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大砂塵

Johnny Guitar

Johnny Guitar
1954年
アメリカ

ニコラス・レイ監督
フィリップ・ヨーダン脚本

スターリング・ヘイドン 、、、ジョニー・ギター
ジョーン・クロフォード 、、、ヴィエンナ
スコット・ブラディ 、、、ダンシング・キッド
マーセデス・マッケンブリッジ 、、、エマ・スモール
ウォード・ボンド 、、、ジョン・マッキーバー
ベン・クーパー 、、、ターキー・ラルストン


これはゴダールやジム・ジャームッシュから絶大の評価を得ている映画であり、ニコラス・レイは「理由なき反抗 」の監督でもある。
この映画は前から観てみたいと思っていた。
(ちなみにゴダールが最も影響を受けた監督は溝口だそうだ)。
BSに入って来たのがタイミングよかった。

小林旭主演の『渡り鳥シリーズ』で彼のギター姿は、ここから来ているらしい。
(とは言え、わたしはそのシリーズ一度も見たことはない。だがその姿は何かで観て知っている。そんな記憶は少なからずあるものだ)。

さて変わった西部劇である。
鉄道建設の為のダイナマイト鳴り響く中、、、
赤と緑の補色が鮮やかな洒落た酒場にギターを持った渡り鳥が入って来る。

ピストルを持たない理由を聞かれると「西部一の早撃ちでもないからな」と答え、西部劇のフォーマットからのズレを感じさせて行く。
彼が何とも凄腕のガンマン(かつて相当人を撃ち殺してきている)らしいのだが、ギターを弾いてへらへらしていてほとんど活躍しない。
ほとんどの場面で傍観者を決めている。時折条件反射的に昔の早撃ちの癖が出たりするちょっと病的な男だ。
ダンシング・キッドというこれまた腕の立ちそうな、グループを率いる流れ者の親分も見せ場が全くないまま撃たれて死ぬ。
かなりの乱暴者に見えたが、ダンスが上手く意外に人も良く、そのお陰で死ぬことにもなる。
そして二人とも酒場の女主人ヴィエンナを愛していた。
如何にも胆のすわった気の強そうな女である。

無慈悲に銃を撃って人を殺すのはエマであり、彼女を最後に撃ち殺すのがヴィエンナである。
この二人の気の強い因縁を抱えた一筋縄ではゆかない女性同士の対立を軸に噺が展開して行く。
周りの男たちは皆、二人の女性に振り回され従っているだけである。
しかしエマという女のヴィエンナに対する怨念はヒステリックで凄まじい。
(こんな女は見たことはあるが)。

街に鉄道を引く推進派のヴィエンナに対しエマは街が東部からの移住者たちに浸食される可能性を訴えたり、キッドのしでかした銀行強盗を手助けした仲間であると合理的な理屈をつけてヴィエンナを処刑しようとしていたが、結局キッドに恋心を抱いているにも拘らず、彼がヴィエンナに夢中であることがもっとも気に障るのだ。
その為、兄殺しを罪をキッドに着せ、彼の御執心の他所から来たヴィエンナ共々葬ろうという魂胆なのである。
エマは、どうやら街の名士で金持ちでもあり、誰もが彼女には歯向かえず何でも思いのままになっている。
しかし手に入らないもの~自由にならないものは殺してしまえ、という発想しかもたない。

エマは権力にものを言わせ、法を重視する保安官やヴィエンナを守り異議を唱える雇われ人をいともたやすく殺し、数にモノを言わせヴィエンナを捉え彼女の酒場に火を放つ。かなりの狂気の危ない表情を見せる。
ジョニー・ギターはこの事件の間、どこで呑気にしているのか不在である。
そんな女に良いように操られ街の男どもが手足となって言いなりに動く。
女に命令され集団では動くが、個人的な責任は負うような処刑の段となると役目から逃げてゆく。
ここに出て来る男は皆、どこまでも不甲斐ない。正義漢も全くない。
これほど女性に主導権があり、凄腕風のガンマンが何もしないという西部劇も初めて見た。

ジョニー・ギターは最低限の働きとも謂える、処刑の首をくくる紐を切り、すんでのところで彼女は助ける。
だが、最後も女性二人の決闘という形で幕が閉じる。
エマに付いて来た男どもは彼女が殺されるとスゴスゴと立ち去って行く。
一体お前ら何しに来たんだ、という感じである。


しかしわたしも実生活において、既視感を覚える雰囲気の場面はあった。
西部劇のストレートさが無く、なんともシラケたズレと過剰な悪意のなせる光景。
何度も経験している。


面白い立ち位置の映画だ。



2010年

2010.jpg

The Year We Make Contact
1984年
アメリカ

ピーター・ハイアムズ監督・脚本・製作・撮影
アーサー・C・クラーク『2010年宇宙の旅』原作

ロイ・シャイダー、、、ヘイウッド・フロイド博士(ボーマンの上司)
ジョン・リスゴー、、、ウォルター・カーナウ博士(ディスカバリー号設計者)
ヘレン・ミレン、、、ターニャ・カーバック船長(レオーノフ号船長)
ボブ・バラバン、、、R. チャンドラ博士(HAL 9000の設計者)
キア・デュリア、、、デビッド・ボーマン船長(2001年ディスカバリー号船長)
エリヤ・バスキン、、、マキシム・ブライロフスキー(レオーノフ号船員)
オレグ・ラドニック、、、ワシリー・オルロフ博士


特に観る気もなかったが、BSで入っていたので、取り敢えず観てみた。
(今日は映画の事を書くつもりもなかった)。

サウンド・オブ・サンダー」の監督である。
あの映画はなかなか面白かった。
ブラッドベリの原作とはかなり離れたものになったようだが、映画としてはよく仕上がっていた。
わたしの好きな映画である。
だが間違ってもキューブリックの「2001年」の続編を作る監督ではない。

大きくスケールダウンしているだけでなく、米ソの対立状況から世界平和を訴える内容というのには閉口した。
そのメッセージの陳腐さに。かなり情けない。
特に最後のモノリス~ボーマンからのメッセージ、、、

>これらの世界は全てあなた方のもの
中略
>全ての世界を皆で利用するのだ
>平和のうちに利用するのだ

、、、これには呆れて、失笑した。
何なの、これ?目を取り敢えず外に向けさせ内紛を収めようという試み?
(姑息な政治団体がよく使う手でもある)。
太陽が二つあるというのは確かに物理的衝撃は凄いだろうが。

この点においては、「サウンド・オブ・サンダー」からもかなりのグレードダウンを見せる。
それからHAL 9000の暴走が、政府の人間がモノリス等のデータを隠匿するように予めインプットした為に乗組員との板挟みになり統合失調症となった、というのはおかしい。役人の命令が上位命令であれば何の矛盾もないしダブルバインドに陥ることもない。論理的に問題ないのに不具合を起こす必要などないではないか。前の作品では一つのミスから大暴走に繋がっていったのではなかったっけ。
何れにせよ、HAL がのっぺりとした気骨の無い奴に成り下がっていたのにはガッカリした。
今回も何をかやらかしてくれるものと期待していたのに、、、。
悪魔的な論理の帰結が見たかった!

兎も角、宇宙には出ている様だが、確かに宇宙船にも乗っている、、、重力の感覚や速度の感覚が全く感じられないとしても、、、木星近傍で何やらやっているのは分かるが、SF映画の質感ゼロである。
SFを観た気が全くしない。

演出も不思議で、看護師の読んでいる「Time誌」の表紙が妙に大写しになって間を持たせていて居心地が変だなと思ったら、アメリカ大統領がクラーク、ソ連書記長をキューブリックに描いていたという。
別にどうでもよい。変な小細工しないでもらいたい。
ボーマン船長がエネルギー体となってフロイド博士の前に現れた時は、雰囲気的に「2001年」を想わせるものであった。
だが、飽くまでも雰囲気を似せてみただけである。


前半はイルカの室内プール付きのフロイド博士の邸宅など目を引くが、男同士の詰まらない会話シーンが続き、これがアーサークラークのあの作品の続編なのか、、、心配な気持ちで一杯になったが、その不安は増幅しながらついに最後まで雪崩れ込んで行った(笑。
最後は上記のメッセージでトドメ!

木星が恒星となり、天には二つの太陽が輝くというが、原作を未読な為、詳しい関係性が掴めないのだが、映画を観た範囲ではしっくりこない。エウロパに地球に似た自然環境が生まれていた(彼らも地表にクロロフィルを発見していた)。海には巨大なモノリスが立っていた。
あのモノリスというのは、ダーク・マターと何やら関係性(象徴性)をもつものか?
これについては、「2001」の時から分からないままでいる。


最後の地球への帰還の噺など、「アポロ13号」や「サリュート7」からみると子供だましにもならない。

そう謂えば、Apple IIcをフロイド博士が浜辺で使っていた、、、。


NHKのサイエンス番組の方が遥かに面白いことは確か。
この映画にはサイエンスは微塵もないし思想もない。
であるから、そこからくる面白さ~娯楽性がない。
2001の続編などと言われると背筋が寒くなる。


ブレードランナー」~「ブレードランナー2049」は奇跡的な成功例であった。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ恐るべし。



現実の希薄さから謂えること

Kafka.jpg

閉塞的で薄い現実が日常的であると、ひとは(わたしは、と謂うべきか)内面化する。
すると以前は、そうシュルレアリスムに興味を持った学生の頃など、「夢」、「狂気」、「未開」に憧れてしまう時期があった。
単なるナイーブなロマンに過ぎないのだが。

狂気や未開に縋るにも接点が見いだせないため取り敢えず、夢に頼ってみた。
(シュルレアリスムにはこの手法が多く使われている)。
夢日記をつけ出すと妙に夢を起きた後も記憶しているようになる。だがすぐ分かることだが、それを思い返しながら書いてゆくと、そこには曖昧なディテールなど一切ない。
荒唐無稽なオドロオドロしい幻想などもっての外。余りに整然とした精緻な世界しかないのだ。
まさにカフカの小説そのものであった。
残酷な程、似ていた。

夢とは、軟弱なロマンなど決然として受け付けない稠密なディテールのみの世界である。
そこには付け入る隙もない。
自由がないからだ。
これが決定的である。
だからカフカの小説が絶対的価値を持つのだ。

