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GOMA28

Author:GOMA28
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傷だらけの栄光

Somebody Up There Likes Me002

Somebody Up There Likes Me
1956年アメリカ

ロバート・ワイズ監督
アーネスト・レーマン脚本

ロッキー・グラジアノ、ローランド・バーバー原作

ポール・ニューマン、、、ロッキー・グラジアノ
ピア・アンジェリ、、、ノーマ・グラジアノ (ロッキー夫人)
エヴェレット・スローン、、、アーヴィング・コーエン
アイリーン・ヘッカート、、、バーベラ夫人
ハロルド・ストーン、、、ニック・バーベラ
サル・ミネオ、、、ロモロ


誰もが自由に生きていると思っているところは、四肢が任意~自在に動かせることなどから帰納的に推測して自分の人生(全般)も自分の思いのままに操れると思い込んでいるようなものだ。これは別にわたしが言っていることではなく、多くの哲学者が大分以前から述べている。
わたしも痛感することがある。
自分の意思で行ったと思ったことでも、強いられ選択の余地なくやっていた。または自動的に行っていた。
そう事後的に反省することは少なくない。
それが苦痛に充ちた流れであれば、その流れの中にあって、何とかこの流れ自体を変えられないものか、と悶え苦しむ。

特に少年期~青年期の嗜癖や反社会的行為、非社会性は特に親や周囲の環境からの強い影響を抜きには考えられない。
遡行して考えるとそこに原因を特定できる。
しかしその逆(逆の矢印)は、必ずしも成り立たない。
このような幼年期(または少年期)を送れば、青年~成人になって同一の結果を生むというものではなかろう。
あくまでも個別の関係において特定されるべきことである。
だが、やはり幼少年期の「関係性」が決定する流れはとても大きい。

例え原因を何処においたとしても、人はなかなか変わろうとしても変わることの出来ない生き物である。
生活実感としてそれは意識に非常に根深く横たわっている。
そして、何とかDisciplineによって、それまでの流れを呑み込む(包含する)大きな流れがまた異なる強力な様相を呈しつつあっても、その足を掬うかのような過去や柵がもちだされたり、突発的な妨害があらぬところから舞い込むことは少なくない。
まるで新たなデータを過去データで上書きするように仕組まれているかのように。

Somebody Up There Likes Me001

この映画で、丁度その悪の循環~予定調和に向かいつつあったところを断ち切ったのは、ソーダ屋のマスターの説教であった。
ロッキーは、まず一度目は唐突に出逢い即座に恋に落ち、速攻で結婚したノーマに救われた。
そこから快進撃が始まり、忽ち絶頂を極めんとしたときに大変なトラブルに巻き込まれる。
彼の過去~まだ若い(幼い)時のある意味サインを出しながらの無軌道な身悶えとも謂える愚行の数々が再び彼を襲ったのだ。
ここまで積み上げた時点での、かつてない程の深い闇に彼を急転落下させるタイミングでもあった。
奥さんと並んで、このソーダ屋のマスターの役割は途轍もなく大きい。

ソーダ屋を例によって金も払わず飛び出たロッキーは父に逢いに行く。
そこで初めて心を割って父と話すことになる。
彼はその時、恐らく父を始めて愛おしく思えたことだろう。
父にしてあげられることはないかと真摯に向き合う。
父はロッキーに自分が成し得なかったチャンピオンになって欲しいと涙ながらに伝える。
(彼はロッキーが過去の重くのしかかる柵によって窮地に立たされていたこともよく分かっていた)。
このことで、ロッキーは生まれて初めて、憎しみからでなく相手と闘う経験~新たな次元に入ることが出来た。
ヒトが変わる契機の一例である。

Somebody Up There Likes Me003

憎しみは大変根深い絶大なエネルギーであり、それが幼年期などに源を持つのであれば、常に現在にフラッシュバックしてしまい、今を支配してしまう。それは確かに破壊力はもつが、無意識の荒れから大変制御が困難で不安定でもある。
両親との関係~記憶程大きな障害~病の源となるものはない(ロッキーの場合、母とは慈しむ関係は保持されていたが)。
(その関係が良好であれば、どのような共同体にあっても精神の域は高く、崩れるようなことはない)。
だが一度、関係が浄められた場合、これまで支配的な基調をなしてきた精神構造も相転換し得る。
チャンピオンになるには、この転換が必須であったのかも知れない。
もう過去も引き摺る必要もなかった。過去が意味を変えてしまった。悪友の存在も意味を亡くした。
全てが今を支える記憶に変質したのだ。


これが幸せというものだろう。
ホントに清々しいハッピーエンドであった。






ムーンウォーカー

Moonwalker002.jpg

Moonwalker
1988年
アメリカ

ジェリー・クレイマー、コリン・シルバース監督

ミュージッククリップ集である。
最後のものはやたらと長い、映画みたいな、何と謂うべきか、、、極めて彼らしい世界が窺えた。

マイケル・ジャクソン
ショーン・レノン 、、、ショーン(マイケルと仲良しの子供)
ケリー・パーカー 、、、ケイティ(マイケルと仲良しの子供)
ブランドン・アダムス、、、ジーク(マイケルと仲良しの子供)
ジョー・ペシ、、、悪者


何と謂ってもマイケル・ジャクソンのダンスである。
ダンスと歌なのだが、それに留まらない生々しいひりつきがある。

昨日の前作に当たる本作は、純粋にマイケルの卓越したダンスを愉しむことも出来るが、彼の精神のルーツみたいなものにひんやり触れてしまう恐ろしさも感じる。昨日の”THIS IS IT”の方は、彼の外面的パーソナリティ~完全主義で他者に優しく地球想いの面に触れられ、暖かく大きな人格を感じたものだが。

Moonwalker004.jpg

次々に変身したりしながらいろいろなもの相手に踊ったりする。
彼に夢中の可愛い子供が必ず一緒にいる。
ここでは、子供を薬漬けにしてやろうという悪党の追手を振り切りつつ見事なダンスを披露し、連中とのファンタジックで荒唐無稽な闘いを(まるで玩具のごっこ遊びみたいな感覚で)繰り広げ、何か不気味なステージでエンドロールに向かう。
これは自宅に”ネバーランド”を創ってしまう彼ならではの世界であろう。
(監督がそれをよく分かって創っているに違いない)。
白昼夢とか一種の精神療法的(箱庭療法的)な世界にも受け取れる。
子供が主体となって登場し、何とジョン・レノンの息子も混ざっていて、悪い大人に追い回されるというのは、、、
マイケルの原体験を感じないではいられない。その孤独はショーンとも共有できるところもあったかも知れない。
永遠に大人にならないと決めたヒトの世界が描かれていると感じた。
ここに登場して来たものは彼(ネバーランド)のコレクションのほんの一部だとは思う。

見ようによっては踊るウサギがかなりグロテスク。いや二人の踊る場面自体が。
可愛いという感覚とは違う(可愛いにはその種の毒が必ず含まれるとしても)。
独特の嗜癖がある。マイケルの着ぐるみのウサギが自立して彼と踊り、警官が踊りは禁止だと言ってマイケルを罰する。その時、ウサギ自身も消えてなくなり、そこを立ち去るときにウサギは岩の形でサインを送ってよこす。
マイケルと二人で踊っているところなど、間違っても無邪気な微笑ましさとか感じない。
何か妙である。
それから悪者が捕らえた女の子ケイティをパンパン叩く虐待にはかなり違和感を覚えたが、それに対するマイケルの絶叫も尋常ではない。ここは、生な何か~記憶を強く感じた。ある意味、子供向けファンタジーを逸脱する部分であり、本質的なところに思える。
このトラウマの生じた場の再現そして変身。破壊。そして何処かに戻ってゆき、帰還を果たして子供たちにサプライズ。
ビートルズ(レノン作曲)の”ComeTogether”のステージでしめる。この曲にせよ歌詞などは子供向けではない。どういうサプライズだったのかよく分からないままにエンドロールのアカペラに、、、。



とは言え、ダンスの映像の素晴らしさは言う事なし。
特に”Smooth Criminal”のシーンである。
まさに圧巻!
昨日思い出さなかったが、マイケルの曲で最もカッコよい曲はこれではないか?
それに持ってきてこのダンスパフォーマンスである。
実はわたしはこの部分だけ、今日10回は繰り返して観てしまった。
サウンドとダンスの融合は逸品。
見所は、何と謂うか、、、知ってる人は、「そうそれ!」と叫ぶところだが(笑、あの重力調整しながら体を倒してゆくところである。
わたしも真似してみたが、真似してどうなるんだ(怒!、、、というものであった(爆。
また、敵か味方か分からぬが、一緒にシンクロして踊るダンサーたちも見事の一言。
ダンスクラブに入った次女に見せない手はないが、先ほど寝てしまったので、明日見せる。

実際、子供時代にマイケルのダンスを見たら、これは夢中になってしまうに違いない。
そこで育ったダンサーたちが、”THIS IS IT”のオーディションに世界中から集まって来たのだ。
そして、彼らのコメントには、わたしの方も、もらい泣きしてしまった。

Moonwalker003.jpg

だが、マイケルが銀色のロボットに変身してゆくところは、とても悲痛であった。
これは、「凄いマイケル!」では片付かないものがある。
誰も踏み込めない、近づけない、孤絶したファンタジーだ。
共有できない夢とはこういうものか、、、。
その虚しさと哀しさと、それでも仄かな郷愁に彩られたシルバーメタリックマイケル。
どれだけマイケルを愛している子供でも唖然として見守るしかない。


マイケル・ジャクソンの狂気と偏愛とクリエイティブな欲求とが綯交ぜとなった映画みたいなミュージッククリップである。
ミュージッククリップみたいな映画というのか、、、。


ネバーランドに一度、わたしも滞在してみたい思いをもった。
きっと、お化け屋敷などよりずっと怖くて、甘味で煌びやかな場所であるはず。



マイケル・ジャクソン THIS IS IT

Michael Jacksons This Is It001

Michael Jackson's This Is It
2009年
アメリカ

マイケル・ジャクソン、ケニー・オルテガ監督

マイケル・ジャクソンとオーディションを通った出演者、ダンサー

2009年6月25日突然のマイケル・ジャクソンの死には驚いた。
何故その若さでとは思ったが、彼の精神的に抱えもっていた重みには誰もが気づいてはいた。
この映画は、幻のコンサートとなってしまった”This Is It”のリハーサルを映画として編集したものである。
充分にマイケル・ジャクソンのアウラのこもった貴重なドキュメンタリー映画となっていた。
(このリハに参加した人の誰も、この公演がこういう形をとるなんてマイケルのダンスの切れからしても想像だにしなかったはず)。


「人生はつらいだろ。前向きになれる何かを探しに来たんだ。
人生に意味を見つけたかった。
信じられる何かを、、、
それが、これだ」

ダンサーのオーディションにやって来た、とても内省的な雰囲気の男性のことばだ。
「それが、これだ」というのが、よく分かった。

他にも、オーディションの情報を2日目に知って何も考えずに地球の裏側から飛行機に飛び乗ってやって来てしまった。
という人もいる。
皆、感極まって目を潤ませていた。
まさにマイケルと共にステージに立ち、仕事が出来るということで、、、。



久しぶりに堪能した。
マイケル・ジャクソン!
昔、よくPVで見ていた。
だが、シングルカットで出た曲以外はあまり知らない。
とてもファンとは言えないわたしだが、彼の曲が掛かるときまって聴き入ってしまうし、ダンスには釘付けになっていた。
わたしにとっても魅力いっぱいのエンターティナーでありパフォーマーであることは間違いなかった。

若い頃の精悍な顔つきのマイケルを見慣れていたこともあり、50歳のマイケルはちょっと雰囲気は異なった。
勿論、年齢からは考えられないシャープなダンスと高音の声も安定してよく通る。
しかも自分の楽曲についての完全な把握とステージに合わせた細かい変更指示は完全主義の彼の側面を示していた。
所謂カリスマすら超えた別格の存在に見える。
リハーサル中のステージでスタッフが、ここは教会(聖堂?)だと言っていたが、まさにマイケルを信奉し取り巻く人々の創る空間はそういった神聖な場所~聖地のように映った。マイケルがやって来ただけで、憧れに染まった明るい表情に誰もがなり、声を掛けられるのを待っているかのようであった。

マイケルのスタッフに注文を出すときの明瞭だが優しさの滲む態度、物腰の柔らかさがこちらにもよく伝わってくる。
そこに如何わしさなど微塵もない、非常にピュアな魂のやり取りを感じた。
とてもテンションの高い出逢いの状態が維持されてゆくのが分かる。
確かにそれぞれの曲の緻密で入念なアレンジと演出が練られるリハは、この場を創っている者たちにとっての至高体験の場とも想えた。

彼に抜擢された女性ギタリスト、オリアンティ・パナガリスにとっても脚光を浴びスキルアップも果たす大変重要な場となったことは間違いない。
この映画でマイケル・ジャクソンの次に際立っていたように思う。

Michael Jacksons This Is It002


おおよそこの辺の曲に断片的に触れることが出来る、、、。

「スタート・サムシング」
「ジャム」
「ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス」
「ヒューマン・ネイチャー」
「スムーズ・クリミナル」
「ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール」
「シェイク・ユア・ボディ」
「キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」
「スリラー」
「今夜はビート・イット」
「ブラック・オア・ホワイト」
「アース・ソング」
「ビリー・ジーン」
「マン・イン・ザ・ミラー」
「THIS IS IT」

やはりワクワクして、昔のビデオテープを掘り返して、「スリラー」、「今夜はビート・イット」、「ビリー・ジーン」、「ブラック・オア・ホワイト」など聴いて~観てみたくなる。懐かしいロックMTVで発表当時、必ず毎回掛かっていたものだ。
しかしマイケル・ジャクソン、昔懐かしいで終わるアーティストではない。
やはりこのパフォーマンス、時間を超脱した力がある。
そのパフォーマンスの力量・才能に加え、、、
彼には人を惹き付けると同時に決して接近できない不透過な闇がある。
単なる優しさや寛容さを超えた裂け目として。
そう、クールである。
危ういクール。

このような絶大な支持(前作「ムーンウォーカー」のライブで熱狂し失神する夥しいファン)をもったうえでの極めて危ういクールさ。
こういう人はいる。ジェームス・ディーンとか、、、。
エルヴィス・プレスリーたちはぶくぶく太って失速していったが。
危うい影を色濃く畳み込んだクールなアーティスト。
マイケル・ジャクソン。
この点でも、彼はいつまでもわれわれを深く惹きつけてやまない。






お嬢さん

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아가씨 (アガシ)
2016年
韓国

パク・チャヌク監督・脚本・製作
サラ・ウォーターズ『荊の城』原作
原作のヴィクトリア朝を日本統治時代の朝鮮に置き換えている。

キム・ミニ、、、秀子お嬢様
キム・テリ、、、スッキ、珠子
ハ・ジョンウ、、、藤原伯爵(詐欺師)
チョ・ジヌン、、、上月
キム・ヘスク、、、佐々木夫人
ムン・ソリ、、、秀子の叔母


これ程の完成度をもつ映画は、最近見たことがない。
極めて緻密に計算しつくされた映像だ。
呆気にとられて観てしまった。

韓国映画、恐るべし。
というか、このパク・チャヌク監督のパワーの成せる業か。
他の映画も観てみたい。
と思ったら、あの「イノセント・ガーデン」(Stoker)の監督ではないか!
ミア・ワシコウスカがあそこまでやるか、という切れのあるエロティシズムも凄かったが、、、その比ではない。
だが、よく分かる。同様の構築美を誇るものだ。成る程、、、である。

映像も緻密で圧巻であったが、ストーリー、脚本も見事な運びであった。
その為、映像に説得力があるのだが。
衝撃としては、「神々のたそがれ」、「シルバー・グローブ/銀の惑星」に並ぶところだが、エンターテイメントな面でも突出している。
どこにも隙が無い。ストーリーの3部構成の交錯する立体的展開が見事。

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エロティシズムにおいては、ひたすら美を堪能するところだが、セリフが露骨なのには驚いた。
創作に体制的抑制が掛かることは、多くの例があるが(それで人生の多くの時間を牢獄で過ごした監督もいるが)、通常自分の中で自己規制してしまうことも少なくないはず(内なるマイクロファシズムである)。この監督は、それを完膚なきまでに蹴散らしている。

あくまでも、ある(監督の)美意識に従い一切の妥協を許さず生成された映画である。
である為、ディテールまでとてもスタイリッシュだ。
「映画」(の生成)それ自体が自己目的なのだ。
ある意味、芸術至上主義的作品でもある。
人が普遍的にもつ審美的な感受性に深く訴え陶酔させる類のものだ。
しかしその上で、この映画自体のベクトルはある方向性を確かに指し示す。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ojyou002.jpg

キム・ミニはカリスマ的人気を誇る女優だそうで、確かに透明感溢れるオーラを発していた。
その相手役のキム・テリは新人だという。
今回がデビュー作なのだ。
体当たりで精いっぱいの演技であることが分かる。だが、誰かに似ている。
最近わたしがTVでよく見ている乃木坂のメンバー若月女史に似ているのだ。
途中までそんなことが妙に気になったが、似ているからと言って鑑賞の邪魔になるものではない(笑。

ojyou004.jpg

そう役割、固定的イメージというものはたちどころに浸透してしまう。
噺の内容的には、お嬢さんにしろ、詐欺師の手先で自身泥棒の娘のスッキ(珠子)にせよ、上月にせよ、詐欺師にせよ、、、
だが、何重にもがんじがらめになっているのは、男性中心的文化の支配下に置かれた女性であろう。
そこに経済的なものも大きく絡む。
ここで、富豪の娘のお嬢さんを結婚詐欺で上手く騙して金を得ようとする男とその手先のメイドに成り済ました女が登場する。
しかし、男は自分の身の上をお嬢さんにばらし、屋敷の主である上月に拘束されている彼女を自由にすることをも持ちかける。手に入れた金は山分けということで。ここでメイドのスッキ(珠子)を裏切る。
しかし、お嬢さんとスッキ(珠子)は感情的に深く結ばれてしまっていた。双方とも母親を幼くして亡くしたことが現状の孤独と隷属を強いている面は大きい。そうしたことからも、ふたりは手を組む。だが二人だけでは動き切れないため、スッキの泥棒一味の人々にも金品を送り、企てに参加してもらう。

当初、お嬢さんを騙して精神病院に送り込んで、スッキをお嬢さんに仕立てて逃げる予定であったが、病院に収容されるのはお嬢さんに仕立てられたスッキの方であった。これでうまく運んだと、お嬢さんと金の両方を手に入れた気でいた詐欺師であったが。
女性二人組の方が上手であった。女性二人はすでに誰の拘束も受ける気はない。全てを切断するつもりであった。だから強靭なのだ。
そしてスッキの仲間が病院に予定通りに火を点け、その隙に彼女は逃げ、用意された偽旅券で二人は船に乗って無事に逃亡、、、。
いや、解放されたのだ!
出自から、身分から、制度から、性から、、、ある意味究極の解放を耽美的に詠っている。

