ミクロ・キッズ

Honey, I Shrunk the Kids
1989年
アメリカ
ジョー・ジョンストン監督
エド・ナハ、トム・シュルマン脚本
リック・モラニス 、、、ウェイン・サリンスキー(物理学教授)
マット・フルーワー 、、、ビッグ・ラス・トンプソン(隣の親父)
エイミー・オニール 、、、エミー・サリンスキー(サリンスキー家長女)
ロバート・オリヴェリ 、、、ニック・サリンスキー (エミーの弟)
マーシャ・ストラスマン 、、、 ダイアン・サリンスキー(ウェインの妻)
クリスティン・サザーランド 、、、メイ・トンプソン(ビッグ・ラスの妻)
トーマス・ウィルソン・ブラウン 、、、ラス・トンプソン(トンプソン家の長男)
ジャレッド・ラシュトン 、、、ロン・トンプソン(ラスの弟)
サソリに襲われたら友達になったアリが身を挺して守ってくれる。
それはないだろう、とは思うが、そこ以外は無理なく楽しめた。
手入れのしていない裏庭のジャングルというのは、確かに子供にとって冒険的ロマンがある。
わたしもそんな風に小さくなった記憶はある。
巨大な昆虫と闘ったり彼らから逃げたり、アリを手なずけたり、、、わたしの場合はフンコロガシや芋虫にカタツムリも出て来た。
カメムシもいたような、、、よく見ていた虫は嫌でも登場してくるものだ(笑。
チョットした水でも命取り、 周囲を埋める何もかもが危険物。
しかしワクワクする探検ではある。
多分に観念的だが。
まずはお父さんの発明した「物体縮小装置」の暴走で小さくなってしまったところから始まる荒唐無稽な設定なのだ。
恐らく本当に身体が6㎜になってしまったら、昆虫のような構造でないと身を守れずすぐに死んでしまうはず。
このスケールは外骨格の適応環界だ。
彼らは早く家に戻り、身体を元の大きさに戻してもらわないと。
という事で一生懸命、家の扉まで行こうとするが、それが遠い。
とても遠いのだ。ジャングルが凄い上に虫やスプリンクラーや間抜けな友達がいきなり自動除草機を動かして彼らを追い詰める。
この辺はスリリングであった。

この小さな科学者みたいな坊ちゃんがユニークで面白かった(芸達者であった)。
勿論、この手の少年少女冒険譚にはひとりいるタイプではあるが、可愛らしくて面白い。
反目していたロンも助け合いをして逃げ延びてゆくうちに溶け込んでゆく。
家庭同士の価値観の違いから子供たちにも距離があったが冒険を通して親密になってゆく王道の物語だ。
その間に、エミーとラスの間に恋も芽生える。これもお約束。
やはり冒険は必要なのだ?冒険という名のロマンである。
(これを疑似的に行うと、いつかのヨットスクールみたいな方向にも針が振れる可能性がある。勿論、ホンワカ仲良しクラブも出来るだろう)。
適度な試練という形は、日々家庭教育の中に取り組んでいるが、他者との関係性という点においては、後は大きすぎる学校~クラス単位となってしまう。この映画くらいのスケールの集まりもかなり有効であると思うが。後はクラブとなろうが、それも微妙だ(青春ものはそこをよく狙ってくる)。

父子がとても似ているのが良い。
娘は母に似ているのか、タイプは随分違う。
姉が現実的というのも馴染んだ感覚である。
だが、その基盤の上で蜂に乗って草や花やお父さんのパンツの中をすり抜けて飛ぶというのも擽るものはある。
そういう感覚記憶は残っているものだ。

アリに乗って歩いたらどれくらい面白いか?
アトラクション「ミクロ・キッズ」というのを作ってもそうとう受けそうだ。
噺はまさにその世界を当時のVFX技術をフルに使って表現したものだし。
嫌味はなく、とても微笑ましい郷愁に充ちた作品であった。
これを観ながら思ったが、ある特定の個体だけが他のものとの関係から小さくなったことで、驚異のアドベンチャーワールドが出現となったが、宇宙そのものがあるとき、例えば1000分の1になってしまったとしたら、関係性の上では誰もその事には気づかないはず。
しかしそんな現象~事件が突然あってもよいと思う。マルチバースの中で。
或る科学者がわれわれ宇宙だけがそのまま小さくなっていたことに気付いた。
それは、、、何らかの糸口からそれを見出した、、、。
やはり重力かな、、、。
なんて物語が作られても面白いかも。
斬新なSFがそろそろ生まれてきても良い頃だろう。
存在学的~神学的テーマのSFの傑作は生まれているが、、、。
しかし、それはSFの形式を敢えて取らなくても表現できよう。
(タルコフスキーとスタニスワフ・レムの論争を思い出す)。