恐らく、狂気や未開も同様に表現などで迫れる世界ではない。
距離を持って憧れても詰まらぬロマン主義の垂れ流しにしかならない(その手のものは少なくない)。
詩人のアントナン・アルトー(劇作家、思想家でもある)や薬を使ってその状態を探ったアンリ・ミショー、何人かの神秘主義者(アレイスター・クローリー等)、人類学者カルロス・カスタネダが極めて実験的にその世界に迫ってはいるが、何れにせよ対象化して理知的にそれを捉えられるはずはない。
ギリギリ高度な詩的世界に定着するか幻覚時のやはり詩的な記述等になる。
(これらは大変魅力的で啓発的なものであるが、それを読んでこちらが追体験出来るような代物ではない)。

未開~叉は初期についても、モネの強烈な希いが印象に残る。
睡蓮の連作を始めて「ずっと盲目でいて今初めて目が見えたらどれだけよいか」(正確ではないが、こんなことを漏らしていたという)。
以前のパラダイムには絶対に(原理的に)戻れない。また身体的~生理的獲得においても同様に。
知ってしまってから、知らなかった状態を体験することは不可能だ。
言語を獲得してからそれを忘れることは出来ない。
ことばは身体化して保存されるものである。
「盟神探湯」(くがたち)なども恐らくその時代であれば、有効であったのではないか。
だが今やったら皆、どうあがいても大火傷に終わるだけである。
大火傷を負ってしまう人間は最早、未開を知ることは出来ない。
(もし何かの間違いで未開を知ってしまったなら、すでにそれをわれわれに知らせる術はない状況であることを意味する)。


何をグダグダ言っているのか、、、。
要するに、内面化して良いことは全くない、という事である。
いや、内面化してもカフカのような筆力で徹底したリアリズムにより現実界を遥かに凌ぐ現実界を描き出せれば、それは救われるはずだが。そう、きっと彼はその行為によって救われていたのだと思われる。
彼は出来上がった小説をマックス・ブロートらの前で大笑いしながら読んで聴かせたという。
内容はもうあっけらかんとした絶望しかない精緻な世界ではあるが。
ただし、強力なガジェットなしで内面化の中に沈み込んでしまうと、もうアリ地獄以外に言いようのない状況となる。

結局人は健康が一番、と言う訳ではないが(笑、現実の中に確かな手応えのひとつもなくなると極めて危なくなる。
それを創作の根拠にしようなどと想うと、詰まらぬイメージの垂れ流しにもなりかねない。
確かな他者が現実に必要である。
カルロス・カスタネダにおける(ヤキ・インディアンの)ドンファンのような導き手なら言うことないが、、、。




終わりのあるドラマ

web.png
やはりWebから暫く出るか。

WWWとは謂っても、自分の世界なのだ。
Googleの取り仕切る自分の世界に他ならない。
Amazonがお薦めする自分の世界の範疇に過ぎない。
endlessに自意識を強化する世界がどこまでも広がる。
基本、全てが自分の世界の延長でしかないことからくる。
他者は何処にもいない。いないから他者なのか。

何と謂うか、本であれば、、、最近カズオイシグロの小説を読んで思ったが、、、一冊読めばずっしりしたものが得られて一区切りがつく。
その後、暫くは心の中で反芻して余韻を味わう日々が続く。
充分に「終了」後の成就感に浸れる。

その作家の他の本に興味が沸けば、また数日間濃密な(贅沢な)時間を過ごせもしよう。
とは言え、作家の本全て読まなければならないという強迫観念に囚われることはない。
一冊、重い本を読み終えれば、充分満足して安らかな心境が得られるものだ。

ウェブ上では、どうやらそうはいかない。
一度、観始めると、、、情報を収集し始めると、、、
いつまでも続く情報の更新に付き合うことに(多くの場合)なり兼ねない。
自分の方も情報を途切れさせることは不安になって来る。

それは性質上いや構造上、もとより終了に向けた物語の外にあるからだ。
物語~ドラマでさえもない。
そして、、、
きりのない記号論的フェティシズムの疼く欲望世界に惹き込まれてしまう(場合もある)。
画像、音楽などその要素~誘惑は強い。

基本的に、毎日情報更新~というよりも付加してゆくことから、日毎に追ってゆかなければならない。
そして書き手~作者も、それはもう強迫的に更新してゆく。
その際限の無さに眩暈を覚える。
いや鈍痛として身体を重く拘束し始める。
わたしは昔から収集癖もあることから尚更困る(笑。

このエンドレスに広がる閉じた鏡面世界。


恐らくウェブ上では基本的に全てがこの構造となっている。
パッケージ概念がない。
ただ連打されてゆく。
そう”ささやき”が流行り出して更に加速し構造が強固になってきている。

勿論わたしもそのなかに混ざって動いてしまっている。
つまり日常を縛られ縛るシステムの内にいる。
解放されたいが為、やり始めたことなのに、その形式が逆の作用を及ぼしている。

やはり実際の本屋に足を運ぶことは、「違う本」に偶然出合う為なのだ。
そして違うドラマに突然出逢い自分自身を更新する為なのだ。


GoogleやAmazonはわたしを解体・更新してくれる為の「おすすめ」はしない。
統計的に「その線」を出してくれるだけだ。
そして何より、継続する一連の流れの(休止~中断ではなく)終了がない。
ドラマチックなエンディングがない。
乗り換えが無い。
だからいつまでも似たような現実が永遠に続く。
エンディングと他者のない世界は自意識にやがて圧し潰されるしかない。






自転車泥棒

Ladri di Biciclette

Ladri di Biciclette
1948年
イタリア

ヴィットリオ・デ・シーカ監督・脚本
チェーザレ・ザヴァッティーニ原案・脚色
ルイジ・バルトリーニ原作
アレッサンドロ・チコニーニ音楽
カルロ・モンテュオリ撮影

ランベルト・マジョラーニ、、、アントニオ・リッチ(労働者)
エンツォ・スタヨーラ、、、ブルーノ・リッチ(息子)
リアネーラ・カレル、、、マリア・リッチ(妻)
ジーノ・サルタマレンダ、、、バイオッコ(アントニオの友人)


イタリアの敗戦の痛手による貧窮を極めた事態という限定を超えて、恐らく人の世の続く限りいつどこにでも起き得る噺である。
経済状態がどうであろうと、人が個人として追い詰められる要因はいくらでもある。
(下部構造と謂うより寧ろ上部構造において)。

その時、共同体はどれだけ機能するのか、逆に更に追い詰めるシステムとなっていないか。
そして他者~隣人がどれだけ、気の利いた関わりを示してくれるか、、、。
これが幻想(思想)領域においての事であれば、とても期待できない。
象徴的に謂っても自転車を盗んで警察に捕まるか、その前に精神を病んで病院に入院するかであろう。
そういった類の収容所に落ち着く(誘導される)のが関の山だ。
問題は何一つ変わらないままで。いや問題化すらせずに。
平板な空間が保たれるはずだ。

突然、一家を支える仕事に必須のアイテムである何かを盗まれる。
今で謂えば会社の秘密情報の漏洩とか、、、。
この映画ではなけなしの自転車である。
どれ程大事な自転車であるか。
大半の尺を父と学校にも行けない6歳の息子が、二人して自転車(叉はその解体された部品)をひたすら探し歩くものである。
雨の中も必死になって探す。これは観ている方も辛くなる。だが、自転車一つ探し周るだけでこれだけスリリングな流れを作って行けるのも、リアリスティック(ドキュメンタリー調)な描写であるからだ。
役者も皆、素人であるという。そうした作品の先駈けでもあったはず。

この映画では、戦後の混乱期という事もあり、その法的に半ば放置された空間に、市井の人々の協力関係が良くも悪くもせり出してくる。実際、主人公の人の好い男は、自転車を盗まれ警察に訴え出ても、占い師に縋っても、まるで相手にされない。
反面、仲間の清掃員の男がかなり親身になって一緒に探してくれる。こういうところは、日本で謂えば下町の人情に当たるものか。
しかし盗人の方もチームプレイで、自転車が盗まれたときにそれを追いかけるふりをしてワザと違う人間を追わせて犯人を逃がすことも手際よく行う。
自転車を盗んだ若者を運よく特定したかと思ったら、その男を庇う界隈の人相の悪い連中に絡まれ警官も手は出せない。
この盗人を匿う集団は、そのまま行くとイタリアマフィアとなり、「ゴッドファーザー」のような組織になってゆくものか。
混乱期の貧困を乗り切ろうとする、仲間意識の表れが様々な階層に窺える。

このような時期であっても当たり前だが富裕層は存在する。
彼ら親子が捨て場つけに入った高級レストランで、普通に豪華な食事をしている人々もいる。
二人の父子は、そこで自分たちが注文できる範囲のものを食べるが、少年の近くで同年齢の気取った子が食べている食事に比べて身なり共々貧しさは歴然としている。
このような裕福な層には入れず、しかしギャング~マフィアにもなれない。
貧困と闘いながら真っ当に暮らすことの困難さが浮き彫りとなって行く。

最後に自転車泥棒の犯人を見つけ出しながら証拠もなく自転車も見つからず、盗人の仲間からは罵倒され、息子と項垂れて引き返す途上で、サッカーの試合に興じる人々の喧騒に出くわす。
そのとき、父の視野に一台の自転車が立てかけられている光景が入りこむ。
ここで彼は混乱を極める。
もう全く万策が尽き追い詰められた父は、息子に先に家に帰る様に金を握らせ、咄嗟にその自転車を奪ってしまう。
カタストロフである。充分予感していてもショッキングである。充分に引いたカメラにより息子の視線で見てしまっている為、尚更のこと。
この時も近くの人間が「自転車泥棒!」と叫ぶ持ち主の声に反応し皆で父の乗る自転車を追う。
そして父はあえなく捕まり(自分から諦めたのか)人々に叱責され殴られ警察に突き出されそうになる。
だが、その父の一部始終をバスに乗らずに見ていた少年の瞳の涙に、その持ち主は彼を許し解放することにした。

父子が手を握り二人で泣きながら歩いてゆくところで終わる。
リアリズムの神髄を観た。





夜気に浸る

yaki.jpg

夜の冷気にはホッとする。

”六気を餐いて沆瀣を飲む”という

沆瀣(こうがい)は「露の気」でもあり仙人の食べ物でもある、、、。

意識に清澄な大気が流れ込む

そう、濁り白んだ器を漆黒の冷気が一気に清めてしまう。


すると何やら気配がする

静まり返った闇の幾層もの微細な空間から、それは小さなもの音たちが

わたしを押し戻そうとしていた。



公園での読書

sagamihara p


最近ハマっているのが、これである。
わたしは図書館での読書が好きではない。
雰囲気が暗く閉塞的で空気も悪そうな気がするのだ。
ひっそりと本を読みたいのだが、人が何分多すぎる。