二人が上月の秘蔵する高価な、お嬢さんに無理やり読書会で読ませていた本を滅茶苦茶に破いて(勿体ない)、地下に放り込み、トランク抱えて小舟に乗り込むために叢を走る姿の、何と軽やかな歓喜に充ちた姿~シルエットか!
トワイライトゾーンを突っ切る二人の姿のそれは美しいこと、、、。ここはホントに感動した。(本が勿体なかったが)。


解放である!
この映画は、映画自身も含め!全てのシステムからの解放を描く。
それは美しく、、、。


面白い映画とはこういうものだ、ということを確信した。





ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト

Shine a Light001

Shine a Light
2008年

マーティン・スコセッシ監督

ミック・ジャガー
キース・リチャーズ
チャーリー・ワッツ
ロン・ウッド

ジャック・ホワイト
バディ・ガイ
クリスティーナ・アギレラ

ミック・ジャガー氏、現在75歳だから、このステージでは65歳である。
全く枯れていない。若い時と変わらぬステージアクションで迫る(他の同期のミュージシャンが次々に他界するなか、素晴らしく元気である。ぜひとも肖りたい。73歳で8人目の子供も出来ている)。


わたしが子供の頃、モノクロのストーンズのステージ模様がTVに映されているのを偶然見た時のことはまだよく覚えている。
ジャンピン・ジャック・フラッシュ ”Jumpin' Jack Flash”からサティスファクション ”(I Can't Get No) Satisfaction”への流れに血液が逆流するような高揚と衝撃を味わった。
キース・リチャーズのリフの痺れること、痺れること、、、もう極まった。
やられた!
である。

わたしがその時期に、これを体験したかしないかはとても大きかった。
精神の基調を形作った部分もあるといってよい。

このマーティン・スコセッシ監督の映画では、その二曲の他に、メジャーな曲を中心に選曲されていたが、”As Tears Go By”を聴いたときには、呆然となった。遠い彼方から届いた曲であった。今ごろ、この曲を聴くことがあるなんて、、、思い出した。こういう名曲があった、、、。”Tell Me”も思い出す(笑、、、確か彼らの一番最初の曲ではなかったか、、、。
すると芋づる式に次々とリリカルでストリングスの荘厳なアレンジの曲 なども浮かんでくる。
このコンサート(ビーコン・シアター)では、ノリノリの曲ばかりで構成されており、それは仕方ないことだが、、、。
やや一本調子な感じは否めない。” Connection”が入っていたのは良かったが。

”You Can't Always Get What You Want”みたいなメッセージ色の強いものや美しくしっとりしたバラードなどはなかった。
”Gimme Shelter”は、このコンサートの流れなら、ほしかったなあ~。ゾクゾクくる曲だし、、、。
”Honky Tonk Women”などここにぴったりだと思うがなかった、、、まあ、似た感じの曲が沢山あったし割愛されても無理もないか、、、だが、やったら大乗になったとは思う。キーボードがかなり入るしアクセントにもなるはず。それを言ったらD・ボウイもカヴァーしている”Let's Spend The Night Together”も入れたい、というか聴きたいではないか、、、。ボウイが出たついでにリリカルなバラード”Angie”は定番すぎるか?
”Sympathy For The Devil”は、ちょっと他の曲に似たアレンジ~サウンドになってしまってこの曲独自の魅力が充分出ていなかった気がする。
何と”Wild Horses”がスタッフロールでインストゥルメンタルで流れていた。勿体ない。
これをステージでやって欲しかった。
そう謂えば、”Shine a Light”も尻切れだったような、、、。

わたしの好きな曲はその他にある。
例えば”Winter”とか(笑、、、余りにマイナーか?だが好きなんだから仕方ない。
取り敢えずユーチューブで探して聴いてみようと思う。今聴くとどうだろう、、、。
それにしても、ストーンズを久しぶりに思い出したのだ。
思い出す限りの曲を、何曲もこれから聴き直してみたい。
、、、良い機会となった。

キース・リチャーズのボーカルが渋いしカッコよい。
”All About You”で聴きたかったものだが。これは名曲だし。


色々ない物ねだりの注文ばかり出してしまったが、これもこの映画に触発されて思い出が溢出した結果なのだ、、、。
究極の無い物ねだりだが、ブライアン・ジョーンズのシタールで”Paint It, Black”も聴きたくなってしまったではないか。
だんだん虚しさも感じて来る、、、というか複雑な想いだ。
わたしのストーンズに絡む記憶は、とても一言では表せない、、、。

このままにしておくと次々に出て来そうなので、もうやめにしたい。


こんな綺麗でしっかりした撮影でまとめられたライブ映像は、この監督だからこそ出来たものか。
安定した接写など一番良い客席でも堪能できない、やはり映画作品となっていた。
深夜番組でよくやっているライブとは、映像と音響の鮮明さと臨場感が雲泥の差であった。
過去をじっくり堪能する作品であった。

演奏された曲:
ジャンピン・ジャック・フラッシュ
シャッタード
シー・ワズ・ホット
オール・ダウン・ザ・ライン
ラヴィング・カップ(with ジャック・ホワイト)
アズ・ティアーズ・ゴー・バイ(涙あふれて)
サム・ガールズ
ジャスト・マイ・イマジネーション
ファー・アウェイ・アイズ
シャンペン・アンド・リーファー(with バディ・ガイ)
ダイスをころがせ
ユー・ガット・ザ・シルヴァー
コネクション
悪魔を憐れむ歌
リヴ・ウィズ・ミー(with クリスティーナ・アギレラ)
スタート・ミー・アップ
ブラウン・シュガー
サティスファクション
ライトを照らせ (スタッフロール中の音のみ。途中でフェードアウト)

Shine a Light002



これで”NewOrder”も観たかった。
もうわたしの感覚~感性では残念ながら、こちら(NewOrder)の方でしか共振・共鳴は出来ない。
(若しくはKing Crimson叉はProcol Harum)

懐かしみ昔の想いに浸ることは出来ても、、、。
「今」を共有は出来ない。







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「図案対象」久保克彦



「図案対象」
若々しく生命力に溢れた幾何学的な図象。
そんな第一印象をもった7メートルを超す、5つのパートに分かれた絵である。
第二次大戦で大学卒業後に動員され中国大陸で戦死した画家、久保克彦の絵(卒業制作)である。


自分の生=絵画制作がはっきりと断絶することを知った時点で、そこから遡行するような形で人は全ての思考・思想・記憶・感情を動員して総括を行おうとするものか。

戦争において、自分という時間流が戦場でふいに断ち切られる。
いや実質的に戦争に動員された時点で、画家という生命は終わっているか。
奇跡的に生きて終戦を迎え、家(アトリエ)にまでたち戻れれば、そこから断絶した人生の再開~制作続行は果たせるだろう。

だが、極限状態において、当人は「終わり」を予知してしまっているのだ。
これが”スワンソング”であると。
TV番組*で「図案対象」を見て分かった。
これは認知し認識した事象全ての見取り図ではないか。
芸大の卒業制作である。
それが最期の作品である。

構図・構成は計算しつくされたストイックな緊張が張り詰めており、カメラが近くによると、ほとんど全ての作図線が残っている。
恐らくそれらも重要な構成要素として敢えて残したのだ。
単に設計図やプロセス~時間性を重層的に残すというより、意味~読みのヒント・ガイドラインとしても。
一見、そのダイナミックさと要素の構成・配置から、フラクタル図形からの無限~永遠、有機物と幾何図形の対比の作る象徴性を内容として強く感じさせるが、実は5つの巨大絵画が全て1:1.618の黄金比よって貫かれていることが分かっている。
これには、驚く。

各画面においても黄金比によって正確に構成されている。
黄金比によってできる長方形をまた区切って正方形が切り出されてゆく。
その完全性の枠の中に、彼が拘る要素がことごとく整然と収まっている。
そして、各画面にある有機物の落とす影で時間を示す。
朝から夕刻までの意識~生きられる時間であろう。
エッシャーとはまた異なるスケールと質を感じる。


これが死を眼前にした者のひとつの「回答」なのだ。
世界との相関関係において実相を描くことを強いられた、とも謂えようか。
巨大な不安と恐怖を抱えつつ。

同期の芸大卒業生で、彼がただ一人の戦死者であったという。
――>同期の東京美術学校工芸科図案部15人のうち、ただ一人の戦死者
    (甥の久保克彦様からのご指摘により訂正。お詫び申し上げます)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「この絵を描いたからこそ、これから自分が戦争に行くということに向き合えたんじゃないか」と番組で芸大の女子学生が述べていたが、わたしもそうだと思う。
これを描いたことで、死を受け容れる覚悟も出来たのだろう。
(しかし、これは見ようによっては、未完であるとも謂える)。
彼は友への手紙に「自分は一兵卒で死ぬ」と書き送っていたという。


死を受け容れてしまうと、本当にそうなる(引き寄せる)ことにもなるかも知れない。
続きを必ず帰ってから描くと決めていたら、きっとそうなっていたように思う。



上野の芸大美術館で10/2から展示されるという。
季節も良いし、見に行きたい。



*新日曜美術館

人狼ゲーム インフェルノ

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2018年

綾部真弥 監督
川上亮、綾部真弥 脚本
川上亮 原作

武田玲奈、、、野々山紘美
小倉優香、、、向亜利沙
上野優華、、、浅見ルナ
松本享恭、、、水谷和希


「人狼ゲーム」にしたのは、もや~っと暑い夏にはピリッとした刺激が良いのではと思っての事だ、、、。
それなりの刺激はあった。

何でもTVドラマの「ロストエデン」を観ていないと内容が分からないそうだが、そのDVDを2枚見てからこれというのは流石にキツイ。これ一本の長さくらいが丁度良い。
流れが多少つかめなくとも、これだけ見て印象だけ書くことにする。
すでに一回戦が終わっていて、二度勝たないと解放されないゲームらしい。
7人死んだ後で、3人が生き残って2度目のゲームに突入ということで、それ以外の人間は初めてで戸惑っているが、その3人は最初から物凄く荒れて興奮しており、前からの因縁に囚われていることが分かる。
最初から取っ組み合いの喧嘩をしているし、これでは前の流れを知らないとダメかなとも思ったが、ここからでもそれはそれとして見れると思った。観てゆくうちに察しはつくものだ。
いつもそれ程、内容に密着して映画を観ている訳でもないし(笑。
勿論、密着してみる映画はあったが。
最近では、「シルバー・グローブ/銀の惑星」 あたりか。


「人狼ゲーム」を観るのは、これで3本目である。
人狼ゲーム ラヴァーズ」と「人狼ゲーム マッドランド」である。
最後に残るヒロインには、前回(マッドランド)は少し意外性があった。
Wヒロインであったが、ひとりだけ残った。
こちらもWヒロインと謂えるようで、、、結局二人とも残る。
武田玲奈というヒトは、静止画では綺麗なのだが、どうも動きの中で見ると随分印象が違う。
特にこの劇では、終始険しい表情や悲痛な顔を強いられるのは分かるが、少しオーラに乏しい。
Web上でよく見かける写真においては大変ビビッドなのだが。
ヒロインだけで見ると「ラヴァーズ」の古畑星夏が颯爽としていてオーラを放ち、ともかくカッコよかった。

さて、この「インフェルノ」であるが、主催者側が恐らく初めて表に出て来る。
警察が嗅ぎつけて拉致された生徒の捜索を開始し、ゲームのけりがついた後でのこのこやって来る。
ちょっとヘボい警官で主催者まで行き着く感じではない。
(これならまた次回のゲームが開催されそうだ)。
つまりこれまで通り、その枠内でデスゲームをやっていることには変わりないが、外野が騒めき始めている。
このゲーム参加者も向亜利沙が主催者と知り合いで、制裁の意味で彼らを売ったようだ。
このシリーズ、外部に関係するような展開を深めてゆく方針なのか。
(今回はゲーム内容に影響は与えなかったが)。

それから、これまでも男女ペアは参加してはいたが、ゲームの駆け引きに響くような影響はなく常に我が身をいかに守るかに徹したゲームが展開されていたが、今回は以前から持ち越した愛憎関係が余りに激しくて策略をぶつけ合うゲーム的要素が乱れ、葛藤して悩みながらも冷徹に生き残りをかけて闘い抜いた野々山紘美はやはり際立った。更に前の二つの「人狼ゲーム」からすると、主演以外で浅見ルナはそこそこ心理は描かれていたが、その他の参加者はかなり平板な印象であった。

バランスと稠密さから見ると、「ラヴァーズ」>「マッドランド」>これ、だ。
枠の中に余計なものが今後侵入してきたりすると、ゲームそのものの緊迫感や駆け引きの緊張がどうしても乱れ薄まると思われる。
それから枠外から持ち越す愛憎が絡むと、やはりゲーム自体が違うものになってしまう。
いずれにせよ今回はTV「ロストエデン前・後編」の続編としての第二ラウンドとは言え、持ち越しの感情や外部の動きが肝心のゲームを薄めてしまった感は強い。参加者の描写も今一つであった。
野々山紘美の人物像は充分丁寧に描かれており浅見ルナにしても共感出来るところであったが、向亜利沙のある意味、ゲーム度外視的な感情は面白さを削ぎ、引いてしまう面が強い。
他についてはどうにも貧弱だ。

一つの枠内での純粋な生き残りをかけた計略のみのデスマッチにした方がスッキリして映画としての完成度も高まると思う。


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何とトラブルの元は、バッテリーであった、、、

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花火が煩い」でお伝えしたノートの故障について、その後日談を、、、。

まず悲惨なことに、ブログ書いている途中で、頻繁に落ち始めた。
落ちるとき、バッテリーの残量がありませんというアラートと共に落ちる。
ACアダプターから電源供給しているにも拘らず。
通常電源ケーブルは挿しっぱなしで使っている。
常時、スリープ状態から立ち上げている。
(うちのパソコンはほとんど全てその状態。ディスクトップは止めているのもあるが)。

バッテリー残量を調べると0だったり100だったり表示される。
(表示が不安定)
電源ケーブルを外しても、バッテリーのランプが赤く点灯していた。不気味だ。普通ここは抜くと光らない。
そして、バッテリーだけでは全く起動もしない。
ケーブル挿してまた起動を試みると、起動して通常のディスクトップ画面が現れたとたん落ちるようになってしまう。

ともかく電源トラブルであることは明白であった為、マザーボードの交換となるのかな、、、と修理費も心配になって来た。
やれることだけ、やっておこうという事で、まずは、放電して暫く置いてからバッテリーを装着し直してみた。
このショック療法で治る事もあったりする。
しかし変わらない。やはり充電も始まっていない模様。


ちなみに、HDDも専用ツールで細かく調べたが、そちらは正常である。
(ここでデータの書き込みエラーのログとか見つかった日には、もう全面メンテである。マザー・HDD交換やむなし、データは特別料金で吸い出しとなる可能性もある)。
ソフトで悪さをして居るものもない。割と最近、初期化をしてやっとのことで(各設定、ユーテュリティを)現状に戻したところだ。
かなり初期から使えなくなっている光学ドライブもどうやらハード的エラーつまり初期不良であったことが確認できた。
不幸中の幸いとまでは言う気はないが、切り分けられてスッキリはした。
ずっと外付けドライブで運用できているのでもうよいこととする(保証期間内に面倒で動かなかったのだから仕方ない)。


バッテリーと電源部分は、しっかり絡んでおり、AC電源ケーブルで使用していてもバッテリーは常に関与している。
ディスクトップをよく使っていたわたしは、電源をACアダプターで取っているから、バッテリーはそのモードでは関係ないと思っていた。
このバッテリーと電源の絡みをはっきり認識。

理由はともかく、この症状はバッテリーへの充電が出来ていないことに始まっているようなのだ。
その関連で落ちていたらしい。
バッテリー不良と診断すれば、、、。
単にバッテリーを外してACアダプターのみで運用出来るかを診ればよい。
そして、全く問題なく使えた。バッテリーを外しただけで何の問題もなく立ち上がり小気味よく使える。
今も使えている(これを書いているノートは別のものだが)。

だがそれではディスクトップである。
それなら机をほとんど占有しないパネルだけの省スペース・ディスクトップの方がまだマシである。
何の為にノートを購入したのか?
では、バッテリーだけをメーカーから取り寄せればよいか?
そこなのだが、、、まだ注文すれば新品はしっかり手に入る。

専用の機器でテストしたわけではない。
単独にバッテリーの不良で問題が起きていたのか、、、
(勿論、3年もすればバッテリーの劣化は起きる。それだけの理由で取り替える場合もあろう)。
もしマザーの電源の部分の故障でバッテリーへの充電(通電)不良が起きていたなら、新しいバッテリーを挿してもこれまでと同じ症状が再現されてしまうだろう。それこそマザーボード交換の対応が必至となる。
マザーとバッテリー交換及び工賃考えると質の良い中古を買った方が手っ取り早い。
いや、ノートは他にも娘たちが怖い噺のビデオを観るために使っているものから一つ貰えばよいだけか。

その場合も考慮すると、結局バッテリー外したまんまでミニディスクトップパソコンとして使ってゆくか、という地点に落ち着くのだった(爆。
動き自体は実に快適であるし。
うっかり電源ケーブルが外れたというようなことだけ注意すれば、運用に差し支えない。

要するにめんどくさいのだ(ネジ外しと割れそうなプラスチックカバー外しが特に)。昔はこういうのマメにやっていたのだが、ノートを主体に使い出してからというものパソコンがブラックボックス化してきた。
なんせ、CPUや電源やメモリー、HDDの増設・交換など日常茶飯事でやっていたことだが、ノートはメモリの増設すらだんだん面倒な仕様になって来ている。バッテリーを交換するにも妙な手間が掛かる様になっている。どうしてか。

バッテリー無しのノートで、N-1志向で行くことに。


取り敢えず以上。簡単に、ご報告まで。
今日は、「ベッドタイム・ストーリー」でいこうかと思ったが余りに大味なので別のを(笑。








ミクロ・キッズ

Honey I Shrunk the Kids001

Honey, I Shrunk the Kids
1989年
アメリカ

ジョー・ジョンストン監督
エド・ナハ、トム・シュルマン脚本

リック・モラニス 、、、ウェイン・サリンスキー(物理学教授)
マット・フルーワー 、、、ビッグ・ラス・トンプソン(隣の親父)
エイミー・オニール 、、、エミー・サリンスキー(サリンスキー家長女)
ロバート・オリヴェリ 、、、ニック・サリンスキー (エミーの弟)
マーシャ・ストラスマン 、、、 ダイアン・サリンスキー(ウェインの妻)
クリスティン・サザーランド 、、、メイ・トンプソン(ビッグ・ラスの妻)
トーマス・ウィルソン・ブラウン 、、、ラス・トンプソン(トンプソン家の長男)
ジャレッド・ラシュトン 、、、ロン・トンプソン(ラスの弟)


サソリに襲われたら友達になったアリが身を挺して守ってくれる。
それはないだろう、とは思うが、そこ以外は無理なく楽しめた。
手入れのしていない裏庭のジャングルというのは、確かに子供にとって冒険的ロマンがある。
わたしもそんな風に小さくなった記憶はある。
巨大な昆虫と闘ったり彼らから逃げたり、アリを手なずけたり、、、わたしの場合はフンコロガシや芋虫にカタツムリも出て来た。
カメムシもいたような、、、よく見ていた虫は嫌でも登場してくるものだ(笑。

