昨日の「荒野の1ドル銀貨」とは何にも関係ないではないか!
紛らわしい、と謂うより出鱈目な邦題付けるな!
1ドル銀貨など何処にも出て来ない。
噺は全く別物。
ジュリアーノ・ジェンマが出てくれば、どれも続編にする気か?
この節操のなさには、ホント呆れる。


街には干し草がずっと舞っている(マカロニのロケ地はスペインが多いという)。
この雰囲気は不穏な感じがする。
髭面のジェンマがメキシコ人に成り済ましポンチョを着て歩く姿は、その街の風に合ってた。
時折、神経症的に顔面を引きつらせ、ハードボイルド感も匂わせる?

彼は南北戦争で活躍した、北軍大尉のモンゴメリー・ブラウンであるが、戻った故郷ではすでに戦死者とされており、彼の留守中、砂金に目を付けたメキシコ人フエンテス兄弟に街は乗っ取られてしまっていた。
おまけに彼の美しい妻ハリーはパコの愛人に収まっている始末。
このままには、しておけない。だがたった独りではどうにもできない、、、

The Return of Ringo002

という設定で、妻と街を奪還すべくモンゴメリー・ブラウンが奮闘をするという噺である。

彼は周りが敵ばかりの環境で不用意な動きや不注意が目に付く。
何かに気を取られると夢中になって周囲が見えなくなるタイプなのか。
だがそれでは戦争には向かない気がする。
どうにも甘く優しい雰囲気の人である。
自分の家で想い出の品に現を抜かしている内に泥棒にされ、利き腕をナイフで刺されるところは、こちらも痛い!
(行動を見てると結構、痛い人にも思える)。

エステバンの愛人で占い師の美女に何度も誘われるが、全く動かない、その点での隙は全く無い。
中盤から髭を剃り、青い北軍の制服を着て出てきてしまうと、品行方正なガンマンにしか見えなくなる。
あまり、西部劇に対抗して出て来たマカロニウエスタンのアウトローでニヒルなガンマンという感じからは遠く、独自路線のマカロニスタイルを作っているのか、、、。

The Return of Ringo003

だが、拳銃の腕は凄いのだ。
利き腕は潰されてしまっているが、逆の腕で百発百中の早撃ちである。
恐らくそれまでにも二丁拳銃などで、両腕で撃って来たのではないか、と想像できる。
フエンテス兄弟の沢山の手下を次々と撃ち殺してゆく。
(おっつけ刃で、この実践は無理であろう)。

ダイナマイトを鉢植えに仕込むが、それがまともに利用されたのはほぼ一回で、もう少し有効に使えば良いのに、とは思われた。
街の男たちを奮い立たせての最後の決戦に、ダイナマイト以外で、どういう作戦を立てたのかと思ったが、これと言って目立ったものが見られなかった、、、。ただ百姓一揆みたいに街の男が正面から攻めてマシンガンの餌食になっていたが。
相手もマシンガンの威力は凄そうであったが、それを封じれば何とかなりそうに思えるものであった。
何故かインディアンも来ていてリンゴたちに加勢していた。彼は薬草を無料でリンゴの為に提供してくれた人であったが、どういう絡みか?

占いの女がリンゴ~花屋を裏切り、折角捕らえたエステバンを牢屋から脱獄させ、立ち直って勇敢に悪に立ち向かおうとしていた保安官が彼に撃たれてしまう。
保安官の死体を見て皆が愕然としているところで「わたしのせいなの」と女が言うと、何とこともあろうにリンゴは笑顔で「誰にも間違いはある」と明るく言い放ちその場を後にする。これは単なる間違いではないことは歴然としている。
ここに来て、このマカロニガンマンは、ソフトイメージだが、かなり特異な感性~感覚の持ち主であることが分かる。



占い女はいつも、にやっと笑みを浮かべ、ここでも余裕綽々にサッサと馬に乗って何処かに去って行く。
ミステリアスな美女という設定なのだろうが、妙な美女にしか見えない。
ヒロイン(奥さん)も際立って綺麗な人ではあったが、固くて平板な印象である。

結局、所々間延びしながら、テンポも然程よくなく、何とか相手をやっつけるが、、、
必要以上に手古摺ってダラダラ乱闘を引き延ばしたり、闘いの最中に娘とかなりの時間をゆったりと過ごしていたり、、、
何か緊張感が続かない演出~本なのだ。このジェンマの表情にも起因している。ソフトなスマイルとは、ちょっと違うものだ。
結局、奥さんと幼い娘との幸せを取り戻したという光景でしめる。

全般に人物描写が大雑把で、闘いの流れも今ひとつしっくりこないし高揚もない。
感情移入など無理である。別に必要ないが。

The Return of Ringo004

今日のマカロニは、面白いというところまでは、いかない作品であった。
もうこのジャンルは、いいかな、、、。
飽きて来た。


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