図書室だと声が出せない。
そのくせ咳が(強迫的に)やたらとあちこちでしたりする。
全く自分の中に入っているならよいが、妙に相互監視している節がある。
何かピリピリしているのだ。

公園であると、噴水を見ながらベンチでのんびり独りきりで本が読める。
鳩や烏も風の仲間で気にならない。
青空のもとで解放感に浸りながら時々欠伸をして。
不意に、持ってきたチキンを食べたりする。
(そう急に食べたくなるのだ)。
喉が渇けばDr.Pepperと決めている(笑。

自然に食べたくなり、飲みたくなる。
(あの時代のギリシャの人ならパンとワインか。対談いや対話もあんな風にしてみたい)
わたしは本を読むときかなり食欲が出る。
であるから、図書館は基本的に、無理なのだ。
誰かの家の書斎で呑むなんていうのもいいな、と今思う。


食べたいときに食べ、、、
読みたいときに読み、、、
観たいときに観る、、、
少しの間、映画は休みたい。

寝たいときに寝る。
散歩したいときにして
買い物を思いついたら買いに行く
泳ぎたいときに泳ぐ。
(大概娘と一緒だが)


取り敢えず、まずは公園でぼ~っとしてから決める。

最近、車に読みたい本と水着は入れて走っている。

ただ、本を入れるものを手提げバッグからナップザックに変更した。
手に色々持っていると最近、一つ落っことしたりする。
この前は新品のこれから読む本二冊の入ったバッグを落とし角が見事に潰れてしまった。
わたしは使用しているうちに自然に摩滅して行くのは寧ろ心地よく感じるのだが、事故で痛んだりするととても落ち込んでしまうのだ。とてもその辺が神経質なのである。

そうだ、今度は話もしてみたい、、、。
最近、とんと人に逢っていないのだ。
もうかなり長いことそうである。
(今気づいた)

独りでいるとどうも細かいことに気が行ってしまう。



yokoyama park





マザー!断片補遺

Mother009.jpg

Mother!
2017年
アメリカ

ダーレン・アロノフスキー監督

ジェニファー・ローレンス、、、妻(マザー)。
ハビエル・バルデム、、、夫(詩人)
エド・ハリス、、、客(医者)
ミシェル・ファイファー、、、客の妻


これがメッセージ映画であるならば、、、。
一言、昨日の映画に言い添えておかないといけない気もしている、、、。

監督とマザー役の女優ジェニファー・ローレンスの言により、あの執拗に続く客人たちの傍若無人極まり無い行為は、地球を荒らす人類の行為の象徴と受け取ることが出来る。
地球〜マザーが優しく促しても彼らは全くそれを聞き入れる耳を持たない。
確かに環境は様々な兆候を示すが、自分たちの目先の目的や利益に気を取られたままである。

しかし、この後に繰り広げられる殺意をも催す姿〜行為だけに人間というものを収斂してしまうのはどうであろうか。
これ程までに人は無意識的な機械であろうか。
(勿論、これまでにガイアという認識のもと、地球を文字通り一個の生命体として考え、その健康を気遣ってきた人々も少なくはないのだが)。
この極端な単純化、一元化、、、お陰で見ている間中、イライラ度が極限であり、わたしの体調が悪かったせいもあろうが、耐え難い時間を過ごす羽目となった。

つまり人類をどのレベルで捉えるか、である。
あの詩人の家を訪ねる彼のファン達が人類一般の象徴として。
(救いを求める民の象徴であろうが)。
だが物語の文脈上、あの様な無礼な振る舞いは特別な理由、企みがない限り起こり得ない。
出て来る全てが人格破綻者ではあるまい。
テロであろうと、やはりここの展開に無理がある。
気分が悪く、白けてくるだけ。

静かな環境に、壊滅的混乱が極自然に発生していくのだ。
エントロピー増大を加速させるかのように。
地球環境の変化はそこにとても長い時間が畳み込まれた結果である。
それをあの屋敷の中に極度に濃縮圧縮して見せたのだ。
超微速度撮影を観る気分でもあった。

人間的にどうであるにせよ、構造的にあの様な愚劣な行為を無意識のうちに平然と人類は環境に対して行ってしまっているという事なのだ。
そうなるともう業ではないか。
人間であるが故の罪なのだ。
そう言っている。

あの様な反吐の出る荒唐無稽で残忍な暴挙を延々と見せる事自体がメッセージなのだろう。
そしてそれは永劫回帰する。


だが果たして、敢えて観る必要があるかどうか。
これをメッセージとして受け取り、何らかの行動に移そうと考える人がいるだろうか?



マザー!

Mother008.jpg

Mother!
2017年
アメリカ

ダーレン・アロノフスキー監督

ジェニファー・ローレンス、、、妻(マザー)。
ハビエル・バルデム、、、夫(詩人)
エド・ハリス、、、客(医者)
ミシェル・ファイファー、、、客の妻


ブラックスワン」の監督ということで観た。
何でも旧約聖書を元に描いたもの~メタファーであるとか。
そういうものは、兎角チャチになる。
キャストは神、地球、アダム、イブ、カイン、アベル、その後の人類(末裔)という構成か、、、
、、、しかし、それで何なのか?
また、聖書文化圏外の人間には、更にしっくりこない。
そういう映画は確かにこれまでにも観たことはある。
だが、その背景を意識しなくても重厚な映画として感動できたものは少なくない。

余りに変なので、調べてみたら監督の噺~インタビューを聞いたという文面が?
これは実は「地球環境問題」のメタファーなのだと、、、直ぐ閉じた。
ゴアの「不都合な真実」みたいな感じのものか?ちょっと呆れてしまった。
(わたしはその手の環境問題の手の込んだ詐欺まがいの議論に辟易しているうえに、そのメタファー物語などまず受け入れ難い)。
と、なるとこれはメッセージなのか?
それとして到底機能しないと思う。

また、そういうことをやってみたいというなら、そのメタファーの物語そのものも、それ自体しっかりしたディテールの描き込まれたリアリティある物語として完結している必要がある。
その上で、実はこの背後にはこういう意味~世界が横たわっているのだ、と言われ誰もが成る程と感心するような作りにしてもらわないと。
だが、この物語、途轍もなく酷い。
兎も角、現在において不自然極まりなく、不可解で不愉快である。

普通に、良い詩を読んでも作者の家を探してあのように民衆が熱狂して詰めかけることなど断じてあり得ない。
メールや作者への感想はがきを書くくらいだろうが。
これは聖書の衝撃を謂っているのだという見当はつくものの、、、。
それから後の暴動への展開など突飛で話にならない。
勿論、その後の宗教戦争~十字軍など多々あったことは思いつく。
それを更に環境問題に置き換えて観るのか?

しかし前提となる、この現在の話自体が完全に破綻している。
ある意味~世界のメタファーとしてこういう噺となった、では済まない。
噺になっていないのだから。
妻の身体から取り出した心臓~宝石が恐らくリンゴの実であろうが、そういうガジェット問題ではない。
全く背景や意味など知らずに白紙状態で観ても何らかの豊かな物語をそこに観られないのは、単に稚拙である。

静かで落ち着いた愛ある生活を望む妻に対して、夫と謂えば何やら怪しい他者をやたら呼び込み、妻に対しては基本的に無関心。熱狂的信者をただ受け容れ、好き放題にさせるばかり。単なる放任である。彼女は家を守りたいのだが、暴徒と化した彼の信奉者たちは破壊、盗み、殺人、何やら怪しい宗教~法まで始め独自の残虐性を顕にする、、、それは妻にまで手が及び、遂にはふたりの赤ん坊にまで、、、悪徳の限りを尽くし屋敷をメチャクチャにしてゆくのだ。イエスの磔、戦争の馬鹿らしさ(ナンセンスさ)にしてもこのコンテクストはない。

彼はひとに愛される事だけを好むが、彼自らは何もしない。所謂、神の不在であるか?
ここに無理に背後にある意味を読み込めと謂われれば、この人は誰であり、この行為がこれに当たるか、この言葉はこのことか、などと億劫な見方~解釈も可能であろうが、そんな映画鑑賞は鬱陶しいし、馬鹿げている。
いちいち付き合ってはいられない。


わたしには悪魔のようなバカボンのパパが例の大学の旧友をやたらめったら家に連れ込みママがひたすら大変な目に逢っているようにしか見えない。
いっその事、「天才バカボン」のハリウッド版リメイクにでもすればよかったのだ。
ホラー系バカボン。
はじめちゃんが災難に遭うことになるか、、、イエス・キリスト役となる?
恐らく日本で上映中止となったのもあの辺(赤ん坊)のシーンが問題視されてのことか、全体に横たわるコンセプトではあるまい。
一つの屋敷で「永劫回帰」の物語をやるというなら、それはそれで面白いアイデアだと思うが、「環境問題」はないだろう。いや、恐らくそれは監督の嘘だと思う。宗教問題とすれば、その圧力は大きくそれをかわす嘘だ。きっと。
それにしても、やはり耐えがたいバカボンのパパ映画であった。
これでは神の信用を落とす。
結局環境は誰が~何が問題だというのか、、、。


こうしてみると、「ブラックスワン」は、ナタリー・ポートマンの狂気の怪演と演出効果によって成り立っていた作品に思える。
ちょっと「ブラックスワン」自体の価値観も揺らいできた。


根本的におかしな(頭のおかしな)映画である。
みんなよく付き合ったものだ。
観る方も勿論、災難であった(笑。




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モネとは何か

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モネの現代的な意味を再確認(再発見か?)する番組(日曜美術館)を、たまたま例によって途中から見たので、それに対して感じた事を幾つかメモしておきたい。
モネについては以前「モネの快楽~快眠」で書いてみた。
(何を書いたかほとんど覚えていないが)。
良い絵を観ると良い音楽を聴きながら寝てしまうように、眠くなる。
あくまでもわたしの場合であるが、他にもそういう人がいるかも知れない。
そんなところで締めたはずだ(笑。

今回、番組で白を主体に雪の絵を描いている女性画家の噺が印象的であった。
ブレ、揺らぎで完結しない図像。
主題から解かれた額縁絵画を超える絵画。
地続きに身体全体で感じる世界。
身体性~無意識で観る絵画。
こんなことが現代絵画の作家(画家、版画家)の対談で語られていた。
モネの現代絵画~藝術にも繋がる意義である。