チョットした水でも命取り、 周囲を埋める何もかもが危険物。
しかしワクワクする探検ではある。
多分に観念的だが。
まずはお父さんの発明した「物体縮小装置」の暴走で小さくなってしまったところから始まる荒唐無稽な設定なのだ。

恐らく本当に身体が6㎜になってしまったら、昆虫のような構造でないと身を守れずすぐに死んでしまうはず。
このスケールは外骨格の適応環界だ。
彼らは早く家に戻り、身体を元の大きさに戻してもらわないと。
という事で一生懸命、家の扉まで行こうとするが、それが遠い。
とても遠いのだ。ジャングルが凄い上に虫やスプリンクラーや間抜けな友達がいきなり自動除草機を動かして彼らを追い詰める。
この辺はスリリングであった。

Honey I Shrunk the Kids004

この小さな科学者みたいな坊ちゃんがユニークで面白かった(芸達者であった)。
勿論、この手の少年少女冒険譚にはひとりいるタイプではあるが、可愛らしくて面白い。

反目していたロンも助け合いをして逃げ延びてゆくうちに溶け込んでゆく。
家庭同士の価値観の違いから子供たちにも距離があったが冒険を通して親密になってゆく王道の物語だ。
その間に、エミーとラスの間に恋も芽生える。これもお約束。
やはり冒険は必要なのだ?冒険という名のロマンである。
(これを疑似的に行うと、いつかのヨットスクールみたいな方向にも針が振れる可能性がある。勿論、ホンワカ仲良しクラブも出来るだろう)。
適度な試練という形は、日々家庭教育の中に取り組んでいるが、他者との関係性という点においては、後は大きすぎる学校~クラス単位となってしまう。この映画くらいのスケールの集まりもかなり有効であると思うが。後はクラブとなろうが、それも微妙だ(青春ものはそこをよく狙ってくる)。

Honey I Shrunk the Kids003

父子がとても似ているのが良い。
娘は母に似ているのか、タイプは随分違う。
姉が現実的というのも馴染んだ感覚である。
だが、その基盤の上で蜂に乗って草や花やお父さんのパンツの中をすり抜けて飛ぶというのも擽るものはある。
そういう感覚記憶は残っているものだ。

Honey I Shrunk the Kids002

アリに乗って歩いたらどれくらい面白いか?
アトラクション「ミクロ・キッズ」というのを作ってもそうとう受けそうだ。
噺はまさにその世界を当時のVFX技術をフルに使って表現したものだし。
嫌味はなく、とても微笑ましい郷愁に充ちた作品であった。



これを観ながら思ったが、ある特定の個体だけが他のものとの関係から小さくなったことで、驚異のアドベンチャーワールドが出現となったが、宇宙そのものがあるとき、例えば1000分の1になってしまったとしたら、関係性の上では誰もその事には気づかないはず。
しかしそんな現象~事件が突然あってもよいと思う。マルチバースの中で。
或る科学者がわれわれ宇宙だけがそのまま小さくなっていたことに気付いた。
それは、、、何らかの糸口からそれを見出した、、、。
やはり重力かな、、、。
なんて物語が作られても面白いかも。

斬新なSFがそろそろ生まれてきても良い頃だろう。
存在学的~神学的テーマのSFの傑作は生まれているが、、、。
しかし、それはSFの形式を敢えて取らなくても表現できよう。
(タルコフスキーとスタニスワフ・レムの論争を思い出す)。






散歩

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最近、うちの周りを散歩をしている。
勿論、時間帯はトワイライト・ゾーンにセットする。
これが微妙で、何時何分ではない。
常に前日より数分早かったり遅かったり、、、になる。

今日は風が激しいので愉しみにしていた。
外に出て暫く歩くうちに霧雨がサーっと降って来た。
上空に月を探すが流石に出ていない。
これはまずいなと思い家に踵を返す。
が、それも束の間小降りになったので、取り敢えず文房具屋で付箋を買っておくことにした。
その途中でふいに激しい大雨に見舞われる。

一瞬にして全身ぐしょぐしょである。
面白い。
典型的な台風接近間際の天候だ。
雨宿りするところもなくそのまま小走りに走り店に駆けこむ。
これがつげ義春描くような店なら素敵なのだが、普通の殺伐とした店の光景だ。
付箋ひとつだけ買って足早に帰る。

わたしが一番たくさん使う物は恐らく付箋である。
それからBlu-rayとDVDメディア、、、くらいか。
昔はオーディオテープ、ビデオテープであった。
いやその頃は、ノートとクロッキー帳だったか。
時折、付箋を夕刻に買いに走る。


だが、散歩では基本的に買い物などしないことにしている。
散歩は、空っぽでいたいのだ。
何の目的もなく。
何も考えず、何も思わない。
歩いてることも気にならないくらいの速度で歩く。
(これがわたしの場合、割と速い)。
これに限る。

住宅街にあっては、ほとんど人のいない時刻に歩いているが、犬の散歩の人には出逢う。
時刻とコースがほぼ同じであると同じ人と犬に何処かの地点で逢うものだ。
今日はここですか、、、
すれ違う際に互いにほんの少し気にし合う。

しかしそれはいつしか途切れる。

こんな関係が一番ここち良い。

だれとの邂逅もこんな風なものである。



パーティで女の子に話しかけるには

How to Talk to Girls at Parties001

How to Talk to Girls at Parties
2017年
アメリカ イギリス

ジョン・キャメロン・ミッチェル監督

エル・ファニング、、、ザン(宇宙人)
アレックス・シャープ、、、エン(パンク少年)
ルース・ウィルソン、、、PTステラ(宇宙人)
マット・ルーカス、、、PTワイン(宇宙人)
ニコール・キッドマン、、、ボディシーア(プロデューサー)


ラビット・ホール」の監督。ニコール・キッドマンがヒロイン。ここではパンクバンドのプロデューサー。

1977年ロンドンが舞台であるが、、、
パーティで女の子に話しかけるには、、、パーティーに限らず女の子はいつも宇宙人である。
そして大概、奇妙なコロニーに属したりしている。
この映画のまんまである。
よいのではないか。

How to Talk to Girls at Parties003

あのブライアン・イーノのプロデュースによる驚愕の”No New York”が飛び出たのが1978年であった。
マーズとティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークスにDNAとザ・コントーションズの4組のコンピレーション・アルバムであった。
彼らは”ノー・ウェーブ”に総称されていたが、凄まじく過激で実験性の高いメタ・パンクである。
オマケに独特な芸術性も色濃くあった。
今聴いても破壊力抜群の時代を飛び越えた音なのだ。
これを聴くとその当時のパンクが保守的なポップスに思える。
同年に、”Q:Are We Not Men? A:We Are DEVO! ”でディーヴォ (Devo)が華々しくデビューしている。
恐らくYMOと同じくらい重要なテクノポップグループであろう。
プロデューサーはブライアン・イーノ。
この頃、イーノはサイバネティクス理論を駆使した音楽論を展開。
同時に飛び抜けた”ノー・ウェーブ”の才能発掘をしてゆく。
イーノ自身の作品としては「ミュージック・フォー・エアポーツ」を78年に出して本格的な「アンビエント・ミュージック」を展開して行く。
ニューヨークの街では”Eno is God”の落書きがあちこちでみられたらしい、、、。

そんな時期だ(笑。
何故、映画と直接関係ない噺をダラダラ書いたかというと、わたしはこの時期、しょっちゅう海外(ヨーロッパ全域とアメリカ)の輸入盤LPを西新宿あたりで購入していた。勿論、日本のレコード会社から発売されていないものを手に入れるためだ。
”No New York”を購入したのは、西新宿の雑居ビルの3階で隣が進学塾の輸入LP専門店であった。
その時、客はわたしの他に1人いるだけで、そのレコードは最期の一枚でタッチの差でわたしが早く手に取った。
その時の対戦相手を見ると、ほぼエル・ファニングと争える程の容貌の女子高生であった。
それで、この時のことを想起したとも謂える、、、
彼女は、とっても残念そうにして「ちっ」とか舌打ちしてこっちを羨ましそうに暫く眺めていたものだった。
ほぼエル・ファニングが(爆。

当時の評論家が今一つボケていてそれに大した評価を与えず、マニアの間で瞬く間に売り切れた後で供給した会社が潰れ音源も消失してしまい、そのLPは結局、完全絶版になってしまった。
やはりホントに買っておいてよかったと心底思ったものだ。

この時、もしそのLPのことで話を向けたり、それを譲ったりしたらどうであったか、、、と今ふと想う。
だが、わたしとしては、出たと同時に完売で今後いつ入って来るか分からぬお宝をゲットして、充足感と達成感で一杯になってLPを胸に抱えているところなのだ、、、余計なことなど考える余地もない。
何があろうとそれを手放す気など思いもよらなかった(見せるのももったいないくらい)。
とは言え、恐らくこんな時こそが女の子とのコンタクトをとるチャンスなのだ。きっと、まさに。

何故かわりと最近、”No New York”の再盤が出たという噂を耳にした。
何処から音を起こしたのだろう。
まあ、キング・クリムゾンの「アース・バウンド」も酷いライブ音源を元にしていた。
少しばかり音質がダウンしていようと、それでサウンドのアウラが霞むようなヤワなものではない。
チョッと調べてみると、評論家たちも頗る良い評価をしており、その後のロック(ノー・ウェーブ)ムーブメントに最も大きな影響力を与えたものの一つだ的なことをつらつら書いていた(今更遅い。会社も潰れたぞ)。


何の噺だったか、、、そう、ザンみたいな娘に遇う時は決まって、何か重要な目的で動いている最中だったりする。
わたしの場合は、、、いや結構そういうものだと思うのだが、、、。
自分にとって大事な物を買いに行ったり、見に行ったり、聴きに行ったり、約束した誰かに会いに行ったり、ともかく何かの目的に一心に集中している途上に、出逢う確率が多い気がする。真剣になっている時の「脇見」だ。
特にトワイライトの時間に、何やら普段見ていたはずの街角からチョッと違う雰囲気が静かに漂ってきて、その奥に佇む空き家かと思っていた家に明かりが灯っていたりしたら、ノックしてみる価値はあるかも。
クラウトロックの音楽が流れていればベストだ。
この映画はそもそもそこから始まる(笑。


このザンたちのような存在~表象は、、、
きっと場の励起によりそれらとして現象するのだ。
こちらのテンションとの厳密な関係性によってそれらは姿を現す。
だから少しでもその場に関係しない、つまりは重力を持たない思考~思念~感情が介在し場を乱すと入り口は閉ざされる。
そういうものだ。
わたしの経験上。

それがこの映画のような旅の途中の呑気な宇宙人であっても、アメリカのカルト集団であっても、、、彼らがこちらにも注意を払っている間(ま)に、、、(その場~チャンスの灯っているうちに)
余計な事を考えず、重要な事~モノを一旦忘れ、自身を放下した時がその時なのだ、きっと。
わたしには出来た試しがない。大事な物が手放せない。物欲がやはり強いのだ(爆。

How to Talk to Girls at Parties002

エンはパンク野郎だったので、素直にそうなった。自意識が極めて軽い。
そういうものだと思う。
わたしにしては珍しくためになる噺をしてしまった感がある(爆。






ブルージャスミン

Blue Jasmine001

Blue Jasmine
2013年
アメリカ

ウディ・アレン監督・脚本


ケイト・ブランシェット 、、、ジャスミン
アレック・ボールドウィン 、、、ハル
ルイス・C・K 、、、アル
ボビー・カナヴェイル 、、、チリ
アンドリュー・ダイス・クレイ 、、、オーギー
サリー・ホーキンス 、、、ジンジャー
ピーター・サースガード  、、、ドワイト
マイケル・スタールバーグ 、、、ドクター・フリッカー
マックス・カセラ 、、、エディ
オールデン・エアエンライク 、、、ダニー


欲望という名の電車」を想いうかべながら観た。あの”ブランチ”を観た。そう謂えばこれもエリア・カザン監督であった。(テネシー・ウィリアムズ 原作)
そしてこちらは、ウディ・アレン監督であるが、ユーモアとウェットに富む軽妙なテンポという訳ではない、コメディ調は目立たぬ堅牢な作りである。シニカルとか謂うより、リアリティの無い人生から徹底的に幻想を剥ぎ取って行く突き放したシビアな作風だ。ウディ・アレンの映画だという事を忘れて魅入った。
ケイト・ブランシェットが何より繊細で絶妙である。この人の没落セレブ~”ブランチ”の演技には吸い込まれる。
シェイプ・オブ・ウォーター」主演のサリー・ホーキンスも難しい立場の妹役を自然にこなしていた。
このふたりの掛け合いは凄い。複雑な絡みで高度な名人芸だ。
キャストも上手く選ばれている。皆ピッタリではないか。とても稠密な劇になっている。

上手いと謂えば、過去~現在の場面(意識流)が極めて自然に織りなされて進行するところだ。
この脚本はまさにウディ・アレンの名人芸であろう。
映画によっては、この連結が不自然だったり強引だったり進行をぎこちなくするものも少なくない。
鮮やかな手際の映画である。


敢えて色々書く気にはなれないのだが、、、。
さり気無く語られた、優秀な遺伝子を持った里子というのが、重要なポイントか。
ジャスミンもジンジャーも姉妹だが母親は違い、ふたりとも里子である。
親の愛に代わる承認要求は強くもってもおかしくはない。
大きな無償の愛による全能感をどこかに求めるのは自然なことだ。
特にジャスミンは優秀な遺伝子を持った里子という自負がある。
この辺に彼女のセレブへの殊更強い拘りの根があるのだろうか。
そんな気がする。

まず名前を変える。これは分かる。自分を自分の意のままに変えるのなら、まず名前であろう。
夫の(詐欺の)仕事に敢えて気づかぬふりをしてどこまでも裕福な勝ち組にしがみつく。
だが一度夫の裏切りを知ったとたん全てを投げ出しFBIに通報して取引し、夫だけ有罪にもちこむ。
ONかOFFかという心情は分かり易い。
大学中退して結婚しており、キャリアは一切積んでこなかったことから、有望な相手に縋り依存しようとする。
(地道な自立を考えると途方もない遠大で実現困難な方法を取ってしまう~現実感覚の希薄さ)。
そしてこれはという相手が現れると、調べれば分かる嘘を躊躇なく出任せでついてしまう。

出逢いの曲は「ブルームーン」。カバンはヴィトン。飛行機はファーストクラス、、、、気付け薬は専用のカクテル、、、こういう物語を作って行く。
これをわたしは、愚か、軽薄だとか貪欲の恥知らずと言う気にはなれない。
内省して遡行したときに突き当たる原因と思しき事情をみて、それでも人にそれを罰する権利があるかどうか?
人は皆、ほどほどに暗愚でほどほどの幸せでほどほどに暮らすことが出来る。
だがその文脈を破って逸れてしまう人がいる。
自分の自由意思でそれを行っているのではなく、(運命的に)強いられてそうせざる(ならざる)を得ない。
そんなケースはある。

”ブランチ”役を更に深く抉ってジャスミンの強度を上げている。
ウディ・アレン流石。


最後に彼女は逃げ場が無くなり引き籠る様にして独りごとを呟く。
もう行くところは病院か施設だろうか、、、。
「欲望という名の電車」みたいに。

いつもの軽妙洒脱な感覚でまとまらない重みのある力作であった。


グーニーズ

The Goonies001

The Goonies
1985年
アメリカ

リチャード・ドナー監督
クリス・コロンバス脚本

ショーン・アスティン 、、、マイキー
ジョシュ・ブローリン 、、、ブランド
ジェフ・B・コーエン 、、、チャンク
コリー・フェルドマン 、、、マウス
ケリー・グリーン 、、、アンディ
マーサ・プリンプトン 、、、ステフ
キー・ホイ・クァン 、、、データ
ジョン・マツザク 、、、スロース
アン・ラムジー 、、、ママ・フラテリー
ジョー・パントリアーノ 、、、フランシス
ロバート・ダヴィ 、、、ジェイク


やはり全てにおいて古さを感じた。いや、、、古さであろうか?
スタンド・バイ・ミー」には古さなど全く感じないが。
昨日見た「ゲンセンカン主人」も古い作品だが、それがマイナス要素には全くならない。

これはまさに「かの抜けたビール」(気の抜けたか?)であった。
古くても全く色褪せない(本質的な)主題をもっているもの、元々古さも新しさも関係ない詩的なもの、とは異なり流行を追ったものではないにしても、その時代の限界を感じさせる作りのものはある。

この作品、子供たちの財宝を巡っての冒険譚において、如何にそれをスリリングな演出で魅せるか、その仕掛けの出来具合がほぼ映画を決める要素となろうが、演出共々どうにも美味しくないお子様ランチを味わう気分である。
こういう類のものをその後、見せられ過ぎたこともあろうか。
しかしいくらコピーされても良いものは良いし、オリジナルの方が大概勝るものだ。
(まさにアウラがある)。

要するに、子供向けであるにせよ、どの世代が見ても唸り感動する作品はある。
(日本のアニメーションはその点で実に優れていると思う)。
そうでなければ所詮、子供騙しに過ぎない。

更に、この冒険譚は地下においてインディージョーンズ的なアトラクションが幾つも見られる。
とても鮮烈な印象を残したインディージョーンズの第一作目は、1981年である。
スティーヴン・スピルバーグ監督で、この映画も彼が製作総指揮を執る。
つまり、あのワクワクドキドキしながら固唾を飲んで見たインディージョーンズの廉価版という事か。
縮小されたようなこじんまりしたセットが気になる。
噺もゴルフ場建設で立ち退きの迫る中、みんなで力を合わせてお宝をゲットして引っ越しを阻止しよう、というものだが、お宝の地図発見とその場所の割り出しが、ほとんどお飯事レベルなのだ。なんだこれ?とちょっと呆れ気味になる。
オルガンを鳴らすシーンも如何にもと言ったお子様仕様であり、データの無理やり繰り出す幼稚な武器がワザとらしくて情けない。
噺はご都合主義であるのは仕方ないとしても、余りの大雑把さと細部の稚拙さに加えステレオタイプの演技が興醒めであった。
同じ子役の演技でみても、「スタンド・バイ・ミー」と比べられるレベルではない。

発表されたばかりで観たらもう少し違う感想を持つかもしれないが、それこそ時代性に囚われたモノとなる。
しかし直ぐに観たとしても、恐らく詰まらなく感じたことは間違いない。
別にその時の流行に乗ったトレンディー作品でもないし、時代性ではなく(勿論、技術的な限界はあっても)単に面白くない作品であった。
ふたりの娘と一緒に観たが、欠伸をしていた。次女は途中からパソコンゲームを別の部屋でしはじめてしまった、、、。


