私は二歳

1962年
市川崑 監督
和田夏十 脚本
松田道雄 原作
中村メイコ 、、、ナレーター(ぼくの声)
鈴木博雄 、、、。ぼく(小川太郎)
船越英二 、、、お父さん(小川五郎)
山本富士子 、、、お母さん(小川千代)
浦辺粂子 、、、おばあさん(小川いの)
渡辺美佐子 、、、おばさん(小川節子)
京塚昌子 、、、千代の姉
岸田今日子 、、、アツシちゃんのお母さん
倉田マユミ 、、、隣の奥さん
牛乳屋(森永)さんである。
昭和レトロをタップリ堪能できる。
それだけでも貴重な映像だ。
>低く音を立てて流れる風の中に浮かんでいたような気がする、、、
という独白から始まる。
>時々他の音が大きな波のように押し寄せて来るとボクは不安になって手や足を動かした。
>そうすると初めて自分の身体の重さを感じることが出来た。
>ボクは嬉しくなって一生懸命に手や足を動かした。
中村メイコの声が微妙に自然にシーンに溶け込んでおり、赤ん坊のセリフとして耳障りということはなかった。
小津監督の「お早う」とはまたかなり異なる幼い子供の空間感覚が窺える映画だ。勿論この内省は、随分後になってからの回想によるものだろうが。しかしこういう回想は、まさに小説でも書く気になった時に出て来る創作だと思う。
冒頭ワザとらしく持ってくるというのも面白い趣向だが。

彼が囲いを登って外に出てしまう想像が出来るとは思えないが、その動きのVFXは面白かった。
他にもアニメーションを使ったりしてコミカルなシーンを見せる工夫がなされている。
ただ、ここでは子供の動きが常に危険と隣り合わせという状況を悪戯っぽく描いていると謂えよう。
太郎が熱を出し嘔吐したせいで空腹で寝付かれない夜、森永の牛乳を飲ませると美味しそうに飲み干す。
おとうさんも牛乳はいっぱい飲ませないと大きくなれない、みたいなことを言っている。
そしてこともあろうに向かいのアパートの窓から幼い女の子が転落する。
そこを下で危険察知した森永の牛乳屋さんがキャッチである。
あざとい!乃木坂の秋元さんよりあざとい、、、。
わたしもまだ生まれる前の話しだが、有名な森永ヒ素ミルク混入事件後のイメージ回復の一手か。
西日本の乳児に与えた影響は甚大で、中毒による奇病から死者もかなり出したという。
森永はその大事件による企業の痛手をメディア戦略で効果的に払拭していったようだ。
この映画もその戦略の担い手となっていることは確かである。
この時期、これだけ露骨なメディア戦略が行われ功を奏していた。
そうした状況や事実などを内容として扱い危機を訴える映画は未だに沢山あるが、この映画は内容ではなく手段~メディアとして製作された側面は大きい。

なかなかの面構えである(あざとい、、、いや違うか(笑)。
月を見るのが趣味というところは、他人とは思えない(笑。
ところどころで、自分自身でセリフを一言二言片言で放つ。
なかなか味のある赤ん坊である、、、二歳は幼児か。
表情としては笑うか大泣きするかどちらかがほとんどだったような気がするが立派な演技になっていた。
(大泣きしている時など無理に泣かせていたのだろうか)。
後半は部屋代は掛からないが実家で姑との同居生活だ。
複雑な力学が働く磁場である。
ここから登場の浦辺粂子のおばあちゃんは、やはりこなれていた。
過保護や買い与え、お土産などはともかく、、、
典型的なおばあちゃんであるが、とても厚みのある演技でこの映画を豊かなドラマにしてゆく。
ぼんやりしたおとうさんが、おばあちゃんが亡くなった後で太郎が月におばあちゃんを重ねて見ていることを察し、家族の系としての繋がりを強調していた。丁度核家族化が進行していた時期でもある。
しかしそこのこじつけはちょっと苦しい。
(関係ないが、わたしの場合は完全に繋がりよりも切断であり、解体、消滅である)。

この映画を観て、つくづく子育ての大変さを再確認した(爆。
特に太郎がクリーニングのビニル袋に入って窒息しかけたときなど、、、
これはこの映画で唯一のショッキングなパニック場面である。
他にどうでもよいことで大騒ぎして過保護しているところが多かったが(うちもそうだ)。
基本的に、子供は一時も目は離せないものなのだ。
お陰でおとうさんは、おかあさんとおばあちゃんから一斉砲撃を浴びたが、それは当然である。
あのままおかあさんが気付かねば、太郎はおばあちゃんより先に昇天していた。
うちは、ダブルであったから、大変さは本当に殺人的であった。
しかし過去形ではない。
まだ渦中にいる。
娘たちとの繋がりは、形を変えながらまだまだ続く。
不注意からの怪我や事故は少なくはなり、やたらと物をねだることも下火にはなったが、、、
姉妹喧嘩の仲裁は相変わらず(苦。
とは言え自分のやりたいことや興味の幅が出来、これまでのように描いて来た絵をそれなりに褒めていれば事足りる感じではなくなてきた。
(ふたりのピアノ譜のパソコン入力係はこれからも続くだろうし、姉はわたしのiPhoneの天体アプリを毎晩借りに来るし(特に火星接近ときている)、妹は自分の作った御話ノートを毎晩持ってくる)。
彼女らのアウトプットに対する対応が、ある意味第二段階に入った感じだ。
家族形態が与える子供への影響とそこにTVなどのメディアテクノロジーが介在してくることによる複雑化も窺える作品でもあった。
しかしどんな環境下であろうと子育ては一筋縄では行かない。
そういう映画かはともかくとして(笑。