モネは印象派の画家ではなく現代絵画の先駆者だという位置づけも分かる。
そういってしまえば、宗教(神話)画、歴史画、肖像画(印象派にもあるが位置づけが異なる)などの主題性と象徴性を持つ絵から「印象派」の画家たちの絵に目を転じれば、何か自由に解き放たれる感覚は少なくとも誰もが持つはずである。
印象派の肖像画の主題性は当のモデルより技法自体に置かれる。
実際の噺、対象は人間でも積藁でも同じモノなのだ。
そのモノでどのように光~色彩の移ろい、その時間性を封じ込めることが出来るかの試みとも謂える。

その中でもとりわけ、モネが30年に渡り描き続けた、自宅の庭に水を引いて作った池に浮かぶ「睡蓮」の連作が輝かしい成果の一つになろう。
その水面には睡蓮と共に、微妙な空の光や変幻する彩雲も映り込む。
それらが等価の画像として一瞬の光の色彩として画布に揺らぎ続けるのだ。


確かに印象派から絵画は読まれるもの意味を解かれるもの、から誰もが自由に絵を読むものとなった。
いや読む~意味を見出すのではなく、光と風の揺らぎをおのおので体験するものとなる。
そして、それが極めて現代的な絵画~藝術の先駈けとなっていると謂えよう。

最後に司会者の作家が、モネの絵から、それぞれ後世の画家が、わたしはモネのこの場所、わたしはこの場所というようにして自らの絵画世界を形成していったのだろうと述べていたが、そういうものだと思う。
そのように沢山の人が印象派にインスパイアされて来たはずだが、とりわけモネの「睡蓮」はその巨大な場となったと想える。


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サリュート7

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Салют-7/Salyut 7
2016年
ロシア

クリム・シペンコ監督・脚本

ルボフ・アクショノーバ、、、ウラジミール(退役パイロット)
イリヤ・アンドリューコフ、、、ビクトル(技師)
アレクサンドル・サモイレンコ、、、ザーリャ(管制官)


空前絶後。
凄まじい衝撃の映画であった。
しかも美しい。
無慈悲である宇宙の自然の法則の美しさ。
暗黒と鋭い光。強烈な暑さと寒さ。
そして人知を超えた神秘の現象。

脚色がどうであるかは知らぬが、凄まじい事態が発生しこんなギリギリの選択をしていたなんて全く知らなかった。
サリュート7のトラブルは何かで読んだことはあるが、その平板な記述からは想像も出来ない事実~物語があったのだ。
アポロ13」が霞んで見えるくらいにヘビーな極限状況である。
このミッションは最初から極限的で絶望的なものであった。

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機能全停止で漂流を始めた制御不能のサリュート7への神業のような手動によるドッキングから始まる。
現役の選りすぐりの飛行士達のシュミレーションでは全員が失敗していた。
相手は素早く回転しつつ飛んでもない速度で飛んでいるのだ。
そこで今は後進の指導に当たり現役を退いているウラジミールに白羽の矢が立った。
最初から一か八かの賭けと言ってもよい、極めて危険な任務であることは誰の目にも明らかであった。
ソユーズT-13で宇宙にまた飛び立つことを知らされ怒る妻。その気持ちがとても沁みるように分かる。

水は宇宙空間において貴重なものであるが、同時に如何に恐ろしいものであるか。
サリュート7は氷が内壁に厚くこびり付く冷蔵庫の中であった。
やがて氷が無数の水滴となって煌めき浮かぶ幻想的な美しさは、精密機器にとっては命取りの爆弾でもあった。
火災を引き起こし回路を皆焼き切ってしまう事故にもつながる。
CPUまで完全にお陀仏となった。
水の処理に加え、何よりバッテリー~電気である。、
電気の供給が切れると人は凍え、酸素も失ってゆく、、、。

次から次へと彼らに困難が襲い掛かり、努力と経験に培われた知恵で切り抜けてゆくが、作業ですでに酸素を消費しすぎていた。
サリュート7の機能さえ戻ればよいのだが、もはや太陽電池パネルを修理する船外活動に望みは持てなかった。
最後に酸素が足りなくなり、一人しか地球に戻せないという決定が下る。
(通常船長は船に残るものだ)。

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まさに人間ドラマの究極をここに観た感がある。
ステーション内での飛行士の葛藤、管制官と政府の役人との対立、飛行士を見守る家族(妻と娘)の悲痛、人間に対する宇宙という自然の冷酷さ、米ソ冷戦下での宇宙開発機密情報を巡る(人命より優先される)駆け引き、、、。
生と死の極点において、どういう判断を下すか。
ヒトにとって、何の誤魔化しも効かない正念場である。
終盤それもラスト25分前からは、筆舌に尽くせない時間であった。
こんな強度でラストに雪崩れ込む映画は観たことが無い。

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危険性を想定していたのなら、何故最初からサリュート7を撃ち落としていなかったのかという怒りも込み上げて来た。
結局、限界を超えた作業を強いた末、任務を放棄させて一人だけ救い(酸素の残量から)、技術のアメリカへの流出を防ぐ為、船長諸共ステーションを撃墜するというのだ。
アメリカに技術を奪われないために?
スペースシャトルも時を同じくして打ち上げられたのだ。
(今であれば協力による救出作戦も可能であっただろう。体制とは実に厄介なものだ)。

飛行士も最初からその状況の困難さ過酷さの予測はついていたはず。
妻の不吉な夢を電話で事前に聞いてもいる。
しかし彼らは宇宙に魅せられているのだ。
もはや理屈ではない。
乞われればどれだけ大事な家族がいようとも彼らは飛んでゆくのだ。
(如何にウラジミールが退役していても、長い宇宙生活が彼を支配しているか。序盤でグラスをベランダから落としてしまい、妻に「ここでは物は下に落ちるのよ、早く慣れてね」と言われるところでも分かる)。

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「パパいつ戻って来るの?」
「まだパパは、お仕事がたくさん残っているんだ、、、」
一度は死を覚悟したウラジーミルであったが、彼らはふたりで生還することを選ぶ!
この絶望的状況に置かれながら「あなた、必ず帰って来て」という、奥さんからの力強いメッセージで彼のこころも変わったのかも知れない。
科学的演算、検証、推測を超えて、人の意志が不可能の事態を打開するのだ。

太陽電池パネルを露出させるためのふたりの最後の船外活動が再開する。
それに同期する彼らを何としても救いたい管制官のザーリャの祈りにも等しい、(急遽作らせた)実物大模型に彼らと同じようにハンマーを振るう姿(これもシュミレーションか)。
恐らくこれは本質的に祈りであろう。

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太陽電池パネルを隠していた金属の残骸を執拗に叩いて(ザーリャも同様に地球で叩いて)諦めかけたときについにハンマーでたたき壊すと、忽然とパネルが現れ登って来た太陽に即座に反応し大きなパネルが作動を始める。
ステーションに電気が戻り、音楽が突然鳴り響く。その間の抜けた音楽が如何にも現実~リアルさを醸していた。
ここで荘厳な音楽が静かに鳴り出せば感動は誘うに違いないが、何やら胡散臭くなってくる。
こういう調子の外れた感じこそが自然~現実なのだと思う。
この微妙さも含め全てが緊張を極め、素晴らしかった。


ウラジミールはかつての宇宙飛行で「光」を観ていた。
物理法則では説明できない神秘の光を、、、。
それは天使と言い換えてもよいものであった。

九死に一生を得たこの時も、その青い光を今度はふたりでまざまざと観る。
間違いなく、それを観たのだ。
「光」は彼らを包み込む、、、。
彼らの世界観に決定的影響を及ぼしたかも知れない。

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彼らが船外活動を終えたときに、スペースシャトルが静かにサリュートの傍にやって来て、中の飛行士が敬礼する。
アメリカのメディアもソ連の二人の飛行士を英雄として讃える。
果たしてアメリカをあれ程警戒する必要があったのか?


キャストも2人の飛行士をはじめ申し分なかったが、特に管制官のザーリャの苦悶する真に迫る演技には圧倒された。
実際のトラブルがどれ程で、脚色がどのくらいのものかなど、全く関係ない。
映画として極めてリアリティに充ちた大傑作であった。



一つだけ、エンドロールに流れる歌は何とかならなかったか、、、(残。






雨の公園~朝のチキン

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雨が降りしきる時間帯に車で公園に向かう。
反対路線の車の混みようが尋常ではない。
この時間帯はいつもそうなのか、帰りは違う道を使おう。

駐車場はガラガラに空いていた。
誰もいない公園。
貸し切り状態であった。

独りの贅沢を愉しむ時間。
家にいると独りが贅沢に思えない。
家事をしてしまうからだ、それは予定調和の片付け仕事である。

突然雨が止んだかと思うと
一陣の風が雨滴を舞い上げて行った。
木々が大きくそよぐ。

足場が何か揺らぐ。
雨と風と揺れで輪郭が撹乱する。
ブレる。

木漏れ日の路に入るところで、木に鳩が登っているのを見る。
初めて鳩が木に登るのを見た。
雨で人がいないことをよいことに、好き勝手な事をしている連中がいるのだ。

低いところ
高いところで
密談が微かに零れる。

木漏れ日の路で空を見上げると、曲がった軌道で雨粒が落下してくるのを具に見ることが出来た。
水滴は真直ぐは落ちない。
時折、でかい鳥の鳴き声。

突然10時を知らせる花時計のオルゴールが鳴る。
聴いているのはわたし一人か。
いや、鳥も何処かで猫も聴いている。

外の独りはヒトの会話がないだけ。
密かな情報のやりとりに取り巻かれる。
鳥は明らかに喋っていた。

何故かお腹が空いたので、コンビニに行く。
チキンナゲットを買う。
女子大生が沢山いたので車に戻って食べた。

こんな時間にもうお昼を買いに来るのだ。いやおやつか?
コンビニのチキンは種類も多く美味しい。
もっとも、彼女らはサンドウィッチを買ってたみたいだが、、、

食べてしまったら、気持ちが一区切りついてしまった。
もう帰ることにする。
朝のおやつチキンも悪くない。


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あさひなぐ

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2017年
英勉 監督・脚本
こざき亜衣 原作

西野七瀬、、、東島旭
白石麻衣、、、宮路真春(旭の憧れの先輩、中心選手)
伊藤万理華、、、野上えり(部長)
富田望生、、、大倉文乃(2年生部員)
桜井玲香、、、八十村将子(旭と同じ1年生部員)
松村沙友理、、、紺野さくら(旭と同じ1年生部員)
生田絵梨花、、、一堂寧々(ライバル校の天才的強豪)
中村倫也、、、小林先生(顧問)
森永悠希、、、宮路夏之(真春の弟)
角替和枝、、、依田理事
江口のりこ、、、寿慶(薙刀の指導者)