インディージョーンズは子供が観て大喜びであった。
わたしもそうだが。どれも面白かった。
しかしこれはどうであろう。
もし子供向けであるというなら、寧ろグレードアップを図るべきだ。
その点、日本のアニメは誠実で真摯な姿勢が際立つ。
(何のアニメであっても「子供向け」~枠を限定して作っていない)。
最たるものが「この世界の片隅に」に想える。
アニメではこれと「君の名は。」には圧倒された。
うちの娘も大感動である。わたしもだが。


このような映画がヒットするくらいなら、もっと日本のアニメ映画が海外で正当に評価されてよい。


ゲンセンカン主人

gensenkan001.png

1993年
石井輝男 監督
つげ義春 原作

佐野史郎、、、主人公(津部、ゲンセンカン主人)
横山あきお、、、李さん
中上ちか、、、李さんの奥さん

久積絵夢、、、きくちさよこ(店番の少女)
荻野純一、、、しんでんのまさじ(小6)

水木薫、、、ゲンセンカンの女将
大方斐沙子、、、ゲンセンカンの老女中

川崎麻世、、、伊守(文学者気取りの遊び人)
岡田奈々、、、ランボウの福子(ウエイトレス)
きたろう、、、営業部長の須山

高野慎三、、、北冬書房の男


オムニバス映画である。

第1話 :李さん一家
第2話 :紅い花
第3話 :ゲンセンカン主人
第4話 :池袋百点会

佐野史郎が若い。
つげ義春は「ネジ式」以外、何を読んだかよく覚えていないが、、、強烈な印象は残っている。
まず、絵が彼独自のものであり、その絵からくる世界の質が前提となって話が入って来る。
それを実写化するにあたりキャストや演出はどうであろうか、、、と思ったが原作や作者のことなど直ぐに忘れて魅入ることが出来た。


独特の香りである。
わたしにとってノスタルジックというわけではないし、何か共有するシーン(経験)もないのだが、共感する~共振するところは全編にある。不思議な味わいだ。
「紅い花」が特に印象的だった。
仄かに漂う甘い香りが好きだ。
確かに「詩」と謂える。

女の子は何故、お腹が張るのだろう?身体の具合が優れないようだ。
何を数えて、数えられないのだろう?お金のお釣りの計算は出来ていた。
店番をやらされ小学校にも行けない「きくちさよこ」。(6年生らしい)。

岸に赤い花が咲き誇る川で着物の裾を捲って用を足すと、赤い花弁が幾つも水面に落ちてまさじの元に流れて来る。
「赤い花じゃ!」と叫んで彼は驚愕する。岸に横たわってしまった彼女のもとに駆け寄ろうとするが強く制止される。
さよこはもうオフィーリアみたいなフラジャイルで神聖な存在か、、、。
彼女にしょっちゅうちょっかいを出してきた腕白小僧がそれでも心配でいてもたってもいられない。

少し時を置いて「眠れや」と言って彼が「きくちさよこ」をおぶって山を下って行く。
ことば使いがとても面白い。その地方の古めかしいことばがとても子供を可愛らしくみせる。
男の子が素人臭い演技で浮いてはいたが、美しい幻想的な光景だ。
佐野史郎~津部は彼らの行く先を遠い目で見届ける。


「李さん一家」から始まるので、とても奇妙で奇抜なオムニバスに想えてしまう。
折角、郊外のぼろ屋を借りてトマトやなす、きゅうりを植え、朝顔のツルを窓辺に眺め制作に勤しむつもりでいたのだが、、、ここはわたしも感性が近い。
敷地内に鳥と話す李さんというヒトが入って来て、ついに一家ごと津部の家の二階に住み着いてしまう。
他に奥さんと子供二人の四人が突然入って来たのだ。津部はそのことにほとんど拘らない。
皆、異星人~エイリアンである。

李さん一家は、生活が立ち行かない様子で、庭のキュウリや津部の食べている食事を母子で勝手に食べてしまい、口に頬張りすぎて喉につかえて倒れてしまったりする。何のつもりか奥さんが五右衛門風呂に息を止めて潜り、湯当たりして気絶し、大騒ぎして旦那と二人で裸の彼女を運んだりもしている。話し方、所作、行動、考え全て別物である。が津部のところだと妙に収まってしまう。
津部の器の成せる業か。彼らが家の二階から揃って外を見て屹立する光景は、地球人のものではない。


「池袋百点会」は、岡田奈々の魅力が光っている。
出てくる男はみな実にだらしない。
彼女のヒモになって辛うじて生活している。
太宰治フリークの川崎麻世演じる伊守が、これまたいい加減を絵に描いたような男である。
大体、本~サンプルすら作らずに何処の馬の骨かも分からぬ人間が広告費を商店街に貰いに行ってもホイホイ出す店があるか。
持ち逃げされたらそれまでであるが、実際そうなってしまう。笑うに笑えない。
営業部長の須山は初めから彼らをハメる気でいたかどうか知らぬが、あの現実感の無い無策な世間知らず振りを見てその仲間としては到底やっていけないとは、感じただろう。やったことは詐欺であり犯罪に他ならないが。
伊守と福子ペアが狭い津部のアパートに転がり込んで来る。津部は押し入れで寝る羽目に。またしてもこのパタン。

この噺は、ランボウの福子(岡田奈々)のコケティッシュな魅力に尽きよう。
まるでお人形のような愛想と所作を見せる。他の男たちの中にあって差し詰め、未来のイブみたいな存在か。
ミューズであっても良いのだが、津部が彼女をモデルにする気配がない。
彼女はとても健気に男たちの生活費を稼いで自分はダンスを練習して夢も見ている。
伊守に騙され泣かされてもへこたれずに立ち直ろうとする姿が清々しくもあった。
最後は津部が彼女を優しく抱擁し、この先のふたりを暗示させる常道のロマンチックな噺である。


「ゲンセンカン主人」は、ホラーテイストの効いた演出の凝った作品である。
「あんたゲンセンカンの主人に瓜二つだね」と着いたばかりの土地で老婆に囲まれ口々にそう言われる。
そこは妙な雑貨屋であり、主人公はそこで天狗の面を買う。
そして老婆たちが止めるのも振り切り、「ゲンセンカン」の宿に向かう。

そこから何故、ある日突然現れた男がゲンセンカンの主人になったかを物語る映像になる。
疾風や棚引く衣服、幟や蝋燭、不気味な老婆たちや割れた鏡、天狗の面やその他の玩具が象徴的な効果をあげている。
異界との狭間のような空間にあって生々しい性と死も際どく表現されたダークファンタジーと謂えよう。
恐らくこれぞつげワールドという感じのものか。


この映画を観てひとこと言うなら、つげ義春って面白い事考えるひとだな~という感想である。
どれも良いが特に「紅い花」は珠玉の名品である。
(この作品だけリメイクしてくれないものか?)

最後につげ義春も登場するが、ほとんど蛇足である。



花火が煩い

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昨夜、メインノートが壊れる。
電源部分の故障のようだ。
スーッと落っこちて、98%書いたブログ記事が消えた。
通常は60%くらい書いたところでエディターにコピーするのだが昨日は何故かしなかった。
一度落ちても、再起動すると、データの復元を聞いてきて大概続けて入力できるのだが昨日のパタンでは出来なかった。
セカンドノートから23時にアップする予定も叶わず、24時チョイと前にそれまで書いたものとは全然異なる文をアップはした。同じ文は書けない。

だが、何かの遺り滓的なイメージが強く、一旦削除して最初に書いたものに近づけてアップし直した。
(これが最善のはずはないが)。
気持ちの問題かもしれないが、二度目のものは、形は違えど最初に書いたモノを整理して書いた感じに落ち着いていた。それが妙に気に喰わない。
いきなり浮かんできたものには、それがどんなものであってもそれなりのアウラがあるものだが、それが全然ないものになってしまうととても虚しい。
やはり一番搾りが美味しいのだ。

結局、自分が最初に書いたものに似たものにしてアップした。
こちらの方が、整理報告文よりはまだ多少はマシであった。
恐らく一定期間、読んでくださってる方々には分かってしまうに違いない。
「か」の抜けたビールみたいになっている。(この言い回し通じないヒトもいる。ローカルなのか)。

夜中にパソコン関係でゴタゴタするのはキツイ。
以前はそればっかりしていたものだが。
自分でやる根気がなくなっている。
タワーのデカい類のものならやる気も自然に起きるが、ノートは気が進まない。
メーカー修理に出そう。梱包がメンドクサイが,そのうち、、、。


どこで上がっているのか分からないが、先ほどからずっと花火の音がしている。
窓から覗いても分からず、テラスからでも見えない。
庭に出てみたが、テラスから見えないものが見えるはずもなかった。
星は静かなのだが、花火は音ばかりが煩い。
ある意味、人を呼ぶためのものだ。

以前、TVで星(恒星)の音を流していた。
通常では聞こえない音だ。
楽器と同じく反響音だ。凄いスケールの。
名状し難い音だが不思議に記憶に残る。
何でも音を出していることに気付く。


音だけ聞いて想像するというのは、楽しいものだが花火にはそんな気にはなれない。
、、、出て来るパタンが知れている。寧ろ静かに花火そのものだけひっそりと見たい。
ペアになってる音はきっとお祭りを連想させるのか。
時折、心地よい音に聴こえたりもするが。

星はイメージすらできない。
ケプラー望遠鏡の捉えた恒星の音であったが、どこか昔のSF映画で使われていたUFOの効果音にも似ていた。しかしそれでいてチープさはなく、強い存在感ある音であった。

星の音を捉えるような感覚が稀にある。
自分の作ったモノに自然に接続できると、嬉しくなる。


昨夜は遅くまで起きていて夜食も食べ過ぎた。
これでは感覚も鈍るし太る。
今日は何もせず早く寝よう。



NASAの衛星が捉えた地球の音は、もうそれ自体が飛び切りの音楽であった。
クラウトロックも近い音を出していたが、これは「本物」~アウラである。






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アメリカ アメリカ

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America, America
1963年
アメリカ

エリア・カザン監督、脚本、原作、製作
マノス・ハジダキス音楽

スタティス・ヒアレリス、、、スタヴロス(ギリシャ人青年)
フランク・ウォルフ、、、バルタン(アルメニア人、スタヴロスの親友)
ハリー・デイヴィス、、、イザーク(スタヴロスの父)
グレゴリー・ロザキス、、、ホハネス(肺病のアルメニア人、スタヴロスの親友)
ルー・アントニオ、、、アブドゥル(悪質なトルコ人)
リンダ・マーシュ、、、トムナ(金持ちの娘)

エデンの東」のエリアカザンである。
赤狩りでのトラブルが尾を引く監督でもある。

彼が幼い頃に聞かされた話を基にした映画であるという。

トルコは20世紀初頭、国土に住むアルメニア人やギリシャ人を弾圧していた。
そんななかでアメリカに多大な幻想をもつ者も多かった。

この主人公も親友から得たアメリカの情報から大きな憧れを抱くようになり、それはアメリカへの移住という壮大な計画に膨らんでゆく。しかしその親友は政府への犯行の為、殺される。それがアメリカを実際に目指す彼のトリガーとなる。

とても人の好い性格で、いつも人懐こい微笑みを絶やさぬ青年であったが、アメリカへの脱出を企てた過酷極まりない旅路のなかで、人格も大きく変わってしまう。取り憑かれたような飢えた鋭い目つきの男と化してしまうのだ。

まさに家族の命運を背負い、全財産を抱えてコンスタンティノープルの叔父の事業に加わるところから始めようとした。
だが、叔父のところに辿り着くまでに、人がこれ程悪辣に冷酷になれるものか、と呆れるような酷い仕打ちに逢い、ほとんど裸同然に身ぐるみ剥がされてしまったのだ。

叔父の商売も予想と異なり細々としたもので、助けてもらうどころかまた搾取されそうになり、そこを飛び出してしまう。
手っ取り早い金策か、叔父は金持ちの家の見栄えの優れぬ娘との結婚を画策したのだ。
だが、港の荷運びの仕事ではその過酷さに見合う賃金など得ることも叶わず、アメリカへの渡航費など到底目途は立たない上に身体を壊すのも目に見えて来た。
しかも世間知らずのお人よしである為、娼婦に又しても貯めた金を全て盗まれてしまう。
更に仕事の良き相棒に反政府組織の集会に誘われて行った際に、警察に銃撃され相棒を含むほとんどが殺されるなか這う這うの体で逃げ出す。
意に反するが、計画の為、叔父の店に戻り、勧められるままに富豪の不憫な娘との結婚に踏み切る。

娘だけでなく富豪の父も彼を直ぐに気に入り、持参金も言われるままに用意し、将来の優雅で安定した生活を約束し、二人の豪華な新居までプレゼントしてくれた。
もし彼にアメリカという幻想が無く、単に裕福な生活が目的であれば、ここで達成とも言えよう。
彼自身も彼女とその家族をとても好ましく感じてはいた。
だが彼の場合、富だけでなく自由と解放を欲しているのだ。
その象徴こそが「アメリカ」なのだ。
鳥の雛みたいにアメリカが刷り込まれているのだ。
主人公にとってアメリカとは、どれだけ好条件を提示されてもそれが霞んでしまう程に光輝く場所であるに違いない。
常にアメリカの事ばかりに拘っている為、彼の呼び名も「アメリカ アメリカ」となった。

ただ、これまで須らく被害者の立場でいた彼であったが、ここでは反転してしまっている。
目的の為には手段を選ばない者たちに彼は泣かされ続けてきたが、彼を愛し息子同然に思っている富豪の父と彼を愛し慕うその娘を自分の目的の手段として見事に彼らを裏切っている。
流石に彼も良心を咎め彼女に本当の気持ちと計画を打ち明ける。
それでも彼女は「わたしがもっと美しければ(キャストは美人であり妙なメイクで対応している)とか、あなたの言うとおりにします。でも一年したら帰って来て。父にも黙っているから、、、待っています」などと健気に懇願する。
だが、彼は渡航費だけせしめて乗船する。「ぼくを信用するな」と言って、まさに自分を騙して来た悪人の場に自覚的に立っているのだ。
もう人相~人格も変わっている。

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船に乗り込むところで、かつて彼が自分の靴を差し出したホハネスに邂逅する。
足を引き釣りながら徒歩で彼もまたアメリカを目指していたのだ。
但し、スタヴロスは渡航費用は払っているが、アメリカで就労する権利は取得していなかった。
ホハネスは靴磨きの就労者としての渡航である。
スタヴロスはここまで来て強制送還を言い渡されてしまう。
しかし、ホハネスは肺病の悪化もあり先がない事を感じており、かつての恩に報いるかのように海に飛び込んで自分のIDをスタヴロスに譲り渡すのだった。ここでもスタヴロスは親友を犠牲にしたと謂えよう。

スタヴロスは晴れ晴れした顔で、税関でホハネスと名乗り、更にアメリカ人としての新たな名前を付けてもらい意気揚々と街に出てゆく。
「ここには大きなチャンスがある!」
彼が新天地アメリカで、快活に靴磨きの仕事に就いているシーンで終わる。
ギラギラした表情がとても際立った。


その後、彼は父親以外の家族全員をアメリカに呼び寄せたという。
(敬愛する父は恐らく間に合わなかったのだろう)。
人格の変わった長男を家族はどう思ったことか、、、随分頼もしくなったと感じたのだろうか、、、。


最後の監督自身による製作スタッフとキャストの紹介が入り、ほぼみんなが移民ではないか、と思った。
その辺を強調する意味が監督にはあったのだ。
(監督もトルコ生まれのギリシャ人でアメリカに帰化している)。


抑圧や迫害を受けた者がそれに対抗する姿とその変貌がとても興味深く描かれた大作であると謂えよう。




太陽は光り輝く

THE SUN SHINES BRIGHT

THE SUN SHINES BRIGHT
1953年
アメリカ

ジョン・フォード監督・製作
ローレンス・スターリングス脚本
アーヴィン・S・コッブ原作

チャールズ・ウィニンガー 、、、ウィリアム・ピットマン・プリースト判事
アーリーン・ウェラン 、、、ルーシー・リー(黒人学校の教師)
ジョン・ラッセル 、、、アシュビー・コーウィン(富豪の跡取りで遊蕩児)
ラッセル・シンプソン 、、、ルート・レイク医師(ルーシー・リーの養父)
ミルバーン・ストーン 、、、ホーレス・K・メイデュー(プリーストの選挙のライバル、弁護士)
ドロシー・ジョーダン 、、、ルーシー・リーの母親(元娼婦)
ジェーン・ダーウェル 、、、オーロラ・ラチット(町の有力者の婦人、オルガン奏者)
フランシス・フォード(監督の兄) 、、、フィーニー(飲んだくれの猟師)
スリム・ピケンズ 、、、スターリング(フィーニーの若き相棒)
ミッチェル・ルイス 、、、アンディ・レドクリフ保安官
ポール・ハースト 、、、ジミー・バグビー軍曹
ステッピン・フェチェット 、、、ジェフ・ポインデクスター召使
エヴァ・マーチ、、、マリー・クランプ(娼館の経営者)
ジェームズ・カークウッド 、、、フェアフィールド将軍(ルーシー・リーの祖父)


「ケンタッキーの我が家」が最初と最後に来るが、最後に聞く時は感動(涙。
美しい。
美しい映画だ。
南北戦争の40年後、ケンタッキーの物語である。

映画というものは、こういうものだという事を実感する。
わたしは絵や音楽にはずっと浸って来たが、映画を観る習慣は持たなかった。
未だに映画については疎いし、観た数も少ない。
ブログを書く名目で映画を観ているところもあるが、まだ映画を観ること自体、キツイ感覚がある。
映画を観ることが習慣になっている人も多いそうだが、まずわたしにそのような境地はやってこないことは確信する。
観ることが苦行以外の何ものでもないことが少なくないのだ。

それでもちょっと気になり観てみたくなる。
じっさいそんなところなのだが、自閉症的にここ最近は観ている。
毎日見ないと気持ち悪いからだ(苦。


このような構築美~文法が映画なのかと思う。
様式美に殊更拘っているとは見えないが、最初の光景からラストまでを精緻に組み上げてゆく流れはまさに映画と感じる。
後半のラベルのボレロの畳みかけるリズムを想わせる静かだが途轍もなく力強いドロシーの葬儀の行進へとそれまでの流れが集まって行くこの光景は、その場に取って付けられたものではなく、最初から始まっていたことが分かる。シーンの連なりとして。

思想とか謂う以前に、人の尊厳を守るその意志が次第に小さな流れを集めて太く確かな流れを形成して、周りで傍観する者を圧倒し声も出させない。その行進自体が思想であり信念でありそれに共鳴した者は、ひとりまたひとりと流れに加わって行く。
このシーンに来るまでは、速い馬を走らせたり、無実の者を引き立てようと押し寄せてくる無知蒙昧な行進もあるが、それらを全て呑み込む誇り高い行進が生まれる。
ここは恐らく映画史における名シーンではないか?
(その後も華やかな、明るい、しっとりした様々な行進~群れて並んで歩く様子がありそれぞれに雄弁であった)。

その行き着いた果て、教会での判事のヨハネの福音書から引用した説教も素直にこころに染み入るものであった。
「これまでに罪を一度も犯したことのない者は、この女に石を投げなさい。」というところだ。
ひとりまたひとりといなくなり、姦通罪を問われた女とイエスだけがその場に残される噺である。
「わたしもあなたを罰しない。」

