17歳のエンディングノート

NOW IS GOOD
2012年
イギリス
オル・パーカー監督
ダコタ・ファニング、、、テッサ・スコット(白血病の少女)
ジェレミー・アーヴァイン、、、アダム(隣の家の彼氏)
パディ・コンシダイン、、、スコット(父)
オリヴィア・ウィリアムズ、、、スコット夫人
カヤ・スコデラリオ、、、ゾーイ(親友)
ケイト・ディッキー、、、医師
意味ないが、邦題で17歳繋がり、、、
直面した死にどう対処するか。
自分が。
周りの人間が。
これこそ極めて伝統的で普遍的な問題である。
であるからこそ、物語として成立させるにもすでに余りに多くの傑作があり過ぎる。
それは当然既視感と凡庸さ(陳腐さ)を纏いかねない。
この映画でも美しい海岸線をアダムのバイクに乗ってまっしぐらに走るのだ。
海辺を走ってしまっては元も子もないような気もするが、やはり若い二人は走ってしまう。

そのうえに余命いくばくもない白血病の美少女を巡る恋人、親友、親との関わりが描かれるのだ。
所謂、闘病を通したそれぞれの愛の物語と謂える。
もはや前例がある、ないというより、もう誰の脳裏にもそれらしいメロドラマが自ずと浮かんで来て拒絶反応を催すような主題でもあろう。
だが、天才ダコタ・ファニングを起用しての直球勝負であろうか、、、。
中央突破か!
実際に観てゆくと、テッサは若い今の自分自身の場所~身体から不安と恐怖に慄きながらも死を見据えて行く決心はしている。
死~運命を受容し最期にすべきことを成し遂げようとする域に達している。物理療法は彼女自らが断っている。
死期を医者から告げられた患者は通常、否認~>怒り~>抑鬱~>取り引き~>受容という流れで死を迎えるという。
(無論、途中で生の中断される場合も多い事だろう)。
彼女は若さにもかかわらず達観しており、強い意志で果敢に後僅かの生を生き抜こうとしている。
その弱みを見せない姿勢が、周囲にはかなり生意気で扱い難い子にも見える。
家族も実際手こずる。特に父である。
父親は癌治療法をいつまでもウジウジ調べあげるばかりで、死に逝く娘の姿を直視しない。
(ある意味、何もできない自分がもどかしく、悔しく、情けないのだ)。
母はまともな看病すら出来ず、娘の病状についての知識も情報も知らぬままで逃避している。
(どうやら別居しているようである)。
9歳の弟は、まだ姉が死ぬことの現実を想像すら出来ない。
姉のことを思いやるつもりもなく勝手に遊んでいるだけ。
親友のゾーイは、テッサとともに彼女の死を前にしたToDoリストに付き合って行動するが、ゾーイには彼女なりの人生がある。
こればかりはどうにもならない。ゾーイは恋人との間に出来た子供のことで掛かりきりになって行く。
テッサにずっと寄り添うのはアダムひとりかも知れない。
彼女はアダムと森に行ったとき、海辺をバイクで走ったときは、片時も忘れられない死の想念から解かれる。
父は止めるが、テッサはアダムと共に後僅かな生を過ごすことを選ぶ。

「暗闇でも一緒にいて」
「わたしが何処にいるか、教えて欲しい」
「ぼくが間違えたら?」
「そんなこと、あり得ない」
彼女は看護師の言うように、痛みのない穏やかに意識の遠のく死を迎えて逝くのだが、、、
とても心細く不安で恐ろしいはずだ。
その寄る辺なさ、何処かにしがみ付きたい思いをアダムは受けとめる。
彼が受けとめるしかない。
彼女の最期の場所であった。
父はまだ彼女が何とか起きれる頃は、「どうか死なないでくれお前はわたしの宝だ」と縋りついて号泣するが、もうお別れの時が近づくにあたり、「よく頑張った。もう逝っていいんだよ」と静かに囁く。
弟も、「ぼくに取り憑いてもいいよ」と、彼なりのスタンスで別れを告げる。
「解き放とう」
「人生は瞬間の連続」とこころに囁き、彼女はたくさんのこれまでの想いとともに解き放たれて逝く、、、。

かなり淡々とした硬派な薄命の美少女の物語であった。
必ず誰にも訪れる死である。
わたしにとってもあなたにとっても他人事では決して、ない。
余計な噺だが、墓碑銘に「次はお前だ」と彫る人もいるという。
実際、そうなのだ。