「あさひ薙ぐ」であるか。なかなか語呂も良いしキマッテいる。
ヒットした広瀬すずの「カルタもの」、、、何と謂ったか?もあり、この辺(題材)の着眼点もバッチリなのでは。

近頃よくTVで娘と見ている乃木坂46であり、わたしも娘もイクちゃん大ファンとくれば、映画が出れば普通に観る。
(それが例えスポコンものでも。紛れもなくスポコンものであった(爆)。
噺はスポコンものの王道と言ってよい予定調和の安定したリズムで進むもの。
プロットもキャストの振り分けも手堅い作りに思えた。

だがイクちゃんの出番が思ったより少なかったのは残念。
ほとんど、西野・白石コンビの映画なのだ、、、。
このコンビ関係とその変化・成長過程は描かれているが、その他は部長(伊藤万理華)がなかなか奮闘しており、お仲間の将子、さくら像が単純に分かるくらいで、後はとても薄い。
それは仕方なにしても、何度も絡んで来るライバル校の強敵、一堂寧々の人物描写が余りに乏しい。
ここは本来外せぬところだろう。
単に気の強い何だか分からぬ相手を殊の外意識し何度も闘うというのも無理があろうし。
彼女に焦点を当てたシーンが用意されてもよかった。

舞台女優~ミュージカル女優でも活躍しているイクちゃんがもっと演技をする場があった方が映画自体も締まるはず。
この噺に限れば、フワ~ッとした雰囲気に馴染む西野が合っているのは分かる。
その憧れの先輩となれば白石となるのも順当だろうが。
キャストは適当である。

やはり強い指導に当たる寿慶のような存在はこうした物語には欠かせない。
寿慶の付き人の小坊主がやたらと気になったがあれは誰が演じているのか?
顧問の先生と真春の弟の存在は微妙であったが、よいアクセントになっていたとは思う。

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この映画初っ端にアイドル映画には相応しくない、まるで「ネイバーズ2」に出てきてもおかしくないシーンで始まる。
丁度、あさひと真春の出逢いのシーンになるが。
子供も女性ファンも見る映画であろうし、かなり違和感を持った。
老若男女から幅広く支持を集めるアイドルグループの映画である。
こうした鑑賞者層を限定するような要素は周到に排除した方が良いはず。
あれでチープでオタクっぽい雰囲気が出来てしまう。
導入部としては如何なものか?
あさひが如何に、ぼ~っとした少女なのかを示す場面であろうが。

その後の流れとしては、正しいスポコン青春映画として落ち着いて観られるものであった。
起伏や見せ場もあるし、薙刀姿も所作も様になっていた。迫力の点ではどうであろうか、、、。
練習はかなり積んで来た感はある。
良いのではないか。ちょっとクスッとできるところも織り交ぜ愉しく観られるものとなっている。

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この部活での切磋琢磨はそのままグループとしてのアイドル活動に重なるものでもあるか。
努力して力を付けて上を狙うぞという余りに正統な路を行く。
まさにアイドル道でもあろう。
孤立して闘う者の脆さも表している。
自分独りで、強くならなければ立ち行かない、と思って只管努力を重ねてきたが、実は他のメンバーに支えられて強くなってきた過程が忘却されていた。そのことに目を向ける契機、、、。このあたりは感動を誘うところでもある。
スポコン(同時にアイドル活動)で拾えるものを網羅している。

ただ、こうした鍛錬により身に付く技術は一朝一夕でものにはできない、これは誰もが知っている。
元々運動神経が秀でている者が薙刀に取り組み、努力によりメキメキ頭角を現すというのはあるだろうが、、、
運動神経がなくぼ~っとしている主人公が一つ真春に技を伝授されたくらいで強豪に勝てるだろうか。
それからあさひが背が低いからこうした方が良いという類のセリフが幾つかあったが、とくに西野は他と比べて背が低い分けでもない(見れば分かる)。この辺の整合性はストーリーのリアリティを保障する上で肝心なところではないか。

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乃木坂46を観るならTVの「乃木坂工事中」を観るのが一番愉しい。
あれは放心状態でいつの間にか見てしまっている(爆。
毎回非常に革命的な映像体験となっている。
変な映画の1000倍面白い。
(基本的にTVはニュース、ドラマが大嫌いで、特番と映画を時折録画して観るだけであったが、この番組は外せなくなった)。

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映画の他に舞台でも乃木坂46で別キャストで上演しているそうだ。


今度はイクちゃん主演で、彼女がショパンを弾きまくる映画を観てみたい。
「エチュード25番」、「ワルツ第7番」、「ノクターン 第19番、20番」などは聴きたい。
それからモーツァルトの妻を舞台で演じていたが、「ピアノ協奏曲 第20番 」を是非イクちゃんの演奏で聴きたい。
(わたしはこれが好きなのだ。未だに昔ブンカムラで聴いたオランダのピアニストの音が耳に残っていて)。
たまらない。これはフルでやってもらいたい。出来ればついでに「23番」も(笑。
、、、映画にはならないか、、、これではまるでコンサートだ(爆。
そうだ、そろそろピアノ演奏のフルアルバムを出して欲しい。買うぞ~(しんのすけか?)
ところで彼女は作曲とかはしないのだろうか、、、?


、、、この映画は、この映画で良かったと思う。








ネイバーズ2

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Neighbors 2: Sorority Rising
2017年
アメリカ

ニコラス・ストーラー監督

クロエ・グレース・モレッツ、、、シェルビー(親離れをしたい女子大生)
セス・ローゲン、、、マック・ラドナー(シェルビーの隣人~夫)
ローズ・バーン、、、ケリー・ラドナー(シェルビーの隣人~妻)
ザック・エフロン、、、テディ・サンダース((シェルビーの家に以前いた大学生)
セレーナ・ゴメス、、、マディソン(シェルビーの親友)


「ネイバーズ」は観ていない。
何故この続編「ネイバーズ2」を観たかというと、クロエ・グレース・モレッツが出ているからだ。
他に理由はない。
きっと、ダコタ・ファニングやミア・ワシコウスカやアニヤ・テイラー=ジョイ、レア・セドゥなどがクレジットされていれば、まず何であれ観てみようとは思う(女優に関して謂えば)。
実際、経緯を知らなくても問題なく愉しめる内容であり、流れを知らなければ理解できない、とか言う複雑な代物ではない。
そして当のクロエ嬢であるが、魅力はまずまず発揮できていたかと思う。
他のキャストも皆、単純でおバカで面白かった。

女子大生になったのだから、もう思いっきり遊ぶわよ~っと高校まで我慢していた女子が派手なパーティを繰り広げる映画である。
それにクロエがここでの実質ヒロインなのに前作には出ていない。
つまりこの作品の完結性は高く、この一本だけでよいことになる。
(どうやら前作では男子学生が同じ屋敷で大暴れしていてお隣に多大な迷惑をかけ、その中心人物がテディ・サンダースであったそうだ。これまたどうでもよい噺である)。

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フラタニティに対するソロリティである。
う~んこちらにはない、あちらの大学文化というか、、、。
向こうの人たちはそういうのをハチャメチャにやりつつ勉強もしてるのね。
いや勉強しながらそういうので発散しているのか。
(ただのおバカな層の噺に過ぎないのか?)
そこで派手に薬もやっている。
学生が自宅で草を栽培してパーティや学園祭で売りさばいだりして、、、ホントか。
(まあ、ゲイ専門のウェディングプランナーにテディ・サンダースはなるのだし、解放度は確かに高い?)

で、この噺はお隣にそういう煩いのが引っ越してきて災難に遭う夫婦と飛んでもない女子大学生との攻防戦を描く。
前回は男子大学生のフラタニティに大迷惑し、今回は女子大生のソロリティのパーティで大変な目に逢う。
こんな悲運の夫婦がいるのだ(前作と同じ夫婦なのだ)。
だが、相手がクロエ・グレース・モレッツ率いる女子大生軍団である。
向こうが如何に酷いことをしてきても、何故かこちらはそれを応援し、夫婦を悪者~鬼夫婦として見てしまう(笑。
明らかにそういう映画なのだ。

彼女らにさんざんな目に逢う夫婦と手を組んだテディであるが、ガレージに閉じ込められ脱出の際、天窓めがけて何故かエアバックを使って飛ぶのだが、当然的外れの場所に激しく跳ね飛ばされ痛い目に逢う。
こんな突飛で可笑しいところがところどころあり噴き出してしまう。まるでコミックだ。
実際にこんな目に逢ったら即死かも知れないが、彼らはすぐに立ち直る(笑。

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そしてやりすぎとも謂える下品なシーンが散見される。
これもクロエたちが出ていることで、何か可愛くぼやかされている気もする。
やはりヒロインの存在は肝心だ。

それからピエロで怖がらせるというのもアメリカ的だ。
確かに恐怖映画のピエロは怖い。
アメリカ人の潜在意識にいるものか?サメみたいに、、、。

更にザックエフロンの肉汁を塗り込んだマッチョボディでのダンスは何だろう。
笑うに笑えないシーンであった。どう見たらよいのかというレベルである。
そう確かに噴き出してしまうところとドン引きしてしまうシーンで混在する。
混沌とした映画でもあった。


うちの娘、特に次女が女子会マニアでもあり、こんなのを将来やりたいなどと言い出したらきついな~。
女の子らしい女子会を是非、やってもらいたい。
クロエたちも最終的に女子主導~男子の価値観を無視したパーティをやって全てを丸く治めた。
お隣の奥さんのアドバイスが効いた。お隣はかなり大人の良識ある夫婦であった、みたいだ?
急転直下でみんな仲直りである。


、、、こういう「お隣さんもの」は、シリーズでやっていけるかも。

アイデア次第で幾つか続けることも可能に思える。
ただし下品さは少し控えた方が観易い。
またこの夫婦が被害者だったりして、、、(笑。



プール

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むすめ二人とひさびさのプールに行った。
抵抗ない冷たさで水面が心地よく煌めく。