そしてまた驚いたのは、ラストの自分の一票の差で再選を決めた後、独りで自宅の玄関に入り、その奥のドアを開け、更に奥の廊下を渡り突き当りの部屋に消えるこの去り方。
最後まで映画的文法を駆使して作られたスタイリッシュな作品なのだと気付いた。
ルーシーが肖像画から自分の出自を悟るところやいくつかのカメラワークについても、、、
これまで観てきた映画の多くもそうであったはずだが、この映画はそれ~形式をその美によって気づかせてくれた。

二度演奏されるディキシーランドも陽気な音だが充分に響いた。
”ユー・エス”ウッドフォードのバンジョーによるディキシーは聴き応え(見応え)充分であった。
ハーモニカでの「草競馬」(フォスター)も良かった。
音楽の重要さも充分に実感する。

もう一度見たい映画だ。





散歩する侵略者

BEFORE WE VANISH001

BEFORE WE VANISH
2017年
黒沢清 監督・脚本
田中幸子 脚本
前川知大『散歩する侵略者』原作

長澤まさみ 、、、加瀬鳴海(広告デザイナー、ガイド)
松田龍平 、、、加瀬真治(鳴海の夫、宇宙人)
高杉真宙 、、、天野(宇宙人)
恒松祐里 、、、立花あきら(宇宙人)
前田敦子 、、、明日美(鳴海の妹)
満島真之介 、、、丸尾
児嶋一哉 、、、車田刑事
光石研 、、、鈴木社長
東出昌大 、、、牧師
小泉今日子 、、、医者
笹野高史 、、、品川(厚生労働省役人)
長谷川博己 、、、桜井(ジャーナリスト、ガイド)


ここでいう概念とは古く根を張った支配的な記憶といったところか、、、。
スーパーエゴでもある。
通常新しい記憶は海馬~メモリーに蓄えられていて、古い記憶は大脳新皮質~HDDに移動されている。
概ね概念のように思考の基盤となるようなものは、後者にあるだろう。
まず場所が特定されなければアクセスもスキャンも出来まい。
しかしアクチャルな概念はそんなところに温存されているはずもなく、、、
まさに哲学は概念の発明にかかっているし、当然科学もそうだ。
最先端を行く思考運動においては常に概念は生成中にある。
更に日常ルーチンなどの多くは、身体に任されている(頭脳が全ての処理を中央からしている分けではない)。
だが、人間として(ひとらしく)生きるためにはこの辺の身体性はとても肝心な場でもある。

何と謂うか、人間という存在を探るに当たりちょいと人の頭から概念を掠めたくらいで何かが掴めるなんて原理的に不可能だ。
脳の複雑さは途轍もないし、精神というものを絡め考慮すると、まずどこにどうアクセスすべきか、、、多分分かるまい。
そしてそれをモニタリングする意識との関連もみなければ手落ちとなろう。
(実際、彼らはそれを言葉だけでなくイメージで鮮明に描いてみてください、などと意識~想像力まで働かせてそれを奪っている)。
そもそもこの宇宙人は何の目的で地球に来ているのか?地球人とは何かを探求しに来たのか?
そうであれば面白いと謂える。地球人にぜひその成果を教えて欲しい。まだ分からないことだらけなのだ。
侵略して人類を滅ぼすことが目的であれば、概念集めてどうなるのか?
遥かに効率的で有効な方法がいくらでもあろうに。
深宇宙から地球までやってこられる科学力があって、仲間が何処にいるか探せなかったり、ホームセンターで買った部品で通信機を組み立てようとしてみたり、よく分からぬ妙な事をしている。
ホントに人類絶滅させる気があるのか、と桜井は憤慨すべきだった、、、。
コメディタッチの音楽の入り方といい、意図的に作られている(演出されている)ズレ感覚でもあるが。

BEFORE WE VANISH002

宇宙人が概念収集しているときも言葉をすらすら使って質問していたが、あれらのセンテンス~文脈にもかなりの前提となる概念があったはずだが、、、。
どうなんだろう。天野など感覚的にほとんど日本人のジャニーズ系男子ではないか。
会話にコモンセンスがしっかりある為、ちぐはぐな印象は拭えない。魅力的なキャラには違いないが。
そして通信してからそれに応じて、空から火の玉みたいなのが落ちてきて爆撃みたいになったが、そんなものでは人類はまず滅びない。何なんだこのレトロな攻撃。
われわれは先祖の頃から火山の噴火の危機を何度も潜り抜けてきている(ちょっと古すぎるか)。近くでは空襲である。
それこそ、ハード面には危害を加えずウイルスなどを対流に乗せて感染させた方がずっと確実で効率的だろう。
結局、侵略を諦めたみたいだったが、この変な趣味の宇宙人には最初から無理だったと思う。
(人工衛星の機能もまともに調べていなかったし)。

また、地球を救うこととなった鳴海の「愛」の概念であるが、日本における「愛」は実質明治に文学(翻訳)等を通して入って来た、まだしっくりこないあやふやな概念でもある。(「愛」の文字は仏教伝来とともに、しかし意味は現在のものとは確か異なる)。
その他者を慈しみ大事に思う心は、日本ではどちらかというと情とか、、、切なさとか、、、可哀そうとか、、、
愛するというのも分かるが、恋愛の方がまだしっくりくるか、、、。
教会で牧師が愛を語って聞かせる場面があるが、まさに「愛」の概念はそちらのもの、、、西洋の「博愛」とか「神の愛」であろう。
すると鳴海の真治≒エイリアンへの愛はちょっと位相が異なる。

BEFORE WE VANISH004

「愛情」と謂えばしっくりするか、、、これはしかし対幻想におけるもので、パワーはあるにせよ、そうした構成をもたない宇宙人には、~ぼくたちには家族というものはなく仲間しかいないと述べていた~そもそも概念として理解・定着するのか。
しかし鳴海の「愛」で、彼らは侵略を取りやめて退散したという。ホントか?
俄かに信じられないことだが、、、あっても良いとは思う。
何とも言えない(概念を突き破る)力を受け取り尻込みしたのだ、と謂われればそれはそれで納得しよう。

ただ、宇宙人の完全な異質性~他者性を感じたのが、死に対する忌諱の念のないところだ。
(「死」の概念をわれわれに問われても何も気の利いた答えはまず返ってこないはずだが)。
われわれのどの文明においても、「死」を畏怖し忌諱もし、例外なく葬儀の儀式を執り行ってきた歴史がある。
天野たちにとって「生・死」とは何なのか、こちらから質問したいものである。ここがある意味、唯一宇宙人ぽいところであった。
それと合わせて基本的に身を守るというような危険認識がない。定着対象という身体性からくる認識により、単なる乗り換えという意識が強いのか。だが、それほど生に執着する様子もなく、乗り代えせずにあっさりあきらは死んでもいる。天野にしても。
地球人だからといって、あきらの何の躊躇いもない銃殺振りは生命に対する概念~認識の差か。
(勿論、松田龍平については全面的に宇宙人ぽかった。流石である)。

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この映画、概念と謂うより固定観念によってがんじがらめとなった人が出て来る。
何故か宇宙人に指を額に当てられ、概念を貰われるとその当人の概念が抜け落ちてしまうということだが(つまりコピーではなく、切り取りなのだが)、固定観念に縛られた人が解放されて身が軽くなる場面が幾つもある。
引き籠っていた丸尾や学歴のインフェリオリティコンプレックスに悩む車田刑事や鳴海の取引先の偏狭な仕事意識を持つ鈴木社長など、、、。しかし、それぞれが「所有」、「自己と他者」、「仕事」の概念であろうか、、、それに纏わる様々な屈折した観念や意識との絡みがあっての事だろう。それに丸尾の引き籠りから解放されたのが「所有」の概念を外したからというのは、どうにもしっくりこない。彼が言うように「僕に一体何をしたんですか?」である。実際、真治も分かっていない様子だ(松田龍平だからそう想えたか?)
ともかく、解放されること自体はとても良いことだ。皆爽やかな表情をしている。社長だけは退行症状が出て危ないレベルまで行ってしまったが、、、。
ダダの芸術家たちのように観念をシャツみたいに取り替えられるようになれば、いうことない。
恐らくは精神の病気にはなるまい。


「散歩する侵略者」という題に惹き付けられて観てみた。
松田龍平がもさっと散歩して叢でひっくり返っていて長澤まさみが探しに行くと、「転んだみたいだ」てなことを言ってぼ~っとしている。散歩途中、犬に噛まれて、「犬には話しかけない方がいいらしい、、、」等々。
散歩は昨日観たジャコメッティみたいによくしている。ジャコメッティと同じくらい変わっている。
それを際立たせる長澤まさみの極めてノーマルで賢く凛とした佇まいが地球人代表みたいで素敵であった。
終始こんな調子の、このふたりで物語を充分魅せてしまう。
そこに長谷川博己と若手ふたり高杉真宙と恒松祐里がしっかり固める。
長谷川が街の人々に向かって地球の危機を叫ぶところなど最もこの映画らしいシーンに思えた。
人々はスマホのカメラを向けるくらいの反応で、天野にはもう気が済んだ?とか言われ一緒に通信機設置の作業をしたりしている。長谷川が完全に天野の側に自らの意志で立っている。天野も彼に友情を感じているような雰囲気であった。
(結局、長谷川は天野になって晴れやかな表情で最後の仕事を成し終える。その後の爆撃機と機関銃のやり合いはご愛敬だ)。
安定した、時にはコミカルな演技で最後まで飽きさせずに持って行ってしまう。
ここは流石だ。
キャストの緊張感を持続させる演技の上手さで成立している部分は大きい。
見所の多い面白い映画になっていることは確かだ。


わたしとは何か、、、。
いずれにせよ、外からの目は大変有効で必要なものだ。
しかしこういう宇宙人では、ちょっと困る。



ジャコメッティ 最後の肖像

Final Portrait001

Final Portrait
2017年


スタンリー・トゥッチ監督・脚本
ジェームズ・ロード『ジャコメッティの肖像』原作
エヴァン・ルーリー音楽

ジェフリー・ラッシュ 、、、アルベルト・ジャコメッティ
アーミー・ハマー 、、、ジェームズ・ロード(美術評論家、作家)
クレマンス・ポエジー 、、、キャロライン(ジャコメッティの情婦)
トニー・シャルーブ 、、、ディエゴ・ジャコメッティ(弟)
シルヴィー・テステュー 、、、アネット・アーム(ジャコメッティ夫人)


個展を取材中にジャコメッティ本人から肖像画のモデルを依頼されたジェームズ・ロードの苦行の18日間を描いた作品(爆。
数時間で終わるよと言われ、NYに仕事も控えている忙しい身であるが、モデルを引き受けてしまった。
だがこれがいつ終わるか分からぬ先の見えない仕事となるのだ。
確かに巨匠の制作過程が観られる稀有な経験でもあり、彼の代表作に自分の肖像画が並び、画題にモデル名も記される名誉でもある。それは美味しい。
とは言え何度、飛行機の予約をずらし、NYの仕事予定を変えても、一向に終了~帰国の目途は立たない。
作品の完成という希望が全く見えない、という、、、地獄を味わう噺~実話である(笑。
まあ、あの風貌を見ると、その迫力から文句も言えまい(爆。

ジェフリー・ラッシュ畏るべし。
シャイン」で天才ピアニスト、デイヴィッド・ヘルフゴットを見事に演じたかと思うと、今度はアルベルト・ジャコメッティである。
どちらにしても、とっても癖のある難しい芸術家だ。
それに憑依したようになり切っている。ホントに弾いて描いてる(全てでなくとも)。
しかも見た目までそっくりときた。
まるでドキュメンタリーフィルムか?
と思う映画であった(笑。
撮り方が実際ドキュメンタリー調で淡々と進む。

少し描き進むと「くそっ」と全身で叫んで、それまで精緻に描き進めた絵をグレーの絵の具を使い大き目の平筆で消してしまう。
描く際はかなり細かい作業なので小さめの丸筆である。ナイフとかは使わない薄塗の方である。
如何にも彫刻家の油彩画だ。彫刻のためのエスキースのようにも見える。
大き目のカンバスにやはり小さくピタリと入っている。人物はそのサイズでないとならないのだ。
ただ彫刻のようなほそがれた体形ではない。
そのフィギュア~フォーマット自体に葛藤はないようだ。
顔が決まらないとしきりに拘っている。

何度も何度も顔を描き直す。表情のない造形を。その特異な立体を。
消す前にロードが確認してみると凄くよく出来ている。
しかしやり直すと言って消してしまうのだ。頭を抱えるしかない。
何度もそういった目に遭っているとパタンがはっきり見えて来る。
(お前の拳はもう見切った、という具合に)。
ロードはいよいよNYに帰らなくてはならず、隣に住んでいるアルベルトの弟と結託して策を練る。

Final Portrait002

単に絵の制作が遅々として進まないというのではなく、直ぐに気にくわないと言って消してしまうのだ。
更に情婦のキャロラインが遊びに来てそちらが主体となってしまったり、彼女の絵を描き始めてしまうなど好き勝手し放題なのだ。
(とても奔放な生活ぶりが窺え、妻のアネットは以前モデルもやっている哲学者である矢内原伊作と勝手に愛し合っている雰囲気で、アルベルト公認みたいであった)。
金にも無頓着で、キャロラインに車が欲しいと言われれば、ポンと高級スポーツカーを買って与える(さすがに助手席には乗りたがらなかったが)。
奥さんがコートが欲しいと強請れば、煩い持ってけとばかりに札束を部屋中にぶり撒いてしまう。
絵は高額で売れる為、金はかなり入って来たようだが、太っ腹で金払いはよく、管理はしていない様子であった。
自分の生活自体、部屋も服も食事もかなり質素なものである。
アトリエに住んでいてそこにはキッチンもない。例の彫像群が所狭しに並んでいる中での生活である。

変わっていると言えば、ロードの顔を近くでしげしげと眺め、指名手配の殺人犯のような顔だな、と言ったかと思うと横から眺めてこれでは精神病患者だ、と抜け抜けと言う。ロードは人間が出来ており光栄ですと言ってかわすが、鬱陶しいジョークである。
噺をしながら絵を描いているのだが、その最中に少しでも動くととても煩い。
「何で動いた」と怒る。そして直ぐに散歩に誘う。
絵は完成しないものだ、と平気で不安を煽って、今日は終わり、また明日とくる。
約束した期日が来ると「パリでの滞在期間をまた延長してくれ」と悪びれずに頼む。悪意もなく憎めない。
ロードもストレスが溜まり、水泳に毎日通い始める。
相手が天才芸術家であるからどうにか付き合えるところだ。

Final Portrait003

いよいよ18日目に作戦決行である。
ジャコメッティがいつものように描き進め、また何やら文句をつけて大き目の平筆に持ち替えた時に、ロードは腰が凝ったと言ってふいに立ち上がる。そこで絵を確認し、弟にサインを送る。
弟がやって来て、これはとても良い絵だとふたりでジャコメッティに語り掛ける。
「可能性が見えてきた」「デッサンも良いし背景もしっかりしている」「最高だ」
「この絵から何かが生まれ出ると?」「ああ、そうだ!」
「では、ぼくは帰らないと、、、」意外と単純に嵌ってしまう(笑。
絵は本質的に完成はないものだろう。
周りの誰かが頃合いの良いところで、取り上げないと作品は誕生しないのだ。
特にジャコメッティのような正直な頑固者の場合。

結局、アメリカで催されるジャコメッティ個展にその絵が最後の肖像画として、送られることになった。
手紙に「また、最初から描きたいから戻って来てくれ」とあったそうだが、実現を待たずに彼は他界してしまう。


ジェフリー・ラッシュだと、やはり映画の格が上がる。
ジャコメッティその人を堪能した気分になれる。
(優れた俳優だとそれが可能だ。ピーター・オトゥール、ゲイリー・オールドマン、、、)。
しかし、彼の他にもうひとりジャコメッティを演じられる役者がいる!
デヴィッド・リンチ、、、そっくりだし彼は画家でもある。
(実は初っ端でジャコメッティを見た時、デヴィッド・リンチがやってると思った(爆)。

Final Portrait004







リバーズ・エッジ

Rivers Edge 001

2018年
行定勲 監督
瀬戸山美咲 脚本
岡崎京子『リバース・エッジ』原作


二階堂ふみ、、、若草ハルナ
吉沢亮、、、山田一郎 (同性愛者のいじめられっこ)
上杉柊平、、、観音崎 (若草の粗暴な彼氏)
SUMIRE、、、、吉川こずえ(若草に好意を寄せる後輩、人気モデル)
土居志央梨、、、ルミ (若草の友達、性依存)
森川葵、、、田島カンナ (一郎に一方的に思いを寄せる)


岡崎京子の原作ものということで観た。
書庫を調べてみたがこの本はもっていなかった。
岡崎京子の漫画をみていたのは、もう随分前になる。
あまりこの作家の本がない事を知った。


直ぐに際どい「ヴァルネラビリティ」(通常、暴力誘発性)による展開であるのだが、それはなんというか「強靭な脆弱性」とでも呼びたいところなのだ。ネガティブな意味ではなく、拡張して捉えたい。自らを曝け出す力とか。、、、それだ。
実際、いくら標的にされボコボコに虐められても一郎君は異様に強い。
若草さんに服を持って来てもらえれば(何故か彼はボコボコにされた後、身包みも剥がされる)それを着て普通に再起動だ。
確信をもってべつの道~独自の世界を歩んでおり、ブレずに飄々と生きている。
顔中に絆創膏を貼り、体は痣だらけでも。
若草さんにぼくは同性愛者だと淡々とカミングアウトして夜道を肩を並べて歩いてゆく。
どちらかと言えば、カッコ良いのだ。そして更なる秘密を打ち明ける!
ここからが、ツインピークス的な過激な名状しがたい世界への突入となる(爆。

場所としては河辺の草叢。そして夜の橋。
ここが境界であり、ゾーンでもあるか。
秘密の監視~パトロール場所でもある。

Rivers Edge 002

天敵とも謂えるのがいつも暴力を振るってくる若草さんの彼氏の観音崎であるが、こっちの方がずっと弱虫で虚勢を張っているだけのチョッとサイコな奴である。そして標的になっている一郎君は密かに女子に人気がある。ミステリアスだし(笑。そういうものだ。
そして一郎君をはじめ、みんな「ヴァルネラビリティ」に溢れていることに気づく。
そうなんだ。生きているということは、ある意味「ヴァルネラビリティ」の度合い~ブレ具合にもかかってくる。
ガードを上げっぱなしでは、何も出来ない。
しかし下げてゆくにつれ次々に異様な事件が勃発して行く(爆。
確かにリスクを取ることになろう。
だが闘う為でもある。

Rivers Edge 005

一郎君は若草さんに、河辺の草叢のなかに横たわる秘密の骸骨~お宝の存在を教える。
このお宝を知る者は他には後輩の美女モデル吉川こずえだけである。
普通の人に教えたのは若草さんだけだよ、ということから、こずえは普通じゃないらしい。
若草さんもしょっちゅう授業をさぼり、煙草をふかしているが、こずえはレギュラー番組が増えすぎて学校も続けられそうもなく、そのストレスで摂食障害になり食べたものをいつも吐いている。
彼女は一郎君の彼氏(片思いの相手)も知っており、若草先輩に好意を抱いている(一郎の逆パタン)。
多分に一郎君の鏡像的な人かも知れずその意味で普通ではないのだ。

この骸骨を見て若草は絶句する。ただ見るだけ。骸骨の秘密を三人は共有する。
それによる連帯とそれが微妙に引き起こす陰惨な事件。
実際にあっても良いがなかなかありそうにもない事態が始まる。

Rivers Edge 003

後輩の田島カンナが一方的に一郎に思いを寄せる。彼も来るものは拒まない主義か。
デートも何度もしているが、一向に距離は縮まらない。それは当然なのだがカンナには、理由が分からない。
そして一郎と若草が校庭で相談しているのを目撃し、ふたりの仲を疑う。
電話などでストーカーをした挙句、若草のアパートに放火し自分にも火が引火し焼死してしまう。
その現場を確認した一郎の顔には笑みが広がる。彼女からの解放を喜ぶものであったか。
「僕は最近、田島さんの気配を感じるけど、気にならない。むしろ死んだ田島さんを好きになった。生きているうちにもこんなに好きになれれば良かったけど」この感覚よく判る。とても。
「あなたは死んだ人しか好きになれないの?」「いや、僕は生きている若草さんが好きだよ。」(性的対象ではない。ほんとの親友だ。これはきっと)。

若草の親友?ルミは、性依存症である。サラリーマンから同じ学校の生徒からよりによって若草の彼氏の観音崎とも多くの関係を持つ。生きる実感が持てるのはその時だけだという。
観音崎もルミと同程度の性依存である。また麻薬もやっている。この二人が似たり寄ったりの鏡像関係(対象関係)と謂えるか。
おまけにルミは妊娠してしまう。それを降ろすことを巡り金銭問題のもつれから例の草叢で観音崎に首を絞められ失神する。
彼女が死んだと早合点した観音崎は一郎に泣きつき、若草とこずえも穴掘り要員として呼び、4人で死体を埋めることになるが、肝心のルミが息を吹き返し、よろけながらなんとか帰宅してしまう。だが、ちょうど部屋で彼女の日記を盗み見ている太った姉に遭遇する。日頃から犬猿の仲であった二人は罵り合い大喧嘩となり、勢いで姉はルミの身体を何度もナイフで切りつけてしまう。
病院に運ばれ命は助かるものの赤ちゃんは流れてしまう。
あっけらかんとしたルミの様子を見た若草たちは病室には入らず帰る。

若草は近所に気まずくなりアパートを引っ越すことになる。
観音崎は前日に荷造りの手伝いをしに来てサヨナラの挨拶をして帰って行く。もうお互いに会うことはないことを知っている。
その後、一郎がウイリアム・ギブソンの詩の載っているレコード?をプレゼントしにやって来る。
二人で暫く散歩し、UFOを呼び出そうと念じた後、、、
サイバーパンクSFの旗手ウイリアム・ギブソン(おお、ニューロマンサー)の詩を最後に朗読するのだが、二人で読むものだからよく聴き取れなかった、、、が以下の辺は掴めた。というか、これは!と思ったところから詩が捉えられた。

・・・・・・・・
僕らは現場担当者になった 
格子を解読しようとした
相転移して新たな配置になるために
深い亀裂をパトロールするために
流れをマップするために

落ち葉を見るがいい 
涸れた噴水をめぐること
平坦な戦場で 僕らが生き延びること
・・・・・・・・・

”平坦な戦場で 僕らが生き延びること”、、、コンテンポラリーなポップアートのテーマにも重なる。
(村上隆の提唱した「スーパーフラット」は特に有名である)。
この深みと階層性のないフラットフィールドの空虚な消費社会において、「わたしは生きたい」(若草ハルナ )という本来の欲求を果たすには、一郎君の「ヴァルネラビリティ」全開の、繊細で真摯な姿勢こそが有効だと思う。
時折、痛いには痛いが。
相転換はいつも突然やって来る。

Rivers Edge 004



原作のセンスがきっと映画にも反映しているのだと想う。
あの絵を主人公たちはかなり体現していたと思うし、上手く映画の形式に落とし込めているところが多いのではないか。
吉川こずえなどまさに、である。非常に魅力的な存在となっている。
このSUMIREという人、浅野忠信とCHARAの間の娘ではないか、、、やはり違うね。
それぞれ嗜癖のはっきりした登場人物でメリハリがあった。
二階堂ふみの繊細で素直な体当たり演技は新鮮で瑞々しかった。


原作を是非読みたいが、恐らくもう少しトワイライトゾーンがしっかり描かれていたのでは。




怒り

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2016年
李相日 監督・脚本

吉田修一 原作
坂本龍一 音楽

渡辺謙、、、槙 洋平
宮崎あおい、、、槙 愛子
松山ケンイチ、、、田代 哲也
池脇千鶴、、、明日香

妻夫木聡、、、藤田 優馬 (大手広告代理店勤務、同性愛者)
綾野剛、、、大西 直人 (住所不定、同性愛者)
原日出子、、、藤田 貴子 (優馬 の母、ターミナルケアをうけている)
高畑充希、、、薫 (施設出身者、直人と兄妹同然の間)

森山未來、、、田中 信吾 (無人島でサバイバル生活)
広瀬すず、、、小宮山 泉 (母の都合で離島に来た女子高生)
佐久本宝、、、知念 辰哉 (泉に好意を寄せる同級生)

ピエール瀧、、、南條 邦久 (刑事)
三浦貴大、、、北見 壮介 (刑事)


これまでにわたしが観た映画のベスト1である。
これほど入り込んで共感できる映画は滅多にない。
妻夫木聡と一緒に最後は号泣した。

こういう映画を観て、何をかいちいち語る気にはなれない。
「フラガール」を観て只者ではないと感じたが、こんな途轍もないものを作る監督であったのだ。
この作品に触れると、これまでに観てかなり良いと思ってきたものが悉く単に気取ったものに過ぎないと思えてくる。

脱力感で何も手に付かない。

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ここで謂われている伝わらなさ、信じることの困難さ、、、
ディスコミュニケーションなどという類ではない。
前歴不詳、指名手配犯に人相がどことなく似ている、内向的、無口、、、
見た目からくる先入観と疑念に駆られだす。
信じ切ることの出来なかった者の慟哭。
そして裏切り、裏切りと信じた者の絶望。


凶悪殺人犯「山神一也」という記号に翻弄される人々。
TVを観て全国から様々な情報が舞うなか、、、
千葉の田代 哲也、東京の大西 直人、沖縄の田中 信吾が周囲から疑いの目を向けられる。
誰だってその目で見ればその顔に似て来る。そういうものだ。
疑い出すことで信じることの危うさが浮き彫りになって行く。
心を寄せ合い安心したりふと疑いの念が過ったりする心情、心理がとても丁寧に拾われていた。

寄る辺ない身である者ほど何かがあると追い詰められる。
アルバイト、離島の廃墟暮らし、住所不定、、、
3人がその意味で似ている。そして同じような感覚~感性の基調を窺わせる。
結局何も変えられるわけではない、説明が虚しい、どうにもならないことがある、誰も助けてはくれない、、、
マイノリティーと特に意識していなくともこの感覚は、根底に隠し持っている者は少なくないと思う。
ゲイ、不治の病、暴力的な衝動性、借金取り(暴力団)からの逃亡、、、の身では、その抱えもつ心情も深く何処に向けたらよいか分からぬ「怒り」も大きいことが分かる。
いや彼らだけでなく東京での愛子のことは狭い世間筒抜けであり、その視線に耐える父もやり場のない「怒り」を抱え、泉の受けた暴力に対して何も出来ない無力に対する辰哉の「怒り」も、、、勿論、泉自身の「怒り」がどれだけのものか。
しかし変えようがないのだ。諦めることは出来なくても、変えることも伝えることも出来ない。その動きが更なる痛手と怒りを呼び込むことも予期される。
が、そのなかで際立って田中 信吾が反社会的で衝動的な暴力性に突き動かされていた。
(明らかに内省的なものがなく、反射的に激高する)。

緊張が次第に高まって行くが、犯人に辿り着くところに向けて高まるのではない。
この際、誰が犯人かなど、どうでもよい。


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藤田 優馬は大西 直人と親密な仲になって、日々の華やかに見えて虚しい生活に何か和みと充足感が生まれて来る。
直人も同様に彼と逢ったことで自己肯定感を初めて得られたことを幼馴染の薫に打ち明ける。

槙 愛子は家出して歌舞伎町でボロボロになっていたところを父に連れ戻され、いつも一人でいるアルバイトの田代 哲也と愛し合うようになる。これまでにないようなふたりの幸せなアパート生活が始まった。

辰哉は好意を持つ泉が米兵から暴力を受け、父の基地運動に向けていた冷ややかな立ち位置ではいられなくなる。
しかしどうにもならないことを打ち明けると信吾に「お前の味方になる」と言われ励まされる。

救われたかのような光景が、メディア情報の浸食により打ち壊されてゆく。
信じる心に疑念が差し挟まれて次第に膨張する。
直人が若い女性~薫とカフェで話しているところを見た優馬は自分への裏切りも感じて犯人の疑いを深める。
視覚情報は何かと短絡的で暴力的である。
同居していたマンションを出た後、直人は持病の心臓病が悪化し公園で倒れ死亡が確認された。

優馬の渋谷の街を歩きながら嗚咽する姿にこちらも耐えられなくなる。
一緒の墓に入れたらとまで語り合った相手である。

愛子は周囲からの声もあり写真から疑念を募らせ自ら警察に知らせてしまう。
指紋照合で別人と分かるが哲也は姿を消してしまう。
この信じられなかった絶望の重み。

お前の味方になると言われ信じ切っていたのに、泉の悲劇を愉しんでいた(辰哉にはそう映った)信吾への怒り。
辰哉は信吾を衝動的に刺し殺す。犯人が少年に刺殺されたとすぐ報じられるが、信じていたのに裏切られた為に殺されたのである。
この信吾こそが優しく気遣ってくれた主婦とその夫を惨殺した凶悪犯であった。
派遣ということで虐げられていたところに蔑まれたと受け取った衝動犯罪であり、彼が事件現場で書いた「怒り」の文字は他の登場人物の深くどうにもならない内省的な怒りとは全く異質のSNSによく見る扇情的で発散目的のような書き込みに似たものを感じる。
要するにスタイルに過ぎない。辰哉に放った気の利いたセリフも泉を愉しませた話術もみんな。
しかしこういう類の「怒り」もメディアなどで人を動かす状況は少なくない。

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ここで唯一の救いは東京駅から哲也が電話をしてきたことである。
この未練が愛子と父を救った。こんな余計な行為がもしかしたら有効性を持ちうるのかも知れない。
「お前は何も悪くない。これまで独りでよく戦ってきた。親の作った借金やヤクザの取り立てなどもう心配するな。おれが出来る限り面倒見る。頼むから帰って来てくれ」ここまで言ってくれる彼女の父(義理の父でもない)がいるだろうかとも思うがわたしも率直に嬉しい。
愛子が直ぐに迎えに行くが、一緒に電車の座席にいることでホッとした。
これもリアルである。
実にリアルであった。

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最後の海辺での泉の波音にもかき消されない絶叫が彼女のこころの全てを語っている。



ちょっと、今の時点で感想にするのはキツイ。
少し経ってからもう一度、書くかも知れない。


凄まじい衝撃でまだほとんど消化できない。
キャストの演技が半端ではなかった。
いや全てが。
音楽がピッタリと合っていた。
わたしの感じ、言いたいことにも同期するところが多かった。




フラガール

HULA GIRLS002

2006年

李相日 監督・脚本


松雪泰子 、、、平山まどか(常磐音楽舞踊学院最高顧問)
蒼井優 、、、谷川紀美子(常磐音楽舞踊学院1期生)
豊川悦司 、、、谷川洋二朗(紀美子の兄)
富司純子 、、、谷川千代(紀美子の母)
岸部一徳 、、、吉本紀夫(常磐炭礦元社長、常磐ハワイアンセンター創業者)
山崎静代 、、、熊野小百合(常磐音楽舞踊学院1期生)
徳永えり 、、、木村早苗(紀美子の親友)
三宅弘城 、、、猪狩光夫(洋二朗の親友、ハワイアンセンター転職)
高橋克実 、、、木村清二(早苗の父)

スパリゾートハワイアンズの誕生秘話でもある。

福島県いわき市の常磐炭鉱は昭和40年、大幅な縮小を余儀なくされた。
リストラされた人たちの受け皿でもあり町おこしとしても、湧き上がる温泉を利用したリゾートセンター事業が立ち上げられる。

しっかりと作られた文句なしの傑作。脚本、演出、キャストみな素晴らしい。
全て良かったが、蒼井優の何でもできる器には改めて唸る(笑。
岩井俊二監督の映画でバレエは踊っている為、踊りの素養は充分ある人だとは思っていたがここまでやるか。
他の女優さんもみな自分で踊っていた。
顧問の松雪泰子もしっかり踊って見せた上で技術を伝授している。
これはレベルが高い。
ふんだんに彼女らの踊りや練習過程での変化も分かり、どんどん良くなる踊りと結束するチームワークも実感できる。
炭鉱の街の保守的な共同体とは別のとても躍動感のあるフレッシュなまとまりが出来る。
この対比がダイナミックでアグレッシブで面白い。

HULA GIRLS005

ヒロインの母、谷川千代が娘のダンス練習の光景に感動しダンサー~娘たちを認めるところから急展開してゆく。
(このシーンは千代目線であろう紀美子のスローモーション交えたドラマチックな踊りが特に素晴らしかった)。
炭鉱から早々ハワイアンセンターに転職しヤシの木を植えている男たちがストーブの貸し出しを願い出る。
当然の如く、炭鉱夫たちはふざけるなとばかりにそれを拒否する。
だが、紀美子のダンスを観た千代は独りでストーブをリヤカーで集めて歩く。
それに驚く炭鉱夫たちであるが、彼女の謂うことばが説得力を持つ。
(千代は婦人会の会長でもあり、亡くなった夫も人望の高い人であった為、元々影響力は大きい)。
「うちのとうちゃんはお国の為だと言って石炭掘って山の中で死んだ。今まで仕事というのは暗い穴の中で歯を食いしばって死ぬか生きるかでやるものだと思っていた。だけど、あんな風に踊って人様に喜んでもらう仕事があってもよいのではないか。あの子らなら、笑顔で働ける新しい時代が作れるかも知れない。こんな木枯らしぐらいであの子らの夢を潰したくない。」
この富司純子の凛として毅然とした姿勢が物語を引き締めていた。

踊り~表現の力は素晴らしい。
ダンスに対する誤解~人前でへそ出して踊る不埒者~的な意識は彼女らの技術の向上に連れて薄まる。
個人の力が上がるに従い、余裕も生まれてチームメイトを励ましたりカヴァーしたり出来るようになり信頼感と結束が強まる。
踊りが盛り上がって行く後半からは、自然に感動してしまう物語であった。

HULA GIRLS001


紀美子を踊りに誘った、誰よりもダンスをしたかった親友の早苗が途中で父の無理解もあり断念して雪深い地に引っ越してゆく。
小百合の父が炭坑内の落盤事故に遭った時、公演で親の死に目に会えない結果となった。しかしこれは帰ろうと謂う先生まどかに対し小百合自身が望んで踊ることを選んだ結果であった。しかしまどかは自分の指示によるものだと街の大人の前で責任を取る。
ここで何より、紀美子たちだけでなく、まどか自身の変化~成長もしっかりと窺えるのだ。Wヒロインと言っても良い構図になっている。
呑んだくれで文句ばかり言っていた当初から見るとまさしく吉本紀夫の言うように「いい女になったねえ~」であろう。
彼女が東京に戻る夜行列車に乗った時に紀美子をはじめ生徒たちがホームへと結集する。
そこで先生に向けて彼女らがフラの意味ある手話でメッセージを送るのだ。
これはまどかだけでなくこちらにもダイレクトにくる。
(そう来るか、これはやられたと思った)。

演出の素晴らしさがそこかしこで光る。やはり映画は演出だな、と思うところだ。
そしてキャストが誰も色濃く活き活きしていた。
洋二朗も当初から温泉リゾート事業を半ば認めていた節もあり、ダンスも早い時期に励ます側についており、それが新事業~妹の為なのか、まどか目当てなのかとても微妙な線を行っているところが面白い。
光夫が初めは真っ黒な石炭顔をしていたのに、途中から小奇麗な顔と服装に変わり、ヤシの木を大事に運んでいるのも充分に可笑しいシーンであった。
岸部一徳は富司純子と共にこの映画を支える柔軟で優しく味わい深いキャラクターを好演していた。

舞踏、音楽、絵画など表現の本来の力を確認させてくれる映画にもなっている。
それは取り分け蒼井優によるところが大きい。

HULA GIRLS003

比較的新しい日本映画では、わたしの最も好きな映画となった。








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父親たちの星条旗

Flags of Our Fathers002

Flags of Our Fathers
2006年
アメリカ

クリント・イーストウッド監督・製作
ウィリアム・ブロイレス・Jr・ポール・ハギス脚本
ジェームズ・ブラッドリー・ロン・パワーズ『硫黄島の星条旗』原作

ライアン・フィリップ 、、、ジョン・“ドク”・ブラッドリー(衛生兵)
ジェシー・ブラッドフォード 、、、レイニー・ギャグノン(伝令)
アダム・ビーチ 、、、アイラ・ヘイズ(先住民出身海兵隊員)
ジェイミー・ベル 、、、ラルフ・“イギー”・イグナトウスキー
バリー・ペッパー 、、、マイク・ストランク
ポール・ウォーカー 、、、ハンク・ハンセン
ジョン・ベンジャミン・ヒッキー キース・、、、ビーチ


この映画は、地獄の戦場と帰国し英雄としてセレモニーをしてまわるふたつの場の対比が描かれる。
硫黄島の摺鉢山頂上に星条旗を掲げた6人の兵士(特に戦死しなかった3人)のその後を追ってゆく。
アメリカも資金難で青息吐息であった。
そこに国民の戦意を高揚する格好のメディア~写真が現れる。「硫黄島の星条旗」はセンセーショナルであった。
プロパガンダの為に戦場を離れ帰国させられた3人は写真で英雄となった知名度に乗って戦時国債キャンペーンをして回ることになる。
政府(財務省)の金集めの為に欺瞞に充ちた意に添わぬパフォーマンスを強いられる。
マスコミは殺到し様々な人々から声を掛けられ、次々に社長やら実業家から名刺を渡される。
誰からも英雄扱いである。
(写真とそれにつき纏う意味の力は実に大きい)。