こんな水に浸かると
何か安心する

何かうきうきする
からだがうくばかりではない

こころもまたうく

ラッコになってポッカリうく

わすれる

きっと重力から救われるからだ
重力は記憶に関係する

記憶と離れることで
ほぐれる

純粋に現在の身体だけになって
本来のかたちに展開する

ふと身体だけの重さとなり


あと二つの大事な重さと向き合う
笑う


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ブルートゥースを少しは活かそう。

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マウスを全て無線化。
ということにした。すでにメインで使っているものは、かなり昔からそうしてきたが、、、
如何せんレガシー機器の有線マウスがまだかなり残っている現状である。

有線の確実性もあるし、もったいないから使ってきたのだが、線はやはり邪魔になり鬱陶しい。
マウス自体もかなりの使用感が感じられるようになって来た(笑。
(特に娘たちが頻繁に使うようになってから、、、チョコがくっついていたりする。水を零されるよりはマシだが)。
物は取り替え時というのもある。机も少しでもスッキリさせたい。

それから、何よりもUSB端子を浮かせたいのだ。
iPhoneや外部ストレージを急遽繋げる時等、いちいち外して付け替えるのは面倒なもの。
うちはいくつも外付けHDを繋げてしまっている。それにクーラーにLEDEライト、スピーカーなどでUSB端子がキツイ。
サーバーをUPS共々止めてしまってから、どう見ても退行しているが、HDを幾つか繋げてデータによっては手動レイドも組んでいる(爆。
以前は全てユーティリティで自動同期していた。勿論レイドを組んで。
だがいつのまにかその時々の細かい設定分け、気分によるものも含み、手動レイドに切り替えとなってしまっていたのだ(笑。
つまり微妙に異なるコピーデータのストレージを複数取っておくようになった。
飽くまでも、何となくのレベルである(笑。
そんなこともあり、何種類かの外付けを繋いでいる。

その為、無線化によるスッキリとUSBを浮かせたいことから、ブルートゥースとなる。
ブルートゥースのヘッドホンは使っているが、他にほとんどブルートゥース機器は繋げていない。
以前iPadにキーボードを繋いでいたが全く使わなくなっている。
iPadで文を打たなくなったせいだ。
(iPadで長文を打つのはシンドイ)。

今、ノートで使うとすればうちではマウスしかない。
(ペンタブレットはどうなのだろう?)


散歩もしたいので、近所の店に長女と買いに行く。
とりあえず2つばかり買って帰ったが、先ほどアマゾンで見たら、同じマウスが店で買うより450円安い。
店でも特売品とあったのだが、2つで900円違う。下手をすれば定食が1つ食べれそうではないか(せこい。
時間を使って買いに行く手間もない上に安い。やはりWebの利便性と経済性は大きい。
そもそも何故その店に行ったかというと、ちょっと前に何度も貯まったポイントを使いましょうというメールのお誘いがあったのだ。
それで行ってみたのだが、既にポイントも大部分は失効していて、使えたのは250円くらい(笑。行くまでもなかった、、、。

帰りに娘にパンをねだられた。
途中に美味しい焼きたてパン屋さんがあるのだ。
これは無理もない。
驚いたのはそこで先日、女子美のギャラリーでサインを作家さんに頂いた、まさにその本が置いてあったのだ。
木版で制作された美味しそうなパンの本。
彼女がとっても喜んでいる。意外だったのだろう。わたしも何となく嬉しくなってページを繰って一緒に観てみた。
内容はすでによく知っているにしても、、、新鮮な気分に浸ったものだ。


実際に外に出て歩くということの意義は、こうした局面にあるのかも知れないと思った。
何となくの散策でも、何かに当たる可能性はある。
Webでの買い物では、形式上寄り道は出来ない。



Bluetoothの噺から、思わぬ外部への接続を経験した。
妙な幻想や(オドロオドロシイ)アートより自然で健康的な時間の乗り換えの可能性はきっとある。


ショートウェーブ

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Shortwave
2018年
アメリカ

ライアン・グレゴリー・フィリップス監督・脚本・製作
ルーカス・ギャス撮影
ドミニク・ファラカーロ音楽

ファニータ・リンジェリン、、、イザベル
クリストバル・タピア・モント 、、、ジョシュ(短波研究者、イザベルの夫)
カイル・デイヴィス、、、トーマス(ジョシュの相棒の短波研究者)
ジェイ・エリス、、、ロバート(ジョシュの上司)
サラ・マラクル・レイン、、、ジェーン(トーマスの妻)


音が多い。
暗示的でワザとらしい音の演出が鬱陶しい。思わせぶりな特殊効果ばかりで、肝心な中身が無い。
BGMが80年代のテクノシンセポップという感じで終始ピコポコしていたが、懐かしのシンセリズムといってもタンジェリンドリームやクラフトワークとは天と地の差である。何とも安っぽい。音楽は本当に酷い。
ここに溢れる映像が幻覚なのかどうなのか、という点においても観ていくうちにどうでもよくなる。
重要な所も肝もない。
ただダラダラ垂流されてゆくだけである。
緊張感もまるでない。
その為時々でかい効果音などを出して取り敢えず観客が眠らないようにだけは配慮しているらしい。

「お願い信じて」というセリフが何度も繰り返される。
イザベルの何者かに憑依されてゆく過程の叫びか。
無気力に苛立ち神経過敏の状態で、誘拐された娘の事をひたすら思い続け姿を求め続ける日々。
何かに付け入らせるに適当な器であるか。

今更、SETIを持ち出し、短波で信号が引っかかった、などでミステリアスな噺を騙ろうなど無理はある。
それにあの黒いエイリアンみたいなのが、地球から宇宙に向けSOSを発していたのか?
その発した電波が恰も彼方の星から送られてきたように受け取れた原因というのが馬鹿げている。
宇宙には果てがない為に戻って来るって、、、シリアスな体裁で作っているのだからナンセンスな冗談はやめた方が良い。
超短波は電離層を突き抜けるが、ここでは短波と言っているのも気になる。
(この件はこの物語では深追いしない)。


そしてイザベルも彼らに同調してしまったと。
最後は誘拐された娘アマンダも関係なくなってしまった。
つまり主体が乗っ取られたという事になる。

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初めはイザベルを彼女の言によればエイリアンを呼び寄せる餌としてトーマスらは利用しようとした。
彼女の娘を誘拐して何かを求める欲動を最大限に高め認知感覚を研ぎ澄ませて、彼ら~エイリアン(の信号)に共鳴するよう仕向けたのだった。よくもまあ、これ程非人道的な真似が出来たものだと呆れるというより、マイクロチップを埋め込み別荘から出られないようにしていた等と無理な設定におもえるが。
この計画は主にトーマスやロバートが立てていたようだが、彼女を庇っているようだった夫のジョシュも同意の上であったという。
その裏切り行為からも彼女はエイリアン側に寝返り?冷酷に人が刺せたのか。
もうほとんど人間的な部分は終盤は失せていたようだ。
ほぼエイリアンに同化してしまったものかも知れない。
夫が生前述べていたように、「様々な繋がり」である。

わたしにとって引っかかったところは、「潜在意識」の捉え方とその解放である。
それは「自分の覚えていない過去を追体験する」こと。
自分でも覚えていない記憶が思い出されることの重要性である。
わたしが日々少しづつ覚醒して行く実感をもつ時とは、それである。
恐らく自分にとっての起源を洗う時、遡行して今現在の意味を探るに、もっとも必要な過程となろう。
しかしこの物語では、文脈上イザベルの超常感覚を言いくるめる為に騙った出任せに過ぎない。だが、その言自体はわたしにとって重要な意味あいを持つ(いや誰にとっても)。

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最後、彼女は周囲の人間を刺し殺して去って行くが、あの傷だらけの血まみれの姿で何処に行く気か?
何だかイメージと煽りの氾濫するばかりの粗雑な映画であった。
あの別荘の極度な生活感の無さと言い、もう少し現実にも接触した上での幻想表現の方が噺のリアリティ~惹き込まれ度が高まるはずだが、、、。


キャストもまったく魅力に欠けていた。

パッケージには、作品が何処に出したとかたくさん書いてあったが、別に受賞とかは書いていなかったはず。
何ともお騒がせな映画である。
こんなものを作る金と暇があるなら、もっと他の事に役立ててもらいたい。





吉祥天女

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2007年
及川中 監督
吉田秋生 原作「別冊少女コミック」1983年3月号~1984年7月号にかけて連載
TVドラマ(テレビ朝日)でも2006年4月15日~6月24日に放映されていたという
映画製作後、小説化もされたそうだ。
全く知らない。

鈴木杏、、、叶小夜子
本仮屋ユイカ、、、麻井由以子(小夜子の親友)
勝地涼、、、遠野涼(遠野家の養子)
深水元基、、、遠野暁(涼の従兄)
神崎詩織、、、大野真理(由以子の親友)
津田寛治、、、小川雪政(小夜子の付き人、叶家の書生、医者)
市川実日子、、、麻井鷹子(由以子の姉)
国分佐智子、、、叶浮子(暁の叔母、遠野一郎の妹)
嶋田久作、、、遠野一郎(暁の父)
小倉一郎、、、叶和憲(小夜子の父)
青山知可子、、、叶鈴子(小夜子の母)
江波杏子、、、叶あき(小夜子の祖母)


映画のみに接した感想(原作を例え見ようが、映画は別の独立したメディア)であるが、面白かった。
コミックが原作であることは如何にもと受け取れる。
とてもキャストの色分けがはっきりしていてそれぞれの思惑なども分かり易い。
その辺が単純過ぎるきらいはあるが、余計な事は考えずストーリーを追って行ける。
終始クールで怪しい魔性を鋭い瞳から放ち続ける鈴木杏と瑞々しく清純で直向きな本仮屋ユイカとの対比が絵的にも際立つ。
確かに二人は非常にタイプの違う女優に見えるが、どちらも個性に合った役で魅力的であった。
(鈴木杏は「花とアリス」よりもこちらの役の方が嵌っていたと思う)。

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「~家の一族」的な由緒ある家同士の確執などお決まりのフォーマットをライトに踏襲している。
遠野涼と遠野暁の確執なども「家」の悲劇であるが、叶小夜子も加えて青春ドラマでもある。
涼の只管自分を殺して耐える姿は病の妹を守る為か。
しかしよく我慢できるなという感じではある。
ここで皆が我慢したり策略を立てたりしているなかで、ひとり過激路線で突き進むのが小夜子だ。
ただ誰もが劣情や情念たっぷりのドロドロとした応酬というより、あっさり毒殺して次に的な軽い流れであり、こちらの方が観易くてよい。
沼に脚だけ見せて逆さまに嵌っているなどという荒唐無稽なシーンもない。