Flags of Our Fathers001

その波に乗り生きて帰れてラッキーだぜという風情なのは現場では伝令をやっていたレイニーくらいであった。
彼は嬉々としてマイクの前で国債を買ってもらう必要性を説く。ヒーローは戦地で命を落とした者だ。彼らの為にご協力お願いしますと、、、。拍手喝采である。
彼はすぐに恋人ができ結婚をする。

ドクとアイラはこの巡業生活には馴染めない。所属も財務省になってしまった。
妙なハリボテ山にわざとらしく登りそこに国旗を掲揚して民衆に挨拶する、そんなセレモニーがいつまでも続く。

ドクとアイラのように戦場で命がけで闘った者にとって、政治家やマスコミ、実業家から一般大衆のヒーロー~偶像扱いが耐えられない。
アイラの言うように、ヒーローは国の都合で作られるものであり、戦争などの殺戮行為を正当化する為のものだ。わたしは国を守る為に戦場に行ったが、そこではただ友の為に闘っただけだ。
実際彼は一兵卒で闘い抜いた男であった。
特にアイラのような先住民出身者は、これが自分たちの部族に対して何らかの益になればという一縷の望みも抱いていたが、全くそのような事態には至らなかった。逆に自分の部族からも距離が生じ彼は何処にも居場所がなくなって行く。
彼はアルコールに依存しセレモニーにしっかり参加できなくなり、上層部から怒りを買い戦地に戻される。
しかしそれは彼が切に願っていたことであった(最初彼は国旗掲揚メンバーであったことを秘密にしてこの騒ぎから逃れようとしていたがレイニーが彼の名を出してしまい参加を強いられたのだった)。

二次大戦で最も過酷な戦地と言われた硫黄島であっても、ある意味純化された人間性は生きていた。
いやここでこそ、である。
アイラだけでなく、これは負傷兵の為に我が身を顧みず闘ったドクにも謂えることである。
高齢のドクのいよいよ旅立とうというベッドで回想された光景は何とも美しく幸せな友との海水浴でのことであった。
摺鉢山国旗を掲揚後、暫く水辺で遊ぶことを許されたひと時であったが、そこに全てが反映していたかも知れない。
戦地がただの忌わしい地獄ではないのだ。
あの利用された写真は家庭にあっても見向きもせず話もしなかったというが、最期に息子に友と泳いだ光景は語る。
極限状態にあってこそ知ることのできる純粋な繋がり~高揚。
死の縁に在って、誤魔化しのない命のやりとりのなかでだけ実感できる生が、友情が初めて味わえた場であったか。
、、、つい坂口安吾を想ってしまう。

アイラは除隊して帰国後も例の写真のヒーローであることから逃れられず逃げ回りながらもアルコール漬けとなり、ついにある朝路上で死体で発見される。30歳であった。アルコールの過剰摂取であるという。
真面目で純粋で繊細な精神にとって、戦時における苛烈な戦場と戦果を貪る国内とでどちらが生きられる時間がたもてるのか。
皮肉なものだが、すぐに自分の立場に順応したレイニーは、盛んに持て囃された時のコネクションを利用して職を探したが、戦後となると誰も過去のヒーローである彼を拾ってくれる者はなかったようだ。

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昨日の「硫黄島からの手紙」と合わせて観て、結局戦争とは、国家に翻弄されて命を落とすことであろう。
例え生きながらえても浸食され続ける。
国家権力が日常の地平に異様にせり出して来たらおしまいである。
(平和とは国という概念を忘れていても生きていける状態である)。




硫黄島からの手紙

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Letters from Iwo Jima
2006年
アメリカ

クリント・イーストウッド監督・製作
アイリス・ヤマシタ脚本・原案
栗林忠道・吉田津由子(編)『「玉砕総指揮官」の絵手紙』原作

渡辺謙 、、、栗林忠道中将
二宮和也 、、、西郷
伊原剛志 、、、バロン西(西竹一中佐)
加瀬亮 、、、清水
松崎悠希 、、、野崎
中村獅童 、、、伊藤中尉
nae 、、、花子(西郷の妻)

太陽」、本作、と見たので次は「父親たちの星条旗」を観よう。
「フラガール」はちょっと先になる(笑。


色調を抑え、ほとんどモノトーンに近い壮絶な映像の映画であった。
内容的には多くの戦争映画に見られる、戦闘シーンのスポーツのような爽快な娯楽性が全くない。
際立った武勲をたてるヒーローなどを一切置かない点がこの映画の肝だと思う。
実際は、栗林忠道中将や西竹一中佐は米軍を大いに手古摺らせ陥落を大きく遅らせたそうだが、そのような策略・戦闘部分については意図的に省略されている。
つまりそれは戦争の面白さに繋がりそちらに興味が惹かれるからであろう。
この映画は疲弊を極める極限的な戦地に送り込まれ、物量において圧倒的優位を誇る敵を前に強いられる内省による心の変化や新たに得る認識や信念など、いや解放が描かれてゆく。
(ヒトが圧倒的な暴力の下でどのような選択が可能か、、、これが極めて残酷に明瞭に騙られる)。


あの最後のシーンで、西郷が担架で降ろされた場所から硫黄島の海辺をうち眺め、ふと漏らす笑みは何であったのか?
玉砕の地において九死に一生を得た安堵のこころからであろうか。
妻とまだお腹にいた我が子に約束した「必ず生きて帰って来る」ことが本当に叶う実感が沸いたからであろうか。
あの笑みは、単に海辺の美しさに対して思わず漏れたものだと想う。
赤ん坊の笑いのような反射的なものに寧ろ近い、、、。

尊敬する栗林忠道中将の自害した遺体を誰にも見つからないようにスコップで埋めたばかりのことである。
頭は真っ白であろう、、、。
わたしが彼であれば、何をか考え思い巡らすなんていう芸当が出来るとはとうてい思えない。
彼を中心にして描いたことは正解であろう。
栗林中将を中心に描くと戦争偉人伝にもなりかねない。

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わたしは珍しく戦争映画の登場人物に自然に感情移入が出来た。
西郷のごく普通の若者らしいパーソナリティによる感情の起伏、反発や共感、絶望に哀しみ、怒りそして、、、
栗林忠道中将や西竹一中佐の人徳、包容力は今現在の社会においても貴重なリーダーのものであるに違いない。
特に死んだ捕虜の母から来た手紙を西中佐が読んで聞かせる件で、日本兵も相手が自分と同じ人間であり守るべき家族を抱えていることを実感する。彼らは敵国の兵士を鬼畜米英として教育されてきた。だが、栗林や西のような教養豊かな者にとっては、誰もが人間に相違ないことは自明である。この差はしかし戦地の幹部間においても大きな認識~価値観の差として軋轢を生じさせてゆく。(アメリカは月に何台自動車を生産しているか、、、情報から汲み取る認識の差も大きい。海岸線の防備などの固定観念に縛られる部下に対し地下壕からのゲリラ戦への切り替えの断行。硫黄島を取られると本土へのB29中継地となる危機の明瞭な分析~西の言うように出来れば島を海中に沈めたい~武士道などよりも何より本土を守るという意志。大本営は国民だけでなく最前線で闘う兵士も騙しているという認識のもと実際の戦況とリソース分析等々)。


実際、伊藤中尉らの旧来の体罰を主調にした封建的な精神主義。それは合理性や実効性に乏しく空回りして多くの兵隊を無駄な死に追いやる。しかし自分も結局絶望の淵に立ち彷徨った挙句に挫折する(敵の手に落ちる)。
この辺の心性もとても分かる。
だがわたしがもっとも共感したのは、憲兵隊から左遷されて配属された清水であった。
この真面目で繊細で内省的で葛藤しつつも前向きに生きたいという意志には素直に同感である。
勿論、彼が選択した投降は日本軍には許されないし、敵にとっても状況や担当した兵士によっては、受け容れられない。
厄介者として始末されてしまう。その遺体にすがって西郷が号泣したのはこのシーンだけであった。
(これまでの多くの仲間の死に際し無感覚になっていて、感情の迸りなど見られなかった)。

どちらにしても何かの奇跡でもなければ誰も生き残れないことが深く実感される。
当然、諦観に浸る者も出て来る。
全ての信条も揺らぎだす。
しかし「天皇陛下万歳」は最期の玉砕に際しても叫ばれる。

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栗林忠道中将のような偉大な指揮官がいても部隊は一枚岩にはならなかった上に、硫黄島は本土からは完全に見放されて孤立無援となっていた。
ほとんどの兵力は本土決戦の為回収され、兵器もまともにない状態で米軍の予想を遥かに超える時間を彼らは持ちこたえた。
持ち場~すり鉢山の陥落後、武士の本望としての自決も許されず限界を遥かに越えて闘うことを強いられた結果であるか。
想像を絶する生き地獄以外の何ものでもない。

その光景はやけに静かで淡々としていた。
ほとんどモノトーンに近い壮絶な映像であった。


この映画は多くの娯楽戦争映画とは、完全に一線を画する。
そして少なくとも、ここで散っていった兵士たちのお陰でわれわれが生きていることは確かである。
その事実を確認する意味でも、これを見る価値はあると思われる。
(日本人の監督では撮れない映画かも知れない)。




怪盗ルビイ

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1988年
和田誠 監督・脚本
ヘンリー・スレッサー『快盗ルビイ・マーチンスン』原作
小泉今日子「快盗ルビイ」主題曲

小泉今日子、、、加藤留美(ルビイ)
真田広之、、、林徹(会社員)
水野久美、、、徹の母
加藤和夫、、、徹の会社の上司

その他、豪華キャストがチョイ役で多数出演

小津・溝口・岩井映画以外の邦画では、わたしのなかでは「下妻物語」と同格の面白さであった。
キャストが持ち味を活かし自分の仕事をこなしているが、キョンキョンと真田広之の魅力全開であった。
キョンキョンのミステリアスな可憐さと真田のコメディアン的な一面が上手く噛み合っている。
ワインでも飲みながらお気楽に眺めていればよい映画である。
それにしてもふたりとも若い!


「乃木坂の高級マンション”ザナドゥ”を狙うのよ!」(笑。
最近、乃木坂に縁がある、、、(爆。
この時期のキョンキョンが乃木坂にいたらセンター候補だろうな、、、。

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徹の朝の窓の外をハンフリーボガードの渋いポスターがすうっと上がって行く、、、。
スタイリストを名乗る加藤留美がアパートの上の階に引っ越して来たのだ。
出逢い方からしてお洒落である。
まさに運命の出逢いだ。

彼女は徹に近づきわたしは怪盗ルビイと告げる。
、、、これを教えたのあなただけよ、、、
いきなり極めて怪しい。
が、相手はキョンキョンである。
取り敢えず関わってみよう、、、実に説得力ある出だしだ。

こういう非日常的な一瞬からガラッと生活は変わる。
まさに彼の場合、二重生活のはじまりだ。アメリカンヒーローものによくある(爆。

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お母さんが毎晩御馳走を作って彼の帰りを待っているのに、徹は直ぐ上の階でルビイと他愛のない悪だくみを真剣にしている。
企みは盗みである以上、犯罪であり気弱な徹は悪夢にうなされる。
そのたびにお母さんがあやしにくる。

親離れの意味からも徹はルビイと関わる価値はあった。
但しルビイと徹が普通に出逢ってデートに漕ぎつけることはまずなかったはずであり、この犯罪ごっこから入るのが順当であったろう。ルビイはどういういきさつでよりによってこんな効率の悪い怪盗を企んだのかがよく分からない。
ルビイの考える身も蓋もない案では、先にかかる準備代や経費の方がかさみ、肝心の盗み(詐欺)は失敗し常に赤字となる。
徹は(偵察で)何となく高いキャビアの缶詰など余計なものを買い込んだりもしており、やるだけ貧乏になることははっきりしている。
キャビアをご飯にかけて美味しそうだったが(笑。

徹がいやいや付き合うルビイの計画も不可抗力と善意や洒落た配慮のなかで何をやっていたのかも訳が分からなくなる。
彼の受動的でおっとりボ~っとした性格も上手く働いた。
結局とても変わった趣向を凝らしたデートと考えればそれほどの出費ではない。
もっと金のかかるデートはいくらでもある。
(思い出したくもない(爆)。

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ミュージカル的な所もある遊び心充分な楽しい流れであった。
「快盗ルビイ」ってこんなに良い曲だっけ、、、。

天本英世さんを観れたのがとても嬉しかった。



わたしも垂直的な時間性を持った生活をしたい。
アルタードステイツである。
そしてこれを書いている時、決まって何か口にしている。
太らない多重生活が求められる(爆。



チア☆ダン

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〜女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話〜
2017年
河合勇人 監督
林民夫 脚本

広瀬すず、、、友永ひかり
中条あやみ、、、玉置彩乃(部長、ダンス経験者)
山崎紘菜、、、紀藤唯(ストリートダンサー)
富田望生、、、東多恵子
福原遥、、、永井あゆみ(オタクアイドル趣味)
天海祐希、、、早乙女薫子(部活顧問)
真剣佑、、、山下孝介(サッカー部員、ひかりの彼氏)
陽月華、、、大野(外部コーチ)


アメリカのチアダンスの大会で福井県の高校チアリーダー部が優勝を果たし、その後も5連覇したとか、、、。
2009年の実話をベースに描いたという。

「明るく、素直に、美しく」(掛け声)のスポコン青春映画である。
かつては見向きもしなかったカテゴリーのものであった。
スポーツ競技なのか表現なのか、更に青春ものなのかは兎も角として、部活で切磋琢磨することの意義は考えさせるものだ。
部活という共同体の中で自己の能力や素質を引き出す契機は確かに期待できるとは思う。
「いくらやっても出来ないことはあるかも知れないが、努力し続けることは出来る」と部長の言うように、努力し続けることの出来る環境こそ「部活」ではないか。自分一人ではある時点で努力も途絶えてしまうことだろう。
勿論、とても耐えきれないような残酷な采配~指導も入るであろうが、そこが自己解体の好機である。
それがない事には、変わることは出来ない。
ヒロインひかりも何度もチームから外されている。それでいて最後にアメリカ大会での優勝をセンターで飾ることが出来た。
そういうものでもある。その時に見えた光景は、もう一生ものであろう。(経験者のみ知り得る世界である)。

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次女が小学校のダンスクラブに入ったので、一緒に観てもよいかどうか、先にわたしだけで観てみた。
(以前、いきなり見せて失敗したことが何度かある)。
結果、よく分からない。
だが感動的な流れであったから、見せてみよう。


踊り自体がもっと入っていればよかったなあ。(でもそうした技術面も入った指導ならNHKの名コーチを海外から呼んだ番組がある。それを観ればよいか)。
しかしフルに一曲分しっかり入っていると見応えも違うかな、、、と思った。
肝心の最後のダンスも引いたところから途切れ途切れでしか見られなかった。
やっていた技やフォーメーションや流れはかなり凄く、彼女(キャスト)たちの相当な練習の成果を感じるところであったのだが。
それを見ている人々の熱狂の姿を組み込む部分が多すぎた。
ダンスを通しての人間の繋がりや認識の変化を伝えたいことは分かるが、ダイナミックで綺麗なダンスそのものもその成果としてタップリ魅せてもらいたいものであった。
「ダンス」そのものを通して皆が変わって行くのだから、何より「ダンス」の変化を見たい。

キャストは皆良かった。広瀬すずは流石に表情の使い手で華がある。中条あやみは真面目で自分のことは完璧に出来るが、人に対しては押しの弱い人柄が魅力的に演じられていた。「アイアムアヒーロー はじまりの日」で萌え系アイドルしていた山崎紘菜の打って変わっての翳りのある雰囲気はまたスタイリッシュで素敵だった。そして「あさひなぐ」(これより多少緩めのスポコン映画)でも活躍していた富田望生である。彼女の役割はその個性からほぼ決まっていて一つの団体に必ず一人は必要な存在と言ってよく、とても堅実なポジションだろう。天海祐希の女ボス振りは板についていて安心して観ていられるが、もう少し具体的な指導が観られても良かった。

スウィング・ガールズ」も素人が楽器を手にしてジャズバンドを立ち上げ演奏を目一杯楽しむ噺であったが、こちらも経験者や素養のある人は混ざっているにしてもみんなでひとつのものをギリギリの状況で作り上げる過程を経験する。この映画の方が目標の設定がシビアな分、個にかかる負荷は大きいか。

これは生半可な共同体では到底ダメだ。
ただの仲良しクラブになってみんなで堕落してしまい、やらない方がマシだったということになる。
不可避的に自己対象化を強いられる環境にもっていきたい。
各自が自分の枠を打ち破る(解体する)経験をしないことには。
質の高い創造は生まれないはずだ。

そこの意味では、顧問からは刺激がかなり与えられていたとは思う~指導はともかく。
高い目標設定から来る要求は大きい。
また、部長が立場上、意識的にそれ(枠を破ること)を行っていた。
ナイーブで真面目な部長には、かなり大変な任務であっただろう。
初めの頃の全く体をなさない時点から徐々に形が出来て来ることは分かる。
個人の自覚と共に。
それを人間的なやり取りを中心に練習の場や日常で見せていたが、それを本番の発表~成果のかたちでも観たい。
より説得力と臨場感が得られる。

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とは言え、全体として見た場合、キャストが皆直向きで大きな目標に向け、自分の殻を破り奮闘する姿は伝わって来て、最後にはちゃんと感動できる。
その点で、よい時間を過ごしたという感は残る。
明日、娘たちに見せよう。


それからまだ持っていて観ていない「フラガール」そろそろ観よう。



崖っぷちの男

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Man on a Ledge
2012年
アメリカ

アスガー・レス監督
パブロ・F・フェニベス脚本

サム・ワーシントン 、、、ニック・キャシディ(冤罪で脱走した元NY市警官)
エリザベス・バンクス 、、、リディア・マーサー(NY市警交渉人)
ジェイミー・ベル 、、、ジョーイ・キャシディ(ニックの弟)
アンソニー・マッキー 、、、マイク・アッカーマン(ニックの元相棒)
エド・バーンズ 、、、ジャック・ドハーティ(NY市警リディアの相棒)
タイタス・ウェリヴァー 、、、ダンテ・マーカス(NY市警)
ジェネシス・ロドリゲス 、、、、アンジー(ジョーイの恋人、相棒)
キーラ・セジウィック 、、、スージー・モラレス(TVキャスター)
エド・ハリス 、、、デイヴィッド・イングランダー(大物実業家、ダイヤモンド王)

「建物の突起部分に乗る男」である。そのままである。まさに人生の崖っぷちにもいるわけだし、邦題にも取り敢えず納得。

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頭を使わず(痛くない)遊園地のアトラクションみたいに楽しめる映画はないか、と思い家の中を探していたら見つけたもの。
4千万ドルのダイヤの窃盗の罪を被され服役していた元警官が父の葬儀の際に逃亡してNYの高層ビルの窓の外に立てこもり自殺を訴える。すぐさま下では警官にやじうまやマスコミが殺到する。
(暫く経つと野次馬が早く落ちろ合唱してスマフォを向けてお祭り気分に浸り出し、ニックが札をぶり撒くと「この人大好き~」とか言って拾いまくる大衆心理もよく出ていた。勿論、主人公たちはこれを利用してはいるのだが)。