やがて小夜子に焚き付けられた遠野暁の暴走から過度に血なまぐさくなる。
その末、暁は自分自身も含め全てを狂わせた小夜子に強烈な殺意と復讐心を向ける。
遠野涼の銃の暴発の仕掛けによる死は小夜子の唯一の計算ミスか、、、。
叶家の吉祥天女伝説~天女の羽衣の宿命の成せる業か。

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ここでは、卒論テーマを叶家の財宝の研究とし、探偵みたいに叶家の禍々しい過去を炙り出してゆく由以子の姉役の市川実日子が彼女の雰囲気にピッタリな好演を見せている。物語の進行にもなくてはならないポジションだ。
そしてわたしの御贔屓の津田寛治がクールな良い役柄である。
叶小夜子を見守るナイトみたいな役ではないか。
しかし最後の遠野暁に殺されそうになる場面できっとご都合主義的に現れるのでは、と期待していたら出て来なかった。
もう少しタキシード仮面みたいに関わっても面白かった気がする(笑。もっとも原作があるから下手に弄れないところであろうが。
麻井鷹子との微妙な関係も、叶家を探る中で深まりをみせていっても噺に厚みが出た気がする。
それから声がソフトで良いことに改めて気付いた。


観終わってみて、何かの感覚に近いな、と思っていたら、病院の待合室でマンガを一冊読み終えた感覚に近いことに気付いた。
そういう観終わり感である。

鈴木杏、本仮屋ユイカ、津田寛治、市川実日子はよく合った役をしっかり熟していて素敵であった。
悲劇のヒーロー役の遠野涼は、途中からバカリズムの人にダブって来てしまい、そのダブルイメージの打ち消しに集中を多少欠いてしまった。彼はやはり呪われていたのか。





蜜のあわれ

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もう映画はこりごりだ、、、と想い、ほとんどゴロゴロ過ごす。
「蜜のあわれ」と「吉祥天女」というのをアマゾンプライムで観た。
添えられた解説をチョイと見て、これは借りたり買ったりするビデオには思えないが、、、
ただなら観るかも知れぬ。というところで、観てしまった(笑。
「しまった!」と思ったのは前者の方。ただなら観ても良いと思ったのが後者であった。


「蜜のあわれ」は、想念が濃密になると本当に心に描いた人間~存在(場合によっては金魚)が自立して実際に共生してしまうという噺と謂えよう?(人の認識の仕組みからすれば、そういう方向性は持ち得るが、ここは極端である)。
だが例えそういう事態があり得ても、作家はそれを作品として原稿に定着するものだ。
つまりそこに幻想を封印する(対象化する)ことで、自分の個人的日常は担保されるはず。
逆に謂えば、創造行為を安定して行うべき主体が幻想界に翻弄されている状況では到底作品など作れるはずがない。
大丈夫か?

何にしても、映画に出て来た女性や幽霊や金魚や金魚売が現実にはいないと受け取るべき。
(しかも幽霊は金魚が作家の書いた小説を読んで幽霊女性のイメージを仮想現実にアップロードしたらしい)。
作家を巡る錯綜イメージ共同体が生成されている。しかも金魚主導で。
作家は終始、金魚を中心にした幻想に囚われ彼女に振り回されている。
余程の金魚好きなのだ。
いちいち金魚に「お前以外に他に金魚はいない」などと断っている。
その金魚が二階堂ふみだからこちらも気持ちは察するが。
しかし笑えない。
笑えるところは、どこにもなく、金魚ダンスでも笑えなかった。
二階堂ふみが一生懸命頑張っていることだけは伝わってくる。
オマケにヌードにもなっているのだが、金魚だから微妙なのだ。
泣こうにも泣けない(爆。

最後に作家を呼ぶとても現実的な声がしたところで、死に逝く作家以外の登場人物が消えている。
本当は一人で地味~に暮らしていた老作家であったのだろう、、、。
少なくとも映画を観た範囲ではそんな感じ。
大杉漣の熱演であった。大泣きしたりしていたがとてもついてゆけない。
真木よう子は大人しい控え目な幽霊で、余り個性が活きていない気がする。

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カフカはかつて悲劇を書く時は、腹を抱えて大笑いしながら書いている、と語っていた。
それでなければ、その世界~ドラマを対象化して精緻に描けまい。
この作家、実質書けているようには見えなかった。

室生犀星の小説が原作だそうだ。全く知らなかった。これを観て読んでみたいとは微塵も思わない。
セリフは多かったとは言え、感銘はさして受けなかった。

2016年の映画である。
石井岳龍 監督
港岳彦 脚本

二階堂ふみ、、、金魚
大杉漣、、、作家
真木よう子、、、幽霊
永瀬正敏、、、金魚売

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バルチュスの絵画を想わせる。だが、それがなんであったか、、、?
芸術的デフォルメやエフェクト(叉は様式美?)は分かるがそれが昇華されているかはキビシイ。
感情移入などは論外、遠い距離感をもって空々しく観るしかない作品であった。


もう一つの「吉祥天女」は体調が思わしくないので、明日にしたい(笑。
季節の変わり目もあり大変疲れる。





続・深夜食堂

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2016年
松岡錠司 監督
安倍夜郎『深夜食堂』原作


小林薫、、、マスター
河井青葉、、、赤塚範子
佐藤浩市、、、石田
池松壮亮、、、高木清太
キムラ緑子、、、高木聖子
小島聖、、、木村さおり
渡辺美佐子、、、小川夕起子
井川比佐志、、、小川哲郎
多部未華子、、、みちる
余貴美子、、、千恵子
オダギリジョー、、、小暮

昨日の続編。
「おもいで」(鈴木常吉)という曲が生ギターと実に気負わない味のあるボーカルで唄われ沁みる。
夜の12時から朝の7時くらいまで営業する「めしや」という下町の食堂である。
豚汁定食だけメニューにあげているが、客が頼めばマスターは何でも「あいよ」と言って作ってくれる。
それがどれも美味しいらしい。
馴染み客でいつも席は一杯である(時折新しい客も混ざる)。
必ずその時に話題に上った誰かのこと~話題を客皆で語り合い心配し合う。
それも何とも言えない温度の触れ合いによる緩い共同体としてなのだ。
兎も角、よくTVでやるドラマのように小うるさくわざとらしくならないところが良い。
やはり中心に小林薫がいるからか。オダギリジョーの醸す飄々とした雰囲気も無くてはならない。

焼肉定食。焼きうどん。タコウインナー、とろろご飯、すきやき、、、等がこれまでマスターの出したメニューである。
(みちるの作った栗羊羹も美味しそうであった)。
それぞれの料理に対してひとつの物語が流れる~その章の題名にもなっているのは変わらない。
食べ物と話の内容が直接絡むものはないが、美味しい料理が優しく噺全体を包み込む。
マスターは肝心なことを告げる代わりに、「最後に食べたいもの何でも言って。作るから。」と言う。
そして「あいよ」と言って出し、客は一番食べたいものをそれは美味しく食べて名残惜しそうに帰って行く。
恐らくまた来たいときっと思うことだろう。
そんな「めしや」である。

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最初の佐藤浩市演じる石田と編集者赤塚範子の噺が面白かった。
仕事に行き詰まった範子が担当する作家のお通夜で出逢った男性と意気投合する。
「めしや」にも二人連れで来て彼女の好きな焼肉定食を食べてゆく。
男はとても良い間を置き「あなたは自分を疎かにしない人だと一目見て分かりました」と投げかけ。
彼女は、でもその為に行き詰って苦しんでいることを伝えると「生き方のフォームを崩さなければチャンスは必ずやって来るものですよ」なんて調子で、どんな会話にも即座に立て板に水のように答えてゆく。
地方の情報誌をWebと半々でやってますが、農家などは直接逢った方が相手に安心してもらえるんですよ、等と話していてその後も交際が続き、彼女も前向きになり仕事にまた精力的に取り組み始める。
このまま二人は上手くいくのだろうと思っていたら最後にどんでん返しの指名手配中の香典泥棒ときたものだ。
わたしは、完全に引っかかった。驚いて笑ってしまった。

回転の速さというより口だけが異様に滑らかに周る人間というものはいる。
ことばが何からも遊離していて、根のない状態で淀みなく流れ出るタイプ~ケースはわたしも見ている。
ただの純粋な「はなし」なのだ。
勿論、信用できない(笑。

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他にここでは「焼うどん」の好きな蕎麦屋の倅が15歳年上の彼女との結婚を母に何とか認めてもらおうとする噺。
二人で母親に正面から真摯に向かい合っていこうとするところ風鈴で締めくくる。最後までグダグダとやり過ぎないところが良い。

三つめは「豚汁定食」を頼むばあちゃんで、みちるとの濃密なやり取りで進んでゆく。
おばあちゃんは九州から東京に呼ばれ「来て来て詐欺」の被害に遭い、暫く留まらざる負えなくなる。
みちるは国に残して来た祖母の面影を見て、おばあちゃんの面倒を一手に引き受ける。
そこに小暮警官が絶妙に絡みシリアスに重くならずにコメディチックに展開する。
この噺はどうにも行く先は予定調和しかなく、これといって意外な点やおもがけない感動を呼ぶ類のものにはなり難い。
ただ小暮警官の動きが面白く、観易い。

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「深夜食堂」を続編まで観てみたが、小暮がいるかいないかで、大きく違う気がする。
無くてはならない存在である。
マスターが妙に出しゃばり過ぎないところも良い空気感を作っている。

続編より、最初の「深夜食堂」の方が噺としては面白い。
ヒロインみちるBeginsがこってり描かれていたのも大きい。

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アンコール!!」でアーサーが最後に歌うところにも似て「おもいで」(鈴木常吉)がとても後に残る。
良い邦画だと思う。






深夜食堂

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2015年
松岡錠司 監督
安倍夜郎『深夜食堂』原作

小林薫、、、マスター
高岡早紀、、、川島 たまこ
多部未華子、、、栗山 みちる
余貴美子、、、塙 千恵子
筒井道隆、、、大石 謙三
菊池亜希子、、、杉田 あけみ
田中裕子、、、塚口 街子
オダギリジョー、、、小暮警官

韓国版や中国版も製作されたそうだ。
相当売れたマンガらしい。

TVドラマとして放映されていたそうだ。全く知らなかった。
わたしは滅多にTVは観ない。特にニュースは大嫌いだし。もう随分の間、科学・音楽特番くらいしか観ていない。

映画として改めて撮っているにせよ、TVドラマの雰囲気や世界観を尊重してまとめて映画にしているようで、特に映画の為の大きな変更や話自体のスケールアップとかはないようだ。
マスターの出すことになる料理の名前=題で噺も個々に分かれている。オムニバス調で進む。それぞれの逸話を無理に繋げたり関連付けたりしていない。小暮警官や馴染みの客はどれにも出て来るし、栗山 みちるは以後の逸話の終わりに登場するにしても、、、。何やら録画しておいたTVドラマを流して観たような感じである。
最近は録っておいたドラマをまとめて見るようなこともないので、ちょっと新鮮な気分で観た。

基本、マスターの美味しい食事でホッとして良い酒を交わしてのこころ温まる人情噺の展開というところだが、マスターが客の心の弱さを受け止め、彼らが自らの意志で一歩を踏み出せるように、さり気無く背中を押してゆく感じで進む、、、。

その中で「ボランティア」の件は抉り方が深かった。
ファッション誌のカリスマ編集長もしている知的雰囲気を醸す菊池亜希子がボランティアあけみ役である。
菊池亜希子は淡々とした空気感のある邦画のヒロインで異彩を放つが「森崎書店の日々」が特に印象に残っている。


ボランティアとしての関わる者とその無償の行為を受け取る側との間に生まれる幻想が大きく食い違うと面倒なことになる場合がある。相手に抱く幻想は勿論、皆異なるのが当たり前(非対称)だが、面倒となる食い違い方がある。
それを自分に対する特別な好意と受け取る場合だ。一度そう受け取ったことでその幻想は拭いきれない反証の効かない感情的なものに高まることも多い。その男性~大石は故郷~被災して自らが頑張らなければならぬ地を離れて、あけみに求愛しにやって来てしまう。
考えるまでもなく、ボランティアで訪れた地で献身的に働くその直向きな姿に恋をした男性に言い寄られるというケースはあってもおかしくはない。

しかしボランティアで働きに来たと言ってもその動機と目的、心的状況はひと様々であろう。
もしかしたら現状が立ち行かなくなり遠くの地に逃避の為に来た被災者並みの心境のボランティアもいる可能性もある。
ボランティアであるからと言って、無償の行為に喜びを感じ、慈悲の念に充ちたこころの余裕を備えているとは限らない。
更に恋愛の情に応えられる場合はもっと可能性は低いはず(というか、これは別問題~異なる位相の幻想となる)。
あけみは自分がどういう気持ちで被災地に追いやられて行ったか、そしてわたしのボランティアである立場をあなたは利用したと言って大石に対し怒りをぶつける。
そうなのだ。われわれは余りに人をステレオタイプに見過ぎている。
この仕事に就いているならこういう人だろう、、、などという推測はほとんどの場合効かない。
現実はそんな単純で薄っぺらなものではない。
人は生きた情報の複雑な束なのだ。
大石は酔っぱらってそのまま寝込んでしまったあけみの姿を見て我に返る。
その姿はボランティアでも理想の女性像でもなく、悩み複雑な想いを宿した一個の人間(実存)がただ眠っているだけであった。
このセグメントは印象に残る秀逸なものであった。

他にも男女間の恋愛感情の非対称性の際立ちをさらっと騙るものとか、東北出身の一文無しとなった少女がマスターの元で一念発起する姿や、、、色々あったが面白味としては、オダギリジョーの小暮警官の一挙手一投足が受けた。存在だけでも癖になる面白さであり、こういう人が脇を固めると中弛みはしない。

全体として人情の機微を淡々と描くものであるが、そのなかでちょっと馴染まない噺もあった。
「骨壺」の件は、必要ないと思った。

田中裕子(塚口 街子)の絡む骨壺のエピソードは、どうも納得が出来ない。
骨壺がどう伏線を張って流れてゆくのかと思っていたら、ただがっかりするだけであった。
田中のあの大袈裟でワザとらしい演技が異様な雰囲気を醸すだけでおよそ意味がない。
わたしには突然現れた変なおばさんとしか映らなかった。

余貴美子は高級料亭の女将が実に似合うと思う。
小林薫のマスターはピッタリであり、絶妙な間が特に良い。
常連客達もそれぞれに良い味を出して溶け込んでいた。
全体的に見れば雰囲気の好い面白い邦画である。

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続編もあるらしい。TVで長くやって来たならまだ沢山のエピソードが残っているはずだ。
機会があれば観てみたい。





バットマン ビギンズ

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Batman Begins
2005年
アメリカ

クリストファー・ノーラン監督・脚本

クリスチャン・ベール、、、ブルース・ウェイン / バットマン(ウェイン・インダストリーズの取締役に戻る)
マイケル・ケイン、、、アルフレッド・ペニーワース(執事)
リーアム・ニーソン、、、ヘンリー・デュカード / ラーズ・アル・グール(影の同盟の長)
ケイティ・ホームズ、、、レイチェル・ドーズ(検事)
ゲイリー・オールドマン、、、ジェームズ・“ジム”・ゴードン市警
キリアン・マーフィー、、、ジョナサン・クレイン / スケアクロウ
トム・ウィルキンソン、、、カーマイン・ファルコーニ(マフィアのボス)
ルトガー・ハウアー、、、リチャード・アール(現ウェイン・インダストリーズ取締役会長)
渡辺謙、、、ラーズ・アル・グール(影武者)
モーガン・フリーマン、、、ルーシャス・フォックス(応用科学部役員、バットマンガジェット開発者)


3部作を2,3,1の順に観たことになる。
全てに謂えるのは、アメリカン・コミックをよくここまで重厚なドラマに再現したと思う。
とてもリアリティがあり、マスクをつけたコスプレヒーロー物の胡散臭さは全く感じられない。
これは「猿の惑星」と同等のリアリティの強度だ。

そしてゴッサムシティに何故、ブルースが立ち上がったのか、蝙蝠の出で立ちなのか、銃で敵を撃たないのか、母のネックレスに拘るのかがよく分かる”Begins”譚となっている。
彼の幼い時に邸宅の庭にある井戸に落ち、底で蝙蝠の群れに襲われる。
これが長く彼の外傷経験となり彼の運命を大きく変える経験ともなる。
井戸から救い出すとき彼の偉大な父は「人はなぜ落ちる?這い上がるためだ」と彼に語る。
シリーズ中もっともガジェットやタンブラーなど装置類の説明や制作過程が示されていて、地下洞窟の件もどうして屋敷に組み込まれたのかも理解できる。
この第一部は無くてはならない。
これをはじめに、ダークナイト、ダークナイト ライジングと観れば非常に自然に無理なくその世界観に入って行ける。
三部作はまとめて観るとよいと思われた。

Batman Begins004 Batman Begins005 Batman Begins006

さらに何と我らがルトガー・ハウアーが出ている。「ブレードランナー」からの歳月は嫌でも感じられるが、独特の個性は彼ならではだ。
キャストの贅沢さという点では、この第一部は群を抜いている。
渡辺謙の役はちょっと残念であったが、大司教のような後光はしっかり射していた。
パニック・フライト」で恐ろしいサイコパスを演じていたキリアン・マーフィーがここでも怖い役を、、、。
非常に繊細な音楽家か詩人のような容貌である為、尚更狂気を強く孕む。
ケイティ・ホームズは志をもった強い女性を充分に演じていた。第二部にも引き続き出るべきであった。
二部の悲劇が更に色濃くなったはず。

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そして長老トリオがそれぞれ圧倒的な存在感で物語を弛ませない。
特にここでは、終盤警部補に昇格したゴードンがバットマンのタンブラーを乗り回す活躍を見せる。
バットマンとの邂逅からの彼の変貌ぶりも見どころだ。
わたしだってタンブラー乗りたい。自動運転モードで走っていたが、それでも凄い乗り物だ。
カーチェイスやカーアクションも一番凄い。タンブラーであるから屋根の上を走りまくる。
(そのタンブラーを見た警官がそれを説明しようがないところが笑えた。名状しがたい奇妙奇天烈で凄い何者かなのだ)。


「人はなぜ落ちる?這い上がるためだ」大富豪のお坊ちゃまであるブルースが両親を貧者の凶弾により喪ってから、自ら身をやつし旅に出る。市場で盗みを働き刑務所にも入る経験も積む。一度落ちるところまで落ちたところで、彼はラーズ・アル・グールに邂逅し導かれる。

「恐れるな」父が目の前で殺される死に際にブルースに最後に語った言葉である。
この言葉は、彼が修行で訪れたヒマラヤの地で、ラーズ・アル・グールに徹底的に激しい修行を受けるなかで繰り返し言われることばでもある。
「恐れるな」、、、恐れを如何にみずからのものとしそれをコントロールするか。
彼に必要なのは、技や体力よりも精神であることを知る。
彼は只管修行を極めてゆく。そして恐怖を支配する術を悟る。それが蝙蝠の出で立ちにも表れてゆく。

「人間の本性は、行動で決まる」これはレイチェルがブルースに言った言葉であり、彼女がその後、バットマンに名を訪ねたときに帰って来た言葉である。
彼女はここで彼がブルースであることを悟るが、かえってその為にひとつの裂け目が彼らの間に入るところがリアルだ。
単純なアニメではこうはなるまい。「あなただったの~」とか言って抱き着いてハッピーな気分になったりするところがオチであろうが、レイチェルはゴッサムがこの先もずっと彼~バットマンを必要とし続けることも直覚する。彼に敬意を払い愛情は持ちつつも距離を置く。賢い女性なのだ。

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ラーズ・アル・グールは過激な狂信的理想を掲げる組織を率いて、強力な幻覚剤を上水道に混入させ、水を気化させるマイクロ波を放射してゴッサム全ての人間を発狂させて殺そうと企み実行に移す。腐敗を極めた悪を一気に滅ぼすという思想なのだ。
確かにゴッサムは構造的腐敗で瀕死状態であった。
だがそのなかで、ほんの一握りの人間たちが奮闘していた。
ダークナイトはそのなかの何でもないひとりとして立ち上がることになる。
彼は亡き父が人々の為に作ったモノレールを破壊することで阻止するに及ぶ。

警察を敵に回しながらテロ組織から市民の生活を守ろうと孤独に過酷な闘いを繰り広げるダークナイトの姿は、華やかさはなく陰鬱で悲痛ですらある。


ダークナイトの基礎がしっかりと押さえられた導入編であった。
これを観ておかないと2部、3部だけではバットマンに感じる質量が違ってくると想われる。








プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。

*当サイトはリンクフリーです。

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