この騒ぎに世間や警察が気を取られている間に弟とその彼女がホテルの向かいのデイヴィッド・イングランダー所有のモナークビルの金庫破りをしている。果たしてこれが良いアイデアなのかどうなのかについては、さっぱり分からん。
ともかくニックが綿密に立てた計画を弟、その恋人、死んだはずの父がしっかり実行して、盗まれていないダイヤを本当に盗み出し冤罪を晴らそうというもの。
やってること自体が、何でそうしなければならぬのか、という疑問は冷静になれば湧くにせよ、映画的には面白いだろうな、という方向で突っ走る。こちらも特に気にしない。

テンポよく進み、キャストも違和感ない為、痛快に観ることの出来る映画だ。
夏にピッタリかも知れない。

何と謂っても、主人公が高層ビルの最上階近くの部屋の窓の外に出て、狭い出っ張りの上で交渉人と喋ったり下に向かって叫んだり、色々とアピールして見せたり、最後の方ではそういう狭い場所を走ってジャンプして飛び移ったり、遂には下に広げられたマットに飛び降りたりして、空間の上下~高さをフルに活かしたアクションをして楽しませる。

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それと同時並行で、弟とその彼女が計画通りに最新鋭のセンサーや防御システムに守られた金庫を破ってゆくが、確認にやって来る警備員や警官に気付かれず如何にかわすかのスリリングな場面が展開する。
知識や度胸から謂って、マイクで指示するニックの方が遥かに効率的なはずだが、何でこういう役決めにしたのだろう。
そもそも秘密裡に(当たり前だが)3人でモナークビルに忍び込んで実行したらどうなんだろうか。
(しかしこれでは余りに普通になってしまう)。

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高いところで何かやるというアイデアが浮かんでしまった以上、それを使わない訳にはいかなくなったのだ。恐らく。
色々なクライム映画のパタンはあったにせよ、こういうのはこれまでなかった(多分)。
これは絶対面白い。
ここにハラハラドキドキの要素を沢山ちりばめれば受ける!
きっとそういう流れではないか、、、。

最後はでかいダイヤモンドの存在を世間に示しハッピーエンドときた。
(ダイヤは足がつかない様に粉々にして売りさばいとと言われていたのだ、、、粉々にしても売れるのか?)
ダイヤを盗んだかどで捕まり、ダイヤをしっかり盗んで見せて無罪放免というもの面白い。

確かにそのアイデアを元にしたスピーディでスリリングなアクションと若干のミステリーで楽しく観ることが出来た。

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こうした映画のお約束のセクシーな美女もしっかり登場しており、手順よく金庫破りの作業をこなしていた。
これについては、しっかり伝統をまもっている。

教訓として受け取ってもよいところは、やけに親切で思いやりがある様に見える友は疑ってかかるべき存在である。
ここでは、5年間の相棒をしていたマイク・アッカーマンである。
如何にも善人面した男だ。こういうのが一番危ない。その点でも終盤は何処から主人公が撃たれるかスリリングであった。
結局、アッカーマンは極悪ではなく、ニックの命は助ける。しかし彼を監獄送りにしたメンバーの一人ではあったのだ。
機転の利く(利き過ぎる)リディア・マーサーのお陰で命拾いするが、普通交渉人があそこまで出しゃばるか?
あと一歩のところまで黒幕デイヴィッド追い詰めたところで警察特殊部隊に銃を向けられたときも、一般市民の一人がニックに加担して証拠のダイヤを無事奪い取ることに成功する。
ちょいとご都合主義というか話に無理を感じるところはあるのだが、それらを差し引いても面白い映画であった。

後に何も残らないところがまた良い。









ブリムストーン

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BRIMSTONE
2016年
オランダ/フランス/ドイツ/ベルギー/スウェーデン/イギリス/アメリカ

マルティン・コールホーヴェン監督・脚本
トム・ホルケンボルフ音楽

ガイ・ピアース 、、、牧師(ジョアナの父)
ダコタ・ファニング 、、、リズ(大人になったジョアナ、親友の名を騙る)
エミリア・ジョーンズ 、、、ジョアナ
カリス・ファン・ハウテン 、、、アン(ジョアナの母)
キット・ハリントン 、、、サミュエル(負傷したガンマン)

「灼熱地獄」、、、ジョアナやリズたちが囚われ強制的に働かされていた娼婦館がこの”Inferno”(灼熱地獄)であった。
しかし、この4章構成の物語自体が灼熱地獄でもあろう。

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サイコ牧師から「狩人の夜」を安易に想いうかべるが、本質は同じであろうし、具体的に近いシーン~部分も多い。

オランダの監督が撮っているが、昨日の映画もイギリスの監督が撮っている。
外からの方が(暗黒部分は)よく見えるというところはあるか。
精神分析医が患者の無意識を診るように。

今日の牧師について謂えば、本気で原理を極めんとしてああなったのかと途中まで思っていたが、ただの狂人であった。
ある意味、自覚もしている。「救済の届かぬ者である為、何ものも恐れず自らの欲する事をやるのみ」
(それで牧師面しているところが笑えぬブラックジョークでは済まない)。
紙一重の境界人であるか振り切れてしまっているかの僅かの差であろうが。
これも所謂、西部劇なのか、、、。
その時代のドラマであるなら、西部劇なのかも知れぬ。
暗黒の西部劇、、、。

ひたすらダコタ・ファニング(2章、3章はエミリア・ジョーンズか)が酷い目に遭わされるのがファンとして忍びない。
途中、正視に耐えずちょこちょこ目を逸らしていた為、大事なところを見落としていたかも知れない。
特に殺された親友に成り済ます為に舌を自ら切り取るところなど、もう見てなどいられないではないか、、、(痛。
しかも、この親友の名で生きて来たことが仇となり、ようやく訪れた静かな生活も束の間、殺人容疑で逮捕され命を捨てる破目となる。

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アメリカ南部を舞台にした映画(昨日もそうである)など特にそうだが、有色人種差別の他に、徹底した男性優位主義、女性蔑視~女性差別がある。(現代が舞台である「チョコレート」でもそれが強く描写されていた)。
まさに舞台となる土地では、女性を物として商品として流通させており、牧師においては個人的に妻・娘・孫までを自分の所有物として支配しようとしている。そしてキリスト教理がその理論背景~根拠として利用されている。
まさに精神分析に観る「父性」支配による抑圧でもある。それは極めて根深い。
牧師はまさに神の位置に自らを置く。やはり狂人という他ない。

ジョアナ~リズはそこで、想像を絶する残酷な虐待や殺害現場を目の当たりにして生きてゆく。
少しでも彼女らに救いの手を差し伸べるものはことごとく殺されてしまう。
恐怖と支配の構図である。
彼女の母アンは、夫の牧師の説教している教会内で首つり自殺をする。
従順にしか生きられなかった妻の最後の夫への抗議であった。
(彼にとっては火に油を注ぐような効果しかもたなかったが)。

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するとジョアナ~リズはフェミニスト闘志の先駈けか。
いや、自分の生を誠実に生きるために闘っただけである。
闘いを強いられた存在であった。

最後に鎖に繋がれ筏の上から身を投げるジョアナには、安堵の表情が見られる。
娘の姿を遠くに望みながら。
上から保安官が水中に向けて銃弾を何発も浴びせる。
その音を娘が岸から聴いているが彼女には何の音であるか、何が起きているのかは分からない。


この映画、天才ダコタ・ファニングが出ているので観る気になったのだが、内容自体観たい映画ではなかった。

しかし、若手女優エミリア・ジョーンズのエマ・ワトソンを想わせるシャープでソリッドな魅力を発見したことは得した気分になった。
ダコタの少女時代として何の違和感も抱かせない娘にはビックリした。
今後、この女優にも注目したい。

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そうそう、ガイ・ピアースはまるで、シュワルツェネッガー映画に出て来るターミネーターさながらであった。
首を切られて死んだかと思っても元気に何度でも何処へでも追って来る。
不死身かと思いきや、最後はあっさりと焼死したのには呆気にとられた。
もう、ここまで悪い役をやらされることはないのでは、、、怪演だった。



スリー・ビルボード

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Three Billboards Outside Ebbing, Missouri
2017年
アメリカ・イギリス

マーティン・マクドナー監督・脚本
カーター・バーウェル音楽

フランシス・マクドーマンド 、、、ミルドレッド・ヘイズ
ウディ・ハレルソン 、、、ウィロビー(警察署長、末期癌)
サム・ロックウェル 、、、ディクソン(巡査)
アビー・コーニッシュ 、、、アン(ウィロビーの妻)
ジョン・ホークス 、、、チャーリー(ミルドレッドの前夫)
ピーター・ディンクレイジ 、、、ジェームズ(ミルドレッドの協力者、好意を抱く)
ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ 、、、レッド(広告代理店の経営者)
ルーカス・ヘッジズ 、、、ロビー・ヘイズ(ミルドレッドの息子)
ケリー・コンドン 、、、パメラ(広告代理店の事務員)
クラーク・ピーターズ、、、アバークロンビー(自殺したウィロビーの後任署長)

「ミズーリ州エビングの三つの野外広告看板」
素晴らしい。
邦題も簡潔で良いと思う。

これは傑作である。秀逸な脚本だ。最後は唸ってしまった、、、。
昨日見た哀しいほどチャチな噺とはかけ離れた出来具合である。

南部特有のレイシストが出て来る。警察署にも多い。
街は差別だけでなく、あらゆる面で殺伐としており、憎悪に渦巻いている。
その憎悪をどこに、何に向けるか、が最後の焦点となって行くところが実に見事である。


殺伐とした情景のなかに忽然と三つの看板が現れる。
「娘はレイプされて焼き殺された」、「未だに犯人が捕まらない」、「どうして、ウィロビー署長?」
と並ぶ。
それらは深夜にあっても照明でクッキリ目立つ。虚空に向けたメッセージのようで美しい。
これには警察も地元の住民もTV局も戸惑い驚く。

娘アンジェラが無残に殺されて7か月経っても一向に捜査が進まない。
これに業を煮やした母親が行動に出たのだ。
警察は一体何をやっているのか。相変わらず黒人をリンチしているだけなのか、と怒りをあらわにする。
しかし、これで捜査が急に進展する訳はない。
ある意味、敵を作るだけであることは百も承知であろうがそれ以外の選択がなかったのだ。
それだけギリギリの生を生きているのである。

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また端から犯人が捜査でスッキリ見つかるような噺ではないことが分かる。
その雰囲気から。光景から。
別に犯人がどこかで見つかろうが、それで決着したり重要な意味を持つ映画でないことは直ぐに察する。

孤立無援を全く恐れないミルドレッドには深く共感する。
闘う時には闘うしかない。ブレてはならない。これは鉄則である。ただ何に対して闘っているのか、、、。
もっと言えば、何を求めているのか、、、。
彼女は自分を支えようとしてくれる献身的なジェームズには酷く冷たく当たる(好意が潜むことに嫌悪感を抱いているのか。つまり単にタイプではないのだ。その辺からも自分にとことん正直である)。

ウィロビー署長はこの胸糞悪い街にあっては、珍しい人間味のある人である。
事件に同情する人はいても、ウィロビーを追い詰めるようなやり方に街の人間だけでなく息子までもが反発する。
特に甚だしい憎悪の念と対抗心を抱いたのは部下のディクソンであり、ミルドレッドへの露骨な嫌がらせと看板の放火までしでかす。
そして看板をミルドレッドに貸している業者のレッドにも暴力を働き、大けがを負わせてしまうが何ら悪びれる様子もない。
だがミルドレッドの方も夜、警察署にディクソンがいる事を確認したうえで火炎瓶を投げ込み彼に大やけどを負わせる。
凄まじく生々しい憎悪のぶつけ合いだ。しかしこれは中途半端には出来ない。

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看板の来月のレンタル料をウィロビーが匿名で建て替えて自殺する。
彼は死ぬ前に自分の周囲の人々に遺書を残す。
もっとも大きな力として働いたのはディクソンに対してであろう。
彼はアンジェラの捜査資料を守って、火だるまになって警察署から外に転げ出た。
彼は遺書を読んでいて逃げ遅れるが、そこから大きく変わって行く。
入院した病院では、隣のベッドが未だ痛々しい怪我を負ったレッドであった。
全身包帯のディクソンは彼に謝り過ちを悔いる。しかしレッドは酷く動揺しつつも彼にオレンジジュースを差し出す。

いや、全てが繊細に周到に物語の展開に絡んでゆく。
窓のさんでひっくり返っている虫、直した看板の元に花を活けていたら現れた鹿、ウィロビーが自殺するときに立ち会う馬たち。
人間同士のやり取りでは現れない素直な感情が露わになり、その人間の本質が垣間見られる。

勿論、何気ない会話のなかに、相手を大きく揺り動かす契機も潜む。
アンのウィロビーに語るオスカーワイルドの言葉(ホントか?)、ほんの小娘だと思っていた前夫の19歳の娘のレストランでの言葉、「憎しみは憎しみしか生まないって」ミルドレッドは彼女を認める。
そしてウィロビーの遺書を読んだあたりから主人公たちには変化が現れている。

ディクソンが暴力沙汰で警官をクビになってから酒場で呑んでいると隣の席の男が仲間にアンジェラ事件に酷似した内容の犯罪行為を得々と自慢話しているのだった。
ディクソンはその男に絡みワザと殴られ顔を引っ掻いてDNAを採取する。
その男の車のナンバーで住所も特定する。
しかしそれを署で調べてもらうと、アンジェラ事件の時には男は従軍してアメリカにはいなかったアリバイが判明した。

その一件をディクソンはミルドレッドに打ち明け、ふたりは和解する。
ついでに署を放火したことを告白するが彼は全く驚かず、「あんたしかやるやつはいないだろ」と返す。
そして、そのアンジェラの殺害犯ではないその男のところに銃を持って車で向かう。
その男を撃つかどうか「道すがらきめよう」と申し合わせて、、、。

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これ程見事な噺は最近、観たことがない。
フランシス・マクドーマンド主演の傑作、「ファーゴ」を上回る作品であった。
ある意味、サム・ロックウェルの変化がこの映画をとても自然で説得力あるものにしていた。
大変な熱量で、夏バテも意識せずに観ることが出来た(笑。




悪女

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The Villainess
2017年
韓国

チョン・ビョンギル監督・脚本・製作・アクション指導
パク・ジョンフン撮影

キム・オクビン、、、スクヒ(殺し屋)
シン・ハギュン、、、ジュンサン(犯罪組織のボス、スクヒ育ての親)
ソンジュン、、、ヒョンス(スクヒの再婚相手)
キム・ソヒョン、、、クォン幹部

「限界状況」(ヤスパース)を想う。こういう日常を粉砕されるドラマを見ると。
そして、それが重々しいドラマではなく、多彩なアクションとメロドラマの融合であろうが。
人間的な努力では克服不可能な状況~運命をここでも描いている。
とても数奇な人生であるが、それが人生であるがゆえに逃れることの出来ない、限界状況である。
死や苦に加え争、責、由来、偶然、、、これらの要素で人生が生成されるのであるから、どうにもならない。
実存であるしかない。
ここでは、狂気か、、、。悪女なんてものではなかろう。

この映画でこの話を持ってくるのは的外れかも知れないが、あながちそうとも言えまい。
ヒロインに人生の選択の余地などないし、恐ろしい限界状況で所謂日常などはありはしない。
しかしそんな生だからこそ、平穏無事な小さな幸せを求める気持ちも生じよう。
とは言え、どうなのか。
幼い時に形成された精神構造がそうした極限的な状況を引き付けてしまう。

「私は二歳」を見た時につくづく思ったことだが、この時期の自分の受けた外傷が分かれば今の自分の現実がかなり明瞭に分析される対象とはなるはずだ。解明させるものではなくとも。そこから現在に向けて広がる生成過程がヴィジョンとして掴めれば、内容がどれだけ陰惨であろうと、ほとんど救われよう。しかしその歴史が誰にとっても無意識であれば、どうにもならない。
大方、そんなものだ。ほとんどの人間が無意識に自動的に生きている以上。

ただ、苦痛に人間は慣れることが出来ない。これはトートロジーであるにせよ。
その苦痛が余りに強く生活に破綻をみるような場合において、、、。
「限界状況」により実存に目覚める。
最初に戻ったが(笑。

この映画はスタント出身の監督が、如何に迫力があり面白いアクションが可能か、を追求し続けて得たものを片っ端から放り込んだもののようだ。何故か日本刀まで出てきた。
それはいきなり冒頭から納得出来る。それは全編に渡って次から次に趣向を変えて出て来る。
カメラワークからいっても、主観的な視座から客観的~超越的視座をスウィッチするなど目まぐるしく出来る限りショッキングでヴァイオレンスなものにしようとしており、その狙いは成功している。

だが、その主体であるヒロインは自分の自由意志や趣味でそれを行っているわけではなく、強いられて「限界状況」にあって行っているのだ。勿論、本人は愛の為と答えるはずだが、多分に組織圧力や復讐や記憶~外傷経験によっている。まさに死と隣り合わせで。そこで初めてアクションに意味と質量が加わるのだ。
しかしこのドラマはアクションに象徴されるように極端な内容であるが、では平穏で自由な生活を送っている人間がいるか、と問えば、果たして人に自由などあるだろうか、と考える。考えれば考えるほど自由などというものが幻想に過ぎないのではないか、、、。

そういうところからも、わたしなりにスリリングなアクションはしてゆこうと思い、今日から始めた(爆。
感情の爆発を(自由に)集団のなかでしてみた。
これはこれで気持よい。
インプットしたらなんらかの形でアウトプットしないと。
続けよう。もっと。


CGによるVFXがほとんど見られないところ、ヒロインの体当たりアクション(特にバスのなか)も凄かったが、彼女の役柄の人間描写などよく出来ていた。キム・オクビン、かなりの力量ある女優だと思う。充分に美しかった。
その割に他のキャスト、特にチャラい再婚相手などは薄かった。
ストーリーは、かなりおざなりな感もあり、父が殺され、育ての親で夫でもあった男も殺され、政府組織で意に添わぬ暗殺をさせられ、何と死んだと思っていた前の夫が父親殺害の真犯人で自分を不幸に陥れた黒幕だと分かり、その上今の夫と娘も殺され、結局自分の手で前の夫も殺すという、、、どうも向こうのドギツク安易でありふれた設定とも謂えるが、ここではその極端な単純化で非現実的な彼女の定めとアクションを定着出来ていたかも知れない。伏線かと思っていた犯罪組織から盗まれたHDDのデータが何であり、どう絡んで動き影響してくるのかと思っていたが、ちょっとしたエピソードくらいのものであった。何と言うか国の秘密組織そのものが、収容者の教育現場などは面白いが、上層部からして体をなしていない感じであった。
噺の枠組み(下部構造)をもう少し堅牢にして、派手で華麗な(多分にスプラッターでもある)アクションを乗せたい。
ヒロインを中心にした動き、物語は余計なものがなくとても分かり易いため彼女に沿って見てゆくことで充分映画は堪能できる。


ジャッキー・チェンのアクションものみたいにお気楽には見れないものだが、一度くらい観てもよいものだと感じた。



”Bon voyage.”

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